伝統仏教教団はなんのために存在するのか
とある宗教紙から寄稿依頼を受けて書いたのですが、内容が過激ということで掲載されなかった原稿です。ここで何度も扱った「観勢寺問題」を中心に書いています。「観勢寺問題」について知りたい方は、第一報、文化時報の報道、月刊住職の報道、そして、先日中外日報にも載りましたのでご参照ください。
ここに載せる文章は観勢寺問題が明らかになってからかなり早い時期に書いたものですから、今は状況が変わっていることもありますし、何より多少頭に血が上っていたので、今思うとここまで書かなくても良かったのでは無いかと思う部分もあります。しかし当時の正直な思いですから、そのまま載せることにしました。
実際には周囲の住職さんの中には、この問題を深刻に受け止めて誠意を持って動いた方もありますし、本願寺派という教団も無策ではありませんでした。しかし最終的には寺の譲渡を決めた観勢寺の住職さん自身が持つ本願寺派への不信感が、親鸞会の支援を選んだのだと私は思わずにはおれませんでした。
その背景に何があったのか。観勢寺の住職さんに直接に話を聞く事が出来ない以上本当のことは分かりません。私も真宗大谷派という教団に不信を抱くことはありますが、やはり最後の最後は信頼できるサンガだと思っています。他の多くの住職さんもそうでしょう。
私はこの問題をずっと見つめてきました。しかし所詮は第三者でした。何が出来たのか。どうすれば良かったのか。まだ答えは出ません。
一つだけ深く懸念しているのは、お寺という存在が、沢山の人が集うとか、地域の役に立つとか、そういう方向性でばかり評価されているように感ずるということです。今も私のいる宗派では様々な寺院活性化のための施策がなされていますが、朽ち果ててゆく寺の面倒を最後まで見て支えるような内容は見当たりませんし、そもそもお寺にある程度の「余裕」が無ければ参加も出来ないような物ばかりになっています。それが続く以上、「見捨てられた」と失望して宗派を去る困窮寺院はこれからも出てくるでしょう。
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伝統仏教教団はなんのために存在するのか ―寺院の困窮に食い込む新宗教の教勢―
■攻勢を強める新宗教
今年三月、浄土真宗本願寺派の末寺が、浄土真宗系の新宗教団体である浄土真宗親鸞会に支援を求めて宗派を離脱するという情報が入った。地域住民は反対の姿勢を取り、今も関係者によって協議が続いている。
浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)は若年層への正体を隠した勧誘や、傘下のビデオ販売会社によるアニメビデオの訪問販売などで知られている教団で、二〇一〇年には一部の信者に対して「脱会するなら一千万円払え」といった内容の契約書を書かせていたと報道されている。(週刊ダイヤモンド十一月十三日号)どうしてそんなところに支援を求めたのか。
私はその背景を尋ねるべく現地に赴いたが、そこには深刻な寺院の貧困問題があった。もともと寺院収入では生計が成り立たないその寺では、先代の住職は会社員としての収入で寺院を支え、退職金を本堂の修復に費やしたりもした。しかし現住職に継職後は体調の悪化などにより維持することが困難となり、所属教団や地域住民に相談したが引き受け手もおらず、廃寺にするしかない。ならば活用してくれるであろう親鸞会に譲渡を持ちかけたということだ。親鸞会への譲渡という話が明らかになった後、周辺寺院の住職はその末寺住職に連絡をとったが、困ったときに助けてくれなかったのにいまさら何を、という反応だったという。
最終的にどうなるかはまだ予断を許さないが、親鸞会への譲渡が実現すれば、彼らは伝統教団の寺院が傘下に入ったことを自らの正統性の根拠とし、布教と宣伝にフル活用するだろう。そして今後もこの流れは加速する可能性すらある。事実、親鸞会が食い込んでいる伝統教団の寺院は他にもあるのだ。
今から二年前にはこんな事件もあった、ある真宗大谷派の寺院の集まりの研修会で、親鸞会の布教使が講師として選ばれていたのだ。当地は昔から仏法の盛んなところであったが、近年過疎の波が押し寄せ、多くの寺院は兼業か年金受給者である高齢の住職が支えている。
そんな中に親鸞会の布教使が進出し各地で法話会を開き住民の気持ちを惹きつけていった。彼らは傘下のビデオ販売会社をフロントにして活動しており、親鸞会の勧誘活動だとは充分に伝えていなかった。住民は信徒として所属する寺院住職に、その布教使を研修会の講師に呼んで欲しいと要望し、住職はそれを受け入れた。親鸞会の布教使とは知らず。
しかし開催前にその情報が入り、私は要請を受け急ぎ現地に向かい住民に事実を説明した。住民は納得し講師の変更を受け入れたが、一方で私に言うのだ「なら私たちはどこから仏法を聞けばいいんだ」と。
■伝道の機会を作れない伝統教団
折しもアマゾンを経由して法要への僧侶派遣を依頼できる「お坊さん便」が話題になっているが、私も五年前に真宗大谷派の末寺に入寺した当時、とあるネット経由の僧侶派遣サービスの依頼を受けて各地に赴いていた。「お寺との付き合いが不要」という売り文句や、定額のお布施の中からキックバックを支払うといった仕組みには疑問を持ったし、普段お寺との付き合いのない人が仕方なしに僧侶を呼ぶサービスとの印象もあったのだが、それはいい意味で裏切られた。付き合い不要どころか多くの方が継続して法要を申し込まれ、法話をすれば耳を傾けられ、中には近くの別院の法座や、私の滋賀の自坊まで来られる方も現れた。
そんな折、同じ僧侶仲間からその僧侶派遣サービスの紹介を請われた。彼は住職として地方の末寺を預かる一方、平日はサラリーマンとして一般企業で働いて生計を立てていた。仏法を弘めたいと思いつつもその活動は休日の短い時間に限られていた中、派遣僧侶として働ければ寺院活動をもっと頑張れるのではないかという思いを語っていた。
結局彼は様々な事情から断念したのだが、代々のお寺を維持したいと思っても叶わない人もいるように、僧侶の中には熱心に仏法を求め弘めたいという思いを持っていても、経済的な事情からそれが叶わない人がいる。そしてそういう人に伝道の機会を与える仕組みを用意することを伝統教団は充分にしてこなかった。今や事実上その役割を担う民間企業に、僧侶が多額のキックバックを払っているのはなんという皮肉だろう。
■お寺は元気でなくてもいい
仏法を聞きたい人がいる、そして伝えたい人がいる。そこに伝わる場所としての寺院がある。僧侶がテレビに出たり写真集を出したりして注目され、寺院が主催するイベントや社会活動が耳目を集め、一方では地方の衰退とともに寺院疲弊と消滅が語られる中、このごく根本的な寺院の役割を論じることが抜け落ちているように私は思う。
「お寺を元気に」というセミナーも盛んだが、急激にすすむ過疎化と高齢化の波の中で元気になれないお寺もある。以前とある研修会で「お寺は元気でなくてもいい、仏法が伝わって救われる人が一人いたらそれで寺院の役割は充分です」と話したところ、終了後参加していた一人の僧侶からこう言われた。「元気なお寺にならなければとずっとプレッシャーを感じて苦しんでいた」「私一人が救われる場所がこのお寺だった」と。
寺院の持つ根底の役割が語られない中、経営や社会的な役割といった尺度ばかりが寺院活性化の根拠として論じられているように感じられる。経済的に成り立たない寺院は価値が無く、そこではもはや法は伝わらないと思われているのだろうか。
■放置される格差と教団の未来
私の所属する教団は同朋教団ということになってはいるが、その内実は一人では使い切れないほどのお金を得る僧侶と、困窮の中で無理を重ねて必死に寺院を支える僧侶が混在する教団である。そしてこの格差はなぜか不思議なほど問題視されない。経済的に恵まれた寺院が、困窮する寺院を支援するという試みすら聞かないのは不思議としか言いようがない。
いまは本山建物の修復や教団施設の建設ラッシュで、最近も阿弥陀堂の修復が完了し絢爛たる威容が姿を表した。他にも百数十億の予算を組んで振興計画を推進する伝統教団もある。
この現実を見て思い出すのが、手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」という漫画の中の一シーンだ。大仏建立の資金集めのために諸国を回る僧、良弁の前に、年貢米を運ぶ村人が飢えて倒れるシーンがある。随行する主人公の我王は「お経をあげなくていいのですか」と問うが、良弁はお経を読んだって一文にもならんと拒否する。
「そんな…ばかな。じゃあ、坊さまや寺はなんのためにあるのです?」
「残念ながらちがうな。国分寺が全国に立ち、立派な大仏が作られる…みんな政治のためだ。お上が庶民に重い税を払わせだまって従わせるために、仏教を広めてごまかしとるんじゃよ。どうだがっかりしたか?」(手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』)
仏法を伝えなければ寺院は消滅すると言う人はそれなりにいるが、たとえ寺院が消滅しても仏法を伝えたいという声はあまり聞かない。教団が中央に巨額の資金を集める一方で、困窮する寺院をいとも簡単に見放すのならば、私たちは未来に一体何を残せるのだろうか。
最初に書いた末寺の、親鸞会への譲渡における住民説明会が開かれた際、説明に訪れた親鸞会の幹部は、本願寺派から「見捨てられた」その末寺を自分たちの「正しい教え」の布教の拠点として使うと断言し、「東西本願寺が正しい教えを説いていれば、私達のところにこんなにたくさんの人が仏法を聞きに来るはずがない」と鼻息荒く豪語した。
親鸞会が「正しい教え」とやらを説いているならなぜ正体を隠して勧誘するのか。そのあまりの夜郎自大ぶりに参加していた住民は苦笑したが、私たちはそれを笑えるような立場にはない。むしろ、この出来事で提起された課題に真剣に向き合わなければ未来はない。
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コメント
新会員のみなさんへ。
検索キーワード 【大沼法竜 盗作】
投稿: | 2016年5月26日 (木) 20時15分
明日、明後日、関東・金沢・富山・新潟の映画館で
親鸞会アニメの映画上映。
遠く離れた所の会員も新幹線で見に行くよう言われている
何でも交通費支給だと。
交通費出してまで人集め。
しかも映画は今週急に決まった。
映画館側も急に決まって大慌てだろう。
そこまでして人集めしたいか。
投稿: | 2016年5月27日 (金) 11時32分
ズートピア、スノーホワイトやってる最中での映画館での上映・・・
さしずめ、見に逝かされる怪員たちはサクラ役といったところか?
コナン見るついでに、面白そうだから見てみようかっていう人なんていねえよ
身の程を知れ!! というのが正直な感想ですわ
投稿: | 2016年5月27日 (金) 13時14分
週末はテレビ座談会の予定でした。
それが中止になって、映画館に行って“聴聞”しなさいっていう号令がかかったようですね。
たしか…21日が封切りでしたね。
採算とれるのかな?
投稿: | 2016年5月27日 (金) 17時37分
本山が末寺を見捨てるというのは理解できません。本山が本山としての機能を有していないというのか、ちゃんと本山の役割を果たしていないというのか。
キリスト教の場合は、本山のあるカトリックを例にとると、教会は独立採算ではなく、教区ごとに集めて、それを個々の教会や聖職者に分配するシステムです。たとえば日本最大のキリスト教会である聖イグナチオは、信者数が一万五千人近いと聞いています。もちろんここは東京教区にとってはドル箱です。一方で、同じ東京教区でも千葉県の田舎のほうの教会はかなり小さく、ミサに十人くらいしか来ないなんてところもあります。
つまり大きいところから小さいところへと、結果的に支援がなされるシステムが自然と構築されているわけです。
仏教はなぜカトリックのようにやれないのか?---まずここから考えてみるべきなのかもしれませんね。
投稿: | 2016年5月27日 (金) 20時50分
北陸の弱小カルト教団が
またなんかやってる
投稿: | 2016年5月27日 (金) 23時14分
聖道門で助かろうと思ってやってはみたものの、とても無理だ、と断念した人が多いから、
新たに、すべての人が助かる道である弥陀の本願を、断念した人も含めたすべての人のために説かれた。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)
投稿: | 2016年5月28日 (土) 00時29分
http://entertainment.rakuten.co.jp/movie/ranking/satisfy_playing/
投稿: | 2016年5月28日 (土) 00時33分
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の教えを広めた蓮如上人と、その弟子たちとの物語を描くアニメーション映画『なぜ生きる』が公開される。原作はベストセラー書籍「なぜ生きる」で、蓮如上人の声をあてたのは『長七郎江戸日記』『水戸黄門』など多くの代表作を持つベテラン、里見浩太朗だ。
キャリア60年を迎えた里見だが、意外なことにアニメ声優はこれが初。本作への思いはもちろん、里見とは切っても切れない時代劇の魅力、『リーガル・ハイ』で人気を博した“服部さん”についても直撃。「常にデビューですよ」とほほ笑む姿からは、あくなき探究心が伝わってきた。
里見浩太朗
──アニメ映画の声優は初だと伺いました。意外です。これまでにもオファーはあったと思うのですが。
里見:オファーはこれまでありませんでしたね。初めてだからこそ、やってみたいと思いました。アフレコという作業はこれまでに、自分自身の映像に合わせて、雑音などでセリフが聞き取れない箇所などに声を入れなおす作業はしてきています。ただそれは1度自分がやった芝居に合わせているわけです。アニメの場合は、自分ではない。自分がアニメの感情に合わせる。その辺の難しさはありましたね。でも楽しかったですよ、ええ。
──僧侶の役も初めてだったと。蓮如上人はどのような人物だと感じましたか?
里見:ええ、初めてでした。蓮如上人についてはね、何も考えることはないです。ちゃんと台本に蓮如上人という人の優しさ、大きさが書かれていますから。私がやるのは、それを声でいかに最大限に表現できるか。難しいですけれどね。人間が生きていくうえで何が大事なのか、何を感じて行動すればいいのか、その辺の魅力が蓮如上人の言葉に出ています。『なぜ生きる』の魅力はそこにあると思いますね。
http://www.moviecollection.jp/interview_new/detail.html?id=576
投稿: | 2016年5月28日 (土) 00時35分
里見浩太朗はアニメの製作元がどんな団体か知らなかったようだな。
投稿: | 2016年5月28日 (土) 02時36分
もう何年間も音沙汰なかった親鸞会の職員からメールがきました。会って話しがしたいとさ。私が在籍中に彼がやった事は親鸞会に報謝の催促と新聞を配るだけ。きっと不倫M講師あたりからアニメーションの映画版にたいする報謝でもしろと言われてのことだろうなぁ。まだ、カルト親鸞会にいるとは彼も脱け出せなかったのだろう。これからもまだ他人のお金を巻き上げようとするのか。浄土真宗の名を借りた現代版オレオレ詐欺の手下なのだろう。
投稿: | 2016年5月28日 (土) 16時27分
新会員のみなさんへ。
検索キーワード 【不倫のM晴】
投稿: | 2016年5月28日 (土) 17時10分
親鸞会の団体の気質には、長短それぞれ功罪があり、講師方もそれぞれ内心価値観の相違はあるであろう。
しかし、それは本願寺教団とて同じく当てはまる内容であり、いずれにせよ組織に完全を求めるのは道理上、不可能でしょう。
この世はそらごと、たわごと、まこと無しです。
まことは、弥陀の本願のほか、何もございません。
そのうえで、親鸞会教団、本願寺教団、はよりよい教団改革に怠ることなく、一ツ一ツ改善してゆくしかないでしょう。
「世の中安穏なれ 仏法弘まれ」(親鸞聖人)
投稿: | 2016年5月28日 (土) 19時31分
親鸞会は陰険なハゲタカ葬式仏教です。
生前、精一杯のお布施で貧しくなった会員の、死後も骨までしゃぶります。
顕真会館の納骨壇の値段を尋ねてみましょう。
精一杯お布施して亡くなった会員への仕打ちとしては驚くべき値段です。
投稿: | 2016年5月28日 (土) 20時13分
>しかし、それは本願寺教団とて同じく当てはまる内容であり、いずれにせよ組織に完全を求めるのは道理上、不可能でしょう。
この世はそらごと、たわごと、まこと無しです。
撃沈すべきと言っていた既成教団の名前を借りてまで何とか言い訳しようとする魂胆見上げたものです。
親鸞会は、そらごと、たわごと、まこと無しです。既成教団に御指導を仰ぐのがよいでしょう。
投稿: | 2016年5月28日 (土) 22時03分
おはようございます
エムハルです
投稿: | 2016年5月29日 (日) 09時55分
>>撃沈すべきと言っていた既成教団の名前を借りてまで
なぜ自分が所属している教団から、名前を借りないといけないのでしょうか。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 12時59分
>>撃沈すべきと言っていた既成教団の名前を借りてまで何とか言い訳しようとする魂胆見上げたものです。
あなたは、親鸞会のことしか知らないのです。
親鸞会から聞く(著書を通したり、会場で聞法したり)する伝統教団関係者はたくさんいるのです。私もその一人であり、コメントさせていただいているだけです。
無茶苦茶な思い込み、偏見は理解に苦しみます。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 13時15分
>>撃沈すべきと言っていた既成教団の名前を借りてまで何とか言い訳しようとする魂胆見上げたものです。
そのとおり。親鸞会は救われるために「善をせよ」と教え、本願寺はじめ既成教団は救われるために「善をする必要はない」と決定的な違いがあるなかで、両方の教えを聞くのは、未だどちらの教えが正しいとする確信が持てておられない、ということでしょう。よく聞いて頂きたいです。
>あなたは、親鸞会のことしか知らないのです。
既成教団と親鸞会の教えを聞いて比較して、結論は出しました。是非貴方も二つの違う教えをよく聞いてどちらを取るのか、ご判断下さい。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 17時42分
>親鸞会は救われるために「善をせよ」と教え、本願寺はじめ既成教団は救われるために「善をする必要はない」と決定的な違いがある
そして親鸞聖人は救われるために「善をする必要はない」と仰っておられることも知った上でどちらを取るのか、ご判断ください。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 18時37分
>無茶苦茶な思い込み、偏見は理解に苦しみます。
あなたは本願寺と親鸞会のどちらを取りますか。本願寺の関係者と言った以上、ハッキリさせて下さい。ハッキリさせないのなら、あなたのコメントには何らかの嘘があると受け取らせて頂きます。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 19時45分
>>親鸞聖人は救われるために「善をする必要はない」<<って根拠は?
善は一つも間に合わず、曽無一善で助かる縁手掛かりが一つもないと言った事なら間違いありません。しかし、親鸞聖人は後生暗い心を何とかしようと天台の修行を命がけで20年され、法然上人の聴聞を真剣になされ、本願を聞く事が出来ないと最後の最期まで自力一杯に求道しました。自力を捨てよ、捨てようとする心を捨てよと言われてもまだ分からぬほど自力が深いと知らされ苦悩しました。聖人が大変ご苦労された事を善も知らない凡夫にどう信じろと仰るのですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時00分
>>親鸞聖人は救われるために「善をする必要はない」<<って根拠は?
あなたは先ほどのコメントの本願寺の関係者ですか。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時11分
往生に善は必要ないという見解ならば、本願寺も親鸞会も全く同じです。信心一つが肝要という事も同じです。どうすれば信心を受け賜る事が出来るのか?
自力を捨てて他力の信心を賜るという事も同じです。善の勧めで対立していると言いますが、本願寺も善を全然する必要はないなどとは言ってません。往生には必要ないという事を強調しただけです。信心を獲る為には宿善が必要という事も同じ見解です。宿善開発して後生に驚きが立つまで聴聞せよ。後生に驚きが立てば後は阿弥陀様にまかすのみです。
本願寺も親鸞会も対立などせずに同じ教えです。親鸞聖人の教えだからです。
法論によりお互いに真実が顕かになっていくのです。法論は必要です。
でも、勝った負けたと喧嘩の様に勘違いして持論を押し通す輩とは法論にはならないので、飛雲氏は申し込んでも除外されてしまいました。当然の事です。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時16分
根拠はね
極重の悪は他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得(行巻)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
(高僧和讃)
浄土に往生するには、極重の悪人は善はなしで、ただ念仏を称えるだけ。
>自力が深いと知らされ苦悩しました
親鸞聖人が苦悩されたのは、自力の念仏であって、自力の善ではないですよ。
勘違いも甚だしいです。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時23分
蓮如上人は御文章で、宿善、宿善、宿善と何度も大事だぞ言っているのに、飛雲氏かヒウンマンだかは、変な根拠を変に曲解して宿善は厚くならないし獲信もにも関係ないなどと大嘘をつくから迷宮入りしてしまうのです。御文章を素直に読んで下さい。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時27分
>本願寺も善を全然する必要はないなどとは言ってません。
本願寺で宿善を求めよ、と言っている人の名前を挙げて下さい。でなければ、あなたの発言は嘘です。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時30分
御文章を素直に読んでください。
宿善と無宿善という表現しかないです。宿善の厚い薄いという表現は全くないです。
これがどういうことか素直に読めば分かるでしょう。
宿善の人は、親鸞聖人の教えを聞く気のある人
無宿善の人は、親鸞聖人の教えを聞く気のない人
念のため再度。
宿善と無宿善という表現しかないです。宿善の厚い薄いという表現は全くないです。
一応言っておきますが、御一代記聞書の宿善は宿善開発=信心決定の意味ですからね。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時32分
今あげた根拠は宿善開発して後生に驚きのたった人には間違いなくその根拠のとおりで、他の方便などある筈がありません。弥陀を称する以外には一つもありません。宿善開発した人にとってはその根拠のとおりで間違いありません。
では、宿善開発するにはどうすればよいのですか?
どうすれば宿善開発して後生に驚きがたつのですか?
それが善についての答えです。蓮如上人は何ていってますか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時34分
本願寺では蓮如上人が宿善を求めなさいと毎日いっています。
まことに宿善まかせとはいいながらと遺言にまで言ってます。
御文章を読んだ事ないのですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時37分
>>あなたは先ほどのコメントの本願寺の関係者ですか。
違います。
紛らわしいため、ハンドルネームを付けておきます。
善については、今はコメントを差し控えたいと思います。
投稿: 仏法弘まれ 第○組 | 2016年5月29日 (日) 20時39分
宿善開発して後生に驚きがたてば、後は阿弥陀仏の方より信心を授けて頂けますから、宿善開発と信心決定は同じ事だと言っています。
宿善開発するには何が必要なのですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時40分
>後生に驚きがたつのですか?
後生に驚きがたつ必要があると仰った根拠は?
それが善についての答えです。
蓮如上人はこう仰っています。
それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、
また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほ
かには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜ
ず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当を
つぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内
心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころ
をばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土
に往生すべし。
信心の有無に関らず、法律を本とし他宗を謗らず、仁義という倫理道徳の善に心がけなさい。
後生のため、往生のためには、阿弥陀仏1仏になって、善に心をとどめず、そのことを疑いなく信じたならば、必ず往生できますよ。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時41分
>本願寺では蓮如上人が宿善を求めなさいと毎日いっています。
宿善を求めよ、と言っているのは本願寺の誰か名前を挙げて下さい。あなたは本願寺の人ですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時43分
>本願寺では蓮如上人が宿善を求めなさいと毎日いっています。
言っていません。
宿善が大事だと言っているのと、宿善を求めよとは意味が違いますよ。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時43分
蓮如上人は本願寺の中興の祖と言われた方なので、今の本願寺の末裔も間違いなく蓮如上人と全く同じ事を言っています。親鸞会も映画まで作って蓮如上人と同じ事を言っています。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時45分
>今あげた根拠は宿善開発して後生に驚きのたった人には間違いなくその根拠のとおりで、他の方便などある筈がありません。
全く違いますよ。
その根拠は?
ないですね。
残念でした。
極重の悪人は、最初から最後まで善は勧められてもいないということです。
こちらはいくらでも根拠を出しますので、
>今あげた根拠は宿善開発して後生に驚きのたった人には間違いなくその根拠のとおりで、他の方便などある筈がありません。
の根拠を出しましょう。ないですけど。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時46分
>紛らわしいため、ハンドルネームを付けておきます。
善については、今はコメントを差し控えたいと思います。
2016/05/29
仏法弘まれ 第○組
親鸞会の教えは三願転入、善のススメと聞いています。善についてコメントできないなら、二度と登場の機会はないですね。
ちなみにどこの教区 何組ですか。それが言えないなら、仏法弘まれとか、仏法という言葉を利用しないで下さい。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時51分
前半は時代背景が関係してますが、現代でも同じく、一生懸命に社会の為に働きなさいという事ですね。
「一念も疑心なく信じまゐらせば、」とは疑情の心が露塵なく晴れて信心決定出来たならば必ず真実報土に往生できるという意味です。
信心決定と宿善開発は同じ意味を持つといいました。
宿善開発するには何が必要なのですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時56分
>宿善開発するには何が必要なのですか?
書きましたが。
もう一度、
後生のため、往生のためには、阿弥陀仏1仏になって、善に心をとどめず、これを疑いなく信じることだけ。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 20時58分
言葉をかえると
「他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」
と信じること。
善を捨てて念仏1つで救われると疑いなく信じることだけ。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時01分
それで
>今あげた根拠は宿善開発して後生に驚きのたった人には間違いなくその根拠のとおりで、他の方便などある筈がありません。
の根拠は?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時06分
阿弥陀仏一仏を二心なく一心に疑い無く信じる真実信心は仏の方より賜るもので、自分で信じているのは自力の信心です。
他力の信心を獲る事が信心決定であり、宿善開発して得る事が出来る信心です。自分で一生懸命に信じてもダメです。
宿善開発するには何が必要なのですか?どうすればよいのですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時11分
>宿善開発するには何が必要なのですか?どうすればよいのですか?
あなたは親鸞会の教えを聴いている会員さんですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時16分
聖道門---自力で悟りを拓こうと修行している人
19願の人----阿弥陀仏の本願に救われようとして善をやっている人
20願の人----自力一杯に他力で救われようと思っている人
18願の人----宿善開発して他力の信心を頂いた人
諸善を実践する事も、念仏往生願う事も、仏正意の18願に誘導する為に仕組まれた阿弥陀仏の仕組みであり、親鸞聖人は三願転入と言われました。真実を獲れば、方便の善や念仏の勧めは不要のものとなり捨て者になりますが、まだ真実の信心を獲てない人には、方便の善や念仏が絶対に必要なのです。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時18分
>>まだ真実の信心を獲てない人には、方便の善や念仏が絶対に必要なのです。
本願寺の誰がそう言っていますか。名前を挙げて下さい。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時21分
あなたの主張には根拠がないことがハッキリしました。
ではあなたにもわかる根拠を出しましょう。
法然上人のお言葉
「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。
其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。
しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。
しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。
かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」(勅修御伝)
善知識方から伝えられたことを無視して浄土の教えは理解できないし往生もできない。
その理由は、浄土往生は上は龍樹・天親菩薩から、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まで勧められているからだ。
ところが自分は最下の凡夫なのに、善人に勧められた御文をみて、卑下の心をおこして往生は難しいと思って、往生できない。
だから、善人に勧められた所を善人のためのもの、悪人に勧められた所を自分のためのものとしていきなさい。
そのように理解していけば、信心決定し、往生できる。
もう一度
「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて」
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時21分
だから、本願寺も親鸞会も一つも間違った事は言ってません。飛雲氏一人が間違った事を執念深く言っているだけです。
飛雲氏はそんな事言ってないかもしれませんが、ヒウンマンが一人だけ間違った事を言っています。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時22分
私の質問に対する答えが
>聖道門---自力で悟りを拓こうと修行している人
>19願の人----阿弥陀仏の本願に救われようとして善をやっている人
>20願の人----自力一杯に他力で救われようと思っている人
>18願の人----宿善開発して他力の信心を頂いた人
ですか。
私が言った通り、根拠は出せませんでした。単なる妄想だとハッキリしましたね。
こんな妄想が真宗で通用しますか?
添削するとこうなります。
聖道門---自力で悟りを拓こうと修行している人
19願の人----浄土に往生しようとして善をやっている人
20願の人----浄土に往生しようとして自力の念仏を称えている人
18願の人----浄土に往生しようとして他力の念仏を称えている人
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時26分
ここでいう善人も悪人も全部我が身自身の事を言っているのです。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時29分
>だから、本願寺も親鸞会も一つも間違った事は言ってません。
本願寺なぜ答えぬ、という本を親鸞会が出しました。宿善を求める必要があるか、どうか、が書かれています。どちらがホント、ですか。どちらが間違いですか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時32分
>ここでいう善人も悪人も全部我が身自身の事を言っているのです。
という根拠もないですね。妄想です。
「其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。」
と
「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。」
は対応しています。
善人とは龍樹・天親菩薩のような方
悪人とは末世の凡夫十悪五逆の罪人
我が身が善人だと思うから
「善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。」
と救われない訳ですよ。
親鸞会の会員が救われない理由がわかりましたよね。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時35分
19・20・18の本願は阿弥陀仏がすべての人が往生する為にたてた本願ですよ。何で主体の阿弥陀仏が消えて自力の修行者になってしまうの。おかしいよ。三願は全部一つのためだけに関連しているの。真実報土に往生させるために。離せるものではありません。だからおかしくなっちゃうの。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時36分
>飛雲氏はそんな事言ってないかもしれませんが、ヒウンマンが一人だけ間違った事を言っています。
そんなこと言いながら、親鸞会が逃げ回っているのは周知の事実です。会員でさえ、知っていますよ。一回でも飛雲さんと勝負したらいかがですか。昔と違って、今の親鸞会はどう逃げるかしか考えていない。逃げていないのなら、堂々と勝負して下さい。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時37分
>>ちなみにどこの教区 何組ですか。
なぜ公表しなければならないのですか。
また、あなたも関係者なら自ら名乗り出たらよろいのでは。各自の自由だと思います。私は公表は致しません。
>>それが言えないなら、仏法弘まれとか、仏法という言葉を利用しないで下さい。
これは耳を疑う発言です。
教区と組が言えなかったら、親鸞聖人のご和讃を出したらダメなのですか?また、「仏法」という言葉自体を使うなと?
宗義以前に、あなたの伝道姿勢に問題はないでしょうか?
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時39分
>>ちなみにどこの教区 何組ですか。
なぜ公表しなければならないのですか。
また、あなたも関係者なら自ら名乗り出たらよろいのでは。各自の自由だと思います。私は公表は致しません。
>>それが言えないなら、仏法弘まれとか、仏法という言葉を利用しないで下さい。
これは耳を疑う発言です。
教区と組が言えなかったら、親鸞聖人のご和讃を出したらダメなのですか?また、「仏法」という言葉自体を使うなと?
宗義以前に、あなたの伝道姿勢に問題はないでしょうか?
投稿: 仏法弘まれ 第○組 | 2016年5月29日 (日) 21時40分
>19・20・18の本願は阿弥陀仏がすべての人が往生する為にたてた本願ですよ。何で主体の阿弥陀仏が消えて自力の修行者になってしまうの。おかしいよ。三願は全部一つのためだけに関連しているの。真実報土に往生させるために。離せるものではありません。だからおかしくなっちゃうの。
また根拠のない妄想ですね。
19願文、20願文を読んでみなさい。
19願は完全に独立していて関連していません。20願は果遂の願ですから18願との関係があると親鸞聖人も仰っています。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時44分
>>ちなみにどこの教区 何組ですか。
なぜ公表しなければならないのですか。
あなたが自ら進んで途中まで公表しているんでしょ。それなら中途半端に言わないで下さい。誰が最初に身分を聞きましたか。言われてもないのに自分から身分を少しでも明かすなら、キチンと明かすべきで、明かさないなら、最初から出さないで下さい。キチンと出せないなら嘘と判断します。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 21時52分
>>極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
(高僧和讃)
>>浄土に往生するには、極重の悪人は善はなしで、ただ念仏を称えるだけ。
これは違います。
親鸞聖人は、源信和尚の「往生要集」のうち「救いの立場」からの説示のみに注目されています。
「極重悪人唯称仏」とは、悪人が弥陀に救われる様をいった部分であり、衆生が阿弥陀如来の本願に救われた姿を述べています。
すなわち、親鸞聖人は他力廻向の視点でのみ「往生要集」を見られたのであり、自力の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。
投稿: 仏法弘まれ 第○組 | 2016年5月29日 (日) 22時09分
>すなわち、親鸞聖人は他力廻向の視点でのみ「往生要集」を見られたのであり、自力の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。
そうですよ。
信心の伴った念仏で往生すると言う意味ですが。
誰も信心のない自力の念仏だとは言っていませんが。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時12分
>自力の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。
自力の善の要素も、全く認められません。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時15分
>>キチンと明かすべきで、
意味がわかりません。何なのですかあなた。
あなたも明かしたらよかろう。
私には私の立場があります。
ですから、伝統教団のことを何も知られないと言うのはこういうことを簡単に口にされることでもよくわかります。
あなたもハンドルネームを出したらいかがですか。非常に不快です。
投稿: 仏法弘まれ 第○組 | 2016年5月29日 (日) 22時26分
>>往生に善は必要ないという見解ならば、本願寺も親鸞会も全く同じです。信心一つが肝要という事も同じです。どうすれば信心を受け賜る事が出来るのか?
自力を捨てて他力の信心を賜るという事も同じです。善の勧めで対立していると言いますが、本願寺も善を全然する必要はないなどとは言ってません。往生には必要ないという事を強調しただけです。信心を獲る為には宿善が必要という事も同じ見解です。宿善開発して後生に驚きが立つまで聴聞せよ。後生に驚きが立てば後は阿弥陀様にまかすのみです。
本願寺も親鸞会も対立などせずに同じ教えです。親鸞聖人の教えだからです。
法論によりお互いに真実が顕かになっていくのです。法論は必要です。
でも、勝った負けたと喧嘩の様に勘違いして持論を押し通す輩とは法論にはならないので、飛雲氏は申し込んでも除外されてしまいました。当然の事です。
善については、こちらの方と同じ見解です。
こちらで高圧的な方が飛雲氏でしょうか。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時39分
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時39分 仏法弘まれ 第○組
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時42分
Q.どうすれば往生できますか?
A.念仏を称えて往生する。
根拠
極重の悪は他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得(行巻)
ただ名を称するのみありて、みな往くことを得(行巻)
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、
みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
(唯信鈔文意)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時42分
親鸞会S号ビラ
親鸞聖人のみ教えに善のすすめは?
本願寺 ない
親鸞会 ある
これは嘘だったのか?
親鸞会は嘘をチラシに書いてまき散らしたということね。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時45分
Q.真実の信心とはなんですか?
A.善では助からない、念仏1つで助かると信じた心
根拠
二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく
と。(行巻・信巻)
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(御消息)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 22時52分
Q.18願のことを親鸞聖人はどのように説明されていますか?
A.念仏と信心と一体で説明されています。
根拠
念仏往生の願、至心信楽の願(信巻)
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる(御消息)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時00分
Q.親鸞聖人は法然上人からどのような話を聞かれて信心決定なされましたか?
A.「善人に善を勧められ、我らには念仏を勧められている、そのことを理解し信じたならば信心決定し、往生できる」という話です。
根拠
善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。(勅修御伝)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時05分
Q.親鸞聖人は法然上人から定散二善について実践するように勧められたのですか?
A.法然上人は定散二善は念仏の引き立て役として説かれたのだから捨てよと教えられました。実践は不要ということです。
根拠
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。
(選択集)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時12分
>>Q.どうすれば往生できますか?
A.念仏を称えて往生する。
根拠
極重の悪は他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得(行巻)
ただ名を称するのみありて、みな往くことを得(行巻)
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、
みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
(唯信鈔文意)
ここで、称名といわれるのは本願に救われた、信後の称名念仏であり、信後の報謝の称名念仏のことを言われているのです。
具体的な往生決定の身になるための方便を示しているご文ではありません。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時18分
>ここで、称名といわれるのは本願に救われた、信後の称名念仏であり、信後の報謝の称名念仏のことを言われているのです。
>具体的な往生決定の身になるための方便を示しているご文ではありません
と根拠なし。
念仏往生の願ですよ。
念仏を称えて往生する願ね。
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(御消息)
信じた後に念仏称えるとは書いてないです。
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」なので、信心と念仏と一体。
もう一度、信心とは
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時22分
>具体的な往生決定の身になるための方便を示しているご文
「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて」(法然上人)
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時24分
>自力の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。
この部分はあくまで、源信和尚の「往生要集」を抜粋された親鸞聖人の著作の上では~
という意味です。
聖人の全著作を指してのことではありません。
誤解をされませんように。
投稿: 仏法弘まれ 第○組 | 2016年5月29日 (日) 23時25分
分かっています。その上で
自力の善の要素は、聖人の著作の上からはまったく認められません。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時32分
>>念仏往生の願ですよ。
念仏を称えて往生する願ね。
いいえ、違います。
あくまで、「往生が定まって、御恩報謝の称名念仏をとなえる身となった者は」という意味の称名の意です。
「往生定まる身となるには、称名こそが方便なである」といったような、具体的な方便を示しているのではありません。
間違いやすいところですから、気をつけねばなりません。
投稿: | 2016年5月29日 (日) 23時33分
こんなところでグダグダ論戦してる暇があるなら飛雲氏の法論に応じればいいのに。しかもだ、とっくの昔に飛雲氏が論破した話ばかりだぞ?何回言えば気が済むのか?つくづく学習出来てない。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 00時25分
往生定まる身となるには
「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて」(法然上人)
投稿: | 2016年5月30日 (月) 05時07分
飛雲氏は勝ち負けしか頭になく、人の話は聞く耳なしという人物なので法論にはならないと除外されている人です。論破した話ではないので何回も同じ問題が出てくるのです。
親鸞会はこのブログは完全無視なので、工作員などいませんよ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 05時24分
本願寺の一人が親鸞会を批判して、高森会長がマッチポンプで全面対決だとか言ってかきたてた論争であり、本願寺は全く相手にしてなかったというサイトがありました。そのサイトは親鸞会の売名行為だと批判したいみたいですがね。でも、あれによって宿善という事が重要な問題として浮き彫りにされたのは事実です。本当に対立しているのですかね。東本願寺の時間では親鸞会と全く同じ事を説法していました。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 05時33分
へ~、親鸞会は飛雲を読んで大量に退会している現状を放置しているということね。
飛雲を読むような奴は、無間地獄に堕ちてしまえばいいと。
親鸞会にとって、会員数を減らす最大要因だから、高森会長や多くの講師部員が法論をして全敗したことも記録として残っていますが、オレは負けていない相手にしていないって、相当痛いね。
たとえばミクシィでの法論は、高森会長の大惨敗だったでしょ。
だから、逃亡だけではなく、トピック自体を消去させたんですよね。証拠隠滅をはかったものの、大きな話題になっただけに、いろいろなところに法論の内容が残って、消すことができないのですがね。
それで悔し紛れに『なぜ生きる2』なんて出したけど、アマゾンのレビューでぼろくそに書かれ、反論もできず、『なぜ生きる2』の宣伝もまともにできない状態じゃない。
都知事の良い訳よりもみっともない。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時01分
都知事の良い訳よりもみっともない。
↓
都知事の「言い訳」よりみっともない。
誤字があったので訂正
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時03分
今度は住職が蓮如上人の映画アニメを門徒にすすめ、詳しく仏教が聞きたければお寺に聞きに来てくださいとやれば、お寺も大賑わいになるというわけです。親鸞会会員にならなければ仏教は聞けませんなどと言わないでしょう。寺で聞いて分からないという人は親鸞会にくるかもしれませんが、寺で正しく親鸞聖人の教えを説いていれば、親鸞会が文句いうわけないでしょう。末寺が繁盛すれば本山も繁盛して大成功でしょう。本山が元気になれば親鸞会と手を組んで真宗の大繁盛の時代が世界を救う。文句なしや。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時04分
親鸞会の会員は辞める人よりも入会する人の方が多くて爆発的に増えてるよ。辞めていく人はしっかり聴聞しているから只今休憩中で仏縁があれば自然に戻ってくるので相手にせずにほったらかし状態です。およげタイ焼き君のようなものです。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時10分
飛雲と法論をすると宣言して逃げ回る親鸞会
以下どうなのよ
W 様
御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
法論の申し込み
平成24年3月18日
弘宣局長 W 様
御無沙汰しております、○○です。
昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。
法論の条件は、
1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする
以上の4点です。
かつて親鸞会は公約していた筈です。
「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」
これが口先だけであったとは、言わせません。
私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間
2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている
3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない
5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力
6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ
7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ
8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる
10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。
なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。
目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。
○○○○
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時13分
親鸞会は、やっぱり飛雲さんに負けて逃げ捲くってるじゃないの。
金、金、金の親鸞会には、呆れ果ててますよ。
根拠の全くない訳の解らない主張ばかりで、親鸞会の間違いが今こそ明らかに知られたり。
これでようやく親鸞会を止めて、さよなら親鸞会できますわ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 06時36分
おはようございます
テツハルです
投稿: | 2016年5月30日 (月) 07時04分
親鸞会の間違いが、スッキリ、ハッキリ。
三願転入の教えなどないことが、スッキリ、ハッキリ。
高森先生が善知識でないことが、スッキリ、ハッキリ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 07時04分
退会の決意、おめでとうございます。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 08時05分
退会の後、退会者に聞けばいろいろな情報は入手できます。既成教団などの話を聞いて親鸞会と比較すれば正しい教えがわかります。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 14時02分
〉飛雲氏は勝ち負けしか頭になく、人の話は聞く耳なしという人物なので法論にはならないと除外されている人です。
→法論なんだから白黒ハッキリさせるのが当然。人の話聞かないのは親鸞会のことだよね?分かりやすいブーメランだな(笑)飛雲氏が事前にルール伝えても絶対に守らず、論点ずらしばかりで法論の土台にも立っていないのが親鸞会でしょ。見ていて痛々しいよ
〉論破した話ではないので何回も同じ問題が出てくるのです。
→論破されてるのに誤魔化して逃げてるよね
〉親鸞会はこのブログは完全無視なので、工作員などいませんよ。
→定期的に似たような書き込みで飛雲氏に撃退されてるだろ
投稿: | 2016年5月30日 (月) 14時43分
飛雲さんは、親鸞会と法論を繰り返してきましたよ。
mixiでの三願転入法論も、WさんやKさん、京大出身のMさんや他のMさん、福井のOさんとか、全部敗逃。
今まで親鸞会は飛雲対策にどれだけの労力を使ったかわからないくらいですが、全く効果なしで、法論をすればするだけ親鸞会の前の回数が増えて、退会者も増えるの繰り返しですね。
さすがに学習した高森会長は、飛雲の相手をするなと厳命したそうで。
飛雲さんの相手をしないのではなく、飛雲さんに勝てる見込みが0%なので飛雲さんとは法論できない。
こういうことですね、Wさん。
悔しいのは分かりますが、これが現実なので受け入れないといけませんよ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 15時03分
訂正
× 親鸞会の前の回数が増えて
○ 親鸞会の負けの回数が増えて
投稿: | 2016年5月30日 (月) 15時04分
親鸞会はどんな詭弁を使っても、どんな奇想天外な理屈を考えても、それを容易く覆すだけの根拠がお聖教上にあるのだから、法論なんか挑んでも無駄だってことよね。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 18時43分
〉親鸞会はどんな詭弁を使っても、どんな奇想天外な理屈を考えても、それを容易く覆すだけの根拠がお聖教上にあるのだから、法論なんか挑んでも無駄だってことよね。
その通りですね。
親鸞会のメンバーはみんな、そんな簡単にわかるもんかい、何年聞いても分からんもんを、しかも親鸞会を辞めたばっかりのもんが、何を言うか!と、怒ってるんでしょう。
だけどね、簡単に間違いは分かるんですよ。
映画まで作って、字幕に名前まで載せて、国政選挙に出て、別にやりたいならば止めませんよ。
だけど、後で間違いが分かったらどうします?
本当に立ち直れるんですか?
そこまで時間とお金と命をかけて立ち直れるんですか?
自分の事だけならば、泣く泣く諦める事もありですが、幹部や上層部は心が保てますか?
間違っていた、と知って立ち直れますか?
心を戻すには、個人差入れても簡単では無いのですよ?
あんなに威張り散らした後で、、と自分で思い出して耐えられますか?
ゼロに戻して真正面から御聖教に向かう事が出来ますか?
清水の舞台から飛ぶより怖かった、このように言われた方がありました。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 19時15分
>ゼロに戻して真正面から御聖教に向かう事が出来ますか?
法論で明らかに親鸞会の間違いに気づいた、というより、負けている事実をただそのとおりを受け入れた人は、本当の親鸞聖人の教えを知りたくなります。阿弥陀様はそのことを見逃されません。誰よりも私を見ておられます。絶対に見逃されません。南無阿弥陀仏は常にはたらいて下さっています。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 19時46分
怖いでしょうね。必堕無間の一大事という嘘教義のもと、実に偉そうな態度で、相手の人格無視の反社会的活動をやって来たのだから。鬱病やニートの脱会者をどれだけ輩出させてきたか知れない。その人達の残りの人生を背負えるはずもない。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 19時50分
怖いでしょうね。必堕無間の一大事という嘘教義のもと、
---------------------------------------------------------------
まだ言っているのですか?
だから、飛雲教徒と言われるのですよ。
浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次】
【真宗Ⅰ】(p.15)
「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時36分
>まだ言っているのですか?
親鸞聖人は必堕無間を否定されているのですよ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時41分
「地獄は一定すみかぞかし」(親鸞聖人)
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時45分
「いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。」
「先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。」
「不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。」
「これよりこのかた、わが出世に至るまで、その中間においていまだかつてまた地獄に堕して苦を受けず。」
すべて信巻
必堕無間なんて完全否定されていますよ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時46分
そもそもテキストって根拠にならないでしょ…聖教上の根拠出せないからって、セコい手使うなぁ…生きてて恥ずかしくないのか
http://shingikensho.blog12.fc2.com/?mode=m&no=796
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時48分
こんばんわ
ヒウンマンですだす
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時49分
こんばんわ
エロハルです
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時50分
「地獄は一定すみかぞかし」について
この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。
「われら凡夫かならず地獄におつべし」の後に、
「決定悪道へゆくべかりつる身」
「三悪・四趣の生をひくよりほか」
「六趣・四生よりほかはすみかもなく」
「三途・八難にこそしづむべけれ」
と言い換えられた親鸞聖人のお言葉が紹介されています。
ここから
地獄一定とは、三悪道に決まっている、六道に決まっている
程度の意味にしかなりません。
実際、親鸞聖人の御著書にも六道か悪道としか書かれていません。
残念ですが。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時50分
工作員を喜ばせるようなことを書いてしまいますが…所詮ウ○コになんぼ金粉を塗りたくってもその本質を変えることはできません。今後はなにか教学関係の書き込みを明らかに工作員とおぼしい者が書き込んだ場合は極力スルーし、記事のタイトルにかかわりある書き込みをみんなで心したいものでございます。いかがなものでございましょうか。
投稿: ウ○コになんぼ金粉を塗っても | 2016年5月30日 (月) 20時51分
お聖教上の根拠を出せないことが、親鸞会全戦全敗の最大要因だと知りましょうね。
苦情も出ているようですし、根拠が出せなければ、終了です。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 20時57分
親鸞聖人は地獄一定を否定してはおりません。
親鸞聖人がご自身の、機を(本当の自分を)知らされて味わわれたご金言です。
この、ご金言の真意を顕せば、「必堕無間」となります。
正しく聖人の真意をよみとることができれば、本願寺派の味わいもうなずけるのです。
それができないのは、まさにわれらが「邪見喬慢悪衆生」であるがゆえなのです。
「邪見喬慢悪衆生
信楽受持甚以難」
(親鸞聖人)
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時12分
と根拠のない妄想でした。
結局、お聖教上の根拠は出せませんでしたので、完全終了です。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時15分
大きなタイトルは、さよなら親鸞会 ですよね?
記事は、そこから考えられるテーマで良いですか?
それから旬のもの。
堅苦しくなくても、だいたい こんな感じで良いですか。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時16分
ヒウンマンはお聖教が大好物ですだす。ぜんぶ食べちゃうですだす。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時20分
地獄一定とは、三悪道に決まっている、六道に決まっている
程度の意味にしかなりません。
実際、親鸞聖人の御著書にも六道か悪道としか書かれていません。
残念ですが。
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そうですか。あなたは親鸞聖人の本意を顕した、本願寺の教科書に異論があるようなので、
飛雲氏のもとで、飛雲教徒として研鑽されたらよいと思います。
残念ですが、親鸞会、東西本願寺の親鸞教学からは除籍されるものです。
一派を建てて、ご自由になさってください。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時21分
>大きなタイトルは、さよなら親鸞会 ですよね?
記事は、そこから考えられるテーマで良いですか?
のらりくらりしても工作員とわかります。負けそうになると出てきて意味不明なコメントしますね。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時23分
>そうですか。あなたは親鸞聖人の本意を顕した、本願寺の教科書に異論があるようなので、
飛雲氏のもとで、飛雲教徒として研鑽されたらよいと思います。
残念ですが、親鸞会、東西本願寺の親鸞教学からは除籍されるものです。
一派を建てて、ご自由になさってください。
本願寺の名前を使うな。除籍、除名はエムハルの不倫を追及した講師に執行猶予付きで出した親鸞会の得意技だろうが。ただこのサイトにきていつも親鸞会を代表して負けてくれるので有り難いとは思っています。 有難うございます。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時28分
死に本願寺、干餓死本願寺とまで罵った東西本願寺の1つのテキストに載った一文が親鸞会と同じだったと大喜び。
お聖教と矛盾していても関係なし。
恥も外聞もなし。厚顔無恥の親鸞会。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時33分
>一派を建てて、ご自由になさってください。
間違った教えを説いて本願寺から除籍され一派を建てた親鸞会からのご金言ですね。ご自由に、と言いながら、荒らさずにおれないこの気持ち。会長共々、力とぼしきわれを悲しんで下さい。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時40分
>そうですか。あなたは親鸞聖人の本意を顕した、本願寺の教科書に異論があるようなので、
宿善論争、S号ビラで親鸞会は本願寺の教えに真っ向から対立している。忘れましたか。どうでもいいことですか。自分たちの考えの根拠に挙げるということは親鸞会は本願寺に屈服したということです。親鸞会は本願寺に屈服しました。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時45分
有難うございます。
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どういたしまして。こちらこそ本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時49分
本願寺の名前を使うな。
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本願寺にも属している私が本願寺の名前を使ったらいけないのですか。
私は真宗本廟ではなく、龍谷山本願寺にも属していますから、本願寺の名前を使って何が問題なのでしょうか。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 21時55分
今年も続々と脱会親鸞会
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時02分
>どういたしまして。こちらこそ本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
あなた日本語がわからない人ですね。日本語勉強しましょうね。
誰からも言われてもないのに、どうしても自ら本願寺の名前を出したいのなら、自分の名前を明かせばいいし、名前を明かさないなら、嘘と判断します。不快ですか。それならこのサイトのタイトルをよーく読み直して、荒らさないで下さい。親鸞会のサイトに行って、私は本願寺の者だとコメントして下さい。会長は喜びますよ。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時10分
>どういたしまして。こちらこそ本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
地獄ばかりですね。本当に南無阿弥陀仏を聞いている人ですか。恥ずかしい。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時12分
>飛雲氏のもとで、飛雲教徒として研鑽されたらよいと思います。
法論で負けることはある。大事なことは、それを認めること。その意味においてはまだ真剣さが足りないということでしょう。自分の間違いを認めない人は輪廻流転を繰り返すだけです。法論で言い返せないのは、負けだ、と会長は言っていました。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時18分
>どういたしまして。こちらこそ本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
阿弥陀様の前で同じことを言えますか。「必堕無間」の味わいが伝えるのがあなたの使命ですか。南無阿弥陀仏を伝えることを忘れましたか。一体何をやっているのですか。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時30分
新会員のみなさんへ。
検索キーワード 【大沼法竜 盗作】
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時45分
阿弥陀様の前で同じことを言えますか。「必堕無間」の味わいが伝えるのがあなたの使命ですか。南無阿弥陀仏を伝えることを忘れましたか。一体何をやっているのですか。
--------------------------------------------------------------
言えます。断言できます。
南無阿弥陀仏とは、どういう謂れか伝えることを忘れてはいませんか。
どういうものの為に、本願が建立されたかお忘れになってはいませんか。
「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
(浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次 真宗Ⅰ p.15)
必堕無間の者が南無阿弥陀仏のお目当てです。
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時51分
地獄ばかりですね。本当に南無阿弥陀仏を聞いている人ですか。恥ずかしい。
------------------------------------------------------------
地獄ばかりの人が、極楽ばかりの本願、南無阿弥陀仏を聞けるのです。
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時56分
地獄ばかりの人が南無阿弥陀仏ばかりの人です。
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年5月30日 (月) 22時59分
>「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
(浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次 真宗Ⅰ p.15)
必堕無間の者が南無阿弥陀仏のお目当てです。
本願寺の人間ならば、自分の教団のテキストを根拠に出すこと自体あきれる。まるでこの場を借りて試験勉強をしているかのよう。親鸞会が、内容に問題があり、廃版せざるを得なかった、会報を出してきて、親鸞聖人の言葉よりも会長の言葉を根拠にするのと同じ。それは通用しない。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 01時05分
>どういたしまして。こちらこそ本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
「必堕無間」は味わいですか。そう味わっているだけですか。味わいは人それぞれですね。信心ではないから。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 01時16分
教義は、お聖教によるもの。
味わいは、個人の体験によるもの。
親鸞会が自慢できることは、味わい、つまり個人の体験談のみ(笑)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 05時48分
必堕無間と聞くのが信心決定の近道なの。
排水の陣で聞き求めないと今日の臨終に間に合わないの。
罪悪深重、無常迅速といいます。
悪い所にはいかないだろうと頭で計らってる場合じゃないじゃろ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 06時34分
>悪い所にはいかないだろうと頭で計らってる場合じゃないじゃろ。
悪い所に行くと思い込めば信心決定できると思うのも計らい。南無阿弥陀仏に任せるのみ。
【排水の陣→背水の陣】
投稿: | 2016年5月31日 (火) 06時54分
>必堕無間と聞くのが信心決定の近道なの。
必堕無間を否定された親鸞聖人は、信心決定の周り道を教えられたってことね。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 07時30分
つくづく根拠出さない妄想好きだなぁ~高森会(笑)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 08時40分
19願の相手が十方衆生である根拠。
外道を離れて仏縁を結び聖道門で助かろうと思ってやってはみたものの、とても無理だ、と断念した人が多いから、
ここをもって、釈迦はすべての人が助かる道である弥陀の本願を、断念した人も含めたすべての人のために説かれた。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願(19願)を発して普く諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 13時29分
本願寺の人間ならば、自分の教団のテキストを根拠に出すこと自体あきれる。まるでこの場を借りて試験勉強をしているかのよう。親鸞会が、内容に問題があり、廃版せざるを得なかった、会報を出してきて、親鸞聖人の言葉よりも会長の言葉を根拠にするのと同じ。それは通用しない。
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「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
(浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次 真宗Ⅰ p.15)
→ 中央仏教学院(平成28年度 5月31日現在)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 13時49分
そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。
本願寺の統一見解(笑)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 14時18分
信機とは、救いのはたらきを受ける私たちの本来のすがた(性得の機)を信知し、「無有出離之縁」「自力無功」を知ることであり、それは捨自捨機である。
本願寺伝統教学
投稿: | 2016年5月31日 (火) 14時26分
>「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
(浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次 真宗Ⅰ p.15)
>本派教団の「必堕無間」の味わいが伝わり、よかったです。
「必堕無間」は本派教団の味わいという自らの申し出で決着済。味わいを伝えることよりも南無阿弥陀仏を伝えることが大切ではないでしょうか。どうしても必堕無間の味わいを深めたいのなら、必堕無間会でもお仲間と作って、お話して下さい。親鸞会にさよならの人には関係ありません。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 14時27分
ならば、あなたは「三途仮土会」という、新しい教団をおつくりください。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 14時38分
コメントもうボロボロ。かわいそうに。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 16時08分
しかし信心獲得してから親鸞会の誹謗サイトを観るのは楽しいものだ。
高森先生にお会いできて本当に良かった。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 16時46分
三願転入なぜ受け入れられぬ。
哀れだ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 16時48分
親鸞聖人も含めて、善知識方が、三願転入という道程を否定されているのに、なぜ認められぬ。
哀れ哀れだ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 16時51分
>親鸞聖人も含めて、善知識方が、三願転入という道程を否定されているのに、なぜ認められぬ。
根拠が全く無い。
お聖教を自分に都合が良いようにいい加減に解釈しているに過ぎない。
断章主義。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時03分
根拠だって(笑)
では、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人それぞれが三願転入の道を勧められた根拠を出してみましょう。
少しハードルを下げて、19願を勧められた根拠でもいいですよ。
ちなみに、三願転入の文は、勧められたのではなく、「私は三願転入しました」との告白だけですがね。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時15分
龍樹菩薩 19願を無視
天親菩薩 19願を無視
曇鸞大師 19願を無視
道綽禅師 19願を無視
善導大師 往生を誓われた願の1つが19願とだけ仰った。解説はなし。
源信僧都 臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。解説はなし。
法然上人 19願を無視
興福寺 「法然上人は大願である19願を隠すとは何事か」と非難
明恵 「法然上人は諸善を誓われた19願は本願ではないと言うのか」と非難
親鸞聖人 19願は方便の願で、非難している聖道門のために建てられた願と仰った。
覚如上人 諸行往生・臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。解説はなし。
蓮如上人 19願を無視
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時22分
いまの三経をもって、末世造悪の凡機にとききかせ、
聖道の諸教をもっては、その序分とすること、
光明寺の処処の御釈に歴然たり。
(口伝抄)
三経とは、弥陀の三願の願意をあきらかになされたもの。
善のおすすめの、19願も、
末世造悪の者に説かれたのであり、
聖者のためでもなければ、
聖者の道の仏教を捨てられぬ人だけが相手とも言われていない。
聖道の諸機に限るのではなく、末世造悪の凡機を対機として説かれたものと、覚如上人は仰せである。
末世造悪の凡機が相手の、観経。
すなわち、
十方衆生が相手の、19願
だからである。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時28分
19願の相手が十方衆生である根拠。
外道を離れて仏縁を結び聖道門で助かろうと思ってやってはみたものの、とても無理だ、と断念した人が多いから、
ここをもって、釈迦はすべての人が助かる道である弥陀の本願を、断念した人も含めたすべての人のために説かれた。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願(19願)を発して普く諸有海(すべての人)を化したまふ。(教行信証化土巻)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時30分
まだ言っているんだ(笑)
いまの三経をもって、末世造悪の凡機にとききかせ、
聖道の諸教をもっては、その序分とすること、
光明寺の処処の御釈に歴然たり。
(口伝抄)
三経に共通したものは、18願意。
観経には19願意と18願意が説かれている。
小経には20願意と18願意が説かれている。
であるから
いまの三経をもって、(18願意を)末世造悪の凡機にとききかせ、
聖道の諸教をもっては、その序分とすること、
光明寺の処処の御釈に歴然たり。
(口伝抄)
こういうこと。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時34分
>獲信のための善の勧めは、親鸞聖人にも蓮如上人にも全くありません。関係ないからです。
釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま大願業力にあふことを得たり。
(唯信鈔文意)
恒沙の善根を修せしによりて、いま大願業力にあふことを得たり。
善は獲信に関係ある。
聖道門の機だけ、とは書いてない。
聖道門の人も含めた群生海、普く諸有海と
要門釈に書いてある。
群生海(すべての人)と普く諸有海(すべての人)が定散諸機なら、
釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して定散諸機を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して定散諸機を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時36分
しっかり読んでください。
19願の相手が十方衆生である根拠。
外道を離れて仏縁を結び聖道門で助かろうと思ってやってはみたものの、とても無理だ、と断念した人が多いから、
ここをもって、釈迦はすべての人が助かる道である弥陀の本願を、断念した人も含めたすべての人のために説かれた。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願(19願)を発して普く諸有海(すべての人)を化したまふ。(教行信証化土巻)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時37分
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
(高僧和讃)
定散諸機に19願を勧められ、極悪深重の衆生には19願ではなく最初から18願を勧められている。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時38分
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。
信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
この要門より正・助・雑の三行を出せり。
この正助のなかについて、専修あり雑修あり。
機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。
(化土巻)
19願の機について定機と散機、つまり定散諸機。逆悪の機、悪人は含まれていない。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時41分
>恒沙の善根を修せしによりて、いま大願業力にあふことを得たり。
>善は獲信に関係ある。
>
>聖道門の機だけ、とは書いてない。
全人類とは書いてない。
>群生海(すべての人)と普く諸有海(すべての人)が定散諸機なら、
群生海と諸有海が全人類なら
釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して【一切の】群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して【一切の】諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時45分
しっかり読んでください。
本派の僧侶、そして熱心な門徒なら大抵持っている『浄土真宗聖典(註釈版) 』の補註
そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。
本派だけでなく、真宗の常識ですが。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時50分
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
○ 正しい意味 : 極重の悪人は、極楽に生ずる為には他力の念仏一つ。
それ以外に極楽往生の方法はない。
× 飛雲氏の解釈 : 極重の悪人は、獲信の為には他力の念仏一つ。
獲信の為には定散諸善は要らぬ。
≪間違いのポイント≫
・「《獲信の為の他力の念仏》を勧める」
という飛●氏の教えは、かつてない珍説。
《獲信前の他力の念仏》は、論理的に存在しないので、
《獲信前の他力の念仏》の勧め、なる教えは存在しない。
・飛●氏は、
《極楽へ往生する為の他力の念仏》を
《獲信の為の他力の念仏》と取り違えている。
どちらが正しいかといえば、
「ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
のお言葉通り、
「極楽へ生ずる為」の方便が《他力の念仏》。
明らかに、《極楽へ往生する為の他力の念仏》が勧められている。
飛●氏は、
善知識が勧められている《他力の念仏》を間違えているのだから、
事は重大である。
善知識は、
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」
と勧められているのではない。
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】
と勧められているのである。
・飛●氏はその区別がついていないから、
高森顕徹先生がお書きになられた『顕正』という書籍の
【虎の説法】と自説とが一致する、などと誤解しているのであろう。
【虎の説法】は決して、
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」
と勧めることではない。
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】
と勧めることである。
飛●氏自身が引用する、高森顕徹先生の『顕正』の
【虎の説法】の箇所は、以下の通り。
然るに、わが浄土真宗は、
このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って
十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、
信前の人にも信後の人にも、始終一貫して
信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、
信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、
早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、
直にその通りになれない人もあろうけれども、
それは機の過失であって法門は常に
信因称報の仏意を説き示さなければならない。
喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、
どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、
たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに
本当の虎の絵がかけるようになるように、
手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、
或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、
たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、
やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。
ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。
画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。
そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。
その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて
信心を得る方法には称名せよなどと教えれば
あたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。
故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。
(高森顕徹先生著 『顕正』より)
拝読すれば一目瞭然。
【虎の説法】とは、
「始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。
「早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め」ること。
「信因称報の仏意を説き示」すこと。
「たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。
いずれも、いずれも、
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と勧めることばかり。
どんな相手にも必ず
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と説き示す。
この【虎の説法】を抜かしてはならないとの仰せである。
「信心獲得せよ」「信心決定せよ」「お礼の念仏称える身になれ」
と、どれだけ説いたところで、
相手が直ちにその通りにはならず、その真意を諦得できないとしても、
だからといって、相手に合わせて、
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と説き示さなくなるようなことは、絶対にあってはならない。
どんな時も失ってはならない説法、あきらめてはならない説法、
常に決勝点「手本」を説く、それが【虎の説法】なのである。
たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、
やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
とあるのも、
信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、
早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め
ていけば、やがて他力の信心を獲得するところまで導かれるということであり、
少しも「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」などという意味にならない。
どこにも飛●氏が言うような
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」などとは書かれていないのである。
それどころか、
≪極楽往生の為の念仏≫が正しいのに、それを誤解して
≪獲信の方便の念仏≫の称名を勧めるならば、
信心を得る方法には称名せよなどと教えれば
あたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。
と、高森顕徹先生は、飛●氏を戒めておられる。
飛●氏は、「常に18願の教えを勧める」ということを、
「獲信の方便が他力の念仏」と誤解しているのである。
他力の念仏は、獲信の方便ではなく、極楽往生の方便であり、
その他力の念仏一つを勧めるということが、
18願の教えを勧めるということなのである。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時51分
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
≪間違いのポイント≫
・「《獲信の為の他力の念仏》を勧める」
というのは曲解。
獲信=他力念仏
これが分かっていない。
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
極重の悪人は、19願という方便は最初からない。
ただ18願他力念仏によってのみ、往生できる
こういうこと。
信心と念仏との関係が分からない異安心
投稿: | 2016年5月31日 (火) 17時57分
「三途化土会」のお集まりになっていては、さよなら真宗会になってしまいますよ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時00分
極重の悪人とは観経に説かれた下品下生の者のこと。
観経疏では
下品共通で
この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
とされ、下品下生を
これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。
この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命
終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむ
るに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず
と解説なされている。
過去に善をしてきたことがなく、十悪・五逆罪を造ってきた悪人が、臨終に初めて善知識に遇って、善知識から善を勧められることなく念仏を勧められて往生した
これを
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
と仰った。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時04分
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
下品下生の悪人は、善をすることなく善も勧められることなく、唯、念仏を称えて往生する
浄土門の基本中の基本中の基本。
よって三願転入を完全否定なされたのが、
釈尊であり、善導大師であり、源信僧都であり、親鸞聖人だという根拠。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時07分
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。(選択集)
平生に仏法を聞かず往生しようと思っていない五逆の罪人が、臨終の時に初めて善知識に遇って往生すると教えられた。
『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。
しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。(浄土真要鈔)
存覚上人も、下品の者は、生れてからこのかた仏法を聞いたことがなく、悪しか造っていないのに、臨終になって初めて善知識に遇って善知識から念仏を勧められて往生すると教えられている。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時19分
下品下生の者(五逆の者)について
お釈迦様 無善で念仏を称えて往生する
善導大師 無善で念仏を称えて往生する
源信僧都 無善で念仏を称えて往生する
法然上人 無善で念仏を称えて往生する
親鸞聖人 無善で念仏を称えて往生する
存覚上人 無善で念仏を称えて往生する
何か異論でもありますか?
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時21分
補足
この「念仏を称えて」に獲信の意味を含められていることは、言うまでもないことです。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時32分
オワコンのブログから引用してくるところが、実に痛い。
親鸞会の屁理屈や難癖などは、全く通用しないことを知りなさい。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 18時56分
「 極悪の人間観
まずはじめに、親鸞聖人は人間をどのように見られたか、聖人によってとらえられた人間とはいかなるものであったか、という問題について考えてみたいとおもいます。
親鸞聖人はご自身を「愚禿親鸞」とよばれただけでなく、「愚悪の衆生」「邪見喬慢の悪衆生」「穢悪の含識」「極重の悪人」というような、悪の字のついた人間の呼び方がたくさんあらわれます。
さらに「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の凡夫」というような、煩悩に泥まみれになった人間の表現も数多く見られ、歎異抄には「地獄は一定すみかぞかし」(「註釈版聖典」八三三貢)とあります。
ですから、親鸞聖人の人間観といえば、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」といってよいでしょう。その意味では、親鸞聖人ほど徹底して人間を悪人と見られた人はいないと思われます。悪に極まりがない、極悪人と見てとられるのです。
しかし、こんないい方が今日現代人にうけ入れられるでしょうか。親鸞聖人のような人間観がうけ入れられるかどうか、さっそく拒絶反応をおこす人があるのも、あながち不自然なことではありません。
「なぜ、それほどまでに、人間を極悪人あつかいしなければならないのか」「親鸞はよほど自虐性の強い人なかったのか」というような言葉がささやかれるのも、無理なことではないようにおもわれます。
聖人の立場
しかし、いうまでもなく、そういう意見は聖人のおしえを正しく理解している人の言葉ではありません。
誤解というものは、往々にして立場のちがいから起こるものです。親の言葉が子供に誤解されやすいのも、親の立場が子供に理解されないからです。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「真 宗」p.43 ~ 45
(平成28年度版 5月31日現在)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時11分
根拠は本願寺のテキスト(笑)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時14分
全人類=極重の悪人なら、
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
全人類は善と言う方便は最初から最後までない
唯、念仏を称えて、往生できるのだ
こういうことね。
定散諸機がいないなら、19願は全人類に無関係ですね。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時17分
根拠は本願寺のテキスト(笑)
-------------------------------------------------
皆さん気をつけてください。
飛雲氏の飛雲教学は、親鸞会はもとより、本願寺教団の教学にも反攻してきます。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時22分
親鸞会と本願寺10の相違点 親鸞会批判の真実
こんなサイトを作りながら、本願寺を根拠とする厚顔無恥
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時25分
何度ももうしていますが、飛雲氏の教学は、親鸞会にも本願寺にも、あてはまりません。
飛雲氏の教学です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時38分
飛雲さんと本願寺の一学説との相違点を殊更にあげつらうことでしか、飛雲さんに対抗できない親鸞会。
落ちるところまで落ちたものだ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 19時41分
下品下生の者(五逆の者)について
お釈迦様 無善で念仏を称えて往生する
善導大師 無善で念仏を称えて往生する
源信僧都 無善で念仏を称えて往生する
法然上人 無善で念仏を称えて往生する
親鸞聖人 無善で念仏を称えて往生する
存覚上人 無善で念仏を称えて往生する
これには異論がないようですので、終了です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時08分
飛雲さんと本願寺の一学説との相違点
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飛雲氏
「必堕無間の者が定得往生の者」を否定。
「すべの人が極悪人」を否定。
「極重悪人唯称仏のご文は、信後、称名する人の意であり、往生するために、具体的な方便を説かれているものではない」を否定。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時12分
本願寺は往生浄土のために宿善を求めよ、と一切言っていない。親鸞会は本願寺の教学に頼り、屈服し、根拠としている。だから 親鸞会は、宿善を求めなければならないという本願寺の教義から外れた教義を捨てたと言える。善のススメは消えた。
それとも断章主義を認めるか。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時17分
>>終了です。
わかりましたよ。飛雲さん。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時19分
極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得
本願寺出版社の現代語訳
きわめて重い罪をかかえた悪人に、 この他の手だてはない。 ただ弥陀の名号を称えて、 極楽世界に往生させていただくばかりである
つまりは
下品下生の者(五逆の者)について
お釈迦様 無善で念仏を称えて往生する
善導大師 無善で念仏を称えて往生する
源信僧都 無善で念仏を称えて往生する
法然上人 無善で念仏を称えて往生する
親鸞聖人 無善で念仏を称えて往生する
存覚上人 無善で念仏を称えて往生する
西本願寺 無善で念仏を称えて往生する
これには異論がないようですので、終了です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時23分
もうね、浄土真宗親鸞会なんて、こんな団体が名乗るのが烏滸がましい。
「三願転入教 高森宗」とでも改名したらどうだ?
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時39分
本願寺は往生浄土のために宿善を求めよ、と一切言っていない。親鸞会は本願寺の教学に頼り、屈服し、根拠としている。だから 親鸞会は、宿善を求めなければならないという本願寺の教義から外れた教義を捨てたと言える。善のススメは消えた。
それとも断章主義を認めるか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本願寺派の「寺と教団」のテキストに関しては、現在の本願寺教団の根深い問題点を告白する教材として発行されています。
『三、日常生活を中心としたこの世の事をおろそかにする姿勢が強くこの世を積極的に生きようという教学姿勢がない』
「世俗のなかにしか生きることができないのに、世俗の事をいうのは低俗という考え方が強く、世俗の事から目を背けているというのが、私たちではないでしょうか。
この世を生きる事と、「浄土を願う」ことが、ややもすると相反することという教学理解が、私たちの中に、いつの間にか、根深く植えつけられているのです。
この世を力いっぱい生きる、そこに「浄土を願う」ということがあり、「浄土を願う」ゆえに、この世をおろそかにできないのです。
親鸞聖人は、『大信心は則ちこれ、欣浄厭穢之妙術』(「教行信証」「行巻」) (「註釈版聖典」211項)
と、明らかにしてくださいました。厭穢とは「この世をいとう、この身をいとう」ことですが、この世をこのまま是としておけない、この身をこのまま是としておけないということです。
ドロドロした人間のいとなみの中で、「浄土を願う」ということは、そこから逃げるということでなく、そのままにしておけなくて、少しでも改めていこうと、ドロドロした現実にかかわっていくことなのです。
皆人はつまらないことで右往左往していると、教義の中に閉じこもって傍観者になっているのでは、み教えを学ぶ姿勢がまったく違っているといわざるをえません。
今一度、現実のこの命をみつめて、この社会に身を置いて、その中で教学しなければなりません。教学は、私が経文の中に、観念の中に逃げ込む営みではなかったのです。」
浄土真宗本願寺派
中央仏教学院(西本願寺)
【学習課程 3年次】「寺と教団」
<一、本願寺教団の運動>
~現状と問題点~
(平成28年度版 5月31日現在)
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本願寺派教団は、これまで「浄土を願う」ことと関係のある「善のすすめ」をおろそかにしてきたと告白しています。
平成28年度現在のテキストで、おろそかにしてきた、と告白しています。
変わってゆくのはこれからです。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時41分
親鸞会の大惨敗の連続記録更新ですね。
手も足も出ずとは、まさにこのこと。
やめておけばいいのにね。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時42分
>この世を生きる事と、「浄土を願う」ことが、ややもすると相反することという教学理解
この世は合理的に科学的思考で生きる事と、「浄土を願う」こととが相反しているとの本願寺派の反省ですね。
説法を聞いている時だけが「浄土を願う」のではなく、この世で生きている時も合理的、科学的思考に支配されずに「浄土を願う」生き方をしていきなさいという教学的理解ですね。
善のすすめなどありませんよ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時47分
>本願寺派教団は、これまで「浄土を願う」ことと関係のある「善のすすめ」をおろそかにしてきたと告白しています。
平成28年度現在のテキストで、おろそかにしてきた、と告白しています。
変わってゆくのはこれからです。
本願寺が変わるのは、本願寺の勝手です。親鸞聖人の教えが変わるわけではありません。本願寺の変化に頼らざるを得ない人が期待すればよい話です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時55分
称えなければ救われないという念仏ではありませんが、そういう徳のある念仏ですから、つとめて念仏するように心がけたいものであります。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「真 宗」p.83
(平成28年度版 5月31日現在)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時58分
本願寺派のテキスト引用に必死過ぎてワロタ
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時01分
極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得
本願寺出版社の現代語訳
きわめて重い罪をかかえた悪人に、 この他の手だてはない。 ただ弥陀の名号を称えて、 極楽世界に往生させていただくばかりである
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ただ弥陀の名号を称えて」=「ただ弥陀の名号を称える身となって」
「親鸞聖人は、源信和尚の「往生要集」のうち「救いの立場」からの説示のみに注目されています。
「極重悪人唯称仏」とは、悪人が弥陀に救われる様をいった部分であり、衆生が阿弥陀如来の本願に救われた姿を述べています。」
浄土真宗本願寺派
中央仏教学院【学習課程】
3年次「仏教」p.140
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時03分
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとえに弥陀を称してぞ
浄土にむまるとのべたまふ
本願寺出版社、聖典セミナー三帖和讃Ⅱ『高僧和讃』末(北塔光昇著)の訳
「極めて罪悪の重い人々には、 (他力より) 他に救いの手立てはない。 ひとえに阿弥陀如来のみ名を称えてこそ、 浄土に生まれるのである」 と述べられた。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時06分
おのれが「信心決定」することなくして、伝道は成立しません。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「伝道」
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時07分
本願寺派のテキスト引用に必死過ぎてワロタ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皆さん気をつけてください。
飛雲氏の飛雲教学信者たちは、本願寺派のテキストをも粗末に扱う輩です。
親鸞会、本願寺、にも通用しない新教学一派です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時09分
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらわして
定散諸機をすゝめけり
本願寺出版社、聖典セミナー三帖和讃Ⅰ『浄土和讃』末(黒田覚忍著)の訳
阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、 ¬観経¼ 一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時09分
定散諸機(善人)には19願定散二善を勧められ、
極重の悪人には19願定散二善は勧められず18願他力念仏だけを勧められている
本願寺の統一見解
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時11分
上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
(持名鈔)
善人には善を勧め、悪にには念仏を勧められている。
存覚教学が今の本願寺教学の元。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時14分
投稿: | 2016年5月31日 (火) 20時58分
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時07分
この二つは私が投稿しました。本願寺派を名乗る人ではありません。
本は貴方が持っているばかりではありません。
全部を書き込まずに断章している本願寺派を名乗る人へ。
あんた、本当は本願寺派でないだろ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時15分
おのれが「信心決定」することなくして、伝道は成立しません。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「伝道」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
↑
これは私ではありません。
私のものは分かりやすく名前を名乗っておきます。よろしくお願いします。
投稿: 釈隆信 | 2016年5月31日 (火) 21時21分
本願寺は親鸞会と同じことを考えているから、正しい。
親鸞会の皆さんに朗報です。
本願寺も正しいので、親鸞会に固執する必要はありません。わずかな法礼で本願寺から聞くのが一番ですよ。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時25分
善知識は、本願寺にたくさんおられます。
無二の善知識なんて嘘っぱちですから、本願寺の善知識から聞かせていただきましょう。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時28分
ハンドルネームも嘘つけるからな。
本当のお坊さんじゃないかも。
もし、本当のお坊さんならどうして親鸞会に荷担するのかな。
それも延々とアホな書き込みをし続けて、おかしいんじゃないの。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時31分
おのれが「信心決定」することなくして、伝道は成立しません。
------------------------------------------------------------
こんなところだけを抜いてきては、理解不足を露呈するだけであり、誤解されますよ。
→「しかし、「私は信決定していないから、説法はできない」ということも逃げ口上です。法が法を伝えていくのです。法は人によって伝わるものであっても、その人が法によって育てられていないかぎり、人をみちびき、育てようとする気持ちは起こりません。「自信」あれば、「教人信」と動くものであり、同時にまた、「教人信」活動の上に、自らの信が深められていくことも否めない事実でありましょう。」
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「伝道」p.58
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時32分
正面から法論を挑むことなく、今日もゲリラのようにブログにコメントする会員たち。いつも通り負けを認めずフェードアウトしたのかな?生きてて恥ずかしくないのかな?
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時39分
上も私です。名前を付け忘れました。
----------------------
>ハンドルネームも嘘つけるからな。
本当のお坊さんじゃないかも。
もし、本当のお坊さんならどうして親鸞会に荷担するのかな。
-------------------------------------
あたりまえでしょう、仮の法名ですよ。本名ではありません。あなた方も本名は書いておられないでしょう。
本願寺関係者でも、いくらでも親鸞会から聴いている人はいるのです。私は高森先生が一番すばらしくご説法される先生だと思います。
ですから、荷担と受け取られるなら、それで結構です。
こちらのブログのタイトルは拝見されていますか。
投稿: 釈隆信 | 2016年5月31日 (火) 21時42分
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時32分
上も私です。名前を付け忘れました。
投稿: 釈隆信 | 2016年5月31日 (火) 21時45分
そうですか。いつも同じような口調で、今日もネット対策活動ご苦労様です。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時47分
浄土真宗の教章
前省略
宗門
この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。
以下省略
親鸞聖人の教えを仰ぐわけですから、根拠はいつも親鸞聖人が書かれたものおよび次第相乗の善知識の書かれたものが基本。
親鸞会は、本願寺では無い。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時48分
ブログにコメントする会員たち。
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私は会員ではありません。
投稿: 釈隆信 | 2016年5月31日 (火) 21時48分
そこいちいち反論するポイントじゃないと思うんだけど、ゲリラ活動頑張って下さい。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時53分
そこいちいち反論するポイントじゃないと思うんだけど、ゲリラ活動頑張って下さい。
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いいえ、工作員だとか会員だとか決めつけたものいいをするので断っているだけです。
ここははっきりさせねばなりません。
私は立場上、会員にはなりたくてもなれませんし、また私の立場を利用した顕正があると思うようになりました。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 21時59分
そこいちいち反論するポイントじゃないと思うんだけど、ゲリラ活動頑張って下さい。
------------------------------------------------------------
いいえ、工作員だとか会員だとか決めつけたものいいをするので断っているだけです。
ここははっきりさせねばなりません。
私は立場上、会員にはなりたくてもなれませんし、また私の立場を利用した顕正があると思うようになりました。
投稿: 釈隆信 | 2016年5月31日 (火) 22時00分
親鸞聖人のお言葉を無視し、踏みにじる親鸞会とそれを擁護するものが、顕正ってなんですかね。
顕正会のことですか(笑)
投稿: | 2016年5月31日 (火) 22時08分
>私は立場上、会員にはなりたくてもなれませんし、また私の立場を利用した顕正があると思うようになりました。
色んな立場の人物を使い分けるのは大変そうですね!
飽きたからこれ以上突っ込まないけど、論調が使い分けてるようでいつも一緒なんだよなぁ…
投稿: | 2016年5月31日 (火) 22時29分
上の人と同じ気持ち。
投稿: | 2016年5月31日 (火) 22時37分
本願寺の学校の教科書にもケチをつけるここは、いったい何なのよ
投稿: | 2016年5月31日 (火) 23時06分
僕のヤバイ妻 TM子
投稿: | 2016年5月31日 (火) 23時10分
本願寺の教科書の内容そのものでなく、それを平然と流用する高森会の厚顔無恥さが問題なんじゃ?
投稿: | 2016年5月31日 (火) 23時34分
仮の仏土とは、下にありて知るべし。
すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。
ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
これを方便化身・化土と名づく。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
これによりて、いま真仏・真土を顕す。
これすなはち真宗の正意なり。
経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。
ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。
(教行信証真仏土巻【真仮対弁】)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」で知ってもらいたい。
すでに述べた通り、真実の願・方便の願ともに、
十方衆生を救済するという弥陀の大慈悲の願いの実現の為に、
その果報として成就されたもの。
ゆえに、報仏、報土であると知らされる。
方便の浄土に往生する因は人それぞれ異なるから、
往生する浄土もまた人それぞれ異なる。
これを方便の化身・方便の化土という。
弥陀の願に「真実」と「方便」とがあることを知らないから、
如来の広大な御恩徳が分からないのである。
このようなわけで、真実の仏・真実の浄土を明らかにした。
これが弥陀の正しい御心である。
釈尊の経説、龍樹・天親の教え、浄土の祖師方の解釈を、
仰いで敬い信じなさい。
心から謹んで受け取りなさい。知ってもらいたい。
宗祖は、『教行信証』において、
「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」に
「真実の教」を述べてこられたその最後に、
次に示される「化巻」すなわち「方便の教」と、
「真実の教」とを対弁せられたのがこの【真仮対弁】である。
宗祖は、「真」と「仮」の区別を徹底して鮮明にせられたお方。
そして、
「仮」にとどまり、惑うてはならないぞ、
「真」こそが弥陀の真意である、
と懇ろに教えてくだされている。
ところが、
現代の真宗門徒に、これを誤解している者が多い。
すなわち、ここで
「仮を誡められている」
「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから
意識して捨てなさいということ」
という具体である。
「仮(弥陀の方便)」を戒めるとはどういう意味かが問題。
宗祖は「仮」そのものを、あたかも危険物かの如く
「はじめから近寄るな」と戒められたお言葉はどこにも無い。
「仮」は必要不可欠のものであり、
宗祖御自身も「仮」から「真」に入られたお方。
宗祖は、「仮」に関わるなと言われているのではない。
「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、
難思往生を願ふべし。」
と、仮を勧めておられる御言葉からも明らかである。
宗祖は飽くまでも、
「仮に”留まる”こと」を懇ろに繰り返し戒められているのである。
「仮が無関係」「意識して捨てることができる」
などは無知の骨頂。
弥陀のお計らいを、どうして愚かな人間の智恵で捨てられようか。
教行信証に「真実の教え(真)→方便の教え(仮)」
という次第で書かれているからといって、
だからその逆の「仮→真」という領解が
屈折している・断章取義だ、などというその青臭い迷見こそ
真宗界伝統の教義さえ知らない、とても屈折した断章取義である。
「真→仮」の次第で書かれているからといって、
「方便」を通らず初めから「真実」を知れるように思い、
「真実」を知ったつもりの安楽イスにドッカリ座って
「方便」を見下ろしているつもりなのである。
それでは到底、如来広大の恩徳を知ることはない。
宗祖は、「仮」から「真」に入られて「真仮」を知られ、
そして広大な恩徳に感泣されたのである。
すなわち、
善知識方の教えに巡り遇われ、
善知識方の教えにしたがわれ、
弥陀の方便・仮の願に導かれて、
19願→20願→18願
仮→真
と誘われ、自力の信心を翻して選択の願海に転入されて、
「真」と「仮」とを弥陀の願力によって対弁された。
仮から真に入られ、はじめて「真仮」を知られた宗祖は、
偉大な恩徳讃を体得せられている。
「仮」はみな私を「真」へ誘うものであった。
これ「すべて弥陀の御恩」
と味わわれている宗祖と、
「方便は通る必要がない」などと見下している者とは似ても似つかぬ。
隔絶していることは猿でも判る。
宗祖だけでなく、すべての人を真実に導く仮の願なればこそ、
宗祖は化土巻に仮の願を見下ろされずに「悲願」と頂かれ、
明記されているのである。
「真実の山からは「仮」の山の頂上は見えるが、
仮の山からは真実の山は見えないのである。」
などと、もっともらしく真宗を語り、
真実知ったつもりで方便を見下ろし、
「従仮入真」を説く親鸞会の方々を非難している本人が、
「方便」を通らずして語っている「真実」や「方便」など、
観念上の妄念であり、
真実でもなければ方便でもないから
真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失し、
”実に簡単な教え” ”獲信しても知らされることは僅か”
と無信仰を平気で晒している、その自覚さえもないだけである。
不思議の仏智、信楽を知らず。
「机上の空論」「人智観念のお遊戯」に尽きる。
宗祖は「真」から「仮」を見下ろさせる為に
「真→仮」の次第で書かれたのではない。
「真仮」の「弥陀の広大な恩徳」を知ってもらいたい
これより外はないのである。
根本の他力の信心が抜けていて、
頭だけで済ませたつもりの合点信仰どまりの者には、
恩徳讃もないし、非難も”まとも”ではない。
「方便を”通らなければ”真実へは至れない」という親鸞会の説示を、
「方便を”知らなければ”真実へ至れない」と捏造して非難している。
親鸞会のお話しで、
「方便を知らなければ真実へ至れない」などと聞いたことがない。
ありもしない非難は天に唾を吐く愚かな所業。
親鸞会では常に、
「真実を知らされてはじめて、真実も方便も同時に知らされる」
としか説かれていない。
「真実を知らせる為のものが方便」と言われているのである。
これは真宗伝統の教えであることはすでに述べてきた通り。
これを珍説と言う者が珍説の主である。
それにしても親鸞会を非難しているものに、高尚なものが一つもない。
いまどき、親鸞会を相手に非難する元気があるならば、
もっと正確に、親鸞会の説示を把握してからにしなければ、
非難していないに等しいのであるから、無駄な苦労である。
いつの時代でも、善知識には非難がつきもの。
高森顕徹先生に、数多くの非難があるのは当然であろう。
それらを受けられても逞しく、そして淡々と、
着実に浄土真宗の再興を遂げていかれる輝かしい恩徳讃のお姿から、
宗祖や蓮師を偲ばれるお気持ちがひしひしと伝わってくる。
高森顕徹先生にお遇いできてよかった。
親鸞会に遇うことができて本当によかった。
今は高森顕徹先生から直接聞かせて頂けないのが本当に悲しいが、
御本を読ませて頂き、御恩を偲ばせて頂こう。
親鸞会でつとめられる宗祖親鸞聖人750回忌法要にはなんとかお参りしたい。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年5月31日 (火) 23時55分
親鸞聖人の教えに善の勧めはあります。
しっかり読んでください。
過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
他力の三信心を得たらん人は、
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。
(唯信鈔文意)
久遠の過去から、
三恒河沙という数えきれないほど多くの仏方の教えを聞き、
そこでそのお勧めによって仏道を求める心を発し、
莫大なる善根を修めてきた、その因縁あったなればこそ、
いま弥陀の大願業力に救われることができた。
他力の信心を獲たならば、決して決して、
諸善を謗ったり、諸仏・菩薩方を疎かにしてはなりませんよ。
今、弥陀の大願業力に救われた(獲信)その「因縁」を
”恒沙の善根を修せしめしに「よりて」”
と振り返られ、お喜びになっておられる御言葉である。
宗祖の湧き出ずる感謝が満ち満ちている。
そうは言っても、他力の信心がない人には、
結果無くしてその因縁を振り返る由もなく、
宗祖のように宿善を喜べる道理はないので、
「~によりて」(因縁)の感謝は絶対に読めない。
飛雲氏はどうだろう。
このお言葉を解釈する飛●氏の言葉に、信仰が表れているようだ。
やはり、因縁の感謝が欠落している。
> 過去世において諸仏のみもとで善に励み迷ってきて、
> 今、善悪無関係の信心を賜った。
> だからといって、善を謗ったり、諸仏・菩薩方を蔑むことをしてはならない。
>
> です。
> どこに善をしなさいという意味のお言葉かありますか?
>
> この二文の前に、報土往生のためには、善を捨てて念仏をとりなさい、
> と親鸞聖人が強調されていますので、誤解する人のために、
> 親鸞聖人が、善を謗ることを誡められたお言葉を加えられただけです。
布教使仲間の言葉を借りれば「真宗の空気ではない」。
とんでもなく異質である。
飛●氏はこの唯信鈔文意のお言葉を、
「善を謗ることを誡められたお言葉」ただそれ「だけ」
と断言するのだから、飛●氏の信仰には、
諸佛方の「善根の勧め」に対する「感謝」は無い。
宗祖とは大きく異なる。自明である。
だから、こんな解釈になる。
> 過去世において諸仏のみもとで善に励み迷ってきて、
> 今、善悪無関係の信心を賜った。
「~によりて」が読めず欠落して1行目と2行目との関連性が希薄。
宗祖は濃厚に「救われた因縁」として「~によりて」と言われている。
ここでも飛●氏の異質感が漂う。
> どこに善をしなさいという意味のお言葉かありますか?
「恒沙の善根を修せしめしによりて」
三恒河沙の諸仏の「善根の勧め」があることに気づけない悲しさ。
真宗学における「宿善」までは難しくとも、
「三恒河沙の諸仏」と「恒沙の善根」との関係ぐらいは、
分かってもよさそうなもの。
「三恒河沙の諸仏」の「善根の勧め」によって、
「多くの善根」を修めてきたことが、
今、弥陀に救われた因縁となったのだと、宗祖は仰せなのである。
「だから」こそ、
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。
と言われている。決して、
「しかし」
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。
ではない。
「だから」と「しかし」はニュアンスが正反対である。
このお言葉は、仏聖の方々の「善の勧め」が大切な「因縁」となったの「だから」、
善を謗ったり、諸仏・菩薩方を疎かにしてはいけないと言われているのだが、
「善の勧めがどこにある?」の飛●氏には、
よもや「善の勧め」の感謝などは高嶺の花。どうにも感じられない道理で
解釈が大きく異なり、「だから」ではなく「しかし」で文章が繋がれている。
> だからといって、善を謗ったり、諸仏・菩薩方を蔑むことをしてはならない。
「だから」と「だからといって」(しかし)とは正反対。
これは感謝の有無の相違でもあろうが、
飛●氏の解釈は、ここでも異質性を放っている。
飛●氏の主張をまとめると、この御言葉は、
・「善を謗ることを誡められた」ただそれだけ。
・ただそれ「だけ」、だから、
過去世の膨大な諸佛方の「善の勧め」への感謝は含まれない。
・そもそも「善の勧め」という意味の言葉もない。
飛●氏は、真宗界とは全く異質の解釈をしている。
以前から
「過去世の善根が無くても善知識に遇って弥陀の本願を信受できる」
と珍説を述べ、根拠にならない御言葉を根拠のつもりで提示する飛●氏。
遠い過去世からずっと、仏様からも善知識からも
善を一切勧められないままでも獲信できるという。自惚れのド天井だ。
そんな獲信者ならば、無いものには感謝しようもなく、
宗祖のような謝念は有ること無しとなる。
所詮、飛●氏は「諸善」を「自分で」捨ててから獲信すると言う程度だから、
よもや「修善の勧め」に対する感恩報謝など想像もできない。
事実、飛●氏の言葉を見渡しても、過去世の諸佛の「善の勧め」の
報謝、喜びが少しも見当たらない。
飛●氏を異安心と判定なさる利井鮮妙和上は
『宗要論題決択編』にこう仰る。
宿善の当体は自力の善なり、
中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。
真宗における「宿善」に、諸善も念仏も含まれるし、
皆、信仰が進むものである。
親鸞会でも「善をしなければ信仰は進まない」と教えておられる。
利井和上も述べておられるように、これが我らが真宗界の常識。
飛●氏は「真宗界を知らない」の自述通り、無知だから知らない。
「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」
この正統な真宗学を
「自己の励む善根の功徳によって宿善が開発する」という邪説
などと勝手に誤解し、その邪説を否定しようとして
「宿善の開発は自力によらず、他力による」と主張する人は、
真宗学も相手の主張も、宗祖が獲信の因縁を喜ばれるお心も、何も分かっていない。
ましてや、
「宿善の開発は自力によらず、他力による」ということを、
「宿善は過去世の善根ではない」とまで飛躍すれば飛●氏の珍説となる。
三願転入の正邪を己の信心ではなく「考え方」で判定して完全に間違えている飛●氏の
それは浅はかな「考え方」であって、真宗学どころではない。
「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」
とは、まさに
「宿善の開発は自力によらず、他力による」 ということであり、
「宿善は過去世の善根」 ということである。
それを利井和上は、同じく『宗要論題決択編』にこう仰る。
然れば宿善の体は自力なり、
自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、
例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて
却って酒を止めさすが如く、
密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、
酒を勧むるは酒を止めさするため、
今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは
自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、
之を宿善という。
宿善の体は、過去世の善根であるから自力である。
しかし、自分で励む善を勧めるのは、
それによって自力の善では助からぬ実相を知らせる為。
例えば、酒をやめさせるのに、酒を飲ませて懲らしめて、
それによって酒を止めさせるようなものが宿善である。
宿善とは、密かに働いて下されているのが
弥陀の悲願(方便願)の他力であるが、
表面的には人間が励む善行であるから自力である。
酒を勧めるのは酒をやめさせるため、
今、弥陀が自力の善(雑行・雑修)を捨てさせる為に、
「善を励めよ」と善根を勧めるのは、
自力を策励してされているのではなく、
それによって他力を勧めておられるのである。
これを宿善という。
利井和上も、親鸞会も教えておられる通り、これが宿善である。
自力は間に合わないという実機を知らせるために、
自力を捨てさせる(他力に帰せしめる)ために、、
「自分で善を励めよ」と弥陀が善を勧めておられ、
その弥陀のお弟子方(仏聖)はみな従われて善を勧めておられる。
これまでも、今も、これからも、それは変わらない。
常に、善を勧めるままが、他力のお勧めなのである。
事実、まことその通り、善の勧めという弥陀釈迦の慈悲の御方便がなかったら、
名号を獲得して大願業力に救われることはなかった、
と、宗祖が宿善を御喜びになっておられるのが、
さてこの智慧の名号を、濁悪の衆生に与えたまへるなり。
十方諸仏の証誠・恒沙如来の護念、
ひとへに真実信心の人のためなり。
釈迦は慈父、弥陀は悲母、われらが父母として
信心を教へたまへりと知るべきなり。
過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、
恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)
この御言葉なのである。
これが、真宗における正統な「宿善」の解釈。
「過去世の善根」でもなければ「善の勧め」もない飛●氏の解釈とは大違い。
これを真宗では「獲信の因縁を慶ぶ」とも言われてきた。
無論、獲信の因は名号であり、縁は光明と教えられる善導大師の教えである。
光明の縁に催されて、
菩提心を発さしめられ、善を励むようになり、
自力かなわぬ我が身を知らされると同時に
名号を獲得して獲信する。
一切が他力によると知らされる。
因も縁も他力という信知である。
別の言い方をすれば、
光明・他力(善の勧め)があったなればこそ、救われた。
光明・他力(善の勧め)がなかったら、救われなかった。
ということであり、それは、
光明・他力による発心修善があったなれば、こそ救われた。
光明・他力による発心修善がなかったら、救われなかった。
ということでもあり、それが
光明・他力による宿善があったなればこそ、救われた。
光明・他力による宿善がなかったら、救われなかった。
ということ。
これらは飽くまでも同じ意味で言われているのである。
このように宿善を「獲信の因縁」と言われて来たのを詳しく区別して、
「過去世の善根」と「善知識」を、遇法の因縁といい、
「名号」と「光明」を、獲信の因縁とも言われる。
真宗学では、いずれの表現もなされてきた。
表面的な言葉だけで意味を判じようとすれば誤解は免れず、
揚げ足をとろうとすれば尚更に、曲解は避けられないであろう。
いずれの表現の場合でも、他力による救いということは変わらない。
重ねて述べておくが、
決して自力の善の功徳によって宿善が開発するということではない。
他力によって、宿善は開発するのである。
弥陀が、方便の悲願において、
未だ自力が廃っていない善機を自力かなわずと知らしめて
智慧の名号を与えんが為にこそ、善を勧めていられる。
それを信知なされた宗祖が、
自力でありながらも「善を励めよ」と勧めてくだされた
「他力の催し」「光明の働き」
これ無しに今、大願業力に救われることはなかったのだと、
「恒沙の善根を修せしめしによりて」と
宗祖は他力の御方便を御喜びなのである。
それにしても、
「善の勧め」=「自己の善根によって宿善を開発させること」
と勘違いしている者は愚かである。
もしこのような方程式が正しければ、
過去世の諸佛菩薩の勧めはみな、
自己の善根によって宿善を開発させよと教えられていた
ということになるのだから、明らかに愚論である。
> 「余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれ」を読んでも、
> これは善を勧めていることになるとお目出度い主張するのなら、
> 同じ理屈で諸仏・菩薩を崇めることも勧められた、
> としなければなりませんが、そこは完全に否定するのが親鸞会です。
> これが矛盾していると判らないのなら、
> 中学生レベルの論理的思考から身につけてもらわなければなりません。
これこそがお目出度い主張。
病的思い込みで、ありもしない「中学生レベルの矛盾した理屈」を
一人で親鸞会の理屈に仕立てておいて、一人でそれを非難する。
大人から相手にされない言動である。
「そしり、いやしうすることなかれ」とあるから「善を勧める」は正反対。
「善の勧め」あったなればこそ救われたのだから
「そしり、いやしうすることなかれ」なのである。
どこどこまでも、見事に真っ逆さま。
飛●氏は仏法を語るほど、真っ逆さまの実体が浮き彫りになる。
利井和上もおっしゃる通り、
弥陀のお力に動かされて、お弟子方の策励に導かれて、自力の善を励まされ、
ついに自力廃るのである。
いつの時代においても仏様やその御代官たる善知識が、
常に善を勧めたもうことは、
十方衆生をひとえに他力に帰せしめんが為の、
三世にわたる慈父悲母の御方便、絶対他力であることに、いつか気づくであろう。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時02分
「定散諸機各別の
自力の三心ひるがへし
如來利他の信心に
通入せんとねがふべし」
上來八首は『觀經』序分の意によりて淨土教の起る相を明し、
此の一首は正宗分と流通分との意に依りて、
定散をすてゝ他力に歸することを結勸す。
「定散諸機各別」等とは、
『觀經』上々品に説く處の三心には隱顯ありて、
顯説をば定善の行を修する機も散善の行を修するものも、
皆此の三心を具すべし。
文は上々品にあれども、義は下々品に通じ又定善にも通ず。
故に定散の行人各々自力の三心を起して往生する。
それを今定散諸機各別の三心と云ふ。
各別とは、定散の諸機各々力を次第に別々に起すが故に淺深の別あり。
故に今各別の言を置きたまふ。
其の定散諸機の各別に起す自力の三心をひるがへしとは、
廻心の意にして、即ち顯説自力の三心を捨てゝ
隱彰の他力の三信に歸すると云ふ。
「如來利他の信心」とは、隱彰他力の三信のことなり。
利他とは他力の異名にて佛の願力を以て他の衆生を利益したまふ。
他力を顯はす信心とは、三信を合したる他力信心のことなり。
「通入」とは、要門自力より弘願他力に通入することなり。
「ねがふべし」とは、發心を勸むる言にして、
べしとは、下知の言にて、
自力三心を捨て他力信心に通入せんと願へと
高祖が下知命令したまふ言なり。
即ち是れ『觀經』隱彰の弘願を顯はしたまふものなり。
~淨土和讃摘解 勧学・利井鮮妙師 述 より~
利井和上によれば、
「自力の三心」を具するは「下々品」にも通じる。
「下々品」も「自力の三心」を起こす。
これを「定散諸機各別の三心」という。
自力の三心を捨てて他力信心へ「通入」するとは、
「要門」から「弘願」に入ること。
「ねがうべし」とは、
「要門から弘願へ入ろう」と「願いなさい」
「自力の三心を捨てて他力の信心に入ろう」と「願いなさい」
ということ。
「下々品」も「自力の三心」を起こし、
「自力の三心を捨てて他力の信心を獲得しよう」と願いなさい
「要門から弘願へ入ろう」と願いなさい
と宗祖は仰せである。
と利井和上は言われる。
それに対して飛雲氏は、
すでに宗祖の教えを聞き求めている人、下々品の極悪人には、
「要門」は「不要」だから信前に意識的に捨てよ。
ただ18願だけ聞いておればよい。
「18願の念仏(他力の念仏)」だけが「獲信の為の善巧方便」、
獲信の方便は他にない。
飛●氏の主張は、利井和上とはまるで異なる。
利井和上は、「下々品」も、「要門」から「弘願」に通入すると言われる。
「要門は信前に不要」と述べる飛●氏は、正反対である。
飛●氏が善知識扱いなさる人が、
「三世を通して三願転入する」と述べていたと思うが、
ならば当然、飛●氏も、三世の三願転入は肯定していることになろう。
もしそうなら、 「要門は信前に不要」と述べる飛●氏は、
三世を通して三願転入すると肯定しながら、
今生では「要門は不要」「信前に捨てよ」とは、全く辻褄が合わない。
同じく「三世の三願転入」を説かれ、
下々品であろうが必ず「要門」から「弘願」に通入するのだと教えられる
利井和上を善知識だと言うのであれば、頓珍漢であり、
飛●氏は、どこから「弘願」に通入するというのか。
自身は、どこから「弘願」に入ったというのか。
それともまだ入っていないという御自覚か。
判らないが、いずれにせよ、お聖教にない、いい加減なことを述べ続けていれば、
やがて、お聖教にないことを言わねば辻褄が合わなくなってくるのである。
飛●氏は、自信たっぷりで、間違えている。
利井和上とは、大違いであることは、誰にでもわかる。
利井鮮妙和上からご覧になる飛●氏は、異説の主であろう。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時09分
三には、四十八願のなかに、念仏門において
別に一の願を発してのたまはく、
「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、
「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)
この念仏証拠の御言葉は、源信僧都が、
【他力の念仏】を【往生の業】とされる証拠を述べておられるもの。
三では、弥陀の第18願文を出され、
「乃至十念」の念仏(弥陀の大行、他力の念仏)で、
我々を往生させるとの弥陀の仰せを示されている。
四は、観無量寿経の下下品の段の釈迦の仰せから、
「極重の悪人」は、ただ仏を称念する【念仏】の他に
極楽へ往生する為の方法(方便)はない、との仏意を示されている。
源信僧都が【念仏をもつて往生の業となせり。】と書いておられる通り、
極楽へ往生させる働きのある念仏、
すなわち18願他力の念仏を示されている。
源信僧都は、
末法の今日、人間が励む諸善によってさとりを得ようとする
いわゆる聖道門自力仏教を信じて、
どんなに諸善を励んでも悟りは得られず、往生は不可であり、
極重の悪人が「極楽へ往生する為」には、
弥陀の大行たる他力の念仏以外に方法(方便)はないことを明示なされている。
これを宗祖は、以下のように御解説なされる。
しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、
念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、
第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。
『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」
と勧励したまへるなり。
濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
(教行信証化土巻)
源信僧都の教えをうかがえば、
往生要集の念仏証拠門の中に、
悪人正機たる弥陀の第18願こそが真意であることを顕らかに示されている。
「観経」に「定散諸善」が説かれてあり、
遇縁によって定散諸善を励む人(善機)があっても、
決して「下々品」だけが「極重の悪人」なのではなく、
18願の仏意からすれば、
「定散諸機」も「真なる相は極重悪人」である。
しかれば下々品「極重の悪人」に説かれる「念仏」は、
下々品に対してだけではなく、
18願の仏意によれば
「定散諸機にわたって勧められているもの」
と、宗祖は「仏意」を明らかになさっておいでである。
しかし、飛雲氏にはこれがどうにもこうにも理解できないようである。
『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」
と勧励したまへるなり。
これを、
> 定善・散善三福のできる善人も、五逆の極重の悪人も、
> 「ただ弥陀を称せよ」なのです。
と解釈している。
宗祖が、定散諸機は「極重悪人」と仰せられていることに反して、
「極重悪人」以外の「定善・散善三福のできる善人」をねじり込み、
堂々と改ざんしていることは明白である。
宗祖に拮抗する大罪は恐ろしい。
前にも書いたことだが、これについては、
飛●氏もよく引用する山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』にも
次のように書かれている通りである。
「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。
この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて
定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、
我が聖人がこの文を引用して
『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ
唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、
茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。
即ち聖人から見れば、
下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、
定散の機類は一応善機と云はれるけれども、
徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。
我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。
定散の機といふは表相である、仮相である。
真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。
ここでも、
「定散の機類は、徹底的にいへばすべて極重の悪人」
「定散諸機の真なる相は極重悪人」
ハッキリと書かれている。
ところが飛●氏は、これを引用していてさえも、
「定散諸機と、極重の悪人とは、別の人」
としか解釈できないところをみると、
これぞ小学生レベルにも未達の文章読解力と見做されるであろう。
山邊習学『教行信証講義』の他の文章を誤用して飛●氏は
「”真なる相”とは、あくまで”自力無効”のことで、”罪悪”ではない」
などのように説明したつもりなのかも知れないが、全く説明にならず。
仏意を知らず、とても判り易い的外れな誤魔化しと詭弁の
上塗りをするしかないようである。
そんなことをどれだけ繰り返しても、飛●氏の間違いは明白。
この山邊習学『教行信証講義』にも、
親鸞会で教えておられる通りのことが書かれていることが判る。
さて飛●氏は、最初のボタンがズレているから、
あとのボタンはかけてもかけても全部ズレてしまう。
>浄土往生を願っている人に対して、
>「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。
>獲信のために定散二善をするなです。
「獲信のために」と書いている飛●氏。
誰が読んでも「獲信のために」定散二善をするな、ただ弥陀を称せよ、
と書かれている文章である。
飛●氏は明らかに、
「獲信のため」の手立てとして「定散二善」と「念仏」を並べ、
「定散二善」を捨てて「念仏を称えよ」
と述べているようだ。
滅茶苦茶な理解である。
この源信僧都や宗祖の御言葉に示されている
「乃至十念」
「ただ仏を称念して」
「ただ弥陀を称せよ」
これらを「獲信のため」と理解している文章だ。
それがそもそも、大間違いである。
未信の者に、「獲信の為に”他力の念仏”を称えよ」などという教説はどこにもない。
「信後の念仏」のみを他力の念仏というのだから、
信前に他力の念仏を称えよ、など論理的にあり得ないことだから当然である。
信前の濁世の道俗に、獲信の為の権仮方便として、
20願の念仏のお勧めはあっても、
獲信の為に他力の念仏を称えよとは、誰も言われていない。
信前は、どんなに称えたところで、極悪人を往生させる働きは具していない。
未信の念仏はみな暫用還廃の権仮方便の念仏。
信の一念で廃る念仏である。
源信僧都や宗祖が、ここで、
「獲信の為に他の方便はない、念仏一つだ」などと
言われたと思っているとすれば、飛●氏はド素人。
ただのド素人ではなく、自信満々の自惚れのヒドイ素人であろう。
これら源信僧都や宗祖の御言葉は、正しくは、
極重の悪人は、
往生の業たる「他力の念仏」の他に、「極楽へ往生するため」の方便はない、
という意味なのである。
「獲信のため」の方便ではない。
この御言葉の「方便」とは、「獲信の為」の暫用還廃の権仮方便ではなく、
極悪人を「極楽へ往生させる為」の方便のこと。
「信方便」「易行」たる他力の念仏以外に術はないということだ。
飛●氏自身も別のところで、
>「信方便易行」は、後の御文を読めば判りますが、
> 18願他力念仏のことをさしています。
と自分でも述べている通り、他力の念仏は、信方便である。
>もちろん『正信偈』には、
>
> 極重悪人唯称仏
飛●氏も提示している正信偈の御言葉も、
宗祖がこの後に「我亦在彼摂取中」と書いておられるように、
「彼の摂取の中にある」、明らかに信後のことである。
すなわち、「他の方便さらになし」とは、
他力の信心だけが、浄土往生の正因であり、
他力の念仏こそ、必ず「極楽へゆける」大行ということ。
他に方便がない、この方便を、信方便・易行と言う。
飛●氏は、「極楽へ往く為」の”他の方便さらになし”を、
「獲信の為」の権仮方便の定散諸善とならべて語っているところに無知がある。
源信僧都や宗祖が教えておられることは、
極重の悪人は自力で浄土へ往けず、
他力の念仏こそ、極楽へ往ける信方便、
他力の念仏以外に、「極楽へ往く為」の方便はない、
と教えられているのであって、
「獲信のため」と述べている飛●氏の理解は、明らかに間違いである。
飛●氏の非難は、的外れも甚だしいものだとお分かりだろう。
真宗の基礎も分かっていないのである。
「過去の善根がなくても善知識に遇って浄土教を信受できる」
と、七高僧にない珍説を断言してしまっている飛●氏には、
見事に相応している邪説邪義である。
極重の悪人は、極楽へ往く為の方便は、他力の念仏の他はない。
というお聖教の御言葉を、
極重の悪人は、獲信の為の方便は、念仏のほかにない、
獲信の為の方便として、定散二善は不要、19願は不要
と善知識方が口を揃えて仰っています。
と頓珍漢に誤解する飛●氏。
「極楽に往生するための方便」と「獲信のための方便」との
区別さえ立っていない表明である。
そんな程度で、
お聖教を、自説にあわせて誤解し、思い込み、正法を誹謗しているのは
恐ろしい大罪。速やかに懺悔すべきである。
帽子にあわせて頭を削り過ぎて、正常とは思われない。どこまでもずれてゆく。
くれぐれも飛●氏の真似をしてはならない。
まさに”毛を吹いて疵を求め続ける”飛●氏である。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時16分
この場で飛雲氏の文句グダグダ書き連ねるなら、さっさと公開法論しなよ。
何度言っても聞かない子供叱る気分だわ。ネット対策員は子供以下ということか
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時21分
この場で飛雲氏の文句グダグダ書き連ねるなら、さっさと公開法論しなよ。
何度言っても聞かない子供叱る気分だわ。ネット対策員は子供以下ということか
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皆さん、本当に本当に気をつけてください。
飛雲氏の教義は、浄土真宗ではありません。
飛雲氏の教義です。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時44分
本願寺のテキスト、本を使うなら、その前に、座り込み、占拠したことを謝罪するのが筋。過去の悪事を反省する能力がない組織に未来はない。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 00時56分
本願寺のテキスト、本を使うなら、その前に、座り込み、占拠したことを謝罪するのが筋。過去の悪事を反省する能力がない組織に未来はない。
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私が本山に謝って、中仏のテキストを使えと?
こんなことをいう人が出てくるだろうと思ったので、立場を力説してるんです。
教団の中において、親鸞会の話を聴いている人はたくさんいますから、ここに来るのは会員さんばかりではないのですよ?
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 1日 (水) 01時15分
>私が本山に謝って、中仏のテキストを使えと?
こんなことをいう人が出てくるだろうと思ったので、立場を力説してるんです。
教団の中において、親鸞会の話を聴いている人はたくさんいますから、ここに来るのは会員さんばかりではないのですよ?
【謝罪例】
私は、本山の教義が間違っているという理由で、本山に座り込みをして不法占拠した親鸞会の教えが正しいと思って聴いています。ついては、その上で、本山のテキストを使わせて下さい。
釈 隆●
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 01時28分
いつの時代ですか。まだ勝如宗主の頃でしょう。
私は生まれていません。
頭の硬い年寄りが本願寺を駄目にしています。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 01時35分
映画みてくれって腐った手紙が来たわw
観るかボケ!創価やハッピーサイエンスの
超絶劣化版だな。
しょうがなしに映画館に足を運んでやって
ガンダム、レヴェナント、HK見てやったわwww
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 01時49分
下品下生の往生についてのまとめ
救われる前に善をしてきたのか、善を勧められているのかの確認。
【釈尊】(観経)
下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。
この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。
【善導大師】(観経疏)
この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず
【源信僧都】(往生要集)
『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
【法然上人】(選択集)
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。
【親鸞聖人】(高僧和讃)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
【存覚上人】(浄土真要鈔)
『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。
【蓮如上人】(正信偈大意)
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
お釈迦様 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
善導大師 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
源信僧都 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
法然上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
親鸞聖人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
存覚上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
蓮如上人 善を勧められず無善で念仏を称えて往生する
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 05時29分
おはようござんす
ヒウンマンですだす
あんまりいじめないでおくんねえか
悪の権仮がワシだと白状してるでねえが
親鸞会を滅亡させるのがワシの使命だす
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 05時33分
下品下生の往生とは、過去世に善をしてきたこともない、仏法を聞いたこともない五逆の罪人が、臨終になって初めて善知識に遇って、その善知識から念仏を称えることだけを勧められて、その通りに念仏を称えて往生するというもの。
善が勧められてもいないので、無善で獲信し往生する
19願を通ったこともないし、通る必要もない。
それゆえ次第相乗の善知識は
龍樹菩薩 19願を無視
天親菩薩 19願を無視
曇鸞大師 19願を無視
道綽禅師 19願を無視
善導大師 往生を誓われた願の1つが19願とだけ仰った。解説はなし。
源信僧都 臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。解説はなし。
法然上人 19願を無視
興福寺 「法然上人は大願である19願を隠すとは何事か」と非難
明恵 「法然上人は諸善を誓われた19願は本願ではないと言うのか」と非難
親鸞聖人 19願は方便の願で、非難している聖道門のために建てられた願と仰った。
覚如上人 諸行往生・臨終来迎を誓われたのが19願とだけ仰った。解説はなし。
蓮如上人 19願を無視
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 05時35分
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相乗の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相乗の善知識お言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 05時38分
下品下生の往生が、浄土門の原点。
下品下品と言っても、過去世に善をしてきた者だと言って宿善を主張したのが、聖道門。
過去世に無善、現在世でも無善の者が、念仏を称えただけで往生すると聖道門を論破されたのが、善導大師。
親鸞会の理屈は、聖道門そのもの。
このような親鸞会の考えを疑情と言う。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 06時12分
ヒウンマンですだす
これだけ同じ事を書き続けてやれば、ワシは日蓮よりも偉い事になるじゃろ
日本語勉強しいや。ワシが中学生レベルなら、他の奴らは小学生以下やで
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 06時47分
遠方の映画館まで見に行けとか映画の財施をしろとかなんだかんだの財施をせよとか、いいかげんにしろ。
やっていることのデタラメでも我慢ならんのに、教えまで間違っているのか?
三願転入せよとは善知識はどなたも仰っていないってこと?
ショックというか親鸞会に見切りを付ける理由としては十分だ。
ヒウンがなんとかかんとか、そんなことしか親鸞会は言えないのかよ。
下品下生の往生、初めて知ったわ。
なるほどね、三願転入不要、十九願不要ってことなんだ。
確かにね、耳四郎が獲信したのも庄松が獲信したのも、こういうことだったのね。
金金金金金の親鸞会はおかしいのじゃないかと疑問は持っていたけど、確信に変わったわ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 07時59分
親鸞会、本当にみっともない連中ですね。
飛雲氏が間違っているというなら、彼のブログを「破邪」しにかかればいいのにね。
あ、でも親鸞会の根拠はお聖教にはないから、コメント欄でまた無様な姿をさらすだけだろうけどね。
ここでやってる連中と同じように。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 08時21分
飛雲氏と法論せよと言っても、何とかの一つ覚えで「飛雲氏の教義は誤り」としか応えない。
子供なのか痴呆老人なのか、はたまた人間の皮をかぶった別種なのか、ネット対策員は選ばれし者達なんだな。
こういう態度が退会を誘発させてるって、いい加減気付いてもいいんでない?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 08時51分
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相乗の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相乗の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 08時59分
(誤字の訂正)
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 09時07分
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
善知識方は口を揃えて
無善で往生する
と教えられていますので、こんなお言葉はありません。
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
19願は元々眼中になかったので、勧められることなどありえません。
親鸞聖人だけは、法然門下を非難攻撃した聖道門が重要視した19願について解説せざるを得なかっただけのことで、当然ですが親鸞聖人も19願を勧められてはいません。
ですから、19願を勧められたお言葉は、存在しません。
以上
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 10時24分
工作員君には、mかい人21面相のへたくそな真似は、いい加減にしてほしいです。かい人21面相はむろん悪人ですが、彼(ら)がマスコミへ送りつけた脅迫状の中には笑える名言も少なからず含まれており、相当数の推理小説家や出版社へ今後も収入と名声とをもたらし続けることでしょう。しかるに工作員君ときたら、故郷の惨状を見れども見ず、人生の貴重な時間を毎日どうでもいい書き込みに費やしている。飛雲さんに文句があれば、そっちへ行ってやってくれ。
投稿: ある時は病院職員、あるときは親鸞会に心寄せる寺院僧侶 | 2016年6月 1日 (水) 11時31分
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとえに弥陀を称してぞ
浄土にむまるとのべたまふ
-------------------------------------------------
「親鸞聖人は、源信和尚の「往生要集」のうち「救いの立場」からの説示のみに注目されています。
「極重悪人唯称仏」とは、悪人が弥陀に救われる様をいった部分であり、衆生が阿弥陀如来の本願に救われた姿を述べています。」
浄土真宗本願寺派
中央仏教学院【学習課程】
3年次「仏教」p.140
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 1日 (水) 12時06分
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
根拠なしと言うことですね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 12時20分
親鸞会擁護者 殿
このサイトは、過去親鸞会で被害にあった人、現在被害にあっている人のためのサイトです。被害者の中では何を言われようが親鸞会に対しての結論は出ています。その上で何の目的があって書き込むのか、何を考えているのか、全くわかりません。貴方の行為は被害者への明らかな嫌がらせ行為であり、これこそ間違いないカルトの証拠です。必堕無間の味わいを伝えたいなら、他に消えて下さい。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 15時54分
19願はすべての人を真実へ導くものだという根拠。
以下をしっかり読んでから反論してください。
如来この十六観の法を説きたまふは、
ただ常没の衆生のためにして、
大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(善導大師)
釈迦が、定散二善を説かれた相手は、
ただ「常没の凡夫」である。
しかるに常没の凡愚、
定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(宗祖)
「常没の凡夫」には、定善や散善をすることはできない。
釈迦は、定散二善を、
定善も散善もできない「常没の衆生」のために説かれたということ。
これが、真仮を知る善知識方の御教示。
「定散両門は定善・散善ができる人が相手、聖道門の人のみ相手」
と繰り返す飛雲氏の邪説を、善導大師や宗祖が破っておられる。
定散二善は浄土門の人に無関係だと言う飛雲氏が、
根拠のつもりで提示する以下のお言葉を見てみよう。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかだが、
飛●氏はこの解説をも誤解して、こう述べる。
> 聖道門の人を浄土門に誘引し、
> すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとありまして、
> 極めて素直な解釈です。
飛●氏には、自己否定が多い。
ここで飛●氏は、
「普く迷ひに沈める一切衆生を化導」という部分を
「聖道門の人を浄土門に誘引し、
すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれる」
と理解しているようだが、
さて、「すでに浄土門に入っている人」を18願真実門に、
「何によって」導くと書かれている文章だろうか。
この『教行信証講義』では、
> 然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
> 如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
「普く迷いに沈める一切衆生」を
「此の本願(第19願)を発して」化導して下さるということ。
迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)を
第19願によって化導されるということ。
此の本願(19願)が本で、釈尊の福徳蔵の教説があらわれたのだから
> 釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
> 真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
> 修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
> そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
これも、
広く一切衆生を、
「釈迦が福徳蔵を説きあらわして」真実門へと誘引うて下さるということ。
「阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」(宗祖)
弥陀は、第19願によって、一切の常没の凡夫を導かれるということ。
「あまねく諸有海を化したまふ」
を、飛●氏は、
「聖道門の人を浄土門に誘引し、
すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれる」
と述べ、
あたかも19願によって導かれずして浄土門に入っている人が
存在するかのように書いているが、それは間違い。
19願のお導きによらずして18願に救われる人などいない。
「浄土門に入っている人」をお導き下さるのは「何によって」かを理解していない。
「弥陀の19願」「釈迦の福徳蔵」の説によってであり、
それを善導大師は、
定散両門は、定善も散善もできない常没の凡夫が相手
と明らかにされた。
これが分からない人は、読解力の問題であろう。
このように、
赤沼智善著の『教行信証講義』によって解釈しても、
定散両門の相手は、決して聖道門だけではない。
迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)が相手
なのである。
> 定散両門は、聖道門のものを相手であって
> 浄土門が相手ではない。
と主張する飛●氏にとっては、都合の悪いはずの文章なのだが、
それを誤解して自説の肯定に使ってのける飛●氏。
間が抜けているというか、またしても自己否定。
それにしても、自己否定が多い。
飛●氏が時々引用する利井鮮妙和上も、
「第十八願の機は
第十九、二十願を経過して必ず三世に三願転入するが故に。」
と述べていられるように、
すべての人は、意識しようとすまいとに関わらず、
弥陀が遠い過去世から十方衆生を、
18願、19願、20願の三願で助けようとせられている。
19願のお導きにあわないで救われる人などいないということだ。
「三願転入の教え」と言われる所以である。
「19願は不要」などと言う飛●氏は異説の親玉。
利井和上の言葉のように、必ず三願転入させるという願心を知らされた人には、
19願・20願の「十方衆生」を「すべての人」と領解されるのである。
宗祖御自身、それを信知せられたのが、三願転入の御文である。
異訳本を持ち出してまで、
「19願の対機はもともと18願の対機と異なる」
「19願の相手は善人だ、すべての人ではない」
と、飛●氏は無意味なことを繰り返す。
顕説であれば当然のことで、
これをもって、19願や20願の「十方衆生」を「すべての人」と教えられる親鸞会を
間違いだとする根拠などにはならない。
19願の心を教えられた観無量寿経の、
「顕説」と「隠彰」がどういうことなのか、
飛●氏は、ぜんぜん、わかっていないのである。
ここでも山辺赤沼の教行信証講義の解説をあげておこう。
「諸仏如来有異方便。
顕文からいうと、定善の観門が極楽浄土を見る方便たることを示し
隠からいうと、広く定散の諸善が弘願に通入する方便なること」
定散の諸善は、
顕文には、聖道門の人も含めた、
いまだ18願の救いを求めていない人を誘引する方便。
隠には、18願の救いを求める人を信楽獲得まで導く方便。
すなわち、教行信証に宗祖が明らかにせられている通り、
「金剛心を獲得することを教えてください」と要請した
「18願の正客たる悪人」に対して
「定散両門は信心獲得まで導いてくださる方便の教」
と教えられたのが隠説なのである。
「できなかったら救わない」ではないから要注意。
韋提希は、
顕義では、定善を行じる定善の機。
その韋提希に「汝是凡夫心想羸劣」と言われているのは、
山辺赤沼の教行信証講義にも
「聖人から見れば、
下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、
定散の機類は一応善機と云はれるけれども、
徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。
我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、
真を徹見し給ふのである。
定散の機といふは表相である、仮相である。
真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。」
とあるように、
韋提希は、仮の相は定善の機であっても、
真実の姿は、極重悪人であることを、
隠義(真実義)で明らかにされているものである。
定善の機が極重悪人なら、散善の機はなおさらだから
「定散諸機は極重悪人」。
善導大師も仰せの通り、九品は遇縁の差異あるのみで、
通じて真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。
されば、
> 善人である「定散の諸機」も
> 結局は「極重悪人」同様、18願しかないのだ、
> と仰ったお言葉です。
などと、定散の諸機を飽くまでも、極重の悪人と切り離して
善人という別枠に定まった機類であるかのように判じているのは、
飛●氏の頭下足上ぶりがいよいよ明らかである。
すなわち
「定散二善は聖道門の人に説かれた」という飛●氏の主張は、
顕義に固執した、しかも狭い見方。
葦の髄から天井を覗くようなもの。
宗祖の真意は隠義なのである。
韋提希夫人が「定善をして忍を獲た」というのが顕説なのだから、
そもそも「定散二善を実践しようともしていない」などという飛●氏は、
「顕説さえも無い」と言っていることになり、もはや無茶苦茶。
自損損他の咎、のがれ難し。
飛雲氏の間違いは、まだまだある。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 15時58分
しっかり読んでから反論してもらいたい。
「常没の凡愚」とは善導大師は「善悪の凡夫」と言い換えておられる。
つまり
常没の凡愚=善凡夫+悪凡夫
である。
悪凡夫については、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」であるが、
善凡夫とは、定善・行福・戒福・世福のできる凡夫である。
要するに
常没の凡愚は、善のできる凡夫と善のできない凡夫のことをいったものである。
聖道門は散善は大小の聖者のためではなく、善のできる凡夫のためにとかれたということである。
善のできない凡夫には念仏ということになる。
では善のできる善凡夫が存在するのかと言う話であるが、親鸞聖人は
高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。
高玉・智覚禅師は行福のできた善凡夫だということである。
次に、
しかるに常没の凡愚、
定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(宗祖)
これは「かたし」であって、「不可」ではない。
常没の凡愚には難しいのであって、誰一人できないとは仰っていない。
再度、
高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。
よって、19願は善のできる善凡夫のために建てられた願だと言うことである。
これを親鸞聖人は
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。
信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
この要門より正・助・雑の三行を出せり。
この正助のなかについて、専修あり雑修あり。
機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。
(化土巻)
と仰ったのである。
19願は定散諸機(善凡夫)のためであると。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 16時40分
オワコンのブログからの引用であるが、オワコンになったのは、論破されたからである。
結論は以下である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全く反論できない、みじめな高森派の記録。
1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。
2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。
3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。
4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。
5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。
6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。
7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。
8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。
9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。
10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。
投稿: 蜘蛛 | 2015年7月31日 (金) 10時04分
11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。
12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。
13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。
14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。
15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。
16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。
17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。
18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。
19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。
20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。
21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。
22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。
23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。
24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。
25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。
26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。
27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。
28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。
29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。
30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。
31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。
32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。
33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 16時43分
「常没の凡愚」については、完全に決着した話を持ち出して、また同じ恥をかこうという愚かさですね。
もう一度、
常没の凡愚=善のできる善凡夫+善のできない悪凡夫
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 16時48分
>19願のお導きによらずして18願に救われる人などいない。
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
根拠なしですね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 16時51分
飛雲より引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは?
偽装本願寺布教師も、高森会長同様、法論から逃げ回っていますが、親鸞聖人の正しい教えを明らかにするためであれば、公けの場で法論をすればいいのです。ブログでこそこそ書いているよりも、その方が話が早いです。いつも書いている通り、私はいつでも法論に応じます。ただし、日本語の理解できる人に限ります。
私以外にも、親鸞会もしくは親鸞会擁護者を論破したい退会者は一杯います。具体的な場所としては、
mixiの「信仰と対話」コミュニティ内「*「三願転入」議論継続トピック*」
がよいでしょう。ここであれば、発言やトッピックの削除の心配はありませんので、思う存分議論ができます。
逃亡し続ける高森会長に代わって法論をする勇気のある人は、いつでも法論に応じましょう。
法論に応じられないなら、黙っておきない。
さて、親鸞会には、他では通用しない親鸞会用語がありますので、その用語の間違いから正していかなければなりません。
これは、退会後でも親鸞会用語が抜け切らず、聖教が正しく読めない状態が続きますので、深刻な問題です。当ブログの読者からそのことで要望があり、親鸞会用語の間違いから、今後は説明していきたいと思います。
善導大師は『玄義分』で
さだめて凡夫のためにして聖人のためにせずといふことを証す。
と仰っていますが、親鸞会では、この「凡夫」を「悪凡夫」、もっといえば「下品下生」の逆謗の屍としか理解できないのですが、この「凡夫」は「善凡夫」と「悪凡夫」です。
善導大師がこのように仰ったのは、当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、聖人等のために説かれた、という解釈であったために、その誤りを正されてこのように仰ったのです。当時の解釈は以下です。
初めに諸師の解といふは、先づ上輩の三人を挙ぐ。上が上といふは、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りてすなはち無生忍を得るによるがゆゑなり。上が中とは、これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りて一小劫を経て無生忍を得るによるがゆゑなり。上が下とは、これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りて三小劫を経てはじめて初地に入るによるがゆゑなり。
この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。次に中輩の三人を挙げば、諸師のいはく、中が上とはこれ三果の人なり。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りてすなはち羅漢を得るによるがゆゑなり。中が中とはこれ内凡なり。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りて須陀洹を得るによるがゆゑなり。
中が下とはこれ世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りて一小劫を経て羅漢果を得るによるがゆゑなり。この三品はただこれ小乗の聖人等なり。
下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。
ここで「善凡夫」に関係する上品上生から中品下生までをまとめると
上品上生……これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。
上品中生……これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。
上品下生……これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。
中品上生……これ三果の人なり。
中品中生……これ内凡なり。
中品下生……世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。
ということです。
上輩(上品の三生)については
この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。
とあり、中輩(中品の三生)については
この三品はただこれ小乗の聖人等なり。
と当時は解釈されていたのです。
それに対して善導大師が、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」と仰ったのです。聖人等のために三福は説かれたのではなく、凡夫のために説かれたということです。そしてこの凡夫は「悪凡夫」ではなく「善凡夫」であることは、その後の善導大師の解釈を読まれれば明らかなことです。
上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。
何度もいいますように、仏教では大きく
聖者
善凡夫
悪凡夫
と分けられます。
三福を「聖者」(聖人)に対して説かれたのではなく、その1つ下の「善凡夫」に対して説かれたと仰ったのであって、「善凡夫」を飛び超えて「悪凡夫」のために説かれたと飛躍させるのが親鸞会のトリックです。
「聖者」は出離していますので、当然ながら「常没の衆生」ではありません。「善凡夫」は出離していませんので、「常没の衆生」です。常識です。
この基本的なことを無視して、「常没の衆生」は「悪凡夫」と同義のことであり、下品下生のことであると、勝手に思い込んでいるだけのことです。親鸞会で根拠もなく言い続けている
十方衆生=逆謗の屍
と大沼師が書いたのをそのまま鵜呑みにして、高森会長が話をしているだけですが、それが染みついていると、親鸞会のトリックに騙されます。
しかし、仏教の常識、真宗の常識を学べば、親鸞会のトリックが容易に見破れます。
『観無量寿経』で教えられていることを一言でいえば、存覚上人の『持名鈔』の
上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
です。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 17時13分
善導大師は、定善ができた方ですよ。でも、常没の凡夫だとおっしゃってます。
でも、下品下生の者は、善根あることなしだから、無善なんですよ。
その無善の者が念仏称えて救われるのが、18願。
下品下生の者が、善をして救われると教えられた善知識のお言葉はまだ?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 18時52分
生まれた時から下品下生の者を示してください。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時02分
>生まれた時から下品下生の者を示してください。
あなたの意見では、下品下生の者と下品下生でない者がいるということですね。
あれ〜、全人類は下品下生の者だと言っていた高森会長は間違いだと言いたいのですね。賛同します。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時08分
『法然上人絵伝』にある九品往生人
上品上生 智覚禅師(新修往生伝)
上品中生 尼善慧(戒珠集)
上品下生 侍従所監藤原忠季(後捨遺往生伝)
中品上生 大原沙彌(戒珠集)
中品中生 少将義孝(保胤往生伝有夢告)
中品下生 沙門智縁(戒珠伝)
下品上正 釈法敬(戒珠伝)
下品中生 覚真阿闍梨(続本朝往生伝)
下品下生 釈慧進(新修往生伝)
全人類は、下品下生の一機なのかどうか?
親鸞会擁護者からも疑問がでてますね。
でも、上品上生から中品下生までも存在する筈ですけどね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時28分
聖者
善凡夫
悪凡夫
と分けられます。
三福を「聖者」(聖人)に対して説かれたのではなく、その1つ下の「善凡夫」に対して説かれたと仰ったのであって、「善凡夫」を飛び超えて「悪凡夫」のために説かれたと飛躍させるのが親鸞会のトリックです。
「聖者」は出離していますので、当然ながら「常没の衆生」ではありません。「善凡夫」は出離していませんので、「常没の衆生」です。
---------------------------------------------------------------
親鸞聖人の教えでは、そのように説かれません。親鸞聖人は、親鸞聖人の達見があるのです。名号を本尊にされたのが初めてなのも親鸞聖人、阿弥陀仏の浄土に生まれたらば即、仏となると教えられたのが初めてなのも親鸞聖人。
その他多くに、親鸞聖人の独特の読まれかたがあるのです。親鸞聖人のご教導に文句ありますか。
善導大師の言われなかったことを、説かれる親鸞聖人を、どのように批難されるのでしょうね。
すべての人が極重の悪人であると説かれることについても同様です。
親鸞聖人が言われたことを無条件におきかせいただくのが、浄土真宗の道です。
~
「 極悪の人間観
まずはじめに、親鸞聖人は人間をどのように見られたか、聖人によってとらえられた人間とはいかなるものであったか、という問題について考えてみたいとおもいます。
親鸞聖人はご自身を「愚禿親鸞」とよばれただけでなく、「愚悪の衆生」「邪見喬慢の悪衆生」「穢悪の含識」「極重の悪人」というような、悪の字のついた人間の呼び方がたくさんあらわれます。
さらに「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の凡夫」というような、煩悩に泥まみれになった人間の表現も数多く見られ、歎異抄には「地獄は一定すみかぞかし」(「註釈版聖典」八三三貢)とあります。
ですから、親鸞聖人の人間観といえば、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」といってよいでしょう。その意味では、親鸞聖人ほど徹底して人間を悪人と見られた人はいないと思われます。悪に極まりがない、極悪人と見てとられるのです。
しかし、こんないい方が今日現代人にうけ入れられるでしょうか。親鸞聖人のような人間観がうけ入れられるかどうか、さっそく拒絶反応をおこす人があるのも、あながち不自然なことではありません。
「なぜ、それほどまでに、人間を極悪人あつかいしなければならないのか」「親鸞はよほど自虐性の強い人なかったのか」というような言葉がささやかれるのも、無理なことではないようにおもわれます。
聖人の立場
しかし、いうまでもなく、そういう意見は聖人のおしえを正しく理解している人の言葉ではありません。
誤解というものは、往々にして立場のちがいから起こるものです。親の言葉が子供に誤解されやすいのも、親の立場が子供に理解されないからです。」
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
中央仏教学院【専修課程(僧侶養成)】
1年次「真 宗」p.43 ~ 45
(平成28年度版 5月31日現在)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時37分
親鸞聖人の衆生の分け方
二機とは、
一には善機、 二には悪機なり。
また善機について二種あり。[また傍・正あり。]
一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
また傍・正ありとは、
一には菩薩 [大・小] 二には縁覚、
三には声聞・辟支等 [浄土の傍機なり。]
四には天 五には人等なり。[浄土の正機なり。]
また悪機について七種あり。
一には十悪、 二には四重、
三には破見、 四には破戒、
五には五逆、 六には謗法、
七には闡提なり。
(愚禿鈔)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時44分
凡聖逆謗
大小聖人
善悪凡夫人
など正信偈にもありますよ。
「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」
これは善凡夫でもおなじこと。
善導大師は御自身のことを悪凡夫とは仰っていませんが、「愚かで、罪ぶかくて、煩悩に泥まみれになったもの」ということは仰っていますからね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時50分
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
根拠なしですね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時50分
そうですか。
あなたはどの程度くらいのお方でしょうか。
親鸞聖人は
「地獄一定の者」とおっしゃっておられます。
あなたは?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時53分
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。(御本典)
高玉禅師・智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人は仰ってますよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時53分
それほどまでに分けられたいのなら、こたえてください。
あなたはどの位の人ですか。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時54分
「地獄は一定すみかぞかし」について
この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。
「われら凡夫かならず地獄におつべし」の後に、
「決定悪道へゆくべかりつる身」
「三悪・四趣の生をひくよりほか」
「六趣・四生よりほかはすみかもなく」
「三途・八難にこそしづむべけれ」
と言い換えられた親鸞聖人のお言葉が紹介されています。
ここから
地獄一定とは、三悪道に決まっている、六道に決まっている
程度の意味にしかなりません。
実際、親鸞聖人の御著書にも六道か悪道としか書かれていません。
残念ですが。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時54分
答えてください。
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時55分
本願寺の 必堕無間の話は 味わいの話だそうです。そして●隆信師 がすべての人に伝えたい味わいだそうです。
教義の違いから対立し、本願寺を不法占拠、座り込みした親鸞会の教えを信じ、本願寺のテキストだけを命として、必堕無間の味わいを全国に広めたいそんな●隆信師。かわいそうに。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時57分
>あなたの意見では、下品下生の者と下品下生でない者がいるということですね。
あれ〜、全人類は下品下生の者だと言っていた高森会長は間違いだと言いたいのですね。賛同します。
仏の眼から御覧になれば、全人類は下品下生の者ということです。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時13分
>仏の眼から御覧になれば、全人類は下品下生の者ということです。
この根拠は?
ないですが(笑)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時15分
以下をしっかり読んでください。
『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」
と勧励したまへるなり。
(教行信証化土巻)
○ 正しい意味 :観経に定散の諸機が説かれているのは、
「極重の悪人は、
他力の念仏以外に極楽へ往生する術はないぞ」
早く知れよと勧め励ましておられるのである。
× 飛雲氏の解釈 :定善・散善三福のできる善人も、
五逆の極重の悪人も、
「ただ弥陀を称せよ」ということ。
《間違いのポイント》
・宗祖が、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と言われた相手が
観経の「定散諸機」であるが、
飛雲氏は、「定散諸機」と「極重悪人」とを別人と見ている。
文法から言ってもおかしい自己流の解釈である。
・定散諸機を「定善・散善三福のできる善人」と解釈している。
これは、宗祖が「極重の悪人」と言われたことと正反対。
山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』の解説を見ても、
「定散の機類は、徹底的にいへばすべて極重の悪人」
「定散諸機の真なる相は極重悪人」
とあり、明らか。飛●氏はこれを引用してまで間違えている。
・善導大師は、観経疏において、
定散諸善を釈迦が説かれた相手は「常没の凡夫」とされ、
宗祖は善導大師のお心を明らかにせられる為に、
「常没の凡夫」には定善散善ができないことを、
しかるに常没の凡愚、
定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。
と『教行信証化土巻』に示された。
「できる」と「できない」とは正反対。
飛●氏と宗祖とは正反対である。
・ここで「常没の凡夫は、定善、散善ができない」
という解釈は、一般的なものであり、
以下、飛●氏自身も引用している文献にもある。
『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』
浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編)参照
はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、
定善の行を修めることができない。
心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。
散善の行も修めることができない。
悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。
「定善の行を修めることができない。」
「散善の行も修めることができない。」
ハッキリしている。
・また、飛●氏が善知識扱いしている●偽検証でも、
この化土巻の宗祖のお言葉を受けて
> 聖道門では生死を離れることの出来ないもののために要門を説いて
> 浄土門へと誘引された訳ですが、
> その要門さえも如実に修行することができないことが
> 『教行信証化土巻』に説かれているのです。
>
>
> 親鸞会のいうように要門を実行させるならば、
> このように「できない」と説かれているのはありえないことです。
> 「凡夫には不可能なことですよ、でも実行しなさい」では
> 不可能だと説く意味がなくなってしまいます。
> また、「できない」と説かれているのに、
> 実行させようとするのは、無慈悲なことです。
「できない」「不可能」とまで述べている。
飛●氏自身は、
> 日本語の判らない人には、
> 「かたし」が”可能性0”としか読めないのです。
> 「かたき」は文字通り難しいのであって、”可能性0”ではありません。
あくまでも「不可能ではない」と、頑張る。
支離滅裂である。
・常没の凡夫でも定散諸善が出来る”可能性は0ではない”
と踏ん張る飛●氏の主張自体が、
定散諸善が出来る人は”殆どいない”というニュアンス。
善導大師は、「定散諸機(常没の凡夫)」相手の教説が定散諸善とされているのだから、
「定善散善が出来る人が殆どいない定散諸機に、定散諸善を勧めている」
と主張していることになる。
これは、
「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説と
整合性がない。
・更に、”可能性は0ではない””出来る人もある”ならば、
当然”出来ない人もある”ということでもあるから、
「常没の凡夫を相手に定散諸善を勧められた」
という善導大師の仰せは、
「定散諸善の出来ない人にも定散諸善が勧められた」
という意味を持つことを飛●氏は自認することになる。
これもまた、
「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説を否定する。
飛●氏の説は支離滅裂である。
「定散諸善は上中の二品のみで、下品には念仏のみ」と述べるのは顕説に留まる人。
宗祖は、「念仏」の相手が定散諸機にわたるとされ、
定散諸機は、定散修し難いものと明らかにされた。
かくして、
定散の修し難い常没の凡夫に金剛心正受の為の方便として定散諸善が施され、
念仏へと導かれていることを善導大師や宗祖は明らかにせられた。
常没の凡夫とは、まぎれもなく、我々のこと。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時16分
お釈迦様の眼から御覧になられて、全人類は
上品上生
上品中生
上品下生
中品上生
中品中生
中品下生
下品上生
下品中生
下品下生
の9に分けられたのですが。
あれ~、お釈迦様は仏ではなかったってこと?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時19分
オワコンのブログからの引用って、ワンパターン。
もう一度
善導大師の九品の解釈
上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。
散善のできる人が散機
当たり前のはなし。
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。(御本典)
高玉禅師・智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人は仰ってますよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時23分
定善散善が誰もできないなどとは親鸞聖人は仰っていない。
その証拠が
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。(御本典)
高玉禅師・智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人は仰ってますよ。
何度同じことを言わせればわかるのか。
分かっていて撹乱したいだけでしょうけど。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時26分
これに答えることができないから、オワコンブログを貼り付けるしか能がないってことですよね。
親鸞会擁護の人へ、以下お忘れなく。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
この2点が出せなければ、親鸞会が何を言っても無意味。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時28分
上品上生なのか、下品下生なのか、
それは、その時その時の縁に依るのであり、
定まった相は無いのである。
上品上生と評される智覚禅師であっても、
それが定まった相でも実機でもない。
実機は一等の悪人。
しっかり読んで勉強してください。
九品の実機は一等の悪人なり。
この『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、
総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。
ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、
九品をして差別せしむることを致す。
なんとなれば、
上品の三人はこれ大に遇へる凡夫、
中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。
悪業をもつてのゆゑなり。
終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。
かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。
(観経疏)
これについて、
「悪業をもつてのゆゑなり」以下は、
いま下下品を結する文相なれども広く九品に通ずるなり。
一往、遇縁に上中の二輩の差別は大乗小乗の差別あれども
常没の凡夫なれば、機は一等の悪人なり。
今、本願所被の正機を示して偏に願力所入の利益を顕したもうなり。
(相伝義書)
九品の実機は、「一等の悪人」すなわち「本願所被の正機」。
これが、真宗伝統の解釈である。
慧遠は、上品・中品を大乗・小乗の聖人と見做し、
下品でさえ凡夫とは言うものの大乗初学であると判じた。
それに対して善導大師は、
「ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず」
と批判された。
「またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、
総じてこれ仏の世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。」
「我らは五濁の凡夫である」の自覚を以って
慧遠の解釈に反対なされているのである。
善導大師の凡夫の自覚、すなわち機の深信に照らせば、
殊勝な善人に見える上品上生の機でさえ一等の悪人たる凡夫。
九品は総じて皆、五濁・末法の世の凡夫。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」の凡夫。
善悪の区別があるように思えても、
それは全て宿業のままであることから一歩たりとも外へ出ることは出来ない。
それ故に「観経」に九品の機の差別があるように説かれていても、
実際は、
「ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、
九品をして差別せしむることを致す。」
と善導大師が仰る通りである。
上品上生なのか、下品下生なのか、
それは、その時その時の縁に依るのであり、
定まった相は無いのである。
上品上生と評される智覚禅師であっても、
それが定まった相でも実機でもない。
実機は一等の悪人。
善導大師は、
一切の生まれつきの機類を「九品の凡夫」と見做され、
その全てを阿弥陀仏の救いへと導くために「観経」が説かれた
と断言なさるのである。
これが本願寺の伝承である。
一乗海の機となるまでの間を引入せんために
要門方便を開きたまう故に
正助二行、正雑二行と対判して勧誘したまうなり。
しかれば、これ正・助・雑の三行ともに
要門より出たる名目なり。
『讃』に
「釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ」
専修といい正行というは、他力仏辺に属したる名言なれども、
機にうけて助・雑に対する待対法のあるあいだは要門の中の摂なり。
この正助、専雑はみな方便の行に摂すること
「愚禿鈔」の御指南思い合わすべし。
「機について二種あり」等已下は、方便仮門の機を釈したまうなり。
すなわち願文の「十方衆生」なり。
定散の二機は「観経」十九の願当分の機なり。
大師は「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」
と釈したまえり。
一代教より「観経」までの機、
おしなべて一切衆生のうまれつきの機を定散の二に摂するなり。
これみな十九願海の機類なり。
如来この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、
大小の聖のためにせずといふことを証明す。(観経疏)
かくして19願の機類は、生まれ来るすべての人であり、
定散二善はすべての「常没の衆生」のために説かれたものだから、
弥陀の救いを求める未信のひとも対象である。
常没の衆生とは、つねに迷いの世界に沈んでいる凡夫ということで、
宗祖はこう仰せである。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。
これを飛●氏は
「しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、
定善の行を修めることができない。」
と解釈している。これはその通り。
「常没の凡愚には、定善も散善もできない」
この飛●氏の主張が本当ならば、
「定善や散善が出来る人」=「”常没の凡愚”ではない人間」
ということになる。
日本語が分かれば、誰でもそう理解するであろう。
ところが飛●氏は、続けてこう述べる。
「我々のような常没の凡愚には、定善も散善三福もできない、
ということですが、かといって
誰も定善・散善三福ができないということではありません。」
「定善や散善が出来る人」すなわち
「”常没の凡愚”ではない人間」が存在するという。
一体どなたのこと?
飛●氏は述べる。
「龍樹菩薩も善導大師も定善ができた方ですし、
智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人も仰っています。」
飛●氏は、
「龍樹菩薩や善導大師は常没の凡愚ではない。
智覚禅師も常没の凡愚ではないと、親鸞聖人が仰っている」
などと言っていることになる。
弥勒菩薩でさえ常没の衆生だと釈尊は仰せなのだから、
明らかに間違いである。
しかしいくら無知の飛●氏でも、
これらの方々が常没の凡愚であることぐらいは、きっと御承知のはず。
だとすれば、飛●氏の主張は、
「常没の凡愚の中に、定善や散善ができる人がある」という主張になる。
これは、
「しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、
定善の行を修めることができない。」
という自説を自己否定している。
しかし宗祖はおっしゃる。
「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。」
「常没の凡愚の中に、定善や散善ができる人がある」 (飛●氏)
「常没の凡愚には、定善も散善もできない」 (宗祖)
飛●氏は他流である。
飛●氏が「善知識」として他人に紹介している「安心●答」でさえ、
『観無量寿経』で、定散二善を説かれたのですが、
「常没の凡愚」には、定善も散善もできないのです。
と飛●氏の説を否定している。
「地獄一定=機の深信」と述べる本願寺を、
”異安心”だと言いながら、
自説の肯定に、その本願寺の説を引用する飛●氏には無理からぬことか。
飛●氏は、相対門と絶対門の区別がついていない。
実機というものを、学問でしか思い至ってはいないようである。
法然上人の勅伝の解釈が出来ないのも当然であろう。
間違いだらけで目も当てられぬ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時30分
親鸞会擁護者が答えることができないので、結論。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
善知識方は口を揃えて
無善で往生する
と教えられていますので、こんなお言葉はありません。
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
19願は元々眼中になかったので、勧められることなどありえません。
親鸞聖人だけは、法然門下を非難攻撃した聖道門が重要視した19願について解説せざるを得なかっただけのことで、当然ですが親鸞聖人も19願を勧められてはいません。
ですから、19願を勧められたお言葉は、存在しません。
以上より、
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無善で獲信し往生できることを次第相承の善知識が異口同音に教えられた
高森会長の宿善論、三願転入論は完全な間違い
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投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時32分
「どんなものをも かならずたすける ぜったいの こうふくに」はうそであると しんらんかいは、いっている。どんなものということは ぜんのススメにしたがうものも したがわないものも かんけいがない。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時34分
博多でけんてつ と豊田商事の殺された永野会長と同じエレベーターに乗ったことがある
吉村も永野の友達の岐阜の菊池もいたなあ~
金の亡者 極悪人が狭い空間にいっぱい
今から思うと刺激的な瞬間だな
あの時辞めてつくづくよかったと思う
あの頃けんてつの異常性に気づく者が少なくて…
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時36分
>「定善や散善が出来る人」すなわち
>「”常没の凡愚”ではない人間」が存在するという。
しっかり読みましょうね。
「定善や散善が出来る人」を善凡夫
「定善や散善が出来ない人」を悪凡夫
「常没の凡愚」=善凡夫+悪凡夫
善凡夫も流転しますから常没
出離された菩薩と流転を繰り返す凡夫の区別くらいつけましょう。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時37分
流転するから 凡夫
善凡夫も凡夫。
善凡夫も菩薩ではないから流転する。
こんなことさえ知らないなんて(笑)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 20時57分
善凡夫は、流転しないと思ってたなんて、それで飛雲さんが間違いだとか言って、恥ずかしくないのかよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時00分
>2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
19願は元々眼中になかったので、勧められることなどありえません。
親鸞聖人だけは、法然門下を非難攻撃した聖道門が重要視した19願について解説せざるを得なかっただけのことで、当然ですが親鸞聖人も19願を勧められてはいません。
ですから、19願を勧められたお言葉は、存在しません。
19願はすべての人を真実へ導くものだという根拠があります。
何度も言っていますが、以下をしっかり読んでから反論してください。
如来この十六観の法を説きたまふは、
ただ常没の衆生のためにして、
大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(善導大師)
釈迦が、定散二善を説かれた相手は、
ただ「常没の凡夫」である。
しかるに常没の凡愚、
定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(宗祖)
「常没の凡夫」には、定善や散善をすることはできない。
釈迦は、定散二善を、
定善も散善もできない「常没の衆生」のために説かれたということ。
これが、真仮を知る善知識方の御教示。
「定散両門は定善・散善ができる人が相手、聖道門の人のみ相手」
と繰り返す飛雲氏の邪説を、善導大師や宗祖が破っておられる。
定散二善は浄土門の人に無関係だと言う飛雲氏が、
根拠のつもりで提示する以下のお言葉を見てみよう。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかだが、
飛●氏はこの解説をも誤解して、こう述べる。
> 聖道門の人を浄土門に誘引し、
> すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとありまして、
> 極めて素直な解釈です。
飛●氏には、自己否定が多い。
ここで飛●氏は、
「普く迷ひに沈める一切衆生を化導」という部分を
「聖道門の人を浄土門に誘引し、
すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれる」
と理解しているようだが、
さて、「すでに浄土門に入っている人」を18願真実門に、
「何によって」導くと書かれている文章だろうか。
この『教行信証講義』では、
> 然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
> 如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
「普く迷いに沈める一切衆生」を
「此の本願(第19願)を発して」化導して下さるということ。
迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)を
第19願によって化導されるということ。
此の本願(19願)が本で、釈尊の福徳蔵の教説があらわれたのだから
> 釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
> 真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
> 修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
> そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
これも、
広く一切衆生を、
「釈迦が福徳蔵を説きあらわして」真実門へと誘引うて下さるということ。
「阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」(宗祖)
弥陀は、第19願によって、一切の常没の凡夫を導かれるということ。
「あまねく諸有海を化したまふ」
を、飛●氏は、
「聖道門の人を浄土門に誘引し、
すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれる」
と述べ、
あたかも19願によって導かれずして浄土門に入っている人が
存在するかのように書いているが、それは間違い。
19願のお導きによらずして18願に救われる人などいない。
「浄土門に入っている人」をお導き下さるのは「何によって」かを理解していない。
「弥陀の19願」「釈迦の福徳蔵」の説によってであり、
それを善導大師は、
定散両門は、定善も散善もできない常没の凡夫が相手
と明らかにされた。
これが分からない人は、読解力の問題であろう。
このように、
赤沼智善著の『教行信証講義』によって解釈しても、
定散両門の相手は、決して聖道門だけではない。
迷いに沈める一切衆生(浄土門に入っている人も当然含む)が相手
なのである。
> 定散両門は、聖道門のものを相手であって
> 浄土門が相手ではない。
と主張する飛●氏にとっては、都合の悪いはずの文章なのだが、
それを誤解して自説の肯定に使ってのける飛●氏。
間が抜けているというか、またしても自己否定。
それにしても、自己否定が多い。
飛●氏が時々引用する利井鮮妙和上も、
「第十八願の機は
第十九、二十願を経過して必ず三世に三願転入するが故に。」
と述べていられるように、
すべての人は、意識しようとすまいとに関わらず、
弥陀が遠い過去世から十方衆生を、
18願、19願、20願の三願で助けようとせられている。
19願のお導きにあわないで救われる人などいないということだ。
「三願転入の教え」と言われる所以である。
「19願は不要」などと言う飛●氏は異説の親玉。
利井和上の言葉のように、必ず三願転入させるという願心を知らされた人には、
19願・20願の「十方衆生」を「すべての人」と領解されるのである。
宗祖御自身、それを信知せられたのが、三願転入の御文である。
異訳本を持ち出してまで、
「19願の対機はもともと18願の対機と異なる」
「19願の相手は善人だ、すべての人ではない」
と、飛●氏は無意味なことを繰り返す。
顕説であれば当然のことで、
これをもって、19願や20願の「十方衆生」を「すべての人」と教えられる親鸞会を
間違いだとする根拠などにはならない。
19願の心を教えられた観無量寿経の、
「顕説」と「隠彰」がどういうことなのか、
飛●氏は、ぜんぜん、わかっていないのである。
ここでも山辺赤沼の教行信証講義の解説をあげておこう。
「諸仏如来有異方便。
顕文からいうと、定善の観門が極楽浄土を見る方便たることを示し
隠からいうと、広く定散の諸善が弘願に通入する方便なること」
定散の諸善は、
顕文には、聖道門の人も含めた、
いまだ18願の救いを求めていない人を誘引する方便。
隠には、18願の救いを求める人を信楽獲得まで導く方便。
すなわち、教行信証に宗祖が明らかにせられている通り、
「金剛心を獲得することを教えてください」と要請した
「18願の正客たる悪人」に対して
「定散両門は信心獲得まで導いてくださる方便の教」
と教えられたのが隠説なのである。
「できなかったら救わない」ではないから要注意。
韋提希は、
顕義では、定善を行じる定善の機。
その韋提希に「汝是凡夫心想羸劣」と言われているのは、
山辺赤沼の教行信証講義にも
「聖人から見れば、
下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、
定散の機類は一応善機と云はれるけれども、
徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。
我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、
真を徹見し給ふのである。
定散の機といふは表相である、仮相である。
真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。」
とあるように、
韋提希は、仮の相は定善の機であっても、
真実の姿は、極重悪人であることを、
隠義(真実義)で明らかにされているものである。
定善の機が極重悪人なら、散善の機はなおさらだから
「定散諸機は極重悪人」。
善導大師も仰せの通り、九品は遇縁の差異あるのみで、
通じて真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。
されば、
> 善人である「定散の諸機」も
> 結局は「極重悪人」同様、18願しかないのだ、
> と仰ったお言葉です。
などと、定散の諸機を飽くまでも、極重の悪人と切り離して
善人という別枠に定まった機類であるかのように判じているのは、
飛●氏の頭下足上ぶりがいよいよ明らかである。
すなわち
「定散二善は聖道門の人に説かれた」という飛●氏の主張は、
顕義に固執した、しかも狭い見方。
葦の髄から天井を覗くようなもの。
宗祖の真意は隠義なのである。
韋提希夫人が「定善をして忍を獲た」というのが顕説なのだから、
そもそも「定散二善を実践しようともしていない」などという飛●氏は、
「顕説さえも無い」と言っていることになり、もはや無茶苦茶。
自損損他の咎、のがれ難し。
飛雲氏の間違いは、まだまだある。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時00分
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかだが、
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時02分
同じことを(笑)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時02分
親鸞会擁護者が答えることができないので、結論。
1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
善知識方は口を揃えて
無善で往生する
と教えられていますので、こんなお言葉はありません。
2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
19願は元々眼中になかったので、勧められることなどありえません。
親鸞聖人だけは、法然門下を非難攻撃した聖道門が重要視した19願について解説せざるを得なかっただけのことで、当然ですが親鸞聖人も19願を勧められてはいません。
ですから、19願を勧められたお言葉は、存在しません。
以上より、
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
無善で獲信し往生できることを次第相承の善知識が異口同音に教えられた
高森会長の宿善論、三願転入論は完全な間違い
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投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時09分
>2.19願を勧められた次第相承の善知識のお言葉
>19願は元々眼中になかったので、勧められることなどありえません。
親鸞聖人だけは、法然門下を非難攻撃した聖道門が重要視した19願について解説せざるを得なかっただけのことで、当然ですが親鸞聖人も19願を勧められてはいません。
ですから、19願を勧められたお言葉は、存在しません。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかだが、
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時22分
>1.下品下生の者が善をして往生すると仰った次第相承の善知識のお言葉
>善知識方は口を揃えて
無善で往生する
と教えられていますので、こんなお言葉はありません。
上品上生なのか、下品下生なのか、
それは、その時その時の縁に依るのであり、
定まった相は無いのである。
上品上生と評される智覚禅師であっても、
それが定まった相でも実機でもない。
実機は一等の悪人。
しっかり読んで勉強してください。
九品の実機は一等の悪人なり。
この『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、
総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。
ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、
九品をして差別せしむることを致す。
なんとなれば、
上品の三人はこれ大に遇へる凡夫、
中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。
悪業をもつてのゆゑなり。
終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。
かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。
(観経疏)
これについて、
「悪業をもつてのゆゑなり」以下は、
いま下下品を結する文相なれども広く九品に通ずるなり。
一往、遇縁に上中の二輩の差別は大乗小乗の差別あれども
常没の凡夫なれば、機は一等の悪人なり。
今、本願所被の正機を示して偏に願力所入の利益を顕したもうなり。
(相伝義書)
九品の実機は、「一等の悪人」すなわち「本願所被の正機」。
これが、真宗伝統の解釈である。
慧遠は、上品・中品を大乗・小乗の聖人と見做し、
下品でさえ凡夫とは言うものの大乗初学であると判じた。
それに対して善導大師は、
「ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず」
と批判された。
「またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、
総じてこれ仏の世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。」
「我らは五濁の凡夫である」の自覚を以って
慧遠の解釈に反対なされているのである。
善導大師の凡夫の自覚、すなわち機の深信に照らせば、
殊勝な善人に見える上品上生の機でさえ一等の悪人たる凡夫。
九品は総じて皆、五濁・末法の世の凡夫。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」の凡夫。
善悪の区別があるように思えても、
それは全て宿業のままであることから一歩たりとも外へ出ることは出来ない。
それ故に「観経」に九品の機の差別があるように説かれていても、
実際は、
「ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、
九品をして差別せしむることを致す。」
と善導大師が仰る通りである。
上品上生なのか、下品下生なのか、
それは、その時その時の縁に依るのであり、
定まった相は無いのである。
上品上生と評される智覚禅師であっても、
それが定まった相でも実機でもない。
実機は一等の悪人。
善導大師は、
一切の生まれつきの機類を「九品の凡夫」と見做され、
その全てを阿弥陀仏の救いへと導くために「観経」が説かれた
と断言なさるのである。
これが本願寺の伝承である。
一乗海の機となるまでの間を引入せんために
要門方便を開きたまう故に
正助二行、正雑二行と対判して勧誘したまうなり。
しかれば、これ正・助・雑の三行ともに
要門より出たる名目なり。
『讃』に
「釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ」
専修といい正行というは、他力仏辺に属したる名言なれども、
機にうけて助・雑に対する待対法のあるあいだは要門の中の摂なり。
この正助、専雑はみな方便の行に摂すること
「愚禿鈔」の御指南思い合わすべし。
「機について二種あり」等已下は、方便仮門の機を釈したまうなり。
すなわち願文の「十方衆生」なり。
定散の二機は「観経」十九の願当分の機なり。
大師は「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」
と釈したまえり。
一代教より「観経」までの機、
おしなべて一切衆生のうまれつきの機を定散の二に摂するなり。
これみな十九願海の機類なり。
如来この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、
大小の聖のためにせずといふことを証明す。(観経疏)
かくして19願の機類は、生まれ来るすべての人であり、
定散二善はすべての「常没の衆生」のために説かれたものだから、
弥陀の救いを求める未信のひとも対象である。
常没の衆生とは、つねに迷いの世界に沈んでいる凡夫ということで、
宗祖はこう仰せである。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。
これを飛●氏は
「しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、
定善の行を修めることができない。」
と解釈している。これはその通り。
「常没の凡愚には、定善も散善もできない」
この飛●氏の主張が本当ならば、
「定善や散善が出来る人」=「”常没の凡愚”ではない人間」
ということになる。
日本語が分かれば、誰でもそう理解するであろう。
ところが飛●氏は、続けてこう述べる。
「我々のような常没の凡愚には、定善も散善三福もできない、
ということですが、かといって
誰も定善・散善三福ができないということではありません。」
「定善や散善が出来る人」すなわち
「”常没の凡愚”ではない人間」が存在するという。
一体どなたのこと?
飛●氏は述べる。
「龍樹菩薩も善導大師も定善ができた方ですし、
智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人も仰っています。」
飛●氏は、
「龍樹菩薩や善導大師は常没の凡愚ではない。
智覚禅師も常没の凡愚ではないと、親鸞聖人が仰っている」
などと言っていることになる。
弥勒菩薩でさえ常没の衆生だと釈尊は仰せなのだから、
明らかに間違いである。
しかしいくら無知の飛●氏でも、
これらの方々が常没の凡愚であることぐらいは、きっと御承知のはず。
だとすれば、飛●氏の主張は、
「常没の凡愚の中に、定善や散善ができる人がある」という主張になる。
これは、
「しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、
定善の行を修めることができない。」
という自説を自己否定している。
しかし宗祖はおっしゃる。
「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。」
「常没の凡愚の中に、定善や散善ができる人がある」 (飛●氏)
「常没の凡愚には、定善も散善もできない」 (宗祖)
飛●氏は他流である。
飛●氏が「善知識」として他人に紹介している「安心●答」でさえ、
『観無量寿経』で、定散二善を説かれたのですが、
「常没の凡愚」には、定善も散善もできないのです。
と飛●氏の説を否定している。
「地獄一定=機の深信」と述べる本願寺を、
”異安心”だと言いながら、
自説の肯定に、その本願寺の説を引用する飛●氏には無理からぬことか。
飛●氏は、相対門と絶対門の区別がついていない。
実機というものを、学問でしか思い至ってはいないようである。
法然上人の勅伝の解釈が出来ないのも当然であろう。
間違いだらけで目も当てられぬ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時25分
しっかり読んでから反論してもらいたい。
「常没の凡愚」とは善導大師は「善悪の凡夫」と言い換えておられる。
つまり
常没の凡愚=善凡夫+悪凡夫
である。
悪凡夫については、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」であるが、
善凡夫とは、定善・行福・戒福・世福のできる凡夫である。
要するに
常没の凡愚は、善のできる凡夫と善のできない凡夫のことをいったものである。
聖道門は散善は大小の聖者のためではなく、善のできる凡夫のためにとかれたということである。
善のできない凡夫には念仏ということになる。
では善のできる善凡夫が存在するのかと言う話であるが、親鸞聖人は
高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。
高玉・智覚禅師は行福のできた善凡夫だということである。
次に、
しかるに常没の凡愚、
定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(宗祖)
これは「かたし」であって、「不可」ではない。
常没の凡愚には難しいのであって、誰一人できないとは仰っていない。
再度、
高玉・智覚禅師は、上品上生の往生を遂げられたと仰っている。
よって、19願は善のできる善凡夫のために建てられた願だと言うことである。
これを親鸞聖人は
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。
信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
この要門より正・助・雑の三行を出せり。
この正助のなかについて、専修あり雑修あり。
機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。
(化土巻)
と仰ったのである。
19願は定散諸機(善凡夫)のためであると。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時26分
こんばんわ ヒウンマンですだす
タコ入道ですだす
誰も知らない知られちゃいけない、ヒウンマンが誰なのか
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時28分
親鸞聖人が19願の機は定散諸機と仰っているのだから、それ以上何をか言わん。
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
(浄土和讃)
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。
信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。
この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
この要門より正・助・雑の三行を出せり。
この正助のなかについて、専修あり雑修あり。
機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。
(化土巻)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時29分
親鸞会の擁護者がここまで大量に書き込むなら、飛雲さんと法論したらどうでしょう?
おのおのバラバラに書いているのでは争点がはっきりしない、というか読んでいる人にわかりにくいし、さよなら親鸞会のエントリのトピックとあまり関係がないので。
これほど大量に書くなら、法論を避ける必要はないと思いますが。
飛雲さんも望むところでしょう。
それとも親鸞会の擁護者の書き込みは荒らしなんでしょうか?
投稿: K | 2016年6月 1日 (水) 21時36分
みっともないな、親鸞会。
聖教上の根拠が関係ないものばかり。
無茶苦茶な解釈で、愚かとしかいいようがない。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時37分
>こんばんわ ヒウンマンですだす
タコ入道ですだす
誰も知らない知られちゃいけない、ヒウンマンが誰なのか
この手のコメントが出たら、親鸞会擁護者側の負けですね。このコメントは「降参した」という悲痛なコメントです。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時38分
必死すぎ親鸞会
常没の凡愚=善凡夫+悪凡夫
悪凡夫については、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」であるが、
善凡夫とは、定善・行福・戒福・世福のできる凡夫である。
善凡夫も流転する
これだけのことがわからないとは。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時43分
こんなところではなく、皆がわかるところで、公開法論しましょうよ。
ネット上で、削除できないところでなら、いつでも受けますよ。
逃げないでね、親鸞会さん。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時47分
>親鸞会の擁護者がここまで大量に書き込むなら、飛雲さんと法論したらどうでしょう?
おのおのバラバラに書いているのでは争点がはっきりしない、というか読んでいる人にわかりにくいし、さよなら親鸞会のエントリのトピックとあまり関係がないので。
>これほど大量に書くなら、法論を避ける必要はないと思いますが。
飛雲さんも望むところでしょう。
それとも親鸞会の擁護者の書き込みは荒らしなんでしょうか?
飛雲のブログにお聖教を元に間違いを指摘したら、『荒らしだ、妄念だ、日本語を勉強しろ』と罵られ、すべてのコメントを削除された。
飛雲は自分の間違いに気付いているが、自分の間違いを認めようとしない。
自分の主張を強引に押し通すだけ。
自分に都合が悪いコメントはすべて削除。
飛雲は逃げている。
これでは話にならない。
また、彼のブログを読んでいても、真実の香りがしない。親鸞聖人の教えを伝えたい気持ちが感じられない。
親鸞会や高森先生を攻撃するような攻撃的な内容ばかりで、
『小学生以下の思考、お聖教を全く読んだことがない』等と人を見下すようなことばかり書いてある。
親鸞会に恨みを持っているから親鸞会のすべてが悪くしか見えないようだ。
お聖教の解釈も自己流でいい加減で支離滅裂。
飛雲は正しい教えを顕らかにする気はなく、親鸞会を攻撃し自分の主張を押し通し自己満足したいだけ。
そんな相手とは法論にならない。時間の無駄。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時54分
最近の親鸞会は本願寺関連の著書を持ってくるのが好きだなぁ。あそうか、痴呆会長の著書が根拠なしの妄想だらけ&二番煎じだらけで、使い物にならないんだな(笑)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時57分
再掲しますが、「生きる意味を知って」のブログでの結論は以下ですが、蒸し返したいのなら、再度1つ1つやりましょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全く反論できない、みじめな高森派の記録。
1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。
2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。
3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。
4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。
5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。
6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。
7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。
8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。
9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。
10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。
11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。
12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。
13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。
14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。
15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。
16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。
17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。
18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。
19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。
20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。
21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。
22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。
23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。
24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。
25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。
26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。
27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。
28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。
29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。
30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。
31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。
32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。
33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決定。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 21時59分
法論しようよ、逃げないでさ。
第三者が管理人を務める掲示板かmixiでさ。
これなら文句ないでしょ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時02分
法論のルールは簡単。
質問に答えてから、質問する。
お聖教上の御文を根拠とする。
相手の主張を捻じ曲げない。
この三つ。
親鸞会では守れないものばかりだけど。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時07分
最初に、下品下生の往生についてやりましょうよ。
下品下生の往生については、真宗の基本中の基本だから。
ここから、発展する余地は沢山ありますし。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時12分
三願転入の法論の続きでもいいですよ。
mixiでは、トピックを削除してまで、抹殺したかった親鸞会の大惨敗だったけど、名誉挽回のチャンスですよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時16分
一番いいのは、何処かの会場で、親鸞会側と退会者側が、対面して、その場で法論をする。
ギャラリーは多いほどいいですから、沢山集めて、1日で決着させる。
親鸞会の消滅のきっかけになるでしょうから、それが一番です。
会長先生にご相談してみて下さい。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時26分
親鸞会からは、誰がでますか?
Wさん、Kさん、Mさんは外せないでしょう。いつも口先ばかりですから、いざというときには、有言実行で、法論に参加してください。
まさかまた逃げるなんて言わないでしょうね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時31分
>>『荒らしだ、妄念だ、日本語を勉強しろ』
飛雲のタコ入道かどうかはこれで判断できる。
ちょっと異常。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時32分
>映画みてくれって腐った手紙が来たわw
>
>観るかボケ!創価やハッピーサイエンスの
>超絶劣化版だな。
>
>しょうがなしに映画館に足を運んでやって
>ガンダム、レヴェナント、HK見てやったわwww
そうそう!他の映画見たけど、その際、ナゼイキにキモい集団がぞろぞろ入ってくのを
観客が明らかに怪しい宗教でしょって笑ってたよ。
世間の感覚はちゃんとしてる。
腐った邪教に盲信してる人形達にはHKオススメだね〜
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時33分
それで法論受けるのでしょうね。
やらないとは言わせませんよ。
ネット上がいやなら、対面で。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時36分
>>『小学生以下の思考、お聖教を全く読んだことがない』
これもまったくそう。異常。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時36分
法論受けるのか逃げるのか、はっきり答えてもらいましょうか?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時38分
法論は"第三者の厳しい目"で監督してもらいましょう。(by舛添)
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時44分
あれだけ自信満々なコメントを書いているくらいなので、法論から逃げるなんてありえないでしょう。
場所を決めましょう。
関東でも、北陸でも、本願寺内でも、好きなところを指定してください。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時47分
法論の内容は、三願転入について。
これは異議ないでしょう。『なぜ生きる2』を宣伝する絶好の機会ですよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時54分
あれだけ自信満々なコメントを書いているくらいなので、法論から逃げるなんてありえないでしょう。
場所を決めましょう。
関東でも、北陸でも、本願寺内でも、好きなところを指定してください。
------------------------------------------------------
では本願寺でよいでしょう。
飛雲氏は確実に負けます。
確実です。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時57分
私が学院に掛け合ってみます。本気です。逃げないでくださいね。飛雲さん。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 22時59分
では、本願寺で。
親鸞会側から、主要メンバーを連れて来てください。末端では、それは会長先生の教えと違うで逃げるのは目に見えていますから。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時04分
>私が学院に掛け合ってみます。本気です。逃げないでくださいね。飛雲さん。
私とは誰ですか。答えないなら、無責任な妄言と判断します。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時05分
場所 本願寺
テーマ 三願転入
親鸞会参加者 講師長クラス数名
以上で、後は日程だけ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時06分
退会者側からは、除名講師部員数名も参加するでしょう。
会員、退会者もできるだけ多く集めましょう。
楽しみです。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時11分
では、本願寺で。
親鸞会側から、主要メンバーを連れて来てください。末端では、それは会長先生の教えと違うで逃げるのは目に見えていますから。
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何をおっしゃる。
西本願寺の中央仏教学院の講師方と法論してもらいます。
本願寺教学を批難しているのですから、それを伝えます。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時11分
本願寺派で門前払いですよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時13分
親鸞会と法論すると言っているのですが。
何を、勘違いしているのですか?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時13分
毎度毎度盛大なブーメランをくれますね…
>飛雲は自分の間違いに気付いているが、自分の間違いを認めようとしない。
自分の主張を強引に押し通すだけ。自分に都合が悪いコメントはすべて削除。
飛雲は逃げている。これでは話にならない。
⇒「飛雲」を「親鸞会」に置き換えるとピッタリ当てはまるのですが(笑笑)そんなにコメント読んでほしいなら、正々堂々と法論申し込めば?
>また、彼のブログを読んでいても、真実の香りがしない。親鸞聖人の教えを伝えたい気持ちが感じられない。
⇒親鸞会からは疑惑の異臭しかしませんけど。誤った教義伝えまくってる方がよっぽど問題です
>親鸞会や高森先生を攻撃するような攻撃的な内容ばかりで、『小学生以下の思考、お聖教を全く読んだことがない』等と人を見下すようなことばかり書いてある。
⇒今まで他団体相手に散々攻撃的な法論やってきたじゃん(笑)攻撃されてるのに正面からやり返さないんですね(笑)
>お聖教の解釈も自己流でいい加減で支離滅裂。
⇒それ高森教ね(笑)ギャグで言ってますよね(笑笑笑)
>飛雲は正しい教えを顕らかにする気はなく、親鸞会を攻撃し自分の主張を押し通し自己満足したいだけ。そんな相手とは法論にならない。時間の無駄。
⇒親鸞会は不都合な真実を顕らかにする気が全くなく、ブログのゲリラコメントで自己満足したいだけ。そんな親鸞会とは法論にならない。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時16分
飛雲氏が本願寺派を門前払いしているからですよ。中仏にもの申すなら、それなりの対応をしていただきます。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時18分
本願寺派は、善の勧めをいません。三願転入しなければアリ一匹助からないとはいません。
テーマは、三願転入だと言っているのですから、親鸞会を連れてきなさいよ。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時19分
中仏と連絡を取ります。後日詳細をお伝えいたします。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時21分
結局、親鸞会は法論から逃げた。
口先だけなのは、昔から変わらず。
こういうことですね。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時21分
親鸞会との法論だと言っているのに、中仏との法論にすり替えることで、誤魔化したつもりだって。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時24分
>何をおっしゃる。
西本願寺の中央仏教学院の講師方と法論してもらいます。
本願寺教学を批難しているのですから、それを伝えます。
本願寺の教義に抗議して、不法占拠、座り込みを行った親鸞会の教えが正しい、と主張し、なぜか本願寺のテキストをよりどころとする●隆信師。貴方は必堕無間の味わいを伝道するために必堕無間の会でも作ればいいです。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時27分
親鸞会の18番
法論からの逃亡
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時29分
さよなら「親鸞会」のブログコメント欄で、法論せよと散々「親鸞会に」呼びかけられているのに、中仏と・・・?ホント意味分かんない。ネット対策員さん、頭に蛆でもわいてるの?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時31分
逃げ方がヒドイ。後方待機係の会長と同じくらい無責任。中仏も大迷惑。
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時35分
>>何をおっしゃる。
>西本願寺の中央仏教学院の講師方と法論してもらいます。
>本願寺教学を批難しているのですから、それを伝えます。
今日も遅くまでネット対策ご苦労様。
そろそろ会長死後と老後の心配したら?
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時37分
ネット対策員はこの後夜の速読勤行と報告メールしながら、今日のアホくさい逃げ芸を振り返るのかなぁ…痛すぎるわ
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 23時44分
そうか。その手があったか。
必ず擁護者は負けるので、本願寺、中仏の名前を出しておけば、最後は本願寺、中仏の負けに話をすり替えることができる。どこまで卑劣か。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 00時04分
退会者は、お聖教の強引な解釈と理屈の繋ぎ合わせで論破したつもりになっちゃう所が痛いね。
覚如上人や蓮如上人の仰った宿善の意味を改ざんしてしまうところ等、実に悪質です。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 00時11分
高森先生が出てこられるまでもない、西の中央仏教学院で結構です。
よくわかってない方がおられるので、説明しておきますが、専修課程とは本願寺派の僧侶養成カリキュラムであり、本派寺院ご住職の認可が入学手続時に必要なのです。私はまだカリキュラム中途時に高森先生にお会いし、また数年後、同時に得度を受けました。幸い理解ある住職であり、「高森顕徹の話なら聴けばよい」と言われました。高森先生と同じ年くらいのご住職で、昔、高森先生と面識があったそうです。
話は脱線しましたが、とにかく中仏専修のテキストをも批難する飛雲氏、あなたの邪説は本派の先生方相手で余りある門前払いです。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 2日 (木) 00時13分
まだ起きてたの?ネット対策員さん。
こんなにバレバレなのにまだやるの?もう誰もあなたの虚言信じてないよ?
さて、明日も仕事だしもう寝るか。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 00時51分
法論の逃げ方があまりにも酷い。
親鸞会は、西本願寺を死に本願寺とまで言っているのに、西本願寺はスルー。
退会者から解釈の違いを指摘されただけで法論だと。
まず、親鸞会と西本願寺が法論だろ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 02時24分
釈隆信さんへ
では中仏の人を下記のブログに連れてきてください。
私はこのブログの管理人です。
「親鸞会の邪義を正す」
http://blog.livedoor.jp/sutybi/
三願転入、宿善、必堕無間についてまとめてあります。
このコメント欄を開放しますので、ここに書かれてあることに異論があるなら、コメント欄で公開法論します。
間違いなくお伝えください。
そして、高森会長の親鸞会にも法論から逃げるなともお伝えください。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 06時00分
法論の話になると親鸞会は沈黙ですね。
それで、中仏は法論に応じるのでしょうね。
あれだけ啖呵を切ったのだから、間違いなく話をつけてよ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 07時39分
一応言っておきますが、mixiの三願転入の法論で、親鸞会の直接の相手をしたのは私です。
ブログには
「坊さんの小箱」わかりやすい 宗義問答
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/mondou.html
のリンクも貼っていますし、そのまま引用もしています。
必堕無間が機の深信ではないことの説明もあります。
中仏の人にしっかり見せて、法論に応じるように説得してください。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 08時20分
>>必堕無間が機の深信ではないことの説明もあります。
あたりまえでしょうが。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 09時23分
飛雲からのコメないね。逃げたか。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 13時11分
今まで私が書いてきましたし、法論云々も私がしています。
中仏との法論も積極的ではありませんが望まれていることなので受けますし、もちろん親鸞会との法論は私一人でもやりますよ。
親鸞会をどこかの会場に連れてきてください。
mixiでの親鸞会惨敗の再現をしますので。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 13時16分
「正しい真宗教義…」のブログの相手も私ですよ。以下の結論を導き出したのも私です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全く反論できない、みじめな高森派の記録。
1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。
2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。
3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。
4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。
5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。
6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。
7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。
8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。
9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。
10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。
11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。
12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。
13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。
14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。
15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。
16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。
17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。
18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。
19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。
20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。
21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。
22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。
23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。
24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。
25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。
26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。
27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。
28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。
29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。
30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。
31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。
32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。
33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決定。「生きる意味を知って」のブログでの結論は以下ですが、蒸し返したいのなら、再度1つ1つやりましょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全く反論できない、みじめな高森派の記録。
1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。
2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。
3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。
4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。
5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。
6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。
7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。
8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。
9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。
10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。
11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。
12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。
13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。
14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。
15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。
16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。
17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。
18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。
19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。
20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。
21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。
22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。
23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。
24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。
25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。
26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。
27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。
28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。
29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。
30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。
31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。
32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。
33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決定。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 13時20分
>親鸞会をどこかの会場に連れてきてください。
mixiでの親鸞会惨敗の再現をしますので。
>全く反論できない、みじめな高森派の記録。
退会者は、お聖教の読み間違いといい加減な解釈と強引な理屈の繋ぎ合わせで論破したつもりになっちゃう所が痛いです。
たとえ客観的に正しいことを言っても、日本を嫌う中国人や韓国人の様に、親鸞会に恨みを持っている退会者を黙らせるのは難しいよ。
やられたらやり返すの繰返し。
戦争と同じで、自分は正しい、相手が間違っているで、自分の間違いを認めようとしないで相手を一方的に責める。親鸞会を攻撃して自己満足したいだけ。
退会者、彼らとは法論にならない。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 14時30分
>退会者は、お聖教の読み間違いといい加減な解釈と強引な理屈の繋ぎ合わせで論破したつもりになっちゃう所が痛いです。
では、あなたがその間違いを指摘して論破すればいいだけのこと。
三願転入の法論で大惨敗して逃走し、トピックを削除したのは紛れもない事実。
これが何を意味するかを考えましょう。
そして、多くのギャラリーのいる前で、決着を付けましょう。
逃げないように、親鸞会さん。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 14時37分
三願転入の法論の中での私の質問に、高森会長はこのように答えました。
1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉について
(高森会長の答え)
『教行信証』全体
4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠
(高森会長の答え)
これは、確かに申し上げました。
根拠は、
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)
の一言で充分でありましょう。
これが答えになるというのなら、何でもありです。
1の答えなんかは、親鸞会がK東大名誉教授に対して法論をして、K東大名誉教授が答えたことと同じです。それを徹底的に非難したのが、高森顕徹会長です。
親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉
に対しては、『教行信証』のどこのどんな文かを言わなければ答えになりません。
簡単な問答さえできない知能しかないのが親鸞会なのか、答えをはぐらかしたかのどちらかでしょうが、明らかに後者でしょう。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 14時44分
あなたとここで論争をするつもりはありません。
現役会員、退会者、本願寺関係者、新聞社の記者などギャラリーとして招いて、
親鸞会と法論をすれば、白黒ハッキリすることです。
高森会長に直訴しなさい、退会者との法論を受けてくださいとね。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 14時48分
本願寺の人は飛雲のタコとやり取りしているんじゃないの。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 15時22分
親鸞会ほ、みっともないんだよ。
法論を受けてから言えよな。
法論から逃げているのは、勝つ見込みが全くないからでしょ。
500年に一度の善知識が聞いて呆れるわ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 15時24分
宿善の意味について。
覚如上人や蓮如上人が宿善の意味を過去の善根と切り離されたというのは、退会者独自の解釈ですよぬ?
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 16時06分
宿善については、本願寺派勧学だった梯實圓師の解釈がこれです。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 16時15分
梯實圓著 季刊せいてん №50 (2000 春の号)口伝鈔より
『口伝鈔』には、
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるとこ
ろなり。
といわれていますが、ここにはいくつかの問題があります。まず宿善ということですが、第二章に述べられた宿善とは言葉は同じですが内容は違っています。第二章では、信心を得る善き因縁としての宿善で、その本体は阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きでした。しかしここでいわれる宿善は、宿悪に対する言葉で、今生で善をなし得る素質に生れるか悪をなすような素質をもって生まれるかの違いを、前世の善悪業によって説明しようとしたものでした。前者は信心獲得の機に育て上げる如来の働きを表そうとする宿善であり、後者は凡夫が行う善悪の行為についての説明ですから、両者は別物といわねばなりません。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 16時28分
釈隆信さんは、どこへ行ったのでしょうか?
退会者の解釈のほとんどは本派と同じですから、喜んでますよねぇ。
中仏の講師に、話はつけたのですか?
本気なんでしょ?
早く、話をつけてきてよ、待ってるからさ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 17時17分
退会者さん。
今のあなたは何品何生?
何品何生で生まれた?
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 17時36分
19願について。
この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかですが。
まだ分からないのですか?
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 17時41分
同じことしか言えないんですね。
三願転入の法論は、親鸞会の大惨敗でおわったのです。私が親鸞会の相手だったのですからね。
この要門釈については、mixiで散々書きました。そして高森会長とH田講師は逃亡しました。ポイントは欣慕浄土の善根でした。
知らないですよね、欣慕浄土の善根。
浄土を願っていない人に浄土を願わしめる善根、これが定散二善であり19願だってこと。浄土を願っていない人とは、浄土門でない人、つまり聖道門の人ってことですよ。
これ以外にもたくさん根拠はありますが、法論をしたければ、法論の場所をしてしましょうね。
下っ端ではなく上の講師を引き連れて法論を受けましょう。
逃げてばかりの親鸞会では、益々退会者が増えますよ。まあ法論したらもっと増えますがね。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 17時54分
>浄土を願っていない人に浄土を願わしめる善根、これが定散二善であり19願だってこと。浄土を願っていない人とは、浄土門でない人、つまり聖道門の人ってことですよ。
聖道門の人以外の人は、浄土を願っていますか?
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時00分
退会者さん。
今のあなたは何品何生?
何品何生で生まれた?
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時01分
「定散諸善は欣慕浄土の善根である」の意味
自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。(『教行信証講義』より)
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 18時03分
法論をするのなら、高森会長か講師長クラスを呼んできましょうね。
親鸞会の特技は、法論からの逃走ですから、法論を受けることはありませんけど(笑)
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 18時06分
>「定散諸善は欣慕浄土の善根である」の意味
自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。(『教行信証講義』より)
その19願の相手は、一切の人々だということは、以下の解説でも明らかです。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時06分
mixiでの親鸞会大惨敗法論の内容をまとめたものが以下。
欣慕浄土の善根も出てきますから、読んでおいてくださいね。
http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/515409.html
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 18時09分
対策員は、くどい。
法論で勝つ自信があるなら、公の場に会員、退会者を集めて、そこで行えばいいでしょう。
ミクシィで、親鸞会は大惨敗したの。終わった話を出すなら、新しい根拠をだせよ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時24分
とりあえずタコ入道の野郎が出てこなくなったね。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時40分
>「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
>とありますように、「唯除五逆誹謗正法」のある18願は、漏れるものがないが、「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。
これもあまりにも強引な解釈。
「唯除五逆誹謗正法」と聞くと、五逆誹謗の者は助からないと受け取られてしまうので、『そうではないですよ、五逆誹謗のこのふたつの罪のおもきことをしめして全員救われるのが18願』と解説をされただけの御言葉なのに、
>「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。
どこにもそんなことは書かれていません。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 18時41分
【このふたつの罪のおもきことをしめして】、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
このふたつの罪のおもきことをしめさなければ、十方一切の衆生みなもれずではない。
簡単な論理ですがね。
高森会長はこれを理解しましたから、理解できないあなたは高森会長よりも劣るということで(笑)
法論の場所を用意しさいよ、そうしたら山ほど根拠を出して教えてあげますよ。
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 18時49分
釈隆信さんの大好きな本派の解釈
『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」
四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。
第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り
第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭い
本派の解釈が正しいのでしょ(笑)
投稿: sutybi | 2016年6月 2日 (木) 18時58分
19願20願でたすかるとかいてないじゃない。「その意は狭い」とはあくまてま救いの範囲を示して方便より真実の18願に入るということ。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 19時30分
十方衆生の意が狭い。
わかりましたか(笑)
19願には漏れている者がいる。
まだわからないの?
高森会長より低レベル
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 19時36分
>とりあえずタコ入道の野郎が出てこなくなったね。
わかってねえな。タコ
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 20時22分
今日も高森学徒はNo学習の平常運転です
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 20時32分
釈隆信さま
・・・伝道は「如来の御代官」であるという自覚の上からなされねばならないとすれば、まさしく「師匠」ではなく「使者」であります。「使者」は謙虚であるべきです。<使者>は道草を許されません。<使者>は使いの中身を私有化してはならないのです。そしてたしかにとどけるという使命感は、いつも持ち続けていたいものです。・・・
分かりますよね。これは「伝道」の中に書かれているお言葉です。非常に厳しいお言葉です。伝道者は間違ってはいけないのです。お釈迦様、七高僧方、親鸞聖人および次第相承の善知識方のお言葉に従うのです。
自分勝手な解釈は駄目なのです。
我が身に信が無ければ、説く資格が無いといつも自分に言い聞かせるのです。
信が無くともその言葉を自分に言い聞かせながら説くのです。それが本当の親鸞学徒なのです。
煩悩に負けてもいい、でも、法だけは守らなければいけないのです。
得度されているかどうか知りませんが、「伝道」の中身は本物です。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 20時38分
本派にいながら、本派の教義は間違いと対立して、座り込み、不法占拠までした親鸞会が正しいと主張して、結局、本派のテキストをよりどころとする釈隆信師。親鸞会に触れるとこのような思考回路が出来上がるのか。
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 21時14分
また負けたのか・・
(イヌテツ)
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 21時23分
みーんな部下のせいにして知らん顔しよ。
アホ息子も面倒みきれんわ
(アホテツ)
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 21時59分
これだけ大量に書き込みをしてサイトを占拠している以上、工作員は責任をとって公開法論すべきです。
もし親鸞会側が敗北した場合、会員の皆さんはいっせいに退会してください。
なぜなら高森会長が「ワシは親鸞聖人の教えを説ききっている」とした大言壮語は、まったくのウソとなるからです。。
(ちなみに昨年もたくさんの会員さんが脱会しました。)
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 22時15分
>これだけ大量に書き込みをしてサイトを占拠している以上、
>工作員は責任をとって公開法論すべきです。
今回は工作員かなり頑張ったよな~。頑張る方向完全に間違ってるけど
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 22時26分
とうとう法論確定か。
工作員の目論見はまたしても裏目に・・・・
投稿: | 2016年6月 2日 (木) 22時48分
19願がすべての人に必要な根拠。
まず、以下の解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかです。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)
これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されている。
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。
そして、三願転入の教えに反する邪義を、覚如上人は吐き捨てるように、こう難じられる。
親鸞聖人は、
「『観無量寿経』に説かれる教え(三心)は、方便・自力の教である。『大無量寿経』に説かれている教え(三信)こそが、真実・他力の教である」
と自力と他力を峻別される。
その上で「方便より真実へ、自力から他力へ入るのだよ」と教えられている。
その祖師親鸞聖人の御書を拝見したことのない輩なのだろうか。
以下はその文証である。
三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。
しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(『改邪鈔』末・十九)
>『改邪鈔』のこの後には、
まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。
>定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。
と同じことで、定散を方便、念仏を真実と言い換えてみれば判られると思います。
方便を説くことは、真実の方便に超過したることを顕さんがためなり。もし方便なくは、なんぞ真実のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま方便は廃せんがために説き、真実は立せんがために説く。
方便は間違っているからするな、無視しろという邪義を破る根拠が以下。
また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。(教行信証・化土巻)
『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。「顕」というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
(教行信証・化土巻)
また云わく、「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来、方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり、と。(教行信証・化土巻)
定散ともに回して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり
(教行信証・化土巻)
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 00時57分
19願20願でたすかるとかいてないじゃない。「その意は狭い」とはあくまてま救いの範囲を示して方便より真実の18願に入るということ。
2016/06/02 19:30:34
↑
この程度の驚くべき国語力しかないのに、お聖教は読めないよ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 04時31分
おはようござんす
ヒウンマンですだす
タコ入道の吐く墨と工作員の血でコメント欄が汚れたざんす
ヒウンマンは悪が好きな悪人ざんす
偽善者の親鸞会を滅亡させる事が使命ざんす
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 05時09分
釈隆信さんは、どこへ行ったのですか?
まだ中仏の講師から連絡がないのですが、話はつけたのですか?
親鸞会の本気と同じですか?
親鸞聖人の教えを曲げて伝えたならば腹を切ってお詫びをする、と公言していた高森会長を尊敬しているくらいですから、口先だけなのも、真似ているのですか?
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 06時39分
ホント、親鸞会の人間は口先だけ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 07時43分
>>この程度の驚くべき国語力しかないのに、お聖教は読めないよ。
出ました。タコ入道こと飛雲氏。
ひとの言葉のミスをことごとく指摘。
おかしな人だ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 12時13分
ミスのレベルではないでしょう(笑)
こんな簡単な文章を正しく理解できないで、お聖教を読めますか?
無理ですよ。
法論をしたいのなら、せめて高森会長程度の能力を持っていないと話になりません。
それでいつ法論するのですか親鸞会は。
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 12時24分
ミスと能力不足の違いもわからないなんて、やっぱりその人も能力不足なんでしょう。
実に親鸞会らしい。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 13時03分
ミスと言っているくらいだから、19願の十方衆生は限定された衆生だと理解できたのでしょう。
以前にも紹介しましたように『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註も19願は聖道門の機を導くと書いてありますので、
19願の十方衆生≠全人類
というのが本派の常識的解釈ですが、本派の解釈が正しいのですよね、釈隆信さん、なんとか言ってくださいな。
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 13時53分
お待たせいたしました。衆務に追われ、ご連絡がおそくなり申し訳なく思います。
この度、認可をいただいた住職と話をしましたが、住職曰く「無理」だそうです。
当たり前ですが、日々の生業に忙しい中仏の講師方に話をいれてみる提案も、住職曰く「迷惑なだけ」で一喝されました。
一連の、必堕無間・定得往生の教え、極重悪人唯称仏の文意の誤解、そして上品下品を示す際の、飛雲氏の聞き誤りについて、住職は「そのようにきく者があっても何の不思議でもあない、だからこそ親鸞聖人の教えは聞きがたいといわれる、今はお育てにまかせて待つことがよい」との答えでした。
まだ住職とは話の途中であり、進展があれば、報告したいと思います。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 18時08分
ということで、都知事並の言い訳ですね。
こちらの質問にも答える気がないようですし、親鸞会とはこの程度のものだという証明をして頂きまして、有難うございました。
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 18時24分
私はまだ話の進展で次第で報告すると言っているのですが。私は寺に生を受けたものでないため、今の住職のおかげで学院に入学できたのです。住職の印鑑が必要であり、私も一文したため、この道求めさせていただいている身であり、住職の判断は仰がねばならないのです。
ところで、飛雲氏でなくて、なぜあなたが突然あらわれるのか、分かるように説明してもらいたい。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 18時35分
>西本願寺の中央仏教学院の講師方と法論してもらいます。
>本願寺教学を批難しているのですから、それを伝えます。
ここまで言いきっておきながらね。
恥ずかしくないですか?
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 18時38分
ここのコメントは私が書いてきたと言ったでしょう。
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 18時39分
もう一度言っておきますよ。
mixiでの三願転入の法論で親鸞会の直接の相手をしたのは私です。
「正しい真宗教義の伝承のために」のブログにコメントを書いてオワコンにしたのも私です。
ここのコメント欄に教義的なことを書いたのも私です。
「親鸞会の邪義を正す」の管理人は私ですので、このブログ上のコメント欄で法論をしましょうと言っているのです。
何か不足がありますか?
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 18時44分
>釈隆信さま
・・・伝道は「如来の御代官」であるという自覚の上からなされねばならないとすれば、まさしく「師匠」ではなく「使者」であります。「使者」は謙虚であるべきです。<使者>は道草を許されません。<使者>は使いの中身を私有化してはならないのです。そしてたしかにとどけるという使命感は、いつも持ち続けていたいものです。・・・
分かりますよね。これは「伝道」の中に書かれているお言葉です。非常に厳しいお言葉です。伝道者は間違ってはいけないのです。お釈迦様、七高僧方、親鸞聖人および次第相承の善知識方のお言葉に従うのです。
自分勝手な解釈は駄目なのです。
我が身に信が無ければ、説く資格が無いといつも自分に言い聞かせるのです。
信が無くともその言葉を自分に言い聞かせながら説くのです。それが本当の親鸞学徒なのです。
煩悩に負けてもいい、でも、法だけは守らなければいけないのです。
得度されているかどうか知りませんが、「伝道」の中身は本物です。
まことその通りですね。
有り難うございます。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 18時45分
>ここのコメントは私が書いてきたと言ったでしょう。
今さら誰が信じるんですか?!
ここを見ている方にお聞きしたい。
今まではコメントは、この人がすべて書いてきたんですか?
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 18時50分
別にどう思おうが結構です。
言い訳も非難もご自由にどうぞ。
くだらない話に付き合うつもりはないです。
法論の話になったら呼んでくださいね、逃げませんから。
投稿: sutybi | 2016年6月 3日 (金) 18時54分
>くだらない話に付き合うつもりはないです。
それはいいかげんでないですか?
これまで飛雲氏だとか○コ○道だとかいろいろ言われてた、その人が中仏のテキストをも、批難するから高森先生が出てくるまでもなく、私の立場でもの申しているわけです。
それがいきなり、sutybiと名乗られても訳が分かりません。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 19時02分
釈隆信と名乗る人物の言い訳が、酷すぎる
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時11分
釈隆信と名乗る人物は、sutybiさんとあれだけ法論のやり取りをしてきながら、今更何を言っているのですかね。
法論できない言い訳にするなよな。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時15分
sutybi、知らんがな。そりゃ坊さんも困るだろ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時17分
飛雲のタコ入道早く出てきたらどうなの?
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時18分
親鸞会は大嫌い。でも法論ぐらいは親鸞会はする!と約束してきたんだからしなさいよ。
高森けんてつ 対 飛雲
高森みつはる 対 飛雲
高森恭子 対 飛雲
渡部隆 対 飛雲
松本光志 対 飛雲
明橋大ニ 対 飛雲
このあたりなら、瞬間で終わる。はい公開法論して見せてよ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時21分
飛雲さんから逃げ回っている親鸞会が何を言っているのでしょうかね。
飛雲さんからの法論の申し出を受けてから言えよな。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時26分
W 様
御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
法論の申し込み
平成24年3月18日
弘宣局長 W 様
御無沙汰しております、○○です。
昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。
法論の条件は、
1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする
以上の4点です。
かつて親鸞会は公約していた筈です。
「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」
これが口先だけであったとは、言わせません。
私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間
2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている
3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない
5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力
6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ
7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ
8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる
10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。
なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。
目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。
○○○○
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時30分
恥知らずにもほどがある。
法論するすると言いながら自分ではなく人を引っ張り出そうとして駄目でしたといけしゃあしゃあとまたコメントを書く。
伝道覚の悟があるのかと書いても、自分が100%正しいとしか思っていない。
まず、謝るのが先ではないですか。
なぜ、謝らないのですか。人間として、大人として、恥ずかしくないのですか。
親鸞会ではそういうふうに教えているのですか。
法論駄目でしたじゃないでしょ。
釈隆信さん。本派の本を読んでまだ高森さんを信奉しているのはよほど貴方がおかしいとしか思えませんね。
貴方、本当に全部読んだの。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時34分
伝道覚の悟→伝道の覚悟
失礼しました。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時36分
お育てを待つしかない。住職のいう通りです
。
自分が地獄ゆきの者と思えないものは哀れである。
自分が極悪最下の者と思えない者は哀れなり。
自らは「必堕無間」のものと思えない者は哀れなり、なぜなら
→「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのです。」
(浄土真宗本願寺派テキスト【学習課程3年次 真宗Ⅰ p.15)
よくよく味読していただきたい。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 19時40分
19願の十方衆生は、聖道門の機を導くための願だと言う、本派の常識は正しいのか間違っているのか、答えてみたら?
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時46分
削除し忘れがあったので、以下が正しい。
19願は、聖道門の機を導くための願だと言う、本派の常識は正しいのか間違っているのか、答えてみたら?
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 19時48分
ハンドルネームを書かないとお答えする気持ちにはなりません。
飛雲さんですか、sutybiさんですか。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 19時57分
ハンドルネームつけましたよ。
19願は、聖道門の機を導くための願だと言う、本派の常識は正しいのか間違っているのか、答えてみたら?
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 20時01分
だから、なんでことごとく名前が変わるんですか??
全然信用できません!
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 20時06分
信用できないから、答えません。
子供みたいな言い訳しなさんな。
代わりに答えましょう。
本派の常識は間違っている
→本派の主張を根拠とするのは間違い。
本派の常識が正しい
→親鸞会は本派と主張が異なるので、親鸞会は間違ったことを言っている
どちらにしても、貴殿は間違っている。
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 20時14分
もう一度同じ事を言います。
恥知らずにもほどがある。
法論するすると言いながら自分ではなく人を引っ張り出そうとして駄目でしたといけしゃあしゃあとまたコメントを書く。
伝道覚の悟があるのかと書いても、自分が100%正しいとしか思っていない。
まず、謝るのが先ではないですか。
なぜ、謝らないのですか。人間として、大人として、恥ずかしくないのですか。
親鸞会ではそういうふうに教えているのですか。
法論駄目でしたじゃないでしょ。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 20時28分
>>信用できないから、答えません。
子供みたいな言い訳しなさんな。
あんたおかしいでしょう!
最初、「飛雲氏だとかタコ入道だとか」その辺は詳しく分かりませんが、その後はっき「sutybi」と名乗られて「今までのコメントは私です。」と言う。その後、こちらが中仏の立場で根拠を出しはじめたら、「元S」と言いはじめて、それを指摘したら、上の言い方ですか?!
本当に全く信用できない!!
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 20時33分
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 20時14分
と
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 20時28分
は、同じ人物だ。
>大人として、恥ずかしくないのですか。
よく言えますね。本当に呆れます。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 20時38分
答えない言い訳、謝罪しない言い訳、都知事とそっくり。
先ほどのハンドルネームなしのコメントは、私ではないですよ。
信用できんですべて誤魔化したいのでしょうが、貴殿の矛盾は隠せませんよ。
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 20時43分
飛雲さんでもないし、sutybiさんでもないと言っても
信用できん
で誤魔化すでしょうがね。
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 20時49分
じゃあ、あれほど挑発的言動をしていたsutybi氏はなぜパッタリ出てこなくなったのですか?!
「sutybi」氏が「元S」氏でなければ、あまりにも不自然です!!
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 21時12分
くだらないことに、普通はつきあいませんよ。貴殿は、話題を変えたいだけなんでしょう。
以下で、私も終わりとします。
本派の常識は間違っている
→本派の主張を根拠とするのは間違い。
本派の常識が正しい
→親鸞会は本派と主張が異なるので、親鸞会は間違ったことを言っている
どちらにしても、貴殿は間違っている。
投稿: 元S | 2016年6月 3日 (金) 21時19分
>くだらないことに、普通はつきあいませんよ。貴殿は、話題を変えたいだけなんでしょう。
以下で、私も終わりとします。
話題を変えたいのはあんたでしょうが!
話題も変えたいし、名前も変えたい。
誰が見てもばればれじゃありませんか!
これじゃ悪徳業者のサクラか詐欺師ですよ。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 21時29分
こんばんわ
不倫のエムハルです。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 21時31分
三度目です。元Sさんではありません。
恥知らずにもほどがある。
法論するすると言いながら自分ではなく人を引っ張り出そうとして駄目でしたといけしゃあしゃあとまたコメントを書く。
伝道の覚悟があるのかと書いても、自分が100%正しいとしか思っていない。「伝道」から引用したのですよ。
まず、謝るのが先ではないですか。
なぜ、謝らないのですか、釈隆信さん。人間として、大人として、恥ずかしくないのですか。
親鸞会では、高森さんは、そういうふうに教えているのですか。
法論駄目でしたじゃないでしょ。
それでも仏法者ですか。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 21時38分
釈隆信師 さま
あなたは本派の人間でありながら、本願寺の教義は間違いと主張し、不法占拠、座り込みをした親鸞会の教えが正しいと主張し、その根拠は、中仏のテキストから、という支離滅裂なことをしました。いかがですか。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 21時38分
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 21時38分
これからハンドルネームを とと とします。
投稿: とと | 2016年6月 3日 (金) 21時45分
私は先程現状を報告しているでしょう。
ここまで話をすすめるだけでもすごく難儀しました。また報告しますと言っているのに、謝れとはこちらこそ人間性を疑います。
あなたも名前をつけてください。
一体一人何役演じるつもりですか。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 21時48分
申し訳ありませんが貴方の言葉は上滑りしています。
真実が感じられません。
もっと言うなら、阿弥陀様の慈悲が感じられない。
高森さんの冷たさ、身勝手さ、マインドコントロールされている講師達の後生、多くの会員の後生をどう思われているのか。
阿弥陀様は今呼んでおられるのに、どうして今から善行をしなければならないのですが。嶋田さんの私の白道に書かれてる後生の解決出来ずに無くなった方に申し訳ないと思わないのですか。
私は貴方の言葉は一切信用できません。
投稿: とと | 2016年6月 3日 (金) 21時55分
とと?!ととなんですか?これからととにします?!あなた本当に名前は1つにしたほうがいいですよ。
「sutybi」「元S」「とと」
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 21時57分
>申し訳ありませんが貴方の言葉は上滑りしています。
あなたの名前が上滑りしています。
心の底より、興醒め致しました。
投稿: 釈隆信 | 2016年6月 3日 (金) 22時08分
これで最後にします。
恥知らずにもほどがある。
法論するすると言いながら自分ではなく人を引っ張り出そうとして駄目でしたといけしゃあしゃあとまたコメントを書く。
伝道の覚悟があるのかと書いても、自分が100%正しいとしか思っていない。「伝道」から引用したのですよ。
まず、謝るのが先ではないですか。
なぜ、謝らないのですか、釈隆信さん。人間として、大人として、恥ずかしくないのですか。
親鸞会では、高森さんは、そういうふうに教えているのですか。
法論駄目でしたじゃないでしょ。
それでも仏法者ですか。
投稿: とと | 2016年6月 3日 (金) 22時19分
〉私はまだ話の進展で次第で報告すると言っているのですが。私は寺に生を受けたもの〉でないため、今の住職のおかげで学院に入学できたのです。住職の印鑑が必要であ〉り、私も一文【を】したため、この道【を】求めさせていただいている身であり、住職の判断は仰〉がねばならないのです。
↑
あるべき【を】をしばしば書き落とした、工作員さん特有の文体ですね。ここで隆信君の語る自己紹介がすべて事実であると仮定したうえで、それでも申し上げたい。貴君はまだまだ井の中のかわずだと思う。寺族や寺院社会の欠点を目にすることもままあるだろうが、伝統教団にはまだまだ知られざる魅力的な人物に事欠かない。少なくとも親鸞会のような金太郎飴の集まりではない。寺の生まれでない貴君がここまで伝統教団とご縁を持てたのは得がたい仏縁と思われます。高森某ごときに片思いをするのは、年をとってから大きな後悔のもととなりましょう。目を覚ませ、今手にしているものを大切にしてください!
投稿: 隆信君の自己紹介が事実であると仮定したうえで | 2016年6月 3日 (金) 22時30分
【釈】の一文字の重みが理解できていますか。仏様の前で二言は許されないですよ。ましてそこに虚偽があれば言語道断です。誤っても済まされません。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 23時25分
誤っても → 謝っても でした。
投稿: | 2016年6月 3日 (金) 23時25分
親鸞会の言葉使いの中で違和感を特に感じるものがあります。とりあえず二つ。
◯◯せずに、「おれません」
もう一歩も、「進まれない」
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 06時03分
ヒウンマンですだす
悪が世界を支配するだす
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 12時52分
工作員君へ:
「静かに創価学会を去るために」のコメント欄をひまさえあれば覗いてごらん。
50代、60代になってやっと迷いから覚めた創価学会員が、あまりにも失われたものばかり多い過去に絶望しつつも、ネット上の多くの仲間に温かい言葉をかけられながら、徐々に立ち直りつつある様子が見て取れるよ。
「俺は創価みたいな下等宗教の平信徒とは身分が違うんだぞ」
だって? 君の宗教は今回当選するかどうかも不確定な柴田さんがやっと政界にうって出るという段階に過ぎないじゃないか。創価ごときとは月とすっぽんだぞ。さあわかったら、このコメント欄にだらだらとくだらない書き込みをするのは、良心に恥じてすみやかにやめることだな。まじめな相談なら、いつだって聞いてあげるから。
どうだ、アパートの窓の外からは、地震の傷なお癒えぬ故郷の町が望まれるかね?
「無常の風の前には、世俗の地位も名誉も富も吹き飛ぶのだ。専任講師といいう最高の道を歩ませて頂いている俺はなんと幸せ者よ!」
とかなんとか精神的な自慰にふけっているのだろうが、もっと現実を見よといいたい。日ならずして町のインフラが復興されたのは、君に言わせれば人生の目的を知らない哀れな非信徒のおかげなんだぞ。さあ、それがわかったら、アパートを出てそっとみんなを拝むんだぞ。
投稿: やり直しは利く,まずはひまさえあればこのブログのコメント欄を | 2016年6月 4日 (土) 13時57分
熊本から京大に入ったまでは良かったが、その後はあくまでの道真っしぐら。
宗祖のお言葉に従うと言いながら、宗祖に反する高森会長の言葉にしか従わない。
それでいて伝道だとか笑わせるな。
宗祖のお言葉に従え、高森会長の言葉に従うな。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 16時52分
熊本から京大に入ったまでは良かったが、その後は悪の道真っしぐら。
宗祖のお言葉に従うと言いながら、宗祖に反する高森会長の言葉にしか従わない。
それでいて伝道だとか笑わせるな。
宗祖のお言葉に従え、高森会長の言葉に従うな。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 16時53分
こんばんわ
不倫が好きなエムハルです
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 18時46分
ヒウンマンのタコ入道は工作員にあれだけ斬り込まれても絶対に三願転入は認めません。正に不滅のタコであり、斬られても切られた自覚すらないですね。
若し、ヒウンマンが飛雲氏であるならば、絶対に誰も相手にしません。法論なんて以ての外です。将棋かボクシングの試合でもやる感覚なのでしょうか。打たれても打たれても絶対に負けは認めません。
法論の目的が自己満足でしかありません。本願寺の坊さんも良く知っているので相手にはしません。釈隆信氏が挑発に乗ってしまいましたが、やれば釈氏は確実に負けます。どれだけ間違いない真実を述べても相手は絶対に認める事はなく、いつまでも勝った勝ったと言われて、釈氏は完敗したと言われ続ける事になるだけです。述べた真実は闇に葬られてはいおしまい。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 20時27分
飛雲氏やヒウンマンの目的は何なのだろうか。
親鸞会と高森会長を滅亡に追い込む事しかない。
それは、煩悩に任せて怒りと嫉妬に狂う日蓮と同じ心境なのだろうか。
退会者に謗法罪の玉手箱をお土産に持たせないと気が済まないのか。
お聖教を勝手に解釈して、絶対に間違いないと信心しているから恐ろしい。
自力の信心もここまできたら金剛心、臨終まで崩れないのだろうか。
弥陀がその蓋をこじ開けようとしても、自力の金剛心にはかないません。
必ず救うと誓われているのに、自力の蓋が邪魔をする。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 20時43分
つい最近、会員歴20年以上の会員がやめたんだって。
しかも「飛雲」を呼んで高森会長の嘘が分かったんだってさ。
「飛雲」をこのままにしておいていいの?
法論してやっつけちゃいなよ。
そうしないと「飛雲」の被害者がまだこれからも出続けるよ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 20時46分
「飛雲」を呼んで
↓
「飛雲」を読んで
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 20時49分
ヒウンマンですだす。
悪人が救われるだす。
善を勧める人は地獄に堕ちるだすです。
方便は不要、真実だけで十分だすです。
基礎や一階は不要だす、五階だけあれば眺めは最高だす。
基礎や一階は五階を知らない人の為だけだす。五階だけ作ればよいのだす。
京大出ても、こんな簡単な事が分からんか。
五階だけ作ればよいのだす。基礎などいらんはダボ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 20時59分
基礎から5階まで阿弥陀仏が造ってくださったのに、自分で造らないといけないと考えるのが、疑情。
阿弥陀仏の兆載永劫の御修行では足りないって、どんだけ阿弥陀仏を見下しているんだよ~
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時08分
飛雲と法論するには絶対権力のある審判が必要ですが、そんな人いませんね。
本願寺の法主やら勧学ならばと思いきや、本願寺は絶対に親鸞会を認めないし、かといって真実は真実で絶対に曲げられない。どっちに転ぶ事も出来ないので絶対に審判などは引き受けまられませんね。結局法論の現実味は無いという事ですか。せめて辞めた人が謗法罪の玉手箱を受け取らない様にコメントで残すしかないと思います。辞めた人も親鸞会から離れているだけで、泳げタイ焼き君になっているだけですから。ヒウンマンみたいに煩悩にまかせて怒り狂う必要など全くありません。親鸞会から離れればいいだけです。玉手箱など欲しくないでする
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時19分
機をいへば、仏法と世俗との二種の善根なき唯知作悪の機に、仏体より恒沙塵数の功徳を成就するゆゑに、われらがごとくなる愚痴・悪見の衆生のための楽のきはまりなるゆゑに極楽といふなり。(安心決定鈔)
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。(安心決定鈔)
全部阿弥陀仏が用意してくださっているので、善根なき唯知作悪の者でも基礎から5階までの功徳を頂くだけですよ~
因果の道理に超異した救いを否定する親鸞会にいては絶対に救われませんよね~
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時28分
>>飛雲と法論するには絶対権力のある審判が必要ですが、そんな人いませんね。
本願寺の法主やら勧学ならばと思いきや、本願寺は絶対に親鸞会を認めないし、かといって真実は真実で絶対に曲げられない。どっちに転ぶ事も出来ないので絶対に審判などは引き受けまられませんね。結局法論の現実味は無いという事ですか。せめて辞めた人が謗法罪の玉手箱を受け取らない様にコメントで残すしかないと思います。辞めた人も親鸞会から離れているだけで、泳げタイ焼き君になっているだけですから。ヒウンマンみたいに煩悩にまかせて怒り狂う必要など全くありません。親鸞会から離れればいいだけです。玉手箱など欲しくないでする
、、と言って、親鸞会は逃げる。
「玉手箱など欲しくないでする」と普通の小学二年生のできる日本語の文法が使えず、さらに国外逃亡を示唆。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時31分
>京大出ても、こんな簡単な事が分からんか。
そのとおり、捕まえてみれば、平和堂もびっくり。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時33分
ヒウンマンですだす
だから、五階だけあれば良いとゆうとるだけだすです
基礎や一階は不要だから要らないのだす
階段もエレベーターもいらんのだす
そのまま五階にくればよいのだす
どうやって五階までくればよいのかだってか
そんな事わしゃ知らんわい、自分でなんとかしいや
必要がない基礎や一階をなんで弥陀様は苦労して作ったんじゃろかのう
そなこと知らんかい、五階だけあれば十分じゃわい、
早く五階までこいや、まっとるけんな
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時35分
>煩悩に任せて怒りと嫉妬に狂う日蓮と同じ心境なのだろうか。
日蓮と同じく、無間地獄に堕ちると言って、会員を脅す、浄土真宗系のカルト集団があるそうです。その教義を止めると会員が辞めて、お金が回らなくなり、会が成立しなくなるので、やめられないそうです。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時38分
>基礎や一階は不要だから要らないのだす
階段もエレベーターもいらんのだす
横超の直道。南無阿弥陀仏を知っている人はわかります。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時40分
五階まで行くんじゃないんだよね、五階まで連れて行ってくださるんだよ。それが真宗。自分で四階まで造って登っていくというのは浄土他流。
絶対他力というのはね、何から何まで阿弥陀仏が用意されているってことなの。自分で何かを用意するなら絶対他力ではなく、相対他力でしょ。
五階まで連れて行ってくださると聞いて、連れて行ってくださいとなったのが信心決定。基礎を造って、四階まで造って登っていかないといけないと阿弥陀仏を足蹴にしているから親鸞会は永久に救われないんだよね。
これを頭下足上っていうんだよ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時44分
>>基礎から5階までの功徳を頂くだけですよ~
結局、方便の19願20願も必要だと認めたわけだ。
むろん18願の真実にたどり着けば、方便は必要なくなりますけどね。
真実に導く為に方便の願が必要であり、通らなければならないという事が分かっただけでも進歩したじゃありませんか。おめでとう。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時50分
全くの見当違い。
阿弥陀仏が連れて行ってくださる=自力の19願は不要
これが理解できないから相対他力で阿弥陀仏を足蹴にして永久に救われなくしているんですよね。
参考までに
聖道門も方便
19願も方便
真実に導くために方便が必要なら聖道門も必要って事になりますよ。
でも高森大善知識は聖道門は必要ないと教えてますよね。
もう一ついうと
聖道門も19願も同じ権方便と親鸞聖人は仰っていますよ。
19願を善巧方便だなんて、本派で教えているの?
本派では19願は権仮方便で善巧方便ではないと言ってますけど、本派が正しいの間違っているの?
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 21時59分
教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社の補註より
方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意いの法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 22時06分
浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化身土巻)
19願は権仮方便だってさ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 22時09分
>聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が
権仮方便とは一部の人には必要な方便ってことね。
聖道門も権仮方便だから、一部の人にだけ必要な方便だってこと。
親鸞聖人の仰ることは筋が通ってますね~。
でも高森大善知識は聖道門の方便は不要、19願の方便は絶対に必要って、筋通っないでしょ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 22時22分
>「玉手箱など欲しくないでする」と普通の小学二年生のできる日本語の文法が使えず、さらに国外逃亡を示唆。
出た。百面相タコは日本語に食いつきまする。
誤字脱字をすれば、簡単に掛かりまする。
異常です。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 22時42分
>聖道門の方便は不要、19願の方便は絶対に必要って、筋通っないでしょ。
あれだけ日本語の誤字をこき下ろしてるのに、自分で間違えてる。自分の時はいいのでする、それが飛雲のタコの百面相でする。ここのコメントの9割はこのタコ野郎でおわす
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時01分
百面相タコって、どんな人のコメントも〇コさんのコメントにしているのではないのですか?
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時04分
>百面相タコって、どんな人のコメントも〇コさんのコメントにしているのではないのですか?
これもタコでおわしまする。わざわざ○コと書いてくるところがますます百面相の面目躍如でおわす
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時12分
日本語がおかしいから日本語がおかしいと指摘しているだけです。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時15分
そうだよ、日本語が分からない奴は日本語学校へ行けばよし。ここへ来る資格なし。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時20分
>百面相の面目躍如でおわす
間違いなく百面相呼ばわりなのですが・・・
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時24分
>日本語がおかしいから日本語がおかしいと指摘しているだけです。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時15分
>そうだよ、日本語が分からない奴は日本語学校へ行けばよし。ここへ来る資格なし。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時20分
私は初コメですが、この人たちのいうとおりだと思います。語学力が低過ぎると思いますが。もう少し勉強したら?
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時32分
>出た。百面相タコは日本語に食いつきまする。
誤字脱字をすれば、簡単に掛かりまする。
異常です。
確かに、日頃から言葉を大切にする必要のない仕事をしているのなら、異常と感じるかもしれません。それにしても親鸞会はおかしな言葉遣いをする人が多い。おかしな言葉遣いをしていると、因果の道理に従い、おかしな言葉遣いが身に付きますよ。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時38分
タコの劇団一人がはじまりましたです。ごめんなさい日本語をまつがえました。また怒られまするう
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時42分
まあ親鸞会はおかしな言葉遣いをするいい加減な団体とわかれば、誰も教えを聴かなくなるので、それも悪くない。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時55分
>日本語がおかしいから日本語がおかしいと指摘しているだけです。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時15分
>そうだよ、日本語が分からない奴は日本語学校へ行けばよし。ここへ来る資格なし。
投稿: | 2016年6月 4日 (土) 23時20分
>私は初コメですが、この人たちのいうとおりだと思います。語学力が低過ぎると思いますが。もう少し勉強したら?
これも全部タコ野郎でする。
何かの病気かも。異常過ぐる。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 00時07分
初コメの人もタコ野郎なんですか?
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 01時30分
夢幻界裡の覚醒とかいうサイトでも僧侶を名乗って親鸞会教義を宣伝していたようですが。
正体が露見して相手にされなくなったからこちらに移動したのでしょう。
正体を偽装して勧誘ないし宣伝工作をするといういつもの手口を繰り返しただけです。親鸞会は何も変わっていません。
目的は、会に疑問を持ってネット検索を始めた会員を撹乱し混乱に陥れることです。
会員に対して、「本願寺は腐敗堕落しているが、心ある僧侶は親鸞会に期待しているのだ。会をやめたら人生はお終いだ」という構図を描いて見せられれば任務達成です。
彼らには法論をする気は最初からありません。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 01時51分
>会をやめたら人生はお終いだ
会がもし、
陰険陰湿なストーカー行為で脱出不可能にしているなら、
現行法違反ではないでしょうか?
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 03時13分
一 人の、前々住上人へ申され候う。「一念の処、決定にて候う。ややもすれば、善知識の御ことを、おろそかに存じ候う」由、申され候えば、仰せられ候う。「最も、信のうえは、崇仰の心あるべきなり。さりながら、凡夫心にてはなきか。か様の心中のおこらん時は、勿体なき事と、おもいすつべし」と、仰せられしと云々
(蓮如上人御一代記聞書)
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 03時15分
現在の刑法から見た時、
一番恐ろしい謗法罪とは何なのか考えさせられます。
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 03時23分
(テクノロジー情報)
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 03時15分からは、
「会長を謗った人は大不幸にして当然」という内部政治自体が
謗法罪ではないでしょうか・・・
南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 05時01分
こんにちわ
不倫が大好きなエロハルです
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 12時10分
工作員君:
会長や幹部の悪口をこういう場所(脱会者のリハビリを目的とするブログのコメント欄)に書き込むのは、統一教会のお家芸ですね。どこで真似したのかな? ちなみに統一教会では、非信徒の家族から入信を疑われた場合、工作員でない、一般の信者であっても、文鮮明教祖の写真を踏み絵よろしく踏んだり、破ったりすることも特例として許可されていました。でも君はまさかそこまではできないよね?
投稿: 会長や幹部の悪口を書き込むのは | 2016年6月 5日 (日) 13時47分
会長や幹部の悪口を単に書き込んでいるのではない。肝心要の教義を根本から間違えて、曲解しているから、会長と幹部を非難しているんですけどね。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 14時06分
ヒウンマンですだす
自力の金剛心は強いだす
法論しても絶対に負けないだす
負けを認めないのが必勝法だすです
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 20時06分
>自力の金剛心は強いだす
このコメントを裏付ける親鸞聖人のお言葉を挙げて下さい。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 20時32分
どんだけ飛雲さんを怖れているんだよ。
>負けを認めないのが必勝法だすです
これは親鸞会の定石だったでしょ。
その定石さえも使えないほど、飛雲さんには歯が立たなかったんだね。
高森会長のレベル低過ぎ。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 20時44分
ヒウンマンの自力の金剛心といえども因果の道理にはかないません。
悪因は悪果をまねき、謗法罪は地獄をつくりだします。
ヒウンマンも惑業苦で相当の自業苦を味わっている事と思います。
ネットで怒りをぶちまけても親鸞会の講師部は完全無視で、導師にも成れない下手な日本語のヘタレ会員に突っ込まれるだけ、たまに頭のいい工作員が相手してくれるくらいかな。本願寺の者が現れた時は大喜びでタコ墨をぶちまけてましたね。誰からも相手にされない孤独地獄は獄中の韋提希の様な気分でしょうか。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 20時51分
>自力の金剛心は強いだす
このコメントを裏付ける親鸞聖人のお言葉を挙げて下さい
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 20時58分
飛雲氏なんぞ誰も恐れてはいないと思います。
逆に哀れんでいると思います。
あれだけ派手に謗法罪を作り、仏縁ある人に悪影響を与えている。
得する事が何一つありません。地獄ゆきの種を一生懸命に蒔いているだけです。笑って見ている人もなく、完全無視を徹底しているみたいです。今まで一生懸命に求道してきただけにこれ程むごい事はなし。完全無視だよ。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時00分
自分も含めて、飛雲さんのお陰で脱会できた人は、何百人といますよ。
それを阻止すべく、親鸞会はあの手この手を尽くしましたが、全て返り討ちにあって、更に脱会者が増える結果になったのは、まさに、因果の道理に狂いなしの証明。
自分は、ミクシィで繰り広げられた法論を見て、高森会長の余りといえば余りに酷い無知無能に驚嘆してやめたんだけど。
負け犬の遠吠えと負け惜しみだけは、超一流の親鸞会だね。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時01分
>導師にも成れない下手な日本語のヘタレ会員に突っ込まれるだけ
人を見下すのは、仏教の精神に反しています。まして会員は身内であり、その身内を見下すのが親鸞会ですか。見下された人の気持ちがわかりますか。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時01分
ヒウンマンが勝手にお聖教を解釈してこう書いてあると決め込んでるだけだから、親鸞聖人のお言葉はどこにもないのではないですか。自分に都合の良い自力の異安心みたいなものではありませんか。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時05分
>ヒウンマンが勝手にお聖教を解釈してこう書いてあると決め込んでるだけだから、親鸞聖人のお言葉はどこにもないのではないですか。
では飛雲さんが「自力の金剛心は強いだす」と言ったという裏付けを挙げて下さい。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時08分
金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり(観経疏)
「飛雲」ではこの文を引用されています。
金剛心は、自力ではなく他力のことですよ。
自力の金剛心と言っていることが、親鸞会の無知を暴露しているって気が付いた方がいいですよ。
投稿: s | 2016年6月 5日 (日) 21時19分
迂闊に仏語を出して墓穴を掘る親鸞会。
飛雲さんと高森会長とでは、レベルが違い過ぎて、高森会長は御文も仏語も言えなくなって、ミクシィからすたこら逃げ出したんですよ。
親鸞会は進歩がない。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時39分
>金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり(観経疏)
「飛雲」ではこの文を引用されています。
金剛心は、自力ではなく他力のことですよ。
自力の金剛心と言っていることが、親鸞会の無知を暴露しているって気が付いた方がいいですよ。
なるほど、親鸞会はもう手足も出ないので、飛雲さんが言ってもいないことをでっち上げて、批判するしかないようですね。今後、ヒウンマン、という言葉を発する人のコメントはただの妄想と受け止めます。有難うございました。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 21時59分
高森さんも昭和四年生まれだから、87歳だよ。
たいしたもんだ、未だに講師を牛耳って、M晴の頭押さえつけて、M野さんたちをマインドコントロールして、ある意味、日蓮だな。
基地外に集まってくる人もいるからね。
まあ、そういう折れもその中の一人だったんだけど。今は有り難い事に目が覚めた。
投稿: | 2016年6月 5日 (日) 22時17分
M野さんはまだマインドコントロールにかかったままなの?
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 09時54分
僧侶のふりをしたりして、コメント欄を荒しているくらいだから、マイコン真只中ですよ。
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 10時19分
一歩も引~か~ぬ~ぞ、破~邪~の~け~ん。親鸞会同志の歌が泣いてるよ。破邪しない親鸞会は、クリープを入れないコーヒーのようなものではないですか。(私は親鸞会擁護派ではないです)
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 12時59分
いつも思うのですが、同じく専任講師とはいっても、M野氏やK玉氏にはそれなりの俸給が支払われておりましょう。絶対多数を占める無給の専任講師はそのことに憤慨しないほどまで洗脳されているんでしょうか。
無給の専任講師
という言葉自体が日本語の「専任講師」の語義を勝手に変更したとんでもない暴挙です。敢えて下品な言葉で敢えて哀れな--でも加害者でもありますが--彼らの覚醒をうながしたい。
今の君らは税法の上から言っても、ソープ嬢以下なんだぞ!
同じく名ばかりの個人事業主ではあっても、ソープ嬢はお店からさまざまなバックアップを得ています。しかるに無給の専任講師は……これこそ21世紀の残酷物語ですが、問題は無給の専任講師はあまりにも思い洗脳を受けていて気づこうとさえしないことです。ああっ!
投稿: 無給の専任講師は有給の専任講師を | 2016年6月 6日 (月) 13時28分
言うに事欠いて「無給の専任講師」とは、まやかしにも程がありますね。それは、良く言えば「ボランティア」かも知れませんが、ズバリ言ってしまえば「奴隷」です。「ド」・「レ」・「イ」!親鸞会会員は「言葉に敏感」であるべきではなかったのでしょうか?こんな言葉に騙されて、ご自分の感覚をおかしいとは思いませんか?
「進んで弥陀の奴隷となり 断じてその他の奴隷となる勿れ」…かつて高森会長が会員に送ったというハガキに記されていた言葉です。実は、会の結成当初から、彼は周囲の人々を、「弥陀の奴隷」の名の下に、自己の奴隷と見ていたのかも知れません。
…彼の取り巻き達が何と言って褒め称えようと、彼はどうしようもない俗物です。騙されてはいけません。こんな「者」とは、さっさと縁を切るに越した事はありませんよ。ねえ、皆さん!
投稿: S58広島大 | 2016年6月 6日 (月) 14時40分
以下のurlがM野さんの2chでの破邪顕正活動です。
さすがは京都大学中退、知性があふれています。
会員・非会員を問わず、ぜひこのすばらしい書き込み集を見てあげてください。
M野さんに対する尊敬が増すでしょう。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1390858837/1376
投稿: K | 2016年6月 6日 (月) 15時56分
「進んで弥陀の奴隷となり 断じてその他の奴隷となる勿れ」
ほんとにそんなことを大善知識さまは葉書にしたためたもうたんですか?でもこれって
清沢満之先生のお言葉の丸パクリです。あれっ? 高森氏は大谷派の近代教学は諸悪の狂言だとか言ってませんでしたか? そんな高森氏に丸め込まれて生まれ育った歴史ある大谷派のお寺を出て行ってしまった父子も居ましたね。飛ぶ前に見よ、とはまさにこのことでなくて何でしょうか。ああっ!
投稿: 広島大学さんありがとう。またしてもパクリを見つけました! | 2016年6月 6日 (月) 16時33分
こんばんわ
エルハルです。
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 17時50分
こんばんわ、
ヒウンマンですだす
エムハルくんと友達になりましたですだす
こんど紅白戦でこのサイトを盛り上げてゆくだすっちゃ
ヒウンマンと飛雲とは違うだすです
ヒウンマンは悪の権化だすぞ
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 20時38分
バリバリの工作員が寝返ったのかな。
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 20時51分
工作員M氏の初恋の人(熊本県人)も見ていた!!
曰く
「あの秀才のM君は、今こんな風になってらしたんですか?」
工作員M氏入魂の知性あふれる2chでの破邪顕正活動。
↓
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1390858837/1376
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 21時11分
おやすみなさい
エヌハルです。
投稿: | 2016年6月 6日 (月) 21時14分
偉そうな親鸞会講師どもはさっさと路頭に迷ってしまえばいい。
教義が誤りなんだから存在意義ゼロだ
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 00時35分
聴聞してきた阿弥陀仏の本願は全く話されている通りなので、教義は全然間違ってはないですね。たとえお聖教と全然違っていたとしても、や、むしろより分かりやすく話されていると思いますですら。
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 05時46分
高森会長の説明する阿弥陀仏の本願が間違っているから、どうしようもないです。
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 06時00分
本願には、信心と念仏があるが、善はないから、救われるのに、善は不要と教えるのが、善知識。
本願には、信心と念仏があるが、善はないから、救われるのに、善は必要で念仏は不要と教えるのが、悪知識。
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 07時44分
こんばんわ、ヒウンマンですだす
善は不要だから、悪をいくらやっても罪消えるだすです
悪業が多いほど功徳も多くなるっちゃ、
悪をすすめるのが悪の権仮、ヒウンマンですだす
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 20時22分
善が不要と悪を勧めることとは意味が違いますけどね。
貯金しなくてもいいと借金を勧めることは意味が違うのと同じです。
思考停止の人は、高森会長の詭弁に簡単に引っ掛かって、真似して得意になっているのですが、これでも詭弁が見抜けない思考停止の人のために分かりやすく解説すると、
善が不要で悪も不要ということです。
善を勧めないけど悪も当然勧めません。
詭弁の勉強になりましたか、思考停止の講師部員へ。
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 20時29分
>>こんばんわ、ヒウンマンですだす
善は不要だから、悪をいくらやっても罪消えるだすです
悪業が多いほど功徳も多くなるっちゃ、
悪をすすめるのが悪の権仮、ヒウンマンですだす
ヒウンマンです 殿
現役会員、退会者、誰から見ても、見苦しいことはやめましょう。阿弥陀様を泣かすのはいかがなものですか。悪をすすめてどうするつもりですか。あなた本当に親鸞学徒ですか?
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 20時49分
悪を勧めないと書いても理解できないなら、仕方ないです。
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 20時59分
思考停止講師部員は、哀れ
投稿: | 2016年6月 7日 (火) 21時01分
親鸞会の論争の主眼は、負けずに済ますにあり。相手を納得させようとか何とか分からせようという気はない。だから相手の言い分をよく聞かないし、勝ち目なしと思えば逃亡する。
投稿: | 2016年6月 8日 (水) 15時21分
ヒウンマンですだす
ただ、弥陀を信じて称名すればいいのだす
神を信じてアーメンと唱えればキリスト教徒も救われるだす
南無阿弥陀仏とアーメンは同じ意味だすぜよ
投稿: | 2016年6月 8日 (水) 21時08分
>ヒウンマンですだす
ただ、弥陀を信じて称名すればいいのだす
神を信じてアーメンと唱えればキリスト教徒も救われるだす
南無阿弥陀仏とアーメンは同じ意味だすぜよ
ヒウンマンです殿
貴方がどのようなコメントをしようが飛雲さんと、貴方は別の存在です。ヒウンマンですさんが飛雲さんにこだわり続けることを阿弥陀様はわかっておられます。
投稿: | 2016年6月 8日 (水) 21時37分
ヒウンマンですだす
ワシゃ悪の化身だす、飛雲氏とは別人じゃ
タコ入道と同類じゃ
我は阿弥陀様と逆の存在なりですだすだすですっちゃ
投稿: | 2016年6月 9日 (木) 04時53分
エムハル君は在会中に二代目善知識様にいじめられた
ヒウンマンは在会中にタコ入道にいじめられた
誰も知らない知られちゃいけない ヒウンマンが奴なのか
投稿: | 2016年6月 9日 (木) 05時23分
タコ入道って事は、結局は飛雲さんの事言ってるのと同じだと思いますが、
ヒウンマンが飛雲さんの事だとは思っていませんからね。
投稿: | 2016年6月 9日 (木) 06時09分
私、大谷派の門信徒です。大谷派の教学では死後往生を語らず現生往生を説きます。霊魂を認めず、死後の世界の存在を認めません。当然、彼らは三世因果の道理、生死流転もはなっから信じていません。これでは、7高僧、親鸞聖人、蓮如上人の聖教は分かるはずがないですよね。死後の世界があることを信じない輩を仏教では断見外道と言うそうです。
親鸞会の会員ではないですが、少なくとも、ネットで調べた限りでは、親鸞会の方が大谷派の教学者が説く法話よりは正しく親鸞聖人のみ教えを説いていると思いました。大谷派の聞法会によく行くのですが、死んでご浄土に帰るお話は聞いたことがないですから。
倶会一所とか墓石にあっても本当に信じているとは思えません。空しいだけです。
親鸞会を批判する以前の問題だと思うのですが・・・・・・
どうでしょう?
投稿: サラン | 2016年9月 2日 (金) 17時22分
倶会一処
投稿: サラン | 2016年9月 2日 (金) 17時36分
サラン さま
大谷派の門徒なら、まずこのような一方的なコメントをするのではなく、本山に話して、その結果を書いて下さい。
親鸞会が正しいと思うのなら、大谷派の門徒として、親鸞会の力を借りて、大谷派と正々堂々と法論して下さい。
御報告を楽しみにしています。
投稿: | 2016年9月 3日 (土) 01時55分
除染作業させ給料脅し取る=容疑で弘道会系幹部ら逮捕―愛知県警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160921-00000112-jij-soci
投稿: | 2016年9月21日 (水) 22時36分
クリントン氏は、トランプ氏が打ち出している経済政策について、中間層を犠牲にして富裕層を優遇するものだ
として強く批判。
クリントン氏は、トランプ氏の税制政策は「トリクルダウン(富裕層や大企業が豊かになると、最終的には下位にも富が行き渡るという理論)だ」として一蹴した。
また、「トランプ氏の政策は、トリクルダウン理論の最も極端なバージョンであり、富裕層への過去最大の減税だ」
と述べた。
クリントン氏はまた、トランプ氏の企業が契約を結ぶ一部の相手に支払いを怠ったことを非難。
トランプ氏にだまされたという人の多くと会ったことを明らかにした。
これに対してトランプ氏は、支払いが行われなかったのは、満足のいく結果が得られなかったからだと反論した。
http://jp.mobile.reuters.com/article/idJPKCN11X04R
投稿: | 2016年9月28日 (水) 21時54分
これある?
http://www.jihonji.net/oko242.html
投稿: | 2016年11月15日 (火) 12時30分
仏教もキリスト教も状況は同じです。お坊さん便が話題になりましたが、スペインでもお坊さん便ならぬお坊さんGO!が誕生しました。
神父探すアプリ登場=許し請いたくなったら「GO」―スペイン
時事通信 12/27(火) 6:26配信
【マドリードAFP=時事】自分の罪を告白し許しを請いたいが、どこに神父様がいるのか分からない―。
迷える子羊のために一番近くにいる告解可能な司祭の居場所を教えてくれるスマートフォン向けアプリがスペインで登場している。
試作版が9月からダウンロードされ始め、人気を集めたことから今月に入り本格始動した。その名も「ポケモンGO(ゴー)」ならぬ「コンフェソル(聴罪司祭)GO(ゴー)」。アプリの説明文では「司祭は教会の告解室にいることもあれば、あなたの町の通りや公園にいることもある」と説いている。スペイン全土約100人の登録司祭が今どこにいるか探せる。
カトリックの国スペインも最近は信仰心の薄れが著しい。ミサに「ほとんど行かない」人は59.3%、毎週教会に行くと答えた人は15%にすぎない最近の世論調査結果もある。
投稿: | 2016年12月27日 (火) 08時58分