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親鸞会が失ったふたつのもの

少し前に、福井県あわら市の顕真学院が同朋の里に移転し、人のいない元の学舎の写真がブログで紹介されていました。

https://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2020/09/14/220542

移転した顕真学院も入学者はほとんどいないそうです。今後は既存メンバーの研修などの需要が中心になると思いますが、私が1998年にここで学んだときの賑わいは完全に消えてなくなりました。いま振り返ってみても、私が研修を受けたあのときが、親鸞会の最盛期だったのでしょう。

言うまでもなく若年層の信者に恵まれた教団は大きく飛躍しますし、そうでなければ年ごとに平均年齢が上がり衰退します。いかなる教団でも、将来ある若者の入信と育成は最優先事項として取り組んでいる問題です。ですから、若者向けのスポーツ大会やバーベキューをしたり、天理教のように年に一度大規模な祭典を開いたり、あるいは最近の築地本願寺のように婚活パーティーまでするところも出てきています。

そんななか、親鸞会は例外的に若者の入信勧誘に成功していた教団でした。しかもレクリエーションをするのではなく、また宗教二世と言われる信者の子供の育成に頼るのでもなく、純粋に人生に悩み宗教を求める人を、大学のキャンパスから探し当てて育成する優れたシステムを持っていました。これは様々な新宗教の活動を知っている私から見ても、多くの優秀な人によって練られたかなり優れたものであったと思います。

しかし、ご存知のように宗教団体であることを隠して活動するそのやり方は、社会的に相容れないものであったことも間違いなく、2010年付近から急激に衰退しました。そしてそのやり方に頼り切っていた教団は、新たな方法を模索する努力も怠りました。

私が親鸞会にいたときは、学生が全国各地からバスを連ねて数百人の規模で参詣していました。聴聞会場の一角は白いワイシャツを着た学生の集団で占められ、休憩時間には真宗聖典を片手にした学生のリーダーがそこかしこで会合をする様子を目にすることができました。しかしそれは確実に過去の一シーンになりつつあります。

かつて親鸞会は、浄土真宗の正当な歴史はわれに続いているのだという自負がありました。その夜郎自大な主張の是非はともかくとして、あの頃の親鸞会の聴聞会場には、確かにその言葉を裏付ける若者のエネルギーがありました。その象徴が学友部であり顕真学院だったと思います。

しかし今の親鸞会はそのどちらも失いました。もっとも、若者のエネルギーが失われたのは親鸞会に限らず東西本願寺にしても同じことです。ただ、両本願寺が600年かけて栄え衰退してきた歴史を、親鸞会は高森顕徹の誕生からわずか100年足らずで駆け抜けようとしている。おそらく親鸞会が衰退したあとも真生会病院くらいは残るだろうと思います。しかしあの射水市の巨大な伽藍が、あわらの旧顕真学院の建物のようながらんどうになる日は、そう遠くないのかも知れません。

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コメント

確かに昔は学生部が主力であり、一流大学で勧誘する事が親鸞会の繁栄につながっていましたね。学生は素直に純粋に奴隷の様に従いました。常に金が無いのが残念でした。高齢者は金持ちですが人生経験が豊富なので大事に大事に扱わなければなりません。外人が入ると国際的に賑わっているという印象が強くなりますが、皆個性的なので強要する事などは出来ません。自由気ままにさせないと直ぐに離れてしまいます。宗教団体の経営は大変な事ですが、大事なのは常に中身だと思います。
ウイルスの様な悪戯をする人が多いので投稿様式を変えられたのですか。責任ある投稿の為に良い試みだと思います。これからの活躍に期待します。

投稿: 0k | 2020年9月30日 (水) 15時03分

40年近く昔、彼らが出した『本願寺の現状』なる本、
表紙の写真は背中の曲がった老人男性が、
本山の大師堂前に立つ、という図柄でした。

天に唾した親鸞会、というところでしょうか?

投稿: 人生の目的っ! | 2020年9月30日 (水) 16時28分

瓜生さんらしいセンチメントに溢れた記事をありがとうございます。
私も最盛期の親鸞会に在籍した一人です。
あの頃の親鸞会は確かに勢いがありました。
もはや親鸞会への興味も薄れましたが、当時の光景を思い浮かべると、ある種の懐かしさを覚えます。
親鸞会を肯定する気はさらさらありませんが、昔の自分への感傷でしょうね。

投稿: イガルカ | 2020年10月 1日 (木) 00時16分

学生部時代の担当講師は高圧的でいつも威張ってました。
芦原の研修センターの受け売りで、常に学生を厳しく監視してました。
上下関係、師弟関係を強く持とうとする態度が気に入りませんでした。
その原動力にあるのが、真実の教えを聞かせて頂いているんだという自信だと思います。
後生の一大事の解決が仏教の目的だという殺し文句に反発できませんでした。
説かれているのは真実の教えであり、その真実の仏教を聞かせて頂いているという自覚が根本にあり、素直に従うより仕方ありませんでした。実際にその教え自体は間違いありませんが、宗教法人の運営という体制に問題があり、箱物に資金を投資しすぎたのが致命傷だと思います。正本堂も地下道も野球場農場も弁当屋も映画バスも反対しましたが、結局作ってしまいました。高森先生のバックに阿弥陀様がついているからそれもいいのかと見逃していました。
しかし、皮肉な事に因果の道理は真実であり、因果を変える事は出来ません。事業を起こせば資金がかかるのは当然の事であり、借金は返済しなければなりません。会員も資金を出したくはありませんので辞める人が続出するのも因果の道理です。難しい真実開顕を宝刀に世俗の因果を見誤ったのか。内輪の会員だけを見て、真実を聞かない衆生だという事を見逃したのか。

投稿: ok | 2020年10月 1日 (木) 06時47分

>難しい真実開顕を宝刀に世俗の因果を見誤ったのか。

そもそも真実の教えを説いていなかったのが親鸞会衰退の一番の原因です。
次に、経営と後継者選びの失敗です。

嘘つき団体の日々もいまとなっては懐かしいものですね

投稿: a | 2020年10月 1日 (木) 17時47分

親鸞会は仏教に関しては正しく説いていたと思います。
なので多くの人の心に真実は突き刺さりました。
煩悩具足で真実を聞く気が無い者に真実を説く事は難しい。
会員は素直に聞いている様で聞いてはいない。
それを知りながら無理難題を専任講師に押し付けてしまいました。
仏法よりもお金が大事、自分が大事なので無理な事ばかり言う親鸞会は気違いだという事にして逃げ出すのが賢い人のやる事です。
口に念仏称えて往生だと信じる事が信心だと言われれば安心します。
後生不安な心も無くなります。
弥陀から賜る信心が念仏であると言われれば、うんその通りだとなります。
その信心の念仏をお礼の言葉に限ると親鸞会は意味不明な事を言いだします。
一体どうなっているのだ。一念の信心とは何なのだ。弥陀の救いが火に触る様にハッキリとするという話も嘘なのか。殊更疑問に思います。
aさんも後生の一大事よりも自分が大事だと思い、自力の信心を拵えて自力の信心に縋っている輩なのですか。ハッキリとした聞即信の一念はどうなっているのですか。捨自帰他の一念はハッキリしない何時とはなしになのですか。
親鸞会はハッキリすると断言しています。それが聞き続ける理由に会員はなっています。弥陀にハッキリと救われる為に無理難題を言われても、犠牲を払ってでも聞き続けています。あの箱物の借金は世間的に見て爆弾級の破壊力がありますので早く逃げるが勝ちだと思う筈です。それでも逃げられないのはなぜなのですか。後生の一大事が心にかかっているからだと思います。

投稿: Ok | 2020年10月 2日 (金) 06時09分

〉親鸞会は仏教に関しては正しく説いていたと思います。

ヨリ正しくは「人間の実相に関しては」ではありませんか?

一切の凡夫が、とかく眼前の小利によろめきがちであることを、御用絵師(紺敏子氏のこと)のあの作品はなかなかよく描いておりましたが、高森氏もまたそういう凡夫の一人にすぎぬということを、高森氏自身はもちろん、取り巻きの幹部らも口を閉ざして語らなかった。この点にこそ、数多くの悲劇が生み出された根本原因があるように思われるのですが。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年10月 2日 (金) 18時13分

人間の実相とは言いましても、仏教で説かれている事は万人に当てはまりますので私の実相であります。煩悩具足で名利の大山に迷惑している姿は親鸞聖人も告白している通りです。信心を獲た特別な人だと思わせて、会員から善知識だと言われている高森先生も同じ凡夫に変わりはありません。なのに親鸞会の中では常に頂点に立ち、特別扱いを受け続けてきました。これは有頂天になるのは当然だと思います。世界が自分中心に動いていると錯覚します。
昔、仏縁の深い人を高森先生のビデオご法話に誘いましたが、高森先生が威張り散らしてアシスタントを支持棒で指し、上から目線で違う違うと言っているのが許せないと怒っていました。弥陀の光明に照らされれば常にそういう凡夫の姿が照らし出されて謙虚にならざるをえなくなります。弥陀の前にはみな平等になるからです。親鸞会では常に上下関係を作り競争させようとする体制が気に入りませんでした。もっとも最近は昔の様な強引で高圧的な体制は完全になくなったと思います。今と昔のギャップに当惑して辞めた人も多数いると思います。ターゲットも学生から高齢者になり、海外の人になったのも関係していると思われます。いずれにしても俗諦門であり、変化するのは当然だと思います。変わらないのは仏教の教えであり、阿弥陀仏の本願のみです。怒りに任せて、その様な親鸞会から聞いてきた仏法の心髄は決して侮ったり謗ったりしてはならないと思います。なので前の投稿で瓜生さんが「歎異抄の映画は素晴らしかった」と評価したのは素直な気持ちだと受け止めています。それに対してウイルス攻撃をかけて消し去ろうとした人は悪意に満ちて良くないと思います。天皇制は何も関係のない話です。

投稿: ok | 2020年10月 2日 (金) 19時55分

沈乱会の堕落が加速度的に増している現状、因果の道理狂い無し、あの流行期に脱出して良かったヨカッタ!

投稿: TM | 2020年10月 3日 (土) 19時13分

〉アシスタントを支持棒で指し、上から目線で違う違うと言っているのが許せ〉ないと怒っていました

全く同感です。普通の神経の人ならそう思うでしょう。けれども高森氏は老境に至るも、こうした態度を改めるふうもありません。すなわち、目下ネット上で唯一拝聴できるその御法話を見るに……https://shinrankai.jp/kouen12

差別語「め●●」をわずか9分間に5回も連発なさることに加え、弟子が必死に描いた亀の絵を笑い飛ばすなど、宗教家である以前に人間としてどうかと思われる挙措が多々あり。

「こんな宗教にも信者がいる」とは29年前、本多勝一氏が幸福の科学を批判した名言ですが(エッセーのタイトルになっている)、これをそのまま親鸞会へも贈りとうございます。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年10月 4日 (日) 08時19分

スプーン曲げや透視能力のある人がいて、その人に白道燃ゆを見せたところ、この人は宗教家ではないと怒り出しました。必堕無間と言っている所が気に入らなかった様です。お釈迦様の言葉だと言ったら、お釈迦様はその様な事は言わんとこれまた怒られてしまいました。親鸞会で聞いた話を一般の人に話すと大概怒りを買います。親鸞会にその様な事を報告すると、真実とはそういうものだ。真実を聞く事が出来た事を喜びなさいと言われます。

投稿: ok | 2020年10月 4日 (日) 16時33分

〉必堕無間と言っている所が気に入らなかった様です

スプーン曲げはインチキ臭いのでどうにも好きになれませんが、この言葉自体はまっとうな批評だと思います!

「一切衆生必堕無間」というが、衆生の中でも大善知識さま、つまり高森御大のみは地獄ゆきを免れ得るのでしょうか? 高森氏はそんなにえらいのでしょうか? 落ち着いて考えれば、『白道燃ゆ』の所説がいかに弥陀のお慈悲に反しているか、ということぐらいわかりそうなものですよね。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年10月 6日 (火) 17時04分

大善知識様も自業自得の因果にまかせれば無間地獄ゆき間違いなしです。
弥陀の強縁である信心を獲得していれば、本願力により往生させて頂く事が出来ます。しかし、実機は変わる事なく地獄一定なのですね。
高森先生を偉い人だと祭り上げているところに親鸞会の間違いがあります。
スプーン曲げはユリゲラーの十八番ですが、あれはコツをつかめば誰でも簡単にできますね。

投稿: ok | 2020年10月 6日 (火) 17時56分

そもそも親鸞会の言う後生の一大事は本来の意味とかけ離れており必堕無間も造語。信心獲得は、仏様並みの智恵が身につくもの(阿弥陀様が見える等)だと吹聴している。この2つが信者の心を捕らえていた主因と思います。
聖教に基づいた反証は沢山あるので、ネットで反論されて逃げ回る始末。
実に巧みな教義の歪曲だったと、騙されたものとして感心します(笑)こんな教団、衰退して当然ですね。

投稿: とら | 2020年10月 8日 (木) 13時52分

後生の一大事や宿善は蓮如上人が言い出した事で、正しくは生死の一大事という事です。仏教の根幹にある因果の道理と悪しか出来ない実機を正しく見れば後生の一大事は大問題になって当然ですが、少しも驚く心がありません。それが一大事だと親鸞会は言います。後生の一大事が分からないから、会員は騙されていると疑いながら聞き求め続けているのだと思います。
信心を獲ても何も変わりありません。煩悩は減りもしなければ無くなりもしません。仏の智慧もつかず、病気も治らず、貧乏人は貧乏人のままです。因果の道理を捻じ曲げる事は仏様でも出来ません。本願を疑う疑情が晴れて、死んだらどうなるのかがハッキリとするのみです。往生極楽は弥陀の本願に間違いなかったとハッキリするからであり、往生極楽は死んでみなければ分かりません。知る智慧などどこにもありません。ただ信じて念仏申すのみです。
親鸞会の言う事は全部が全部、嘘捏造ではありません。そこが曲者の宗教法人の姿です。名利の中に真実が隠され、真実を表に名利が潜んでいます。

投稿: ok | 2020年10月 8日 (木) 17時19分

〉名利の中に真実が隠され、真実を表に名利が潜んでいます。

額に入れて飾りたい名言です!! 「真実を表に名利が潜んでい」るとも知らず、親鸞会とおぼしい団体に入った、劇画『青春の旅立ち』の主人公は、その後どういう人生を歩んだのでしょうか? 

中曽根首相や岡田有希子さんとおぼしい女性が登場するから、あの劇画の時代背景は1986年頃でしょうか?どうにも気になるところです。

ヒロインが京都郊外の山寺に住まう先輩を訪ねるあたり、寺院を完全に排撃したその後の親鸞会に比して、この劇画発刊当時はまだまだ良心的だったと思われるのですが。以上、とりとめもない文面でごめんなさい。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年10月 8日 (木) 18時41分

>劇画『青春の旅立ち』の主人公は、その後どういう人生を歩んだのでしょうか?

その後の人生コース分類

コース①(90%):親鸞会の活動についてゆけず退会して普通のおじさん、おばさんになっている。親鸞会の時代は過去の苦い思い出。家族にも職場でも話せない消したい過去。現在は、無宗教(宗教はこりごり)

コース②(6%):やめるのが怖くて親鸞会に籍だけ残し、未練を残しているが、金や時間を収奪されることがわかっているし、全然救われる感じもしないのであまり近づないようにしている。

コース③(3%):バリバリの親鸞会会員(学徒)として生き残り、やめた人間を敗残者と見下すことで自分の精神状態をかろうじて保っている。今の救いについてはほぼあきらめている。死ぬときに観音菩薩の臨終説法にほのかな期待。

コース④(1%未満):退会後、親鸞会の間違いに気づいて、善知識にあい真宗の教えを聞き、ただいまの救いにあい、親鸞会の暗黒時代にも感謝できる人生を歩ませていただいている。

こんな感じでしょうね

投稿: a | 2020年10月 9日 (金) 09時31分

「青春の旅たち」については余り知りませんが、憶測すると
親鸞会の活動からは離れて世間で世俗的に仕事をしているのかな。
仕事をしながらどこかに聴聞してきた事が引っ掛かり、悶々としている。
形は離れていても、何かが引っ掛かり、それが何なのか分からない。
親鸞会で聞いてきた事は過去の出来事として忘れ去ろうと努力しています。
お寺の坊様の話に耳は傾けても理解など出来ませんね。
そういった日々を過ごしていると思います。
しかし、それは阿弥陀仏に泳がされているだけであり、やがて自分はお腹に餡子を抱えたタイ焼きだと気付き、阿弥陀仏に釣りあげられてしまいます。タイ焼きだと気付いた時には食べられているのでしょう。

投稿: ok | 2020年10月 9日 (金) 13時26分

兄が親鸞会の信者でした。
両親の葬式はどちらも独断で親鸞会の僧侶がとりしきりました。
葬式の後、決まったように仏教の話をします。私から見れば全く仏教ではないのですが、仏教を知らない人からしたら、それが本当の仏教に思えるのでしょうか・・・ 
僧侶は、怒鳴り声を上げて説法していました。周囲のみんなは嫌な雰囲気になっていましたが、信者の兄だけが満足そうに熱心に聞き入っていました。
説法中、葬式の弔問客が来ていましたが、僧侶は自分の話に夢中で弔問客に気づかないまま、結局、弔問客はそのまま帰りました。
独善的ですね。
これが本当の仏教だ、という押し付け~
結局は、親鸞会の自慢話、布教になっていました。
それで、居合わせた人はみんな、親鸞会を嫌いになりましたが、
僧侶と信者の兄だけは、自分たちはいい仕事をした、と満足気でした。
後に、メールでその事について親鸞会のHPへ問いただしたら、一応、謝罪の言葉は来ましたが、
今でも親鸞会への嫌悪感は消えないですね。

投稿: 宮川義弘 | 2020年11月 3日 (火) 08時38分

独善的な己に気付かず、我こそは本物だと胡坐をかく。
堕地獄間違いない愚かな集団がまだ生き残ってるんだね(笑)

投稿: t車m号 | 2020年11月 5日 (木) 19時47分

独善的な己に気付かず、我こそは本物だと胡坐をかく。
堕地獄間違いない愚かな集団がまだ生き残ってるんだね(笑)

投稿: t車m号 | 2020年11月 5日 (木) 19時47分

最初の文面に「2010年付近から急激に衰退しました。」と書かれてあるけれど、母の葬式は1990年で、父の時は2004年だったから、その頃はまだ隆盛活発な時期だったのかも・・・
信者の兄は、自分の結婚式も親鸞会にやらせて仏教形式でやった。
居合わせた親戚たちはみんな困惑していたけれど・・・
結婚式でお経を唱えたのだから~
それも、日本語訳の文を読み続けた。
そして兄は「これが本来の正しい結婚式だ。」と言っていた。
完全に、洗脳されているな~、と思った。
一度、親鸞会の信者と仏教で議論し、私が反論すると、そこから一気に兄の私に対する態度は冷淡になった。
今では、こちらから縁を切っている状態だけれど、今も信者でいるのかどうかはわからない・・・

投稿: 宮川義弘 | 2020年11月 7日 (土) 20時04分

宮川義弘さま:

2度にも及ぶ貴重な御証言、誠にありがとうございます。とても参考になります。新宗教が伝統宗教の猿まねをしても押しつけがましくなるだけだということがよく認識できました。

農民あがりの将校や将軍は、コンプレックスを解消しようとしばしば無理な行軍を課し、その挙句が八甲田山の死の彷徨や、当初はドイツ軍に負けてばかりのソビエト軍といった事例を残しております。親鸞会の怒声交じりの法話も、こういう歴史の先例に照らせば十分に納得が参ります。兄上さまとの和解は難しいこととは存じますが、それでも何か良き御縁があることを蔭ながら念じ上げます。

繰り返しますが、貴重な御証言ありがとうございました!

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月 8日 (日) 20時02分

葬式だ葬式だと力んでいたN講師がいましたが、親鸞会の葬式は一般常識からかけ離れ、会の内輪行事になっていますね。ただカモにされているだけだ。友達もN講師のカモにされ、弔電披露も県会議員や市長は名前だけ披露で、M春の文は筆頭に全読されるという状況であり、参列者は度肝を抜かれて以後御家断絶にされてしまいました。知らない人や常識ある人からみたらとんでもない葬式なのにN講師は自慢げに葬式をやったと弁論大会でおおほらを吹いていました。とても頭にくる弁論でした。

投稿: ok | 2020年11月14日 (土) 06時44分

ちなみに香典返しに白道燃ゆを100冊買わされて、それを受け取った人はみな激怒してました。香典返しは昔からお茶に決まってます。やるなら常識をわきまえてやってくれよな。独善的な話など誰も聞きませんし、かえって仏縁を叩き切る事になりますね。N講師は反省したのか二度と葬式だと祭り騒ぎをしなくなりました。最近は顔も見なくなりましたが退会でもしたのでしょうか。坊様の真似事しても所詮は猿芝居でしたとさ。

投稿: ok | 2020年11月14日 (土) 06時55分

N講師の殺し文句は、「年中無休で絶対に潰れない阿弥陀銀行に貯金しよう」であり、まんまとニコニコ顔に騙されて40万円の大金をご報謝してしまいましたが、あのお金は紙切れ一枚でネコババされたのかもしれないかもです。その証拠にN講師は姿を消してしまいました。親鸞会の恐ろしいところです。他にも金銭問題を起こしているとか噂を聞きました。葬式をやってボロ儲けしてトンズラしてしまったのでしょう。まったく酷い話だぜ。

投稿: ok | 2020年11月14日 (土) 20時33分

ok さま、貴重な御証言の数々ありがとうございます。

本願寺を葬式佛教とけなしておきながら、或る程度歳月をへて、会員のための葬式をやらざるを得なくなる。その点では、阿含宗や幸福の科学なんかと択ぶところはないわけですね。

今現在の親鸞会のお葬式は、本願寺のマークを鷲のマークにすり替えただけの法会を来た式衆がやっているようですが、評判はどうなのでしょうか?

https://shinrankai.jp/faq/funeral

「在家上がり」というのは使ってはいけない言葉ですが、あなた様や宮川義弘様の御証言をうかがうにつけ、心に湧いて参ります。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月14日 (土) 21時02分

  道を求めることは何であれすばらしい。でもその熱意を他者へ有無をいわさず押し付けるのは考え物です。22年前、親鸞会の横浜アリーナでの行事に参加しましたが、金属質のせっぱつまったような感じの「正信偈」で、がっかりした記憶があります。もっとゆったりとお唱えすることはできぬものだろうか?と思いました。

   寺院住職や寺族の中には、光晴氏も顔負けの色と欲におぼれた人もおりましょう。ただ、そこは世襲の余裕。親鸞会のあの勤行のようなぎすぎすした印象を与える声の人は、たぶんそんなにいないと思います。「在家上がり」というのは恐ろしい差別表現ではありますが、そこにも多少の道理があるようにも思われるのですが…。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月15日 (日) 19時42分

親鸞会のお勤めは独特の節で淡々と唱えてゆきます。私はいつも書き下し文を読む事に徹しています。その方が内容を理解しやすいです。綺麗に聞きたいならば東本願寺のお勤めがいいと思います。葬式用は西本願寺のがいいと思います。
親鸞会は独善的に強引なところが多々あります。その強引だった人も強引に強要されて強引になっているだけであり、そういう人は数年後にいなくなっています。人を思いやる優しさのある人は残っています。強引な講師に強要され続けた人も辞めてしまうのでしょう。その強引さは軍隊からきており、今では時代錯誤も甚だしく親鸞会も悔い改めた模様です。その反動で更なる動揺が引きおこっている模様です。ご機嫌取りに走ったり、葬式で金儲けに走る様ではいけませんね。会費のクレジット払いも頂けませんね。毎回痛い思いをして工面する所に価値があります。お金をケチって出したくない心しか無いのが凡夫ですから。N講師は葬式で失敗して首にでもなったのでしょう。

投稿: ok | 2020年11月15日 (日) 20時58分

ok さま:

  貴重な御証言ありがとうございます! 親鸞会の勤行の声を「金属質」と批評したのは、室生忠氏。

  同氏は昭和59年(1984)に親鸞会を取材した際の印象を、その著『若者はなぜ新・新宗教に走るのか』 の中で語っておられますが、そこに出て来る表現が、この「金属質な」であります。

  私はこの言葉を胸に、平成10年(1998)初夏、横浜アリーナでの法話会を覗いてみたのですが、たしかに金属質であるし、しかもなにか、大波にさらわれそうなところを岩に齧りついて必死で救いを求めているような印象を受けました。繰り返しになりますが、もっとおだやかな感じでお唱えすることはできないものでしょうか? 老人が多くを占めるようになった今は、もう少しゆったりした、いや、ゆったりせざるを得なくなったとは思うのですが。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月16日 (月) 14時40分

最近は声のいい導師がいてお勤めのCDまで出しているのではと思います。
声のいい導師が一人で淡々と唱えていますね。本願寺のは数人いてハモっています。色々な声が一つになっています。その違いではないかと思います。西本願寺は更に独特でブイブイうなっていますね。やはり東のがおすすめですね。

投稿: ok | 2020年11月16日 (月) 19時39分

親鸞会本体、1万年堂が今や起死回生をかけて始めた新企画「ケモノガタリ」。
敵ながらあっぱれと思う反面、このような初歩的なミスを大事なオフィシャルサイトでやらかすとは……

一葉落ちて天下の秋を知るというが、もはや冬を知ると言ったほうが、いいかもしれませんね。

https://www.kemonogatari.com/characters/deer
(登場人物)
名前と顔が一致しているのは、脇役的存在のライオンのみ。
大丈夫なんでしょうか?そのうちしれっと訂正なさのを
待望しております。

敵に塩を送るようですが、この作品が縁となって、
親鸞会とは関係なしに、若者が真摯に真宗や人生を考えるようになることを
念じてやみません。

ちなみに、トップ画面の左上には「下着ドロボーよ!捕まえて~」なる
セリフあり。こんなところにも、
いよいよ就任間近い2代目善知識さまの品性が
見事反映されていると思われます。

https://www.kemonogatari.com/」

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月17日 (火) 12時14分

なんかトーンダウンしているような、いい子ちゃんになっているような・・・
今更、親鸞会に気遣う必要があるのでしょうか?
そもそもこういう会があること自体、人を惑わす根源になっているのだから。
逆に言えば、惑わされるということは、真実を知らないからそうなるわけで、それは単に日本仏教界全体の堕落を象徴していることにもなります。

そもそもはインドで発祥した仏教が中国を経て日本に伝わったわけで、当然そこには中国思想のフィルターがかかっているわけで、その中国仏教を基本に日本の仏教は発達した。
親鸞も、もともとは比叡山天台宗で学んだ僧侶であり、だから浄土真宗とは親鸞独自の仏教で、親鸞が解釈した仏教だし、
それをまた、親鸞会が独自に解釈していることになる。

つまり、大本のインド仏教に多くのフィルターがかけられ続けて今日の日本の仏教の各宗派があるわけで、そのどれもがフィルターでぼやけているのに、それぞれが「我こそは真の仏教なり」と主張している。
親鸞会も、単にそんなナンセンスな愚行の1つにすぎない~
問題は、教団を作って組織化し、巨大化することによって権力化すること。
結局は、やっている人間の俗っぽさと欲とエゴが前面に出てくる。
で、それを人に押し付けて支配するようになる~
それに振り回されて人生を犠牲にすることはもうやめましょうや・・・

付け加えるなら、葬式は最大の霊感商法です。
ただ、「昔からやっているから」とか「みんながやっているから」という理由で、誰もそれを疑わないことが問題だけれど。

投稿: 宮川義弘 | 2020年11月25日 (水) 09時53分

親鸞会の法話を聞いていると嫌な気分になったが、親鸞会は、これが本当の仏教だ、と言っていた。
ということは、
仏教は人を嫌な気分にさせるものなのか?
なぜそんなものを信仰しなければならないのだ?

また、真宗の信者は日本で一番多い、と言って自慢していたが、数が多いことの何が自慢になるのだ? 数が多いことが正しいのか?

また、女は業が深い、と言って女を蔑視していた。
親鸞会は女性蔑視の立場のようだ。みんな、女から産まれているのに~

また、「釈迦の前に釈迦はなく、釈迦の後に釈迦はない、と言われている」と言ったが、そんな言葉は聞いたことがないし、仏陀を釈迦と呼ぶ時点で間違っているけれど、釈迦は仏陀が生きていた種族の名前「シャーキ族」から来ているもので、固有名詞ではない。

そもそも親鸞会の法話はデタラメが多いけれど、それをデタラメと認識できない無知さが問題~

そのおかげで、親鸞会を通して、親鸞が大嫌いになりました。

投稿: 宮川義弘 | 2020年11月25日 (水) 10時50分

宮川義弘様:

 「私を嫌いになってもAKBを嫌いにならないでください」をもじって、
「親鸞会を嫌いになっても親鸞聖人を嫌いにならないでください」というのが、私や他の書き込み者のあなたさまへの思いだといって過言ではありません。

 宮川様はどちらかといえば原始仏教に親近感をお持ちのようだし、そのお気持ちも理解できますが、原始仏教で説かれた瞑想とかを実践するほどの力量に恵まれていない者が、正統派の親鸞聖人の教え、すなわち、親鸞会でない他の大多数のまともな真宗の法話を聴くことは、決して責められたり、笑われたりして良いこととは思われません。いかがなものでございましょうか?

  兄上さまが速やかに目を醒まし、宮川様との今生での兄弟の御縁を、双方に納得のゆく形で回復されることを念じ上げつつ。

投稿: 人生の目的っ! | 2020年11月25日 (水) 15時38分

人生の目的っ!様、いつも好意的なコメントをありがとうございます。
こういう書き込みの場を設けていただいたことに感謝します。
なかなか、こういう内容のことを書ける機会はありませんし、同様の思いを持っておられる方々がいるのを知ることは、自分への励みにもなります。

私の末の妹は私以上に親鸞会に嫌悪感を持ち、それが理由で家族と縁を切っています。
やはり、信ずる者だけが救われるのでしょうか・・・
親鸞会は大したことをやらかしたものだ、と思っています。

投稿: 宮川義弘 | 2020年11月26日 (木) 19時18分

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