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伝統仏教教団はなんのために存在するのか

とある宗教紙から寄稿依頼を受けて書いたのですが、内容が過激ということで掲載されなかった原稿です。ここで何度も扱った「観勢寺問題」を中心に書いています。「観勢寺問題」について知りたい方は、第一報文化時報の報道月刊住職の報道、そして、先日中外日報にも載りましたのでご参照ください。

ここに載せる文章は観勢寺問題が明らかになってからかなり早い時期に書いたものですから、今は状況が変わっていることもありますし、何より多少頭に血が上っていたので、今思うとここまで書かなくても良かったのでは無いかと思う部分もあります。しかし当時の正直な思いですから、そのまま載せることにしました。

実際には周囲の住職さんの中には、この問題を深刻に受け止めて誠意を持って動いた方もありますし、本願寺派という教団も無策ではありませんでした。しかし最終的には寺の譲渡を決めた観勢寺の住職さん自身が持つ本願寺派への不信感が、親鸞会の支援を選んだのだと私は思わずにはおれませんでした。

その背景に何があったのか。観勢寺の住職さんに直接に話を聞く事が出来ない以上本当のことは分かりません。私も真宗大谷派という教団に不信を抱くことはありますが、やはり最後の最後は信頼できるサンガだと思っています。他の多くの住職さんもそうでしょう。

私はこの問題をずっと見つめてきました。しかし所詮は第三者でした。何が出来たのか。どうすれば良かったのか。まだ答えは出ません。

一つだけ深く懸念しているのは、お寺という存在が、沢山の人が集うとか、地域の役に立つとか、そういう方向性でばかり評価されているように感ずるということです。今も私のいる宗派では様々な寺院活性化のための施策がなされていますが、朽ち果ててゆく寺の面倒を最後まで見て支えるような内容は見当たりませんし、そもそもお寺にある程度の「余裕」が無ければ参加も出来ないような物ばかりになっています。それが続く以上、「見捨てられた」と失望して宗派を去る困窮寺院はこれからも出てくるでしょう。

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伝統仏教教団はなんのために存在するのか ―寺院の困窮に食い込む新宗教の教勢―

■攻勢を強める新宗教
 今年三月、浄土真宗本願寺派の末寺が、浄土真宗系の新宗教団体である浄土真宗親鸞会に支援を求めて宗派を離脱するという情報が入った。地域住民は反対の姿勢を取り、今も関係者によって協議が続いている。
 浄土真宗親鸞会(以下親鸞会)は若年層への正体を隠した勧誘や、傘下のビデオ販売会社によるアニメビデオの訪問販売などで知られている教団で、二〇一〇年には一部の信者に対して「脱会するなら一千万円払え」といった内容の契約書を書かせていたと報道されている。(週刊ダイヤモンド十一月十三日号)どうしてそんなところに支援を求めたのか。
 私はその背景を尋ねるべく現地に赴いたが、そこには深刻な寺院の貧困問題があった。もともと寺院収入では生計が成り立たないその寺では、先代の住職は会社員としての収入で寺院を支え、退職金を本堂の修復に費やしたりもした。しかし現住職に継職後は体調の悪化などにより維持することが困難となり、所属教団や地域住民に相談したが引き受け手もおらず、廃寺にするしかない。ならば活用してくれるであろう親鸞会に譲渡を持ちかけたということだ。親鸞会への譲渡という話が明らかになった後、周辺寺院の住職はその末寺住職に連絡をとったが、困ったときに助けてくれなかったのにいまさら何を、という反応だったという。
 最終的にどうなるかはまだ予断を許さないが、親鸞会への譲渡が実現すれば、彼らは伝統教団の寺院が傘下に入ったことを自らの正統性の根拠とし、布教と宣伝にフル活用するだろう。そして今後もこの流れは加速する可能性すらある。事実、親鸞会が食い込んでいる伝統教団の寺院は他にもあるのだ。
 今から二年前にはこんな事件もあった、ある真宗大谷派の寺院の集まりの研修会で、親鸞会の布教使が講師として選ばれていたのだ。当地は昔から仏法の盛んなところであったが、近年過疎の波が押し寄せ、多くの寺院は兼業か年金受給者である高齢の住職が支えている。
 そんな中に親鸞会の布教使が進出し各地で法話会を開き住民の気持ちを惹きつけていった。彼らは傘下のビデオ販売会社をフロントにして活動しており、親鸞会の勧誘活動だとは充分に伝えていなかった。住民は信徒として所属する寺院住職に、その布教使を研修会の講師に呼んで欲しいと要望し、住職はそれを受け入れた。親鸞会の布教使とは知らず。
 しかし開催前にその情報が入り、私は要請を受け急ぎ現地に向かい住民に事実を説明した。住民は納得し講師の変更を受け入れたが、一方で私に言うのだ「なら私たちはどこから仏法を聞けばいいんだ」と。

■伝道の機会を作れない伝統教団
 折しもアマゾンを経由して法要への僧侶派遣を依頼できる「お坊さん便」が話題になっているが、私も五年前に真宗大谷派の末寺に入寺した当時、とあるネット経由の僧侶派遣サービスの依頼を受けて各地に赴いていた。「お寺との付き合いが不要」という売り文句や、定額のお布施の中からキックバックを支払うといった仕組みには疑問を持ったし、普段お寺との付き合いのない人が仕方なしに僧侶を呼ぶサービスとの印象もあったのだが、それはいい意味で裏切られた。付き合い不要どころか多くの方が継続して法要を申し込まれ、法話をすれば耳を傾けられ、中には近くの別院の法座や、私の滋賀の自坊まで来られる方も現れた。
 そんな折、同じ僧侶仲間からその僧侶派遣サービスの紹介を請われた。彼は住職として地方の末寺を預かる一方、平日はサラリーマンとして一般企業で働いて生計を立てていた。仏法を弘めたいと思いつつもその活動は休日の短い時間に限られていた中、派遣僧侶として働ければ寺院活動をもっと頑張れるのではないかという思いを語っていた。
 結局彼は様々な事情から断念したのだが、代々のお寺を維持したいと思っても叶わない人もいるように、僧侶の中には熱心に仏法を求め弘めたいという思いを持っていても、経済的な事情からそれが叶わない人がいる。そしてそういう人に伝道の機会を与える仕組みを用意することを伝統教団は充分にしてこなかった。今や事実上その役割を担う民間企業に、僧侶が多額のキックバックを払っているのはなんという皮肉だろう。

■お寺は元気でなくてもいい
 仏法を聞きたい人がいる、そして伝えたい人がいる。そこに伝わる場所としての寺院がある。僧侶がテレビに出たり写真集を出したりして注目され、寺院が主催するイベントや社会活動が耳目を集め、一方では地方の衰退とともに寺院疲弊と消滅が語られる中、このごく根本的な寺院の役割を論じることが抜け落ちているように私は思う。
 「お寺を元気に」というセミナーも盛んだが、急激にすすむ過疎化と高齢化の波の中で元気になれないお寺もある。以前とある研修会で「お寺は元気でなくてもいい、仏法が伝わって救われる人が一人いたらそれで寺院の役割は充分です」と話したところ、終了後参加していた一人の僧侶からこう言われた。「元気なお寺にならなければとずっとプレッシャーを感じて苦しんでいた」「私一人が救われる場所がこのお寺だった」と。
 寺院の持つ根底の役割が語られない中、経営や社会的な役割といった尺度ばかりが寺院活性化の根拠として論じられているように感じられる。経済的に成り立たない寺院は価値が無く、そこではもはや法は伝わらないと思われているのだろうか。

■放置される格差と教団の未来
 私の所属する教団は同朋教団ということになってはいるが、その内実は一人では使い切れないほどのお金を得る僧侶と、困窮の中で無理を重ねて必死に寺院を支える僧侶が混在する教団である。そしてこの格差はなぜか不思議なほど問題視されない。経済的に恵まれた寺院が、困窮する寺院を支援するという試みすら聞かないのは不思議としか言いようがない。
 いまは本山建物の修復や教団施設の建設ラッシュで、最近も阿弥陀堂の修復が完了し絢爛たる威容が姿を表した。他にも百数十億の予算を組んで振興計画を推進する伝統教団もある。
 この現実を見て思い出すのが、手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」という漫画の中の一シーンだ。大仏建立の資金集めのために諸国を回る僧、良弁の前に、年貢米を運ぶ村人が飢えて倒れるシーンがある。随行する主人公の我王は「お経をあげなくていいのですか」と問うが、良弁はお経を読んだって一文にもならんと拒否する。
「そんな…ばかな。じゃあ、坊さまや寺はなんのためにあるのです?」
「残念ながらちがうな。国分寺が全国に立ち、立派な大仏が作られる…みんな政治のためだ。お上が庶民に重い税を払わせだまって従わせるために、仏教を広めてごまかしとるんじゃよ。どうだがっかりしたか?」(手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』)
 仏法を伝えなければ寺院は消滅すると言う人はそれなりにいるが、たとえ寺院が消滅しても仏法を伝えたいという声はあまり聞かない。教団が中央に巨額の資金を集める一方で、困窮する寺院をいとも簡単に見放すのならば、私たちは未来に一体何を残せるのだろうか。
 最初に書いた末寺の、親鸞会への譲渡における住民説明会が開かれた際、説明に訪れた親鸞会の幹部は、本願寺派から「見捨てられた」その末寺を自分たちの「正しい教え」の布教の拠点として使うと断言し、「東西本願寺が正しい教えを説いていれば、私達のところにこんなにたくさんの人が仏法を聞きに来るはずがない」と鼻息荒く豪語した。
 親鸞会が「正しい教え」とやらを説いているならなぜ正体を隠して勧誘するのか。そのあまりの夜郎自大ぶりに参加していた住民は苦笑したが、私たちはそれを笑えるような立場にはない。むしろ、この出来事で提起された課題に真剣に向き合わなければ未来はない。

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総統閣下が柴田未来問題にお怒りのようです

こんなものが…

えっと、この「総統閣下は…」というのは、「ヒトラー最後の12日間」という映画のワンシーンを使ったおきまりのパロディで、ネット上ではわりと有名なおふざけです。一度見ていただければ。

(より完成度の高い改訂版に差し替えました)

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月刊住職2016年5月号「本願寺派寺院が異安心として否定する親鸞会に譲渡されそうな危機」

タイトルの通りなのですが、月刊住職という最近注目されている雑誌が、その2016年5月号で、元本願寺派寺院が親鸞会に譲渡されようとしている問題、いわゆる「観勢寺問題」を取り上げました。

(この件について第一報はこちら文化寺報という業界紙が取り上げた記事についてはこちら。)

非常に丁寧な取材で、十分に紙面もとってしっかりと書かれている記事です。少し大きめの一般書店には置いている雑誌なのでぜひ皆さん一度買って読んでいただきたいです。私もちょっとだけ記事中にコメントをしています。

中でも、記事の最後のこの一文が私には突き刺さりました。親鸞会の「広報担当者」のコメントです。

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「(観勢寺の)譲渡が決まれば、リニューアルして使うつもりです。時代が変わろうと、場所が変わろうと古今東西、不変なものが仏法の教えです。それを説く場所がお寺であり、説く人が僧侶です。お経に書かれていることを、現代に分かりやすく説く人がいない。聖徳太子のいわれた篤く三宝を敬えというのは、僧侶が法を説くからですが、説かなければ僧侶は宝にならんね。自戒しなければいけないことで、教えがなければこの大きな(親鸞会の)建物もすぐに朽ちるでしょう。観勢寺さんは江戸時代に建てられたというけど、当初はそこで親鸞聖人の教えを聞かせてもらおうと思って建てられたのは間違いない。それを生かすのには、そこで教えを説くことです。こちらとしては教えを伝える場所を探しているのですからね」

まあ、親鸞会の布教方法は詐欺的とも言えるひどいものだし、そもそもお前らはきちんと聖教に向き合って教えを伝えてないだろう、という問題はあるのですが、それを除けばぐうの音も出ないほどの正論です。

私もこの一件には多少関わったし、周囲の伝統教団の人たちも真摯に向き合ってきたと思うのですが、あのお寺をなんとか「教えが伝わるお寺に戻したい」という思いを聞いたのは一人だけで、あとは親鸞会に渡さずどう廃寺にするかということばかりが議論されていたように思います。それは様々な事情の中で致し方ないことだとも思うのですが、寂しいことでした。

この記事を書かれた記者もそのことを感じているのか「どの宗派にも大事な「教線」が宗門や寺院の内部から侵食されていると見るべきだろう。」と最後に見解を述べています。

お寺というのはそもそも教えが伝わる場として建てられたのに、今はその「教えが伝わる場」としての役割を抜きにして、どう寺や教団を残すかという事ばかりに熱心になっているように思います。

この雑誌には他にも寺院活性化についての様々な記事が掲載されているのですが、ここに焦点を当てた記事は実際のところ見当たらないし、私がいる宗派(真宗大谷派)でも、イベントや社会貢献活動(もちろんこれも極めて大事ですが)ばかりに光が当てられる傾向があります。

でもですね、お寺って、

現実にここで私が仏法に出遇い続ける場所なのです。私を救う教えを聞く場所です。

この号の中に「人口減少社会における寺院」という記事があり、お寺に求められる役割として、「新しい葬送や終末期医療と連携した看取り、傾聴によるケアや地域見守りの機能」などがあげられています。それも大切でしょうが、そんなのみんな寺でなくたってできるものです。

お寺はこれから厳しい時代を迎えると思うのですが、この原点を確認してそこに戻れる機会になるのならそれもまたご縁でしょう。それができないのなら、無くなっても仕方がないかも知れません。

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