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映画「なぜ生きる」を見てきました

親鸞会の映画「なぜ生きる  蓮如上人と吉崎炎上」を見てきました。
http://nazeikiru-eiga.com/

先に内容を詳細に書いてくれてる方がおられたり、「なぜ生きるシナリオブック」という内容がそのまんま載ってる本を頂いてしまったので「もう見に行かんでいいかな」と思っていたのですが、なんとなく義務のような気がして行ってきました。場所は大津ユナイテッド・シネマ。

内容は、先に見た人がたくさん書いているのでそれらを見ていただければと思います。今まで親鸞会が作ってきたアニメのパッチワークだとか、時代考証が滅茶苦茶だとか、その点はまあその通りです。予め知っていたからかこの点についての失望はあまりありませんでした。実に親鸞会テイスト満載の一直線な映画です。ハラハラもドキドキもしません。深く考えさせられる内容や伏線もありません。登場人物の葛藤も迷いもありません。実に思った通りに進んでいきます。蓮如上人は全く欠け目のない善人だし、本光房はあっさりと改心するし、お馴染みの比叡山の僧侶は救いようのない悪役です。いまどきアンパンマンでもこんな単純なストーリーはないでしょうね。

大正時代に作られた恩徳讃の歌を歌ってるとか、「この時代に檀家取られたとかないだろ」的な、蓮如上人の時代にこれはないだろうという話はたくさん出てきますが、まあどうせわかってやってるんだしそういうもんでしょう。名号本尊が金ピカの宮殿の中に入っているのは、「そこまで親鸞会と一緒にするかよ」と思いましたが。

蓮如上人のお説教のシーンは親鸞会教義そのもので、親鸞会の話を聞き慣れている人ならすっと入るでしょうが、そうでなければクドいかもしれません。このお説教のシーンは何度も挟まれ、そのたびに水墨画による「生死の苦海」と、黒い「大悲の願船」が出てきます。

で、そういうのを全部目をつぶって全体として見れば、これをみて感動する人はいるだろうと思いました。私の友人の坊さんでも見に行った人は結構いるのですけど、醜悪なアニメだという人もいる一方で、「良かった」と評価する人も少なくなかったのです。

最後に教行信証を守って死ぬ本光房の姿に、「善知識のためなら死ねという思想を植え付けるため」と評した人もいましたが、そもそもこの映画の物語は浄土真宗教団が散々消費しつくした「腹籠りの聖教」と言われるもので、今も節談説教ではポピュラーな題材です。浄土真宗に限らず宗教というのは、長い成り立ちの中でどこかにこういう物語を求めるものです。

アニメ技術の進歩もあるのでしょうが、光の表現や水の質感、伸びやかな動きは、チューリップ企画から出ていたあのアニメから長足の進歩を遂げていました。音楽も良かったと思います。最後にスタッフロールが流れるのですが、そこには牧野さんや太田さんといった、長年親鸞会のアニメに関わった懐かしい人の姿がありました。弘宣部ビルの一室で、ソニーのノンリニア編集システムやMIDIシーケンサーを懸命に操作していた彼らの姿を思い出します。

このアニメの内容にはさして思い入れはありませんし深みも感じませんが、親鸞会は最初のアニメ「世界の光親鸞聖人」を作ってから25年、着実にこの方面の人材を育成し、自分たちの主張したいことを脚本に落とし込み、専門知識を持ったスタッフが業者をコントロールして、第一線の技術でアニメを作る能力を手に入れたのでしょう。残念ながら伝統仏教教団でこれが出来るところは一つもありませんし、そういう能力を持った人を数十年単位で育成するという考えすら無いでしょう。如何にこのアニメの内容が醜悪なものであったとしても、親鸞会とは比較にならないほどの大勢の人とお金を持ったはずの東西本願寺教団にはこれは作れないのです。

このアニメを大津の映画館でみながら、私は「ミッション」という映画を思い出していました。イエズス会というカトリック修道会が作ったもので、私はこの映画の公開時に広島にあるイエズス会が設立した中学校に通っていたので、学校行事として動員されてみんなで見に行ったのです。この映画の内容を詳しく知らなくても、十字架に括りつけられた宣教師が滝から落ちる映画のワンシーンや、作中で印象的に使われる「ガブリエルのテーマ」というモリコーネのオーボエ曲を知っている人は多いでしょう。

この映画の主人公の一人である奴隷商人のメンドーサは、宣教師のガブリエルを見下していますが、痴話喧嘩から実の弟を殺してしまい茫然自失とし廃人のようになってしまいます。そこに手を差し伸べたガブリエルと共に未開の地に宣教に趣き、最後は村に攻め込んだポルトガル兵の前に殉教する、そんな物語でした。まるでキリスト教の宣伝映画のように思えて当時はいささか不愉快な気持ちになりましたが、その後も何年かに一度見返し、ずっと自分の中にこの映画はとどまり続けました。ひょっとしたら自分が「宗教」というものに目覚めた初めての経験かもしれません。

大事な人を失ったことから見下していたはずの宗教に救いを求め、布教に人生を捧げ、最後は信仰に死ぬ。アニメ「なぜ生きる」を見ながら、ああ、これ「ミッション」だなぁと、ぼんやりと中学生の時に見た映画のことを思い出していたのです。

もちろんその精神性や映画としての内容、芸術性において「ミッション」と「なぜ生きる」は比較になりません。前者は今後も残り続け、後者は親鸞会とともに消え去るでしょう。

ただ、今回の「なぜ生きる」、親鸞会のばら撒いた大量の招待券(私のところにも一枚きたくらいですから)や動員による観客が多いのでしょうが、「なぜか見てしまった」という人もかなりいたに違いありません。そういう人の心にモヤモヤと映画の思い出が残り続け、そこからいつか仏法を聞く縁になればいいなと思いました。

もちろん、親鸞会以外のところで。


ミッション 予告編


ガブリエルのテーマ


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しばた未来さんに思うこと、親鸞会のこと、そして。

以前にこのブログでも記事にしました、しばた未来(柴田未来)さんと親鸞会の問題について、柴田さん本人が支援者に説明する会合が持たれましたので行ってきました。

その内容はやや日刊カルト新聞に掲載されていますが、今回はその記事へのリンクはしません(理由は後述)。

今回参加する前に、私にはある期待がありました。それは、信頼できる何人かの人から、柴田さんは親鸞会を辞めたという情報が入っていたことからのものです。私は、柴田さんが様々な活動をする中で親鸞会の問題性に気づいて、本当に辞めたという可能性もあるのではないかと思っていました。

私の周囲には野党統一候補を応援したいけど、親鸞会との問題性が解消しないかぎりは応援できないと考える人が多数あり、それらの人から常に問い合わせを受けていました。そうした人に、本当に辞めたと伝えることができるのではないかとの期待を持っていたのです。

残念ながらその点については裏切られました。柴田さんは辞めたと明言しましたが、問題性に気づいて自分から辞めたのではなくて、選挙戦略上辞めたほうがいいという周囲の声を受けて辞めたと言ったのです。柴田さんは親鸞会にいることで様々な批判を受けることになるのではという自覚はあると言っていましたが、では親鸞会のどこを批判されると思ったのかとの私の問いにはきちんと答えることが出来ませんでした。

柴田さんは終始、親鸞会のやっていることに問題性はないという認識でした。ならば親鸞会であることを明言して堂々と問題はないと主張し続ければよかったと思います。選挙という理由で30年近く密接に関わってきた教団を辞めると言うのなら、これからも選挙に勝つためなら他の信念も容易に変えたりしてしまうのではないでしょうか。

ただ、残念に思ったことだけではありません。

こうして、自分の内心に関わる問題、信仰に関することについて、多くの人の疑念や心配に応えようと出てきて話をしたというのは、見上げた事だ思いました。これはなかなか出来ることではないと思っています。

今回の件にはいろいろな思いがあります。柴田さんを批判して終わりにする気持ちになれない思いがあります。それは一番は、私が親鸞会という教団の中で、近い年代で活動していた柴田未来という人を見てきたからでしょう。特に親しくなったことはありませんが、活動上関わることはありましたし、私が親鸞会を辞めた時には柴田さんも親鸞会の活動からは一時遠ざかっていたからです。(その当時は親鸞会の中に様々な問題が噴出しており、長く幹部として頑張ってきた人が多数辞めたり、活動から遠ざかった時期でもありました)

会合では本人の口からも、一時期活動から遠ざかっていたことが語られました。これは意外でした。その発言には様々な計算もあったのかもしれませんが、それだけではないでしょう。

多分、あの教団の中で私と重なる課題も抱えていたのだろうと思うし、その中で、私はやめました。柴田さんは残りました。

柴田さんは心情的には親鸞会を辞めてないと私は感じました。しかしどちらにしても、私と同じくこれから「親鸞会」という厄介なもの背負って生きていくのでしょう。ならば、どうして親鸞会に関わって騙されたとか苦しかったという人があとをたたないのか、どうして未だに相談が絶えないのか。できれば「なぜ親鸞会が批判されるのか」にも向き合ってほしいです。それはただ内心の問題ではなく、柴田さん自身がその活動と布教にずっと関わり続けてきた人だからそう言うのです。

そして被害者団体からの申し入れにもきちんと返答してください。安倍政権打倒という大義の前に、そうした親鸞会に関わって苦しんだ人の声がかき消されるようなことは、あってはならないと思っています。

問題性なんて無い、と言わなければならない立場や歩みはあると思いますが、私は柴田さんはこの問題に向き合うことが出来る人だと私は思っています。そこに私は最後の信頼を置きます。

最後に私個人の反省も書きます。今回の会合は公開されたものではなく、一部の関係者のためのクローズドなものでした。この会合の録音を柴田さん本人や主催者に無断で「やや日刊カルト新聞」に提供したのは私であり、記事にすることを了承したのも私です。ただ、書いたのは私ではありません。

会合での発言には非公開の集まりであるという相互の信頼性の前提の上で語られたことも多くあると思われ、その内容を参加者に了承を得ずに記事化の前提の上で提供するのは、道義上問題ではないかという声が私のもとに寄せられました。その件についてはそのとおりだと考え、反省しています。関係する方にはご迷惑をお掛けしたことを深くお詫びします。公共性という大義の前に目の前の人の信頼を裏切るようなことをしては、私が普段から批判している親鸞会のやっていることと同じではないかという厳しい批判も頂きました。そう思います。

このことを省みたうえで、現場にいたものとして「やや日刊カルト新聞」とは違う自分の見解をもう一度書きます。今回の会合では失望したこともありましたが、親鸞会という教団に関わって痛みを味わった人の声に、柴田さんはいずれは必ず向き合ってくれると私は最後の信頼を置いています。これは私の願望でもあります。逃げずに会合に来たのですから、逃げずに親鸞会の問題性に向き合うことも出来るはずです。

この記事を書くにあたっては随分悩みましたが、これが自分の正直な思いです。この記事自体が無断の記事化ではないかとも言われるかもしれません。そうかもしれません。そのことも迷い続けたうえで書きました。それについての批判は受け止めます。

追記

今回のブログの内容、「やや日刊カルト新聞」の事、私がとった行動、様々な立場からの意見を頂きました。
私の道義的な問題については反省しています。ただ、この親鸞会の問題についての関わりは、たとえ当選して国会議員になったあとでも必ず出てくる問題だと思います。周囲の方に対して、私は関係ない、違法行為ではない(私はそうは思いませんが)と言った所で、どこかで噴出してくることだと私は思います。そして野党共闘と皆さんが団結している今これを放置することは、どこかでその結果に重大な影響をもたらすと思われます。
候補者のしばた未来さんにおいては、こういう会合を持ったことは評価できると思いましたが(そして辛いことでもあったと思いましたが)、できれば公の場でこの事を有権者に問うていただければと思っています。本人は内心の問題だと繰り返し言っていましたが、少なくともつい最近まで、オウムや統一教会と同様の勧誘方法をとっていた団体の勧誘に深く関わっていたわけですから、内心だけの問題で終わるはずはないと思うのです。

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