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「正しさ」の教学から離れるということ

ある、親鸞会の元信者さんの「阿弥陀さまは念仏せよとはおっしゃってない」とのブログ記事をようやく読みました。ようやくというのは、随分前に話題になっていたそうなのだけど、知らなかったのです。なんだか不思議なタイミングでその記事のことを教えてくださる方があり、またそれとは別の方がSNSで話題にされていた事もあって、探して見ることになりました。

元会員さんが書いている、「阿弥陀さまは念仏せよとはおっしゃってない」という、ある先生の主張については、あまりに初歩的な教義解釈の誤解であるし、実際にどんな文脈で言われたことかもわからないことので、その是非を論じることはしません。ただ、親鸞聖人の時代にもそうした誤解はあったのか、聖人ご自身がそれは違いますよと書簡を書いておられます。関心のある方は、ご自分で調べてみてください。

そのブログの記事は数百のコメントが付いていて、それなりに熱かったのですが、そういえば、こんな教義論争を以前は随分したなと思い出しました。もちろん、私が親鸞会にいたときです。

私が親鸞会にいたときは、高森会長の教義解釈が全てでした。私、いや、私達は、高森会長の教義解釈が無条件で正しいのであって、経典やお聖教の言葉は、高森会長の正しさを証明するために使っていたようなものだったのです。つまりは、聖教が先にあるのではなく、高森会長の教義解釈が先にあるのであって、それを説明し証明するためにあるのが、聖教だったのです。

教行信証などを自分で読むことは特に禁じられているわけではありませんでしたが、実際のところ、自分で読んでもわかるわけがないと思い込んでいましたし、読んでいる人も少なかったと思います。だから、教義論争は、高森会長の言っていることと、会長がよく使う断片的な聖教の言葉を、オウム返しのように繰り返すだけでした。

それは高森会長の主張の「正しさ」を裏付けるために、バラバラに切り刻まれた真宗であって、生きた人の言葉ではなく、ただの道具にしか過ぎません。だから、教義論争でどれだけお前たちは間違っていると言われても、私達は何一つ揺らぐことはなかったのです。

今回の教義論争でも似たようなものを感じました。その元会員さんにとっては「ある先生」の主張が全てなのでしょう。その方のブログで、何度も何度もその先生の主張を繰り返しているのを少し読みました。いわばすべて借り物の言葉であり、親鸞会時代に私達がしていたことと、あまり変わらないようにも思えてしまいました。「ある先生」の主張が、浄土真宗であり、浄土真宗をもって「ある先生」の主張を裏付けているのです。

私達は親鸞会で親鸞聖人に向き合っていると思っていましたが、実際には高森顕徹という一人の人間に向き合っていただけでした。でももう、私達は親鸞会をやめたのです。せっかくやめられたのです。そろそろそういう形の真宗理解から、一歩踏み出してみませんか。

親鸞聖人の説かれたことを、直に学んだらいいのです。本を読む時に、そこから名言名句だけを取り出して読んでも、読んだとは言わないでしょう。お聖教は道具ではないのです。全部流れがあります。親鸞聖人が何を悩んで何に対して何を言おうとしたのか、ちゃんと読まないとわからないでしょう。

そんなの読めないと思われるかも知れません。たしかにそうですね。たとえば教行信証は恐ろしく難しい本です。その難しさは、教行信証の世界の中だけで教行信証を読んでも、何がなんだかわからないことにもあります。少なくとも浄土三部経、浄土論註、観経疏は読まないとだめでしょう。それ以外にも学んでいたほうがいいものは山のようにあり、きりがありません。

でも、今はそれを学ぶための参考書や聖典は随分あるのです。地道に進めていけば、次第に見えてくるものもあります。こんなにも浄土真宗は豊穣だったのか、こんなにも仏教は広いのかと驚くでしょう。

そして、その学びによって得られる本当に大切なことがあります。私たちは「これはこうだ」「ここのところはこういうことだ」と断言する力強い人に惹かれます。だからこそ高森会長に惹かれもしたのでしょう。

しかしちゃんと読んでいけば、仏教はそんな単純化して語れるようなものでは全くないことに気づきます。教えとは重層的なものです。表面の結論だけで語れるようなものでは決してないのです。

「〇〇先生」が見た浄土真宗を学ぶのも大事ですが、そこから一歩、踏み込んでみませんか。この先生で十分だと思っているのかも知れませんが、意外にそうでもなかったと知らされるかもしれません。親鸞会時代は狭い世界に閉じこもってそこが全てだと思っていました。しかし、もう私達はそんな世界に閉じこもることはやめたはずなのですから。

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コメント

盲信的な正しさの追求はあまり良くないけど
親鸞聖人の教えを正しく伝える善知識は、
わたしは必要だと思います。

投稿: 匿名 | 2022年2月13日 (日) 22時37分

ぶるうのさんが、善知識は不要であると言ったかのような印象付けですかね。
ぶるうのさんは、善知識が不要とは仰っていませんよ。
ストローマン攻撃はもういい加減やめましょう。

ぶるうのさんは、自分でお聖教を読む方が広い世界を知ることができるし、現代はそれが可能な時代だと仰っているのです。

投稿: 別の匿名 | 2022年2月14日 (月) 01時21分

別の匿名さん
すみません、記事をよく読まずに書きました。
誤解されても仕方ありませんね。

投稿: 匿名 | 2022年2月14日 (月) 01時45分

これは、善知識だのみが良くないと言ってるだけで、善知識が不要という話ではないでしょうね。親鸞会をやめても別の形で善知識だのみになってる人たちを見かけますので、そのとおりかと思います。高森会長の代わりを探すんですよね。

投稿: 匿名その2 | 2022年2月18日 (金) 12時19分

善知識は、あくまで法(名号)を聞いて称えよ、とすすめる人ですので、役割のことだとおもいます。人に依存するのは間違い(迷い)のもとではないか、ということだとおもいます。
親鸞会でうんざりして退会したはずなのに、辞めても人に依存する人が多いというのはそれだけ迷いが深いということなのでしょうかね。

投稿: a | 2022年2月21日 (月) 09時53分

阿弥陀様は念仏を称えさせると誓われており、
念仏を称えなさいではありませんね。
一心一向に弥陀に向かって念じなさい
弥陀を信じよと仰せです。
一向専念の義です。
念仏称えたらと勘違いする人がいるから、阿部先生は
それは違うと教えられただけです。騒ぎ立てる程の事ではありませんね。

投稿: KK | 2022年2月22日 (火) 17時03分

本記事にありますとおり、親鸞聖人や七祖のお聖教は深く重層的に説かれているので、

「阿弥陀様は念仏を称えさせると誓われているから、念仏を称えなさい」

と頂くことも説くこともありうると考えます。

お聖教に直接触れるということは、還相回向される親鸞聖人にお会いするということだとおもいます。一人の先生の説に偏らず、その直のお言葉を心で頂いてはどうでしょうか、ということだとおもいます。

それでも、一人の先生の説に依存するのも自由だともおもいますのでよろしいのかな、と思います。

投稿: a | 2022年2月24日 (木) 09時26分

また反論されると面倒なので、補足させていただきます

「弥陀を信じよと仰せです。一向専念の義です」
これはその通りです。

ですが、
「阿弥陀様は念仏を称えさせると誓われているから、念仏を称えなさい」
これも間違いではありません。

この二つの仰せは矛盾しません。お聖教を読めばそのように頂くことができます。

以上となります。

投稿: a | 2022年2月24日 (木) 09時48分

「阿弥陀様は念仏を称えさせると誓われているから、念仏を称えなさい」
と言われて称える念仏は、どう考えても自力念仏だと思うのですが、その点はどうですか。
称えさせると誓われているのは、他力の信心を与えて称えずにおれなくさせるという意味だと思います。
両者は似ていますが、自力と他力の違いは甚だしいと思います。
自力と他力では全く違いますよ。
やはり、「念仏を称えさせる」であり、「称えなさい」ではありませんね。
aさんは、そんなのはどうでもいい事だと仰るのですか。

投稿: KK | 2022年2月24日 (木) 13時48分

念仏をほとんど称えていない、あるいは意味(いわれ)を知らずにごくまれに称えているような人に、他力信心を賜った人が「念仏を称えましょう」とすすめたり、あるいは親が子供に「念仏称えなさい」とすすめることに何が問題ありますでしょうか。最初は自力念仏をおすすめするということになるのだとおもいます。また自力の念仏をすすめるのは間違いというならば、自力の聴聞をすすめるのも間違い、と同義とおもいます。いかがでしょうか?

たとえば、蓮如上人の「名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり」(御文章)は、当時、浄土を願い念仏を称えている方がたくさんあり、それら念仏を称えている人たちにおっしゃったのであり、念仏も称えたことのない人にこのようなことおっしゃったわけではないとおもいます。日本語の連環があわないとおもいませんか?

名号が我が口に働いて称名、我が心に働いて信心、両方とも名号の活動相であることはご存じだとおもいます。ここで信前、信後で、称える名号のものがらは変わっておらず、称える衆生の心だけが変わっているということには同意なされますか?(親鸞会は高森会長が名号について教えられないので、この点でかなり異常な解釈をしていますが)


一方、自分の心の中に信心や阿弥陀仏を見出そうとするのは、当時流布していたとされる、観念の念仏であり19願観経の信心であり、それとの差別のために法然上人が専修称名念仏(18願念仏)を選択されたのだと理解しています。

ちなみに、KKさんの論

>称えさせると誓われているのは、他力の信心を与えて称えずにおれなくさせるという意味だと思います。

は、まず心の変化が重要ということだとおもいますが、それが自力の観念の念仏ではないという証拠はどのように説明なされますか?

親鸞聖人は法然上人のみ教えと同じことを教えてられているのですし、他力信心は心の世界ですから、一つの説き方ですべてを言い尽くすことはできないでと思います。

KKさんが本願寺派の布教師の方なら少し話は別ですが一般の門徒の方あるいは元親鸞会会員の方だとすると、法然法然上人の「まず諸行を差し置いて、称名念仏を励むべし」という説かれ方をあえて否定する必要はないではありませんか?

言葉足らずでしたが、そのようなことを申し上げました。

仮に、ある先生がそのように言われたとしても、宗教組織の体制の中に規定された言葉でありましょう。(その方の教えが間違っているといっているのではありません)
真実を表す説き方が、異なっていたとしても説かれている真実は一つであり、それは様々な聞法のご縁を通して教理を深く味解させていただくことが必要なのではないかとおもいます。

KKさんがどのようなお立場の方かは存じませんが、少なくとも、真宗のみ教えみ目覚められた方であるとすれば、申し上げていることの意味を汲んでいただけるのではないか、とおもっております。

投稿: a | 2022年2月24日 (木) 15時47分

親鸞会で話を何度も聞いていますが、いつもハッキリしません。
因果の道理の話を聞けば、悪い事を止めて良い事をせよという結論になります。
信心決定するまでは、聴聞の一本道だと言われます。
その様に言われて真剣に聞こうとするのですが、何を聞いたのか分かりません。
今までのちょうもんで、自力念仏を称えなさいという話は聞きません。
称名報恩なので、念仏は阿弥陀仏によって称えさせられるものに決まっています。私が称える念仏は自力念仏でしかありません。
諸善を止めて念仏せよなどという話は今まで聞いた事がありません。
念仏称えたらどうなるのですか。心がガラリと変わるのですか。
何の変化もありません。いくら称えても自力は自力です。
自力の心で他力だと思い込む事しか出来ません。それは真実信心ではありません。aさんの言っている事は気休めにしかなりません。

投稿: KK | 2022年2月24日 (木) 21時47分

KKさんは

>阿弥陀様は念仏を称えさせると誓われており
>阿部先生はそれは違うと教えられただけです。

最初にこのように発言されましたが、実際は

>親鸞会で話を何度も聞いていますが、いつもハッキリしません。
>今までのちょうもんで、自力念仏を称えなさいという話は聞きません。

とのことですか?

いずれにしても、この親鸞会批判サイトで他力信心の答えを求めているわけではないとおもいますので、これ以上の回答はしません。ご自分の気に入った先生から聴聞なされてください

投稿: a | 2022年2月25日 (金) 08時37分

阿部先生から話を聞かせて頂きます。

投稿: KK | 2022年2月25日 (金) 16時41分

阿部先生の御信心や教義が間違いと思いませんが、数人か数十人の親鸞会退会者に親鸞会や高森会長の間違いを話されるのもよろしいかと思いますが、本願寺派の布教師のご責任者として、本願寺の1万人の布教師と1000万の御門徒の教化をなされればいいのにとおもいます。

たしかに親鸞会は問題多き組織ですが、親鸞会が生まれた時代背景や問題の根っこは変わっていないと感じます。

そもそも念仏の声が絶えつつある末法のこの時代に親鸞会と同じように「念仏を称えろと阿弥陀仏は言われていない」という強い断定と受け取れる説法をされているならば直ちに賛同できないものがあります。

投稿: a | 2022年3月 4日 (金) 15時26分

念仏を称えなさいと
念仏を称えさせてみせる
は明らかに違うと思うのですが、
その点はどうなのですか。
その違いを分別されて話されているのが阿部先生です。

投稿: KK | 2022年3月 5日 (土) 06時48分

>その点はどうなのですか。

KKさんがそれが重要だとおもうならそれでよかったではありませんか。
個人としてご縁のある方にそのようにお伝えください。

それ以外に何かありますか?

>念仏を称えなさい

ただし、この頂き方を全否定するものではないしその必要もないと思います。

それぞれのお導き、聞き方、求め方があってもよいではありませんか。

投稿: a | 2022年3月 5日 (土) 08時50分

それぞれの聞き方や求め方はあって当然だと思います。
親鸞会の様に、ああしろこうしろと煩く言われて強要されるのは嫌いです。
阿部先生は、諸善に励まなければ救われないとは言ってません。
念仏しなければ救われないとも言ってません。
すべて阿弥陀様にまかせなさいと言っています。
念仏は称えるものではなく、称えさせられるものです。

投稿: KK | 2022年3月 7日 (月) 06時56分


>それぞれの聞き方や求め方はあって当然だと思います。

なので「念仏称えよ」という教え方から他力信心に救われる人も当然あるわけです。

しかし、

>念仏は称えるものではなく、称えさせられるものです。

をひたすら繰り返されますが、このような感じが、親鸞会を彷彿とさせるのは気のせいでしょうかね


>親鸞会の様に、ああしろこうしろと煩く言われて強要されるのは嫌いです。

はい、KKさんの解釈も煩く言われて強要されたくもないです。言いたいことはわかりましたから、もうこれ以上のコメント不要です。

投稿: a | 2022年3月 7日 (月) 08時54分

阿部先生のお話を聞いたことがありますが、一念義に近いと思いました。何事も歯切れがよくて聞いている人は気持ちいいのかもしれませんが、真宗や仏教の重層的な構造を理解しておられる方とは思えなかったです。聞いていて、こんなきっぱりと割り切れるものではないのにな、と思うことがかなりありました。

念仏を称えさせてみせると願っているのですから、我が名を称えよと念じられるのです。どちらかを違うと否定しなければならないようなものではないですよね。

投稿: 匿名 | 2022年3月 9日 (水) 11時24分

阿部先生のご説法に問題があるとは個人的には思いません。

聞いている人が、同じ先生の同じ話で同じ心境になった人以外は認めない、と言わんばかりに他の布教師の教え方の否定を繰り返されるのが、親鸞会を彷彿とさせます。そのように他の教え方を否定しと安心できない業なのかな、とおもいます。しかし、それはそれでよいとおもいます。それが自力信心が他力信心なのかは、わかりません。

投稿: a | 2022年3月10日 (木) 11時24分

>同じ先生の同じ話で同じ心境になった人以外は認めない、と言わんばかりに他の布教師の教え方の否定を繰り返されるのが、親鸞会を彷彿とさせます。

これは私も同じものを感じました。結局、自分たちの夢見た理想の親鸞会の姿を、阿部先生とその周囲の人に求めているだけなのでしょう。

投稿: 匿名 | 2022年3月10日 (木) 17時20分

A師は、真宗学以前の問題として、日本語の理解が決定的におかしいです。

『あさ川進の、宗教と私』
【投稿文】4月の埼玉恵日会で お聞きしたこと。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53479275.html

もう一つ、決定的なことは、「至心信楽の願」と十八願を名付けて、「これ 念仏往生の願より、出たり」になっている。
「出たり」ってことは、別ってことでしょ。
まるで別じゃない。「念仏往生の願より出たり」。お聖教開いたら、そう書いてあります。信の巻に。信の巻に 十八願が挙げてあって、至心信楽の願と、頭に挙げてあって、そして長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術だとか、いろいろ言葉が出ていて、その後に、「これ念仏往生の願より出たり」になっている。
だから、元は、念仏往生だって言っているわけですよ。
誰が言っているって、法然聖人。、
十八願を念仏往生って言ったのは法然聖人です。だから、そこに座って ものを言っているんですよ、この人達は。

投稿: 小町 | 2022年3月14日 (月) 22時29分

法然上人の「念仏往生」の教えを、親鸞聖人は「平生業成」の教えに変えられた根拠が上記だそうです。

何言っているか理解不能のいかれた論理

投稿: 小町 | 2022年3月14日 (月) 22時33分

阿部師の説法に問題があるのは明らかでしょう。
それを指摘すると逆ギレしたRさん達は、未だに親鸞会の続きを営んでいるようで、哀れです。

投稿: OS | 2022年3月15日 (火) 12時46分

リンク先見ました。教行信証に念仏往生の根拠なんてそこら中に出てきますよ。この阿部とか言う人、教行信証を自分の読みたいように読んでるだけじゃん。

投稿: 通りすがり | 2022年3月16日 (水) 12時34分

あさ川さんとRCさんのブログ見ました。酷いですね。
阿部氏の間違いは自明ですし、RCさん達は親鸞会にいた時の心地良さを阿部氏に見出した感じです。
親鸞会と自分達の違いは自力と他力と言っていますが、親鸞会も同じこと言ってますから、RCさんの主張は本当に高森会長を阿部氏にすげ替えただけの違いです。
業が深いのでしょう。

投稿: z | 2022年3月23日 (水) 11時06分

KKさんの
>今までのちょうもんで、自力念仏を称えなさいという話は聞きません。

の、救われるまでに『念仏唱えなくていい』なんで教え、親鸞会で聞いたことありません。
今まで聞いた聴聞で、そう言われなかったっておっしゃってましたが、多いに念仏唱えたほうがいいって話もありましたよ。
何れにせよ、内容を読んでいて勉強不足な気がしました。
なぜ①自力念仏では、往生できないのか?②なぜ念仏を唱えることが大事なのか?
ここは、勉強すれば分かります。

投稿: 匿名 | 2022年4月14日 (木) 08時18分

> 一心一向に弥陀に向かって念じなさい

これは本当に酷いので一応言っておきますが、そういう観念観想の念仏は浄土真宗においては否定されています。完全に不要です。
法然上人は「念ずる」という意味の念仏を捨てて、口で称名せよと仰いました。親鸞聖人は法然上人の仰せを否定されていません。法然上人を生涯尊敬され、上人の御心を伝えられたのです。

法然上人が否定されたことをわざと勧めるのは何故なのでしょうね。

> 弥陀を信じよと仰せです。

信じよが自力か他力かは不明です。むしろ自力的な言い方です。信じよと強く言われた人は自力心を募らせる可能性が高いです。
親鸞聖人はご回向の南無阿弥陀仏にお任せせよという御心ではないですかね。

ご回向の名号や称名を隅に追いやって、信じる心を強調したり、果ては弥陀を念じよなどと言うのは、親鸞聖人の教えではありません。
「信じる心」「仏を念じる」念仏などの自力の行に陥っては、親鸞聖人の仰せとは違うと言わざるを得ませんね。

投稿: その他の匿名 | 2022年4月16日 (土) 14時47分

A師の説法は、全体としては阿弥陀様の仰せにお任せするという内容になっていると思います。
しかし、KKさんの発言は他力信心の人が決して言わないようなことを連発しているので、???と感じます。
改めてよくよくご聴聞されることをお勧めします。
親鸞聖人と法然聖人の教えの違いではなく、両聖人に共通するところこそ、真に大切な所です。

投稿: その他の匿名 | 2022年4月16日 (土) 15時28分

親鸞会の実態は、広域暴力団高森組だからね。

若手下っ端鉄砲玉構成員の補充が常に必要なんですよ

投稿: a | 2022年4月17日 (日) 21時28分

先の投稿は、場所を間違えました。

>KKさんの発言は他力信心の人が決して言わないようなことを連発しているので、???と感じます。改めてよくよくご聴聞されることをお勧めします。

同感です。

投稿: a | 2022年4月18日 (月) 11時17分

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