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親鸞会の法話も変わる。

私が親鸞会に居た頃は、どんな若い講師でも自分の考えた原稿で力いっぱい話をするのが法話でした。それが、講師をやめる二年前位から「10分間説法+高森会長のビデオご法話」になりました。

何度の何度も同じ内容のビデオご法話を見続けるのは実に苦痛でしたが、講師部員はそんなことをおくびにも出さずに、「先生のビデオを毎日見れて幸せです」なんてことを言っていたのを思い出します。(実際には上映中寝ている講師は多かったですが、無理もないです)

重たいスピーカーとビデオデッキ、プロジェクターを転がしながら持ち運んでいたのを思い出します。私は移動がほとんど車でしたから良かったものの、電車で回っていた人は大変でしたでしょうね。

10分間説法は確か20種類位ありましたが、それを全部暗記して試験を受けていました。不思議のあの時に覚えた原稿が今でも口をついて出てしまうことがあります。一言一句間違えることは許されませんでした。

その後、私が親鸞会の講師をやめてから、今度はアニメを使った法話になりました。アニメを細切れに上映して途中に講師が話をするというスタイルです。これは私聞いたことがあるのですが、若手の講師だったせいかなんだかロボットみたいな話し方で、困難で初めての人は最後まで聞けるのかなぁと余計な心配したものです。

そんな感じで、「普通に」講師が話をするタイプの法話は一部の人にしか許されてなかった親鸞会ですが、なんとあれだけ重視していたビデオご法話が完全になくなり、講師が最初から最後まで法話をする形式になったそうです。

親鸞会の人にとっては幸せなことでしたが、こんなコロコロ変わる方針に絶対無条件服従で従う講師の皆さんは大変だと思います。

最近、高森会長は自分が立って法話できる時間はあと2年と考えているようです。その後のことを真剣に考えているのかも知れませんし、単なる気まぐれかもしれません。

まあそれでも、たとえ教義的に完全に間違っていたとしても、ヘンテコな19願の教えとしつこい因果の道理の話にしても、それでも、自分で話ができるというのはいいことだと思います。

お聖教に直に向き合い、一生懸命話しをしていってください。阿弥陀様は絶対に見捨てられません。いつか自分の話の内容の矛盾に気づいていくと思います。私はそう思っています。

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コメント

ぶるうのさま

やっと更新してくださいましたね。
最初の書き込みになるかどうか。

8月30日(日) 親鸞会元講師の嶋田さんを呼んでの勉強会を愛知県で行います。
連絡は私のブログのメールアドレスにお願いします。
携帯番号もお願いします。個人情報は必ず守ります。
私のブログは、「とくよしみねの「なぜ生きる」」です。
よろしくお願いします。

これを書くと又親鸞会の妨害書き込みが増えますが皆さん済みません。
一人でもぶるうのさんが書かれたように本当のことに気がついて欲しいと思っております。
では、よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年8月11日 (火) 22時57分

相変わらずのブレブレカルト教団ですね
いい加減、善知識ごっこ遊び辞めろよ

投稿: | 2015年8月12日 (水) 12時04分

小沢浩氏の『新宗教の風土』の中の親鸞会関連の章は、さまざまな制約から概して親鸞会の主張をはぁそうですかと聞き取るのに終始しました。ただ、谷本さんの臨終の様子を、今現在、親鸞会の書籍以外に詳細に知ることができるのは、この本だけかと思われます。これを読むと、谷本氏のご子息は、浅倉講師ともども死のふちにある谷本氏を心理的に追い詰めるようなことを放言していらっしゃいます。いわく、

谷本氏「直ったら聞法ひとすじで行かせてもらうわ」
谷本氏子息「父さん、もうそんな時間はないんだよ!」

  谷本建設さんの現行のサイトを拝見する限り、「わが社自慢の建築作品」の中に親鸞会の滋賀会館は見当たりません。谷本氏なきあと、ご遺族は何らかの機縁で親鸞会を去られたように拝されます。このあたりの経緯をどなたかご存知ならば、差し支えなき程度までお聞かせください。家族あげて親鸞会や無量寿寺に狂っている富裕な家族(無量寿寺の場合はユニーの元会長一家)にとって、貴重な参考事例となるのではないかと思われます。

投稿: 「すっきりはっきり」さん一家はいつごろ目が覚めたのでしょうか? | 2015年8月13日 (木) 20時01分

ゴッドハンド藤村氏
iPS森口氏
ベートーベン佐村河内氏
STAP小保方氏
エンブレム佐野氏

これに続く犬鉄氏、
いや年数からいくと元祖に君臨しますか!?

投稿: | 2015年8月13日 (木) 21時16分

比較になりませんね。これらの人は、人の命は喰いものにしていないでしょ。

投稿: | 2015年8月13日 (木) 21時23分

日本をがえだいっ野々村氏も
同類じゃないですか。

投稿: | 2015年8月13日 (木) 22時50分

上の人が書いている通り、親鸞会は死人を出したり、信者の人生を滅茶苦茶にしたりしているから、被害の深刻度が桁違いだね。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 00時09分

野々村氏はかわいいもんだ。最悪でも首をちょんぎられて、八つ裂きにされるくらいだろ。会長は多くの命を喰いものにしているので一体どんな報いを受けていくのかな。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 12時10分

会長にとって【因果の道理】は仏教ではなく、自分の相対の幸福を積み重ねる1アイテムである。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 14時57分

嫌な事があると、因果の道理だから過去に何か悪い事をしたんだろうと諦める。納得した気分になれるからね。思考停止に陥る。

投稿: 因果の道理に嵌ってる人多いですね | 2015年8月14日 (金) 21時52分

因果の道理が悪いのではなく悪用するから悪いんだよ。

嫌なことがあったら、同じ問題が起こらないように改善できる事を探し対策を取るのが本当の因果の道理。
嫌なことがあったら、自因自果で自分が悪いんだから仕方ないとアキラメるのが親鸞会方式の因果の道理。

親鸞会も悪事を働く時だけは、よく計画を練って因果の道理に則ってやるけどね。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 23時54分

因果はめぐるうんぬんというのは、近代的な仏教学の洗礼を受けていない江戸時代そのままの思想であり、差別問題が厳しく問われる現代にあってはまともな仏教教団ならば、しかるべき教学者によって大衆向けに明瞭な解釈が加えられつつつあります。とりわけ高森氏の因果論は一因一果論に傾いている傾向があり、彼が普通の寺の住職であったなら、早晩糾弾を免れなかったことでしょう。高森氏は自分を放逐してくれた本願寺さんに感謝こそすべきであれ、みょうちきりんな小冊子を出して罵倒する資格はないはず。

投稿: 「縁」抜きの因果論,遅れてますよね? | 2015年8月15日 (土) 00時24分

「因果はめぐる」というのは、因(自己)と縁(外部要因)の区別のない西洋の因果論の話では。高森は因と縁を明確に区別しておりますよ。

理論をこねくり回すことが差別撤廃に役立つとは思わんけどね。
一因一果が差別につながるとも限らないし、多因多果から差別を導くことだってできるだろ。

要は誰もが無限の業を背負っていて、いつどんな果を受けるか知れたものではないという地平に立てば良いだけではないですか。そこばくの業を持ちける身にてありける、ということですよ。

投稿: | 2015年8月15日 (土) 02時54分

因果の道理を繰り返し巻き返し聞かされて辞めました。

物事には原因があり、そこへ縁が来ると結果が生じると聞かされます。悪い結果の時はお前が悪い因を持っていたと言う。
ではどうしたらよいのか?と聞くと、やっぱり善の勧めの話をし出して運命は変えられるという。善の中身は人集め金集め。
ぐるぐる無限ループするわけです。

投稿: | 2015年8月15日 (土) 09時32分

【速報】
パクリエイター佐野氏
「部下がやった、私は悪くない」
朴李教パク盛氏
「何と言い訳しますか?」

投稿: | 2015年8月15日 (土) 11時42分

因果の道理そのものは別に問題はありませんが、親鸞会は善悪の基準が普通と逆なんですよ。勿論本来の仏道とも逆。
だから会にハマればハマるほど不幸になるのです。

例えば、ウソつき勧誘は当然悪ですが、会では善だと言っている。
強引な人集めカネ集めで人に迷惑をかけるのは悪ですが、会では善だという。etc etc

尤も、「善因善果悪因悪果」は間違いで、「善因楽果悪因苦果」が正しいです。こういう一見些細な違いも重要です。

投稿: | 2015年8月15日 (土) 22時26分

2015/08/15 22:26:56の方、非常によく分かりました。親鸞会の因果の道理が誰にでも分かりやすいようで、実は大変な落とし穴だと分かりました。
しかも、親鸞会の因果の道理にハマってしまうと運命論までいってしまい良い運命を手に入れるにはどうすれば良いか、等考えてしまいます。
これでは、浄土真宗どころか自分が何をして踠いているのかさっぱりわかりません。

投稿: | 2015年8月16日 (日) 05時03分

「一因一果が差別につながるとも限らないし、多因多果から差別を導くことだってできるだろ」(8月15日 (土) 02時54分さんのお言葉)

  目からウロコの思いでおります。ありがとう。とは申せ、たとえば『浄土真宗聖典(註釈版)』の補注を見ますと、部落解放同盟がもっぱら「一因一果論」に憤慨しているものとみなしたうえで、対策的な弁明が縷々述べられているように見受けられます。多因多果もまた差別の原因だとする弁明が今後補強されるよう念ぜられてなりません。「高森は因と縁を明確に区別しておりますよ」とのことですが、本当でしょうか? 1万年堂からこの15年来出ている著書を読む限りでは縁を捨象し、因と果とのみを語っているようにも思えるのですが。

   ともあれ、せっかく脱会してまともな真宗寺院で聞法するようになっても、江戸時代並みの旧態依然たる教学に馴染んで来た相当数の元会員にとっては疎外感を感じさせられることも少なくないのではと危惧されます。とくにお東の普通のお寺で聞法すると、席を蹴って辞去する元会員も少なくないのではありませんか? この点、ぶるうのさんが彼らの「軟着陸」をさまざまな角度からご支援くださるよう念じてやみません。

投稿: 「一因一果が差別につながるとも限らない」,同感!でも外の世界では | 2015年8月16日 (日) 18時47分

高森教義は都合次第でテキトーに変わるので、現在因縁果をどう説明しているかは判りません。かつては長きにわたって因は自分のまいた種、縁は環境と説明してきました。

仏教教理からすると、「善因+悪縁=悪果」は成り立ちません。
苦しみが起こるなら必ず自己の悪因があったのです。
経典に、「悪のない人に悪は及ばない」とあります。
個人的にはあまり教理に細工すると自縄自縛になると思います。

皆がそこばくの業を持ちける身であるから、時間の経過で立場は入れ替わります。差別している人がいつか差別される立場になります。平等の慈悲で接する人は賢く、差別する人は愚か、と考えれば仏教的でしょう。

投稿: | 2015年8月18日 (火) 00時20分

2015/8/16 05:03の方へ、参考になりましたら幸いです。
因果の道理と言っても、自分を追い詰めない穏やかさとか、他人を放っておいてあげる優しさなども、結果として自分が平穏に過ごせますから善因楽果ですし、強迫観念を注入されてガリガリ会の活動をすれば心が貧しくなりますから悪因苦果と言えます。
仕事で成功したければ普通に仕事を頑張れば良いだけですし。
理性で考えて当たり前のことをすれば因果に則っていますから常識とぶつからない面が大きいです。
親鸞会ではよく常識と衝突していたのでこの点でも逆であろうと思います。
ご自分を追い詰めないでくださいね。

投稿: | 2015年8月18日 (火) 00時48分

非常に参考になります。

投稿: | 2015年8月19日 (水) 12時56分

高森さんて日本の方ですか?お母さんが朝鮮人って聞いたのですけどは本当ですか?どなたかご存知の方いますか?間違っていたらすいません。差別ではないので。ただ予科練におられたとおっしゃっていましたが、私は本当かなと思っています。なんか個人的に失礼ですけど反日のけを感じます。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 00時52分


追加
反日のけを感じるのはええと個人的には平気でうそをつくからです。

私の場合は勧誘の時から嘘でした。そのあとも嘘はいろいろありました。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 00時58分


とにかくこんな団体に嘘つかれても入ってしまったのは自業自得であるけど
大学で堂々と嘘つき勧誘をやめてもらいたい。あと田舎の公民館での
勧誘もやめてほしい。失礼ですけど講師とかなっててやめてごちゃごちゃ批判ブログでも書いてても中途半端で結局自分のためじゃねと思っちゃいます。
信教の自由もあるけど、嘘をついて勧誘したり無断で大学のダミーサークルで
宗教勧誘することは今の日本で認められることなんでしょうか?
 日本の法律的にこういうことはだめで、こういうことは認められているといったことをわかりやすく説明して具体的に親鸞会ではどうって話になるとわかりやすいと思います。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 01時18分

以下を読めば19願が救われるために必要不可欠だと分かるのですが・・・

真実信心を獲た者からすると、なぜ退会者や親鸞会の教義を避難する人は
19願の善や因果の道理を否定するのかが、謎なんですよね。


◎しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)


「群生海」、「諸有海」に含まれない人がいるとでも思っていますか?


『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。

19願はもろもろの衆生にとって18願への要門・仮門、つまり十方衆生の
獲信のための不可欠な道程なのですが、門を通らずに19願の軌道から外れる人が多いのが残念です。


◎おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生(十方衆生)をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)


「よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」

これでも善の実践を否定しますか?

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 19時19分

まだ言っているんだ。
それで、阿闍世が19願を通ったと仰った親鸞聖人のお言葉は見つかったの?

「群生海」に対して「一切の諸有海」

この違いも分からぬ愚か者。

「よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」

聖道門も方便の門なんだけど、聖道門も必ず通らないといけない訳ね。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月20日 (木) 19時39分

>「群生海」に対して「一切の諸有海」

 この違いも分からぬ愚か者。

ならば、この違いを説明してみてください。


>「よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」

 聖道門も方便の門なんだけど、聖道門も必ず通らないといけない訳ね。


定善・散善が浄土方便の要門であり、よろづの自力の善業なのですが、
誰も聖道門の修行をしろ、とは言ってませんよ。

聖道門は方便だが、助からない教え。故に善を浄土へ差し向ける
19願が十方衆生のために説かれた。したがって、

19願∋聖道門

になります。

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 20時01分

カブトムシは、どんな善してるの?書いて下さい。

投稿: で、カブトムシは善してるの? | 2015年8月20日 (木) 20時15分

布施
持戒
忍辱
精進
禅定
智慧

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 20時23分

親切
言行一致
忍耐
努力
反省
修養

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 20時26分

親鸞会の人、特に講師以上の人は世間からどう見られているかを理解できません。真実のためなら悪人に思われても仕方ない。何故ならシャバ世界が狂っているから、と勘違いしてそうです。会の外の人はプライドがあるので嘘をつかない、悪をしないように生きています。善をしなければならないという人ほど、悪業に麻痺しています。自分が救われるためには他人を騙しても平気で、すぐ悪業は忘れます。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 20時30分

「騙されていた」とマインドコントロールするのが批判サイトの目的。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 20時35分

>「騙されていた」とマインドコントロールするのが批判サイトの目的。

会の外に出たことのない人間がなにを言おうが井の中の蛙。会を出た人間ならわかる世界がある。両方見ているからね。会は人集め、金集め。会が人集め、金集めをやめた時点で話を聴こうか。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 20時45分

教えが正確だから親鸞会には人もお金も自然に集まるのではないでしょうか。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 20時51分

>教えが正確だから親鸞会には人もお金も自然に集まるのではないでしょうか。

それなら既成教団のほうが、金も、人も集まっているのはなぜでしょうか。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 20時57分

既成教団の方が正確な教えだとわかりました。有難うございました。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時02分

既成教団はすばらしいですね。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時05分

政治、権力、脅し、苦悩、迷信・・・

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時12分

>>「群生海」、「諸有海」に含まれない人がいるとでも思っていますか?(by カブトムシさん)

以下のカブトムシさんが掲げている文証(とくに前段との関係)をちゃんと読めば、仮にすべての人が「群生海」「諸有海」であっても、すべての人が19願を通らなければ救われない理由にはなりません。

◎しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)

高森先生はこの文の後段

「釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく」

だけをちょん切って19願が「すべての人を対象にしている」と力説しています。たしかにこれだけブった切って読めば19願がすべての人を対象にしているように読めます。

でもカブトムシさん、小学校の国語の時間に習いませんでしたか?文をきちんと理解するには前後の文との関係をよく考えないといけない、と。

ここでは

ちゃんと前段

「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」(前段)

ここを以て

釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(後段)

前段・後段いっしょに読めば、そして「ここを以て」という接続節をきちんと理解する能力があれば、「仏門に入ったが偽なるもの・虚なるもの」すなわち「聖道」ができないのに「聖道門」に入ってしまった人さえも阿弥陀仏本願の救済対象に含めるんだ、ということが主眼の文章だとわかりませんか?

たしかに後段のみを断章すれば、一見「すべての人が19願の方便が必要だ」という風に見えがちな文章ですが、本当は「19願の方便が必要」ということを言いたい文ではなく、間違った仏門に入った人でさえも19願という救いの舟(方便)に乗って18願へいざなわれるのだよ、ということを言いたい文なのです。だから「すべての人」が18願の救いの対象になるのだよ、と言っているのです。前段を切り捨てず読んでください。

この文章はたしかに整備された現代日本語的感覚からは、あまりわかりやすい文ではないと思います。ゆえに諸々の誤解が生じやすいとも思います。

でもしっかり読解してみれば、どの解釈が正しいかわかります。


投稿: K山 | 2015年8月20日 (木) 21時14分

既成教団はすばらしいですね。
長い歴史と伝統があって。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時16分

いえいえ親鸞会がどうしようもないだけだよ。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時18分

>教えが正確だから親鸞会には人もお金も自然に集まるのではないでしょうか。

親鸞会では合成した本尊で金を集めているらしい。これが自然というのなら会員はマインドコントロールされていると言われても仕方ない。本尊は教えの命だから。どうして本尊を合成するのか、、、 こんなことが知りたい。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時32分

>前段・後段いっしょに読めば、そして「ここを以て」という接続節をきちんと理解する能力があれば、「仏門に入ったが偽なるもの・虚なるもの」すなわち「聖道」ができないのに「聖道門」に入ってしまった人さえも阿弥陀仏本願の救済対象に含めるんだ、ということが主眼の文章だとわかりませんか?

その通りです、聖道門の人も救いの対象です。

>たしかに後段のみを断章すれば、一見「すべての人が19願の方便が必要だ」という風に見えがちな文章ですが、本当は「19願の方便が必要」ということを言いたい文ではなく、間違った仏門に入った人でさえも19願という救いの舟(方便)に乗って18願へいざなわれるのだよ、ということを言いたい文なのです。だから「すべての人」が18願の救いの対象になるのだよ、と言っているのです。前段を切り捨てず読んでください。


これを「19願は聖道門の人のためだけに説かれた」と理解するのは間違いでしょう。

「聖道門の人だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」

もしこの邪説が、正しいなら、

「聖道門の人にだけ、第19願が必要」
「聖道門の人がいなかったら、第19願は要らない」

ということになります。


しかし、実際は、

「聖道門の人」よりも、
「弥陀の第19願(要門)」が先にありました。


すなわち、

「十方衆生」が相手の弥陀の第19願(要門)を、
お釈迦様が開かれて「善の勧め」の教えを説かれた。

そのお釈迦様の「善の勧め」の教えを受けて、
それを実行しようとする「聖道門の人」が現れたのです。


釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ
(高僧和讃)


低レベルな間違いである。
小学生でも、分かる子もあるだろう。
まして、頭が普通の大人であれば、
「聖道門の人だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」
などという主張は、
とるに足らない邪説であることが分かって当然である。


第19願は、
聖道門の人があるから建立されたのではなく、
迷えるすべての人があるから、建立されたのだ。

善の勧めは、
迷えるすべての人を相手に、
18願の救いまで導く為に、
必要だからこそ教えられたもの。


「雑行を捨ててこそ救われる」のは、
迷えるすべての人である。
聖道門仏教をやっている人だけではない。

救いを求めて諸善に励む(雑行)
というプロセスを通らずして
第18願に救われる人など一人もない、ということだ。


「雑行を捨てる」とは、
弥陀の救いを求めてやる善を
自分の意識で否定するのと、ワケが違います。

18願に転入する時に、はじめて、
雑行が廃るのです。

浄土門の人でも
弥陀の18願に転入するまでは、
雑行は廃っていないのだ。


「善の勧めと、信心獲得とは、無関係だ」


などの邪説は、速やかに廃捨すべきです。


投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 21時33分

朝から空き缶拾ったり、散々やってるから信心獲得出来るの?

投稿: 善だけなら天理教すごいよ | 2015年8月20日 (木) 21時38分

「ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門(第十九願)を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門(第二十願)に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。」
(教行信証化土巻)


「このようなわけで、 愚禿釈の親鸞は、 龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、 曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、 久しく、 さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、 永く、 双樹林下往生から離れ去り、 自力念仏を修める方便の真門に入って、 ひとすじに難思往生を願う心をおこした。 ^しかしいまや、 その方便の真門からも出て、 選択本願の大海に入ることができた。 速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、 *難思議往生を遂げようとするのである。 必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、 まことに意味深いことである。
 ^ここに久しく、 本願海に入ることができ、 深く仏の恩を知ることができた。 この尊い恩徳に報いるために、 真実の教えのかなめとなる文を集め、 常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、 いよいよこれを喜び、 つつしんでいただくのである。」

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 21時44分

カブトムシ、誰でも知ってるような文を並べなくてもいいから、18願転入できたの?

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時51分

ひとまず本尊の合成をやめませんか?あれ、もしかしてやめましたか?

カブトムシさんへ

投稿: | 2015年8月20日 (木) 21時51分

>カブトムシ、誰でも知ってるような文を並べなくてもいいから、18願転入できたの?

全く阿弥陀仏のお力により、他力の念仏を称える身とならせて頂きました。

ですので、よく見かける、

「三眼転入は十方衆生の獲信の道程ではない」
「念仏だけ称えていれば助かる」
「救いに善は不要」

等というのは完全な間違いだと分かります。
なんとか分かってもらいたいものです。


>ひとまず本尊の合成をやめませんか?あれ、もしかしてやめましたか?

私は合成していません。

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 22時03分

>私は合成していません。

もしかして合成の本尊をご使用されておられますか?

カブトムシさんへ

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時08分

使用しています。

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 22時20分

以前同じ名前で同じようなことが飛雲さんのブログに書かれていたような…。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時21分

なぜ本尊を合成する必要があるのですか。

カブトムシさんへ

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時27分

飛雲氏とはなんだったのだろうか・・・

蓮如上人の時代も同じような悪知識が現れ消えていったと思われます。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時29分

豊田商事とつるんだ親鸞会

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時33分

>なぜ本尊を合成する必要があるのですか。

これは明らかに私に聞くべき質問ではありませんね。

高森先生に直接尋ねられてはいかがでしょうか?

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 22時34分

悪知識ならばすぐにでも法論を挑まないといけないですね、当然勝てますよね

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時34分

カブトムシさんへ

自分を守るために会長を見捨てましたね。はやく除名されて下さい。通常組織では自分で対応できないことは上に指示を仰ぎます。それができない親鸞会。世間以下の組織が善をススメるとは、おっとびっくり。だからマインドコントロールされているのに気づけない。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 22時42分

>自分を守るために会長を見捨てましたね。はやく除名されて下さい。通常組織では自分で対応できないことは上に指示を仰ぎます。それができない親鸞会。世間以下の組織が善をススメるとは、おっとびっくり。だからマインドコントロールされているのに気づけない。


何でもかんでもマインドコントロールに結びつけても無駄ですよ。
悪意に満ちた質問をするのもそうですが、こんな文章で私がビビるとでも
思いましたか?

少なくとも、教義に関しては、獲信のための善の勧めを否定するのは
謗法罪ですので、
しっかり聖教を読んでください。

投稿: カブトムシ | 2015年8月20日 (木) 23時02分

願行具足の南無阿弥陀仏を否定する善のススメ。だから浄土真宗ではない。そんなこともわからない親鸞会。まさにマインドコントロールである。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 23時27分

カブトムシさんへ

おかしなことを言うならこのブログに来ないで下さい。タイトル見てわかりませんか。親鸞会はTPOがわからん団体だな。擬装サークル作るのはやめなさい。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 23時32分

飛雲で負けたからってこっちで暴れまわるのはいかがなもんかね。正々堂々と法論しなさいよ

投稿: | 2015年8月20日 (木) 23時36分

>少なくとも、教義に関しては、獲信のための善の勧めを否定するのは
謗法罪ですので、
しっかり聖教を読んでください。

飛雲さんのブログ見たら、いつも親鸞会は答えに窮して、なぜ答えぬ、 そして逃亡なのでしょうか。
親鸞会の教えは破綻しています。会長が、何とはなく救われた、と寄稿し、青春時代世話になった華光会でも多くの人が救われていると聴いています。また親鸞会をやめて本当の教えに出遇った人も多いです。会長を見捨てたカブトムシさんも早く会から抜け出しましょう。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 23時42分

カブトムシさんへ

貴殿 さきほどのコメントで嘘を書いたでしょう。見たら即わかりました。善のススメが正しいと思うのなら嘘はやめましょう。

投稿: | 2015年8月20日 (木) 23時54分

カブトムシさんへ

結局本尊の問題は逃げですね。本尊は教えの命ですがうやむやにして逃げるのは親鸞会らしい。正直でよろしい。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 00時02分

〉少なくとも、教義に関しては、獲信のための善の勧めを否定するのは
謗法罪ですので、
しっかり聖教を読んでください。

多分こんな邪義を言っているのは親鸞会だけですよ。
この人達の嘘つき具合は知っている人ならばゾッとしますよ。善とさえ言っていれば、逃れられるとでも?悪事は悪事なんですよ?そのカブトムシの胸に聞いてみなさい。嘘ついていませんか?

投稿: カブトムシさんへ | 2015年8月21日 (金) 08時41分

興福寺奏状(こうふくじそうじょう)

◯ 一般真宗門徒、寺院、僧侶では当たり前かもしれませんが、カブトムシさんには、一度読まれた方がいいかもしれません。

カブトムシさんの主張は、法然聖人を誹謗した内容と同じだからです。

投稿: 興福寺奏状(こうふくじそうじょう)一回でも読んで下さい | 2015年8月21日 (金) 18時25分

>>カブトムシさんの主張は、法然聖人を誹謗した内容と同じだからです。

そのとおりだと思います。親鸞会は念仏を称えたら報土往生できると信じて称える念仏で助かると思えず、自分の善根に頼る聖道門の人々と同じ主張です。願行具足の南無阿弥陀仏の御力が信じられないのですね。願力具足の南無阿弥陀仏が信じられないのなら浄土真宗ではありません。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 20時14分

本当に19願、20願が不要なら、親鸞聖人は化土巻を書かれなかったと思いますが。


しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

投稿: | 2015年8月21日 (金) 20時18分

かなめ【要】

1 ある物事の最も大切な部分。要点。「組織の―となる人」「肝心―」

つまり必要であること

投稿: | 2015年8月21日 (金) 20時21分

本当に19願、20願が必要なら、親鸞聖人は『教行信証』を要約された『浄土文類聚鈔』で化土巻を省かれなかったと思いますが。

本当に19願、20願が必要なら、親鸞聖人は正信偈で19願、20願を書かれたと思いますが。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 21時19分

19願は聖道門と浄土門とを繋ぐ重要なところだから要門

投稿: | 2015年8月21日 (金) 21時21分

親鸞会は願行具足の南無阿弥陀仏を否定しています。だから浄土真宗ではありません。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 21時22分

親鸞会はなぜ本尊を合成するのでしょうか。会員と思われる人にその理由を聴いても、自分の答えられる内容ではないので会長に聴いて下さい、と会長を裏切り、そしてさっさと逃亡、全く本尊に対していい加減で宗教以前の問題。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 21時54分

金と時間にルーズな人間にろくな人間はいない、と聴かされたが、南無阿弥陀仏をいい加減に扱う人間が最低の人間だ。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 21時57分

学徒:なぜお釈迦さまは、それほど善を勧められたのでしょうか。

学徒:先生の阿弥陀仏が、十九願で諸善を勧めておられますからね。

講師:いいところに気がつかれました。
「しかもそれは釈迦の勝手な判断でなく、本師・弥陀が誓われた救済の要門だからである」と書かれています。この「要門」とは十九願のことです。

学徒:阿弥陀仏が「救済の要門」として十九願を建てられたのですね。

講師:十九願から二十願へ導き、そして、真実の十八願へ転入させる。
阿弥陀仏が「十方衆生」と誓われたのは、この三願のみです。
この三願によって救う、という三願転入が、私たちを救うための阿弥陀如来の遠大なご計画なのです。すべては、阿弥陀さまのお計らいなのですよ。

学徒:親鸞会を非難する人たちは、それを勝手に計らって、「18願だけでいいんだ」と言うらしいですね。

学徒:「19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものだから、18願の救いを求める人には関係ない」と言っているそうですよ。

学徒:へー、19、20の方便願は、自分には不要とでも思っているのでしょうか?

学徒:方便は卒業したと思っているのかな?

学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。

講師:18願だけで素直に聞ける自分だと思っているからでしょう。

学徒:ところがおかしなことに、念仏を称えることは勧めるそうですよ。

学徒:19願は不要だが、20願は必要ということ?

学徒:それじゃあ、二願転入だ。

学徒:阿弥陀仏の19願は、あきらかに「十方衆生」と誓われていますね。阿弥陀仏のお誓いですからね。

講師:その19願をお釈迦さまが開説されたのが、『観無量寿経』ですが、説かれた相手は、悪女の韋提希夫人(イダイケぶにん)です。聖道門の人ではありませんよ。

学徒:また、未来の衆生、つまり私たちのためにも説かれたのが『観無量寿経』の定散二善(善のすすめ)であると教えていただきました。

講師:そうです。また親鸞聖人は19願の御心を、

「至心発願欲生と 十方衆生を方便し、
  衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける」

とおっしゃっています。

学徒:「十方衆生を方便し」というのは重いお言葉ですね。

講師:十方衆生が、阿弥陀仏のお力によって導かれているのですから、無関係な人は一人もありません。

学徒:「19願は聖道門の人にだけ」というのは、明らかにおかしいですね。親鸞聖人のお言葉に反しています。

講師:本願寺の勧学(学者)に、そういうことを言う人がいますから、その受け売りで非難しているのでしょう。非難の論法も、全く同じですから。
  高森先生は、すでに『本願寺なぜ答えぬ』の中で、「仏の正意がわからぬために『方便(仮)は捨てもの』と実行せず、合点だけで、相済みにする本願寺」(p159)と書かれています。
  また、「自力とか、十九願というと、捨家棄欲、自力修行としか考えられぬ、半身不随的理解」(p163)とも、ズバリ見抜かれていますね。

学徒:すごい破邪のお言葉ですね。

学徒:宿善論争は、もう25年前になりますが、いまだに本願寺から返答はありませんね。

講師:25年間も答えられない、という事実は極めて重いものです。
そのへんの有象無象が何を言おうと、本願寺トップの学者集団は、完全に沈黙しています。

学徒:『本願寺なぜ答えぬ』には、「善のすすめ」が、文証で明らかにされているのですからね。

学徒:ところが本願寺は善のすすめを否定しているのですから、末寺の僧侶や浄土真宗の門徒の人が、積極的にやろうとしないのも当然ですね。

学徒:「雑行を捨てよ」を「善を捨てよ」と聞き誤り、どうせ雑毒の善しかできないのだからやる必要がないと、善をやろうともしない。
だから、無気力で、消極的な人が多いんですよ。

学徒:善のすすめを非難するあるグループは、本当にやる気が感じられない無気力人間の集まりですよ。

講師:当然でしょうね。因果の道理ですから、善いことをしなかったら悪因悪果、自因自果で、悪い結果しかきませんよ。まず人間として、だめになります。若い人は、本当に一生を棒に振ってしまいますね。

学徒:ある住職は他力だからと努力もせず、庭の掃除もしない。そんな住職に愛想を尽かして、門徒をやめて新興宗教に走った人のことが紹介されていました。

講師:そんな門徒が、全国にどれだけあるか分かりませんよ。

学徒:それで、浄土真宗が今日の衰退になってしまったのですね。

学徒:それなのに張本人たちが、一向に目が覚めない。

学徒:阿弥陀仏の御心を正しく説かれた親鸞聖人や蓮如上人は、「善をするな」などとは仰っていませんね。それどころか蓮如上人時代には、吉崎御坊や山科本願寺、晩年には石山本願寺も、門信徒の熱烈な御布施で建立されています。

学徒:また、多くのお弟子や、当時の親鸞学徒は、蓮如上人の『御文章』を携えて、各地に仏法を広めていますよね。

講師:皆、蓮如上人のご勧化によるものです。善をすることが弥陀の救いの妨げになるのなら、ありえないことでしょう。蓮如上人が善を勧めてくださっているお言葉は?

学徒 『御文章』四帖目三通にあります。

「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」

学徒:「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(『御文章』四帖目十五通)のご遺言もありますね。

講師:宿善とは、阿弥陀仏のお力によってお育ていただくことなんです。
阿弥陀仏も善知識方も皆、善を勧めてくださっているのです。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時24分

>講師:当然でしょうね。因果の道理ですから、善いことをしなかったら悪因悪果、自因自果で、悪い結果しかきませんよ。まず人間として、だめになります。若い人は、本当に一生を棒に振ってしまいます

→上の教えに従ったガクトは相対の幸福を求め続けて一生を終えました。おわり

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時30分

まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時33分

タイトル:
親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
URL:
http://shinrankai.jugem.jp/

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時39分

親鸞会の教えの根幹は 南無阿弥陀仏の否定です。矛盾はすべてそこにつながります。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時41分

親鸞会の皆さんは現実を直視出来ないんだな。分かっちゃいたけどひどいわ

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時41分

親鸞会で宿善を求めよと教えるのは、まだ善知識に巡りあえてないからでしょうか。宿善があれば今生で善知識にあえると聴きました。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 22時47分

親鸞会の工作員とおぼしき人の書き込みで

【学徒:宿善論争は、もう25年前になりますが、いまだに本願寺から返答はありませんね。

講師:25年間も答えられない、という事実は極めて重いものです。】

この部分はほんとに爆笑しました(笑)
本願寺がなぜ回答しないか、その理由を知ってる人には冗談にしか聞こえないアホ問答ですね(笑)

ともあれ、面白い漫才ありがとうございましたw

投稿: K山 | 2015年8月21日 (金) 23時03分

親鸞会の工作員とおぼしき人の書き込みを読むと 基本コピペなので全く心が伝わらない。パクリよりはマシだが因果の道理を信じるならコツコツ努力して自分の言葉を書き、光に向かうべきではないのか。

投稿: | 2015年8月21日 (金) 23時10分

六度万行は自力で無師独悟される方のなされるご修行だ。
親鸞会活動員のような「世間の人」より宿悪が重い無宿善の者には微塵ほども出来ないだろうよ。
カスが。
六度万行を現代語で珍表現するのも親鸞会独特で恥ずかしいわ。

投稿: | 2015年8月22日 (土) 01時21分

一連のコメントを見たのですが、親鸞会に関しては、
え??そんな事も知らないで沢山のお金を集めていたの?
と思われた方が少なく無いと思いました。親鸞会は相当おかしく、また幼稚な部分で間違っている事はきちんと始めから学んでみれば分かります。

高学歴だから、専門家が沢山いるから、と言っても浄土真宗に関しては素人です。

世の中の人も、高学歴や専門家に圧倒されていましたが、幽霊の正体見たり枯れ尾花、で取るに足ら無い集まりです。会員増員に躍起になっていますが頭が良いのならば、そろそろ素直に間違いを翻して始めからやり直されたらいかがですか。

もう既に間違いだとわかっている人は多いでしょう。

投稿: | 2015年8月22日 (土) 12時13分

Cストコ開演ー!
先輩からGACKTの誘い断って
Cストコ会員カードつくりました。

たくさん買いだめしますよ〜っと!

投稿: | 2015年8月22日 (土) 16時16分

名は体をあらわすとはよく言ったもので、現在このコメント欄に出没されるカブトムシさんといい、以前、被害者家族の会の掲示板で暴れまわっていたエールさんといい、自然法爾の理にあらがった、心に甲冑をかぶったようなお名前ですね。日蓮系じゃあるまいに、どうして工作員の名前がおよそ非浄土門的としかいいようのない名乗りなのでしょうか。

投稿: カブトムシといい,エールといいおよそ非浄土門的なお名前ですね | 2015年8月22日 (土) 17時35分

オイ高森。
火の車が来るぞ。
手も足も出せないまま真っ逆さまに落ちるぞ。
真生会に命令したって死ぬときは死ぬんだぞ。
覚悟しとけ。

投稿: | 2015年8月23日 (日) 21時19分

問:『歎異抄』2章に、親鸞聖人は「ただ念仏して弥陀に助けられた」とおっしゃっています。「ただ念仏さえ称えていれば助かる」のが、親鸞聖人の教えではないでしょうか。 .


答:『歎異抄』2章の「ただ念仏して」の意味を、ほとんどの人は、「ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口で称えてさえおればよいのだ」と思っていますが、とんでもない間違いなのです。

「ただ念仏して」と親鸞聖人がおっしゃったのは、
「ただ口で念仏を称えてさえおればよい」
と言われたのでないことは、親鸞聖人の教えを無我に相承(※1)なされた蓮如上人が、『御文章』の至る所に、「いくら念仏称えていても助からぬ」と教えられていることでも明白です。

 その根拠を、2、3、挙げておきましょう。

名号をもって、何の心得も無くして、ただ称えては助からざるなり(『御文章』1帖)

“南無阿弥陀仏の名号を、ただ、称えていても助からないのである。”

ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり(『御文章』3帖)

“ただ口で、南無阿弥陀仏と称えていれば助かるように、みな思っているが、それでは助からないのである”

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、おおようなり。それは極楽には往生せず(『御文章』3帖)

“ただ声に出して、念仏ばかり称えている人は多いが、それでは極楽へは往けないのである”

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大きに覚束なきことなり(『御文章』3帖)

“ただ南無阿弥陀仏と、口で称えてさえおれば、極楽へ往けると思っているが、それは、とんでもない間違いである”

 このような文証はたくさんありますが、これらの御文で「ただ、念仏さえ称えていれば助かる」などとは、絶対に親鸞聖人は教えられていないことがお分かりになると思います。

 では、『歎異抄』の「ただ念仏して」の「ただ」とは、どんなことなのか。この「ただ」の意味をハッキリさせておかなければ、あなたの不審は晴れないと思います。

 浄土真宗の人たちは、阿弥陀さまはお慈悲な仏さまだから、このまま、ただで助けてくだされるのだと気楽に聞かされていますが、本当は、「ただ」ほど難しいものはないのです。

 ただはただですが、「ただじゃった」と聞かなければ、ただではありません。

「ただじゃそうな」と合点するのは、易しいけれども、聞いても聞いても、ただが分からず、そのままの本願を、そのままと聞けよと教えられても、上の心は聞いても下の心は、「どのままだ」と反発して、素直に聞いてくれないのです。

 打っても叩いても、金輪際、素直に聞かぬまんまの、ただじゃったと本願が聞こえた、ただなのです。

 その感動を親鸞聖人は、こう言われています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり(『歎異抄』後序)

“弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねられたご本願は、こんな親鸞一人のためだった”

と懺悔と歓喜の念仏を「ただ念仏して」と聖人はおっしゃっているのです。

 この聖人の「ただ」の一言には、弥陀の五兆の願行(※2)を丸もらいし、釈尊の一切経を読破なされた感激が表されているのですから、ただ、念仏を称えておればよいのとは、天地雲泥の違いがあるのです。

 『歎異抄』には、このような誤解され易いところがたくさんありますから、カミソリ聖教(※3)ともいわれ、蓮如上人は仏縁(※4)の浅い人には封印されている聖教であることを、よくよく心得ていなければなりません。

※1)無我に相承 私見を交えず、そのまま伝えること。
※2)五兆の願行 阿弥陀仏が、気の遠くなるような長期間、我々を救うためになされた思惟と修行のこと。
※3)カミソリ聖教 読む人によっては、子供にカミソリを持たせたように大ケガする仏教書。『歎異抄』の異名となっている。
※4)仏縁 阿弥陀仏との因縁。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 15時05分

七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)を根拠にして、法然聖人を攻めまくって朝廷に直訴までした内容だよ。

こんな七仏通誡偈の内容を忘れたのかと本願寺なぜ答えぬ、と本まで作って言っても話にならないのだよ。呆れられても仕方ないでしょ。

投稿: カブトムシさん興福寺の奏上を読んだの? | 2015年8月24日 (月) 15時12分

親鸞会の人が思うように念仏さえ称えていればタダだそうな等、だれも思ってませんよ?ハッキリしますから。

それと、上の心とは?下の心とは?
ハッキリ浄土真宗の用語で定義はなんです?

投稿: 上の心、下の心の定義はなんですか?答えよ | 2015年8月24日 (月) 15時53分

七仏通戒偈
しちぶつつうかいげ

過去七仏がともに守り続けてきた戒めの偈。短い詩であるが,このうちに仏教のすべての教えが含まれるとされるほど重要なもの。「諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教 (あらゆる悪をなさず,もろもろの善を実行し,みずからその心を清らかにすること,これこそ諸仏の教えである) 」という意味の詩。

「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
(蓮如上人)
 十方諸仏は皆、本師本仏・弥陀如来のお弟子である。地球の釈迦もその一人だから、弟子の使命に生涯を貫かれている。仏法では、弟子の任務は、先生の御心を正しく伝える以外にないし、あってはならない。世間事なら、師匠を超えてこそ恩返しと言われることもあろうが、仏法では、師の教えを絶対忠実に伝えるのが、弟子の唯一の務めである。

 だから釈迦は生涯、自分の計らいを一切入れず、無上仏(弥陀如来)の御心一つ、説いていかれた。

 それを親鸞聖人は『正信偈』に、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

 釈迦一代の教えは、無上仏の御心(本願)唯一つ説かれるためであったと断言されている。

 師に対するこのような姿勢は、仏教では厳然と一貫しているから、親鸞聖人にも、独自の珍しい教説など一つも無い。それはご自身が、

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
 如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」(御文章)

と仰っていることから明白である。釈迦如来の説かれた仏法を、自らも信じ人にも伝えているだけだと確言されている。

 「親鸞さらに私なし」とも仰っているように、「私は、そう思わない」「私には、あわない」など自身の思いは全く交えず、釈迦が生涯、説かれた「無上仏の本願」一つを開顕された方が親鸞聖人なのである。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 16時04分

「無上仏(18願)=七仏通戒偈」ではない。

それと、浄土真宗では聞いた事の無い上の心?と下の心?やらを逃げないで浄土真宗の用語で説明をしなさい。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 17時43分

ただ念仏だけを称えるだけでは覚束ない、というのは自力念仏では浄土往生できないと言われたんだろ、蓮如上人は。

でも念仏は阿弥陀仏の本願力を開放する唯一の回路だ。念仏の重要性は善のすすめや三願転入とぜんぜん違って、お聖教に何度も書かれている。善のすすめや三願転入がどうであれ、真宗では念仏は絶対だ。
念仏をワザとやらない親鸞会は浄土真宗的にはまったく問題外の邪教だ。そして親鸞会は「善」ばかり勧めている。(善といっても特定の会に献金するとか人集めするとかだけだから、仏教的には善ではないし、歎異抄でも善知識と自称して物の要求をしたりすることは戒められてる)。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 18時08分

上の心=意識
下の心=阿頼耶識

投稿: | 2015年8月24日 (月) 18時33分

「ただじゃそうな」と合点するのは、易しいけれども、聞いても聞いても、ただが分からず、そのままの本願を、そのままと聞けよと教えられても、上の心は聞いても下の心は、「どのままだ」と反発して、素直に聞いてくれないのです。
打っても叩いても、金輪際、素直に聞かぬまんまの、ただじゃったと本願が聞こえた、ただなのです。

○ まともに返答しているとも思えないのですが
阿頼耶識が「どのままだ?」というそうなので晒しておきます。

投稿: 阿頼耶識が本願を聞くわけ? | 2015年8月24日 (月) 19時03分

↑その阿頼耶識に聞かせる為に諸善万行をする。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 19時52分

パク・り
トウサク
って
ホントですか?

投稿: | 2015年8月24日 (月) 21時08分

諸善万行がしたければすれば良い。
すると宣言した以上はきちんと君自身が実行しなさい。
諸善万行(あらゆる善)というからには座禅や千日回峰行を忌避することは許されない。
カネ集め人集めは悪だから止めるように。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 21時17分

>「ただじゃそうな」と合点するのは、易しいけれども、、

恐らくマジメに会長の教えを聴いている会員は皆様、いわゆる、合点をしていません。もしかして自分は合点しているという恐ろしい自惚れをしていませんか。もし本当の浄土真宗の教えを聴いて合点したら、会で教えるところの縦の線です。あとは疑心あることなし、でおわりです。そろそろ気づきませんか。南無阿弥陀仏の意味を全然知らないらしいですね。願行具足というのは、修行は無用ということではありませんか。そう受け取れないのがのが疑情です。会長から離れて確かな知識に巡りあえばそれはすぐにできます。会長から離れられないのを、善知識?だのみと言います。 

投稿: | 2015年8月24日 (月) 21時26分

ただの教えとは、本当の浄土真宗の教えを聴き、この教えこそ、私が救われる唯一の教えだと知らされたその時、何もせずそのままで救われる教えです。
会の教えは三願転入の教えこそすべての人が救われると思ったところから、善をしなければならない教えであり、それが求道の始まりであり、そのままで、ただで救われる教えではありません。だから、そのままも、ただも理解できません。まして願行具足の南無阿弥陀仏の意味がわかる道理がありません。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 22時20分

高森は己の後生をどう思っているのだろうね。
如何に無宿善でも、迫り来る死を無視はできないだろう。
謗法の限りを尽くした報いで、もはや正しい法を聞くことは叶わない。
最も重い業にまず牽かれて地獄へ直行するだろう。

投稿: | 2015年8月24日 (月) 22時54分

なぜ法蔵菩薩が御修行されなくてはならなかったのか?
もしかして親鸞会の人はそれを知らないのでは。
「病の根源を突きとめる為だ」
と言ってくるので意味が分からなかったのですが、これは行など微塵も出来ない私達に成り代りされた御修行。私に善行やら出来るものならば、
法蔵菩薩の御修行は必要無い訳です。

親鸞会の人は法蔵菩薩に成り代わって貰わなくても良いと、自分の善行をまずやってみて自己責任で浄土に行くと、法蔵菩薩の御修行を舐めている訳ですか。

投稿: 法蔵菩薩が御修行された理由から親鸞会は分からないのでは? | 2015年8月25日 (火) 08時51分

Yo! Takamori,Rot in the hell.

投稿: | 2015年8月26日 (水) 00時44分

スゲーまじだ

大沼氏の著書を入手して確認
朴李ですね

ダッシュで脱出

投稿: | 2015年8月26日 (水) 02時45分

大量脱会が始まる。

投稿: | 2015年8月26日 (水) 18時27分

現会長が曾婆羅頻陀羅地獄へご往生なさったら、次期会長は光晴かね。
オモロイ。

投稿: | 2015年8月27日 (木) 22時03分

オイ、莫迦息子。
会員さんからエサを恵んで頂いたら、礼くらい申し上げろや。
どなたのお陰で生かさせて頂いていると思うとるのや。

投稿: | 2015年8月27日 (木) 22時33分

オイ糞餓鬼。
畜生のような面しよってからに。
まるまると肥え腐って、地獄の鬼が喜ぶやろ。
仏法謗りに謗って、獄卒が手ぐすね引いておるわ。

投稿: | 2015年8月27日 (木) 23時32分

「善の勧め」非難するのは、明らかに謗法です。まず、仏教徒とはいえません。

そのうえで、浄土真宗は「無条件」の救いなのです。

イスラム教でも、天理教でも、統一教会でも「善いことをしなさい」とはいいますよ。

しかし、それと真宗で説かれる「善の勧め」をいっしょにとらえてはいけません。

あくまで「阿弥陀仏に向かっての善」です。
「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行なのです。

19願、20願の自力往生の教えは、その底にある、18願の他力念仏往生の教えによって動かされています。
これは、それぞれ「観経」「小経」「大経」に相応します。

これでも「善の勧めは、浄土真宗にはない。」「善を勧めることは、間違った教義だ。」とおっしゃるおつもりですか。

浄土真宗・親鸞聖人の教えに「善の勧め」は、あります。

投稿: 善の勧めを非難するものは、仏教徒ではありません。 | 2015年8月29日 (土) 02時01分

「お金を知る者は幸いなり。
お金を求める者はなお幸いなり。
お金を獲得する者は最も幸いなり。」とのスローガンのもと、お金のためなら高齢者を騙しに騙した豊田商事ともつるんだ○○会の本当の教え

投稿: | 2015年8月29日 (土) 03時38分

ツギハギの本尊を作って金儲けするのは善ですか

投稿: | 2015年8月29日 (土) 03時46分

盗作は悪でしょ
工作員頭イカれた傀儡人形だな

投稿: | 2015年8月29日 (土) 06時18分

善をススメる人が悪をしても、おとがめのないカルト狂団

投稿: | 2015年8月29日 (土) 06時47分

〉あくまで「阿弥陀仏に向かっての善」です。
「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行なのです。

◯ 具体的に何をしているか列記できますか?

投稿: 具体的にその善行を列記できますか | 2015年8月29日 (土) 12時38分

老婆心ながら警告しておきますが、高森会長は親鸞会学徒の後生を心配していませんよ。
学徒が面白いように服従するから利用して働かせたり貢がせたりしているだけです。
会長は親鸞会学徒をとことん軽蔑し見くびっていますが、学徒の方は愚痴の毒に当てられて気付けないのです。
哀れなことですが。

投稿: | 2015年8月29日 (土) 13時40分

〉あくまで「阿弥陀仏に向かっての善」です。
「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行なのです。

◯ こんな善は弥陀と取り引きしようとしていると気付かないのでしょう。堂々と書いている所をみると。
さて、言ったからには具体的にどんな善をしているのか列記してみなさい。

投稿: 具体的にどんな善をしているのですか列記してみなさい。逃亡ですか? | 2015年8月29日 (土) 18時41分

>> こんな善は弥陀と取り引きしようとしていると気付かないのでしょう。堂々と書いている所をみると。さて、言ったからには具体的にどんな善をしているのか列記してみなさい。

→→→
ご指摘の通り、善のススメは願行具足の南無阿弥陀仏に対する反逆、疑いの心です。願行具足という日本語の意味がわからないのでしょう。【後生の一大事のために善をする=南無阿弥陀仏への疑い】が輪廻する原因です。毎日お勤めしていませんか。
南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年8月29日 (土) 21時10分

他人には善をススメながら自らは悪を実践する親鸞会。
高森の言葉で言えば、「恥知らずの恥かかず」。

投稿: | 2015年8月29日 (土) 21時55分

毎日お勤めをされているようですが、信前・信後を問わず、お勤めされることは善いことですね。

お勤めさせていただくことは、間違いなく「善」の一つです。

そうすると、あなたはお勤めをされて、南無阿弥陀仏に対して反逆しておられるのですか。
毎日。

もちろん人間は、南無阿弥陀仏に対して背を向けているのが、その本性です。そのような人間が、無上仏のお働きによって、毎日お勤めさせていただけるのです。

>善のススメは願行具足の南無阿弥陀仏に対する反逆

と仰るのなら、あなたはそのような考えを持って、お勤めをなさっていることになりますから、毎日故意に、「南無阿弥陀仏に対する反逆」の時間を設けていることになりますよ。

投稿: | 2015年8月29日 (土) 23時54分

>>お勤めさせていただくことは、間違いなく「善」の一つです。
そうすると、あなたはお勤めをされて、南無阿弥陀仏に対して反逆しておられるのですか。
毎日。

→後生の一大事の解決のためのお勤めは一切しておりません。なぜならそのまま受け取らせて頂いた南無阿弥陀仏が願行具足なのでその必要がありません。貴殿は自力と他力の違いを知っておられますか??

投稿: | 2015年8月30日 (日) 00時50分

→後生の一大事の解決のためのお勤めは一切しておりません。なぜならそのまま受け取らせて頂いた南無阿弥陀仏が願行具足なのでその必要がありません。貴殿は自力と他力の違いを知っておられますか??

◯ その通りです。
親鸞会、くねくね 逃げ無いで一度くらい真面目に質問に答えなさい。

投稿: 親鸞会、くねくね逃げ無いで真面目に答えなさい | 2015年8月30日 (日) 06時32分

http://blog.goo.ne.jp/furins/e/
08cb11bef02a987efa6034b3a60743d7

不倫は悪でしょ

シンパや工作員の脳は腐ってるね
人間を棄てたゾンビ人形の為せる業

投稿: | 2015年8月30日 (日) 12時20分

自分の心を偽る人を教化することは誰にも出来ません。
如来の力を以ってしても不可能です。
そんなことは親鸞会のパクリ教本『光に向かって』にも載っています。

親鸞会員にとっては、今後ますます偽りの迷宮に誘い込まれて、正しい教えに遇うことは難しくなるでしょうね。

心ある人には早々の脱会を奨めます。

投稿: | 2015年8月30日 (日) 18時46分

S会が嫌いだからってほん癌痔が好きになるわけではないからな。

S会と同じ社会の寄生虫。どっちが有害かは社会学者とか専門家に分析してほしいが、呆ん贋じは社会的にも寄生がまかり通ってるのが害悪。ばか高い葬式代とかなんなん?墓地埋葬法様様?

子供だまし説法でうまい飯食って酒飲んで銭ばかりかかってこりごりじゃったってのはS乱会に同意

投稿: | 2015年8月31日 (月) 12時06分

>>S会が嫌いだからってほん癌痔が好きになるわけではないからな。
S会と同じ社会の寄生虫。どっちが有害かは社会学者とか専門家に分析してほしいが、呆ん贋じは社会的にも寄生がまかり通ってるのが害悪。ばか高い葬式代とかなんなん?墓地埋葬法様様?
子供だまし説法でうまい飯食って酒飲んで銭ばかりかかってこりごりじゃったってのはS乱会に同意

→本願寺や東本願寺などの既成教団の中の正しい教えを説かれる布教使に遇われたことがないのですね。でも大丈夫ですよ。宿善のある人は遇えます。聞法する気があるのなら是非とも知識選びをして下さい。S会、S乱会、親鸞会の中はどれだけ探しても今、正しい教えはありません。高森会長が改心してもう一度勉強しなおして正しい教えを説かれることを期待したいと思います。また親鸞会が宿善を求めよ、と言うと、まだ会員には善知識が見つかっていない、ということでしょうから会長もそのことはよく理解されているようです。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 15時31分

本派本願寺には、善の勧めをお話される方も多くみえます。大谷派にもこちらの関係者に同意する方もあれば、私と有縁の方の中には、善を勧められる方も、たくさんおられます。
また、派から離れて、単立寺院として活動しておられる方も多々あります。

いずれにせよ、団体を問わず善のすすめを否定する方々は、まだ聖人の御心・仏の正意に明らかでない方々と、言わざるをえません。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 16時39分

願行具足の南無阿弥陀仏を差し置いて人間の善で後生の一大事を解決しようとするのは愚かです。それは本願に対する疑い、疑情です。善のススメは、「南無阿弥陀仏は願行具足ではない、だから人間の善が必要だ。本願を疑え」という教えです。高森会長が説法会場で少し音程をワザと外して唄っていた信心数え歌の八番「八ツトセ、やくにもたたぬ雑行や、雑修、自力を捨てもせで、親さま泣かせていたことは、ほんに今まで知らなんだ。」自力は捨てるものですね。会長が唄っていましたから。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 17時17分

>私と有縁の方の中には、善を勧められる方も、たくさんおられます。

おかもんですか?親鸞会以外で後生の一大事の解決のために善をしなさいと教えている既成教団の布教使がいるなら教えて下さい。最初はイニシャルで結構です。イニシャルを聴いたら次は実名をお訊きしますが。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 17時24分

>後生の一大事の解決のためのお勤めは一切しておりません。なぜならそのまま受け取らせて頂いた南無阿弥陀仏が願行具足なのでその必要がありません。貴殿は自力と他力の違いを知っておられますか??

はい。自他力の分別、知らせて戴きました。有難さ尊さ、身の置き所もございません。

貴方の発言はとても信じられません。
まこと、弥陀より信ぜらるる信心は疑う余地がございませんが、人への疑いは晴れぬものと知らされます。

貴方の内容によりますと、現在の毎日のお勤めは、御恩報謝のものと思います。御恩に報いることは「善いこと」です。

然れば、信前のお勤めも「善いこと」なのではありませんか。仏間が散らかっていると、掃除はしませんでしたか。真剣なお勤めを心がけ、また、実行したのではないですか。

それら一切、貴方のお考えからすると、故意に、阿弥陀様へ反逆していることになりませんか。

信前にお勤めという「善」を、貴方は弥陀に背を向けた自己であることを頭では知りつつも、仏前で行ってきたのではないですか。

信前・信後を問わず、仏前でお勤めさせていただくことは「善いこと」に間違いありません。

信前のお勤めは「南無阿弥陀仏に対する反逆」になり、信後のお勤めは御恩報謝だからそれでよい、ということでしょうか。仮にそういうことにしたところで、御恩報謝の行も「善いこと」です。

善の勧めが弥陀に対する反逆と仰るなら、永遠に弥陀に反逆することになりますよ。
道理が一貫しておられないのです。

仏教・浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、「善の勧め」は、あります。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 18時52分

>>後生の一大事の解決のためのお勤めは一切しておりません。なぜならそのまま受け取らせて頂いた南無阿弥陀仏が願行具足なのでその必要がありません。貴殿は自力と他力の違いを知っておられますか??
>はい。自他力の分別、知らせて戴きました。有難さ尊さ、身の置き所もございません。

→自他力の違いをどのように知らされたのですか?詳しく感じたすべてを聴かせて下さい。有り難さ、尊さ、身の置き所もない喜びを感じられたそうなので聴かせて下さい。南無阿弥陀仏の願行具足が知らされたことが信心決定です。疑情とは南無阿弥陀仏の願行具足を受け入れられない心です。本当にこの事が知らされたら即、信心決定ですよ。善が必要などとの考えは妄念であって南無阿弥陀仏がすべてだったと知らされたはずです。是非とも他力の世界を語って下さい。

ただし、もしそうでなくこのコメントをただ言葉の羅列で書いたのならば貴方は無宿善の人かも知れません。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 20時08分

>仏教・浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、「善の勧め」は、あります。

残念ですが、あなたの言っていることは完全に詭弁です。

まずお勤めは正行です。退会者が問題にしているのは雑行です。

お勤めを勧めることはあっても、雑行を勧めることはない。

つまり、

仏教・浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、「善(雑行)の勧め」は、ない。

これは、会員も認めざるを得ない事実として、決定です。

次にお勤めおよび助業ですが、蓮如上人は『御一代記聞書』で

のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

と仰っています。結論は

衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理のお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶ

です。
獲信のためにせよと勧められているのではない訳です。

次に、正行の観点から『改邪鈔』に

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。


結論は、正行を獲信のために勧めることは真宗のは廃立に背き、親鸞聖人の御遺訓とも違う。自力の念仏ですら往生の正因ではないと教えられているのに、助業を勧めることなどない。


よって


仏教・浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、「善の勧め」は、ない。

残念でした。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 20時54分

おっと、挙げ足を取りたがるでしょうから、

>仏教・浄土真宗・親鸞聖人のみ教えに、「善の勧め」は、ない。

ここでいう仏教とは、法然上人の開かれた浄土仏教のことね。

聖道仏教で「善の勧め」があるのは当たり前。

それと、獲信・往生のための「善の勧め」は、ない

だから。

一応、蓮如上人は倫理道徳の善は勧められていますよ、獲信・往生とは無関係だから。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 21時07分

阿弥陀仏とお釈迦様が善をお勧めになられています。

投稿: 善の勧めは明らか | 2015年8月31日 (月) 22時38分

阿弥陀仏とお釈迦様が善をお勧めになられています。

投稿: 善の勧めは明らか | 2015年8月31日 (月) 22時38分

>阿弥陀仏とお釈迦様が善をお勧めになられています。

随他意の法門ね。
権仮方便ともいう。

少しは真宗学を勉強してね。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 22時43分

「仏教には何が教えられているか、一言で聞かせてくれ」

の白楽天の問いに

鳥巣は即座に偈をもって応じました。

 

「諸悪莫作(しょまくまくさ)

 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 自浄其意(じじょうごい)

 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」

 

読み下しますと、

 

「諸悪莫作(もろもろの悪をなすことなかれ)

 衆善奉行(いろいろの善を行いたてまつれ)

 自浄其意(自らその心をきよめなさい)

 是諸仏教(これがすべての仏の教えである)」

 

これは七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)といわれます。

有名な言葉で、中国や台湾の人にはよく知られています。

端的に言うと、

悪いことはやってはいけませんよ、

謹んで善を修めなさい

ということです。

 

すべての仏の教え、ということは、言葉を換えれば、

どんな宗派でも仏教と名がつく限り、

必ずこれを教えているということです。

共通している教え。

 

これを教えない仏教はない、ということです。

投稿: 善の勧めは浄土真宗でも明らか | 2015年8月31日 (月) 22時49分

法然門下を非難攻撃した比叡山が出した『延暦寺奏状』にこうあります。


しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。


これを親鸞会流に言えば、


善因善果、悪因悪果、自因自果は、絶対に曲げることのできない真理である。
だから、廃悪修善の「諸悪莫作 諸善奉行」が大宇宙の諸仏共通の教えの真実ではないか。


本願寺や退会者を非難攻撃している親鸞会は、法然門下を非難攻撃した延暦寺と同じことを言っている訳ですね。

これに反論されたのが親鸞聖人ですけど。まさか、比叡山の指摘の通りでしたと親鸞聖人が仰ったとでも思っている訳?

真宗のイロハのイも知らないで、恥ずかしいよ。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 22時57分

親鸞会が雑行をすすめているというのは、事実無根です。わざと誤解をさせるように書いているとしか思えません。どこに雑行をせよと書かれてるのですか?
常に雑行を棄てよ教えて頂いてますが、何か?

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時00分

七仏通戒偈を出して法然門下を非難した比叡山延暦寺に対して親鸞聖人が仰ったのが、


しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず


七仏通戒偈を出す親鸞会は、「教に昏くして真仮の門戸を知らず」なんですけど。

それとも親鸞聖人が七仏通戒偈をどこかに引用されてるの?

残念ですが、引用されてません。

それどころか、念仏と諸善とを比較されて仰った中の1つに

勧無勧対

がります。意味は

念仏は諸仏が勧めるが、諸善は勧めない。

諸仏は、諸善を勧められていないの意味分かる?


投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時08分

>法然門下を非難攻撃した比叡山が出した『延暦寺奏状』にこうあります。


>しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。


これを親鸞会流に言えば、


>善因善果、悪因悪果、自因自果は、絶対に曲げることのできない真理である。
だから、廃悪修善の「諸悪莫作 諸善奉行」が大宇宙の諸仏共通の教えの真実ではないか。


>本願寺や退会者を非難攻撃している親鸞会は、法然門下を非難攻撃した延暦寺と同じことを言っている訳ですね。

だから何ですか?
法然上人を非難攻撃したのは事実ですが、
「延暦寺奏状』に七仏通戒が引用されているだけで、七仏通戒自体が間違っているとでも言うのですか?

大宇宙の仏の教えを否定するのですか?

三世十方変わらない教えですよ。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時09分

親鸞会のいう善は、雑行の事を指していると言っているのが分からないの?親鸞会の人は本当に浄土真宗を何にも知らないんですね。

それ以前に世間の善もしないで嘘ばっかりついてますけど。華光会や大沼氏の盗作然り。嘘ついては金集め人集め然り。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時11分

『なぜ生きる2』より

 「諸善」が「雑行」と嫌われ、捨てよと言われるのは、悪い「自力の心」で行うからだ。
 悪い「自力の心」さえ廃れば、諸善は「雑行」とも言われず、捨て物でもない。(P.274)

 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。(P.281)

 「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。(P.282)


雑行を勧めているじゃない。

「雑行を捨てよ」とは、自力の心以前に、「諸善は本願に背く行なので、するな、諸善は捨て物、必要ない」の意味ですけど。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時15分

では再掲

それどころか、念仏と諸善とを比較されて仰った中の1つに

勧無勧対

がります。意味は

念仏は諸仏が勧めるが、諸善は勧めない。

諸仏は、諸善を勧められていないの意味分かる?

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時16分

>「雑行を捨てよ」とは、自力の心以前に、「諸善は本願に背く行なので、するな、諸善は捨て物、必要ない」の意味ですけど。


「雑行」といいますのは、私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行をいいます。

つまり、
「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」
を行っていない人に「雑行捨てよ」とは言われません。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時23分

まとめ

・七仏通戒偈は法然門下を非難するために比叡山が出した根拠。

・つまり、法然上人は善の勧めを否定されていたということ。(その根拠は多数あり)

・親鸞聖人は比叡山の出した七仏通戒偈に対して反論され、「無勧」と仰った。諸仏は諸善を勧められていない、と親鸞聖人は断言された。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時24分

早く19願の軌道に乗って「雑行捨てよ」と言われる身になってください。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時25分

>「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」
>を行っていない人に「雑行捨てよ」とは言われません。


親鸞会に関係してきた人はすでに雑行を行ってきたから、素直に捨てましょうね。


それとも、雑行がまだ足りないって言いたい訳?

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時27分

親親鸞会のいう善は、雑行の事を指している」
ここが完全に悪意に満ちた誤解曲解ですね。
相手の言うことを曲げて理解し、間違った理解をもとに非難攻撃するのが常套手段ですね。
どこにそんな根拠があるんですか?
雑行を棄てよと繰り返し教えて頂いてますが?

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時27分

親鸞会が善をススメているだと?
口先で「善のススメ」と言いながら己は悪ばかり造っている分際で、よくぞその口裂けなんだ。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時30分

諸善に努めねば善い果報がきませんが、その諸善を往生浄土の足しにしようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよといわれるのです。

 自力の心が廃って弥陀に救われてからの諸善は、すべて仏恩報謝の行となるのです。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時31分

大善知識様のお言葉


『なぜ生きる2』より

 「諸善」が「雑行」と嫌われ、捨てよと言われるのは、悪い「自力の心」で行うからだ。
 悪い「自力の心」さえ廃れば、諸善は「雑行」とも言われず、捨て物でもない。(P.274)

 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。(P.281)

 「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。(P.282)


雑行を勧めているじゃない。


一応言っておくと、

雑行=諸善(正行を除く)=万行=諸行

七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のこと

ですよ。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時33分

>諸善に努めねば善い果報がきませんが、その諸善を往生浄土の足しにしようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよといわれるのです。

違うんだな。

雑行とは元々聖道門の行、それを浄土往生のためと思ってすると雑行になる。
ということは自力の心を捨てたなら、聖道門の行に戻るってこと。


ちなみに蓮如上人が勧められているのは

倫理道徳の善


往生のためには雑行・雑善を捨てよと、念を押しておられますね。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時37分

>>はい。自他力の分別、知らせて戴きました。有難さ尊さ、身の置き所もございません。

→【自他力の違いをどのように知らされたのですか?詳しく感じたすべてを聴かせて下さい。有り難さ、尊さ、身の置き所もない喜びを感じられたそうなので聴かせて下さい。南無阿弥陀仏の願行具足が知らされたことが信心決定です。疑情とは南無阿弥陀仏の願行具足を受け入れられない心です。本当にこの事が知らされたら即、信心決定ですよ。善が必要などとの考えは妄念であって南無阿弥陀仏がすべてだったと知らされたはずです。是非とも他力の世界を語って下さい。
ただし、もしそうでなくこのコメントをただ言葉の羅列で書いたのならば貴方は無宿善の人かも知れません。】

→「はい。自他力の分別、知らせて戴きました。有難さ尊さ、身の置き所もございません。」の人へ そろそろ【】内の質問に答えて下さい。善をして下さい。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時39分

では代わりに私が答えましょう。

自力他力の違いは、

自分で少なくとも何かしなければ救ってくださらないのが阿弥陀仏だと思っているのが自力。
具体的には、宿善薄い人は宿善厚くならないと救われない、19願の道を通らなければ救われない、善をして善のできない自分と知らされないと救われない、というのが自力。

他力とは、自分で何かを加える必要が全くないのが阿弥陀仏の救いだと知らされること。
具体的には、宿善(宿世の善根)が厚い薄い無関係に救われる、三願転入や19願とは無関係に救われる、善をしようとおもわないまま救われる、というのが他力。


根拠が必要なら出しますよ。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時46分

出血大サービスで根拠を一つ

『口伝鈔』

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。


されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。


宿善(宿世の善根)の厚い薄いは無関係ということで。
宿世に現在世も入るんでしたよね。ということは、現在世での善も無関係。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時52分

>雑行とは元々聖道門の行、それを浄土往生のためと思ってすると雑行になる。
ということは自力の心を捨てたなら、聖道門の行に戻るってこと。

「自力の心を捨てた」とは?

投稿: 一般会員 | 2015年8月31日 (月) 23時52分

>>本願寺や退会者を非難攻撃している親鸞会は、法然門下を非難攻撃した延暦寺と同じことを言っている訳ですね。

>だから何ですか?
法然上人を非難攻撃したのは事実ですが、
「延暦寺奏状』に七仏通戒が引用されているだけで、七仏通戒自体が間違っているとでも言うのですか?
大宇宙の仏の教えを否定するのですか?
三世十方変わらない教えですよ。

→だから親鸞会は七仏通戒偈を出して浄土門、法然門下を攻撃した延暦寺と同じ思想だと指摘されているじゃないですか。どのような言葉を使おうが浄土門、法然門下を攻撃するのは。浄土門の人ではありません。どうしても七仏通戒偈を重視して浄土門を攻撃するなら「七仏通戒偈宗」を名乗りなさい。

投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時53分

「自力の心を捨てた」とは、

浄土往生のためと思わないでする善。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時55分

一応根拠も

もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。(化土巻)


もとより往生の善ではない聖道門の善を回心回向(往生のため)にしたら雑行という。

投稿: 詭弁 | 2015年8月31日 (月) 23時57分

仏教で「自力」とは?

投稿: 一般会員 | 2015年8月31日 (月) 23時58分

善とは

1.聖道門で教える善(これを往生のためと思ってすると雑行)

2.倫理道徳の善(普通は往生のためと思ってすることはないが、もし往生のためと思ってすれば雑行)


親鸞会で勧めている布施は1で完璧な雑行

蓮如上人は2を勧められている、もちろん往生のためと思ってする人はないという前提で。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時01分

親鸞会の主張からの、、、
正式団体名 非浄土門・七仏通戒偈宗・延暦寺派の親鸞会
なんじゃこりゃ。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時03分

>仏教で「自力」とは?

かなわなくなったので問題ソラシの開始ですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時04分

19願は十方衆生が相手ですが。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 00時07分

自力には、

1.往生のために頑張る

2.聖道門で覚りを獲るために聖道門の善に頑張る

この2種類がありますが、親鸞会で言っている自力は1ですよね。

もし2も含めて「自力を捨てる」と言っているなら、自力を捨てた後の善は、

聖道門の善(布施等)ではなく、倫理道徳の善限定になりますが、それでOKですか?

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時09分

19願の「十方衆生」の意味は、善人のことだと親鸞聖人が仰ってますが何か?

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時10分

>雑行=諸善(正行を除く)=万行=諸行

自力の称名念仏が諸善に入るのか、入らないのかどちらですか?
まさか入るとか言いませんよね?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時13分

>善とは

1.聖道門で教える善(これを往生のためと思ってすると雑行)

2.倫理道徳の善(普通は往生のためと思ってすることはないが、もし往生のためと思ってすれば雑行)


親鸞会で勧めている布施は1で完璧な雑行

蓮如上人は2を勧められている、もちろん往生のためと思ってする人はないという前提で。


「善が勧められているのは聖道門の人だけ」という邪説の始まりですかね。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時13分

問題逸らしと言えば、七仏通戒偈はどうなったの?

阿闍世は19願を通ったという根拠でも見つかったの?

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時14分

>「善が勧められているのは聖道門の人だけ」という邪説の始まりですかね。

これを問題逸らしと言いますよね。そんなこと誰がいいました?

善は19願の行者にも勧められていますよね。もちろん随他意の法門ですがね。

「善が勧められているのは善人だけ」というのが親鸞聖人の教えですよ。

悪人に善を勧めるなんて教えはない訳。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時16分

浄土門の人でも
弥陀の18願に転入するまでは、
雑行は廃っていません。

「聖道門の人(善人=定散諸機)だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」

もしこの邪説が、正しいなら、

「聖道門の人にだけ、第19願が必要」
「聖道門の人がいなかったら、第19願は要らない」

ということになります。


しかし、実際は、

「聖道門の人」よりも、
「弥陀の第19願(要門)」が先に建立されていました。


すなわち、

「十方衆生」が相手の弥陀の第19願(要門)を、
お釈迦様が開かれて「善の勧め」の教えを説かれた。

そのお釈迦様の「善の勧め」の教えを受けて、
それを実行しようとする「聖道門の人」が現れたのです。


釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ
(高僧和讃)


低レベルな間違いである。
小学生でも、分かる子もあるだろう。
まして、頭が普通の大人であれば、
「聖道門の人だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」
などという主張は、
とるに足らない邪説であることが分かって当然である。


第19願は、
聖道門の人があるから建立されたのではなく、
迷えるすべての人があるから、建立されたのだ。

善の勧めは、
迷えるすべての人を相手に、
18願の救いまで導く為に、
必要だからこそ教えられたもの。


「雑行を捨ててこそ救われる」のは、
迷えるすべての人である。
聖道門仏教をやっている人だけではない。

救いを求めて諸善に励む(雑行)
というプロセスを通らずして
第18願に救われる人など一人もない、ということだ。


「雑行を捨てる」とは、
弥陀の救いを求めてやる善を
自分の意識で否定するのと、ワケが違います。

18願に転入する時に、はじめて、
雑行が廃るのです。

浄土門の人でも
弥陀の18願に転入するまでは、
雑行は廃っていません。


「善の勧めと、信心獲得とは、無関係だ」


などの邪説は、速やかに廃捨すべきです。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 00時20分

「極重の悪人は他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得。」(行巻)


極重の悪人には他の方便(諸善)なしが、浄土門の超常識ね。

他の根拠を挙げてほしければ、いくらでも。

ところで

『口伝鈔』

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。


されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

これは理解できた?

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時20分

また同じことを。


>「聖道門の人」よりも、
>「弥陀の第19願(要門)」が先に建立されていました。


法蔵菩薩は、聖道門の修行をなされましたけど。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 00時22分

だから、さっきから言ってるでしょう。
往生の足しになると思ってやる善を雑行と嫌われ、棄てよと言われるのは当然なんだよ。
親鸞会が往生の足しになると思って善をせよと教えてるという根拠はまだですか?
相手の言うことを誤解曲解して、非難攻撃するのが常套手段ですね。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時24分

>「聖道門の人(善人=定散諸機=19願の行者)にだけ善が勧められた」

定散諸機=弥陀の救いを求めて定散二善を実践している人=19願の行者

「弥陀の救いを求めて定散二善を実践している人」に「定散二善」が勧められた・

つまり、

定散二善を実践している人(善人)のためだけに、定散二善が説かれた


意味不明。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 00時29分

>雑行=諸善(正行を除く)=万行=諸行

自力の称名念仏が諸善に入るのか、入らないのかどちらですか?
まさか入るとか言いませんよね?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時31分

「定散二善を実践している人(善人)のためだけに、定散二善が説かれた」

という詭弁さんの主張はおかしい。

ちなみに仏の眼からご覧になれば、人類に善人は1人もいませんが。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時35分

護法の方々が多数あらわれられ、尊く思います。

>ただし、もしそうでなくこのコメントをただ言葉の羅列で書いたのならば貴方は無宿善の人かも知れません。

あなたは、たいへんに宿善がお厚いのでしょうね。

善の勧めを否定されている間は、まず、仏教徒にもあらず、真宗徒にもあらず、親鸞聖人のご教導に暗い方であると、言わざるをえません。


久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する


仏教・親鸞聖人の御教えに、「善の勧め」は、あります。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 1日 (火) 00時35分

>「極重の悪人は他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得。」(行巻)


>極重の悪人には他の方便(諸善)なしが、浄土門の超常識ね。


極重の悪人=弥陀に救われた人ですよ。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 00時37分

一般会員さまはじめ親鸞会のシンパの方々へ

親鸞会と豊田商事との関係は善ですか悪ですか?お年寄りを騙して巻き上げたお金で会は財施を受けていたのは本当ですか?豊田商事関連企業に親鸞会の幹部が所属していたという話は本当ですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時46分

一般会員さま

七仏通戒偈の教えでは、不倫は善ですか?悪ですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時49分

旗色が悪くなると、週刊誌のようなことを書き立てて煙に巻きたい気持ちは分かりますが、早く反論して下さい。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時52分

>>旗色が悪くなると、週刊誌のようなことを書き立てて煙に巻きたい気持ちは分かりますが、早く反論して下さい。

→善をススメる団体の宿命です。それがイヤなら善はススメないこと。早く答えなさい。不倫は善ですか?悪ですか?どうしてこんな簡単な問題が答えられないのですか??
豊田商事がお年寄りから巻き上げたお金で財施を受けるのは善ですか?悪ですか?親鸞会の幹部が豊田商事関連企業に所属していたのは本当ですか ?すべて答えなさい。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 00時57分

旗色が悪く週刊誌のようなことを書き立てて、教えで反論できないんですね。
お疲れ様でした。
勿論不倫は悪ですよ。
悪をやったなら反省すべきです。
世間の悪をネチネチ責めたいなら、裁判でも起こして下さい。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時10分

【追加】車のメーターを工作して走行距離を少なくし車をより高く売り飛ばす犯罪行為は善ですか?悪ですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時12分

不倫を許す団体は許せますか?許したら貴方は同罪ですよ。これで善をススメる資格はありません。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時14分

はい、次のかたどうぞ

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時14分

逃げられましたか。親鸞会の教えに反論できずに。

早く目覚めて欲しいものです。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 01時16分

お疲れ様でした。早く間違いに気づいて欲しいものですね。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時18分

一応言っておきますが、私は親鸞会のために親鸞会に所属しているのではありません。

親鸞聖人の正しい教えを学び、お伝えするために親鸞会という組織に所属しています。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 01時23分

一般会員様
親鸞会は本尊はツギハギのものを使用しているのですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時36分

一般会員様

会長は大沼氏伊藤氏の文章を使用しているそうですが、無断ですか?許可は得ていますか?無断なら恥ずかしくないですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時38分

一般会員様

「増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々」と「次第に迷雲が晴れた」と華光会に投稿したそうです。

一方同じ会長から
「一念でハッキリ救われた」とも聴きましたがどちらがウソですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時46分

お疲れ様でした。早く答えて間違いに気づいて欲しいものですね。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時52分

親鸞会は都合が悪くなると答えなくなる。まあ会長がだらしないから仕方ない。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 01時55分

まだ言っているんだ。

定散と逆悪とを矜哀して(正信偈)

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。(正信偈大意)

信前の衆生に、定散の機(=善人)と逆悪の機(=悪人)がいるから、善人と悪人を矜哀して、もらさずあはれみたまひけりなんですよ。


お勤めくらいしなさいね。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 05時56分

>極重の悪人=弥陀に救われた人ですよ。

観経も読んだことがないから妄想を。

極重の悪人=下品下生

下品下生の往生とは、五逆の罪人が、平生に善もせず仏法を聞いたことがなく、臨終になって初めて善知識から仏法を聞き、念仏だけを勧められて十回の念仏を称えて往生する


他の方便なしとは、平生に善もせず、臨終に善も勧められていないことを仰ったもの。


勉強になった?

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 06時02分

>>雑行=諸善(正行を除く)=万行=諸行
>
>自力の称名念仏が諸善に入るのか、入らないのかどちらですか?
>まさか入るとか言いませんよね?


何この愚かな質問。
入る訳ないでしょ。

雑行が何かも知らないなら、コメント書かない方がいいよ、知能の低さがばれるから。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 06時13分

》親鸞聖人の正しい教えを学び、お伝えするために親鸞会という組織に所属しています。

正しくもない話を伝える為に所属してるとは考えないの?選択肢は親鸞会だけ?
これだけ情報があふれているのに?

投稿: 一般会員さん | 2015年9月 1日 (火) 10時39分

詭弁さんは飛雲氏と同一人物?

それとも手下?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 13時32分

同一人物だったら何?
手下だったら何?
そうでなかったら何?

どんな回答をしても、疑うでしょ。
質問には一切答えず、相手に質問攻めにして、挙句はくだらないコメントをしても、親鸞会の邪義は誤魔化せないですよ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 13時53分

>詭弁さんは飛雲氏と同一人物?
それとも手下?

→もし手上だったらどうしますか?貴方は一般会員ですか?会長のパクリ癖を許しますか??許したら貴方はパクリ会長の手先のパクリ一般会員になりますよ。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 14時03分

一般会員さま

豊田商事の件、高齢者からだましとった金を親鸞会が受け取ったのは本当ですか?故永野会長は親鸞会から「善のススメの教え」を聴いて、教えの通り財施するために高齢者を騙したのではないですか?高森会長は仏法のためなら少々悪どいことをやってもよい、と言ってたのではないですか。答えますか。逃げますか。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 14時14分

佐野氏詰みー!
エンブレム使用中止!

盗作は悪ですよねー

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 14時27分

高森会長のパクリ癖も困ってしまいます。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 14時48分

>逃げられましたか。親鸞会の教えに反論できずに。
早く目覚めて欲しいものです。

→親鸞会の善のススメを聴いて 豊田商事の永野会長が高齢者を騙して親鸞会に多額の財施をした。これは現実に起きたことである。どれだけ親鸞会が浄土真宗の歴史に汚点をつけたのかを知っているのか。この事実を受け容れられずにそれでも親鸞会が正しいというからマインドコントロールされていると言われるのだ。悪を容認する会員も同罪。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 15時59分

本願寺の現状

小林幸子が築地本願寺本堂で「ペガサス」(平成21年10月3日)

小林幸子が築地本願寺本堂で「ペガサス」

小林幸子が築地本願寺本堂で「ペガサス」
 >>日刊スポーツの記事:小林幸子が築地本願寺本堂で「ペガサス」
 >>(魚拓)
 歌手小林幸子(55)が3日、東京・築地本願寺で親鸞聖人750回大遠忌法要特別コンサートを行った。
 本堂の中で歌うのは女性歌手初。
「生涯の記念になるコンサート」と、93年紅白歌合戦で披露した幅20メートル、高さ7メートル、重さ約1トンという巨大衣装「ペガサス」を持ち込み「約束」など11曲を熱唱した。(後略)

 歌手の小林幸子といえば、女芸人・久本雅美と並ぶ「創価学会」の広告塔。
 創価学会とは、あの大謗法の日蓮を"大聖人"と仰ぐ新興宗教である。
 その創価学会に入信し宣伝する小林幸子を、本願寺は「親鸞聖人の750回忌法要」に招いてコンサートを行った、というのだから、もう情けないとか憤りを通り越して、ただア然とするばかり。
 京都に本山を置く本願寺にとって、東京築地の別院は、祖師のみ教えを伝える東の重要拠点ではないのか。
 弥陀の本願念仏を有縁の皆さんに宣布する、大切な法城ではないのか。
 その聖地であるはずの別院の本堂に、邪教・創価学会の広告塔を招くという暴挙。
 一体なにを考えているのでしょうか。
 もちろん「人寄せパンダ」にちがいないが、そんなことで人を集めようとする貧しい精神が、親鸞学徒には容認できないのです。
 結局は、伝えたいことが本願寺には何もない、説くべき親鸞聖人の教えをなんにも知らないから、「窮すれば貧する、貧すれば鈍する」で、さもしい発想しかできないのでしょう。
「親鸞聖人のお言葉を、一言一言、丁寧にお伝えする」という親鸞学徒の本道を踏み外し(もとより本道に乗っていない)、"有名人を呼べば盛り上がるだろう"と、ムードやパンダに頼る。
 そうして「人さえ集められれば、学会員だろうが誰だろうが構わない、なんでもアリだ」と突き進んだ結末が、これである。
 
「ペガサス」ならぬ「魔が差す」どころではない

 その本願寺も、口では「すべては阿弥陀さまのご本願のはたらき」「お念仏の声を世界に広げよう」と言う。
 だが、その「弥陀の本願念仏」を、創価学会は「念仏無間」(※弥陀の本願を信じ念仏称えている者は、無間地獄に堕ちる、という日蓮の造語)と謗り散らしているのである。
 弥陀の本願を罵倒し、わが祖師聖人を罵る者たちに、「切り刻みても、飽くかよ飽くかよ」(蓮如上人)の怒りはないのでしょうか。
 戦後の混乱期。現実の苦しみにあえぐ大衆は、真の救いを求めていた。
 だが少しも苦悩の救済を説かぬ真宗僧侶に、門徒は愛想をつかし、心は寺から離れていく。
 信仰の行き場を失った真宗門徒を、狙い撃ちしたのが創価学会である。
 次々と家に上がり込んでは、日蓮の「念仏無間」を連呼して脅し、板マンダラを拝めば金が儲かる病気が治ると現世利益を売り物に折伏していったのである。
 如来聖人からお預かりしている大切なご門徒が、邪教の毒牙にかかり犠牲になるのを、本願寺はただ手をこまねいて眺めていただけであった。
 気がついてみたら門徒は激減。
 現在、創価学会員の多くが、元真宗門徒とその二世三世である悲しい事実は、ここに起因する。
 その創価学会の広告塔の一人が「小林幸子」である。
 本願寺は、その小林幸子を築地別院に招待した。
「念仏無間」と真実の仏法を誹謗し、聖人を蔑む創価学会員を、聖人の恩徳を偲ぶべき大遠忌法要に招き、聖人の教えを説くべき本堂で、特別コンサートと称して歌わせたのである。
 小林幸子が、創価学会の広告塔であることを、知らなかったはずがない。
 また、知らなかったでは済まされない。
「ペガサス」ならぬ「魔が差す」どころの話では、すでにない。
 もはや本願寺の暴走は、止めることはできないようだ。このまま自然消滅するほうが、いっそ人類のためにはプラスである。
 以前にも「ボーズコレクション」とやらで、天台、真言、禅宗に加え日蓮宗の坊主を集めて無意味なイベントをしたのも、築地本願寺であった。
 本願寺が地に落ちて久しいが、なお地面を掘って地獄の釜底まで行くおつもりだろう。
 念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄(無間地獄)に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなく受くとぞ説きたもう

 聖人のご悲嘆は、日蓮に対してのみならず、それに加担する本願寺への、痛烈な叱責であることを、肝に銘じてほしいものである。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 18時31分

本願寺の話に変えたということは、

【親鸞会の邪義を認めました】

こういうことですね。

邪義の親鸞会にいて、救われることはありませんよ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 19時15分

>定散と逆悪とを矜哀して(正信偈)

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。(正信偈大意)

信前の衆生に、定散の機(=善人)と逆悪の機(=悪人)がいるから、善人と悪人を矜哀して、もらさずあはれみたまひけりなんですよ。


お勤めくらいしなさいね。

あなたは、定散の機(=善人)ですか?それとも逆悪の機(=悪人)ですか?

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 19時27分

仏の眼からご覧になれば、人類に善人は1人もいません。
人間の目から見れば、善人と悪人がいますが。


問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 19時41分

お勤めもしてないなんてね。

「一切善悪凡夫人」
「凡聖逆謗」

>あなたは、定散の機(=善人)ですか?それとも逆悪の機(=悪人)ですか?

さあ、そんなこと何の関係もないですね。話を逸らして誤魔化さないように。

信前も信後も、

定散の機(=善人)と逆悪の機(=悪人)が存在するということを認めれば終わり。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 19時45分

「飛雲」から親鸞会への教義非難
2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年9月号

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。


答え
違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。

問い
「極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。


答え
これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
「一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。

問い
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。


答え
「煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。

問い
機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。


答え
単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。

問い
本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。


答え
これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
「唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。

問い
機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。


答え
日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
「わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。

問い
親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。


答え
前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。


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▲ by shinrankaiuso | 2012-09-19 11:20 | ②五逆・謗法・闡提について
親鸞会との問答(五逆・謗法・闡提について)
編集 | 削除
「飛雲」から親鸞会への教義非難
2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年6月号

問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。


これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
親鸞聖人は「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということではないですか。


答え
親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。

問い
親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。


答え
これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。

問い
では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。


答え
この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。

問い
全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。


答え
謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。

問い
外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。


答え
親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。

問い
謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。


答え
このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。

問い
阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。


答え
嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。

問い
仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。


答え
親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。

問い
「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。


答え
軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
「一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。

問い
しかし、全人類は闡提と教えられているのではないですか。


答え
これも大嘘です。親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて教えておられます。
「衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。」(教行信証真仏土巻)
衆生の根性に定まったものはないから、闡提の者が闡提でなくなったり、あるいは闡提でない者が闡提になったりするのです。親鸞会の原罪思想は、仏教で教えられる空とは反するものです。

問い
人の心は変わるとしても、因果の道理は間違いないのですから、一度造った恐ろしい悪業は消せず、恐ろしい報いを必ず受けるのではないですか。


答え
親鸞聖人は「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(正像末和讃)と教えられました。罪に固定不変の形があると考えるのは、妄想顛倒である有の見の考え方です。
また『涅槃経』を引用されて「たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。」(教行信証信巻)とも教えられています。
有の見に凝り固まった親鸞会を否定されたのが、仏教であり親鸞聖人です。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 19時47分

「飛雲」から親鸞会への教義非難
2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年9月号

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。


答え
違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。

問い
「極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。


答え
これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
「一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。

問い
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。


答え
「煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。

問い
機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。


答え
単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。

問い
本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。


答え
これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
「唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。

問い
機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。


答え
日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
「わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。

問い
親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。


答え
前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 19時48分

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。


つまり、詭弁さんも飛雲さんも私もここに書き込みをした人も安倍首相も
オバマ大統領も地球にいる人全員が、

「清浄の心無く、真実の心無し」=「五逆・法謗の者」です。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 19時54分

しっかり読んでね。


問い
親鸞聖人は「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということではないですか。


答え
親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 19時57分

・論点ずらしの質問
・聖教の根拠なしに珍説を展開
・会長の主張の単純コピペ
・論破されてるのに気付かないまま反論
・前に同じようなやり取りがブログに残ってるんだけど当然読んでない
これじゃ法論でもなんでもないっつーの!

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 19時57分

自己流誤魔化しその場しのぎ解釈が得意な飛雲氏。一貫性が無さすぎ。

飛雲氏は自分の間違いに気付いていますが自己流誤魔化し解釈で煙を巻き続けています。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 19時59分

飛雲氏に法論で勝ってから言ったら?

負け犬の遠吠えはみっともないよ。

たとえば、親鸞聖人が「全人類は五逆謗法の者だ」と明言なされたお言葉をあげれば済む話。しかし、親鸞聖人は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」と唯信鈔に書かれたものをそのまま写されて、同行に読むように勧められているので、親鸞聖人が「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」と仰ったことになる訳ですよ。

誤魔化しでも何でもないでしょ、日本語を理解する能力の有無の問題。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 20時07分

問い

親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。

答え

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。
五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 20時08分

何回も同じことを。


これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。


答え
違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。

問い
「極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。


答え
これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
「一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。

問い
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。


答え
「煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。

問い
機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。


答え
単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。

問い
本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。


答え
これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
「唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 20時22分

>その創価学会に入信し宣伝する小林幸子を、本願寺は「親鸞聖人の750回忌法要」に招いてコンサートを行った、というのだから、もう情けないとか憤りを通り越して、ただア然とするばかり。

→豊田商事の件は親鸞会の善のススメが引き起こした一大事件です。善のススメと称して人々を不幸に突き落とす教えです。親鸞会に学会を非難する資格はありません。学会は最悪ですが親鸞聖人のお名前を悪用して人々を不幸に突き落とす親鸞会はそれ以下です。最悪以下の団体です。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 20時25分

豊田商事事件でどれだけの人が災難に遭ったのか分かっていますか?善のススメの行き着くところが親鸞会に利用された永野会長の惨殺事件です。親鸞会の善のススメに従った人の行き着いた姿です。これが弥陀の狙いですか?ふざけるな。阿弥陀仏に謝りなさい。信仰心の無さを思いつきの言葉で語ることなかれ。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 20時32分

親鸞会はこれだけの事件に関与していながら全くその反省をしないままに依然として 善のススメと称して財施を要求している。この先何が起こるのか、会員は全くその危険性を理解せず、まだ善のススメが正しいなどと言っている。第二第三の永野会長を作り出すことにためらわない。惨殺体を生み出すことが弥陀の狙いか?永野会長はある意味親鸞会に利用された被害者である。親鸞会の善のススメを忠実に実践しただけだ。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 20時47分

どうして会員はそのことを疑わないのか。自分の後生の一大事の解決のためなら、誰かが惨殺されてもよいのか。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 20時50分

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。
「清浄の心無く、真実の心無し」とは、ということですが、

>親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。


>「つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、」


ということは、煩悩具足の凡夫の詭弁さんは、「清浄の心無く、真実の心無し」ですが。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 20時50分

煩悩具足の凡夫の詭弁さんも、「清浄の心無く、真実の心無し」ですが、
煩悩に穢された心=「清浄の心無く、真実の心無し」を持った私たち人間は罪を造らずにいられますか?

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 20時53分

煩悩具足の凡夫の詭弁さんも、「清浄の心無く、真実の心無し」ですが、
煩悩に穢された心=「清浄の心無く、真実の心無し」を持った私たち人間は罪を絶対に造らないということがありましょうか?

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 20時54分

親鸞会でいう善のススメに従っていると思い込み、また全く疑わないから行き着く先は何をしでかすか分からないという怖さがあります。
思い込まされたから許される?そんな事は無いでしょう。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 20時54分

煩悩具足の凡夫の詭弁さんも、「清浄の心無く、真実の心無し」ですが、
煩悩に穢された心=「清浄の心無く、真実の心無し」を持った私たち人間は罪を絶対に造らないということがありましょうか?永い過去世から1つも罪を造って来なかったと言えますか?


ご‐ぎゃく【五逆】

1 仏語。5種の最も重い罪。一般には、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(あらかん)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることをいい、一つでも犯せば無間地獄(むけんじごく)に落ちると説かれる。五無間業。五逆罪。
2 主君・父・母・祖父・祖母を殺す罪。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 20時58分

知能の低さが露呈してますよ。

「清浄の心無く、真実の心無し」=「罪悪生死の凡夫」

ですが、それが何か?

法論とか議論とかのレベルではなく、国語のレベルの問題。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 20時59分

実際に手にかけて殺さなくても、心の中では悪を造り続けている(過去世から造り続けてきた)
煩悩具足の人間。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時03分

一般会員さん

豊田商事事件、善のススメに関して、何もありませんか??

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時04分

>つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。


>知能の低さが露呈してますよ。

「清浄の心無く、真実の心無し」=「罪悪生死の凡夫」

ですが、それが何か?


あなたの主張では、
「清浄の心無く、真実の心無し」=「罪悪生死の凡夫」=煩悩に穢された心になりますが、煩悩に穢された心を持った私たちは、
五逆・謗法は永い過去せから1つも造って来なかったと断言できますか?

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 21時10分

一般会員さん

都合悪くなると答えないですね。豊田商事事件、善のススメの反省はありませんか。また同じことが起こってもよいですか?

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時16分

低知能の人の理屈なんか聞くつもりはないのですが。

親鸞聖人が「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」と書かれたことを、肯定するか否定するかの話。

あるいは、親鸞聖人が「全人類は過去世において例外なく五逆・謗法を造ってきた」と書かれたものを示すか。

国語の能力の欠落した人とは話ができませんね。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 1日 (火) 21時17分

>豊田商事事件、善のススメに関して、何もありませんか??

そんなに責めたいのなら、裁判を起こせばいいじゃないですか。

投稿: 一般会員 | 2015年9月 1日 (火) 21時21分

永野会長は自分自身やっていた悪業に気づいていたが、親鸞会の善のススメの教えを聴いて、この教えなら悪人の自分も助かるかもしれないというホンのわずかな、そして絶対に手離せない望みを掛けて、会に言われるまま財施し、極楽往生を願ったのでしょう。

そして突然惨殺された。永野会長は親鸞聖人を恨んでいるでしょう。でも実は騙されていたのです。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時24分

親鸞会の人間の話は、なんだかんだと理屈を言っているようで支離滅裂になるのは、根拠が高森会長だからでしょう。高森会長の著作物を「お聖教」と呼ばせてますからお話にもならんのです。
あの、盗作三昧が「お聖教」であり、親鸞会人間の発言の根拠。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時28分

あはは。
高森先生の心の中は名利の二字しかありません。
口で言うこと、体ですることも名利の二字のためだけです。
自分の後生の心配すらしないのに、学徒の後生の心配をするわけ無い。
ショウモナイ。

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 22時09分

「親鸞会のいう善は、雑行の事を指している」
ここが完全に悪意に満ちた誤解曲解ですね。
相手の言うことを曲げて理解し、間違った理解をもとに非難攻撃するのが常套手段ですね。
どこにそんな根拠があるんですか?
雑行を棄てよと繰り返し教えて頂いてますが?

→自分で書いたコメントを忘れているようですね。

投稿: 善の勧めを非難するものは、仏教徒ではありません。 | 2015年8月29日 (土) 02時01分のコメント

「善の勧め」非難するのは、明らかに謗法です。まず、仏教徒とはいえません。

そのうえで、浄土真宗は「無条件」の救いなのです。

イスラム教でも、天理教でも、統一教会でも「善いことをしなさい」とはいいますよ。

しかし、それと真宗で説かれる「善の勧め」をいっしょにとらえてはいけません。

あくまで「阿弥陀仏に向かっての善」です。
「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行なのです。

19願、20願の自力往生の教えは、その底にある、18願の他力念仏往生の教えによって動かされています。
これは、それぞれ「観経」「小経」「大経」に相応します。

これでも「善の勧めは、浄土真宗にはない。」「善を勧めることは、間違った教義だ。」とおっしゃるおつもりですか。

浄土真宗・親鸞聖人の教えに「善の勧め」は、あります。

(コメント引用ここまで)

つまり、あなたが言っている「善の勧め」の善とは、「阿弥陀仏に向かっての善」、「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行のこと。

そして、投稿: | 2015年8月31日 (月) 23時23分のコメント

「雑行」といいますのは、私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行をいいます。

(コメントここまで)

あなたが言っている「善のすすめ」の「善」とは、「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということが、大前提になっている善行」

あなたが言っている「雑行」とは、「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」

「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということが、大前提になっている善行」と「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」とは同じですか、異なりますか?

「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということで行う善」と「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」とどこに差異がありますか?

要するに、あなたが言っている「善のすすめ」とは「雑行のすすめ」ということです。

そもそも、「19願の善」とは、イコール「雑行」なのですが。。。
高森会長の説明を鵜呑みにせずに、『化土巻』など、お聖教を直にを拝読しましょうね。

投稿: 横から | 2015年9月 1日 (火) 23時31分

>「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということが、大前提になっている善行」と「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」とは同じですか、異なりますか?

あなたは、頭の中で弥陀の御本願をはからっておられるのです。

自力の善行が、あてたよりになって救われるのではありません。
その一点だけを見て、善の勧めはないと判断されるのは、まったく凡夫のはからいです。

生因の三願は、阿弥陀仏が建てられました。
その道程は、人間の頭程度ではからうと、こちらから到達する世界に見えます。そうすると、凡夫の頭であれこれと、はからうことにもなります。善を否定する人間の考えも出てきます。

生因三願も当然、他力廻向に貫かれた世界です。人間の計画で進む世界ではありません。
阿弥陀仏の本願によって開かれる世界です。阿弥陀仏の本願で救われるのです。

その本願に「善の勧め」があるのです。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 2日 (水) 02時01分

願行具足の南無阿弥陀仏に人間の善を足す必要なし。それこそはからい。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 04時07分

>「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということが、大前提になっている善行」と「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」とは同じですか、異なりますか?

あなたは、頭の中で弥陀の御本願をはからっておられるのです。

自力の善行が、あてたよりになって救われるのではありません。
その一点だけを見て、善の勧めはないと判断されるのは、まったく凡夫のはからいです。

生因の三願は、阿弥陀仏が建てられました。
その道程は、人間の頭程度ではからうと、こちらから到達する世界に見えます。そうすると、凡夫の頭であれこれと、はからうことにもなります。善を否定する人間の考えも出てきます。

生因三願も当然、他力廻向に貫かれた世界です。人間の計画で進む世界ではありません。
阿弥陀仏の本願によって開かれる世界です。阿弥陀仏の本願で救われるのです。

その本願に「善の勧め」があるのです。


→質問に対する答えに全くなっていません。

また、本願に対する計らいとは、18願に対する計らいであって、生因三願に対する計らいではありません。

18願においては、既に諸善は選捨されています。18願に諸善の勧めは全くありません。

投稿: 横から | 2015年9月 2日 (水) 07時00分

》>「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたいということが、大前提になっている善行」と「阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行」とは同じですか、異なりますか?

◯ こんな質問している事自体が、はからいの塊。
お、な、じ!に決まっているでしょうが。
頭がおかしいの?

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 08時36分

》「阿弥陀仏の浄土に往生させていただきたい」ということが、大前提になっている善行なのです。

◯ その善行で往生できませんて。あなたが実際今救われて無いじゃない。だから善行がいるやら善のススメやらと条件付けなきゃならない事になっているじゃない。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 08時51分

大沼氏の著書をネットでGET。
噂には聞いていたが、此処まで盗作ってどうなの?
十分目が覚めた良いご縁でしたよ。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 12時40分

コメントの混同が見られるようですが、いずれの皆様も「善の勧め」に明るい方々なので、同じことです。

>人間の善を足す

「善の勧め」と「善を足そうとする」ことは違います。
なぜ違ってしまうのかといいますと、生因三願を人間の計画にあてはめて、こちらから進んで行く道と捉えるからです。

「善の勧め」はあると同時に、願行具足の南無阿弥陀仏に、「人間の善を足す」事が、あてたよりとなって、お救いにあずかるのではありません。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 2日 (水) 13時45分

小保方 佐野 佐村河内 高森

盗作捏造カルテット

投稿: 新ユニット結成! | 2015年9月 2日 (水) 14時28分

親鸞会の善のススメに従って財施するために悪事を働いた豊田商事の永野会長は惨殺されました。善のススメとは障害者自立支援法と同じで、やっていることと中身が伴っていません。これからも被害者を沢山出しても善のススメをしますか?

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 14時39分

善のできない自分だと知らされること(=善果)、を足そうとしているのですか。なるほど。結局善を足そうとしているのですね。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 14時59分

》「善の勧め」と「善を足そうとする」ことは違います。

◯ 主語を書いてみてください。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 16時15分

>2015年9月 2日 (水) 16時15分
に同意です。

>》「善の勧め」と「善を足そうとする」ことは違います。

>◯ 主語を書いてみてください。
これに回答して頂かないと何が何かよく解りません。

投稿: A | 2015年9月 2日 (水) 16時54分

しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 18時48分

かなめ【要】

1 ある物事の最も大切な部分。要点。「組織の要となる人」「肝心要」

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 18時53分

》「善の勧め」と「善を足そうとする」ことは違います。
◯ 主語を書いてみてください。

主語が以下の文章ですか?

》しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの


投稿: | 2015年9月 2日 (水) 19時16分

丸写しか丸暗記のような文章を並べるのではなく、通りの良い言葉を使うよう高森さんに言われませんでしたか?

ではもう少し砕いて聞きます。
誰が「善を勧め」誰が「善を足そうとする」のでしょうか?

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 20時01分

親鸞会会員は、「"善の勧め"はありまぁぁぁぁす」と言うけれど、根拠を全く提示できない。確かに阿弥陀仏の本願には善の勧めはあると言えるでしょう。19願がありますから。でも注目すべきは、その19願を親鸞聖人がどう見られているかですよ。"親鸞学徒"であるならば。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 21時55分

三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの

2015/09/02 18:48:10

かなめ【要】

1 ある物事の最も大切な部分。要点。「組織の要となる人」「肝心要」

親鸞聖人が修することを勧められたと言っても過言ではありません。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 22時27分

善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 22時28分

阿弥陀如来、お釈迦様が共に、「善を勧め」られ、この弥陀の本願のお導き、釈迦のご教導により、「凡夫自力の迷情心」が、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とするのです。

問題は、「善」にあるのではなく、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とする、自力心にあるのです。

この自力の心(雑行)を、捨てるのです。

自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

「善の勧め」は、信前・信後を問わず、一貫して現存するのです。

なぜかというと、浄土真宗は仏教だからです。

「善の勧め」がないものを、「仏教」とは呼べません。

仏教・浄土真宗・親鸞聖人の御教えに、「善の勧め」は、あります。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 2日 (水) 22時29分

》親鸞聖人が修することを勧められたと言っても過言ではありません。

◯ こんな事を言っているの?間違い解釈した上に、親鸞聖人の言われる事が分かるような同等以上の人間ですか、あなたは。自惚れも甚だしい。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 22時46分

善を実践したいなら会をやめた方がエエですよ。
脱会して大いに廃悪修善しましょう。

会では拘束時間が長くて善を実践する時間を奪われる。
お金を搾り取られて、人集めさせられるだけ。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 22時51分

》問題は、「善」にあるのではなく、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とする自力心に有るのです。

だから、何度も何度も「善はしたけりゃやりなさいよ、獲信に関係無いから」と指摘されているじゃないの。しかも、関係無い善を勧めているんだから、
自力に自力の上塗りまでやっているじゃないの。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 22時55分

》問題は、「善」にあるのではなく、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とする自力心に有るのです。

◯ 問題は「善」に無いと自分が言った事をお忘れなく!

問題の無い善をやかましく言うのは、単に金と人を何にも考えず出せ、集めろと言っているだけでしょ。親鸞会の善とは金集め人集めなんですから。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 23時07分

仏教徒さんへ

「弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善」が、雑行だということは分かりましたか?
あなたが言っている「善の勧め」は、「雑行の勧め」に他なりません。

親鸞聖人は「雑行を捨てよ」としか教えられていません。「雑行をせよ」と教えられたところがどこかにありますか?

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。(行巻)

投稿: 横から | 2015年9月 2日 (水) 23時08分

ここを見て迷っている学徒の方は、善をしたいのなら念仏行をしましょう。
布施行よりも桁違いに優れた貴い善です。

悪ばかり造っている親鸞会幹部が善を勧めるのはおかしいのです。彼らの目的は後生の一大事の解決の他にあるのです。
過去記事と、「飛雲」もよく読んで早く退会することをお勧めします。

「念仏行と布施行と両方したほうが優れているのでは?」と思う勿れ。
布施のために心を悩ます時間もすべて念仏行に当てましょう。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 23時35分

故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」(歎異抄・六)とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。(御文章一帖)


「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。」

親鸞聖人の教えは釈尊の教えそのものです。

なので、浄土真宗でも信前、信後問わず善が勧められています。

すべての仏の教えを以下に示します。


「諸悪莫作(しょまくまくさ)

 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 自浄其意(じじょうごい)

 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」

読み下しますと、

「諸悪莫作(もろもろの悪をなすことなかれ)

 衆善奉行(いろいろの善を行いたてまつれ)

 自浄其意(自らその心をきよめなさい)

 是諸仏教(これがすべての仏の教えである)」

これは七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)といわれます。

有名な言葉で、中国や台湾の人にはよく知られています。

端的に言うと、

悪いことはやってはいけませんよ、

謹んで善を修めなさい

ということです。

すべての仏の教え、ということは、言葉を換えれば、

どんな宗派でも仏教と名がつく限り、

必ずこれを教えているということです。

共通している教え。

これを教えない仏教はない、ということです。

投稿: 浄土真宗=仏教 | 2015年9月 2日 (水) 23時42分

要は往生のためには念仏一つか、布施行が必要か、という問題です。
法然上人・親鸞聖人ともに念仏一つと仰せです。

往生を目的としない修善は大いにするべきですが、往生の役にも、獲信の役にも立ちません。

高森先生の信頼厚い幹部講師は親鸞会とともに沈没して下さい。

迷っている学徒は「飛雲」をよくご覧ください。

繰り返しますが、後生の一大事の解決をしたい方は、布施行に使う時間をすべて念仏行に当てることをお勧めします。

投稿: | 2015年9月 2日 (水) 23時55分

>「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。」

親鸞聖人の教えは釈尊の教えそのものです。

なので、浄土真宗でも信前、信後問わず善が勧められています。


その通りです。

「善の勧め」を否定される方々は、真宗求道者みならず、仏教関係者すべてを惑わせることになってしまっているのです。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 3日 (木) 00時06分

親鸞会の善のススメに従い財施をするために高齢者からお金をだましとった豊田商事の永野会長は公開惨殺されました。親鸞会の善のススメの模範的実践者の哀れな結末です。善のススメに従えば従うほど永野会長のように悲惨な最後を迎えるのでしょう。浄土真宗=仏教さんは親鸞会の善のススメに従った永野会長のようになりたいですか?あなたが悲惨な最後を遂げていないのは幸いにもまだ善のススメに完全には従っていないからでしょう。これでもまだ善のススメと称してお金を搾り取る活動に今以上に力を注ぎますか?これだけ言われても善のススメに従うなら、あなたは勝手にすればよいが他人さまを巻き込んでもうこれ以上被害者を出さないと約束して下さい。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 00時11分

浄土真宗=仏教さんへ

先ほど『行巻』のお言葉を示しましたが、速やかに生死を離れようと欲う人に対して「雑行の勧め」はありません。勧められているのは、正定業である称名念仏一つです。

また、親鸞聖人は、釈尊の教えを、端的に、
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教巻)
と教えられています。

あなたは、
三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)
を盛んに挙げて、「善の勧め」を主張していますが、この方便は、随他意の権仮方便です。

「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。」(歎異抄)とあるように、権仮方便を捨てて、真実を取るのが親鸞聖人の御本意です。
権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。

投稿: 横から | 2015年9月 3日 (木) 00時13分

浄土真宗では信前、信後問わず、善が勧められています。
このことは七仏通戒偈でだれもが認めている事実です。

そのことを踏まえて、

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

この弥陀の十九願の深意を解明されたのが、釈迦一代の教えであると親鸞聖人は断言なされたのである。

問題は『浄土和讃』の意味ですが、これは十九願で勧める善、つまり定散二善の説明で、言い換えると雑行の説明をされただけのことです。

雑行の最も根本的な定義は『選択本願念仏集』にあります。


初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。『選択本願念仏集』

(現代語訳)

初めに往生の行相を明かすというのは、善導和尚の意によると、往生の行は多いけれども大きく分けて二つとする。一つには正行、二つには雑行である。

雑行とは「往生の行」だということです。
これを『教行信証』化土巻にもう少し詳しく説明されています。


それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。『教行信証』化土巻

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。


「これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから」

「これらの行を浄土往生のための善としなければならないから」

つまり、阿弥陀仏の浄土に往生する因ではないが、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないということです。
助かろうと思って行う善を「雑行」と言いますが、「雑行を捨てよ」とは、
「助かろうと思う心=自力の心」を捨てることであって、善をするな、しなくなる、ということではありません。

自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。

「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける (十九願)」(浄土和讚)

しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)

投稿: 浄土真宗=仏教(七仏通戒偈) | 2015年9月 3日 (木) 00時50分

>浄土真宗では信前、信後問わず、善が勧められています。
このことは七仏通戒偈でだれもが認めている事実です。

そのことを踏まえて、

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

この弥陀の十九願の深意を解明されたのが、釈迦一代の教えであると親鸞聖人は断言なされたのである。


仰るとおりです。


>「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。」(歎異抄)とあるように、権仮方便を捨てて、真実を取るのが親鸞聖人の御本意です。
権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。


このような誤解を危惧されたのが、蓮如上人でありました。あなたに限らず、昔から学ある方々の間でさえ、繰り返されてきた誤謬です。
私もあなたの立場なら、決して気分のよいことではありませんが、間違いは正さねばなりません。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 3日 (木) 01時24分

「三経の方便」とは、「権仮方便」です。即ち、成仏したいと願う人がひとたび「18願こそ求めるべき真実だ」と気付いた時には廃捨されるべきものです。だから、親鸞聖人から18願真実と聞かされ、そうに違いないと思っている人には既に必要ないものです。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 01時24分

>「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。」(歎異抄)とあるように、権仮方便を捨てて、真実を取るのが親鸞聖人の御本意です。
権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。


仏教で方便とは、我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言います。

したがって、
「権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。」

という発言は、
3階(18願)に行きたくてエレベーターに乗って(仏教を信じ)3階のボタンを押せば、1階、2階(19願、20願)を通らずに3階(18願)に行けると思っているようなものです。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 01時48分

仏教徒さん

七仏通戒偈は小乗仏教や禅宗で【重視】されている教えですがなぜ浄土真宗では【重視】されて来なかったのでしょうか?それとも浄土真宗で【重視】された過去の歴史があるのでしょうか?

投稿: 七仏通戒偈を実践できない人のために阿弥陀様が立ち上がられた | 2015年9月 3日 (木) 01時55分

浄土真宗=仏教(七仏通戒偈)さま

高森会長は大沼法龍氏、伊藤康善氏の著書を無断盗用して(多額ではないと思いますが)収入を得ています。この行為を浄土真宗の立場から見てどのようにお考えですか?是非ともお答え頂きたい。

投稿: 永野 | 2015年9月 3日 (木) 07時09分

》助かろうと思って行う善を「雑行」と言いますが、「雑行を捨てよ」とは、
「助かろうと思う心=自力の心」を捨てることであって、善をするな、しなくなる、ということではありません。

◯ なんでまたわざわざ助かろうと思って行う「善」ぜん、と言い出すの?書きたければ「行為」と書けばどうですか。
親鸞会の人間は、善は財施、金ですから、どうしても譲れませんよね。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 07時17分

》「三経の方便」とは、「権仮方便」です。即ち、成仏したいと願う人がひとたび「18願こそ求めるべき真実だ」と気付いた時には廃捨されるべきものです。だから、親鸞聖人から18願真実と聞かされ、そうに違いないと思っている人には既に必要ないものです。

◯ その通りです。しかし親鸞会の人間は権仮方便の意味を知りません。まず助かっていませんから沢山金を出すと、「よく頑張られましたね〜」と、雑行を褒めちぎりますから会員の頭は金を出す事が助かると「意図的に勘違い」させられています。つまり、雑行をやればやるほど助かるから頑張って雑行をやりたい訳です。組織側にしたら
してやったりな訳です。
このどうしようもない無限ループに陥っていますからボロ雑巾になるまで頑張って、最後に捨てられるまで分かりません。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 08時10分

》したがって、
「権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。」

という発言は、
3階(18願)に行きたくてエレベーターに乗って(仏教を信じ)3階のボタンを押せば、1階、2階(19願、20願)を通らずに3階(18願)に行けると思っているようなものです。

◯ この発言こそ迷いですよね。どうしても1.2.3という順番でしか分からない。頭が逆さまだから、逆立ちでもして見せないといけなくなる。人間の頭は逆さま、という意味が分かっていません。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 08時18分

浄土真宗=仏教(七仏通戒偈)さま 仏教徒さま

都合が悪くなると答えずに逃げますね。こちらのブログのネーミングを見て会側のコメントをするのなら逃げない覚悟をして下さい。もし逃げるのならば最初から来ないでほしいです。様々な退会者のブログを見て、会員と思われる人のコメントは教義以外でも、宗教人以前の人間として疑わざるを得ないものがあります。会の教えを聴いているとこんな人間が育つのかと思われ、その中にいたことが恥ずかしいです。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 09時22分

18願だけで救済できるなら、弥陀はわざわざ
19願、20願を建立されない。

親鸞聖人ご自身も三願転入されたと教行信証に仰っている。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 11時01分

そして、弥陀の19願の御心を説くために釈迦が地球にお生まれになり善の勧めを説き、聖道門の人が現れたのね。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 11時20分

>18願だけで救済できるなら、弥陀はわざわざ
19願、20願を建立されない。

→自称求道者の味わいですね。まずはアジャセの件、答えて頂きましょうか。思い出しましたがもうずっと逃げたままですよ。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 11時46分

>親鸞聖人ご自身も三願転入されたと教行信証に仰っている。

なるほど。親鸞聖人と同じ道程を進むならばまずは天台宗に入門して修行三昧すべきと思いませんか?しんどくて嫌ですか?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 12時11分

》18願だけで救済できるなら、弥陀はわざわざ
19願、20願を建立されない。

親鸞聖人ご自身も三願転入されたと教行信証に仰っている。

◯ まだ言っているの?
救われないなあ。他人事のコメントばかりで、我が身にかかって無いからですよ。
親鸞聖人が三願転入されたと言われるのだから、自分のいう意見は正しいと言われるならば、直ぐ比叡山へ行きなさいと言ったはずです。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 12時14分

>誰が「善を勧め」誰が「善を足そうとする」のでしょうか?


阿弥陀如来、お釈迦様が共に、「善を勧め」られ、この弥陀の本願のお導き、釈迦のご教導により、「凡夫自力の迷情心」が、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とするのです。

問題は、「善」にあるのではなく、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とする、自力心にあるのです。

この自力の心(雑行)を、捨てるのです。

自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

「善の勧め」は、信前・信後を問わず、一貫して現存するのです。

なぜかというと、浄土真宗は仏教だからです。

「善の勧め」がないものを、「仏教」とは呼べません。

仏教・浄土真宗・親鸞聖人の御教えに、「善の勧め」は、あります。


>◯ 問題は「善」に無いと自分が言った事をお忘れなく!


自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 3日 (木) 12時30分

久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(親鸞聖人・弥陀和讃)

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 3日 (木) 12時35分

》自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

◯ だから親鸞会のいう善で助かるの?
弥陀の浄土に生まれたいと思うて行ずる善を、なに往生というの?

そもそも、自分が助かっていないのにコメント出来ること自体、心に矛盾起こしませんか?
バレないとでも思っているのですか?バレなければいいと思っているのかもしれませんが、まるまるバレているんですよ。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 12時41分

》阿弥陀如来、お釈迦様が共に、「善を勧め」られ、

◯ 書かれると思いましたよ。いつの間にやら、この方は自称仏様になってしまいました。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 12時47分

◯ いつも不思議に思うんですけどね、親鸞会の人間は助かる気があるの?助かる気があるならば、呑気なコメントやら、誰が書いているんだ?やら上司にオーバーにくだらない報告に躍起になってる場合では無いでしょ?楽しんでいるのならば、その行為が意味する事くらい、頭が良いならば分かるでしょう。

◯ 助かる気はさらさらないけど、口にだけ助かると虚しく言い、求道者まがいのつもりで組織の中でリークと戦争ゴッコして生きてだけいる、こういう事ですか。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 13時06分

仏教徒様

高森会長は大沼法龍氏、伊藤康善氏の著書を無断盗用して(多額ではないと思いますが)収入を得ています。この行為を仏教徒のお立場から見てどのようにお考えですか?是非ともお答え頂きたい。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 13時54分

>そもそも、自分が助かっていないのにコメント出来ること自体、心に矛盾起こしませんか?
バレないとでも思っているのですか?バレなければいいと思っているのかもしれませんが、まるまるバレているんですよ。

>◯ その善行で往生できませんて。あなたが実際今救われて無いじゃない。だから善行がいるやら善のススメやらと条件付けなきゃならない事になっているじゃない。


投稿: | 2015年8月31日 (月) 18時52分
こちらで、私の拙い信仰告白はさせて戴きました。
善の勧めも変わりませが、自惚れ心も変わることはありません。心に鞭打って暇がありません。

あなたはそこらじゅうで、誰かれ問わず
「どうせ助かっていない」
「どうせ救われていない」
と同朋の方々を責めておられるようですが、
おかしいと思います。

あなたの口より出でる念仏は、いずれのお念仏でしょう。

また、

久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(親鸞聖人・弥陀和讃)

阿弥陀仏に使命を託された釈迦の、善を勧めておられない箇所があれば教えてください。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 3日 (木) 13時58分

仏教徒さま

永野会長は自分自身やっていた悪業に気づいていたが、親鸞会の善のススメの教えを聴いて、この教えなら悪人の自分も助かるかもしれないというホンのわずかな、そして絶対に手離せない望みを掛けて、会に言われるまま財施し、極楽往生を願ったのでしょう。
そして永野会長は突然惨殺された。そのトタンに会は知らんぷりで会員には「マスコミに聴かれても知らぬ存ぜぬを通せ」と箝口令。
仏教徒のお立場から見て騙した側、騙された側、どちらの会長が悪ですか?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 14時05分

》あなたはそこらじゅうで、誰かれ問わず
「どうせ助かっていない」
「どうせ救われていない」
と同朋の方々を責めておられるようですが、
おかしいと思います。

真実信の人を責めた事は一度もありませんよ。
それより、
「どうせ」助かっていない、
の「どうせ」と思っているのはご自身では?
「どうせ」などという予想で異安心扱いしてはばからないのは親鸞会の人間ですね。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 14時07分

》あなたはそこらじゅうで、誰かれ問わず
「どうせ助かっていない」
「どうせ救われていない」
と同朋の方々を責めておられるようですが、
おかしいと思います。

→ 親鸞会に在籍し信心決定したという人は喜ばれるどころか、異安心扱いされ、結局除名されます。酷い仕打ちに遭う人を見ました。【同朋の方々を責めて本当におかしいですね。】会員にとって、会長以外の信心決定は許されないのでしょう。そして会長に気にいられるためには会員同士が足の引っ張り合いとこれまた醜い。これが善のススメを実践する団体の正体かも知れません。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 14時21分

》→ 親鸞会に在籍し信心決定したという人は喜ばれるどころか、異安心扱いされ、結局除名されます。酷い仕打ちに遭う人を見ました。【同朋の方々を責めて本当におかしいですね。】会員にとって、会長以外の信心決定は許されないのでしょう。そして会長に気にいられるためには会員同士が足の引っ張り合いとこれまた醜い。これが善のススメを実践する団体の正体かも知れません

◯ 全くこの通りですよ。

仏教徒さん、少しでもあなたの組織の酷さが認識できたならば、傷が浅いうちに何とかすべきです。真面目に浄土真宗の真実信を、と言われるならば応援してくれる人は沢山あるんですよ?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 14時36分

会長に気に入られるために我こそ!と争う会員達。

まさに蜘蛛の糸のカンダッタの如し。

これで善のススメと語るのだから滑稽であり、善のススメに従えばそうならざるを得ない哀れな人達である。

仮に、あなたはカンダッタから善のススメを聴いたら、まともに聴けますか?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 14時51分

「とある講師から(参詣目標のある)聴聞の誘いを受けた」と会員から聴いたことがあります。

「今回の聴聞に来れば今まで行ったことを水に流してやる。」と言われたそうです。これが善のススメを強調する団体の正体です。善のススメに従い、誘う講師でさえ、会員の後生ではなく、自分の目標達成が優先です。「今までの行いの罪滅ぼし」と「聴聞の参詣」の取引の持ち掛けです。こんな気持ちで聴聞にのぞんでいるのでしょうか。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 15時12分

》「今回の聴聞に来れば今まで行ったことを水に流してやる。」と言われたそうです。

◯ 恐ろしいです。これ事実ならば会員の私生活をいつも監視下に置き、会員の弱みを握ってバラすぞと脅してコントロールしている事になります。
もはや「善のススメ」という言葉は「悪事の隠れ蓑」として利用されているではありませんか。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 17時05分

》18願だけで救済できるなら、弥陀はわざわざ
19願、20願を建立されない。

親鸞聖人ご自身も三願転入されたと教行信証に仰っている。

>◯ まだ言っているの?
救われないなあ。他人事のコメントばかりで、我が身にかかって無いからですよ。
親鸞聖人が三願転入されたと言われるのだから、自分のいう意見は正しいと言われるならば、直ぐ比叡山へ行きなさいと言ったはずです。

誰が比叡山で修行しなければならないと言いましたか?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 18時54分

親鸞聖人は、龍樹菩薩は初地までさとられて、18願に救われたと教行信証等に仰っている。

親鸞聖人は、曇鸞大師は仙人の教えに迷われた後、18願に救われたと教行信証等に仰っている。

親鸞聖人は、阿闍世は善をせず、仏法も聞いたことがないまま、18願に救われたと教行信証に仰っている。


いろんな道程を親鸞聖人は仰って、結論は三願転入する必要がない、ということでしょ。
だって、教行信証以外に三願転入のことを仰っていないのは親鸞会も認めている訳だし、実際一字一涙の重いで書かれた正信偈にも三願転入はない、教行信証を要約された浄土文類聚鈔にも三願転入はないよ。

覚如上人も蓮如上人も三願転入の文を引用されたことが全くないし。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 3日 (木) 19時06分

>誰が比叡山で修行しなければならないと言いましたか?

親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 19時10分

時系列順に並べます。

弥陀が我々を救うため48の誓いを建てられた。
名号を成就なされた。
48の本願の中で、すべての人と誓われたのは、18願、19願、20願のみ。

その後、釈迦が地球にお生まれになられた。
弥陀の使命を果たすため、善の勧めを地球の人間に説かれた。つまり先生の弥陀の19願の御心を説かれたのである、
その釈迦の善の勧めの教えを聞いて、善を行う聖道門の人が現れた。

そして、日本に親鸞聖人がお生まれになり、真実を開顕なされた。
親鸞聖人は18願に進むには19願、20願が必要だと説かれた。

もし、19願が不要なら、釈迦は地球にお生まれになる必要はなかったことになり、親鸞聖人も釈迦の教えを伝える必要がなかったことになる。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 20時16分

>>>誰が比叡山で修行しなければならないと言いましたか?

>親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。

→親鸞学徒からのお答えがありません。ひとつは聖人と同じ道程を選択し、比叡山に行き天台宗に入門する。あとのひとつは天台宗に入門せずに聖人とは別の道を歩む。このままお答えがなければ、学徒は迷って答えが出せないという結論とさせて頂きます。答えられないのも立派な選択かも知れません。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 20時27分

時系列順に並べます。

聖道門によって仏に成られた方が現れた。
聖道門で仏に成れない衆生のために
弥陀が我々を救うため48の誓いを建てられた。
名号を成就なされた。
48の本願の中で、すべての人と誓われたのは、18願のみ。
19願と20願では、漏れている人がいる。

その後、釈迦が地球にお生まれになられた。
釈迦は、聖道門を釈迦の在世、正法の時機のために説かれた。
弥陀の使命を果たすため、聖道門では救われない人間に浄土門を説かれた。
聖道門と18願とは隔たりが大きすぎるので、その中間としての19願、
つまり先生の弥陀の19願の御心を定散二善を説かれたのである、

そして、日本に親鸞聖人がお生まれになり、真実を開顕なされた。
親鸞聖人は18願に進むには19願、20願は不要だと説かれた。
19願は、聖道門についていけない人のためののものと親鸞聖人は説かれた。

もし、19願が全人類に必要なら、釈迦は浄飯王にも阿闍世にも19願を説かれたことになるが、説かれていないと親鸞聖人も仰って、19願を伝える必要がなかったことになる。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 3日 (木) 20時33分

親鸞会は答えられない事が多過ぎて、
これから益々情報を捻じ曲げ他の書籍を読ませず、会員さんには、
また「頑張られましたねえ」と財施を褒めちぎり、気持ちよくなった会員はますます嵌ってなけなしの金を出す。雑行を棄てよ、どころか雑行の上塗りをさせる。
自力も然り。自力に自力の上塗りで頑張ったつもり。で?
助かったんですか?と聞けない親鸞会の雰囲気。あれだけ信心の沙汰をせよ、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をせよと言われても全く出来ない。罪の有る無しの沙汰ばっかりに余念が無い。
会員さんに聞けば、「元気が出ました!」などと
見当違いの答えが出る。

なんっにも分からんのは、親鸞会でしょ。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 21時30分

>>>誰が比叡山で修行しなければならないと言いましたか?

>親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。

→親鸞学徒からのお答えがありません。ひとつは聖人と同じ道程を選択し、比叡山に行き天台宗に入門する。あとのひとつは天台宗に入門せずに聖人とは別の道を歩む。このままお答えがなければ、学徒は迷って答えが出せないという結論とさせて頂きます。答えられないのも立派な選択かも知れません。

→→→これだけ催促しても親鸞学徒からのお答えがないようなので、答えられないという結論が出ました。すべての人は聖人と同じ道程を進まなければ信心決定できないと言いながら、自らは同じ道程を進む、と宣言できないのが貴方です。そしてそんな決断ができない貴方を無条件で必ず助けてみせると誓われたのが18願の救いです。阿弥陀様のお慈悲にあれこれ理屈をつけずにそのまま受け容れて下さい。それ以外に救われる道はこの世にありません。

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 21時42分

浄土真宗=仏教(七仏通戒偈)様、仏教徒様へ

『「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。」(歎異抄)とあるように、権仮方便を捨てて、真実を取るのが親鸞聖人の御本意です。
権仮方便の教えを捨てて、真実の教えを聞いてください。』

ということが受け入れられないようですね。会員の人は権仮方便と善巧方便の違いを知らないので、少し補足しておきます。

蓮如上人は、方便について、
蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。 (御一代記聞書)
と教えられています。

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」と言われている方便が権仮方便です。
(権仮)方便を説かれたのは真実を顕かにされるためであって、(権仮)方便は廃すべきものであり、真実は立てるべきものであることを「方便をもつて真実をあらはす廃立の義」と蓮如上人は言われました。
『教行信証』に当てはめれば、化土巻を説かれたのは、教、行、信、証、真仏土巻の前五巻を明らかにされるためであり、化土巻で教えられた聖道門、要門(19願)、真門(20願)は捨てるべきものであるということです。

次の「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」の方便は、文字通り、善巧方便であって、権仮方便ではありません。そして、この善巧方便は、廃捨してはいけません。
また、「権仮方便によって真実の信をうる」とは、決して教えられていません。あなた方が散々主張している19願、20願といった権仮方便を通って真実の信心をうるというようなことは教えられていないのです。

では、「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便」とは何か?
コメント欄なので詳しくは書けませんが、弥陀の善巧方便について教えられた親鸞聖人のお言葉を一つ挙げると、
諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。(親鸞聖人御消息)
と、17願について教えられています。この「方便の御誓願」の方便が善巧方便です。17願によって回向される名号によって、真実の信心が発起せしめられるのです。

なお、権仮方便と善巧方便については、以下のサイトが参考になると思います。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A3%9C%E8%A8%BB15

投稿: 横から | 2015年9月 3日 (木) 23時09分

雑行は廃ったかい?

「自分で意識して捨てた、意識してあえてしない」
ではなく、

完全に廃ったかい?

投稿: | 2015年9月 3日 (木) 23時53分

プロセスとなる雑行がある

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 00時11分

善でも、浄土を願って善をするから雑行になるの。

そして救われたら、浄土を願って行った善がプロセスになるの。

浄土を願って善をするという雑行は完全に廃るのね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 00時22分

20願は、一心不乱に念仏称えると会長が言っていますが、雑行は廃ってないのね。

雑行は廃らないのに一心不乱とはどんな状態ですかね。

それとも19願から20願を通らずに18願に入るのですか?

二願転入ですね(笑)

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 05時29分

雑行の目的は獲信だが、行いには色々あるの。

獲信のために行わなければならない雑行(プロセスとなる雑行)と、
行ってはいけない雑行(弥陀以外の仏や神を拝むとか)
があるのよ。

そして、獲信のために行わなければならない雑行(プロセスとなる雑行はこれね。

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

善でも、浄土を願って善をするから雑行になるの。

そして救われたら、浄土を願って行ってきた善がプロセスになるの。

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけるもの

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)

救われたら、浄土を願って善をするという雑行は完全に廃るのね。(プロセスになるのね)

雑行を勧めてるんじゃないのよ。
雑行が完全に廃るのを勧めてんのよ。

「善の勧め」の意味分かった?

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 07時11分

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)


親鸞聖人が選んだ雑行はこれね。

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

善でも、浄土を願って善をするから雑行になるの。

そして救われたら、浄土を願って行ってきた善がプロセスになるの。

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 07時21分

雑行を勧めてんじゃないのよ。
雑行が完全に廃るのを勧めてんのよ。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 07時22分

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。(口伝鈔)

されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

過去世(現在世も含む)に善をしたかどうかは、往生にとっては得にも損にもならない訳ですよ。

要するに、雑行=諸善は往生、獲信のプロセスにはならないと断言されている訳。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時38分

悪人は、雑行が完全に廃る以前に、雑行をしないのよ。
その悪人が善をせずに往生するというのが、大経の下輩、観経の下品の御文になる訳よ。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時43分

浄飯王も阿闍世も、釈尊から善を勧められていない訳よ。
浄飯王破釈尊に、「なぜ私に善を勧められないのですか」と尋ねたくらいだからね。
阿闍世も善も仏法も聞いてこなかった「無根だ」と告白しているのよ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時46分

》雑行を勧めてんじゃないのよ。
雑行が完全に廃るのを勧めてんのよ。

◯ 親鸞会の人は雑行廃るほど頑張ってないから救われないの?その「善」が足らんから。
廃るまでいくら払えばいいの?
家を売ってアパートに住んでも頑張られましたねえ、でお終いですよ。
そもそも、人間の側から雑行廃るまで「善をススメ」が、ん、ば、る、て、どういう意味ですか?

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 08時45分

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、永遠に往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 08時50分

「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて、早く開くる、人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に、信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」(御一代記聞書)

宿善厚い方が早く宿善開発(雑行が廃り、信心獲得)できるということ。
宿善は厚くできるってことが分かるよね?

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 09時07分

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

その通り。宿善の厚い薄いは往生とは無関係ってことね。
それだけ分かれば十分でしょ。宿善薄いままで往生できる。

「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)

宿善が有る無し関係ないんだよ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 09時30分

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)


このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。


『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども


ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり


に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり


に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。勧められていることは、


信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり


です。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 09時32分

>宿善厚い方が早く宿善開発(雑行が廃り、信心獲得)できるということ。
>宿善は厚くできるってことが分かるよね?

こんな意味じゃないってことが分かるよね?日本の義務教育を受けてきた人なら。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 09時34分

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

存命のうちに宿善まかせです。

「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて、早く開くる、人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に、信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」(御一代記聞書)

宿善が厚くなり宿善開発(雑行が廃り、信心獲得)できるということ。
宿善は厚くできるってことが分かるよね?

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

現在世で(存命のうちに)宿善を厚くし信心決定しなさいということです。

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

これは蓮如上人のご遺言ですが、存命のうちに宿善まかせ、つまり宿善を厚くし信心決定しなさいということです。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 09時53分

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

存命のうちに宿善まかせです。

「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて、早く開くる、人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に、信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」(御一代記聞書)

宿善が厚くなり宿善開発(雑行が廃り、信心獲得)するということ。
宿善は厚くなることが分かるよね?

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

現在世で(存命のうちに)宿善を厚くし信心決定しなさいということです。

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

これは蓮如上人のご遺言ですが、存命のうちに宿善まかせ、つまり存命のうちに宿善を厚くし信心決定しなさいということです。

投稿: 雲飛 | 2015年9月 4日 (金) 09時56分

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

これは蓮如上人のご遺言ですが、存命のうちに宿善まかせ、つまり存命のうちに宿善を厚くし早く信心決定しなさいということです。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 10時08分

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

その通り。宿善の厚い薄いは往生とは無関係ってことね。
それだけ分かれば十分でしょ。宿善薄いままで往生できる。

「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)

宿善が有る無し関係ないんだよ。


これ読んだ?

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 10時30分

悪人は、雑行が完全に廃る以前に、雑行をしないのよ。
その悪人が善をせずに往生するというのが、大経の下輩、観経の下品の御文になる訳よ。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

これ読める?

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 10時31分

これも読んでね。


「飛雲」から親鸞会への教義非難
8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


これに反論した親鸞会の回答
 なし

ダンマリの親鸞会に示した問答
「飛雲」の問答

問い
宿善とは宿世の善根ということで、過去世に善をどれだけしてきたかによって、早く救われるかどうか決まってくるから、現在世でも善をしていくことが早く救われる近道です。


答え


宿善の理解がデタラメです。通仏教では宿善は宿世の善根という意味ですが、この意味での宿善と18願の救いとは関係ありません。
法然上人は「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)と仰っています。
親鸞聖人のお言葉として覚如上人が「機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。」(口伝鈔)と紹介されています。
宿世の善根は、報土往生のプラスにもマイナスにもならないと断言されています。

問い


因果の道理から言っても、宿善の薄い者より、宿善の厚い者が先に救われるに決まっているではないですか。


答え


覚如上人は親鸞聖人のお言葉を承けられて、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」(口伝鈔)と教えられました。
宿善を過去世の善根という意味で、宿善の厚薄は過去の因とし、往生という大きな利益は阿弥陀仏のお力にすべてをお任せするのであって、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まるのではない、ということです。つまり、高森会長の説く因果の道理と18願の救いとは無関係です。

問い


蓮如上人は、「陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。」(御一代記聞書)と仰っているように、宿善の厚薄によって、早く救われるか遅く救われるか決まるのではないですか。


答え


これは蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』の一節を言い換えられたものです。「仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。」とあるように、『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」とは、『安心決定鈔』の「衆生がこのことわりをしること不同」の言い換えですから、ここでの「宿善」とは「信心決定」のことです。
実際、『御一代記聞書』には「当流には信をとることを宿善といふ。」ともあります。
過去世の善根の厚薄によって、信心決定の遅速が決まるということではありません。信心決定に遅速があるから往生にも遅速がある、という意味です。

問い


では信心決定の遅速は、過去世の善根の厚薄以外に何で決まると言うのですか。


答え


このことについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰っています。また「上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。」(同)とも仰っています。
過去世の善根の厚薄で18願の教えを聞いたり聞けなかったりするような単純なものではないということです。
源信僧都でさえ判らないと仰ることを明言できるのは、仏智でも体得したつもりでしょうか。

問い


仏智を体得せられた高森先生が「諸善は信心獲得の因縁なり」と教えられているのです。善をしないで信心獲得することは、ありえないです。


答え


善導大師は悪人の定義を「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観無量寿経疏)とされています。高森会長の好きな「あることなし」です。過去世においても善をしてこなかった悪人が、念仏で往生できる、と善導大師が教えられたのですが、高森会長の説では、悪人は18願によっても救われることは絶対にないことになります。しかも、全人類は悪人、と高森会長は断言しています。
親鸞聖人が、「阿弥陀仏の浄土から出られた方」と尊敬された善導大師の解釈を完全否定する智慧を体得したのが、高森会長ということですね。

問い


蓮如上人は『御文章』で「いずれの経釈によるとも、既に宿善に限れりと見えたり」(3帖目第12通)、「弥陀に帰命すというとも、信心獲得すと言うとも、宿善にあらずということなし」(4帖目第1通)、「無宿善の機に至りては力及ばず」(4帖目第8通)、「まことに宿善まかせ」(4帖目第15通)と、信心決定は宿善の有無によって決すると教えられているではないですか。


答え


蓮如上人が仰っている宿善は、過去世の善根の意味ではありません。
たとえば3帖目第12通には、「それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。」とあります。親鸞聖人の教えを信じられる人が宿善の有る人で、親鸞聖人の教えを信じられない人は宿善の無い人になります。
要するに蓮如上人が仰っていることは、信心決定は親鸞聖人の教えを信じられるかどうかによって決する、ということです。

問い


法然上人は、「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」(和語灯録)と仰っているように、「頓機」は弥陀の救いに頓くあえる宿善の厚い人、「漸機」は救いにあうのが遅い宿善の薄い人があると教えられているではないですか。


答え


根拠の捏造です。『和語灯録』にそんなことは全く書かれていません。「頓機」「漸機」とあるは『往生浄土用心』ですが、そこには「頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように」とあります。教えの理解に早い人と遅い人があるが、理解の遅い人も浄土往生できる、という意味です。
判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです。

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 10時32分

親鸞聖人以前の宿善=過去世の善根

蓮如上人の仰る宿善=信心 or 親鸞聖人の教えを聞く気があるかどうか

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 10時34分

過去世、現在世に善を全くしてこなかったし、する気もないものが、念仏称えただけで往生できるというのが、18願。

そこに文句をつけたのが聖道門で、現在世では善をしていなくても、過去世に必ず善をしてきた人だ、と言った訳ですよ。


それに反論されたのが善知識方で、善導大師は下品の往生とは

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

が念仏称えて往生することだと、過去世の善根もないことを断言されている訳ですよ。

法然上人も、「宿善のあるなしを沙汰せず」と仰り、親鸞聖人も継承された。もちろん、蓮如上人も。


善が必要だなんているのは、聖道門の発想。それを完全否定されたのが善知識。

高森会長が悪知識だってことがよくわかったでしょ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 10時48分

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)


親鸞聖人が選んだ雑行はこれね。

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

善でも、浄土を願って善をするから雑行になるの。

そして救われたら、浄土を願って行ってきた善はプロセスになるの。

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの。

雑行を勧めてんじゃないのよ。
雑行が完全に廃るのを勧めてんのよ。

すべての人に。

投稿: 雲飛 | 2015年9月 4日 (金) 11時05分

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。(口伝鈔)

されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

過去世(現在世も含む)に善をしたかどうかは、往生にとっては得にも損にもならない訳ですよ。

要するに、雑行=諸善は往生、獲信のプロセスにはならないと断言されている訳。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時38分

悪人は、雑行が完全に廃る以前に、雑行をしないのよ。
その悪人が善をせずに往生するというのが、大経の下輩、観経の下品の御文になる訳よ。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時43分

浄飯王も阿闍世も、釈尊から善を勧められていない訳よ。
浄飯王破釈尊に、「なぜ私に善を勧められないのですか」と尋ねたくらいだからね。
阿闍世も善も仏法も聞いてこなかった「無根だ」と告白しているのよ。

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 07時46分

投稿: 詭弁 | 2015年9月 4日 (金) 11時12分

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

存命のうちに宿善まかせです。

「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて、早く開くる、人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に、信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」(御一代記聞書)

宿善が厚くなり宿善開発(雑行が廃り、信心獲得)するということ。
宿善は厚くなることが分かるよね?

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

宿善の薄い人、厚い人共に現在世で(存命のうちに)宿善を厚くし早く信心決定しなさいということです。

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

これは蓮如上人のご遺言ですが、存命のうちに宿善まかせ、つまり存命のうちに宿善を厚くし早く信心決定しなさいということです。

2015/09/04 9:56:04

「あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
(4帖目15通)

これは蓮如上人のご遺言ですが、存命のうちに宿善まかせ、つまり存命のうちに宿善を厚くし早く信心決定しなさいということです。

2015/09/04 10:08:20

投稿: 雲飛 | 2015年9月 4日 (金) 11時18分

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。(口伝鈔)

「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

宿善の薄い人、厚い人共に現在世で(存命のうちに)宿善を厚くし早く信心決定しなさいということです。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 11時20分

日本語の分からない低知能の人は、相手にしない方が良いですよ。

荒らしが目的だけだから

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 11時26分

>時系列順に並べます。

聖道門によって仏に成られた方が現れた。
聖道門で仏に成れない衆生のために
弥陀が我々を救うため48の誓いを建てられた。
名号を成就なされた。
48の本願の中で、すべての人と誓われたのは、18願のみ。
19願と20願では、漏れている人がいる。

その後、釈迦が地球にお生まれになられた。
釈迦は、聖道門を釈迦の在世、正法の時機のために説かれた。
弥陀の使命を果たすため、聖道門では救われない人間に浄土門を説かれた。
聖道門と18願とは隔たりが大きすぎるので、その中間としての19願、
つまり先生の弥陀の19願の御心を定散二善を説かれたのである、


19願が先にあり、その後地球で聖道門が生まれましたが。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 12時01分

◯ ワロタ。名前を変えたら中身を信じる親鸞会。
なんでもかんでも高森会長の話を訳も分からず深い御心とやらで誤魔化しているから、こーなる。
高森会長は水戸黄門の印籠だもんね、だけど社会では印籠にもならんので。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 12時10分

>悪人は、雑行が完全に廃る以前に、雑行をしないのよ。
その悪人が善をせずに往生するというのが、大経の下輩、観経の下品の御文になる訳よ。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。(観経疏)

これ読める?

あんたは悪人かい?悪人まで進んだかい?

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 13時47分

>「かつての機が悪い(宿善が薄い)から、現在世で往生できない。
かつての機が善い(宿善が厚い)から、現在世で必ず往生できる。」
って考えるなって意味ね。

その通り。宿善の厚い薄いは往生とは無関係ってことね。
それだけ分かれば十分でしょ。宿善薄いままで往生できる。

「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)

宿善が有る無し関係ないんだよ。


これ読んだ?

(過去の)宿善が有る無しが往生に関係ないんだよ。

過去の宿善が薄くても、現在世で厚くなれば往生できる。
逆に過去の宿善が厚くても、現在世で更に厚くしなければ往生できない。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 13時53分

◯ 宿善が厚くなる方法を列記してみて下さい

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時00分

◯ もう一つ答えてみて下さい。

》あんたは悪人かい?悪人まで進んだかい?
一つの善も出来ませんでしたー!曽無一善は機の深信なの?答えてみて下さい。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時06分

宿善には開発がある。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時36分

仏教徒さま

お答え下さい。

ひとつとせ 善のススメと言いながら 断わりゃ地獄と脅されて 【絶対の財施】だったとは ホンに今まで知らなんだ

ふたつとせ 善をしなけりゃ地獄行き 財施するなら今でしょ、と 今この場所がもう地獄 ホンに今まで知らなんだ
(元会員悲惨述懐数え唄)

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時41分

聴聞、お勤め、六度万行

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時58分

宿善開発は待つにあらず

「『時節到来』という事、用心をもして、其の上に、事の出来候を『時節到来』とはいうべし。
 無用心にて、事の出来候を『時節到来』とは、いわぬ事なり。
聴聞を心がけての上の『宿善、無宿善』とも、いう事なり。
 ただ、信心は聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候」(御一代記聞書)

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 14時59分

浄土真宗=仏教(七仏通戒偈)様、仏教徒様へ

高齢者を悪徳商法で騙しお金を巻き上げた悪人永野会長から善のススメ、財施と称してお金を搾り取ったおぬしらはホントのワルじゃのう。結局、バレてしまい昭和60年7月20日、浄土真宗親鸞会から中坊公平氏をトップとする破産管財人に返還されたのは調査で判明した1億3千万のみ。もう少しあるのとちゃうのか?
おぬしらは第二、第三の永野会長を求めて善のススメに邁進しているのだが、恥ずかしくないとすればマインドコントロールされているからではないか?永野会長は惨殺されたがおぬしらは知らぬ存ぜぬで健在じゃ。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 15時08分

「報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。」

往生の可否じゃないんだなこれが。

往生の「得」にも「失」にもならない、つまり往生に有利にも不利にもならないのだから、

宿善が厚いから有利に早く信心を獲られる
宿善が薄いから不利でなかなか信心を獲られない

ということはないってこと。

日本語がわかるかな?

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 15時10分

>過去の宿善が薄くても、現在世で厚くなれば往生できる。
>逆に過去の宿善が厚くても、現在世で更に厚くしなければ往生できない。


これが聖道門の発想。
浄土門の善知識方が完全否定された考え。


聖道門の発想でしか考えられない親鸞会ってことがここでも明確になったね。

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 15時12分

親鸞会の好きな観経の下輩


『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。(浄土真要鈔)


過去世に善をせず、現在世でも善をしないし、仏法も聞いたことのない悪人が、臨終になって初めて善知識にあって勧められたのが念仏で、念仏だけを勧められて往生する


これが18願。

浄飯王にも善を勧められず念仏を勧められたってことは親鸞会でも知っているでしょ?

投稿: 嘘付き親鸞会 | 2015年9月 4日 (金) 15時17分

Kシリーズ「こんな事が知りたい」
では、親鸞会は、浄土に暗き矢
をわざと抜かしています。項目は興福寺の奏上か延暦寺の奏上。
持っている人は捨てろと言われないうちに確認してみて下さい。

モロに法然聖人を攻撃しておきながら、なにが弟子は先生のお言葉を伝えるのが使命か。

親鸞会は支離滅裂の滅茶苦茶だということです。

投稿: もう隠してしまい存在しないかもしれませんが | 2015年9月 4日 (金) 16時45分

これが聖道門の発想。
浄土門の善知識方が完全否定された考え。


聖道門の発想でしか考えられない親鸞会ってことがここでも明確になったね。

◯ ほんとにそうですね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 16時51分

聖道門にもならない酷いものですけど。

高森会長は、
華光会 伊藤康善氏の著作どころか体験までパクるし、大沼氏の著作は丸写しかと思う酷さだし、知っていながら隠している幹部講師は同罪だし、
紅楳司教の論文は、自分らの都合に合わせてブッちぎってその上攻撃し、
ここまで派手な悪事だと却って想像を超えて気付かないですよ。
どの口で、善のススメ等言う。

ネット対策さえ、撹乱する悪事をしている。善のススメ等、なにをしても言えたもんじゃないでしょ。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 17時30分

金子光晴氏はろくに風呂にも入らず、いつも全身から異臭を発していたのに、なぜかガールフレンドを欠かしたことがなかったそうです。権勢で女性をねじ敷設どこかのミツハルさんには見習ってもらいたいものですが…。

投稿: 光晴氏は金子光晴の爪の垢でも煎じて飲んだら? | 2015年9月 4日 (金) 18時57分

権勢で女性をねじ伏せるカルト教祖2代目さん。もはや60台を迎え、その性格は火葬場で焼かれるまで治しようもないことでしょう。それでも奇跡を期待します。

投稿: ねじ敷設 →ねじ伏せる | 2015年9月 4日 (金) 19時01分

麻原も臭そうw。教祖はみんな臭いものです。いろいろな意味でねw。

しかし新手の嵐ですか。ここに書いてあることがよっぽど知られたくない話だらけなんですね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 19時46分

》しかし新手の嵐ですか。ここに書いてあることがよっぽど知られたくない話だらけなんですね。

◯ まともに浄土真宗に取り組もうと思ったら、知られたくない等、呑気な事を言っている場合では無いんですが。恥より大変な話だと気付かない。

どちらにしても、親鸞会がなんと書いてみてもバレバレ。撹乱しようにも阿弥陀様に放り投げている真実信心の人に手も足も出ない。
ヒラメてご存知? くだらない上司の顔色を伺い毎日無駄な日を過ごしていく親鸞会の講師や会員の事ですよ。違うと言うならば、
ご自身の信心を暴露してごらんなさい。その勇気もありませんか。そうでしょうね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 20時57分

浄土真宗=仏教(七仏通戒偈)様、仏教徒様へ

天親菩薩は自らの願生の信心を『浄土論』の【冒頭】に述べられました。「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」

高森会長は同じく「光に向かって123のこころのタネ」の【冒頭】で「光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ」と自ら(らしき)の信念を述べました。が、、

しかしこの文章は
「光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。」の大沼法竜氏の文章を無断でパクったものでした。

この高森会長のパクリは善でしょうか?お答え下さい。
またこの高森会長のパクリ本を買わされた会員は高森会長に印税を支払っており、重複財施をしているわけですが通常の財施よりも充実感はあるのでしょうか?
お答え下さい。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 21時11分

『本願寺なぜ答えぬ』に、修善は往生の資助にならないが、獲信の因縁になると書いてあります。
この言葉、心を静めてよく読んでください。
「獲信の因縁になる」と「往生の資助にならない」が矛盾すると気づけた方は、親鸞会の蟻地獄から抜け出せる人です。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 22時05分

そういえば以前はウザい程出ていた高森会長の名前を最近では新聞広告に載せていませんね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 22時07分

獲信の因縁が何かは信心決定しないと分からない、とか書いてましたっけ?意味ワカンネ

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 22時11分

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。 (御文章一帖)


親鸞聖人が選んだ雑行はこれね。

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

善でも、浄土を願って善をするから雑行になるの。

そして救われたら、浄土を願って行ってきた善がプロセスになるの。雑行が完全に廃るの。
雑行が完全に廃るまで雑行(方便)なの。
親鸞聖人も蓮如上人も雑行が完全に廃るのを勧められてるの。

仏教で方便とは、私たちを真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なもの。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 23時02分

雑行は廃ったかい?

「自分で意識して捨てた、意識してあえてしない」
ではなく、

完全に廃ったかい?

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 23時03分

>「獲信の因縁になる」と「往生の資助にならない」が矛盾すると気づけた方は、親鸞会の蟻地獄から抜け出せる人です。

修善(因縁)→獲信(果)

獲信(因)→往生(果)

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 23時13分

○修善(因縁)→獲信(果)

○獲信(因)→往生(果)

❌修善(因縁)→往生(果)

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 23時20分

ひさしぶりにのぞかせていただきましたが、…あなた、ずっとこの調子で疲れないのですか?常にイライラしているように見えます。
私もそういうことの連続ですが、お互い体調管理には気を付けたいものです。

>どちらにしても、親鸞会がなんと書いてみてもバレバレ。撹乱しようにも阿弥陀様に放り投げている真実信心の人に手も足も出ない。
ヒラメてご存知? くだらない上司の顔色を伺い毎日無駄な日を過ごしていく親鸞会の講師や会員の事ですよ。違うと言うならば、
ご自身の信心を暴露してごらんなさい。その勇気もありませんか。そうでしょうね。


もちろん信仰の告白は各人の自由ですが、
>投稿: | 2015年8月31日 (月) 18時52分
こちらで、私の拙い信仰告白はさせて戴きました。
善の勧めも変わりませが、自惚れ心も変わることはありません。心に鞭打って暇がありません。

あなたはそこらじゅうで、誰かれ問わず
「あなたは助かっていない」
「あなたは救われていない」
と同朋の方々を責めておられるようですが、
おかしいと思います。

あなたの口より出でる念仏は、いずれのお念仏でしょう。

また、

久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(親鸞聖人・弥陀和讃)

阿弥陀仏に使命を託された釈迦の、善を勧めておられない箇所があれば教えてください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私も自分のことなど、何度も言いたくもありませんが、あなたがあまりにも他の人々を決めつけた物言いをされるからです。それはおかしいです。

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 4日 (金) 23時40分

>誰が「善を勧め」誰が「善を足そうとする」のでしょうか?


阿弥陀如来、お釈迦様が共に、「善を勧め」られ、この弥陀の本願のお導き、釈迦のご教導により、「凡夫自力の迷情心」が、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とするのです。

問題は、「善」にあるのではなく、弥陀の救いに、「自分の善を足しにしよう」とする、自力心にあるのです。

この自力の心(雑行)を、捨てるのです。

自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

「善の勧め」は、信前・信後を問わず、一貫して現存するのです。

なぜかというと、浄土真宗は仏教だからです。

「善の勧め」がないものを、「仏教」とは呼べません。

仏教・浄土真宗・親鸞聖人の御教えに、「善の勧め」は、あります。


>◯ 問題は「善」に無いと自分が言った事をお忘れなく!


自力が廃り、弥陀の救いにあずかっても、「善の勧め」があることには、変わりありません。
弥陀の浄土に生まれたいと思うて、行ずる善ではなくなる、という事において、変わるのです。

久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
(親鸞聖人・弥陀和讃)

投稿: 仏教徒 | 2015年9月 4日 (金) 23時45分

繰り返しますが、「獲信の因縁になる」と「往生の資助にならない」が矛盾すると気づけた方は、親鸞会の蟻地獄から抜け出せる人です。

親鸞会講師は、高森先生に騙されて地獄に堕ちても後悔しないという心意気が先にあり、高森先生への信心に合わせて教学を後付けします。だから矛盾に気付けません。

心ある学徒の方は、ここまで辿り着いたのですから、自分の人生に責任をもって、自分自身の頭で考えて下さい。このままで本当によいですか?

「飛雲」もよく読まれることをお勧めします。

オマケですが、「→」を使う説明は、判りやすいようで、「→」の定義をごまかしていますから矛盾を隠す隠れ蓑になります。よくよく日本語で考えて下さいね。

投稿: | 2015年9月 4日 (金) 23時49分

仏教徒さま

大沼氏伊藤氏の言葉を無断でパクり本に書いて儲けるのは善ですか?悪ですか?
善のススメを理解している本当の仏教徒ならこのくらいのことなら簡単に答えられるはずです。答えられないなら仏教徒と名乗るのはやめましょう。ただの嘘つきですよ。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 00時52分

仏教徒さま
永野会長は自分自身やっていた悪業に気づいていたが、親鸞会の善のススメの教えを聴いて、この教えなら悪人の自分も助かるかもしれないというホンのわずかな、そして絶対に手離せない望みを掛けて、会に言われるまま財施し、極楽往生を願ったのでしょう。
そして永野会長は突然惨殺された。そのトタンに会は知らんぷりで会員には「マスコミに聴かれても知らぬ存ぜぬを通せ」と箝口令。
仏教徒のお立場から見て騙した側、騙された側、どちらの会長が悪ですか?もしこれくらいの問いに答えられないのなら善のススメはやめましょうね。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 01時06分

仏教徒さま

阿闍世の件じらさないでそろそろ答えましょう。もう答えられなかったということになりますよ。事実、全く答えられないので。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 01時17分

仏教徒さま

親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 01時36分

ブログに登場した【釈迦如来】【親鸞聖人】【仏教徒】等のネーミングからわかるのは、中身がないから何とか名前で相手を威圧しようとしている心理だろう。まあ【親鸞】という名前の付く団体【親鸞会】にマインドコントロールされている人にとっては当然のことか。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 03時23分


◯ 仏教徒さま、誰が、やら貴方の上司のように血眼でどうでもいい事を考えてばかりいないで質問に答えましょう。まずこれらの質問。答えられないならば答えられないでそう書けばいい。

「仏教徒さま
永野会長は自分自身やっていた悪業に気づいていたが、親鸞会の善のススメの教えを聴いて、この教えなら悪人の自分も助かるかもしれないというホンのわずかな、そして絶対に手離せない望みを掛けて、会に言われるまま財施し、極楽往生を願ったのでしょう。
そして永野会長は突然惨殺された。そのトタンに会は知らんぷりで会員には「マスコミに聴かれても知らぬ存ぜぬを通せ」と箝口令。
仏教徒のお立場から見て騙した側、騙された側、どちらの会長が悪ですか?もしこれくらいの問いに答えられないのなら善のススメはやめましょうね。」

「仏教徒さま
阿闍世の件じらさないでそろそろ答えましょう。もう答えられなかったということになりますよ。事実、全く答えられないので。」


「仏教徒さま
親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。」

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 06時28分

今後、下記、仏教徒さんからキチンとした回答のない三つの質問を 【さよなら親鸞会9・5・3つの質問】もしくは【9・5・3の質問】【953】などとと呼ばせて頂きます。

1「仏教徒さま
永野会長は自分自身やっていた悪業に気づいていたが、親鸞会の善のススメの教えを聴いて、この教えなら悪人の自分も助かるかもしれないというホンのわずかな、そして絶対に手離せない望みを掛けて、会に言われるまま財施し、極楽往生を願ったのでしょう。
そして永野会長は突然惨殺された。そのトタンに会は知らんぷりで会員には「マスコミに聴かれても知らぬ存ぜぬを通せ」と箝口令。
仏教徒のお立場から見て騙した側、騙された側、どちらの会長が悪ですか?もしこれくらいの問いに答えられないのなら善のススメはやめましょうね。」
2「仏教徒さま
阿闍世の件じらさないでそろそろ答えましょう。もう答えられなかったということになりますよ。事実、全く答えられないので。」
3「仏教徒さま
親鸞学徒は聖人と同じ道程と 違う道程 どちらを進むべきですか?比叡山で修行するのと 比叡山で修行しないのと 親鸞学徒はどちらを選択すべきですか? ハッキリ答えて下さい。」
以上

投稿: てんだら | 2015年9月 5日 (土) 15時40分

教祖はもらうものだけもらっておいて知らん顔ですか。いかにも卑怯者の教祖らしいエピソードですねw。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 20時41分

そうですね。発覚しただけで会に1億3000万円財施していた永野会長も惨殺されたときは所持金たった711円。日々生活費が底をついついく中で会によって生き地獄に堕とされたのかも知れません。弱者には恐ろしいほど強い団体です。しかしうまく会長にしてやられました。永野会長はある意味正直者でした。

投稿: てんだら | 2015年9月 5日 (土) 20時59分

佐野研二郎


「私は、今まで他人のものを、パクったことは、一度もありません」

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 21時04分

仏教徒さま
大沼氏伊藤氏の言葉を無断でパクり本に書いて儲けるのは善ですか?悪ですか?
善のススメを理解している本当の仏教徒ならこのくらいのことなら簡単に答えられるはずです。答えられないなら仏教徒と名乗るのはやめましょう。ただの嘘つきですよ。

投稿: | 2015年9月 5日 (土) 21時07分

続々と退会

投稿: | 2015年9月 7日 (月) 20時15分

脳がいつも三願テンコロみたいなカルト教義に繋がってないと違和感あるようじゃ、真宗人間としては終わりだな

投稿: | 2015年9月 7日 (月) 21時44分

親鸞会は蓮如上人の遺産

投稿: | 2015年9月 7日 (月) 23時19分

蓮如上人の遺産は本願寺。
親鸞会は高森の資産。

投稿: | 2015年9月 8日 (火) 01時01分

http://kazoku.sub.jp/

投稿: | 2015年9月 8日 (火) 14時12分

要するに親鸞聖人のご信心と同じになりたいかどうかです。
親鸞会の信仰で喜びがあればそれで良い人はそこまでの人です。

高森先生に救う力はありません。
阿弥陀如来に直に救っていただくしか助かる方法はありません。

「飛雲」を検索してよくご覧ください。

投稿: | 2015年9月 8日 (火) 15時09分

良かったですね、親鸞会が400人もコストコに夏野市長さんと一緒に呼ばれた、ととれる「もんた」というブログがありました。おめでとうございます。心底は知りません。
よほど嬉しかったのでしょう。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 16時45分

http://www.keyrose.net/2015/08/costco6/
これですか・・・
確かに浮かれていますね。

投稿: コストコって | 2015年9月 9日 (水) 17時15分

夏野市長もコストコもだまされたんですね。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 17時17分


2015年9月 9日 (水) 16時45分の方の書き込み見ると親鸞会員が400人呼ばれたのかと勘違いしましたよw

400人とは関係者や取引業者などですね。

カルト教団会員400人も呼んだらコストコもイメージが悪くなるから、さすがにそれはしませんねw

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 17時24分

市長はなんでもよく把握している方ですよ。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 18時09分

もん太氏はいかにも親鸞会の関係者としてコストコに招待されたかのように取れる書き方してますが、本当なんでしょうかね?
前回のエントリ「親鸞会はプライドゼロ。」の偽装勧誘動画を作成するような人ですから、眉唾かもね。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 18時19分

同じ勘違いでも浄土真宗の信心で浮かれているのならば、まだ分かりますが、もんた という人は何を浮かれて喜んでいるんでしょ。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 18時56分

多く人の集まることを繁盛と考えるのが親鸞会の自力信心です。人よりも金ですが。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 20時06分

もん太って親鸞会から仕事もらうために媚びてるだけでしょ。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 20時41分

コストコも商売やから、近くに巨大な宗教施設があれば信者にも売り込むのは当然やね。
親鸞会のショウモナイ物販よりコストコの方が百億倍も良心的やがな。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 20時48分

もん太 のブログを最初から見てみたんですが途中から、あまりの親鸞会上司なんかのヨイショぶりに辟易してやめました。
こんな事を書かないと干されるのか、書かれた方が間に受けているメデタイ人かは知りませんが、
書けば書くほど、組織の体制や中身が見えるようです。読んでいるうちに辞めよ、と思いますよ。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 21時23分

もん太は上司に媚びるのが求道だと思っているし、上司は持ち上げられるのが当たり前だと思っている。おぞましい。

投稿: | 2015年9月 9日 (水) 21時55分

有名な道楽息子さん。あかんわ

投稿: | 2015年9月12日 (土) 09時17分

コストコ会費も払えない底辺貧乏人形のもん太w

投稿: | 2015年9月12日 (土) 11時38分

http://www.keyrose.net/2015/09/2000jou10th/
 (記事タイトル「親鸞会 親鸞聖人報恩講&二千畳10周年ポスター」)

これまでの10年、そして、これからの親鸞会の【聖使命】を自覚して報恩講を迎えたいと思います。
勤められるのは、10月10日〜11日の2日間です。

    ああっ、もん太さん、こんなあぶない語彙を使っちゃいけませんってば。【聖使命】と聞いて、多少とも宗教に関心のある一般人が想起するのは、いまや落ち目の新宗教「生長の家」のそれでしょう。この教団では「聖使命会」という組織を設け、その会員から提供される年会費を主たる財源に充ててきました。よきにつけ、あしきにつけ、ちょうど30年前に死去した教祖谷口雅春氏のイメージが大きな宗教でしたが、孫にあたる現会長が勝手に教義を変更し、あきれた年配のベテラン信徒が相次いで脱会しつつあり、この「聖使命会」も存続が危ぶまれつつあります。

投稿: 「聖使命」…あらぬ連想を掻き立てる語彙ですね | 2015年9月12日 (土) 20時53分

小杉にCOSTCOできてはじめての法話

投稿: | 2015年9月13日 (日) 00時56分

なぜ生きる 怒涛の十年 二千畳
高森会長らしい汚歌だな。

投稿: | 2015年9月14日 (月) 00時09分

大沼氏の原著を拝読した方が真実求まるよ。

盗作じゃ10年経っても100年経っても偽物に変わりはない。

投稿: | 2015年9月14日 (月) 14時38分

わかったはわかってない証し
わからないはわかった証し。

私は仏教のことがなに一つわかってなかったとわかった。

あなたは親鸞会が間違えだと
わかったのだろうか
ただ嫌いになっただけでは
ないだろうか

仏教の教えがただしいかちがうかわかる人なんているのだろうか
ただみんな好みだと思う。

投稿: わたさん | 2015年10月30日 (金) 21時04分

わたさん

あなたが何も分かっていないことはよくわかりました。わざわざ有難うございました。

投稿: | 2015年10月31日 (土) 12時10分

あなたがすべてをわかっている方とわかり。
こちらこそ失礼しました。

投稿: わたさん | 2015年11月 1日 (日) 22時10分

わたさん

わかればいいです。それだけのことです。
それがわからないと永野会長のようにひどい目に遭いますから。気をつけましょう。

投稿: | 2015年11月 2日 (月) 06時36分

久々にこの記事を読み返してみて「本願寺が小林幸子のコンサートを」云々、というコメントが目にとまって、

井狩春男さんと100億円のカラオケボックス
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/10/100-da02.html

この記事を思い出さずにいられませんでした。

…素人にカラオケさせるよりはプロの歌手に歌ってもらった方がずっとましでしょう。
何にせよあの会はもう何言ってもヤブヘビになりそうです。

投稿: あずきあらい | 2015年11月 3日 (火) 15時52分

連投失礼します。揚げ足をとられると嫌なので少々つけたしです。

私個人的にはお寺(会では「お」をつけると怒られるとか?)で色々イベントとかすること自体は必ずしも悪いとは思えないのです。何故なら、どんなことが縁となって人が仏教或いは真宗の教えに耳を傾けるようになるか分からないからです。会のアニメの弁円なんか「親鸞聖人を殺そうとしたこと」が同行の列に加わるきっかけ、なんて描かれてましたし…。

とは言え嘘をついて勧誘するのは許されないと思います。嘘は悪ですし、当然ながら善知識方の誰一人としてされなかった事ですから。

投稿: あずきあらい | 2015年11月 3日 (火) 16時17分

親鸞さんの息子でさえ異端扱いされたからいろんな解釈されるのも無理ありません

投稿: とうりすがり | 2016年5月12日 (木) 09時51分

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