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正しい善知識

最近になってまた親鸞会をやめた方の相談が増えているのだが、「親鸞会をやめたあと、誰の話を聞いたらいいですか」という質問が結構ある。

親鸞会に居るときは、「正しい善知識」に教えを聴いて、「正しい信心」を頂かなければならないと徹底的に叩き込まれるので、どうしても親鸞会をやめた多くの人が、会長である高森顕徹さんの代わりを探すことになる。

気持ちは分かるし、それもまた一つの真宗の姿だろが、結局親鸞会をやめて親鸞会の代わりを探すようなもので、根本的な解決になってないように思う。

実際のところ、首尾よく高森さんの代わりになる「正しい善知識」を見つけると、今度は親鸞会の誤りとその善知識の正しさを、全力でアピールする人も見てきた。それって、親鸞会が本願寺を批判し、高森会長を賛美して自分たちの正しさに酔うのと、根源的に何が違うのだろうか。

いや気持ちはわかるのだ。親鸞会をやめたら聞法の敗残者とか言われたりするから。自分こそが勝利者であって、正しい道を歩んで人生の目的を達成したのだ、お前らはまだじゃないかと言いたくなるわけで。だから聞かれもしないのに、何年何月に〇〇先生に出会って信心いただきましたと言ったり書いたりもする。

しかしそれは仏教を自己実現の手段として使っているわけで、自尊心を信心という思いで満たしている姿に他ならない。狭い集団の中でお互いに喜び合って他を下に見るような聞法ばかりを好むので、自らの疑城胎宮が破られない。

私は、親鸞会に居たときに、こんな小さな北陸の教団が、自分たちだけが真実の教団で世界唯一の真実と狭い世界で頷き合っているのを見て、なにか鼻白む思いがした。講師部だったときだってその思いは消えなかった。しかしその思いが今となっては大事だったと思う。

今一度、自分の立っている場所を離れて自分の姿を見てほしい。果たして、これが本当に親鸞聖人の教えなのか、サンガの姿なのか。自分のいるところが正しさに酔う集まりではなく、正しさを疑うことができる集まりなのか。

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