« 「リバース」開設。 | トップページ | 親鸞会の法話も変わる。 »

親鸞会はプライドゼロ。

最近ある方の紹介で知りました。

本願寺派の法統継承式の動画が出て、終わると唐突に親鸞会の紹介が始まるというもの。これ見たら多くの人が親鸞会を「本願寺派が認めた団体」だと思うでしょうね。もちろん制作は親鸞会の弘宣局のYさんです。

「本願寺は沈没寸前の老船」と言いながら、勧誘のためならその権威を借りる。節操ないことこの上ありません。

なんで親鸞会ってこんなにプライドがないんでしょうね。

|

« 「リバース」開設。 | トップページ | 親鸞会の法話も変わる。 »

コメント

法統継承式の終わりのところから、いきなり「そうだ富山で聞こう」って・・・
これ反則でしょう。

平素は「本願寺はネズミの肉を牛肉だと偽って売るようなインチキ教団で、葬式法事で金儲けばかりしている!」とこっぴどくののしりながら、その知名度だけはちゃっかり利用する。
この動画を見ると、本願寺が親鸞会を公認し推奨しているように錯覚を起こす人が多いでしょう。実際は本願寺は勝手に利用されているだけなのに。

こういう盗作体質は昔とまったく変わりませんね、親鸞会は。

何度ウソがバレても、手を変え品を変え、新たなウソで偽装勧誘をする。かつての高森会長の盗作がバレて、さすがに親鸞会も反省しているのだろう、と思っていましたが、お人よし過ぎました。

自分たちだけが真実の真宗をやっているって胸張りたいなら、なぜ高森会長の法話を動画で宣伝しないのでしょうか?

投稿: | 2015年5月25日 (月) 00時05分

貧すれば鈍する、と言いますが、いくらなんでもこれはひどすぎる。

投稿: | 2015年5月25日 (月) 13時49分

「真実開顕の為ならば、何でも利用する」と言って憚らない会長ですから、会員も疑問は持たないのかも。

投稿: | 2015年5月25日 (月) 19時46分

http://world-fusigi.net/archives/7958207.html?p=5
顕正新聞もパクりですか?

他のカルト教団よりも全然少ない規模ですねー

投稿: | 2015年5月25日 (月) 20時10分

麻原がダライラマととった写真を見せてオウムは認められていると錯覚させたのとそっくりだと思いました。

投稿: | 2015年5月25日 (月) 20時42分

会長はウソをつくことに抵抗のない人ですから、どんなウソでも仏法のため、或いは真実開顕のための方便という一種の詭弁を押し通します。こういう精神は会員にも浸透してる気がします(マイコン)。それゆえ会員もこういうのは慣れっこで無感覚な麻痺状態に陥っていると思われます。

今回エントリの本願寺法統継承式と親鸞会勧誘を無理矢理つなげた動画も『方便』ということで片付けられるのでしょう。
シマウマの胴体にライオンの首を無理にくっつけた異形動物ような奇妙な印象・・・無節操極まりないです。あれほどののしり倒していた本願寺の儀式を自分たちの人集めのために無断借用するなんて・・・

まあ本当の目的は『方便』というより、一般新聞紙でも取り上げられ本願寺法統継承式を借用(盗用というべきか)して見た人を勘違いさせ、新規会員を引っ張り込もうという魂胆に過ぎません。
姑息なもんです。

会員の減少に歯止めがかからず、降誕会参詣者数も目標には遠く及ばず、焦っているというところでしょうか。

投稿: | 2015年5月25日 (月) 21時07分

サイコパスの面目躍如やね。おぞましい。

投稿: | 2015年5月25日 (月) 22時43分

イヌモリの小細工にだまされないよう、気を付けてください。

投稿: | 2015年5月26日 (火) 01時14分

日蓮正宗と表向き別れてからも未練たらたらの創価学会がスパイを大石寺へ送り込んで、老齢のため深夜の勤行で時折居眠りする法主の姿を盗み撮りし、それを『聖教新聞』に載せていたのを思い出させます。こんなことまで創価学会からパクるとは…

  ただいま「こんなこと【まで】」と申しましたのは、ほかにも重要な猿真似をしているからです。『正信聖典』86頁以下に掲げられた「親鸞会同志の歌」では、その4番に
  「お前と俺とは/嵐に向かう/同じ親鸞会の/決死隊/ノドに短刀(あいくち)/突きつけらりょと/一歩もひかぬぞ/破邪の剣」とあり、かつ6番にも
  「お前と俺とは/同期のさくら/同じ親鸞会の/庭に咲く/花が一夜に/散るがごとく/俺も散りたや/法(のり)のため」とあり。

  いずれも名高い軍歌「同期の桜」を基調としつつ、名高い学会歌「花が一夜に」の詩句をまま織り交ぜております(↓)
http://sokafree.exblog.jp/22063470/

  ただし学会歌といっても、元来は、太平洋戦争の直前にレコード化された「熱血の男」を元歌としているとのこと。ですから親鸞会としては
  「けがらわしい創価学会とはなんの関係もなく、われわれ自身の意志で活用しているのだ」
という言い訳も可能でありましょう。しかしながら、やはりどうにもひっかかります。創価学会と論争を繰り広げていたという昭和40年代において、何かの機会に高森氏および一部の幹部がそっとぱくったのではないかと愚見されてならないのです。いかがなものでしょうか?

投稿: | 2015年5月26日 (火) 15時17分

親鸞会の関係者がこの映像を作って、浄土真宗本願寺派から認められている団体と自分たちを宣伝するのは目に見えています。
いちおうこれは京都の本山に連絡して、しかるべき措置を取ってもらった方がいいと思います。あちらにとって重要な映像がカルト新興宗教の信者勧誘に使われるとなれば由々しき事態ですので、たぶん本山も動いてくれると思いますよ。

投稿: | 2015年5月26日 (火) 20時45分

↑の方のおっしゃる通りだと思います。
勝手に 本願寺の映像を 親鸞会の宣伝に使うのは、きっと法律とかに 違反するのでは?
本願寺関係者の方々、なるべく大騒ぎして 親鸞会が社会的に問題のある団体である事を 世の中に知らせて下さい。

投稿: | 2015年5月26日 (火) 21時26分

http://world-fusigi.net/archives/7958207.html?p=5
投稿: | 2015年5月25日 (月) 20時10分 の方があげられてるように
世間様には小規模ながらもカルト教団と認識してもらってるので
本願寺様へも知らせた方が盗作癖は減っていくんじゃないですか。
清き団体と認めて貰いたいなら盗作撲滅&今までパクった作品の引用元を
公表するべきだと思います。

投稿: | 2015年5月26日 (火) 22時43分

ちょっと視点は変わりますが、本願寺派の法統継承式を見てて、親鸞会は善知識の継承みたいなのはまったくやる気がないんですかね?と思いました。
高森会長の存命中、独裁法話体制がずっと続くとなると北朝鮮とそっくりですね。
2日間朝から夕方までの記念行事で、80代半ばの老人の会長先生がわずか2時間だけ話す以外、絶対誰も話さないで(話してはいけない!)、残りは全部ビデオとか会長礼賛用弁論大会のみって、異様な感じするんですが・・・(マイコンの効いた会員さんたちは何ともないんでしょうか)

投稿: | 2015年5月27日 (水) 20時52分

2コ上↑
2ch急上昇コーナーぶっちぎり1位wwww
おまいら分かり易過ぎ。
さよなら親鸞会を閲覧者が沢山いる証拠ですね。

シンパの人はみちゃダメじゃないのw?

投稿: | 2015年5月28日 (木) 00時14分

http://www.shinrankai.or.jp/s/movie/index.htm
    (半年以上も休眠中の親鸞会オフィシャルサイトの動画一覧)

今回の動画はまだアップされていないように見受けられます。

投稿: 親鸞会系サイトではどこを見たら? | 2015年5月29日 (金) 20時20分

この動画を見ると、号泣記者会見で日本国中を驚愕と笑いの渦に巻き込んだ野々村兵庫県議を思い出します。
彼は橋下市長率いる大阪維新の会が選挙で大躍進を遂げたとき、同会とは何の関係もないのに「西宮維新の会」なるものを勝手に立ち上げ自ら代表と名のって当選しました(その会は代表以外構成員はいなかったそうですが)。
橋下市長は「西宮維新の会」について記者会見で聞かれたとき「大阪維新の会とはまったく無関係で野々村氏とは面識もない!」とはっきり言っていました。

野々村氏と親鸞会・・・平気でウソをつく人・団体は『パクリ体質』という共通項があることを知りました。

ちなみに野々村氏は、大阪維新の会のキャッチフレーズ「one大阪」(府と市を1つにする)をもじって「one西宮」というパクリキャッチフレーズまで使っていたそうです。でも、大阪とは違い西宮市はもともとひとつなので、住民も何のことかさっぱりわからないようでしたが・・・(号泣)

投稿: | 2015年5月30日 (土) 02時41分

顕徹と親鸞会の盗人根性は相変わらずひどいものだね。
会員からはお金と時間と人生そのものを掠め盗る。
先達からは文章を盗作。
勝手にライバル視していた本願寺からは動画さえも剽窃ですか。
「恥知らずの恥かかず」お前、自分のこと言うとんか、顕徹。

投稿: | 2015年5月31日 (日) 00時19分

あほらしくて言葉が出ない。600円から1000円に値上げ。
普通の値上げは100円だよ。二度と食わない。
食べるなら寿司が15カンあれば買ってやる。

投稿: | 2015年5月31日 (日) 01時12分

お茶付きになるそうですから、
そのお茶が300円とか?(*^m^*)

投稿: | 2015年5月31日 (日) 09時26分

お茶は家から持っていってやる。

親鸞会理論だと
弁当を買わない=上司批判になるのかな?

投稿: | 2015年5月31日 (日) 12時09分

あんしん弁当と教えとどういう関係か説明してもらいたい。
1000円あれば回転寿司で満足できるし、自炊なら1日はもつ。
余分な出費を使わせるなよ

投稿: | 2015年5月31日 (日) 13時37分

野々村君の話が出ていましたね。あれは問題外。 きちんと外部からの指摘を説明することが大事ですね。

投稿: | 2015年5月31日 (日) 18時27分

1つ教えてもらいたい。今の学生はゆとり世代。親鸞会にも影響はあるだろう。どういう指導・活動してるかおしえてください

投稿: | 2015年5月31日 (日) 18時28分

学友部の勧誘が失敗するようになったときにゆとり世代を言い訳に使っておりましたね。
本当の原因は長年積み重ねてきた悪業の結果が出ただけやけどな。

投稿: | 2015年5月31日 (日) 20時06分

学友部の失敗は今までの悪い種まきだよね。
それの積み重ね。
ゆとりが失敗の原因ならばやめないような教育すればいい。
褒める教育をすればやめない。
時代遅れのことをしてるからやめる

投稿: | 2015年5月31日 (日) 22時48分

勧誘の失敗は自因自果ですね。ゆとりとかネットはできない言い訳。まったく関係ない。
自分達で教育すればいいだけ。

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 08時05分

とにかく肖像権侵害だと思われます。日顕法主の失態をカメラで捉えんものと、スパイを大石寺へ放った破門後の創価学会の行いと択ぶところはありません。むかしの親鸞会はそれなりのプライドがあったように思われるのですが……この動画は高森氏の許可を本当に得ているのでしょうか。

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 10時50分

高森会長自体、この動画のような欺瞞をたくさんしてきてるから
今更やるな、とも言わないでしょう。

たぶん知ってて黙認しているのでは・・・。

で、本願寺から抗議が来たら、わしは知らん、本会の誰かが勝手にやったのかもしれん。と責任逃れするといういつものパターンでしょう。

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 14時20分

教祖は政治家みたいね。政治家も「私は知りません。それは妻/秘書がやったんです!」といいますよね。それと同じですかw。

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 20時40分

高森は人格障害だからウソをつくことに罪悪感がありません。
高森にとって罪と感じる状況とは、権威ある人や世間から見下されて言い逃れできない状況のことです。
必要悪と割り切って確信犯でやっている政治家とも違うと思いますよ。

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 22時34分

男気なし。へたれやね高森さんは

投稿: | 2015年6月 1日 (月) 23時59分

  このコメント欄に御投稿の皆様のうち、いわゆる国立名門大学(旧帝大のほか、一橋や神戸大、東京外大をも含む)に学ばれた方へ、かねてうかがいたきことがございます。入会してしばらくたち、高森氏の学歴を知らされてどうお感じになりましたか?

  こんなことを書くのも、河上肇(1879~1946)を除けば、名のある国立大学の卒業生が学歴によって得られた地位(大学の専任講師,どこかの会のそれと違って月給あり)をなげうって、一般には自己の母校よりも下に見られていた真宗系大学(河上の場合は大谷大学)出身の宗教家へ全面的に帰依した…という例が見当たらないからでございます。

   河上氏はその自伝の中で「いやしくも自己の目に真理と映じたものへはすべてを捨てて帰依する傾向を持っている」と自己分析しています。皆さまも入会当時はそういうご心境だったのでしょうか? 河上氏はひとたびは心から帰依した宗教家(大谷大学出身の伊藤証信師)のもとをまもなく去り、ふたたび新聞記者や大学教員となってのち、周知のように共産党の地下活動に身を挺してさまざまな苦難を身に受けました。

   その間、逃亡生活を助けてくれた「蟹江医師」が自己と同じく東大出身だとばかり思っていたのに、実は私立医大の出身だとあとで知らされて

           「なるほどそうだったか!」

と軽蔑的な怨恨を漏らす、そんな人間的な弱さをもさらしています。でもそういう気持ちを正直に書き記すところがまた彼らしいと仰がれます。皆さまが親鸞会によって得られた苦難は私などには想像もできませんが、勝手な願望を申し述べさせていただくならば、

   「たとえ自己よりも低学歴の人物の語ったことであっても、真理にねざしたことであれば深く傾耳する」

という美点をこんごも機会あらば御発揮いただきたい、ということでございます。親鸞会はかつての皆さまにこういう美点を発芽させながら、ふたたびその目を進んで摘み取ってしまったのですから、その罪はいかにも大きいと思われます。

投稿: 一流国立大学から入会された元会員さんへかねてうかがいたかったこと | 2015年6月 2日 (火) 14時31分

一人一人の人間の能力がいつ最高点に達するかは、かなり個人差があります。だからそれぞれの人間の能力の優劣は18~9歳で受けた入学試験だけで決まらないと思います。
将棋の米長先生は50歳で名人位に初戴冠されました。彼の3人の兄は皆東大に合格しましたが、米長先生は「兄たちは頭が悪いから東大へ行った」と豪語していました。兄たちは反論できませんでした。将棋のプロは全国で年に4~5人しかなれない非常に狭き門ですから、そのプロの中で最高峰は大変なものです。

また大学受験時はとても頭が優秀でも、その後何十年も思考停止で脳を堕落させてしまえば、中卒や高卒にも劣る能力になってしまう場合があります。

つまり学歴はティーンエイジャーの時のその人の知的能力を計る物差しにはなりえても、それが一生のものであるとは到底思えません。

40代や50代にもなって、学歴しか誇れないような人は、その後の人生では負けてしまったのではないかと残念に思ってしまいます。

投稿: Kmountain | 2015年6月 3日 (水) 18時10分

http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2010/03/post-e242.html

5年前の3月の記事ですから、そこのコメント欄へ書き込むことは控えさせていただきます。でもあんまりにも可笑しくて、既視感(デジャブ)も抑え切れないのでここに書き込ませていただきます。

 会長のお孫さんが1ヶ月学院で研修を受けたが、指摘らしい指摘も受けずに済んだとのこと。叱責が鉄拳に変わっただけで、実は戦時中に久邇宮殿下(戦後、臣籍降下)が海軍兵学校に入学した際、本来殿下を含む1年生をびしびし殴って鍛えるべき4年生は、皇族入学という特異な状況下、さしもの伝統を誇る鉄拳制裁の拳をしばしやすめざるを得なかったとのこと。詳しくは同校の卒業生でもある直木賞作家・豊田穣氏(1920~1994)の『江田島教育』(集英社文庫本)40頁以下にユーモラスに書き綴られております。

 なお、豊田氏は武運つたなく米軍の捕虜となり、終戦をテキサスの捕虜収容所で迎えられました。収容所内の複雑な人間関係に苦しみ、打開の道をさぐっていた豊田氏は縁あって所内の礼拝堂で毎週日曜日に行われていた寺院出身の「矢板兵曹」の法話会に出席するようになり、大いに迷妄から解放されました。そのありさまは同氏の直木賞受賞作『長良川』の中でもとりわけ印象深く描かれております。ちょっと覗いてみますと…

〈つぎの日曜日、矢板は前週に引きつづき、真如法性、如来善逝、悉皆仏性、一切平等というようなことばの意味を説明した後、真宗の教義の説明に入った。それによると、弥陀の本願は摂取不捨にある。一切の人間は弥陀の法海に漂う流転の凡夫であり、極重悪人であるが、それはすべてを救おうという摂取不捨という弥陀の本願によって、すでに救われているのである。人間はだれでも罪あるがままに救われている。救うか救わぬかは弥陀の問題であって、人間が思い煩う必要はない。親鸞が、どんな悪人でも一度念仏を唱えれば極楽往生疑いなしと言ったのは、この間の消息で、念仏を唱えるということは、回心へのひとつの機縁であり、実際は唱えると唱えないとにかかわらず、救われているものである。これが仏の慈悲というものだ。ここが、真宗は他力易行、他力本願と言って、自力聖道、即身成仏を願う禅宗とちがい、大衆的な所以だ、と彼は説いた。〉
          (『豊田穣文学/戦記全集』第11巻,573頁上段)

  こうした真宗領解にはあるいは異議のある向きもいらっしゃいましょうが、豊田氏が出会ったこの「矢板兵曹」が高森氏よりもまともな人物であり、善知識であったことは疑いを容れないものと思われます。

投稿: なんだ,見真学院も世俗の学校と同類だったんですね! | 2015年6月 3日 (水) 20時32分

世間でいういわゆる一流大学を出て、こんなカルト新興宗教にだまされているようでは。
今話題になっている神社仏閣への油かけですが、この教祖も駒場東邦高校に通っていたときに、純福音教会という韓国の創価学会と呼ばれる新興宗教に行ってしまったのだとか。親鸞会の人間も金山昌秀も、どんなに学校の勉強ができても・・・・w

投稿: | 2015年6月 3日 (水) 20時45分

学歴のある人がカルトに騙されることを嘲るのはどうかと思いますよ。
カルトにだまされない人にも2種類あります。

第1は人生の意義など考えもしない人。働いて家族を持ち次世代にバトンタッチして趣味など楽しめばそれでよしと思っている人。カルトも真っ当な宗教もまとめて興味がなくいかがわしいと思っている。

第2は宗教について深い造詣を持ち、カルトの教義の問題点を理解した上で排除できる人。

学歴が高くても後者になるのはとても難しいのです。
また無知無関心ではカルトにハマっている人より知性が優れているとはいえません。

投稿: | 2015年6月 3日 (水) 21時20分

親鸞会の施設が紹介されてるのに、親鸞会の名前が全く出てこない。製作者:もん太 って誰だよ。大学での正体を隠した勧誘とやってることは全く一緒。

投稿: | 2015年6月 4日 (木) 02時15分

百歩、いや、百万歩ゆずって高森氏が本当に法体そのものであらせられるにしても、同氏がこの世の縁尽きてのちはどうするのか、という大きな問題が避けられなくなりますよね?

投稿: | 2015年6月 4日 (木) 09時05分

この動画を見ると、事情を知っている人以外、そこに紹介されている親鸞会の施設は本願寺の関連施設と思い込むだろうな。

投稿: | 2015年6月 4日 (木) 16時46分

もんたって山本T太氏じゃなかった?
いつもムダにデカい機材かかえてる

投稿: | 2015年6月 4日 (木) 20時04分

さっさと地獄に堕ちろ、犬徹。

投稿: | 2015年6月 5日 (金) 07時51分

ユーモア溢れるものをお作りになられたと、会員は喜んでいるのでしょうね、、、異常です。
社会人になっても世間とは一線を画した生活をしてるためか、いつまでも気付かないんだろうな…
土日もボケ老人の与太話もしくは二番煎じを聞かされてよく気が狂わないものだと感心します。

投稿: | 2015年6月 5日 (金) 08時20分

マインドコントロールされた会員はこの動画を見て「本願寺よ、取り上げてやったんだから、ありがたいと思え(笑)」などと言いながら、狂気のように笑っているんでしょう。

歯茎を出してゲラゲラと・・・・

投稿: | 2015年6月 5日 (金) 13時16分

http://www.senjuji.or.jp/takadadayori/pdf/68.pdf#search='%E4%BD%8F%E8%81%B7++%E6%AE%BA%E4%BA%BA+++%E9%AB%98%E7%94%B0%E6%B4%BE'

2008年に発生した、「高田派の寺院住職によるホステス殺人事件」を、法主みずからが翌年正月号の宗報の第1ページで堂々と取り上げ、「僧俗共に、おのずからなるお念佛のいましめ、つつしみを身に得てゆこうではありませんか」と呼びかけておられます。このたびの本願寺派住職による同様の事件に際しましても、御就任まもなき新法主が、印象深い御訓示を示されることを念じてやみません。

  どこかのカルト教団では、教祖の子息が「殺人住職よりも俺のほうがましだっ!」とか瞑い愉悦の表情を浮かべていらっしゃることでしょうが、殺人住職はおとなしく法の裁きに服しており(高田派)、また、今後服することでしょう(本願寺派)。受けるべき制裁から逃げ回って来た息子氏のほうがよほど情けないのではないでしょうか。

投稿: 不祥事に接し鬼の首でも取ったような思いでしょうが… | 2015年6月 5日 (金) 20時09分

もん太、貧乏根性丸出しw
コストコ会費が高いんだってww
親鸞会費や弁当の方がズバ抜けて高いだろうにwww

マイコンは自覚性無く怖いですねー

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 16時24分

コストコは
年会費 4000円。
親鸞会は
月会費 3000円(最低額)。

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 18時12分

親鸞会で月会費3000円だと肩身が狭い気がする。
月1万円払うのが普通だろうし、定収入があってやる気もある人なら2万円以上払っていることも珍しくなかった。
親鸞会の会費の高さはずば抜けているだろう。

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 22時16分

会費が高い理由
①正本堂イジ
②息子の給料

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 23時41分

正本堂を建てるときは高森が「全国の邪教の本部を見て回られた」そうだ。
会費の制度を現行のものにした時にも「邪教」の会費制度を参考にしたそうだ。
高森自身は自分の宗教が邪教だとよく判っているんだよ。

投稿: | 2015年6月 7日 (日) 01時28分

高森くんはもう少し、政治や経済の勉強をしないといかんな。
定収入があっても生活しなきゃいけないから毎月一万や二万も払えない。
今は値上げのラッシュ。多少は仕方ないが親鸞会が同じこと以上のことをしても意味がない。

投稿: | 2015年6月 7日 (日) 09時29分

高森はサイコパスやからな。
会員が野垂れ死にしてもカネさえ取れれば何とも思わんよ。

投稿: | 2015年6月 7日 (日) 11時56分

戦時中、南方で戦う日本軍へ投稿を呼びかけるビラを執筆していたC.Sハビア神父は、数々の読みごたえあるビラの傑作を遺されたました。標題にいう「親一人子一人盆のあはれなり」は夏目漱石の俳句ですが、こういう印象深い言葉を随所に引いた名文であったと聞きます。また、皇室への悪口は絶対書かなかったとのこと(以上、多久弘一氏著『多久の漢文王国』より。著者は代々木ゼミナールの往年の名物講師)。

これに対し、日本軍が英軍やオーストラリア軍へ投じた英語のビラは、そのものずばりのポルノ絵画であったり、

  「お前の女房、お前の留守に浮気してるぜ」

うんぬんの品性下劣なものばかりであり、ビラとしての効果も疑わしかったとのこと。これなどはさしずめ、西日本のほうでがんばっているという工作員さんの書き込みを連想させるものがありますよね。

親鸞会もいよいよ自壊のときを迎えつつあります。新たな道を模索すべく毎日多数の現役会員や現役講師がこのコメント欄を覗き込んでいることでしょう。いかに憎くともあまりにも品性を書いた高森父子への罵倒は、高森氏在世の間は、いましばらく忍ばれるべきところかと存じます。むろん、彼ら父子の悪業は引き続き大いに指摘すべきですが、その際にも、気持ちに余裕ある限り呼び捨ては避け、なんらかの敬称を附してこそ、思い迷う現役会員および講師らへの呼びかけ効果も期待されましょう。いかがなものでしょうか?

投稿: 親一人子一人盆のあはれなり(漱石) | 2015年6月 7日 (日) 13時08分

ここ数年で親鸞会は不審さがかなり表面化されてきた。1つは弁当値上げですね。段々不審さが倍増

投稿: | 2015年6月 7日 (日) 13時25分

親鸞会は信心を偽装するようになってしまった。
真宗においては最悪の謗法だろう。
そこまで成り下がればもう本当にオシマイだ。
威勢がよかった頃の親鸞会はそこまではしなかった。

投稿: | 2015年6月 7日 (日) 15時29分

全盛期の時は高森先生の年齢があるとはいえ、今みたいなことはなかったね。

投稿: | 2015年6月 8日 (月) 08時02分

これほどウソと偽装にまみれてしまっては・・・・
続々と会員もやめていくよ

投稿: | 2015年6月 8日 (月) 16時41分

高森が死んだらビデオを見に毎週富山へ行くんかいな。
ある意味オモロイ。

投稿: | 2015年6月 9日 (火) 23時20分

2000畳以外はいらん。だから金がかかる

投稿: | 2015年6月10日 (水) 00時46分

もう2000畳もいらんやろ。
旧本堂(願海)だけで全員入れるんとちゃうか?

投稿: | 2015年6月10日 (水) 19時42分

今や完全に衰退期のカルトですねw

投稿: | 2015年6月10日 (水) 20時42分

名文を引くことより、ベクトルが問題。

投稿: | 2015年6月10日 (水) 23時08分

我々は、封建社会に生きた蓮如上人では無い。

世襲制の天皇制度は、努力を否定する差別制度。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月10日 (水) 23時14分

世襲制の天皇制度を認めている天皇自体、差別の主犯。

浄土真宗横超の願の念仏の功徳をもって

封建社会はすでに破綻している。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月10日 (水) 23時18分

A級戦犯に厳しい天皇。

A級戦犯の生まれや育ちを考えても
許せない思いが強いという意味だろう。

故に、『 今現在 』、

天皇の育ちや生まれに同情する必要は無い。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月10日 (水) 23時34分

神社を参拝する天皇の影響を受けた国民は0名だろうか?

A級戦犯の責任を問うならば、神道を先導する責任も問われる。


世襲制度は、A級戦犯「 家 」の罪も問うている。

世襲制度は、天皇「 家 」の罪も問うている。


南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月10日 (水) 23時35分

親鸞会にも野々村元県議みたいな人がいるって聞いたが、誰だろう?

投稿: | 2015年6月11日 (木) 00時07分

天皇家の護衛はマスコミを使って、

国民を下ネタに誘導し

「 淫欲を満たす子作り家 」の

イメージを払しょくしているが、

天皇家の護衛の策略の被害者ともいえる

親鸞会員は下ネタに脅迫されて和合している。

世間音痴な優等生が多数束縛されている。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月11日 (木) 05時57分

世襲制の天皇制度=差別制度=謗法罪制度=大罪制度=大不幸制度

天皇は国民を大不幸にし、

国民の一部は天皇を大不幸にしている。

世襲制の天皇制度は理論上破綻しているので、

世襲制の天皇制度の保持は仏教をもってしても不可能。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月11日 (木) 06時12分

高森せんせーい!会員を騙すために子や孫まで一緒に騙してどうするつもり?もうあなたに感謝する人、誰もいなくなるよ。

投稿: | 2015年6月11日 (木) 09時13分

天皇の恩と阿弥陀如来の恩、どちらが大きいだろうか?

国民自ら税金を謗法罪制度の保持に使い続け
大不幸になる必要は全く無い。

もしあるなら、警察、消防、裁判所、自衛隊等も撤廃するべき。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月11日 (木) 14時36分

tkodanna

投稿: | 2015年6月11日 (木) 15時46分

少し上の方のカルト教団一覧リンク、スゴイですなぁ

2ch月間ランキング2位に登り詰めてますよ

さよなら親鸞会経由でも沢山の方が閲覧した結果ですよね

カルト教団認定おめでとう

投稿: | 2015年6月11日 (木) 19時58分

天皇側は死後まで保障する気は毛頭ない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月11日 (木) 20時12分

 尊き法体そのものであらせられる高森先生もこの頃はとかくお身体の具合が悪いとのこと。真生会病院の医師たち、とりわけお通じ外来の医師たちは何をしているのでしょうか……せっかくの2000畳も今のままでは宝の持ち腐れです。けれども外道のクリスマスパーティーに貸すようでは、『白道燃ゆ』で善知識おんみずから御嘲笑あらせられた本願寺末寺と同じていたらくとなってしまいます。

 そこでこの際、明橋医師の講演とか、小堀弁護士の法律市民講座とかをやり、収入の足しになさってはどうかと思われます。そしてくやしいだろうが、善知識のご子息も、彼らの話術を学び、盗み取ってはいかがと思うのです。

 なお、善知識さま父子の机の上にはたぶん『岩波文庫』本の『浄土三部経』が置かれておりましょう。むろん内容を味読するためではなく、この労作の訳者であるK師が、

   「弟子同士結婚させながら、女性の弟子と関係が切れず、男性の弟子はそれを知って自殺する」

という痛ましい事件を起こした当事者であり、慈父は愚息を励まそうと、

     「光晴や、お前はこのKの野郎ほど悪人ではないぞ!」

と励ます材料に使っているのでしょう。K師の罪は昭和48年(1973)当時、『週刊新潮』で大々的に報ぜられ、K師は事件以後、一切新潮社から本を出さず、かつ『週刊新潮』の取材にも応じないという形で復讐なさいました。ただ、K師の時代と今ではあまりにも時代が違います。高森父子には、やはりそろそろ現実を直視してもらいたいものです。

投稿: 敵に塩を贈るようですが,いくつか提案っ!! | 2015年6月12日 (金) 20時07分

譬如王法 痛苦極刑(無量寿経)

我々国民は、

闇界の王法を振り回す人々を知覚しつつ
確かに怯えることもできずに

自ら世襲制の天皇制度=差別制度を漠然と維持し続け、

「 差別されました 」

「 愚民政策に騙されました 」

「 極刑に処されました 」と

自作自演ではないかと疑われても

仕方のない因果応報にこれ以上、泣く必要は無い。

南無阿弥陀仏


投稿: | 2015年6月13日 (土) 00時00分

国民の幸せを願っておられる天皇が

「 高齢 」なのだから

早く世襲制の天皇制度を廃止するべき。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月13日 (土) 00時03分

陰で世襲制の天皇制度=差別制度を維持して衆生を非常に苦しめ
表で衆生を非常に楽にして見せる。

こんなことが浄土真宗信徒において行われてはならない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月13日 (土) 00時26分

荒らし連投が続いているようだね。
親鸞会関係者にとっては、堕落した人格や荒廃した精神を装うことは簡単な事です。
永年の親鸞会生活で自分自身が堕落し荒廃しているからね。
実際には装うのではなく地で行くだけです。

投稿: | 2015年6月13日 (土) 00時57分

天皇制批判で目くらましをしようとする親鸞会のネット工作員が沸いてきていますね。

ネット工作員が出てきて書き込みする時には、そのすぐ上に何か親鸞会にとって都合の悪い書き込みがあるのが通常。

投稿: | 2015年6月13日 (土) 03時39分

南無阿弥陀仏を最後に書いている人へ。

コメントなのでご自由だと思いますが、内容が信心と無関係です。
「なにがなんでも南無阿弥陀仏」をつければ良い、という事は如何かと思います。
気に障りましたらごめんなさい。

投稿: | 2015年6月13日 (土) 11時36分

 門主制は天皇制を範と仰ぐものであり、それゆえ、この二つの制度は同時に批判され、かつ靖国批判とも併せて批判されるべきである……その是非はともかく、昭和40年代の後半からまず大谷派でこうした声が起こり、それが同50年代以降、本願寺派へも飛び火したと聞いております。

 昭和59年の本堂座り込み事件に際しては教学論争になじまないためか、門主制および天皇制への批判は親鸞会側から発せられることはありませんでした。ただ、今現在工作員を務めているほどの人々は、本願寺境内に掲げられたポスターや、書籍売り場の書籍などを見ることで、こういうことが当時の両本願寺でしきりに討論されていたことは承知していたものと見るべきです。

 ここしばらくこのコメント欄を埋め尽くす意味不明の書き込みは、親鸞会と直接の関係のない、埋め草にはもってこいのテーマを利用しているものと見受けられます。ほんとはしかし、現在の高森家こそ、戦後の天皇家や大谷家がはだしで逃げ出すほどの絶対君主制なんですけどね。

投稿: 通奏低音を出し続けているということは | 2015年6月13日 (土) 17時07分

明日は富山で高森会長の誤講演ですね。
荒らしは「オサソイ」の一環かな。

投稿: | 2015年6月13日 (土) 22時54分

親鸞会顕正室での一コマ。
後輩「先輩は信心決定しておられるんですか!?」
先輩「もちろん!!!」
(「もちろん、してないよ!!!」の意。後輩は勝手に"誤解"する)

投稿: | 2015年6月13日 (土) 23時03分

真宗聖典をA4にするように法蔵館に葉書を送ったが、未だ改訂されていない。

顕ちゃんとは逹になれそうにもない。

投稿: | 2015年6月14日 (日) 01時18分

天皇制度を廃止しても天皇の人権は守れるが、
天皇制度を継続すると国民(衆生含む)の人権は守れない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月14日 (日) 01時35分

投稿: | 2015年6月13日 (土) 11時36分の人へ

文末の南無阿弥陀仏は、
極重極悪の自分を救い続けて下さっている阿弥陀如来への報謝の意味としたいところですが、ここに悪口等を書く重い罪の消滅を狙っています。


(親鸞会員さんのホームページですので支障のある方はご注意ください。)
http://blog.goo.ne.jp/fujita_srk/e/4ae4a462539ca3ddb95f0f3327b7d208

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月14日 (日) 05時05分

弁当の値上げしたとしても、100円前後が常識の範囲
値上げした分、何らかの付加価値をつけるようにしないと、売れなくなる
自分のたちの懐事情による都合で値上げするなんて、全くの論外

投稿: 準指定暴力団高森会 | 2015年6月14日 (日) 07時14分

その通り。値上げは常識の範囲内。高くても100円以内。それ以上なら買わない。
まだ値段に該当するものが入ってたら許してやるが、ショポイからどうしようもない

投稿: | 2015年6月14日 (日) 07時40分

私はサラリーマンやってますが、1日の昼食は600円以内。休みの日もあるが、月に15000円で抑えてます。
生活をしていくのに1000円の出費はかなりの痛手です。
こんなのに払えないよね

投稿: | 2015年6月14日 (日) 12時09分

あんしん弁当は原価が高いのかも知れませんが、高価なものを会員に押し付けるのは常軌を逸しています。
あんしん弁当を何が何でも利益の出る事業にするという高森先生の欲深いミココロでしょう。

投稿: | 2015年6月14日 (日) 18時56分

本日は青年大会でしたね

弁当不満続出!

投稿: | 2015年6月14日 (日) 19時56分

高価であることは問題ないと思います。
中身が伴っていれば。
あとは消費者が判断するべきです。

投稿: | 2015年6月14日 (日) 21時19分

あんしん弁当も値段に弁当の中身がマッチしてれば誰も文句は言わない
問題
①値上げしてさらにショボい
②材料費の高騰の割りに値上げしすぎ
③利益重視かどうかは知らないが、計画性のない弁当やが儲かるわけがない。 ④1000円するなら海老や高価なものがあって当たり前。

⑤昼飯ごときに1000円もかけられない。
普通の人は節約のために1日500円で済ましてる人もいる。

投稿: | 2015年6月14日 (日) 22時30分

地獄の火で焼かれろクソ森

投稿: | 2015年6月14日 (日) 22時56分

食堂の方はどうなのでしょう?
今でも500円で定食やカレーが食べられますか?

投稿: | 2015年6月15日 (月) 00時11分

今はサービスエリアにコンビニあるし、おにぎりを家から持っていくかしたら安上がりだよ。
モノには限度がある

投稿: | 2015年6月15日 (月) 00時24分

お茶付き弁当になりましたが
そのお茶は、あんしん緑茶。
500mlのペットボトルで200円。

投稿: | 2015年6月15日 (月) 10時47分

平成3年(1991)、左翼ジャーナリスト本多勝一氏が知人から幸福の科学の書籍を贈られた際、驚きと軽蔑とともにしたためた文章のタイトル、それが「こんな宗教にも信者がいる!」でした。私は本多氏の左翼的言説には批判的ですが、それでも彼がこの随筆の中で指摘したその当時の幸福の科学のカルト性は、かなりの部分まで親鸞会にも当てはまるかと思われます。

これから数年後には真宗難民ならぬ親鸞会難民が数千人規模で生産されましょう。信徒自体は1000人に満たずとも、信徒にゆかり深いご家族を含めれば「難民」はやはり数千人規模に達するかと思われます。

  ネットの発達により、親鸞会は最後最大の「善知識だのみ」となりましょう。同じく「善知識だのみ」の集団ではあっても、佐々木是海師とその実語教会が、若き日の木津無庵師へ存分に学費を提供し、木津師がこれによってこんにち全国いたるところのホテルに置かれている『仏教聖典』を編み得たのは、すこぶる有意義なことでした。しかるに親鸞会といえば、不気味な巨大施設を残るのみ。両集団ともに福井の三国にかかわりがあるだけに、その鮮烈なコントラストに驚かされずにはおられません(佐々木師のお寺は三国にあり、親鸞会の顕真学院は、その隣町にある)。

  終わりに、2015年6月14日 (日) 22時56分の方の「地獄の火で焼かれろクソ森」というお気持ちも理解できますが、このコメント欄を閲覧していらっしゃる多くの現役会員に無用の反感をいだかせぬためにも、怒りを抑えてもう少し表現に留意なさるよう念じてやみません。

投稿: こんな宗教にも信者がいる! | 2015年6月15日 (月) 10時49分

ビジネスの視点から言えば、「何がなんでも利益を出す」というのは正しい考え方です。赤字になるようでは経営者失格と言われても仕方ありません。
ただし、不正をしたり、価値の高くないものを高額で売れば、その報いを受ける。それだけだと思います。

退会者が言葉使いに気をつけるのが大事なのには同意します。一方で、親鸞会に対する怒りを吐き出す場も、どこかに必要なのかも知れません。

投稿: | 2015年6月15日 (月) 11時17分

弁当を経営するならば利益を出す、儲けるのは当たり前です。設備を投資してますから償却もあります。
ただ費用対効果ですよ。 弁当経営するならば、まわりの人口などリサーチをしないと意味がない。
お茶を200円?意味わからん

投稿: | 2015年6月15日 (月) 12時35分

2015年6月15日 (月) 11時17分さんのご理解ご海容に心より御礼申し上げます。6年以上も昔、被害者家族の会の掲示板へ、親鸞会をSMクラブに、そして高森氏をそういうお店の「女王さま」になぞらえる書き込みをしましたら、会の世話人さんから、

   「女性の方も閲覧なさる掲示板です。品性を疑わせるような表現は慎んでください」

と御注意を蒙りました。自分ではいかにも親鸞会の現実をよく描いた表現だったと今でも思うのですが、発表する場が不適切であったと反省しております。
  
  それで経験者としての立場から申し上げたいのですが、高森氏やその子息を罵倒するにしても、どういう理由から罵倒されるべきなのか、委曲を尽くして書き込むことが肝要であるように思われます。単に「地獄へ落ちろ」や「くたばれ」と書くだけでは、やはり不十分かと思われます。いかがなものでしょうか…。

投稿: 悪罵も時には有効ですが… | 2015年6月15日 (月) 13時16分

本来ならコスパが悪く高価すぎて売れない物を、会員に押し付ける商法に問題があるのです。
何が何でも利益を出すのは元来営業努力の話です。
オーナーや経営者の努力ではなく、食べれば宿善になるかのような印象操作をしながら逆らえない会員に売りつけるのは悪徳商法でしょう。

投稿: | 2015年6月15日 (月) 21時31分

そうだよね

値上げ→弁当を買う→シュクゼン
おかしいね

投稿: | 2015年6月16日 (火) 12時26分

   「信」仰の「濃」い町へ参りますと、市価よりいくぶん高めの品(サービスをも含む)が創価学会系企業によって提供されているのを目にします。親鸞会は、こういう営利活動に関しても創価学会と覇を競い、「これを破析した」と言いたいのでしょうか?(なお「これを破析する」とは10数年前に『別冊宝島』に掲載された親鸞会関係ルポルタージュに見える表現でありまして、親鸞会が他教団をいかに論破したかを取り上げる一段上に見えております)。

    小杉町の「こすぎ」は、創価学会のひそみに倣えば、「味が濃すぎ」っていう意味が込められているのでしょうか? 現在の教団本部の土地がどうやって購入されたのかは存じませんが、なんだかこんなことまで勘ぐらずにはおられませんよ。

投稿: 信濃町も射水の森も同様ということですね? | 2015年6月16日 (火) 15時30分

弁当について
会員が自分で納得して買っているなら問題無い。
本当はイヤだけど、「上司が言うから」「会の為」「先生の御心」「仏縁になりそうだから」という理由なら悪徳商法と同じ。

こんな感じでしょうかね。

投稿: | 2015年6月16日 (火) 16時28分

そうよ。
本人が食べたいならば問題ない。

みんなが買ってるから買った。
親鸞会のため
お布施。
この考えはおかしい

投稿: | 2015年6月16日 (火) 20時04分

http://world-fusigi.net/archives/7958207.html?p=5
投稿: | 2015年5月25日 (月) 20時10分 の方があげられてるように
世間様には小規模ながらもカルト教団と認識〜

これを読んでカルト教団だと分かりました。
信者盛ってると思いますが、献金額はそれなり、ってことは一人当たりのお布施要求額が尋常じゃないってことですか?

投稿: | 2015年6月16日 (火) 20時47分

皆に近視、貧乏、肥満、憎悪沸騰頭、憎悪腹を
義務化している気がする顕ちゃん。

衆生の病気の人の気持ちを理解する為に
多種多様の病気になる必要があると考えているに違いない。


・・・・・・。


師匠として超越しすぎている。


投稿: | 2015年6月17日 (水) 02時03分

一日一訓に「男は男らしく 女は女らしく」と載せてしまい人々の怒りを買っている顕ちゃん。 

他人にその怒りをぶつけさせているに違いない。

・・・・・・。

師匠として怖すぎる。

投稿: | 2015年6月17日 (水) 19時20分

親鸞会では、勢至菩薩の化身に女性でもなれるらしい。

きっと顕ちゃんの国際評価も高まるにちがいない。

でも、ホームページにも辞典にも載っていない。

・・・・・・。

師匠として理解できない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月17日 (水) 19時57分

セイホンドウ
ドウボウの里
全国各地の会館
アニメバス
バス基地

アニメ

上げたらキリないですが、毎イベント毎にお布施要求あります。
S会がカルト群の中でもトップクラスの献金額要求してくるのは有名ですよね。
カルト教団たる所以なり。

投稿: | 2015年6月17日 (水) 21時07分

けんてつは同朋の里とかアニメバスとかF館・正本堂とか弁当屋とか、シタイ放題してるだけなのに、「仏法のため」「真実開顕」「破邪顕正」だとか、こういう詭弁でなんでもお金引っ張っていく。

しかし実際には仏法とか顕正などと何の関係もないものばかり。もし弁当屋まで関係あるというなら、自転車屋でもパチンコ屋でも運送屋でもなんでも関係あることになる。

投稿: | 2015年6月17日 (水) 21時23分

お金を引っ張るという表現は親鸞会にピッタリですね。

投稿: | 2015年6月17日 (水) 23時12分

http://www.shinrankai.or.jp/

実に7ヶ月ぶりに更新された親鸞会のオフィシャルサイトですが、我とわが目を疑ったのは、ハワイ大学の名のある真宗学者、満89歳のアルフレッド・ブルーム教授がものの見事に籠絡され、親鸞会の広告塔にされていることでございます。まことに痛恨の極みです。親鸞会は今後数年を出(い)でずして凋落することではありましょうが、彼らはそれに甘んぜずこんなにも業を造っている。高森氏父子はこんな悪業を重ねておれば地獄ゆき必定だといういことにまだ頭が回らぬのでしょうか?

投稿: 老学者をして晩節を汚さしむるとは,罪深い! | 2015年6月18日 (木) 20時57分

仕方ない。
高森は騙しの天才だからね。
知的能力の高い人でも詐欺師に騙されることは珍しくはありません。

投稿: | 2015年6月18日 (木) 21時36分

「 日本人 は自分に厳しい。」と自称日本人は思っている。
 
故に自称日本人は日本人では無い。

故に全国に い・わ・ゆ・る 「 日本人 」は一人もいない。

そして顕ちゃんも日本人ではない。

「自分は86年間外国人だった。」という衝撃的真実に気付いて新鮮な気分の顕ちゃんに会えないことに ガックシ 。

投稿: | 2015年6月19日 (金) 01時21分

顕ちゃんは、兄弟関係のみならず人間関係すべてを破壊できる力持ち。

「親鸞会員だけがあなたにとって最良の縁」と思わすことのできる凄腕師匠なのだ!

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月19日 (金) 01時27分

投稿: | 2015年6月19日 (金) 01時21分詳細

「 日本人 は自分に厳しい。」と自称日本人は思っている。
故に、自称日本人は日本人では無い。

理由:自分に厳しい人は、自分は自分に甘いと思っている。

投稿: | 2015年6月19日 (金) 01時42分

日本語のネイティブスピーカーでさえ騙されるんだから、日本語があまりわからない外国人なんて、赤子の手をひねるように騙されるでしょう。まして教授とはいえ89歳の高齢者。軽度の認知症があってもあたりまえの年代だし。
英語ができる人で、ここにいる人がメールで警告してあげたら、多少は疑いの目も持つでしょうが・・・
そういえば高森教義を論破した紅楳英顕先生は、英語が堪能だったんじゃないですか?

投稿: | 2015年6月19日 (金) 01時52分

話がそれますが、
●城の■手講師は辞めたのですか?

投稿: | 2015年6月19日 (金) 12時04分

■手講師が納棺師の学校の講師をされている事を知りましたか?親鸞会の講師を辞めたかは知らないです。

投稿: ブラウンタビー | 2015年6月19日 (金) 23時10分

投稿: | 2015年6月17日 (水) 21時23分の方へ

精進料理と掃除は禅宗では修業内容なのでは?
御一代記聞書にも蓮如上人が料理のおもてなしに
口出されている記録があるみたいです。

しかし、何で赤字だったんだろう?
どっかの赤字店舗の善知識を謗ったんでしょうか?

自分のされた事を考えるといい気味ですが、かわいそうな気もしてきます。

投稿: | 2015年6月20日 (土) 02時05分

■手講師のアメブロのプロフィールに
「一度は仏門を志しましたが、いまはその立場を離れ、」とありました。
奥様も一緒に辞めたのかな

投稿: | 2015年6月20日 (土) 06時42分

会長自身よりも情けない幹部講師どもに腹が立つ。
奴らに制裁を加えられないだろうか。

投稿: | 2015年6月20日 (土) 09時21分

辞めてく子牛は正しいですよ

あんなパクり盗作の会に入る必要性なし

辞める勇気も実行力もない

言いなりイエスマン機械人形の

使えない輩より、よっぽど賞賛できます

投稿: | 2015年6月20日 (土) 11時17分

辞めてもいいよ。
給与なし
パワハラ
何が楽しいの?

投稿: | 2015年6月20日 (土) 12時26分

   「男は男らしく、女は女らしく」という思想を堅持して捨てない男性は、往々にして自己愛パーソナリティーの持ち主であり、しかも男性政治家にしばしば見受けられる…本業は精神科医師で10数年前縁あって民主党の女性衆議院議員として活動した水島広子医師(1968年生まれ)が2003年5月に朝日新聞社から朝日選書の1冊として出された『国会議員を精神分析する:「ヘンな人たち」が生き残る理由』の中で詳しく分析しています。

    彼女の所属政党も、出版元もむろん批判すべき点の多い存在ですし、かしこくも皇后さまの姪に
あたられる彼女が二世議員を忌憚なく批判する姿に違和感を感じないわけでもありません。ただ、こういうことは明橋医師には今のところ到底出来ない芸当かと思われます。明橋医師がこういうことをおっしゃるようなら、無事自己洗脳を解いたものと見て、お赤飯でも炊いて差し上げねばなりますまい。
   さて、水島医師いわく、

  〈このような人たちは、いろいろな価値観において、驚くほどの共通点を示す。教育においては、「教育とは、厳しく教え込むもの」という考えを持つ(引用者注:顕真学院の礼儀作法教育?)また、このような人たちは。ジェンダーフリー(固定的な性別役割分業からの解放)にも基本的に反対で、「男らしさ」「女らしさ」をことさらに強調する。家制度への郷愁があり、強い父親を中心とした家族を理想とする。(後略)

   「子どもは厳しく育てろ」という考え方には、一人一人の子どもへの共感があるだろうか。いじめられて自尊心がボロボロになっているところに、「男なんだから弱音を吐くな」と厳しくすることが子どもの自尊心に決定的な打撃を与えて、自殺へ追い込むこともあるのだ。単に厳しくければよい、という話ではない。

   「男らしさ」「女らしさ」「強い父親」をことさらに強調する考え方には、その枠を強制されることで苦しんでいる人たちへの共感があるだろうか。「男らしさ」に縛られて、弱音を吐けずに過労死うあ自殺を選んでいく男性たちへの共感は? 「女らしさ」に縛られて、不本意な生き方を強制されてストレスがたまり、子どもを虐待してしまう女性と子どもたちへの共感は?(後略)

   真のリーダーシップというのは、他者の意見にも耳を傾け、合意形成をしながら、目指す方向に集団をリードしていくことだと思う。決して独断的に他者の意見を押しつぶして進めてくことではない。(後略)〉(前掲書123頁以下から抜粋)

   児童精神科医師だという明橋先生にこれほどの思い切った意見が書けるようになり、しかも高森氏父子に具申できたとき、明橋医師を次代の親鸞会指導者と仰ぎ、協力する人も会の内外から多数出現するように思われます。ただ、オフィシャルサイトと並ぶ親鸞会のネット上の顔である「イミズム」を見る限り、

     「女性は若くなきゃダメ」

という誤った、古臭い価値観に貫かれており、やはり「この師匠にしてこの弟子あり…」、という思いを禁じ得ません。いわく、

    「うるわしき女性の手によって除幕式が執り行われた」うんぬんと(新会館落成式典を報ずるいくつものブログ記事)。

投稿: 「男らしく」「女らしく」について慨嘆しつつ | 2015年6月20日 (土) 22時25分

■手講師は辞めてよかったと思います。
高森会長の教えがデタラメで、親鸞会が浄土真宗の上っ面だけを濫用した金集めの教団であることが、判ってしまったんでしょう。
個人レベルでも、給料もなく、会もいつまで続くかわからないし、苦労して捻出した献金の大半は何に使われているのかわからない(高森一族の贅沢三昧などに浪費されているらしい)・・・では、もうこれ以上居続けることは無意味と判断されたんでしょう。

自分の人生を取り戻すことは阿弥陀仏のお導きです。親鸞会に居続けても19願の名の下、無駄に献金や聴聞を強要されるだけで、阿弥陀仏の本願には無縁です。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 00時33分

■手講師って■手敏郎君のこと?

投稿: | 2015年6月21日 (日) 03時21分

何に使うのかは明確にしないといけない。
まだ懲りないかな。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 11時31分

以下の説明がほしい①講師の給与なし②建築ラッシュ③関連企業のサービス残業④講師のパワハラ⑤深夜訪問⑥収支がない

投稿: | 2015年6月21日 (日) 14時10分

支部長だった人・講師だった人が退会するとき、
関わった会員に理由を言うでしょうか。

支部長は担当支部をはずれて(はずされて?)、弘宣局とか他部門にいってから退会するパターンが多いですか?

投稿: | 2015年6月21日 (日) 14時27分

人事異動があるから、支部長が外れても説明はないだろ。
親鸞会も子供から年寄りまでみていかなきゃいけないからね。
親鸞会の味方はする気はさらさらない。

退会しても体調不良とかでごまかすだろ

投稿: | 2015年6月21日 (日) 15時50分

お金の話は説明しないといけない

投稿: | 2015年6月21日 (日) 15時52分

言葉が足りませんでした。 

退会に際して、その支部長自身が、担当していた会員に、理由を説明することはないのでしょうか。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 15時59分

退会の理由にもよるでしょうが、連絡とらせないように仕向けるかもね。

おれも経験あるが、連絡とるなって言われた。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 16時51分

そう、ないこと無いこと嘘で塗り固めて連絡一切取るなと、アホなこと言ってくる親鸞会の屑。
本人に連絡取って、事の詳細真実を確認すると!全く親鸞会が言っている事が嘘ウソうその塊ブラック集団だと知らされる。
それで目が覚めてスパッと退会できますよ。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 17時55分

建築は各地方に会館作るって各地の会員に建築費用・運営費用を要求し、落慶の時1回だけ会長降臨。あとはポイ捨て。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 17時58分

各地の会館は問題だな。 各地の会館の立てるのはご放射でなんとかなる。
あとは維持だよ。光熱費はたいしたことないが、あとは
固定資産税だよ。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 19時27分

親鸞会員にとって会長に会えるのは人生に一度あるかないかの大変なご縁。
全財産投げ出す人もいるかもしれない。
会ってやると言うだけで全財産取れるなら、会長にとっては美味しすぎるネタ。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 20時34分

ばかばかしい

投稿: | 2015年6月21日 (日) 21時00分

上記でどなたか言ってた広告塔で気になるのがいますね。
例のごとく、S会は他教団の劣化コピーで笑えますが、
元お笑い芸人ってのを広告塔でウリにしてますよ。

投稿: | 2015年6月21日 (日) 22時24分

■手講師は、私が知る限り、元講師としては、世間的には一番日のあたる場所に出ていらっしゃるように思われます。むろんぶるうのさんも、宮田氏も、嶋田氏もそれぞれの持ち場で苦しむ元会員のため全力を尽くしていらっしゃることを強く認識しておりますが、世間はしかし、■手講師のような筆の立ち弁も立つ人物へスポットを当ててしまい、事情を知らぬ世の多くの人も彼のような人へ拍手を送ってしまうのでしょうか……

彼は自分がかつて所属した親鸞会を「仏門」であるの「浄土真宗」であるのと表現しているが、どうしてはっきり「カルト教団です。でもそこから抜け出すすべを知っております」と言い切れないのだろうか。おまんまが食べられなくなることがそんなにもこわいのだろうか。これでは高森氏が嘲笑した清沢満之にさえ及ばないではありませんか!

   「独立者は生死巌頭に立在せざるべからず。牢獄すら甘んじて受くべし。いわんや余他をや」

清沢師のこういう覇気が、高森氏や現幹部らに果たして少しでもあるのだろうか、疑われます(そのくせ高森氏は清沢師の御講演の一節をパクっているのです。仲良しばかりの一家と喧嘩ばかりの一家というあれです。『100の花束』の中でパクっております)。

  長く所属していた組織を離れ、すぐに他の場所で食べていける人のことを「人徳がある」というのだそうです。ある程度までは同意できますが、それでもなおひっかかります。■手氏の今のありさまを見るにつけ、世間って何なのだろうかと思います。彼が著作を世に問うた出版社は、大手出版社がなかなか出せないような深刻なテーマの本(中国政府の法輪功弾圧など)を果敢に世に問うているので好感をもって眺めておりましたが、彼が何食わぬ顔で本を出すのを許したという点で、相当の幻滅を禁じ得ません。とりとめもない文面となりましたが、皆さまの御見解をも仰ぎとうございます。

投稿: 混乱してます,世間って何なんでしょうか | 2015年6月22日 (月) 10時01分

奴は偽装脱会ではないか?
親鸞会的な欺瞞で塗り固めてあるぞ。
退会者に追い詰められて困った挙句、信心偽装に続いて「偽装退会」作戦を考え出したのではないかな?

投稿: | 2015年6月22日 (月) 22時02分

講師部や親友部を退部、退任しても一会員として会に残っている人もいるので講師部退部イコール退会という短絡的な物言いは控えた方がよろしいですよ。

投稿: | 2015年6月23日 (火) 13時06分

宣伝するな。お前は親鸞会の回し者か?

投稿: | 2015年6月23日 (火) 20時38分

  かつて保守的新宗教の最右翼と称された「生長の家」では、3代目会長が、創立者である祖父の著作を絶版にしたうえ、昔とはうって変わった左寄りの言動を繰り返すようになりました。それで本部講師(有給)、地方講師(無給)といった、布教に従事する人々が陸続脱会し、それぞれの道を歩みつつあります。親鸞会の場合と同様、教えを語りあるゆるやかなグループを形成しつつある元講師もおれば、トランスパーソナル心理学を基調とした自分なりの教義を新たに語りはじめる元講師もおります。

  親鸞会の元専任講師の場合もほぼ似たような状況を呈しつつあり、いかにも興味に堪えません。●手敏郎氏の場合は、自分なりの法を説く部類に属し手いらっしゃいましょう。ただ、それにしては親鸞会講師としての日々を総括する言葉を今現在の彼は著しく欠いており、これではさまざまな憶測を呼ぶのも無理はないと思われます。

  別に難しいことはありません。親鸞会では、たとい史実でない事であっても、高森氏が「史実だ!」と仰せられれば、それを丸呑みにせねばならぬようですね。たとえば例のハイデッガー日記など(↓)。
http://www.shinrankai.or.jp/koe/090828ronbun.htm
    (ついでに申しますと、同じ画面に掲載されている「歎異抄関係の論文ゼロ」なる記事も興味深いです)

   たといハイデッガーが日記の中で、あるいは何らかの著作の中で本当に親鸞聖人に言及したのだとしても、彼がナチス敗北後、ひとたびは「堕ちた偶像」となったことをに言及するのが、こういう記事では常識ではないでしょうか。大哲学者も「時代の子」であるという視点が欠かせないと思われます。

   たしか高森氏はその著作の中で、ハイデッガーとユダヤ女性たるハンナ・アーレントとの不倫の恋について触れてはいたけれど、覗き見的興味(偉人も所詮は…という視線)の域を出るものではありませんでした。●手氏が名実ともに脱会したことを会の内外へ知らしめたいのであれば、このあたりの作業が欠かせないのではないでしょうか。「俺は旧師から卒業したぞ!」と印象づけるような何かが…。

投稿: 「講師」と名のつく人々が陸続脱会しつつある教団を見ますと | 2015年6月25日 (木) 09時44分

いまどき子供が3人以上いる講師は人種差別者では?

今、世界平和を考えるにあたって日本は移民を受け入れていくしかないと思う。


地球の人口爆発を全く気にしなかった講師は
世界の衆生を餓死させた極悪非道の戦犯に等しい。

心と身で造る罪は一番重い。

我々は子供では無い。

如何なる理由も許されない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月25日 (木) 10時26分

1つのコメントではテーマを1つに絞った方がいいですよ。
人種差別、移民、世界平和、人口問題、飢餓、親鸞会、罪悪、子供の人数
と、話題を広げすぎると、読む人は混乱しますから。

投稿: | 2015年6月25日 (木) 11時41分

よく落ち着いてお読み下さい。

混乱するのはあなただけですから。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月25日 (木) 15時21分

投稿: | 2015年6月25日 (木) 10時26分の方へ

「子供が3人以上いる講師は人種差別者」とか意味不明です。

人口のハイスピードの増加は食料問題などでたしかに人類にとって大変な問題です。しかし日本ではむしろ少子高齢化が問題になっていて、将来を担う子供の増加は望まれています。
また、人口問題は個人ではなく、国家や世界単位で解決しないといけない問題で、(たとえ食糧事情の悪い国でも)子供をたくさん作ったということで個人が非難されるいわれはないし、まして「差別」ということとはまったく関係ないと思います。

あなたはいくつかこのような書き込みをしておられるようですが、なんでも「南無阿弥陀仏」で締めくくればOKになるという親鸞会的思考停止発想(なんでも「仏法のため」「真実開顕」といえば、話が通る)と同じです。

新手のネット対策員のような感じがします。

投稿: | 2015年6月25日 (木) 18時32分

あなたは違うかもしれませんが、この世には南無阿弥陀仏を称えなければなんでもOKと思っている偽装衆生の人々も多数います。

よく読まれたのでしょうか?

私は衆生の親を責めたのではなく、
子供を3人以上養っている講師を責めているのです。

あなたは、国家や世界主導でしか判断できないように
教育された人なのですか?
講師にもなれば社会責任も問われます。


子供を3人以上養っている講師は、

「 日本のことしか考えなかった 」だけじゃないんですか?

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月26日 (金) 01時23分

あなたは子供を作る時全世界のことを考えて作るのですか?
子供を作るか作らないかは、個人の自由ではないですか?
なぜ多産だと差別になるわけですか?

投稿: | 2015年6月26日 (金) 03時11分

話が変わりますが
7月の法話の時の、あんしん弁当、
お茶付きで800円ですって。
100円下げたんですね。
8月の追悼法要で高いのを出すつもりかもしれません。

投稿: | 2015年6月26日 (金) 10時49分

あなたは、講師にも地球の人口爆発を全く考えずに無責任に子供をドンドン作る自由がこの世にあると言っています。

私の講師に求める社会責任があなたと違って重すぎるのかも知れません。

彼ら彼女らは、
子供を作る時に世界の飢餓に苦しむ衆生をすっかり忘却するという大罪を犯した後、

「 世界の衆生のことを考えろ! 」と我々に言っているのではないのですか?


南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月26日 (金) 15時12分

http://www.geocities.jp/efafi107/308/308.htm
               (岸和田健老大学,講演の記録)


「親鸞会  高齢者」という言葉で検索をかけたら、かれこれ7年前のものではあるが、山中講師の講演概要を得ました。大学での布教をあきらめ老人大学へターゲットを移したとはいかにも罪深いことと思われます、

投稿: 大学から「老人」大学へとターゲットを移しつつあり | 2015年6月26日 (金) 19時24分

http://www.geocities.jp/kisiwadakenrou/108/108.htm
(↑  こちらこそが7年前の講演録,さきのは2年前のそれ)

とにかく日本は思いのほか広く、これだけネットが発達してもまだ親鸞会講師がまともな宗教者を装っておおやけの場で活動できるのだということが慨嘆とともに改めて認識されます。老人大学の中にも、山中氏の背景をよく把握しないまま、その講演を許してしまうような人がいらっしゃるのでしょうか。

投稿: と思ったら2年前にも同じ老人大学で講演 | 2015年6月26日 (金) 19時29分

高齢者向けの仏教講座だけではありませんよ怖いのは。
書店に行けば伝統宗教のコーナーに教祖の著作があるのですから。新興宗教の教祖の著作である以上、大川隆法や文鮮明の著作と同じコーナーになくてはおかしいのではありませんか?
気になることがまだあります。実はあんしん弁当の商品ですが、生協でも惣菜を扱っているところがあります。やめるように申し入れてもだめです。本当に困ったものです。

投稿: | 2015年6月26日 (金) 21時00分

https://www.anshin-bento.jp/staff/

  社長は谷村氏、部長は女性でこれも谷村。するとこの二人はご夫婦であり、いわゆる親友部の部員と解釈してよいのでしょうか? なお、スタッフの一人に猫好きな方がいらっしゃるようですね。僕は衛生面のことを考えて、サイトにはこういうことを書くべきではないと思います。
   「猫を触った手をきちんと洗ってくれてるんかいな? 」
などとついつい考えてしまいます。

  にもかかわらず、あえて「愛猫と遊ぶのが趣味」だなどと書くのは、高森氏が犬好きにもまして猫好きで、

   「『前世は猫だったのではないか』と思うこともある」
                           (『白道燃ゆ』)

とおおせられているので、高森氏の歓心を買わんがためでしょうか。弁当屋といい、病院といい、利用者よりも高森氏のほうを向いているように思われます。そうだ、病院の医療事故の件、あれからどうなったんでしょうね?

投稿: あんしん弁当の社長ご夫妻は… | 2015年6月26日 (金) 21時16分

ビデオ法話が一切なくなった。アニメだけ。なぜかわかりますか

投稿: | 2015年6月26日 (金) 22時49分

わかりませんが教義批判に持ちこたえられないと判断したのでしょうかね。
毎回アニメだけでは、聴聞の帰り道に虚しさでクラクラしそうですね。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 01時39分

個人的に、趣味が家庭菜園と草むしりと自己紹介されている安心弁当のスタッフさんにも手を特に「 爪 」をしっかり💛洗ってほしいナ💛(^0^)

アニメだけになった理由はよくわからない。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 02時18分

アニメというか、アニメの通信講座みたいな感じ。
アニメバスとかから入った人を会員にするためじゃないかな。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 13時37分

理由はわかるが、高森先生のビデオ法話を一切なくす理由にはならんだろ。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 17時56分

彼らは自分の子供の優位性を保たせる為に学校とも連携している。
自分の子供の学力が低ければ周辺の衆生の親の子供のせいにしたり、衆生の子供に譲ってやっていたと吹聴し自分の怠けていただけの子供を神格化する。
そして最後、自分の親族ぐるみで助けた元衆生に恩を着せ自分の社会責任をなすりつけ自殺を要求している。
このようなやり方を何世代にもわたって続け今も社会の上層部に君臨し続けている最中である。

そして親族以外には「命を懸けて布教しない人間は自殺しろ!」と暗にほのめかしながら布教している。しかし、その布教活動は鈍(なまく)らで年中無休・24時間制のコンビニエンスストア等よりも三分の一の8時間制と非常に劣っている。

「 言葉だけで実態は鈍(なまく)らな組織 」とは、親鸞会のことだろう。

(上記の政治に無関係な親鸞会員も存在します。)

南無阿弥陀仏


投稿: | 2015年6月27日 (土) 18時53分

いつのことだったか忘れましたが、
“ご法話”のビデオは録らない、という方針になりませんでしたっけ?
「参詣しなくてもビデオご法話で聴聞すればいいや」という気持ちになるから…って理由。


こちらの支部の7月の日程表には、
「講演会」(ビデオご法話)ありますから、各支部の都合では?

投稿: | 2015年6月27日 (土) 19時35分

ビデオ法話はたしかにとらないって話。ただ会員には言ってるが、実際には撮ってるよ。
地区や支部でちがうのかな

投稿: | 2015年6月27日 (土) 20時47分

親鸞会学友部にいたときだが、毎日寝る時間以外授業があるとはいえ、毎日かつどうやった。無休・無給。体育会の部活でもないって、苦言を言ったら、教えがわかってないっていわれたな

投稿: | 2015年6月27日 (土) 20時51分

ある支部でかなりの高齢だが、無給・無休で寝る時間も数時間(普通の人や講師よりもすくない)で活動されてるかたがいる。
無給といっても年金はあるだろうけと。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 20時54分

一度撮らないってことになって、しばらくしてまた復活したんですよ。
ころころ方針が変わる。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 20時56分

内部は無休なのかも知れないが、外部の衆生には無休に見えない。

親鸞会の電話対応は、消防署の電話が9時から17時までしかつながらないようなもの。急用の人は再度電話しなければならず、時間も手間もかかる。

「早く布教しろ!」とばかりに常に緊張をかけてくるが、すべてインチキ。

投稿: | 2015年6月27日 (土) 21時44分

彼らは自分の利益を優先し、
衆生の生活を苦しめた後に救ってみせる。
そして、再度苦しめるている。

つまり、

放火犯が消防局員のようなもの。お布施しだいでは消火もサボる。

(無関係な会員もいます。)

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月27日 (土) 21時55分

上記、「再度苦しめるている。」を「再度苦しめている。」に訂正します。誠に申し訳ありませんでした。   
南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月27日 (土) 22時00分

親鸞会の電話対応は何時から何時までですか?

投稿: | 2015年6月28日 (日) 17時23分

6月27日 (土) 20時54分さんのお書き込みを拝し、やはり憂慮に堪えません。「でかなりの高齢だが、無給・無休で寝る時間も数時間」…なんたる老人酷使でしょうか?  万一のことがあり、遺族から抗議されたらどう弁明するのだろうか? 「部室過労死事件」の老人版が遅かれ早かれ発生するということでしょうか。

投稿: 高齢のボランティアさんですか? | 2015年6月28日 (日) 20時16分

最近は高齢化が頻繁に言われますが、70でも高齢ですからね。
当然だが、学生みたいな過労死はありませんよ。
年齢も高齢ですから体が動きませんしね。
言い方変えたら拘束時間が長いですね。
聞いた話だから詳細はわからないが事実ですね。

投稿: | 2015年6月28日 (日) 20時54分

百獣の王のライオンでさえ獲物になりそうな動物を
日々24時間脅したりしはしない。

親鸞会は、自分の子供や孫の為に日々24時間
衆生を苦しめる意志を持って活動し続け、
その後救ってみせている。(無関係な会員もいます)

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月29日 (月) 03時42分

〉その後救ってみせている。(無関係な会員もいます)

正確にいえば、あくまでも「救ってみせている〔ふりをしているに過ぎない〕」のであり、かつ、一部の覚えめでたい講師やカモたち(富裕で情報弱者の高齢会員)を除けば、救済からは「無関係な会員」ばかりなのではありませんか?

  文章の終わりにお名号を添える文体の持ち主は、このコメント欄ゆかりの人々の中ではまず「とくよしみね」さんが念頭に浮かびますが、彼の文章は真摯な法味に満ちたものばかりです。

  天皇制その他、親鸞会への建設的批判闘争とはおよそ無関係の書き込みをここしばらく行っていらっしゃる貴殿は、そろそろ、とくよしみねさんへ相済まないという気持ちをお持ちになり、文章の終わりにお名号を添えるのをおよしになってはいかがですか? あなたはいったい誰です? 工作員さん? それとも昔なつかしい渡海難さんですか。いい加減にして頂きたく思います。

投稿: おしまいに南無阿弥陀仏さん,大丈夫ですか? | 2015年6月29日 (月) 10時14分

http://www.shinseikai.jp/sp_outpatient/otsuji.html

  まさかとは思って検索しましたが、ほんとに「お通じ外来」ってあるんですね。会長と同じ苦しみを味わう名もなき庶民のため、会長が深いみこころ、お慈悲を胸に御創始なさった…ということでしょうか。絶句です!

投稿: お通じ外来…ほんとに実在していたとは… | 2015年6月29日 (月) 12時00分

>救済からは「無関係な会員」ばかりなのではありませんか?
恐らくその通りだと思います。

あと、文末にご名号を添える自由を認めて頂ければ
より「 通じ 」合える気がします。(^0^)

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月29日 (月) 22時24分

荒らしている人は親鸞会で心が壊れたんだろう。

投稿: | 2015年6月29日 (月) 22時43分

南無〜の人は機械人形に成り果てた哀れな末路ですね

S会に関わると人でなくなりますって典型的な例ですね

投稿: | 2015年6月29日 (月) 23時09分

機械人形!?
 
マスコミを利用し人々を差別し、
謗法罪を造り続ける大罪の天皇一派なんかに
我々は騙されはしない。     

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月30日 (火) 03時55分

高森家は戦前の天皇家の現代版でしょう? これに比べたら現在の天皇家や、東西両本願寺の大谷家ははるかに民主化されていますよ。機械人形さん、高森父子に洗脳されて、くやしくないのですか?

投稿: 会員を差別するのは問題ないのかな? | 2015年6月30日 (火) 21時17分

エムハルよ。さっさとバイク事故で他界せえや。

投稿: | 2015年6月30日 (火) 22時14分

コリン星人やポムポムプリンならまだしも、
機械人形はチョット・・・。(^v^)
天皇制について高森父子に洗脳されたことはない。
高森父子は親鸞会の世襲制を認めている時点で怪しい。

天皇「 一派 」は未だ民主化されてはいない。
いかなる広報活動にも脅迫にも我々は決して騙されない。南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年6月30日 (火) 22時17分

機械人形が脊髄反応してるよwwwww
今までの工作員と同じ動き。
言動全てが機械人形してる事に自覚が無いって、、、屑でしょうかw

投稿: | 2015年6月30日 (火) 22時56分

親鸞会教義には反しないようにきちんと考えてやっているようだね。
オモシロイ。

投稿: | 2015年6月30日 (火) 23時24分

この国の天皇があの年齢まで生きて助かっていないということがありえるのだろうか?天皇以外の国民を出来る限り変人呼ばわりしたい護衛の罠に引っ掛かっている場合ではない。天皇と護衛一派の謗法罪から目を背けさせたいだけ。
世襲制天皇制を容認し即位した時点で天皇は衆生を苦しめる側。
国民をバカにするな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
我々は幾度も騙されない。我々は決して騙されない。
南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 1日 (水) 02時17分

天皇制うんぬんと妙な書き込みをしていらっしゃる人は、31年前の座り込み事件の際、しっかりと座り込まず境内をうろうろ、物見遊山ついでにお東の本山も覗き込みに行ったのでしょう。彼(彼女?)が書き込んでる文言は、あの当時、左翼的な一部僧侶が職員組合活動(とりわけお東の本山職員労働組合)を通じ、境内いたるところの掲示板に張り付けたアジびらのそれをそのまま伝えており、不思議なノスタルジーをさえ感じさせられます。

時計が30年もとまったままの彼(彼女?)はやはり、滝壺に落ちるまで親鸞会にとどまるほかはないのでしょう。悲惨といえば悲惨ですが、そういう身をさえ捨てない弥陀の慈光に気づけるのはいつのことでしょうか?

投稿: しっかり座り込みしてたのかな? | 2015年7月 2日 (木) 07時35分

「サイコパス」 とは  「精神病質 - Wikipedia」より

精神病質(せいしんびょうしつ、英: psychopathy、サイコパシー)とは、
反社会的人格の一種を意味する心理学用語であり、
主に異常心理学や生物学的精神医学などの分野で使われている。
その精神病質者をサイコパス(英: psychopath)と呼ぶ。

特徴

良心が異常に欠如している
他者に冷淡で共感しない
慢性的に平然と嘘をつく
行動に対する責任が全く取れない
罪悪感が皆無
自尊心が過大で自己中心的
口が達者で表面は魅力的

サイコパスのひとつに「空想虚言者」という類型がある。

1.【想像力が異常に旺盛で、空想を現実よりも優先する】
一見才能があり博学で、地理・歴史・技術・医学など、
何くれとなく通じていて話題が豊富であるが、
よく調べるとその知識は他人の話からの寄せ集めである。

2.【弁舌が淀みなく、当意即妙の応答がうまい】
好んで難解な外来語や人を驚かす言説をなす。

3.【人の心を操り、人気を集め、注目を浴びることに長けている】
自己中心の空想に陶酔して、他人の批判を許さない。

自ら嘘をついて、いつのまにかその嘘を自分でも信じ込んでしまうのである。

投稿: 元 一般会員 | 2015年7月 2日 (木) 09時12分

どんどん退会していくね。

投稿: | 2015年7月 2日 (木) 14時00分

何で~彼等はサイコパスになってもうたん?

投稿: | 2015年7月 2日 (木) 17時39分

親鸞会講師には平氏の残党が存在する。こっちが源氏なん忘れてんのんに近所等襲撃された。彼等曰く「源氏やから忘れられるねん」。今時大の大人がありえへんって思うけど、よく考えたらま~そ~かな~って思わなあかんところを東条英機が平氏やったし・・・。思うどころか逆に怒りさえ湧いてきて平氏名乗って動くんやったらアイヌにも世界にも弁償しなあかんのんに襲撃されて意味わからへんかった。

宗教団体乗っ取ってまで襲撃するんもサイコパスの一種なのでしょうか?

襲撃中サイコパスとしか思えへんかったワ!

もしサイコパスなら、何でサイコパスになってもうてんねんろ?

投稿: | 2015年7月 2日 (木) 18時10分

親鸞会の会費はランク制になっており、最低は月額3000円です。これは親会員というランクで、正会員扱いではありません。

普通の支部会員は月額1万円以上払っています。正会員扱いのランクでは、月額1万円が最低で、1燈と呼ばれます。

その上に2燈~10燈まであり、最高ランクの10燈は月額80万円であったように記憶しております。

あくまで会費なのでその他に諸費用がかかります。

投稿: | 2015年7月 2日 (木) 22時56分

しっかり座り込みしてたのかな?様によると、荒らしは
「左翼的な一部僧侶が職員組合活動(とりわけお東の本山職員労働組合)を通じ、境内いたるところの掲示板に張り付けたアジびらのそれをそのまま伝えており、」とのこと。
ぶるうの氏が大谷派の僧侶だからいやがらせをしたわけですね。
親鸞会らしいです。

投稿: | 2015年7月 3日 (金) 00時45分

小学生の時左が正しいと思ったのは、すべての人を貧困から救い出そうとする高い志を感じた為で後悔したことは一度も無い。

左の国々が崩壊した後に右の政治方法の方が良く見えたが、極めて左よりから少し左に移動しただけになった。右にいるより世の中の闇が見えると思っているので右に移動することは無いと思う。

しかし、右にいる人に政治をまかせて揶揄ってるだけの最低の人間でしかないのは否めない。

完全な神通力を持った人は釈尊以外に地球上では存在しないし、左の政治方法も右の政治方法も不完全。
左にも正しいところはある。左翼イコールいやがらせでは無い。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 3日 (金) 02時46分

会費のランクはおかしい。その人の精一杯やからね。

投稿: | 2015年7月 3日 (金) 13時16分

>>その上に2燈~10燈まであり、最高ランクの10燈は月額80万円

月80万円も払っている人がいるんですか!
悲惨ですね、お聖教すらまともに読む力のない似非善知識さまのために・・・

早く気がつけばいいのに。

高森氏の教えを浄土真宗だと信じることは、小保方氏の「スタップ細胞の実験200回成功しました!」を信じるのと大して変わりないレベルなんですから・・・

投稿: | 2015年7月 3日 (金) 19時57分

平成13年を最後に会長の全国「ご法話」は無くなり、富山の本部会館だけになりました。
そして、本部で会長の話を聞くには、入館時に5000円の「ご法礼」を払わなければならないようになりました。
その「ご法礼」の他に「御報謝」も集められます。普通の会員は最低1000円は払います。(払わないと肩身が狭い)
月3回富山へ行くとしたら、会費の他に毎月18000円はほぼ確実に飛んで行くわけです。

投稿: | 2015年7月 3日 (金) 22時56分

今、崩壊した国々の左の政治をそのまま再現しようとする人はいるのだろうか?

右は陰で左がどれだけ努力しても「左やからこんな目に遭うんや!」って思うまで「 不幸 」に直面させて右に移動させている実態がある。最近まで親鸞会員もかかわっていた。

このやり方では「右の方が酷過ぎる!」と思われるのみ。


左がどれだけ努力しても「 平均 」に直面させるのが正しい説得方法であるべき。

抜苦与楽とあるのに、
すべての人々が貧困に苦しまないように志ただけの左の人々(以前に左だった人も含む)が何故不幸にならなければならないのだろうか?

陰の説得にかかわっていた親鸞会員に問いたい。(無関係な会員もいます。)

南無阿弥陀仏


投稿: | 2015年7月 3日 (金) 23時34分

以前、本部会館の法話の時に、ご法礼の係をしたことがあります。
五千円未満の人がいたら、
(できれば)名札を見て、支部と名前をメモしておき、あとで係の責任者へ報告することになっていました。
(やりませんでしたけど)
 
いつだったか
高森センセイの
「私は、ご法礼の額を決めたことはない」発言には驚きましたね。

投稿: | 2015年7月 4日 (土) 11時56分

http://d.hatena.ne.jp/hontounohanashi/20100909/1283959758
                   (高森顕徹先生の随行記,序文)

   恐らくは2度と復刊されぬであろう『会報』に加え、色道、おっと『白道燃ゆ』のような初期の著作も、この頃では入手難となりました。この点、ネット上で閲覧できる神田女史のこの『随行記』は、たとい相当な粉飾を含んでいるにせよ、高森氏の日ごろの言動や、それが示す彼の基本的な思想をよく呈示しているように思われます。神田女史が「しまった!」と思って削除してしまわれる前に、より多くの人々によって閲覧され、討論の対象とされることを願ってやみません。

  この神田女史という人は、多年来の高森氏の秘書であり、M野講師と同様、京大入学後まもなく親鸞会に籠絡・洗脳されたと聞きますが、本当ですか? 

      「大の虫を生かすには小の虫を殺すこともやむを得ぬ」

というのは、高森氏の数少ないオリジナルな思想(?)のひとつですが、この「隋行記」を分析することで、この迷言にかかわりのある彼のいくつかの言動や、その由来なども、いっそう明らかにされるように思われる次第です。

  なお、なにげないところにその人の日ごろ本意が呈示されるというのは、やはり事実のようですね。井戸の上から見守る多くの人々の視線をよそに、井戸の底であきらめたような微笑を浮かべつつ座り込む猫の姿に、神田さんの日ごろの本心がそこはかとなく示されているように思うのは、おそらく私ばかりではありますまい。

投稿: 深い穴の底で座り込む猫の姿が印象的ですが… | 2015年7月 4日 (土) 12時42分

親鸞会をやめるつもりなら、ご法礼は納めなくてよい。

投稿: | 2015年7月 4日 (土) 19時32分

ある会員さんが、息子に職員に直々にスカウトされたらしいが断ったって聞いた。
理由は高齢なことと、今まで育ったところを離れにくいって。
当たり前だろう。だから息子は使えない。

投稿: | 2015年7月 4日 (土) 19時35分

10燈という最高ランクには、高収入の方だけではなく、親の遺産が入った時などになる人がおられます。
10燈になりますと、高森会長の「ご法話」の時に一番前の席に座れます。
会長が立つ壇の真下で聴聞できます。
遺産を全部使い果たした後は元の木阿弥となり、後ろの方で聴聞します。
悲しいことです。

投稿: | 2015年7月 4日 (土) 19時55分

親が亡くなるような年齢といえばもう決して若くはない。そんな年齢になってもカルト新興宗教に洗脳された状態とは情けない。これじゃ親は死ぬに死ねない。草葉の陰で嘆いている。こんなのを馬齢を重ねたというのだなあ。こんな人間にだけはなりたくないもんだ。

投稿: | 2015年7月 4日 (土) 20時38分

   江戸の昔、吉原の遊郭で「お大尽」として勇名を馳せたものの、事業の失敗などで以前のように豪遊できなくなった人は、太鼓もちや遊郭の案内人となり、遊郭とかかわりを持ちつつ、どうにか糊口をしのいだ、と聞いております。財産を蕩尽して、それでも親鸞会から離れられないでいる元「十燈」さんは、そういう元お大尽に比せられましょう。

   ただ、お大尽にせよ、太鼓もちや遊郭案内人になった元お大尽は曲がりなりにも遊郭文化に華やぎを添え、文化面でこんにちにまで影響をとどめているのに対し、「十燈」さんは現役にせよ、元にせよ、カルト教団の中でしか通用しない、という点が哀れを誘いますよね。

   かしこくも  皇后さまの御歌集を出版する光栄に浴した仏教系出版社は、元来、吉原の薄倖の遊女たちが葬られたお寺の御住職が創業なさったもの。また、お釈迦さまの最初の修行道場にしても、アンバパーリーという、自らも娼館を営む高級娼婦が寄進したものでした。後者に関しましては、ちょっと前までの『仏教聖典』には明記されておりました。今風にいえば、吉原の高級ソープ嬢が現役を引退してのちお店の経営者になってのち、どなたか高僧に帰依し、その高僧のためにお寺を建立したようなものでしょうか。

   光晴氏もこの際、夜の世界にもお顔が利くことを存分に活かし、これら先人に負けない快挙をやってもらいたいと思います。実現したら、たといカルトの2代目であっても、少しは見直すかもしれません。  

   

投稿: 非礼を承知のうえで申しますが | 2015年7月 4日 (土) 22時37分

おいクソ晴、早う地獄へ往生せえや。この糞餓鬼。

投稿: | 2015年7月 5日 (日) 01時43分

m晴さん護衛と皇室護衛は結託中ではないかと疑ってしまう。

1 皇太子のみが優れていてほしい人達
2 他家の上の子が荒れていないのが腹立たしい人達
3 下の子を敬わせたい人達

が仲良くなれないハズがない。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 5日 (日) 03時31分

     1990年以来、25年にわたりカルト教団「サイエントロジー」を狂信し、近年ではその歩く広告塔となっていたトム・クルーズ氏は、教団から、離婚した妻のもとにいる愛娘さんとの面会を

      「幼い子でも忌むべき異教徒だから」

という馬鹿馬鹿しい理由で禁じられていたのに耐えかね、このたびついに脱会を宣言なさいました。これで保守的なフランスやドイツの田舎でも、再び晴れて彼の主演作品を上映することもできましょう。

   このカルトでは、入会時に幼少期以来の隠しておきたい秘密を洗いざらい書かされるので、ばらされるのがこわくて脱会できないという信徒が少なくなかったのです。にもかかわらずトム・クルーズ氏は思い切って脱会なさいました。親鸞会の多くの会員さんにも、彼をお手本と仰ぎつつ、断乎脱会なさることを幾重にも念じ上げます。

   常盤貴子さんの主演ドラマ「めぐり逢い」最終回で、ビル内のスタジオでダンスの練習にはげむ貴子さんの向こう、窓越しに隣のビルの看板が映っております。これがなんと、上記サイエントロジーの日本支部の看板なのです。TBSは、このドラマを制作する5年ほど前にもオウム事件で失態を演じており、にもかかわらず、このありさま。ほんとに懲りてないし、勉強不足だなぁと思ったことです。

投稿: 辞めたい人よ,トム・クルーズにつづけ!! | 2015年7月 5日 (日) 12時28分

高齢者を騙す策戦に軌道修正したわけですね。

投稿: | 2015年7月 5日 (日) 14時23分

トム・クルーズやっと脱会しましたかサイエントロジー。よかったよかった。有名人は広告塔になるので本当に困ったものだと思っていました。

投稿: | 2015年7月 5日 (日) 16時14分

http://blog.goo.ne.jp/furins

私はこれで目が覚めて辞めれました。
T森会長やM晴局長の雑魚っぷりが露呈していて
大変為になるページでした。

投稿: | 2015年7月 5日 (日) 20時01分

全く関係ないことですが、
働き蟻を踏み殺し働き蜂の集めたハチミツを食べてしまった後に、
女王のような人に仕えると自分はどうなるだろう?と考えるべきでしょうか?

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 00時23分

業力不可思議ですから、考えても判りません。
善因楽果、悪因苦果と大雑把に理解するしかないでしょう。
個々具体的な過去世の業因や未来世の業果は、如来の智慧を持たないと判りません。
具体的なもので凡夫に判るのは、現在世で因果関係が明確なもの、例えば
「悪口を言ったら言い返された」「まじめに勤めたら成績が上がった」「大食したら太った」のような場合です。
性格の悪い女王様に仕えたとすれば、苦しむのは因果として明確だと思います。

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 00時53分

http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/100_80e4.html

トムが脱会した様に私はこれで脱会しました。
大沼氏の著書も、ネットで簡単に手に入る時代に隠し通せると考えてる所が薄っぺら。
善知識の化けの皮が剥がれた瞬間ですね。

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 12時15分

http://blog.goo.ne.jp/yodogawakonan1/e/da015c0073004103f8bb6c230594f651
(↑ ひろしさんの「リバース」の記事)

闘病中のひろしさんへご迷惑になってはと思い、リバースのコメント欄へは以下申し上げることを書き込まずにおこうと考えております。

  ただどうしても気になることなのですが、「聖則」と標榜しているからには、その制定者は神聖不可侵のお方であるということが前提とされるのではありませんか? 
 
  つまり神〔聖〕にして侵すべからざる善知識さまがお定めくださったからこそ「〔聖〕則」なのではないか、と。この一事をもってしても、親鸞会が真宗などとはおよそ似て非なる善知識至上を旨とするカルト教団だと感ぜられるのですが……これは私の考えすぎでしょうか?

  それからもうひとつ、1997年の時点で、高森氏は「浄土真宗講師」を自称していましたが、一部の花形講師の自称である「仏教講師」は、およそいつ頃造られた語彙でしょうか? また、「仏教講師」イコール親鸞会の第一線で活躍する講師とみなしてよいものでしょうか?

投稿: 「学生部聖則」の〔聖〕,普通に考えれば | 2015年7月 7日 (火) 20時29分

始めまして。

元会員です。

ひとつ疑問なのですが、法が大事だから、命が大事(だったかな?)というモットーの親鸞会は、放射能や被爆対策はやっているのでしょうか。

投稿: 匿名希望 | 2015年7月 7日 (火) 21時23分

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 00時53分へ

性格が悪くない女王様に仕えたらどうなるのかがわからないのは残念なところですが、明確に答えて頂き感謝しています。本当に有難うございました。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 23時52分

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 00時53分へ ではなく、
投稿: | 2015年7月 7日 (火) 00時53分の人へ でした。
誠に申し訳ありませんでした。 南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 7日 (火) 23時58分

投稿: 匿名希望 | 2015年7月 7日 (火) 21時23分の人へ

親鸞会を退会して久しいのでよくわからないですが、被爆対策は幹部のみではないでしょうか?幹部以外には法施を被爆対策と思わせているのではないでしょうか?

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 00時02分

早速のご回答、誠に有難うございました。

やはり、放射能については、ネットが見れない会員は現在の日本の汚染の深刻さを知る機会は皆無ですよね。

ネットを見れる幹部だけ(かな?)が、現状を知る機会を得て、対策しているとすれば、それはもう、我利我利亡者を地で行っていますね。

しかし、こんな状況になるとは、元会員として情けないやら、口惜しいやら。

有難うございました。

投稿: 匿名希望 | 2015年7月 8日 (水) 09時01分

被爆対策??
私の主人、幹部会員です。
きいたことありません。
財施が少ないからでしょうか?
会を援護する気はありませんが、意味が分からない質問と答え…と感じました。

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 10時22分

親鸞会がアニメ以前に最も力を注いでつくったマンガ『青春の旅立ち』では、主人公の男子大学生が反核運動の大切さを語るのに対し、ヒロインの女子大生(父を喪ったのが機縁で仏法に目覚め、すでに親鸞会入会)が、ひややかに

   「死ぬのが怖くなくなれば放射能も核兵器も問題でなくなるでしょ?」

と語りかける場面がございます。

  このマンガでは中曽根さんとおぼしい首相が登場し、岡田有希子さんの自殺事件から着想された場面もあることとて、およそ1986年(昭和61年)前後が時代背景とされておりましょう。現在はともかく、30年目の昭和末期にあっては、

  「高森先生の御法話で信心決定しさえすれば、放射能も核兵器もぜんぜん問題でない」

という指導方針であったことがうかがい知られましょう。ずいぶんと方針がゆれ動く団体であり、こんな組織を大船と見た元会員諸氏の慨嘆たるや、想像を絶します。合掌。

投稿: 「要するに死ぬのが怖いわけでしょ?」は昔語りですか | 2015年7月 8日 (水) 11時44分

上記のリンクにある不倫や盗作もS会で推進していることですか?最低な団体にみえますが!?

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 12時02分

皆さん色んな視点から脱会のキッカケを掴んだんですね。
ワタシはこの内容がキッカケでした。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1483821454

トップ自ら血の海発言、狂気団体イスラム国と同レベルな思考回路ですよね。

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 12時29分

高森氏は料理が気に食わぬと星一徹みたいにテーブルごとひっくり返すそうですね。長男氏については、そういう方面のエピソードは伝わって参りませんが、日ごろ影の薄い、評判も兄ほど悪くない次男さんについては、ブラジルでカレーの味にけちをつけた、という逸話を以前このブログのコメント欄で読んだことがあります。そのときの状況について、もっと語られることを希望します。

高森氏亡きあとの組織は群雄割拠状態となるものと予測されますが、これだけ長男氏の悪業が知れ渡った今、次男さんが担ぎ出される可能性は小さくありません。そのときまでに次男さんの問題点も列挙され、高森家には誰一人2代目善知識(初代も自称ではありましたが)にふさわしい人間がいないということが広く知れ渡っていることが望ましく思われます。いかがなものでしょうか?

投稿: 父子相迎,影の薄い次男さんも | 2015年7月 8日 (水) 19時54分

次男は無気力でアタマが悪いだけやな。
カルト教祖は務まらんやろな。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 00時32分

お二人とも後継職を遠慮されているのでは?

以前、会長が説法中にM晴さんが後継職を狙っていると疑ってか「父親が早く死ねば良いと思っている」という内容の真偽不明のお話をされていましたのでお子様達は誰もやる気を起こさなくなったのではないでしょうか?


投稿: | 2015年7月 9日 (木) 01時48分

ところで、「きゅうり封じ」はお経に根拠があるのでしょうか?
病魔や悪鬼を「きゅうり」に封じ込めるのは無理ではないでしょうか?

仏教系の宗教内部にお経に根拠の無い教学が存在する場合、
メスを入れる法整備が必要。

警察は何をしているのだろう?

この国は、伝統詐欺と伝統カルトに甘い。
タバコを吸っている人を甘やかす感じです。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 02時41分

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 02時42分

以前から指摘する人がいましたが、高森氏のお子さんがたがどう見ても有徳の人とは言いがたく、会を守ってきた弁護士さんも、ネット社会の勃興により、その強引な姿勢がたとい合法的なものであるにせよ、マイナスの印象を及ぼしつつある。

となると、社会的知名度や学識からして、やはり明橋医師が名義上であれ実質上であれ、教団継承の第一候補者と見られるのですが。世の中は

           「●●●千人、●●●千人」

(マスコミではもはや使用禁止のことわざですが、その道理は理解できなくもありません)。
  以前彼を客員教授として迎えた関西の某私大は、彼のようなカルト医師を客寄せパンダに使う一方で、まじめに教育研究に従事してきた名もない研究者たちを少子化を理由に無理やり追い立ててもいます。娑婆は永久に忍土であり、さまざまな不公平が横行する世界ではありますが、こういう話を耳にするにつけ、やはり凡夫なればこその憤慨を禁じ得ません。

  「伝統詐欺と伝統カルトに甘い」とかつぶやいていらっしゃる方。いかにもおっしゃるとおりですが、伝統的な詐欺やカルトは、割合容易に気づくことが可能です。ところが親鸞会のような新興カルトは本当に油断も隙もないではありませんか。  

投稿: 明橋医師が推戴されるのでしょうか | 2015年7月 9日 (木) 11時08分

2015年7月 8日 (水) 10時22分の人へ

やはりそうですか。

安全安心弁当だ~!と、法が大事だから体が大事と、命ながらいで目的達成を標榜していることは知ってます。

だからこそ、今、吃緊の問題になっている、日本国民が特に食品によって被爆する可能性が高いというこのときに、そのことはてんで何も言わない、教えない、対策を講じようとしない、それどころか会員に注意喚起もしないとは、まさに頭隠して尻隠さずと思います。それどころか、知らずに病気になる可能性が高まっている同志を見て見ぬふりするとは、本質は仏のお面を被った鬼なのではないでしょうか。

やはり、国と同じなのかな、と思ってしまいます。

以上、胸の内でした。

投稿: 匿名希望 | 2015年7月 9日 (木) 12時36分

ころころとは変わらぬが、大体5年から10年の感覚で高森氏は、なにごともなかったかの如く主張を翻します。30年近く昔、ある意味ではアニメ「世界の光:親鸞成人」よりはずっとすばらしい出来栄えのマンガ『青春の旅立ち』の中では、美貌のしかし憂鬱そうなヒロインに、

   「死の恐怖が取り去られれば、核兵器や原発があろうがなかろうがどうでもよくなるでしょう?」

と言わせています。高森氏がヒロインの口を借りて言わせたこのせりふは、1990年代半ばぐらいまでの高森氏の考え方であったと言えましょう。ところが今世紀に入ってからは、創価学会の向こうを張っておったてた「正本堂」ほかの箱物を維持すべくなりふりかまわず、
     「元気に法を聞くためには身体の健康が大切!」
などと主張を変換させ、しかも転向声明らしい転向声明も発していないのです。こrてでは、1990年代当時の親鸞会の主張に引かれて入会した会員さんは、いきなり梯子をはずされたに等しいではありませんか?

   ほかにも、高森氏がいつのまにか主張を180度転換した例は枚挙にいとまがありません。このコメント欄でいろいろ確認されるようお勧め申し上げます。

投稿: 幹部の奥様,この場でぜひ視界をお広げください! | 2015年7月 9日 (木) 16時00分

たしかにけんてつ君は朝令暮改。
あまり考えず思いつきでなんでも言い放つので、間違えが多発したり、気が変わったりで、あんまりまともに応対してたらこちらの気が変になる。腹が立ったら、裏で「バ○森」などと言ったほうが精神衛生上良い。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 21時49分

  真偽のほどは謎に包まれておりますが、光晴氏は箸の持ち方がおかしいがゆえに、大きな宴会などにはなかなかお出ましにならないとのこと。彼の悪業は悪業として、事実ならば多少の同情を禁じ得ません。

  私も20代後半に、信頼できる友人に教わるまで、なかなか箸の持ち方がわからず、名のとおった国立大学を出ているはずの父も達筆のくせに、箸の持ち方は70代前半の現在までおかしいままなので、箸の持ち方のおかしさが遺伝に加え、「教えてくれる人に恵まれないこと」に起因することはよく認識しております。

  光晴氏は青年期までは会の草創期を支えた、高森氏よりも年上の幹部からある程度まで徳育教育を受けていた、と聞きますが、人格者ばかりと聞くそれら幹部らはどうして2代善知識さま最有力候補の箸の持ち方をただして差しあげなかったのか、まさに切腹ものではないかと思われます。

  ともあれ過去を悔いても始まりません。本当に箸の持ち方が60代の今もおかしいのであれば、今からでも遅くはない、まさに六十の手習いで、今からでも箸の持ち方を正してはいかがかと存じます。奥様はまがりなりにも国立大学ご出身とのことですから、そのあたりの常識は持ち合わせていらっしゃるものと信じます。これがきっかけで新婚の昔に立ち返ることだって不可能とばかり決め付けられますまい。

  光晴氏夫人は、母一人娘一人の家庭で辛抱しつつお育ちになったとのこと。一見、光晴氏の物質的には恵まれた少年時代とは正反対のようですが、
父親不在の家庭で幼少期を過ごしたという点では共通しております。ここまで書いて私が思い浮かべるのは、ちょうど20年前、巨人軍の期待の新人選手が、吉原の高級ソープランドに働く美女と結婚し、まもなく夫人の犯罪歴が原因で離婚のやむなきに至ったという経緯であります。その当時のマスコミでは、

   「心の傷のなめあいから始まった二人の縁であったが、そういう
ふうにして始まった男女の縁は往々にして長続きしない」

と論評されておりました。光晴氏夫妻が不倫事件にも負けず、名実ともに立派に継続されるのであれば、世の多くの似たようなご夫妻へ光をもたらすことと信じます。

   霊友会の久保継成元会長夫妻の場合は、どうも無理に和解を演じているような臭みがある。光晴氏夫妻には、法をご縁として本当の意味で夫婦関係を見事改善した姿を見せるのであれば、光晴氏は2代目善知識になど無理にならずとも、彼なりの宗教家人生を展開できるのではないか……光晴氏よ、原稿を捨てて過去を振り返られんことを、と蔭ながら念じております。

投稿: 六十の手習いとも申します,晴れの就任の宴に向けてぜひ | 2015年7月 9日 (木) 22時29分

>「死の恐怖が取り去られれば、核兵器や原発があろうがなかろうがどうでもよくなるでしょう?」

会長は死の恐怖が取り去られた後、台風、地震対策等がどうでもよくなったということでしょうか?勝手に「 即死 」に限定して語るのは止めて欲しい。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月10日 (金) 03時11分

謗法罪という理由で自分の苦労や不幸を多くの信心者にうつして困らせる点において顕ちゃんは何がしたいのか。阿弥陀如来と諸仏の苦労をうつされずに済んでいるのに。大変な恩知らずでは?

顕ちゃんをよく心の中で殺してしまう。

しかし、こんな極重極悪の自分を救い続けて下さっている阿弥陀如来のお力の凄過ぎることに心が思い至る時、阿弥陀如来への敬意が非常に高まる。

私より教学力、説法力は顕ちゃんの方が優れているのですが、かくして顕ちゃんの生存はこのような点においても意味があるものと私の中でなってしまっています。

(決して殺せる身ではありません。恩知らずな顕ちゃんに恩知らずな感情を抱いているだけなのかどうかも不明です。)

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月10日 (金) 04時10分

光晴よ、父顕徹が与える金、地位、権力といったぬるま湯の世界から飛び出せ。相対の幸福に死ぬまで浸かっておれればそれでいいのか。絶対の幸福にこそ絶対の価値を見いだすのではなかったのか。最早、求道者ではなくビジネスマンに堕しているぞ。初心に帰れ。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 11時14分

漢文の語法に照らせば、どう贔屓目に解釈しても「法謗」ではなく「謗法」とあるべきところ。ただ、創価学会と競合していた昭和30~40年代は、「謗法」と聞いて、創価学会を連想する人のほうが親鸞会を連想する人の何十倍、何百倍も多かったはず。それで高森氏は「法謗」という新語を作ったのではないかと見ております。

   また「親鸞聖人の御歌」の作者だという「宝尋」師も、漢文の語法に照らせば「尋宝」とあるべきところ。どう贔屓目に見ても、「宝尋」という語彙に「宝を探しあてる」という語義を当てはめるのは困難です。

  かねがね思うのですが、「親鸞聖人の御歌」の本当の作者はどなたなのでしょうか? パクリばかりする高森氏にあれだけの完成度の高い作品が作れるとは信じがたく、誰か文才のある学徒がつくり、御褒美として「宝尋」なる漢語としてはへんてこな法名を高森氏みずからが与えたのではないかと見ております。

   なお。創価学会の「謗法ばらい」とは、入信した人がそれまで家にあった祖先の位牌をも含む他宗派がらみのグッズを廃棄することを申します。その狂気のありさまに創価ぎらいになる庶民が少なくありませんでした。親鸞会でも、たとえば家族ぐるみ入会してしまった場合、創価と同様のことをしていたのでしょうか?
 
   位牌を焼き捨てることで、位牌に記されていた法名をも含む家族の歴史を焼き捨てることとなり、創価の新信徒は以後、根無し草となり。ふらふらと池田大作氏ら会の首脳部の言いなりにならざるを得ませんでした。どうも親鸞会でも小規模ながら似たようなことをしていたように思えてなりません。 

投稿: 「法謗」に加えて「宝尋」も高森の造語でしょうか? | 2015年7月10日 (金) 18時32分

>かくして顕ちゃんの生存はこのような点においても意味があるものと私の中でなってしまっています。

上記、虚偽を記載しました。誠に申し訳ありませんでした。

南無阿弥陀仏

投稿: | 2015年7月12日 (日) 00時01分

このサイトを祖母に見せてあげました。
入会を考えているっていうので、
私がネットで胡散臭い講師の言動が気に食わなかったので
真相を調査して差し上げました。

祖母は入会を取り止めました。

それでも入会をしつこく、こちらの言動を省みない機械みたいな講師がムカついた様で
私を呼び、一緒にこのサイトを見せつけてやりました。

顔を引きつらせながらグゥ〜ッ!とか言って逃げ帰る様を見て、やっぱり浄土真宗を語る偽者集団だったかと、入会しなくて良かったと喜んでます。

ちょこちょこ非常識な時間帯にも平気で訪ねてきた講師や会員は、それ以降パッタリ来なくなりました。

投稿: | 2015年7月12日 (日) 20時21分

おばあさまは70代、それとも80代?

まずは良かったと申し上げるべきところですが、高森氏が生きている限り油断禁物と存じます。賢くおばあさま思いのお孫さんへ拍手を送りつつ

投稿: 見事撃退,おめでとうございます | 2015年7月12日 (日) 21時48分

孫はよくとめた。詳しいとまではいかなくても、私もぜひ参考にしたく伝授ください

投稿: | 2015年7月13日 (月) 07時05分

ぜひ一度確認したく願っておりましたが…高森氏は弁当屋さんを創業するに際し、本当に
      「聞法には元気な身体が欠かせない」
もしくはそれに近い意味のことをのたまったのですか? だとすれば、この言葉自体が、高森氏が偽の真宗布教者であることを立派に裏書していると言わざるを得ません。この言葉を裏返せば、

    元気な身体を既に失っている人(いわゆる障がい者)や、
    元気な身体を維持したくとも経済的理由でそれも難しい人
       (無給の大多数の講師ら)

は弥陀の救いから漏れざるを得ない、と言っているにひとしいからです。なんとまぁ無慈悲な善知識サマでしょうか?
   これではまるで、「すべての人を救うメシアこそ私だ」と大見得を切っておきながら、身障者の入信を歓迎しなかった生前の文鮮明氏やその意を承けた統一協会大幹部らと同類と言わざるを得ません。

   そうそう、真生会病院にしても
      「『抜苦与楽』が当院のモットーです」
などと威勢のよいことを言っておきながら、かなり重大な医療ミス事件を起こしてしまっております。たといこの事件が発生せずとも、病院ごときに実践できるのはせいぜいが聖道の慈悲どまりでありましょう。

   上のほうで19願のことが取りざたされておりますが、精緻な教義論争に敬意を表しつつも、なんと申しましょうか、親鸞会の言葉の端々からおよそ真宗的でないものをもっともっと嗅ぎ当てて頂ければ幸甚に思います。

  以上、くだくだしく再度の投稿となりましたが、諸賢からの御教示が待たれます。不幸にもある程度まで親鸞会を信じ切ってしまわれた人を救い出すきっかけともなれば幸甚に存じます。

投稿: 「リバース」のほうが英雄ヘラクレスの戦闘の場と化しているので… | 2015年7月13日 (月) 11時19分

「こんなことが知りたい」①~④のはしがきにあるハイデッカーの記述は、作り話ということです。
http://ogswrs.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

投稿: | 2015年7月13日 (月) 17時01分

ヘラクレス氏は必死になって親鸞会の正当性を高らかに唱えていらっしゃいますが、僕に言わせれば百戦百勝のヘラクレスではなく、勝敗は始めから明らかなのにそれでも風車に立ち向かうドン・キホーテってところでしょうか。

  さて、10年ぐらい前まで、時折いわゆる「オーディション詐欺」が新聞をにぎわせました。世間知らずの若者を芸能界デビューさせてあげるからとあざむき、デビューにはまずダンススクールに行ったり、歌の練習もせねばならないからといろな名目でお金を巻き上げるというものでした。親鸞会の宿善ポイントも、さしづめこの商法のカルト版と見てよいように思われるのですが。

  だまされた若者を幼いなぁと思うさげすみの念が無いと申せばウソになってしまいます。しかしよくよく考えれば、やはり純情な若者を平然とだます詐欺師こそもっとも指弾されるべき存在と思われます。

投稿: 「オーディション詐欺」のカルト版ということでしょうか? | 2015年7月13日 (月) 19時13分

「ハイデガーは晩、歎異抄に驚嘆、親鸞聖人に帰依した」という主張は親鸞会の出版物やブログ以外では見ることがないですね。

上記のブログの精神分析家さんも親鸞会のハイデッガーに関する話は流言蜚語のようなものであり、「Heidegger についてよく知らない人々をたぶらかすのは速やかにやめてほしいものである」と結んでおられます。

投稿: | 2015年7月13日 (月) 22時17分

おいクソ森。会員さんからお布施を頂いたら礼くらい申し上げろよ。

投稿: | 2015年7月14日 (火) 01時16分

   親鸞会上層部のことは概して謎に包まれており、われわれはそもそも高森氏の誕生日も知らなければ、夫人の名前も知りません。かつてのソ連共産党も秘密主義の組織であり、その内幕を知るには、軍事パレードでの序列を主たる研究材料として、いわゆるクレムリノロジーが発達しました。われわれもさまざまなヒントを総合し、滅び行く親鸞会の行く末について見守ってゆきたいものです。

   光晴氏の棒読み法話原稿を起草しているのは今のところ誰でしょうか?たぶん明橋氏やK弁護士あたりでしょうが、彼らだけではいかに彼らが優秀であっても教義関連の叙述がかなり欠乏してしまうことでしょう。そこで東大および京大出身の講師あたりが、元の原稿へ多少の仏教色を添えるべく知恵を絞っているものと見受けられます。

   高森氏がいよいよ世を去られてのちは、光晴氏を名目上の二代目善知識さまとして旧ユーゴスラビア的な集団指導体制が取られるものと見受けられます。ただ、そうした幹部間でいずれは利害関係から対立が発生し、そのどさくさで高森氏父子の恥ずかしい数々の内幕も暴露されることでしょう。みんなで長生きして見守ろうではありませんか。

投稿: 棒読み原稿は誰が起草しているのか? | 2015年7月14日 (火) 13時09分

楽園の女たち―ソープランド街・笑いと涙の物語
伊藤 麻貴【著】
データハウス(1990/12発売)

会員からさまざまな名目でお金を搾り取るテクニックの数々は、カルト史上にいつまでも語り継がれることでしょう。しかし高森氏がいかに悪知恵に富んでいたとしても彼一人であれだけの手法は編み出せるとは思えません。特専部の専門家らに加え、豊田商事との出会いを通じ学んだものも多いことと存じます。

標記の文献は、まじめな会員さん、元会員さんが眉をひそめるであろう内容であり、書名です。ただ、この中で、1984年頃の永野会長(1985年夏、殺された)が幹部社員や付き合いのある人々を招いて雄琴の高級ソープ1軒をまるまる借り切り、豪遊と悦楽のひとときをすごした、とあり。この当時の永野会長は悪事を重ねつつも、高森氏に親近し、いんちきなパクリ教義ばかりではあっても、その中に含まれる多少の真理に共鳴しつつありました。

  そこで思うのですが、美女をはべらせつつ、永野氏は光晴氏らをも含む親鸞会関係者ともさまざまなことを語り合ったのではないか、と。以前この種の疑問を提示したら、
  「1980年代前半、光晴氏はまだ新婚ほやほやだったこととて、そこまで悪いことがしなかっただろう、謹厳な最高幹部らもまだ存命だったことであるし…」

というお返事を叙情通の方から頂きました。かなり納得しましたが、それでももしやという思いを禁じがたいのです。K子夫人の思いのほかの気性の激しさに辟易しつつあったかもしれないし……

  これ以上下品なことは書きかねます。ただ光晴氏が特色ある宗教家として立たれたいのであれば、この際、

   「女体と酒盃のただ中から生まれたわが領解を聞け!」

と訴えかけるのも一つの手ではないかと存じます。

投稿: | 2015年7月14日 (火) 13時20分

  例の『光に向かって100の花束』では、加藤清正を手放しで礼賛する高森氏の言葉が見えます。韓国に少しでも会員がいる限り、韓国語版では相当長文の断り書きを付さねば、遅かれ早かれ物議をかもすことでしょう。また、『白道燃ゆ』にいたっては、ハンセン病を遺伝によるものと見る誤った医学知識をそのまま承認しつつ書かれた一節がございます。さらに、久しい以前に差別用語としておおやけの場での使用が控えられるようになった語彙もまま散見されます。

  それゆえ、高森氏の往年の著書を再版するには、1万年堂編集部は幾度も会議を開き、猫の首に鈴をつけるねずみになった思いで高森氏や、著作権継承者たち(夫人および光晴氏)と交渉する必要がございましょう。こういう問題について光晴氏が明るいとは到底思われず、1万年堂の関係者はこの問題を切り出すや否や、光晴氏から恫喝まがいの罵倒を長々と受ける覚悟が必要となりましょう。

  そこで、光晴氏の怒りを静めるべく、法話集や自叙伝の出版を持ちかけてはいかがかと思われます。とりわけ後者など、
   「わしは人から仰がれる手本にはなれんが、あんなやつでも阿弥陀様に救われたという見本にならなれる」
            (高光大船師の言葉、2度結婚し、愛人1人)
を基調として、これまでの非難を逆手にとり、不倫事件や夫人とのあつれきなどを赤裸々に語られてはいかがかと存じます。

  そうそう、みずから実父を殺し、中国系暴力団員を手下に殺させた森孝吉氏(法名は「純孝」)の自叙伝『愛と救いの不死鳥(フェニックス)―森孝吉衝撃の半生記』(1998年)も、よき参考となりましょう。森師は出獄更正後、事業を起こして成功、信仰面では生長の家をへて、真宗仏光寺派の僧侶となっていらっしゃいます。この自叙伝は厳密には口述筆記によるもの。そのことは同書の目立つ箇所に明記されております。
 
   宗教家が不倫を告白懺悔した書籍としては、久保継成氏の『法華経を生きる』が秀逸です。久保氏は銀座の夜の蝶に子どもまで生ませてしまいました。けれども、弟子にあたる石原慎太郎氏(久保氏が会長だった頃は信徒であった)の場合と同様、不倫こそ犯したけれど、堕胎というもっと大きな悪業を犯したわけではないから、正直な告白も相まって、読み終えると大きな好感を覚えるから不思議です(石原氏も銀座の夜の蝶に生ませた非嫡出子あり)。

   光晴氏は玄人よりも素人を愛されるご様子。机の上で埃をかぶっているであろう『岩波文庫』本『浄土三部経』の訳者は40年前、弟子同士を結婚させ、仲人まで務めながら、女性弟子との関係を続け、絶望した男性弟子を自殺に追い込んでおります(1973年の『週刊新潮』で大きく報道)。こういう人物に比すれば、光晴氏の罪ははるかに小さい。この際、城門を開いて敵を迎え撃つぐらいの気持ちで、不倫事件に関して弁明を兼ねた反駁を試みてはいかがでしょうか。1万年堂のスタッフ各位もきっと広い心で協力してくれるものと信じます。

投稿: 敵に塩(アイディア)を送るようですが… | 2015年7月14日 (火) 15時05分

オイ、エムハル。
お前は仏教のイロハもわからんくせに生意気なんや。
会員さんから金銭やエサを恵んで頂いたら、礼くらい申し上げろや。
カス。

投稿: | 2015年7月14日 (火) 22時58分

いわゆる「専任講師」とは、
   「大学、専門学校もしくは研究所などで、月給をもらいつつ高度な研究およびそれに根ざした教育活動に従事する人」
を指しております。世界万国その意味は同じです。

  ところが親鸞会では、給料はもらえず、個人事業者とみなされるとのこと。下品なたとえですが、法律的には「ソープランドとそこに働くソープ嬢との関係」とまったく同一でありましょう。
  のみならず、彼らのいう専任講師の全員が無給なのかといえば、どうもそうでもなさそうです。会長秘書、長男夫妻、一部の花形講師にネット工作員は月給をもらっており、ことに長男氏は実に毎月200万円ももらっていらっしゃるとか。こんなことでは長い歴史をもつ「専任講師」の語義にとんでもない変容がもたらされてしまいます。これひとつを見ても、親鸞会の責任は重大です。

  長男氏もいますぐにでも信用できる部下を得たいのなら、これまた今すぐ、その巨額の月給を割いて、恵まれない大多数の専任講師たちへお与えになってはいかがでしょうか。まことに大多数の親鸞会専任講師は、世の多くの大学の非常勤講師よりもさらに悲惨です。
   「獅子はわが子を深い谷底に突き落とす。会長先生の深いみこころだ」
とか会長や最高幹部は弁明するのでしょうか。終わりに、

         「それは私に徳があるからだ」

とは長男氏の名言(迷言?)です。ただ、彼はここにいう「徳」を人徳の意味に解釈しているようですね。彼にあるのは人徳ではなく、会長の余徳、それも会長が数々の嘘といつわりの果てに積み上げた功労から来る余徳です。長男氏自身に本来備わった徳ではないから、いつかは尽きる時がやって参ります。そのとき彼がどうなるか、われわれは固唾を呑んで見守ろうではありませんか。

投稿: 「専任講師」の語義を勝手に変えるとは… | 2015年7月15日 (水) 13時30分

幹部講師どももどなたの浄財でエサを頂いとると思うとるのや。
会員さんが汗水垂らして働いて稼いだ浄財や。
おのれらがしとることはただの泥棒やない。
仏法料の盗用やで。おのれら自慢の無間業や無間業。

投稿: | 2015年7月15日 (水) 23時54分

「エサ」とか書いてる人の文体がわかりやすすぎ・・・w
涙の○野サン(K大中退)なんでしょう。。。

投稿: | 2015年7月16日 (木) 02時36分

どこがどうわかり易いん?
M野も幹部ちゃうんか?

投稿: | 2015年7月16日 (木) 20時59分

違うから、安心しなさい。

投稿: | 2015年7月16日 (木) 21時07分

必死になって幹部講師を擁護するちゅうことは、おのれはネット対策員やな。

投稿: | 2015年7月16日 (木) 22時26分

  なつかしいお名前ですが、2006年当時は「エール」さん、「新人太郎」さんらが、家族の会の掲示板に乱入しては言いたい放題の、しかし、それなりに迫力あふれる闘いをしていました。まるでプロレスの悪役レスラーみたいで、どこか憎めないところがございました。また、渡海難さんが、親鸞会に同情的な、それでも完全に同化できず、それがために苦悶に満ちた書き込みを2チャンネルなどでしておられ、今から思えばこれも憎めない一人でした。

  ところがいまや、こうした人々はほぼ完全に姿を隠し(「リバース」のコメント欄に一度だけ登場した「新人」さんは、上記「新人太郎」さんの後継者を自任する人でしょうか、ただコメントが短かすぎます)、およそのかけらもない工作員が暗躍するようになりました。なんとしても劣勢を挽回すべく、高森氏が死んだことにすることをさえ厭わない姿に、このカルトの悪運も尽きつつあるかと思われました。

  現任の工作員さんは、その半生そのものが、なにかの文学作品のモデルにできます。ただ、その作品は世の多くの人々にカルトの恐ろしさ愚かしさを訴えることがモチーフとされることでしょう。

投稿: ネット対策員も以前に比すれば格段に程度が下がりましたね | 2015年7月17日 (金) 12時34分

新人太郎って犬鉄自身じゃなかった?

数年前、担当子牛が会員全体会合で高らかに
宣言してましたね。

怪鳥しぇんしぇいがネットで破邪ケンショウ!って
興奮してやがったわw

実際の新人太郎さんは返り討ちのボロ負け惨敗〜
からの、雲隠れw

投稿: | 2015年7月17日 (金) 15時00分

>>現任の工作員さんは、その半生そのものが、なにかの文学作品のモデルにできます。

本の題名「涙を拭きなよ」(副題 あるカルト教団講師の半生記)

投稿: | 2015年7月17日 (金) 15時47分

高森会長は法論しても負けてばっかりらしいなw

投稿: | 2015年7月17日 (金) 19時14分

教祖様おんみずからが法論して負けてるですって?!
それじゃもう親鸞会ってカルト新興宗教は完全に終わってるってことじゃないですかw。

投稿: | 2015年7月17日 (金) 20時39分

http://www.shinrankai.or.jp/
(画面左上の新着記事,アメリカの真宗学者を籠絡した動画)

ハワイ大学名誉教授で、英語圏での浄
土真宗の最高権威、アルフレッド・ブル
ーム氏は、英語版『なぜ生きる』(高森  ← ここです!!
顕徹先生著)を読み次のようなメッセー
ジを寄せています。

  太閤記が大好きな高森先生のこと、「国〔家〕安〔康〕」の方広寺鐘銘事件のことはよく御存知でありましょう。けれども、こうしてこともあろうに
ご自身のネット上のお膝元で、だまして広告塔に祭り上げた相手(ブルーム教授)のお名前と並んで、ご自分の名前まで両断されてしまっている。担当者に先生やご令息からきついお目玉が落ちねばよいのですが…

投稿: よくよく見ると先生のご芳名が両断されている!! | 2015年7月18日 (土) 20時07分

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150718-00000038-asahi-soci

「氷見の魚は日本一!」とご満悦の高森氏には大変申し訳ないのですが、今現在45歳以上の、少年期に各種の図鑑を愛読した人々にとって、氷見は日本有数の「くる病」の多発地域という印象が抜きがたく脳裏に残っております。新鮮な魚を食べて、カルシウムをたくさん摂取している人が多いだろうになぜ?

    くる病を氷見の風土病と決め付けるのは、どこまでも戒めねばなりません。けれども、氷見一帯に成人のくる病患者さんが多かったというイメージは、小学館や学研の図鑑の挿絵を通して、今も相当に流布しております。

   この際、高森先生には涙を呑んで真生会病院に設けた「お通じ外来」をおよしになり、新たに「くる病外来」を設け、悩めるお子さんとその親御さんへ医療という名の抜苦与楽をして差し上げればどうかと思われます。

   あたかもよし、天下の明橋先生もいらっしゃいます。せっぱつまった親御さんを洗脳することなど、赤子の手をひねるよりもたやすいことではないでしょうか。

投稿: 子どものくる病再度流行,病院にチャンス到来! | 2015年7月18日 (土) 21時02分

18年前の時点で高森氏はすでに「浄土真宗講師」を名乗っておりました。江戸時代の本願寺の学問面での指導者のみが名乗ることを許された「講師」を僭称しているのでしょう。

これに対し、「仏教講師」はやや新しい語彙のように思われます。むろん上記の「浄土真宗講師」を多少捩って作ったものとは思うのですが…この名称がいつごろ成立したかご記憶の方はいらっしゃいませんか?

投稿: 「仏教講師」イコール親鸞会と見てほぼ間違いないでしょうか? | 2015年7月20日 (月) 22時49分

地獄へ堕ちろやゴミ息子。

投稿: | 2015年7月21日 (火) 08時08分

「講師」という名前は、真宗大谷派の学階のトップクラスです。
本願寺派では「勧学」に相応します。

現在、大谷派の講師の定員は確か10名だったかと思います。
その次の学階が嗣講という名前です。

この「講師」の歴史は古く、高倉学寮の時代に遡ります。
当初、講師の定員は1名でした。
この講師が大谷派の法主の代わりに教義面のトップをしていました。
本願寺派の「能化」にあたります。
この高倉学寮は、後に東京の真宗大学(初代学長清澤満之)とあわせて現在の大谷大学となりました。

初代講師は、光遠院慧空で1715年に役に就いています。
5代目講師が香月院深励です。
9代目講師が雲華院大含です。
10代目講師が香樹院徳龍です。

投稿: ひろし | 2015年7月21日 (火) 20時15分

伝統仏教は膨大な学問的蓄積がありながら、現代人の魂の不安や悩みを救済できていないと云う現実がありますね。

その現代人の魂の救済をスピリチュアルや占い、あるいは親鸞会のようなカルトが引き受けているという図でしょうね。
残念ながら。

投稿: | 2015年7月24日 (金) 00時42分

http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20150615sinebadaredemo.htm

親鸞聖人は「信心がなければ往生不能だ」とおっしゃったのだそうですが、このような理解で本当に正しいのでしょうか。驚愕、おっと教学的なことはわかりかねますが、どうもやはり腑に落ちません。

投稿: 再び更新された親鸞会ホームページ | 2015年7月24日 (金) 12時03分

http://www.10000nen.com/?p=16855
『運命を切り開く因果の法則』  伊藤健太郎著

恐らくは高森氏からの多大な干渉のもと、それでも著者なりの独自色を出そうと苦心したあとが目次からも見て取れます。けれども畢竟、「因果」という名のお釈迦様のてのひら、おっと、カルト教祖のてのひらからは抜け出せずにいるように見受けられます。

  因果、因果と親鸞会の中で叫んでいる分にはかまいませんが、ひとつの因からひとつの果が出るというふうに説かれがちであったがために、江戸時代以降は差別正当化の論理と変わり果てました。それでこの40年来は被差別部落の人々からの建議をも容れ、必ず「縁」という視座も取り入れられるようになっております。お西版の『浄土真宗聖典(註釈版)』の補注などはその集大成的な成果と申せましょうか。

  伊藤氏の今回の著書がどの程度もまで「因〔縁〕果」の視座を踏まえているかどうかは存じませんが、師匠である高森氏の脳内がいまだ戦前の真宗寺院を手放しで礼賛するようなものである以上、悲観的な見方に傾かざるを得ません。

『100の花束』にいう
   「加藤清正はその仁、仏のごとしと朝鮮の人々から讃えられた」
うんぬんというくだりなど、いつ朝鮮総連や民団から抗議されても反論の使用のない言葉ですが、1万年堂さんには、こういう点に関して危機管理意識が果たしてほんとにあるのでしょうか。よしんば有ったとしても、要するに高森氏を怒らせなければいい、彼に対し申し開きができさえすればいいぐらいに考えているのではないかと疑われます。

投稿: 因果,因果,因縁果というは発想はないのでしょうか? | 2015年7月24日 (金) 16時36分

『浄土真宗本願寺派』・・・お西
『真宗大谷派』・・・お東
『浄土真宗親鸞会』・・・おカルト

投稿: | 2015年7月24日 (金) 18時17分

たかもり会長の知能は低い
ヤクザの手法を押し付けているだけ
講師部員や会員の方が頭は良い

投稿: | 2015年7月26日 (日) 13時51分

涙を拭きなよ、某講師

投稿: | 2015年7月26日 (日) 20時29分

う~ん。
高森会長の知能は高いかもしれませんよ。
一般論としてカルト教祖は高知能サイコパスと思われます。

会長も、若年とはいえ高学歴の人々からの、信頼(崇拝)を獲得し従わせるなど、知的能力の低い人間には不可能なことをやってのけています。

だからこそ邪悪で危険なのですが。

投稿: | 2015年7月26日 (日) 21時29分

つまり阿弥陀仏>釈尊>親鸞>会長>東大、早稲田、慶応等の学生
みんな権威を借りてるんだね。会長を少しでも否定しようものなら自分を否定されるのと一緒だから懸命に説得しようとする。高学歴の学生が引っかかりやすい。本当に頭いい人は数年で会から消えてた

投稿: | 2015年7月26日 (日) 23時51分

もしかして講師部員とか会員とか高森会長が自分より偉いとか賢いとか善をしてるとか勘違いしちゃってるのかな。

建物もあまり建てられないし創価になんか到底追い付けない。
幸福にすら負けている。
負け犬会長と知らされるのはゾウギョウが廃ってからなのかな?

親鸞会の教義の中核は思い込みと勘違いだろう。
キ印に付き合う必要はない。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 06時46分

高森会長はきっと講師部員や会員より自分のほうが賢いと思っているでしょう。
だましてるほうから見ると、だまされる人は本当にばかに見えますから。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 12時57分

いわゆる「仏法も一番、勉強も一番」がしきりに叫ばれたのはいつごろのことでしょうか? これこそは聖道門的思考の最たるものではないでしょうか? なおまた、教学試験の点数が低かったり、受験しようとしなかったりした場合は、どんな叱責、おっと指導がなされたのでしょうか? 阿弥陀さまは教学試験でいい成績を取れない愚か者はお救いくださらないのでしょうか?

……こういった疑問をごく早い時期に催さなかった会員は、たとい一流国立大学だろうが、医学部だろうが、その点に限っては不勉強だったと批判されても、あるいは仕方がないように思われます。でも、大前提は、だまされる人よりもだます奴が何百倍、いや、何万倍も悪いのです。地獄ゆき必定なのです。


投稿: 「仏法も一番、勉強も一番」がしきりに叫ばれたのはいつ頃? | 2015年7月27日 (月) 14時46分

高学歴者を集めるところがオウムそっくり。教祖は麻原と同じことをやったまで。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 19時42分

https://www.youtube.com/watch?v=5Q-CEbTsuqM

例の親鸞会の現職女性職員の中ではとりわけ美貌のほまれ高い彼女が語る「本当の親鸞聖人の教え」ビデオ。

   鼻の下を伸ばしつつも、それでも疑問に感じられたこと。彼女に台本を提供しているであろう高森会長や法義部門の担当者は、過去世というものをきわめて実体的なものとして考えているように見受けられます。お西やお東では部落問題との関係で、過去世というものを過度に実体的なものとして語ると、場合によっては解放同盟から糾弾指導を蒙りかねません(特に寺院住職による法話の場合)。

  高森氏のメンタリティーはほとんど戦前のままのようであり、閉ざされた空間で言いたい放題言っていればいいのでしょうが、これでは運よく脱会して普通のお寺で聞法するようになっても、その元会員は大きな違和感や、甚だしくは疎外感を禁じ得ないことでしょう。「親鸞会難民」の苦しみを思うと暗澹たるものがございます。

投稿: 過去世,過去世か…実体化の臭みあり | 2015年7月27日 (月) 20時17分

 「全国の生涯学習センターや市民会館で講座が開催されています」(10分21秒)と語っていますが、そういう公共の場で「宗教法人」親鸞会の講座が開かれるのは本来ならば法的に問題があることなのではありませんか?

 やや日刊カルト新聞の藤倉さんが、昨年、隠し撮りした動画を区役所に持ち込んだのは、その熱意は他とするも、やはり作戦上大きな失敗だったと申し上げざるを得ません。むしろこの動画を区役所の人に見せ、そのうえで隠し撮り動画を見せればよかったのにと惜しまれます。

  世田谷区の区長さんがその若き日は左翼的な運動の闘士だったことも、わざわいしたことと思われます。左翼はこういう隠し撮り動画に本能的な嫌悪感を覚えるでしょうから……。


投稿: それから彼女,ポロっと秘密をこぼしてますね | 2015年7月27日 (月) 20時26分

親鸞会では、現在、必死の人集めキャンペーンが行われています。
幹部会員は目標で縛り上げられてキリキリ舞いしていることでしょう。
現会員の方、情報お願いします。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 22時45分

ま、とりあえず学担が例の如く失敗してますからなぁ!

投稿: | 2015年7月28日 (火) 22時20分

   他の記事(親鸞会を退会して講師部の皆さんへ)のコメント欄が一時期、プロレスの場外乱闘さながら、大多数の人々にとっては無味乾燥な「善のすすめ」論争の書き込みで埋められてしまったようですね。所詮は金儲けのために尊い「三願転入」を持ち出しているだけですから、まともに相手にする必要もないかと存じます。

   それでかねがね思っていたのですが、ダムやら2000畳やら各地の会館へお布施するという「善」と、釈尊の昔、釈尊へ快適な精舎を寄進した高級娼館の女性経営者(今で言えば金津園ほか全国に5,6いるソープランドの女性経営者に相当しましょうか)が積んだ功徳と、いったいどっちのほうが「善」としての真実性を具備しているかということでございます。

   釈尊と娼館経営者(アンバパーリー)の物語は、つい10数年前までの『仏教聖典』(全国のホテルの部屋に置いてあるあれ)にはっきりと書いてあり、英訳まで添えられていたのですが、まず日本語原文が姿を消し、ついで英語の訳文も姿を消しました。たぶんフェミニズム団体からの抗議を恐れての措置でありましょうが、出版元は馬鹿なことをしたなあと惜しまずにおられません。清濁併せ呑む、「世間解」(如来の十号のひとつ)を地で行く釈尊のお姿をあれほど見事に活写した故事もないでしょうに。 

   ほかにも、抱えの娼妓を集めては坊さんを呼んで法話を聞かせていた名古屋や那覇の戦前の貸座敷経営者(今でいうソープの経営者)の話も『中外日報』や、暁烏敏師の著作で読んだことがあります。現世での救いをあきらめさせる、宗教はアヘンの生きた証拠、とかなんとか左翼系の学者に批判されそうですが、教祖の私欲に根ざしたどこかの団体の善の勧めよりは、よほど真実に富んでいると思われます。

   以上、これを光晴氏やその取り巻きがお読みになって憤慨なさるかも分かりませんが、私としては光晴氏に金儲けのヒントを献上したつもりでおります。さぁ今からお気に入りの高級クラブへ行って経営者からうまい具合にお布施を吸い上げてみてください。

投稿: どちらの「善」が真実のものでしょうか? | 2015年7月29日 (水) 12時25分

『人生の目的』
という本が売れている。
六百万部だそうだ。
2014年発らしいからすごい。
会員がかき集めて本部に貯める方式でも無理だな。

投稿: | 2015年7月29日 (水) 14時04分

著者は本田 健?

投稿: | 2015年7月29日 (水) 18時20分

なぜ生きるが出版されたのは人生の目的という本が出されて、これは是正しなければ、みたいな感じで出たと聞かされていた。
五木氏の本ではなく、人生の目的、という本に反応して出た、とアナウンスされていた。

したれば、幹部どもは一年間なにやってたのかな。
人生の目的、という本が発売されていても、なぜ生きるは無視どころか、無名も無名だ、ということ。
2にしても、頭の悪いおれでも読みたくない。

もしかして、会長って、なぜ生きるの出版に何ヵ月も費やしたの、命削ったの、法話を休まれるくらいだの、全部嘘なんじゃないか。

一体いつから普通に会員とか、いやさ、他人と気兼ねなく話せなくなっちゃったのかな。


講師部員よ、幹部会員よ、人間か?

そのうち、とかないぞ。
夜逃げでもいいから辞めなされ。

投稿: 善のすすめ | 2015年7月29日 (水) 19時30分

本田健の本はなかなか読ませるよ。
内容に賛同しない人にとっても少なくとも意味は判るように書かれている。
高森の『なぜ生きる』だぁ?
何だアレ。
日本語にもなっていないわな。
読んで欲しければせめて意味が通るように書けっての。

投稿: | 2015年7月29日 (水) 22時00分

高森の本は全部、部下の講師部・特専部に書かせていますよ。
それを赤ペンで添削して威張るだけです。
自分では子供のような文章しか書けません。

投稿: | 2015年7月29日 (水) 22時05分

親鸞会に所属し阿弥陀仏のお力により信心獲得出来た私は無上の幸福者である。

高森先生は唯一無二の師です。

批判サイトもたくさんあり私もかつて親鸞会を批判していましたが、とんでもない誤りでした。
批判サイトがいかにいい加減なものばかりであるか、今では断言できる。

親鸞会の教義、善の勧めを否定する愚か者に
以下の記事を送る。


定散両門は浄土門の権仮方便
テーマ:宿善

過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)

久遠の過去から、
三恒河沙という数えきれないほど多くの仏方の教えを聞き、
そこでそのお勧めによって仏道を求める心を発し、
莫大なる善根を修めてきた、その因縁あったなればこそ、
いま弥陀の大願業力に救われることができた。

この「過去世の莫大な善根」は、みな「自力の行」。

紅楳英顕氏も言う通り、
あたかも、自力で救われた、というようにも読めるお言葉だが、
これは決して、自力が有効で救われた、ということではない。

「自力無効」と知らされ他力に乗託した(獲信した)のは、
莫大な自力の善根を修めてきた宿善が「因縁」となった、ということ。


宗祖は、
「自力は無効」「宿善は獲信の因縁」と仰せられている。
明らかなことである。


今、未信の人ならば、
現在、善知識から勧められて励む諸行、念仏も
信前はみな自力の行であるが、
それらを宗祖は、
「自力は無効」「獲信の因縁」との仰せなのである。


これは、信前には絶対に知ることはできないことだ。
「獲信」すれば自ずと知らされる。
「獲信」という果を得てもいない人に
その「因縁」など知る由もなかろう。


親鸞会で「宿善は獲信の因縁」と説かれることを、
馬鹿の一つ覚えのように
「それは自力の善根が獲信に役立つという邪説」だとか
「諸行往生の教え」などと非難する者がいる。

宗祖の「自力は無効」「獲信の因縁」との仰せのままに
信後の世界を説き切られる親鸞会の主張は、
信前にどれだけ計らっても知る由もないのである。


飛●氏は述べる。
> 浄土門に入るには聖道門を捨てなければなりません。
> 当然ながら、獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。
> 19願も同じです。
> 獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。
> 信一念の時にはじめて、権仮方便と知らされるのではありません。
> 当たり前のことです。

諸行によって死後の往生を遂げようとする聖道門の仏教は
無論、意識して離れねばならないから、
> 浄土門に入るには聖道門を捨てなければなりません。
> 当然ながら、獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。
これは正しい。

しかし、
> 19願も同じです。
> 獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。
これが大間違い。
飛●氏は「定散両門」が判っていない。


まず、
>19願も同じです。
などと言いのけるが、とんでもない。
「行」は聖道の行なれど、
それを浄土へ差し向ける「定散両門」は「聖道門」ではない。
「末法の遺跡」「極楽の要門」とまで善導大師仰せの通り、
「定散両門」は「浄土門」。
これ「末代の衆生」を「随自真実」まで
「暫く開きて導かれる」「重要な法門」であることを、
飛●氏は知らないのである。

そして、
> 獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。
などと合点信仰をさらけ出している飛●氏には
「定散両門は信前には廃らない」ということを知らない。

「定散両門」は浄土門における「権仮方便」である。
「権仮方便」とは、WikiArcにもある通り、

真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。
方便の願、方便の行信、方便仮身土というようなものがこれに相当する。
この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため
暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

「真実に入ったならば」、はじめて「不要」となり「廃される」のである。
言いかえれば、
「真実に入るまでは」、「必要」であり「廃されない」ものが、
「権仮方便」ということである。

それが飛●氏には理解ないのは、
「真実に入る」ということを「獲信」とは理解できないのであろう。

「真実」とは無論、
「本願一乗円融無碍真実功徳大寶海」たる他力の信心以外にはない。
それまでの法門はすべて「方便」であって「真実」ではない。

されば
>獲信の前に権仮方便と理解して捨てる
これは飛●氏の観念の遊戯であることがわかろう。
有り得ないことを述べているのだ。

「獲信の前」は「自力の信心」。
「自力の信心」で「真実」は知れない。
「真実」に入るまで必要な「権仮方便」なのだから、
「真実」知らずば
「権仮方便」を「権仮方便」と知ることもできず、
「権仮方便」を廃することもできないからである。


まだまだ死なぬと思っているうちは
「死を前に、何物も間に合わぬ」
と他人事みたいに合点するのは容易い。

しかしそれはまだ、
「間に合わぬ」と知っているわけではない。

実際に、いよいよこれから死んでいかねばならないという時、
「死を前に、何物も間に合わぬ」
と我が事と知らされて泣く時には、
今まで知らなかった事実が知らされるのである。

獲信前に「権仮方便が廃った」と思っていることと、
実際の獲信で「権仮方便が廃った」時に知らされることと、
飛●氏は同じだとでも、思っているのであろうか。

獲信しても、知らされることは僅かです。

などと主張している飛●氏だから、
獲信の時に、真実に入って廃る権仮方便が、判らないという程度。
幼稚な信仰としか言いようもないのである。

飛●氏の迷言、いつか自身で恥じ入る時が来るであろう。

その程度だから、「宿善」を知ることなど土台無理な飛●氏は述べる。
> 十方衆生は逆謗の屍であり、下品下生、と断言しながら、
> 宿善を厚くできるからせよ、19願の修善に励め、とかいう人物は、
> 善について何も判っていないのです。

いつも親鸞会の説を捏造してそれを非難するという
まことに愚かな所業だが、これも縁になろう。

まず「宿善を厚くできるからせよ」が間違い。
親鸞会では「宿善が厚くなる」「宿善を求めよ」と教えられている。

「19願の修善に励め」も間違い。
これでは孤立した19願の道を進めという意味に聞こえる。
正しくは「18願に向かって、三願転入の道を求めよ」である。

親鸞会がなされる主張がわかっていない。判るはずもない。


宿善は、他力によって熟されていくもの。
自分の力で、厚くすることは出来ない。
励む善根は自力。自力の善根が宿善と成るのは他力による。
これが親鸞会の主張であるが、それが判っていない飛●氏。

「善について何も判っていない」
という飛●氏自身が、善を何も判っていないということは、
以下の飛●氏の主張でよくわかる。

「真実の善はできないが雑毒の善はできる」なら、
「真実の善は微塵もできない」という意味になって、
「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。

奇怪な理屈である。
日常生活の中で「心がけて善を実践している」ことと、
「観経に説かれている定善・散善が出来る」という事との区別があれば、
飛●氏の妄想はなかろう。

こんな区別さえ出来ない分際で、
親鸞会が主張する真宗伝統の「三願転入の教え」を非難しようとしても、
それは無理だから、わざわざ捏造して非難しているのであろうか。


本当に親鸞会で為されている主張を非難したいと思うならば、
もう少し肩の力を抜いて、頭を柔らかくして、
先入観や揚げ足取り意識を取り払って、
親鸞会の説はどのような説であるのか、
よく知ろうと、なるべく純粋な気持ちで取り組むべきであろう。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年7月30日 (木) 00時42分

「飛雲」から親鸞会への教義非難
8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


これに反論した親鸞会の回答
 なし

ダンマリの親鸞会に示した問答
「飛雲」の問答

問い
宿善とは宿世の善根ということで、過去世に善をどれだけしてきたかによって、早く救われるかどうか決まってくるから、現在世でも善をしていくことが早く救われる近道です。


答え


宿善の理解がデタラメです。通仏教では宿善は宿世の善根という意味ですが、この意味での宿善と18願の救いとは関係ありません。
法然上人は「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)と仰っています。
親鸞聖人のお言葉として覚如上人が「機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。」(口伝鈔)と紹介されています。
宿世の善根は、報土往生のプラスにもマイナスにもならないと断言されています。

問い


因果の道理から言っても、宿善の薄い者より、宿善の厚い者が先に救われるに決まっているではないですか。


答え


覚如上人は親鸞聖人のお言葉を承けられて、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」(口伝鈔)と教えられました。
宿善を過去世の善根という意味で、宿善の厚薄は過去の因とし、往生という大きな利益は阿弥陀仏のお力にすべてをお任せするのであって、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まるのではない、ということです。つまり、高森会長の説く因果の道理と18願の救いとは無関係です。

問い


蓮如上人は、「陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。」(御一代記聞書)と仰っているように、宿善の厚薄によって、早く救われるか遅く救われるか決まるのではないですか。


答え


これは蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』の一節を言い換えられたものです。「仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。」とあるように、『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」とは、『安心決定鈔』の「衆生がこのことわりをしること不同」の言い換えですから、ここでの「宿善」とは「信心決定」のことです。
実際、『御一代記聞書』には「当流には信をとることを宿善といふ。」ともあります。
過去世の善根の厚薄によって、信心決定の遅速が決まるということではありません。信心決定に遅速があるから往生にも遅速がある、という意味です。

問い


では信心決定の遅速は、過去世の善根の厚薄以外に何で決まると言うのですか。


答え


このことについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰っています。また「上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。」(同)とも仰っています。
過去世の善根の厚薄で18願の教えを聞いたり聞けなかったりするような単純なものではないということです。
源信僧都でさえ判らないと仰ることを明言できるのは、仏智でも体得したつもりでしょうか。

問い


仏智を体得せられた高森先生が「諸善は信心獲得の因縁なり」と教えられているのです。善をしないで信心獲得することは、ありえないです。


答え


善導大師は悪人の定義を「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観無量寿経疏)とされています。高森会長の好きな「あることなし」です。過去世においても善をしてこなかった悪人が、念仏で往生できる、と善導大師が教えられたのですが、高森会長の説では、悪人は18願によっても救われることは絶対にないことになります。しかも、全人類は悪人、と高森会長は断言しています。
親鸞聖人が、「阿弥陀仏の浄土から出られた方」と尊敬された善導大師の解釈を完全否定する智慧を体得したのが、高森会長ということですね。

問い


蓮如上人は『御文章』で「いずれの経釈によるとも、既に宿善に限れりと見えたり」(3帖目第12通)、「弥陀に帰命すというとも、信心獲得すと言うとも、宿善にあらずということなし」(4帖目第1通)、「無宿善の機に至りては力及ばず」(4帖目第8通)、「まことに宿善まかせ」(4帖目第15通)と、信心決定は宿善の有無によって決すると教えられているではないですか。


答え


蓮如上人が仰っている宿善は、過去世の善根の意味ではありません。
たとえば3帖目第12通には、「それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。」とあります。親鸞聖人の教えを信じられる人が宿善の有る人で、親鸞聖人の教えを信じられない人は宿善の無い人になります。
要するに蓮如上人が仰っていることは、信心決定は親鸞聖人の教えを信じられるかどうかによって決する、ということです。

問い


法然上人は、「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」(和語灯録)と仰っているように、「頓機」は弥陀の救いに頓くあえる宿善の厚い人、「漸機」は救いにあうのが遅い宿善の薄い人があると教えられているではないですか。


答え


根拠の捏造です。『和語灯録』にそんなことは全く書かれていません。「頓機」「漸機」とあるは『往生浄土用心』ですが、そこには「頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように」とあります。教えの理解に早い人と遅い人があるが、理解の遅い人も浄土往生できる、という意味です。
判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年7月30日 (木) 01時25分

それで、阿闍世は三願転入したの?

釈尊が阿闍世に善を勧めたお言葉がみつかったの?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年7月30日 (木) 01時27分

飛雲氏の邪義をは徹底的に破られています。
三願転入しか助かる道はないのだから
アジャセが三願転入して救われていることは言うまでもありません。


●十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。
いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、
過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。
宿福なきものはこの教にあふといへども
念持せざればまたあはざるがごとし。
「欲知過去因」の文のごとく、
今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
『口伝鈔 第二章』

十方衆生、すべての人の中に、
今生で弥陀の18願を信受(信心獲得)する人と、
今生で信受(信心獲得)しない人とがある。
その訳は、仏説無量寿経の中に説かれているように、
過去の宿善が厚い人は、
今生に、善知識の教えに遇い、信心獲得する。
宿福(宿善)のない(薄い)人は、
善知識に遇って18願の教えを聞かせて頂いても、
疑って信心獲得しないので、遇って遇わないようなものである。
「過去の因を知らんと欲せば」の御文の通り、
今生の有り様(信心獲得するか否か)によって、
宿善の有無(厚薄)は明らかである。


この覚如上人の御言葉によれば、


「浄土教を信受する機」とは、

弥陀の救いを求める未信の人すべてとは言われていない。

「今生にこの教にあうてまさに信楽す。」

とある通り、「今生で獲信する人」のことである。


「信受せざる機」とは、

弥陀の救いを未だ求めるに至らない人とは言われていない。

「この教にあふといへども念持せざれば」

とある通り、弥陀の救いを求めない人は無論だが、

弥陀の救いを求めていても、「今生で獲信しない人」のことである。

「今生のありさま」とは、

弥陀の救いを求める人か、求めない人か、とは言われていない。

”今生にこの教にあうてまさに信楽す。”

”この教にあふといへども念持せざれば”

とある通り、

「今生で獲信する・獲信しない」、という有り様のことである。

このように、今生で獲信するか否かの差があるのは、

宿善の有無、厚薄によるのだと覚如上人は教えられている。

宗祖はかつて、天台法華の聖道門を信じ、

叡山で20年、懸命に後生菩提を求められた。

苦悩煩悶される宗祖はやがて弥陀に導かれ、

法然上人との邂逅を経て、

ついに浄土の教えを信受(信心獲得)せられた。

この宗祖を、覚如上人の御言葉に照らすならば、

「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。」

の御文の通り、今生で獲信せられたのであるから、無論、

宗祖は「過去の宿善あつき」お方、

「宿福なきもの」にあらざるお方であった。

ところが飛●氏は、


「聖道門を信じている人」は

>「浄土教を信受する」ことができない「信受せざる機」、
>「宿福なきもの」です。

と断言している。

自説に酩酊して宗祖をお忘れ、言語道断と以前に指摘した通りの惨状だ。


そうなるのは、飛●氏が宿善を誤解しているからに他ならぬ。

> 「宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機」
> 「宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機」
> という意味です。

と書きながら、その意味が全く判っていないのは、
次の言葉を見ても明らかだ。
自惚れの為に自己の領解の誤りには気付かないのであろう。


> つまり宿善とは
>
> 浄土教(18願)を信受する善因縁
> 遇法の善因縁
>
> ということです。これを、
>
> 獲信の善因縁
> 往生の善因縁
>
> と勘違いしているのが親鸞会です。


飛●氏は、

「浄土教(18願)を信受する」≠「獲信」 と理解し、

「浄土教(18願)を信受する」を「信前」のことと誤解している。

正しくは、

「浄土教(18願)を信受する人」=「信前の人」

「浄土教(18願)を信受する」=「獲信」

なのだが、飛●氏にはこれが判らない。


それを踏まえて飛●氏の次の言葉を見てみよう。

> 宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。
> つまり、18願1つを勧められた
> 法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを
> 受け入れられる人は、宿善の機であり、
> 聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも
> 法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを
> 素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
> 蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、
> 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の
> 教えられたことを受け入れられるかどうかです。

飛●氏は、


「宿 善 の機」 =「浄土教(18願)を信受する機」

=「宗祖を教え(18願)を受け入れられる人」


「無宿善の機」=「浄土教(18願)を信受せざる機」

=「宗祖の教え(18願)を素直に信じられない人」

=「宗祖の教え(18願)を受け入れられない人」


と理解している。この

「受け入れる・受け入れられない」

「素直に信じられる・素直に信じられない」

という言葉が、実にいい加減で”あやふや”である。

飛●氏は、宗祖の教え(18願)を「信受する」ということを

信前に宗祖の教えを素直に受け入れて信じることと理解しているところに

大変な誤りがあるのである。


すでに述べた通り、正しくは、

「浄土教(18願)を信受」とは「獲信」のことであり、


「浄土教(18願)を信受する人」とは

未信の真宗門徒すべてのことではなく「今生で獲信する人」のこと。

「浄土教(18願)を信受せざる人」とは

弥陀の救いを求めていない人だけではなく「今生で獲信しない人」のこと。

覚如上人の御言葉をよくよく御覧になれば、

「宿善あつき人」とは

「今生で獲信する人」と仰せられている。

「宿福なきもの」とは

「今生で獲信しない人」と言われている。

文証に明らかなことだ。

浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、
覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、
蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、
【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

などと断言する飛●氏は、覚如上人や蓮師が全く仰っていないことを

あたかも覚如上人や蓮師の御言葉の意味であるかのように

堂々と誤解して述べているに過ぎないことは明瞭である。

果たして飛●氏が言うように、宗祖の教えを慕う未信の人は、

皆が皆「今生で信楽す」る「浄土教を信受する機」と言えるのか。

そうであってほしいのは無論だが、

あわれあわれ現実はそうではないからこそ、

宗祖の教えを慕い全国から馳せ参じられる

強信な御門徒の方々を相手にさえ


「あわれあわれ存命のうちに、

みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。

まことに宿善まかせとはいいながら、

述懐のこころ、しばらくもやむことなし」


と蓮師が朝夕念じていられた御意が判らぬのであろうか。

仏様でもあるまいに、飛●氏は、

浄土門に名を連ねる人がみな宿善の機(今生で獲信する人)

などと判断できるのか。

その割には「聖道門を信じる人は宿福なき者」などと、

今生で獲信せられた宗祖を見落とす大失態を曝しているではないか。


真実の弥陀の本願に救いとられた人は、

覚如上人や蓮師御述懐の通りに、宿善が知らされる。

諸善によって獲信するという意味などではない。

宿善によって獲信の前後が生じるということだ。

今生で獲信するか、できないかは、

ひとえにその人の宿善で決まることが知らされるのである。

されば飛●氏の

> 親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、
> 繰り返し繰り返し教えられているのですが、
> 絶対他力18願での往生をとても信じられない
> 無宿善の機(未熟の機)がいますので、

これは、言葉は正しいが、飛●氏の理解が間違っている。

「絶対他力18願での往生をとても信じられない」

とは、未信すべてなのだ。

弥陀の救いを求める人も含まれるのである。

宗祖の教えを信じていても、未信はみな、
「絶対他力18願での往生を疑っている人」だからである。

さてその未信の人が今生で獲信するか否かは宿善まかせ。
そのように正しく理解すれば、その後の飛●氏の言葉、

> そんな機に対しては、権仮方便をもって
> 18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。

これは正しくなる。

権仮方便は「不要」などではなく、

本当に獲信すれば「権仮方便あったなればこそ」と

宗祖が感謝せられている通りに、

誰もがその心に感謝溢れるであろう。


よもや、

> 親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、
> 18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならない
> と思うことを自惚れというのです。

と言いなさる飛●氏のようには、毛頭なり得ない。

飛●氏こそが、自惚れのど天井であることを知らされる。

19願、20願に謝念を表明せられる善知識方とは異質で

それらを必要だと思うのを「自惚れ」などと言いのける飛●氏が

相当自惚れているのである。

あさまし あさまし。

そんな自惚れたもの相手だからこそ、

阿弥陀様は御苦労せられていることを知らねばならぬであろう。


南無阿弥陀仏


南無阿弥陀仏

投稿: 親鸞会会員 | 2015年7月30日 (木) 01時48分

>アジャセが三願転入して救われていることは言うまでもありません。

→答えられなくなると、「言うまでもありません」??
聴かれたら答えませんか??
恥ずかしくないですか??
それが親鸞学徒ですか??

全く今回のタイトル通り「親鸞会のプライドはゼロ」ということがわかりました。有難うございました。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 03時18分

高森会長の教えがまったくデタラメであることは、中学生程度の国語力を持つ人なら誰でもわかります。

また彼が本当の善知識であるなら、その著作のほとんど全部が『盗作』であるはずがありません。なぜ盗作をするのか?答えは懸命な皆様ならはっきりわかるでしょう。
つまり、自分で本を書くほどの教学力がないからです。
しかも盗作本は質・量ともギネス級です。

何やら親鸞会の工作員が「場違い」な書き込み(さよならはもっぱら親鸞会の組織運営面の問題を対象とするサイトなので)をして、妨害をしていますが、なぜ教義系のサイトに書きこまないのか?
それが、会長先生の盗作とほぼ同じような理由であることは、賢明な皆様ならとっくにお見通しでしょう。

そうです、気づいた人からどんどん退会しています。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 03時44分

まだ言っているんだ。
何か長々と書けば誤魔化せると思っているのだろうけど、すでに、飛雲氏に完全論破されて独り言をつぶやいているブログから引っ張り出してくること自体、ナンセンス。

ちなみに、法然上人は

彌陀は。惡業深重の者を來迎し給ふちからましますとおほしめしとりて。宿善のありなしも沙汰せす。つみのふかきあさきも返りみす。たた名號となふるものの。往生するそと信しおほしめすへく候。

こう仰って、宿善の有無と関係なく往生する、念仏するものが往生するのだと仰っているよ。親鸞聖人も同じ。

釈尊は浄飯王に念仏を勧められ、諸善は勧められなかった。

三願転入なんて妄想をいつまでも持っているから、阿闍世のところも読もうとしないんだよ。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年7月30日 (木) 05時59分

「正しい真宗教義の伝承のために」が惨敗した証拠をこのブログのコメント欄から挙げておくので、しっかり読んでおくように。

全く反論できない、みじめなタカモリ派の記録。

1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたというタカモリカイチョウの教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及びタカモリカイチョウは、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんとタカモリカイチョウは異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、タカモリカイチョウとシンランカイのいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

投稿: 「正しい真宗教義の伝承のために」が惨敗した証拠 | 2015年7月30日 (木) 06時15分

たかもりけんてつが唯一無二の善知識?
これ詐欺です。
ありえないんだわ。
未信者で騙す気満載のやつが放つ屁であります。
ご信心すすめる人なら言わないんだわ、人を崇めさせて金集めを信心を得る前段階にするなんて。
しかも、会以外の人や辞めた人、批判などを愚民とか、…、選民思想に差別肯定者丸出しか。


ところで、『人生の目的』に対する反論書が出ていませんよ?

投稿: 元親鸞会 | 2015年7月30日 (木) 07時46分

>たかもりけんてつが唯一無二の善知識?
これ詐欺です。
ありえないんだわ。
未信者で騙す気満載のやつが放つ屁であります。

>正しい真宗教義の伝承のために」が惨敗した証 拠をこのブログのコメント欄から挙げておくので、しっかり読んでおくように。
全く反論できない、みじめなタカモリ派の記録。

少なくともこういう書き方をする者は人格者ではありません。
とても弥陀より他力の信心(金剛心)を賜り、
二種深信が立っている人間とは思えません。

ちなみに飛雲氏は親鸞会の追及に太刀打ちできなくなり、論理も支離滅裂。悪口ばかり。
ブログのコメントも書き込み禁止にして、
都合の悪いものは削除して逃亡しました。
なので、わざわざここに書き込んでいます。
現実、自分の後生と向き合って下さい。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年7月30日 (木) 14時29分

クリスさんですか?

今まで私と議論してきた内容についての反論は無しで、過去のブログで新しい話にすり替えた、こういうことですね。

それならそう言えばいいです。

少なくとも、阿闍世に関しては何も言えない。

こういうことで結論はでました。

それで、「正しい真宗教義の伝承のために」ですか?

すでに完全に論破してその後、コメントも規制して、コメントの質問にも全く答えられなくなったことさえ目を瞑って、私が論破されたというのは止めてもらいたいものです。

宿善については、散々、説明してきました。この「正しい真宗教義の伝承のために」も含めて、顕真の特集も完膚なきまでに叩きのめし、未だに反論できていないのが現状です。

「親鸞会邪義「宿善と聴聞と善のすすめ」--飛雲より
親鸞会発行『顕真』に連載された「宿善と聴聞と善のすすめ」の嘘を暴く」
http://shinrankaishukuzen.seesaa.net/


ここに詳しくまとめてあります。他人の意見を捻じ曲げてしかこそこそ反論できない親鸞会と同じにしないでもらいたいものです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月30日 (木) 15時05分

2015年7月30日 (木) 03時44分さんがおっしゃった以下のお言葉へ大きな拍手を送ります。

「何やら親鸞会の工作員が「場違い」な書き込み(さよならはもっぱら親鸞会の組織運営面の問題を対象とするサイトなので)をして、妨害をしていますが、なぜ教義系のサイトに書きこまないのか?それが、会長先生の盗作とほぼ同じような理由であることは、賢明な皆様ならとっくにお見通しでしょう。」

   決して飛雲さんを非難申し上げているわけではないのですが、このコメント欄はやはり、あまりにも踏み込んだ御法義論争を行う場ではありますまい。この点、ぶるうのさんはどうお感じになっていらっしゃるのでしょうか?

投稿: 場外乱闘,見飽きました… | 2015年7月30日 (木) 16時05分

「正しい真宗教義の伝承のために」

こんなオワコンのブログに頼っていること自体が、クリスさんの情けなさでしょう。

”阿闍世は三願転入している、親鸞聖人がこう仰っているのが証拠だ”

とクリスさんが言えば良いだけの話なのに、それができなくて飛雲さんに相手にされないからここで憂さ晴らし。

みっともない。

自分でブログを作って、そこで親鸞会の主張を思いっきり書けばいいではないですか。そして、退会者にボロボロにされて、「正しい真宗教義の伝承のために」と同じ状態に陥れば、少しは目が覚めるのでは?

マイコンの会員にはそれも望み薄でしょうね。

投稿: 「正しい真宗教義の伝承のために」が惨敗した証拠 | 2015年7月30日 (木) 16時18分

いくら根拠示しても無視だろ。
宿善は法然上人を無視し、金集めを正当化。
たかもりけんてつは伊藤康善と大沼法竜の劣化コピーして豊田商事とつるんだ悪党。
ミツハルの人格直してから出直してこい。根性なしめ。


『人生の目的』に対する反論書が出ていませんよ?

投稿: | 2015年7月30日 (木) 18時20分

親鸞会会員さま

>少なくともこういう書き方をする者は人格者ではありません。

→率直にお伺いしますが、他人の言葉を自分のオリジナルの言葉として語る、パクリの会長をどう思いますか?これで人格者ですか??
善知識は無我でなければなりませんが会長は自分に執着しすぎています。そんなに他人から誉められたいですか。そんなに飢えていますか。

わからないならわからないと答えるのが仏法者です。

投稿: アジャセの件をキチンと答えたらカキコできるよ | 2015年7月30日 (木) 20時29分

>親鸞会に所属し阿弥陀仏のお力により信心獲得出来た私は無上の幸福者である。

なら人を攻撃するのはやめなされ。
悔しさのあまり他所のブログを荒らすのが仏智を頂いた人のすることですか?
あの高森でさえ、「人に対しては藹然たれ」とかほざいていたのに。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 21時17分

>親鸞会に所属し阿弥陀仏のお力により信心獲得出来た私は無上の幸福者である。

→ これが本当なら素晴らしいことです。しかしこれが虚偽の場合は阿弥陀仏の御名を悪用した詐欺、嘘であり、この世で一番してはいけない行為をしたことになります。阿弥陀仏が喜ばれますか。反省の言葉は不要ですが二度としないで下さい。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 21時40分

浄土真宗で、高森顕徹会長が唯一無二の善知識、というのは百パーセント有り得ないんだわ。
高森顕徹は未信です、と宣伝してなさるんですね。おつかれさん。

投稿: 元カルト教団構成員 | 2015年7月30日 (木) 22時17分

>>伊藤康善と大沼法竜の劣化コピーして
>>
ホントかよ?って意を決してネット通販で手に入れてみました。
マジでパクパクですね。目が覚めました。
善知識ごっこ遊びの呪縛から解放されたよ。

投稿: | 2015年7月31日 (金) 00時15分

佐村河内守氏(偽聴覚障害+偽作曲家)や小保方晴子(STAP細胞という虚構を「発見」とウソをついた)と高森会長は同じタイプの人間(大ウソつき)です。

違うのはまだ一部の人間(=会員)にバレていないところだけ。
今やネット上のブログでその正体が暴かれ、続々と会員が退会していきました。

高森会長を『唯一無二の善知識』と思い込んでいる親鸞会会員の人は、オウム真理教の麻原教祖(現死刑囚)の空中浮揚写真を見て、本物の浮揚と信じ込んでいるオウム信者を笑うことはできません。

なぜなら両者のデタラメさは同じレベルだからです。
気づいた人からどんどん脱会していってますよ。

投稿: | 2015年7月31日 (金) 13時56分

私は攻撃したくてブログ等にコメントしているのではありません。なんとかして1人でも多くの人に真実をお伝えし救いたいのです。
非難中傷などは望むところです。

親鸞会を退会して、阿弥陀仏に本当に救われた人を見たことがありません。

救われたと言っている人はたくさんいますが、異安心ばかりです。

本当に救われているなら、二種深信が立っていて、

・無ざん無ぎの全人類で極悪最下の自己。
・そんな私が弥陀の正客、本願まこと。

以上2つが同時に知らされている状態です。

なので、どんな人から何を言われても少しも変わらない心(金剛心)です。

死ぬまで、不安になって苦しむことが全く無くなります。
死ぬまで、自分を恥ずかしく思ってクヨクヨ落ち込むことが全く無くなります。

非難中傷などの辛い事実が幸せに転じてしまう不思議な世界に生かされます。悪口も全く怖くありません。

もちろん高森顕徹先生も金剛心です。

親鸞聖人の本当の教えを伝えずにはいられません。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年7月31日 (金) 14時23分

阿弥陀仏に本当に救われた(信心獲得の一念の体験がある)人は以下の4つの質問に必ず答えられるはずです。

1、阿弥陀仏を拝見して喜ばれましたか?

2、仏智不思議とは、何ですか?

3、阿弥陀仏の声なき声をどのように味わわれましたか?

4、二種深信が立っていて何がはっきり知らされていますか?

人身受け難し 今已に受く
仏法聞き難し 今已に聞く

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

投稿: 親鸞会会員 | 2015年7月31日 (金) 14時41分

私は親鸞会のために、親鸞会に所属しているのではありません。

あくまで1人でも多くの人がまことの信心を獲られるためのご縁として、親鸞会という組織があるのです。教えが大事です。

親鸞会に入学して退会するのは自由ですが、
残念ながら今まで親鸞会を退会して、阿弥陀仏に本当に救われた人を見たことがありません。

どうか1人でも多くの人が親鸞会とご縁を結び、阿弥陀仏に救われることを願います。

私は1日1日阿弥陀仏の極楽浄土へ近づいている喜びを味わい、今後も仏恩報謝の活動として親鸞聖人の本当の教えをお伝えしていきます。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

投稿: 親鸞会 | 2015年7月31日 (金) 15時07分

「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。」(信巻)

「善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」≠地獄行き間違いなし
「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」≠念仏称えたら助かるは間違い

高森会長は異安心だ。

親鸞会から異安心と言われている人は、親鸞聖人と同じ正信心。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年7月31日 (金) 15時08分

頭おかしい雑魚www
犬鉄自身、獲心もしていなきゃ真実も無い。
あるのは盗作での偽り信心。
I藤氏やO沼氏の著書を読んでみろよw
読む勇気すら出せないウジ虫www

投稿: | 2015年7月31日 (金) 15時11分

「五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそいて
 念仏信ずる人をみて
 疑謗破滅さかりなり」 (親鸞聖人)

高森顕徹先生は間違いなく信心獲得しているまことのお方だと
改めて知らされました。

親鸞聖人の生まれ変わりとしか思えない。

そんな善知識の先生に御会いできたことを
喜ばずにはいられない。

投稿: | 2015年7月31日 (金) 15時29分

博多でけんてつ と豊田商事の殺された永野会長と同じエレベーターに乗ったことがある

吉村も永野の友達の岐阜の菊池もいたなあ~
金の亡者 極悪人が狭い空間にいっぱい

今から思うと刺激的な瞬間だな

あの時辞めてつくづくよかったと思う
あの頃けんてつの異常性に気づく者が少なくて…

投稿: | 2015年7月31日 (金) 15時41分

『法事讃』

世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。

(現代語訳)

釈尊の説法がまさに了ろうとする時、ねんごろに弥陀の名号を舎利弗に付属された。五濁のいよいよ盛んな時であるから疑い謗る人が多く、一般の僧俗がともにこの法を嫌って聞こうとしない。念仏を行ずる人を見ては瞋りの心を起こし いろいろのてだてをもってこれを破戒し競ってさまたげる。このような生まれながらの盲人のような闡提の輩は、この尊い念仏の教をそしって永く沈み、大地微塵劫より長い間をすぎてもなお三塗の身を離れることができない。

念仏を謗る人を疑謗破滅しているのが、高森会長。

念仏称えて助かると言っている者は間違いだ、とかとんでもない疑謗破滅。
まさに
「五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそいて
 念仏信ずる人をみて
 疑謗破滅さかりなり」 (親鸞聖人)

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年7月31日 (金) 15時47分

>そんな善知識の先生に御会いできたことを喜ばずにはいられない。

→阿弥陀仏の救いに遇った人のコメントなら素晴らしいが、そうでなければなぜそんなことが自分の意志で言えるのか。遇ったこてだけでそこに安住していませんか。阿弥陀仏を忘れて知識頼みになっていませんか。

投稿: | 2015年7月31日 (金) 20時02分

親鸞会の人って、高森顕徹を崇めさせることしか言ってないんじゃないかな。
ただ崇める言葉を吐いてるだけで、その実、本人との実際の付き合いないし。
事実と違うことを延々と述べているだけで、聞き手が勘違いすれば儲けもの、
その位で、釣れればいいや、という魚釣りみたいな感じじゃないかな。

『人生の目的』という本が昨年発売から600万部売れていても高森会長は反論できず。19願だの言うけど、彼なんもやってないからなぁ。
会員も金を積んでこそ、の話に金を積んでこそ、になってるし。

擁護するにも小さいと思うんだけどな。
簡単に引っ掻き回せるから遊んでるんかな。

投稿: | 2015年8月 1日 (土) 07時11分

2015年8月 1日 (土) 07時11分さんへ座布団1枚、いや、100枚差し上げとうございます!!

     アイドルをいくら知っても向こうは知らず

30年前の中高生向けアイドル雑誌で見かけた、とある高校生の川柳です。けれども親鸞会の会員さんは、今現在のところ、アイドルのファン以下の哀れな境遇だと申せましょう。なぜなら、アイドルのファンの場合、ファンクラブ会報を通じ、あこがれのアイドルの経歴や家族構成など、ある程度まで把握できます。ところが親鸞会の会員さんは、500年に一度の善知識さまの経歴さえ、ろくにご存知ないではありませんか。哀れを通り越して苦笑さえ催されてしまいます。

投稿: 30年前のアイドル雑誌で見かけた名句を… | 2015年8月 1日 (土) 12時27分

   ネット工作ですが、このコメント欄に関していえば、先月は天皇制を俎上に上げつつ、高森氏への批判だけは避けた意味不明瞭な書き込み、そして今月は、どこかよそのブログでの論争を、ここや他の批判ブログのコメント欄にまで展開した、やたら長文の書き込み……明らかにわれわれ真摯な批判者をして書き込みという名の戦意を喪失させることを狙っています。

   いまだに執行猶予中のM氏が、こうした筋書きを勝手に書くことが許されるとは到底思われません。すると、月ごとのおおまかな工作シナリオはK氏が書き、それをМ氏が熊本かどこかで、

   「上司の命令はわし(高森氏)の命令と心得よ」

という深いみこころのままに実行している、ということでしょうか。K氏の家系は相当なもののようですが、それだからこそやはり

           「爺さん泣くぜ!」

と言わずにはおられません。たしか彼は早稲田の理工学部の出身だと聞いておりますが、本当でしょうか? 

  彼(早大理工学部出身と仮定)やその仲間たちの努力にもかかわらず、2014年現在、親鸞会の本は(1万年堂のを除く)理工学部の図書館にしかありません。まじめな、しかし宗教にはズブのしろうとの理系学生(寺院の子女を除く)をだますのは、もういい加減にしてほしい。また、本部図書館や文学部図書館に、親鸞会の本が見当たらないのはどういうわけか分かりませんが、図書館側の良識だとしたらたいしたものです。

投稿: 「執行猶予」の身で作戦計画が立てられるとは思えず | 2015年8月 1日 (土) 12時38分

http://www.shinrankai.or.jp/koza/bukkyo.html 
                  (この画面のなかほど)

96歳にして人生の一大転機を迎えました。
  「親鸞会に出遇い、96歳にして人生の一大転機を迎えました。 高森顕徹先生のお話は本当に分かりやすい。スカーッとしますね。もうこの道一つに決めました」 「(詩吟や書道をたしなみ、漢詩はNHK主催の文化講座で講師を務めるほど)いろいろと広く浅くやってきましたが振り返れば、これといって残るものはありません。このままガラクタの人生で終わるところでした」                         (広島県 森●●俊)

私にはすでに1997年の時点で、高森氏の法話をどう聞いても、なんだかぐるぐると螺旋階段を登ってゆくような感じしか催されませんでした。あれの一体どこが「本当に分かりやす」くて、「スカーッと」させられるんでしょうか?
これって「あばたもえくぼ」でしょうか?  なかなか教養深いお年寄りをここまで洗脳してしまう親鸞会の恐ろしさを改めて痛感させられました。

投稿: 96歳のこのお年寄りの言葉は「あばたもえくぼ」ってことでしょうか? | 2015年8月 1日 (土) 13時44分

知識がなければ、危険とすら、一般人は、気がつかない
「サイコパス」

「それ」は、
北米には少なくとも200万人、

世界中に、7200万人、以上

「少なくとも」だから、億単位のそれは、存在している。

「サイコパス」とは、と聞かれて、正確に答えられる人は、少なく、

「サイコパス」という言葉を知らないで、人生を終える人のほうが多い。

投稿: 元会員 | 2015年8月 1日 (土) 22時17分

親鸞会に入ると色々な財施のご縁があります。
精一杯の財施を出すことで仏縁を求めるという趣旨です。

正本堂ができる以前は建立御報謝。(1990年代まで。人材の建立、会館の建立等色々な目的に使われました。)

正本堂建築が決まってからは正本堂御報謝。
加えて座布団に数十万円。金属製のレリーフにも数十万円。などなど。

今なら各地の会館のためのお布施。
とにかく高額のお金が掛かるのです。お金を失うことによって人生確実に変わってしまいます。

投稿: | 2015年8月 1日 (土) 23時04分

>真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあたって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(『顕正新聞』第175号)


いわゆる「三願転入」の前は、「宿善のススメ」でした。金で宿善を買いなさいとの会長の本音でしたが、あまりにも露骨で、法論にも行き詰まったため親鸞聖人の教えの真髄を「三願転入」に切り替えました。表面的には時代とともに会の教えは変化していますが「善のススメ=集金」は一貫しています。会長は会員に「相対の幸福は崩れる」と力説しながら「ワシの絶対の幸福は金」と思いながら布教されているのでしょうか。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 07時15分

今夏、人集めキャンペーンで必死の親鸞会です。
会員が減り財政的に苦しくなってきているようです。

「信心獲得」で後生の一大事を解決するより、「信者獲得」で会の財政の一大事を解決することのほうが、優先されています。
財産を持った人への勧誘が激しくなってきて、いよいよ本性を現した感じです。

親鸞会っぽいサークル・勉強会に勧誘されて心配でこのサイトを見に来た方、気をつけてください。彼らの狙いはあなたの預金通帳です。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 10時42分

善の勧めはお聖教にもたくさん根拠があります。

なぜ親鸞会を避難中傷する人は善の勧めを否定する人が多いのか理解に苦しみます。怠けたいだけですか。楽して助かりたいからですか。

・善因善果
・悪因悪果
・自因自果

古今東西変わらない大宇宙の真理である因果の道理が分かっていない。
悪口は十悪の1つで、親鸞会や高森先生を中傷しても苦しむのは結局自分だけです。
だから後生の一大事も分からず、仏法がさっぱり分からないのです。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 13時29分

親鸞聖人の教えに善の勧めはあります。18願へ進むためにすべての人に勧められています。以下に根拠を示します。


19願に関して親鸞聖人は御和讚に、

●「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける (十九願)」

と言い換えられ、
十方衆生に対して、

●「臨終現前の願(十九願)により
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」(浄土和讚)

と定散諸機になるように勧められました。
更に、

●「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(19願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」(浄土和讚)

と阿弥陀如来に向かっての諸善はすべて宿善になると仰られています。


19願は孤立したものではなく、18願へ進むための要門・仮門である
方便願だと親鸞聖人は明らかになされています。

●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)


●ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)


また、「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)の親鸞聖人の卓見に感服せずにはおれません。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


19願はすべての人に勧められています。以下を読めば分かると思います。

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                  (『教行信証』化身土巻・本)

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。
後の文にも『諸有海(すべての人)を化したまう』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道、聖道門を信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのです。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時06分

因果の道理を信じるのは散善の1つで雑行。

蓮如上人は後生のためには雑行(因果の道理を信じることを含む)を捨てなさい。ただし、信前信後を問わず、倫理道徳の善には心がけなさい、と仰っている。

つまりね、後生の一大事が分かっていたら、因果の道理を信じることを捨てて、後生の一大事とは関係のない親孝行やボランティアなどの世間的な善に努めなさい、ということ。

親鸞聖人は因果の道理を信じることを仏智不思議を疑う心と仰って、疑情の正体がまさに因果の道理を信じることなんだと教えておられる。

高森会長は、親孝行やボランティアなどの世間的な善を犠牲にしてでも、雑行の代表である布施、因果の道理を信じることをしなさい、と言っているが、親鸞聖人、蓮如上人と真逆のことを教えていることに気づいたら如何?

悪知識の高森会長を中傷するのは、自然な流れですね。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時07分

●臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり『浄土和讃』

>無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。

「定散諸機をすすめけり」を「定散諸機に勧められた」と理解するのは間違いでしょう。
「を」と「に」は違います。
「定散諸機を(選択の願海に)すすめけり」と拝読し、
「定散諸機を選択の願海に進められた」と理解するのが正しいと思います。

『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」

この御和讃の
「釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」
は、
「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」
(この要門・仮門より、諸々の衆生を進め(勧め)こしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教え勧め(進め)入れ給う)
に対応します。

釈尊が「定散二善」を説かれた相手は、「もろもろの衆生」すなわち「十方衆生」です。
「こしらえて」は、導いて、という意味で解説している本もありますが、作り上げる、という意味を含めればなお良いでしょう。

要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。
これが、「定散諸機をすすめけり」の正しい意味です。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時08分

>親鸞聖人は因果の道理を信じることを仏智不思議を疑う心と仰って、疑情の正体がまさに因果の道理を信じることなんだと教えておられる。

高森会長は、親孝行やボランティアなどの世間的な善を犠牲にしてでも、雑行の代表である布施、因果の道理を信じることをしなさい、と言っているが、親鸞聖人、蓮如上人と真逆のことを教えていることに気づいたら如何?

違います。

●自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讚)

この御和讚の意味は、いつまでも自力の善で助かろうとする心(仏智不思議を疑う心)を保ち続けずに、早く他力に帰せよということです。
いつまでも19願に留まるなということです。

因果の道理を信じて善をする行いが悪いのではなく、因果の道理を信じて
自力の善で浄土往生しようとする心
つまり、自力で助かろうとする心(仏智不思議を疑う心)が悪いのです。

捨てるのは行いではなく心掛けです。


善の行いをしなければ19願の道を進むことは出来ません(20願、18願へ
出られません)から、
仏智不思議を疑う心が廃るまで善をしなければならないのです。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時36分

●「罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)

この御和讚の意味も、いつまでも自力の善で助かろうとする心(仏智不思議を疑う心)を保ち続けずに、早く他力に帰せよということ、
つまり、いつまでも19願に留まるなということです。

因果の道理を信じて善をする行いが悪いのではなく、因果の道理を信じて
自力の善で浄土往生しようとする心
つまり、自力で助かろうとする心(仏智不思議を疑う心)が悪いのです。

捨てるのは行いではなく心掛けです。


善の行いをしなければ19願の道を進むことは出来ません(20願、18願へ
出られません)から、
仏智不思議を疑う心が廃るまで善をしなければならないのです。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時43分

学習能力のないのが親鸞会

飛雲のコメントより引用


カブトムシ 様

この件については、以前にも取り上げました。

少し違いますが、一口問答にこう書きました。


問い

「定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。


答え

同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 8日 (水) 16時13分

カブトムシさん、残念でしたね。

飛雲さんが時々引用される法然上人のお言葉

「しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。」

これは「善人をすゝめ給へる」は善人にすすめで、「悪人を勧め給へる」は悪人にすすめ、です。

古語の知識が不足してますよ。

投稿: クワガタ | 2015年7月 8日 (水) 18時14分

それともうひとつ。

「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて」

は、

「この要門・仮門に、もろもろの衆生をすすめこしらへて」

ではないですよ。「より」と「に」の違いも分からないのですね。


「この要門・仮門より、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」です。

勧めるのは「要門・仮門」から出なさい、「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」入りなさい。

偉そうに言うわりには、お粗末。
投稿: クワガタ | 2015年7月 8日 (水) 18時45分

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時50分

若き会長が教化を受け「次第に迷雲が晴れた!!」とハッキリ!!告白し、大変お世話になった、あの華光会では収支報告を行いますが、親鸞会は未だに収支報告を行わないようですね。

親鸞会の人は「真実の団体だからこそバランスを取るため不透明感が必要なのだ」と言うのでしょうか。金を集めて収支報告できないのは共に仏教を聴かせて頂く御同行、御同崩の聖人の精神が欠如し、上から目線で会が運営されているからでしょうか、、、、因果の道理とかたいそうなことを言う前にまず普通の団体になれるよう頑張って下さい。まさかお金を出してくれた人に収支報告して感謝の気持ちをあらわすことのできない我が団体と知らされるまで、、、という修行ではないでしょう。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時51分

>善の行いをしなければ19願の道を進むことは出来ません(20願、18願へ
出られません)から、
>仏智不思議を疑う心が廃るまで善をしなければならないのです。

19願をするように勧められた親鸞聖人のお言葉が皆無なので、この理屈は完全な妄想。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 14時52分

飛雲氏は都合の悪いコメントをすべて削除しました。

カブトムシさんやユウさん、カナブンさん等の
追及から言い逃れできなくなり、ブログのコメントも規制して自分に都合の
悪いものはすべて削除しています。

>「この要門・仮門より、もろもろの衆生(十方衆生)をすすめこしらへて」

は、

「この要門・仮門(19願)に、もろもろの衆生(十方衆生)をすすめこしらへて」

ではないですよ。「より」と「に」の違いも分からないのですね。


「この要門・仮門より、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」です。

勧めるのは「要門・仮門」から出なさい、「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」入りなさい。

その通り。
しかし、善を実践しない(19願の道を進まない)から
要門・仮門から出られない人(飛雲さん等)が
大勢いるのが現状です。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 15時04分

若き会長が教化を受け「次第に迷雲が晴れた!!」とハッキリ!!告白し、大変お世話になった(そしてその後会長が恩を仇で返した)あの華光会では収支報告を行いますが、親鸞会は未だに収支報告を行わないようですね。
親鸞会の人は「真実の団体だからこそバランスを取るため不透明感が必要なのだ」と言うのでしょうか。金を集めて収支報告できないのは共に仏教を聴かせて頂く御同行、御同崩の聖人の精神が欠如し、上から目線で会が運営されているからでしょうか、、、、因果の道理とかたいそうなことを言う前にまず普通の団体になれるよう頑張って下さい。まさかお金を出してくれた人に収支報告して感謝の気持ちをあらわすことのできない我が団体と知らされるまで、、、という修行ではないでしょう。

先程上記のコメントをした者です。一部訂正致します。

【訂正】御同行、御同崩の聖人の精神 → 御同朋御同行の聖人の精神

聖人様 またお読みの皆様申し訳ございませんでした。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 15時11分

>しかし、善を実践しない(19願の道を進まない)から
>要門・仮門から出られない人(飛雲さん等)が
>大勢いるのが現状です。

親鸞会の会員のことでしょ。

退会者は要門・仮門からみんな出てますよ。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 15時15分

阿闍世が三願転入したという根拠さえ出せないのに、善の実践、19願を必ず通るとか喚き散らしても、無意味でしょ。日本語の分かる人としか議論はできませんから、飛雲さんが相手にしないのは当然でしょ。

阿闍世が三願転入したと仰った親鸞聖人のお言葉を出してみなさい。話はそれから。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 15時22分

>退会者は要門・仮門からみんな出てますよ。

残念ながら要門・仮門から18願へ進んで救われたのではありません。

退会者は19願の歩みを止めているだけです。まだ要門・仮門の中にいるのです。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 15時24分

「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)

念仏だけを選んで諸善を捨てるのが20願の行者。
ちなみに
念仏だけを選んで諸善を捨てるのが18願の行者。

20願と18願の違いは念仏が自力か他力かの違い。なので、

念仏だけでいい、諸善は不要、といっている退会者は、要門・仮門から完全に出ているってことよ。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 15時44分

>「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)

念仏だけを選んで諸善を捨てるのが20願の行者。
ちなみに
念仏だけを選んで諸善を捨てるのが18願の行者。

20願と18願の違いは念仏が自力か他力かの違い。なので、

念仏だけでいい、諸善は不要、といっている退会者は、要門・仮門から完全に出ているってことよ。

理屈ではその考え方は通ると思いますが、ひたすら念仏だけ称えている人が、、

●一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
(教行信証信巻)

という境地になりますか?

真剣に善に励むことで、まことの善のできない極悪人と知らされる。
実践しなければ、自己の真実の姿は分からない。
機の深信は立たない。


●「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

〝どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのである〟
(歎異抄)

この告白は、ひとり親鸞聖人のみならず、古今東西万人の実相であることを、『教行信証』には、こう断言されている。

●「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

〝すべての人間は、果てしなき過去から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくないものである〟

 自身のことに限らず、なぜ古今東西万人のことを、かくも道破できたのであろうか。誰もが疑問に思うだろう。

 しかしこれは、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば誰しも知らされることなのである。

弥陀の救いは「聞く一つ」で決する。その「聞」について、親鸞聖人はこう教示されている。

●「聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」
(教行信証信巻)

「仏願」とは阿弥陀仏の本願のこと。本師本仏の阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を相手に「若不生者不取正覚(必ず絶対の幸福に生まれさせる)」と誓われている。「生起」とは、弥陀はなぜ本願を起こされたのか。十方衆生を、どんな者と見てとられて本願を建立されたのか、ということである。

 それは本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるように、十方衆生は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍と見抜かれている。

 親を邪魔にする五逆罪、善知識をおろそかにする謗法罪、無常を無常とも思わず、罪悪を罪悪とも感じない、信ずる心も、念ずる心も、たのむ心もない闡提が、十方衆生の実相と十劫の昔にお見通しなのである。

 そんな十方衆生を助けるために、弥陀が法蔵菩薩と成り下がられて、五劫の思惟と兆載永劫のご修行をなされたのが「本末」の「本」なのだ。

 その五兆の願行の末に、逆謗闡提の十方衆生を救い切る力のある無上の大功徳の南無阿弥陀仏のご名号を成就完成なされ、再び阿弥陀仏に復帰されたのが「本末」の「末」である。

 この「仏願の生起・本末」を聞いて「疑心あることなし」と弥陀の本願まことであったと救われれば、弥陀のお見抜き通り、「十方衆生は逆謗の屍」と疑い晴れるのである。

 かくて親鸞聖人は、三世を貫き十方に遍く万人の真実を、喝破なされたのである。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 16時23分

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし」
「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。」

これは、煩悩に汚されていて、清浄の心なく、真実の心もない、ということで、極悪人とは全く意味が違う。
簡単に言えば、聖道門で出離して最終的には成仏を目指していても、それはできないということであって、極悪人の意味は全くない。

要するに、聖道門で真実の善ができると自惚れている人に対して仰ったもので、聖道門の修行などできない、真実の善などできるとも最初から思ってもいない我々にとっては、聞けばその通りその通りと納得できる話で、善の実践とは無関係に思える。


『尊号真像銘文』に

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありまして、逆謗の者もいるし、逆謗でない者もいるということです。
「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」
「唯除五逆誹謗正法」がない19願・20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではなく漏れている者がいる。

それだけのことで、「十方衆生は逆謗の屍」なんてのは、妄想。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 16時47分

それで、阿闍世は善をしたの?
釈尊は阿闍世に善を勧められたの?
釈尊は浄飯王に善を勧められたの?

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時00分


これはあなた方の後生がかかっている問題。真剣に議論しましょう。

>聖道門で出離して最終的には成仏を目指していても、それはできないということであって、極悪人の意味は全くない。

要するに、聖道門で真実の善ができると自惚れている人に対して仰ったもの


聖道門で真実の善ができるとうぬぼれている人だけに仰った根拠を示してみて
ください。なぜ「聖道門だけ」なのですか?そして、「極悪人」とはどういう意味ですか?

「煩悩に汚されていて、清浄の心なく、真実の心もない」=逆謗=全人類の真実の機ではないでしょうか?

●それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人(すべての人)をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極楽に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり。 (御文章2帖)

>「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。」

これは、

十悪・五逆の罪人【も】、五障・三従の女人【も】

です。ということは、そうでない者【も】いるということです。


そして、そうでないがいたとしても、その後に{むなしくみな」と
あるのですから、みな=全人類は、
「十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。」
です。

>『尊号真像銘文』に

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありまして、逆謗の者もいるし、逆謗でない者もいるということです。
「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」
「唯除五逆誹謗正法」がない19願・20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではなく漏れている者がいる。


18願に「唯除五逆誹謗正法」と書かれているのは、
「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。つまりこのふたつの罪のおもきことをしめして、そんな罪の重い者でも救うぞという誓いですが、
なぜ、「逆謗の者もいるし、逆謗でない者もいるということ」なのですか?

先ほどの御文章にもあるように、「むなしくみな」=「十方衆生」は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍と見抜かれているからこそ、
{五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。}
ではないのでしょうか?

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 17時22分

教学的なことを詳しく書くと叱られるので、簡潔に。

>「むなしくみな」=「十方衆生」は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき

「凡夫」です。「十方衆生が逆謗の屍」ということはどこにも誰一人仰っていません。大沼氏が言ったのを高森会長がパクッただけ。

以下、日本語の問題

「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」
「唯除五逆誹謗正法」がない19願・20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではなく漏れている者がいる。

これが理解できないなら、二度と来るな。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時34分

それで、阿闍世は善をしたの?
釈尊は阿闍世に善を勧められたの?
釈尊は浄飯王に善を勧められたの?

(答え)
阿闍世は善をしていない。
釈尊は阿闍世に善を勧められていない。
釈尊は浄飯王に善を勧められていない。

よって、善をする必要は全くない。19願を通る必要は全くない。

日本語が分かれば、これ以上の説明は不要のはず。日本語のわからない者は、コメントをするな。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時37分


>「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」
「唯除五逆誹謗正法」がない19願・20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではなく漏れている者がいる。

18願に「唯除五逆誹謗正法」と書かれているのは、
「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。つまりこのふたつの罪のおもきことをしめして、そんな罪の重い者でも漏らさず救うぞという誓いだということを示すためです。

唯除五逆誹謗正法」がない19願、20願に漏れているものは1人もいません。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 17時38分

>それで、阿闍世は善をしたの?
釈尊は阿闍世に善を勧められたの?
釈尊は浄飯王に善を勧められたの?

(答え)
阿闍世は善をしていない。
釈尊は阿闍世に善を勧められていない。
釈尊は浄飯王に善を勧められていない。


親鸞聖人がそう仰った根拠を示してください。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 17時46分

念仏(口で称える称名念仏)は大変な功徳がある善ですが、親鸞会では称名念仏よりも財施や勧誘を勧めるのです。
理由は言わずもがな。

会館建設を中心に財施に関して振り返ってみます。
高岡に会館を建てるときは当然会員からの財施を募って突貫工事で建てました。

小杉の現在の所在地に旧「本部会館」(正本堂の隣)。これも会員から高額の財施が集められました。

旧「本部会館」の隣に「顕真会館」(緑青色のドームのある建物)があります。これは「会長先生がお金を出して下さった」とアナウンスされて驚いたものですが、当然会員が出した財施が高森先生のポケットに入り、そこから出して下さったという意味です。

その後現在の正本堂が建設され、60億円と言われる全費用を会員が負担しました。

さらに「聞法ドメイン」と称して広大な土地を買いました。会館の隣地の佐川急便の土地も買いました。もちろん、「聞法ドメイン」を大々的に打ち出して財施が集められました。

常に会員が財施(お布施)を出して会の発展の歴史が築かれてきました。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時49分

唯除とあるから、皆漏れず、
唯除がなくても、皆漏れず

凄い阿保

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時49分

法然上人、聖覚法印は、

我ら五逆をつくらず

とおっしゃり、親鸞聖人も、聖覚法印の言葉を写して同行に与えられた。

我ら五逆をつくらず

は、親鸞聖人のお言葉でもある。

謗法も同様。

我らは、逆謗ではないと否定されたのが、法然上人、聖覚法印、親鸞聖人。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 17時57分

『さるべき業縁の催せば、いかなる振舞いもすべし』(歎異鈔)

永い過去世から、縁さえこればどんな悪果を受けてもおかしくない無限の悪業(罪)を造ってきた親鸞だ。
起こさない結果はない、地獄一定の恐ろしい極悪人である親鸞。

そんな親鸞がお目当ての阿弥陀仏の本願であった(二種深信)

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 18時12分

それで、

我ら五逆謗法をつくっている

という根拠はない訳ね。屁理屈なんか聞いてないの。


釈尊は、阿闍世と浄飯王に善を勧められなかった。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 18時19分

我ら永い過去世から五逆謗法をつくっていない、
という根拠もありませんよね?

釈尊は、阿闍世と浄飯王に善を勧められなかった、アジャセが三願転入しなかった根拠もありませんね?

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 18時33分

〉退会者は19願の歩みを止めているだけです。まだ要門・仮門の中にいるのです。

オオクワガタさんにこの事が分かる理由を教えて下さい。退会者は、19願の歩みを止めているとオオクワガタさんが分かる理由です。どうして分かるのかな?

投稿: オオクワガタさん、ちょっと答えてみて下さい | 2015年8月 2日 (日) 18時52分

我ら五逆をつくらず

過去につくった、とはないんだよね。

十方衆生が、過去に誰一人例外なく五逆をつくったなんて根拠は、ないんだよね。

阿闍世と浄飯王が三願転入したとの根拠がなければ、三願転入自体意味がない、問題にもならないということ。

簡単な論理が理解できないなら、義務教育やり直しだな。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 19時10分

高森先生が言うからすべてを自分は真似ている、という事で理解していいのでしょうか?

では、教義の責任は高森先生にあると理解していいのでしょうか?大事な点です。最高責任は高森先生にあると理解していいのでしょうか?

投稿: オオクワガタさん、ちょっと答えてみて下さい | 2015年8月 2日 (日) 19時33分

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
        (行巻)

「釈尊はなぜ父王(浄飯王)に念仏を勧めて善を勧めないのですか」
「父王には善は無理だから」

投稿: 浄飯王のこと | 2015年8月 2日 (日) 19時47分

〉退会者は19願の歩みを止めているだけです。まだ要門・仮門の中にいるのです。

オオクワガタさんにこの事が分かる理由を教えて下さい。退会者は、19願の歩みを止めているとオオクワガタさんが分かる理由です。どうして分かるのかな?


善をやめて念仏だけ称えていても、信仰が進まないからです。

念仏が悪いのではなく、その称え心が問題なのです。

万行随一の念仏(19願)
万行超過の念仏(20願)
自然法爾の念仏(18願に救われ、お礼の気持ちで称える念仏)

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 19時51分

阿闍世の獲信後の言葉

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。(信巻)


「今まで仏をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります」
つまり、仏法の善をこれまでもしてこなかったし、釈尊からも勧められてもいないのに、信心を獲たので、「無根の信」と阿闍世が言った。


無善ということね。日本語が分かれば。

投稿: 阿闍世のこと | 2015年8月 2日 (日) 19時51分

>善をやめて念仏だけ称えていても、信仰が進まないからです。

善をすると信仰が後退するのですがね。

「また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(信巻)

迂回、遠回りの善ですがね。日本語が分かれば。

法然上人は信心を獲られない人に対して、念仏を称えなさい、そうすれば必ず信心は獲られるからと仰ってますよ。

親鸞聖人も

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
    (浄土和讃)

20願の念仏を称えれば自然に18願の念仏になると教えられていますがね。
日本語が分かれば。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 19時56分

高森先生の意見ですか?

〉善をやめて念仏だけ称えていても、信仰が進まないからです。

念仏が悪いのではなく、その称え心が問題なのです。

万行随一の念仏(19願)
万行超過の念仏(20願)
自然法爾の念仏(18願に救われ、お礼の気持ちで称える念仏)

投稿: オオクワガタさん、ちょっと答えてみて下さい | 2015年8月 2日 (日) 20時03分

>念仏が悪いのではなく、その称え心が問題なのです。

少しはいいところに気が付きましたね。
念仏はいいこと。

では諸善は?

諸善は18願で除かれた行なので悪いのです。心がけ以前の問題。

まとめると

諸善はものがらが悪いから捨てよ
自力念仏はものがらは良いが、心がけが悪いからその悪い心がけを捨てよ。

まずは、ものがらの悪い諸善を捨てて、念仏を選択してから悪い心がけを捨てる。諸善をやっているうちは、永久に18願にたどり着けない。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時12分

>定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ(19願から20願へ転入してこそ)
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
    (浄土和讃)

20願の念仏を称えれば自然に18願の念仏になると教えられていますがね。
日本語が分かれば。

それで助かった人はいますか?

弥陀より他力の信心を賜り、二種深信が立っていますか?

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 20時15分

失礼しました。

>定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ(19願から20願へ転入してこそ)
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
    (浄土和讃)

20願の念仏を称えれば自然に18願の念仏になると教えられていますがね。
日本語が分かれば。

善をまったくせずに(19願を無視して)、ただ念仏だけ称えて、
助かった人はいますか?

弥陀より他力の信心を賜り、二種深信が立っていますか?

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 20時21分

>20願の念仏を称えれば自然に18願の念仏になると教えられていますがね。
>日本語が分かれば。

>それで助かった人はいますか?

>弥陀より他力の信心を賜り、二種深信が立っていますか?

たくさんいますよ、そうでなければ、親鸞聖人はこう仰ることはないでしょう。

それともなんですか、親鸞聖人は嘘を仰ったとでも。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時22分

オオクワガタ様

貴方は会の教えの代表になる方ですか?

会長を信頼して会長にどんな質問もできる方ですか?会長に聴きたいことが沢山あります。質問はパクリ疑惑などあります。責任を持って聴いて頂けますか?無理なら申し訳ありませんが消えて下さい。
回答なければ誰も相手にする必要がなくなります。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 20時22分

親鸞聖人が明言されたことに、異論を唱え、
親鸞聖人が仰ってもいないことを、勝手な理屈を捏ね繰り回すのが親鸞会。

正確には、

親鸞聖人が明言されたことに、異論を唱え、
親鸞聖人が否定されたことを、肯定されていると無茶苦茶な理屈をつけるのが親鸞会。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時25分

自力善の積み重ねで助かろうとするのはまったく間違い。

そこは誤解しないで頂きたい。

お勤めもしているので念仏も称えています。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 20時27分

これだけ善の勧めの根拠があるのに、なぜ善の勧めを否定するのかが謎であります。
教えの誤解をなんとか正したいものです。念仏が悪いと言っているのではありません。

親鸞聖人の教えに善の勧めはあります。18願へ進むためにすべての人に勧められています。以下に根拠を示します。

●凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。
(一念多念証文)


19願に関して親鸞聖人は御和讚に、

●「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける (十九願)」

と言い換えられ、
十方衆生に対して、

●「臨終現前の願(十九願)により
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」(浄土和讚)

と定散諸機になるように勧められました。
更に、

●「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(19願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」(浄土和讚)

と阿弥陀如来に向かっての諸善はすべて宿善になると仰られています。


19願は孤立したものではなく、18願へ進むための要門・仮門である
方便願だと親鸞聖人は明らかになされています。

●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)


●ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)


また、「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)の親鸞聖人の卓見に感服せずにはおれません。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生(十方衆生)を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


19願はすべての人に勧められています。以下を読めば分かると思います。

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                  (『教行信証』化身土巻・本)

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。
後の文にも『諸有海(すべての人)を化したまう』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道、聖道門を信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのです。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 20時36分

オオクワガタ様
貴方は会の教えの代表になる方ですか?
会長を信頼して会長にどんな質問もできる方ですか?会長に聴きたいことが沢山あります。質問はパクリ疑惑などあります。責任を持って聴いて頂けますか?無理なら申し訳ありませんが消えて下さい。
回答なければ誰も相手にする必要がなくなります。
他の質問に答えず早く答えて下さい。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 20時36分

オオクワガタさんの出した根拠は、すべて高森会長の大嘘解釈だったと何回も何回も説明されて、全く反論できていませんよね。

嘘も100回言えば真実になる

こう思っているのなら、やはりカルトですね。

あなたの出した根拠は、すべて、聖道門の人、善人に対しては善を勧められているが、18願には不要の善と言う意味にしかなりません。

嘘も100回言えば真実になる

これが通用すると思っているなら、大変な謗法罪。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時43分

念仏の勧めはあるのに、親鸞会は念仏を勧めない。
善の勧めは全くないのに、親鸞会は善を勧める。

つまりは

親鸞聖人が明言されたことに、異論を唱え、
親鸞聖人が否定されたことを、肯定されていると無茶苦茶な理屈をつけるのが親鸞会。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時45分

>それで、阿闍世は善をしたの?
釈尊は阿闍世に善を勧められたの?
釈尊は浄飯王に善を勧められたの?

(答え)
阿闍世は善をしていない。
釈尊は阿闍世に善を勧められていない。
釈尊は浄飯王に善を勧められていない。


>親鸞聖人がそう仰った根拠を示してください。

根拠を示しました。
では今度は、あなたが

阿闍世は善をした。
釈尊は阿闍世に善を勧められた。
釈尊は浄飯王に善を勧められた。

根拠を示しなさい。


投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時48分

オオクワガタ様
貴方は会の教えの代表になる方ですか?
会長を信頼して会長にどんな質問もできる方ですか?会長に聴きたいことが沢山あります。質問はパクリ疑惑などあります。責任を持って聴いて頂けますか?無理なら申し訳ありませんが消えて下さい。
回答なければ誰も相手にする必要がなくなります。
こんなこと簡単でしょう。教学がなくても貴方の意志だけで答えられます。少なくとも脱会者は自分の信念、責任を持ってでコメントしています。

他の質問に答えず早く答えて下さい。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 20時51分

>オオクワガタ様
貴方は会の教えの代表になる方ですか?
会長を信頼して会長にどんな質問もできる方ですか?会長に聴きたいことが沢山あります。質問はパクリ疑惑などあります。責任を持って聴いて頂けますか?無理なら申し訳ありませんが消えて下さい。
回答なければ誰も相手にする必要がなくなります。
他の質問に答えず早く答えて下さい。


私は一般会員です。会の教えの代表ではありません。
なんとかあなた方の教えの誤解を正し、救いたかったのですが、
どうやらしばらく無理そうですね。
ここから消えますね。

1人でも多くの人が親鸞会に再入学し、阿弥陀仏に救われることを願います。

投稿: オオクワガタ | 2015年8月 2日 (日) 20時51分

では今度は、あなたが

阿闍世は善をした。
釈尊は阿闍世に善を勧められた。
釈尊は浄飯王に善を勧められた。

根拠を示しなさい。


根拠がないから逃げるんだね。よく分かりますよ。そして二度と醜態を曝すコメントをするなよ。

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 20時58分

オオクワガタ様
>どうやらしばらく無理そうですね。
ここから消えますね。
1人でも多くの人が親鸞会に再入学し、阿弥陀仏に救われることを願います。

→素晴らしいです。これ以上に真実を謗ることを避けられたことは正しい決断です。言葉とは裏腹に実は会長を信頼できず会長に質問できない一般会員の方だと理解しました。その度胸ができたならコメントして下さい。もう少し親鸞会の教義を理解しないとその間違いも理解できないのは当然のことです。親鸞会にいれば信心を頂けるという安楽椅子に気づいて下さい。だって親鸞会ができる前のこの人類史で沢山の人が救われておられますから。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 21時10分

オオクワガタ様

>>1人でも多くの人が親鸞会に再入学し、阿弥陀仏に救われることを願います。

親鸞会に再入学ではなく、再入会することはあることなしです。それより貴方が会長に質問できるやる気、元気ができたならいつでもこのブログに来て下さい。それまでは貴方は嫌な気持ちになるだけです。

「本師龍樹菩薩の をしえをつたえきかんひと 本願こころにかけしめて つねに弥陀を称すべし」 (高僧和讃)

真実の教えを聴いた人に諸善は勧めておられません。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 21時31分

http://blog.goo.ne.jp/furins/1
これが決定的ですよね

T森一家のブラック体質が垣間見える
浄土真宗を語るカルト狂団

投稿: | 2015年8月 2日 (日) 22時13分

善の勧めは明らか。

★三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)

★ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)

★諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。
(唯信鈔)

★「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。
(唯信鈔)

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 22時41分

親鸞会会員様

★諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。(唯信鈔)


まず上記の現代語訳を記載して下さい。

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 2日 (日) 22時53分

親鸞会会員様

貴方は一般の会員ですか?
たとえ会長のパクリ問題などくだらないことでもわからないことは責任を持って会長に質問する気持ちはありますか?

お答え下さい。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 23時00分

諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。
(唯信鈔)


(現代語訳)

諸行往生というのは、父母を大切にし、あるいは先生・先輩によく仕え、あるいはいろいろな戒律を守り、あるいは施しの行・がまんの行をして、少なくとも密教の秘法・止観の行をめぐらしつつ、浄土に往生したいと願うのである。

これをしたから往生をしないということはない。

すべては、往生を願いとした行である。
 
ただし、これらは自分で励んで往生を願うのだから、「自力の往生」と名づけられる。
 
ということはもしこの往生を願いとした行が、疎かであったら、往生は難しい。

ご存じの阿弥陀仏の本願の教え(19願)に沿っていないのである。
だから仏の救いの光明に照らされないのである。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 23時17分

親鸞会会員様
貴方は一般の会員ですか?
たとえ会長のパクリ問題などくだらないことでもわからないことは責任を持って会長に質問する気持ちはありますか?

早くお答え下さい。

こんな簡単な質問に答えるの難しいですか??

答えられないのなら早く会長に質問できるだけのやる気と元気を身に付けてこのブログに来てください。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 23時30分

親鸞会会員様
読み方間違えていますよ。というかわざとですか。
・・・・・
自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。

以上のことを自力の往生と言います。行をおろそかにするから自力の行では往生を遂げる事が陸奥開始のですよ。だって、阿弥陀様の御本願と違っているからね。摂取の光明が照らすと所とは違いますから。
・・・・・
と読むのが普通ですよ。

まあ、そんなことを言うためにコメントしたのではありません。

今月、8月30日に親鸞会元講師の嶋田さんをお呼びして勉強会をいたします。
そのご案内です。どなたでも結構です。
私のブログのメールアドレスにご連絡ください。
詳細はメールでお知らせいたします。

私のブログは、「とくよしみねの「なぜ生きる」」です。
よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年8月 2日 (日) 23時34分

訂正
陸奥開始→難しい
失礼しました。

投稿: とくよしみね | 2015年8月 2日 (日) 23時36分

>親鸞会会員様
貴方は一般の会員ですか?
たとえ会長のパクリ問題などくだらないことでもわからないことは責任を持って会長に質問する気持ちはありますか?


私は一般の会員です。
質問する気はありません。
ただ私はここにいる人たちに親鸞聖人の正しい教えを知っていただきたいだけです。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 23時37分

>>私は一般の会員です。質問する気はありません。

→退会者の関心は会長の言動に集中しているでしょう。会長の考えを堂々と伝えられない人の話は誰も聴きません。会長に質問できるやる気と元気が出来たらまた来てください。

投稿: 元会員のひとり | 2015年8月 2日 (日) 23時46分

>行をおろそかにするから自力の行では往生を遂げる事が陸奥開始のですよ。

普通ではないですね。

『行(善)をおろそかにしたならば、自力の行(善)では往生を遂げることは難しい』

とは意味不明です。

正しくは、

『行(善)をおろそかにしたならば、往生を遂げることは難しい』

ではないですか。

行業(善)もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 2日 (日) 23時53分

>正しくは、
『行(善)をおろそかにしたならば、往生を遂げることは難しい』
ではないですか。


、、どうしてこれが善のススメになるのかよくわかりません??

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 3日 (月) 00時05分

>正しくは、
『行(善)をおろそかにしたならば、往生を遂げることは難しい』
ではないですか。


、、どうしてこれが善のススメになるのかよくわかりません??


阿弥陀仏に向かって善を実践すると宿善が厚くなり、早く阿弥陀仏に救われるからです。

★『諸善万行ことごとく
  至心発願せるゆえに(19願のこと)
  往生浄土の方便の
  善とならぬはなかりけり』(浄土和讚)

投稿: 親鸞会会員 | 2015年8月 3日 (月) 00時15分

>阿弥陀仏に向かって善を実践すると宿善が厚くなり、早く阿弥陀仏に救われるからです。


願行具足の南無阿弥陀仏の意味わかりますか?
善の実践は願行具足の南無阿弥陀仏を疑う心です。阿弥陀仏は私達に代わって全ての修行を実践されたというのが浄土真宗の教えです。もしこの世で後生の一大事の解決のために善の実践が必要ならば阿弥陀仏は既に善の実践を終えられています。願行具足の南無阿弥陀仏に何の不足がありますか??

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 3日 (月) 00時28分

>願行具足の南無阿弥陀仏の意味わかりますか?
善の実践は願行具足の南無阿弥陀仏を疑う心です。阿弥陀仏は私達に代わって全ての修行を実践されたというのが浄土真宗の教えです。もしこの世で後生の一大事の解決のために善の実践が必要ならば阿弥陀仏は既に善の実践を終えられています。願行具足の南無阿弥陀仏に何の不足がありますか??


お聖教上の根拠を示してくださいな。

投稿: 飛雲閣 | 2015年8月 3日 (月) 00時55分

リクエスト通りなら下記御参照下さい。

「高森会長の邪義を粉砕されたのが善導大師の六字釈、願行具足論: 飛雲 〜親鸞会の邪義を通して〜」
URL:
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1305709/1323088/82310853

他には
御文章三の八に、 「南无阿弥陀仏の六字を善導(玄義分)釈していはく、〈南无といふは帰命、またこれ発願迴向の義なり〉といへり。其意いかんぞなれば、阿弥陀如来の因中に於て我等凡夫の往生の行をさだめ給ふとき、凡夫のなす所の迴向は自力なるがゆへに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、此迴向を我等にあたへんがために、迴向成就し給ひて、一念南无と帰命するところにて、此迴向を我等凡夫にあたへましますなり。故に凡夫の方よりなさぬ迴向なるがゆへに、これをもて如来の迴向をば行者のかたよりは不迴向とは申すなり。此いはれあるがゆへに南无の二字は帰命のこゝろなり、又発願迴向のこゝろなり。此いはれなるがゆへに、南无と帰命する衆生をかならず摂取してすて給はざるがゆへに南无阿弥陀仏とは申なり」

ちなみに願行具足の南無阿弥陀仏を否定しますか?
以上

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 3日 (月) 01時49分

もろもろの善根を修するを要とするなり。


『しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。』
(教行信証化土巻)

投稿: 飛雲閣 | 2015年8月 3日 (月) 02時23分

もしかして願行具足の南無阿弥陀仏を否定する立場ですか?

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 3日 (月) 02時29分

また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。

訳すと

また、その三経に説かれる方便の教えは、さまざまな善根を修めることをポイントとするのである。

言い換えると

方便の教えのポイントは善を修すること

善を修するのは方便


だから何?


>阿弥陀仏に向かって善を実践すると宿善が厚くなり、早く阿弥陀仏に救われるからです。

大嘘です。
善をすると阿弥陀仏に救われるのに遠回りになります。

「また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(信巻)

迂回、遠回りの善ですがね。日本語が分かれば。

>★『諸善万行ことごとく
>  至心発願せるゆえに(19願のこと)
>  往生浄土の方便の
>  善とならぬはなかりけり』(浄土和讚)

諸善万行はみな、浄土往生したいと願って修すると、往生浄土の方便(雑行)とならないものはない

雑行の説明をされたもので、これが

「また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(信巻)

迂回、遠回りの善ですがね。日本語が分かれば。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 04時17分

高森ミツハルの人格をどうにかしろよ
善のすすめだろ

横領不倫圧政の権化に投資して、仏法のためとか一枚かまして騙すのは宿善ではないわ
19願でも20願でもない
詐欺だ

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 06時20分

『人生の目的』という本は600万部売れてるそうだが、親鸞会にとって人生の目的はどうでもいいということかな?
去年発刊ですよ?
反論書はなぜ出さないの?

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 06時23分

あちこちで人生の目的が600万部と言ってますが、本田健さんの本の累計が600万部なのではないですか?

高森会長と同レベルになってしまいますよ。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 06時39分

親鸞会会員さま
曲解甚だしくてかなわんのですが一応書いておきます。唯信鈔のあの段は諸行往生について書かれたものですよ。次に念仏往生が書かれてありますよね。唯信鈔全体を読めばそんな解釈は出てきません。
また、親鸞聖人の書かれた唯信鈔文意の最初の段をよく読んでください。
いつもの親鸞流断章主義にはたまらんです。

投稿: とくよしみね | 2015年8月 3日 (月) 07時46分

念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。

親鸞聖人の後生の一大事の解決を求めての20年間の法華経の
修行(善の実践)は
一体何だったんだい?

その修行を通じて、まことの善のできない自己の醜い心の実相を知らされているよ。山を降りたよ。ご方便だったんだよ。

善を浄土へ差し向けるのが19願の教え。
だから、

★『諸善万行ことごとく
  至心発願せるゆえに(19願のこと)
  往生浄土の方便の
  善とならぬはなかりけり』(浄土和讚)

諸善万行はみな、浄土往生したいと願って修すると、往生浄土の方便(雑行)とならないものはない

雑行しないとそもそも「雑行を捨てよ」とは言われませんが。
捨てる(廃る)のは自力の心掛け。他力に帰すため。
まさに、

★三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)

>雑行の説明をされたもので、これが

>「また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(信巻)

迂回、遠回りの善?

これこそ断章取義だ。

投稿: 親鸞聖人 | 2015年8月 3日 (月) 11時14分

御本典のどこを見ても九品は方便

「人間には善人と悪人がある」という観経の九品、大経の三輩。

これみな、「十方衆生は極重悪人の一機」と知らせるための御方便。

「自分が悪人だと知らされているから方便はいらない」というのを

『信機自力の邪義』といいます。

自分が悪人だと知っている悪人はいないんですよ。

人間には罪悪観は有っても、血の流れる懺悔は無い。

そういうのを「実機を知らされた」とは言わない。

腹底はへらへら笑っている。

そいつが一大事なんですが、それを知らせるために

釈迦の娑婆往来八千遍の御苦労があるのです。


また横出あり、すなはち三輩・『九品』、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福『九品』・定散二善を説きて、かの
仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。
この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。
雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・
漸教、定散・三福、三輩・『九品』、自力仮門なり。 (教行信証)

投稿: 親鸞聖人 | 2015年8月 3日 (月) 11時39分

>雑行しないとそもそも「雑行を捨てよ」とは言われませんが。
>捨てる(廃る)のは自力の心掛け。他力に帰すため。

捨てるのは間違った行である諸善。

自力の心がけを捨てるのは自力の念仏。

簡単な話でしょ。行を捨てるのにやってからなんてバカな教えはないのよ。

「自殺をするな」と呼びかけて、「一度自殺をしてからでないと自殺をやめることができない」なんてバカはいないのよ。
「ストップ覚せい剤」と聞いて、「覚せい剤を使ってからでないと止めることができない」なんてバカは親鸞会だけでしか通用しないね。


★三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)

これは方便と真実を比較することで、方便は捨てるべきものと教えられたということよ。
その証拠にこの後には

「まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。」

とあるでしょ。「自力・他力を対判して」なのであって、方便・真実を対判してということ。

法然上人が、

「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」

と仰っていることと同じこと。


>「また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(信巻)

迂回、遠回りの善?


迂回の善が断章取義なら、近道の善というお言葉を示したら。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 11時46分

御本典のどこを読んでもこんなことは書いてないのよ。

>「人間には善人と悪人がある」という観経の九品、大経の三輩。

>これみな、「十方衆生は極重悪人の一機」と知らせるための御方便。

>「自分が悪人だと知らされているから方便はいらない」というのを

>『信機自力の邪義』といいます。

>自分が悪人だと知っている悪人はいないんですよ。

御本典には、

善凡夫も悪凡夫も、聖者も、念仏に帰しなさい、以外には書かれていないんだよね。
「大小聖人」が「極重悪人」だったら、言葉の定義が無茶苦茶じゃない。

初地のさとりを開いた龍樹菩薩、補処の弥勒菩薩も極重悪人なんて、外道の主張だわ。仏教徒では絶対に言わない。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 11時52分

>捨てるのは間違った行である諸善。

>自力の心がけを捨てるのは自力の念仏。

>簡単な話でしょ。行を捨てるのにやってからなんてバカな教えはないのよ。

>「自殺をするな」と呼びかけて、「一度自殺をしてからでないと自殺をやめることができない」なんてバカはいないのよ。
「ストップ覚せい剤」と聞いて、「覚せい剤を使ってからでないと止めることができない」なんてバカは親鸞会だけでしか通用しないね。

浄土真宗では、「雑行・雑修・自力の心」をふり捨てなければ、絶対に阿弥陀仏の救済にあずかることはできないと教えられています。

 その「雑行」「雑修」「自力の心」についての質問は極めて大切なお尋ねです。

 まず、「雑行」といいますのは、私たちの行う善を阿弥陀仏の救いに役立てようとしている諸善万行をいいます。

 阿弥陀仏の救いに役立てようとする心を「自力の心」といいますから、「雑行」とは、自力の心でする諸善万行をいうのです。

 例を挙げますと、「これだけ親に孝行しているから」「これだけ他人に親切しているから」「これだけ世の中のために尽くしているから、阿弥陀仏は助けてくださるだろう」などと思ってやっている、すべての善を「雑行」というのです。「親孝行」や「親切」や「慈善事業」などは、仏教で諸善万行といわれます。

 ではなぜ、そのような諸善を雑行といって嫌い、捨てよといわれるのかといいますと、それらの諸善をしている私たちの心が、阿弥陀仏の御胸に五寸釘を打ちこんでいる恐ろしい自力の心だからです。

 だから自力の心でやっている諸善万行を、「雑行」と嫌われ、捨てよと教えられるのです。

 諸善に努めねば善い果報がきませんが、その諸善を往生浄土の足しにしようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよといわれるのです。

 自力の心が廃って弥陀に救われてからの諸善は、すべて仏恩報謝の行となるのです。

 

このほか礼拝雑行とか、供養雑行などといわれる「雑行」は、阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩、諸神に対して、礼拝すれば礼拝雑行となり、それらを讃嘆・供養すれば讃嘆供養雑行といわれます。

 これらは、行為そのものが悪いのですから、決して行ってはならないことも付記しておきましょう。

 次に、雑修についてお答えしましょう。

 私たちが、朝夕の勤行で『正信偈』や『御文章』を拝読することを読誦正行といい、弥陀やその浄土を思念することを観察正行といいます。

 また、弥陀一仏を礼拝するのを礼拝正行といい、称える念仏を称名正行といいます。そして弥陀一仏を褒め称え、供養するのを讃嘆供養正行といいます。

 これらの読誦正行、観察正行、礼拝正行、称名正行、讃嘆供養正行は、弥陀の救いと最も関係の深い行ですから「五正行」といわれます。「雑修」とは、自力の心で行う、その「五正行」をいうのです。

 たとえば「これだけ朝夕、欠かさずお勤めしているから」「これだけ弥陀一仏を礼拝し、念仏称えているから」「これだけ供養も欠かさないから」「これだけ、念仏称えているから助けてくださるだろう」などの、自力の心でやっている五正行を「雑修」というのです。

 これも、行っているのは「五正行」ですから悪いことでは決してありませんが、悪い自力の心でやっているから「雑修」と嫌われ、捨てよといわれるのです。

 五正行は努めなければならない大事な行ではありますが、自分の勤めぶりや成り心にとらわれて、これで助かるだろうと往生のあて力にする自力の心が悪いから、雑修と嫌われ捨てなければ絶対に大信海には入れないとおっしゃるのです。

 悪い自力の心が廃り弥陀に救い摂られたならば、朝晩の五正行は仏恩報謝の行になるのです。

 親鸞聖人は、また、

仏号むねと修すれども
現世を祈る行者をば
これも雑修と名づけてぞ
千中無一ときらわるる(高僧和讃)

“一心に念仏を称えていても、現世の利益を求めてのことならば、これも雑修であり絶対に助からないのである”

と仰せになっています。

 病気が治るだろう、出世ができるだろう、金が儲かるだろうなどと思って念仏称えている人も、雑修の人であり千人いても一人も助からぬとおっしゃっています。

 以上、お分かりのように雑行も雑修も、その体は決して悪いものではないのですが、悪い自力の心でするから、雑行・雑修と嫌われ捨てよといわれるのです。

 雑行・雑修を捨てよとは、あくまでも「自力の心」を捨てよということなのです。

 では、悪い自力の心とは何かといいますと、弥陀の本願を疑惑している心をいいます。

 阿弥陀仏が、十方衆生(すべての人)は、十方諸仏に捨てられた悪の塊だから、そのままを「我一人、救う」と、正覚という命をかけて誓っていられるのに「ひょっとしたら、助からないのではなかろうか」と、その本願を疑っている心ですから、これほど恐ろしい悪い心はないのです。これを「自力の心」というのです。

 この曠劫流転の元凶である、雑行、雑修、自力の心が、阿弥陀仏と師主知識の種々の善巧方便によって、信楽開発の一念に廃るのです。雑行・雑修・自力の心が廃るまで真剣に聞法精進してください。

投稿: 親鸞聖人 | 2015年8月 3日 (月) 12時31分

いろいろ屁理屈を捏ねているが、結局、雑行をせよと仰った親鸞聖人のお言葉は皆無。
19願を勧められたお言葉も皆無。

雑行は、諸善万行も含めて18願に誓われた行ではないから、つべこべ言わずに捨てよ。

それと、雑行から自力の心を捨てたら、雑行ではなくなる、聖道門の行になるって話。あるいは親孝行などは倫理道徳の善で、もともと、自力の心で親孝行などする人自体がいない訳よ。

蓮如上人は、後生のためには雑行を捨てよ、日常生活の生活の上では信前信後を問わず倫理道徳の善に心がけよ、と教えられている。

つまり、

雑行と倫理道徳の善は別に考えることができるってこと。

雑行の代表である布施と深信因果を捨てて
親孝行やボランティアをしなさい。

親鸞会では

親不孝をしてでもボランティアをせずに、布施をせよ

と言っていること自体が、蓮如上人と真逆。


>この曠劫流転の元凶である、雑行、雑修、自力の心が、阿弥陀仏と師主知識の種々の善巧方便によって、信楽開発の一念に廃るのです。雑行・雑修・自力の心が廃るまで真剣に聞法精進してください。

信楽開発の一念に廃るのは自力の心。

雑行も雑修(助業)も、20願の行者は捨てているので、20願を必ず通るならば、信楽開発の一念の前、20願に入ったときに、必ず雑行も雑修(助業)も捨て去る。

こんなことさえ間違えている高森邪義を聞いていては永久に雑行も雑修(助業)も捨てることができなってこと。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 3日 (月) 12時49分

>御本典には、

>善凡夫も悪凡夫も、聖者も、念仏に帰しなさい、以外には書かれていないんだよね。
「大小聖人」が「極重悪人」だったら、言葉の定義が無茶苦茶じゃない。

>初地のさとりを開いた龍樹菩薩、補処の弥勒菩薩も極重悪人なんて、外道の主張だわ。仏教徒では絶対に言わない。

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。
十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。

因果の道理は宇宙の真理、

善因善果

悪因悪果

自因自果

には寸分の狂いもない。
知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。

二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。

そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。
また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。

法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。

十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。
親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました。

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを「三定死」といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようそこ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。

無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。
その体験を「三願転入」というのです。

投稿: 親鸞聖人 | 2015年8月 3日 (月) 12時49分

阿闍世は善をせずに獲信した。
浄飯王は釈尊から善を勧められず、念仏だけでいいと言われた。

このことに対する回答がいまだにないわけよ。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 12時51分

親鸞聖人も19願を勧められたお言葉がない。
親鸞聖人が善を勧められたお言葉もない。

この事実が、19願不要、善不要の18願であることを物語っているわけで、
何を言っても、一般人に三願転入は無縁の話。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 12時55分

阿闍世はどうなったさん。答えてください。

あなたはそれで阿弥陀仏に救われましたか?

弥陀より他力の信心を賜り、二種深信は立っていますか?

何が知らされていますか?

信心獲得の一念の体験は何歳の時でしたか?

本当に弥陀に救われていたらうれしいです。

投稿: 親鸞聖人 | 2015年8月 3日 (月) 12時59分

>因果の道理は宇宙の真理、善因善果悪因悪果

>自因自果

このような場で親鸞聖人のお名前を名乗った不届きなお方。
貴方の善知識は別にいませんか。その人の名前は名乗れないが親鸞聖人のお名前は平気で名乗れるのですか?どんな言い訳をしようが悪フザケと思われても仕方ありませんね。自分で蒔いた種です。宇宙の真理に身をゆだねて下さい。

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 13時00分

>あなたはそれで阿弥陀仏に救われましたか?

救われました。

>弥陀より他力の信心を賜り、二種深信は立っていますか?

二種深信は立っています。

>何が知らされていますか?

親鸞会で教えていたことが親鸞聖人の教えと真逆と知らされています。
高森会長の言っている二種深信とは自力の信心であった、異安心であったとしらされた。

>信心獲得の一念の体験は何歳の時でしたか?

個人の体験をいうと、それしか自慢するものがないとかアホなことを言ってくるので、言わないし、言ったところで、何の意味もない。

それより、質問に答えなさい。

阿闍世が三願転入したという親鸞聖人のお言葉を示せ。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 3日 (月) 13時09分

息子とT子講師(内緒の宿善)

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 15時45分

親鸞会は『入学』と称して親鸞学校のようなイメージにして、入信者を増やそうとしているようだ。
最近のさよなら~へのネット工作の狙いも、高森会長が間違ったことを教えているのがバレると「入学者」など望めそうにないから、必死になって善のすすめや三願転入の”正当性”を喧伝しているのだろう。

親鸞会ネット工作員が、日本語(古語)の意味も用法も文法も全部無視して『善のすすめ』や『三願転入』の”正当性”をいくら物量作戦で喧伝しても、結果は知れている。

バケの皮がはがれたときの反動の怖さに気づいていないのだろうか?

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 18時10分

〉ようこそ、ようそこ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
〉仏恩報尽の念仏というのです。

まさに極重悪人の「親鸞聖人」氏です。師匠ともども地獄ゆきは免れますまい。

投稿: 親鸞聖人ばかりか因幡の源左さんまでパクっていやがる | 2015年8月 3日 (月) 18時22分

会が有るから入会する。

ならば、入学と今頃になって言い出すのはなぜでしょう。

投稿: 入会から入学に変わったのですか | 2015年8月 3日 (月) 18時31分

本田健氏の600万部は累計だったようです。
教えていただいた方有り難うございます。
皆様失礼しました。

投稿: 間抜け | 2015年8月 3日 (月) 19時04分

親鸞会の会員さま

>>念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。

→ご本尊の阿弥陀仏を前に言えますか?それが信じられない自分に疑問をなぜ持てませんか?【自分>阿弥陀仏】になっている逆さまの心掛けがわかりませんか?

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 3日 (月) 20時05分

『念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。』

この親鸞会会員さまのお言葉には本当に驚きました。浄土真宗をほぼ全否定するに等しいお言葉だからです。しかも、ただ念仏を唱えるということを『うさんくさい』って!!?

そろそろ本当のことを言ったらどうです?親鸞会会員さま。
あなたの所属する団体は「浄土真宗親鸞会」ではなく「冗談珍宗高森会」であることを。。

いくらがんばっても「冗談珍宗高森会」では入学者もほとんど望めないでしょう(笑)

投稿: | 2015年8月 3日 (月) 21時21分

「念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。」
畏れ多いハンドルネーム「親鸞聖人」さんの発言。
.................................................

知らない間にとんでもない書き込みがされましたね。恐ろしいというか何というか。
本当に親鸞会はカルトになってしまったのか。
とても親鸞聖人のお言葉とは思えない、当たり前か、ハンドルネームが「親鸞聖人」か、まるで「親鸞会」と言いながら親鸞聖人と全く違う教えを教えているのと同じですね。

参考に唯信鈔の念仏往生のお言葉を如何に示します。

二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。


また、「念仏成仏是真宗」です。これ教行信証にありますよ。親鸞聖人のお言葉ですよ。よく味わってもらいたいものです。

念仏誹謗の衆生は地獄一定となりますよ。
あまり法(お念仏)を誹るのは止めた方が良いですよ。
本当に止めた方が良いと思いますよ。
分からないと思いますが、貴方を救ってくださるのはお念仏ですよ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

追伸

8月30日は親鸞会元講師の嶋田さんの勉強会です。
どなたでも参加できますが、勉強会を邪魔しに来るのは止めてくださいね。
連絡は私のブログ、「とくよしみねの「なぜ生きる」」のメールアドレスにお願いします。携帯番号もお願いします。個人情報は必ず守ります。


投稿: とくよしみね | 2015年8月 3日 (月) 21時33分

〉『念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。』

高森先生の意見を親鸞会の人がそのまま言っているのだから、高森先生の意見として理解して良いですね?

投稿: 高森親鸞会さんの意見は『念仏さえ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。』 | 2015年8月 3日 (月) 22時30分

『なぜ念仏さえ称えていれば助かる』は間違いなのか。
以下をしっかり読めば誰でも分かります。


〔お言葉〕

「極重の悪人は、他の方便なし。
ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」

(源信僧都・往生要集【念仏証拠】)


○ 正しい意味 : 極重の悪人は、極楽に生ずる為には他力の念仏一つ。
それ以外に極楽往生の方法はない。

× 飛雲氏の解釈 : 極重の悪人は、獲信の為には他力の念仏一つ。
獲信の為には定散諸善は要らぬ。


≪間違いのポイント≫

・「《獲信の為の他力の念仏》を勧める」
という飛雲氏の教えは、かつてない珍説。

《獲信前の他力の念仏》は、論理的に存在しないので、
《獲信前の他力の念仏》の勧め、なる教えは存在しない。


・飛●氏は、
《極楽へ往生する為の他力の念仏》を
《獲信の為の他力の念仏》と取り違えている。


どちらが正しいかといえば、

「ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」
のお言葉通り、
「極楽へ生ずる為」の方便が《他力の念仏》。


明らかに、《極楽へ往生する為の他力の念仏》が勧められている。

飛●氏は、
善知識が勧められている《他力の念仏》を間違えているのだから、
事は重大である。

善知識は、
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」
と勧められているのではない。
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】
と勧められているのである。


・飛●氏はその区別がついていないから、
高森顕徹先生がお書きになられた『顕正』という書籍の
【虎の説法】と自説とが一致する、などと誤解しているのであろう。

【虎の説法】は決して、
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」
と勧めることではない。
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】
と勧めることである。

飛●氏自身が引用する、高森顕徹先生の『顕正』の
【虎の説法】の箇所は、以下の通り。

然るに、わが浄土真宗は、
このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って
十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、
信前の人にも信後の人にも、始終一貫して
信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、
信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、
早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、
直にその通りになれない人もあろうけれども、
それは機の過失であって法門は常に
信因称報の仏意を説き示さなければならない。
喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、
どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、
たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに
本当の虎の絵がかけるようになるように、
手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、
或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、
たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、
やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。
ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。
画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。
そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。
その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて
信心を得る方法には称名せよなどと教えれば
あたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。
故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。
(高森顕徹先生著 『顕正』より)

拝読すれば一目瞭然。

【虎の説法】とは、

「始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。
「早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め」ること。
「信因称報の仏意を説き示」すこと。
「たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧め」ること。

いずれも、いずれも、
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と勧めることばかり。

どんな相手にも必ず
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と説き示す。
この【虎の説法】を抜かしてはならないとの仰せである。


「信心獲得せよ」「信心決定せよ」「お礼の念仏称える身になれ」
と、どれだけ説いたところで、
相手が直ちにその通りにはならず、その真意を諦得できないとしても、
だからといって、相手に合わせて、
【《極楽往生の為の他力の念仏》を称える身になれ】(獲信せよ)
と説き示さなくなるようなことは、絶対にあってはならない。
どんな時も失ってはならない説法、あきらめてはならない説法、
常に決勝点「手本」を説く、それが【虎の説法】なのである。


たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、
やがてその真意を諦得出来るようになるのである。


とあるのも、


信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、
早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧め


ていけば、やがて他力の信心を獲得するところまで導かれるということであり、
少しも「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」などという意味にならない。

どこにも飛●氏が言うような
「《獲信の為の他力の念仏》を称えよ」などとは書かれていないのである。

それどころか、


≪極楽往生の為の念仏≫が正しいのに、それを誤解して


≪獲信の方便の念仏≫の称名を勧めるならば、

信心を得る方法には称名せよなどと教えれば
あたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。

と、高森顕徹先生は、飛●氏を戒めておられる。


飛●氏は、「常に18願の教えを勧める」ということを、


「獲信の方便が他力の念仏」と誤解しているのである。


他力の念仏は、獲信の方便ではなく、極楽往生の方便であり、


その他力の念仏一つを勧めるということが、


18願の教えを勧めるということなのである。

高森顕徹先生が言われる【虎の説法】は、
飛●氏が想像している【虎の説法】とは全く異なるものなのである。

獲信のためではなく、極楽往生の為の信心・念仏を、


速く獲得せよと勧めるべき18願意からはずれて、


「称名が原因で信心が得られる」とか、


「修善が原因で信心が得られる」などのような、


18願にあらざる法門を説いてはならぬということである。

(補足)

「極楽往生の為には他力の念仏一つ」という法然上人の教えを、
「極楽往生の為には他力の信心一つ」と宗祖はご解説せられた。

「教行証」に「信」の巻を開かれて、
法然上人御勧化の「極楽往生の為の念仏」を
「他力の信心を獲得した上の念仏」と、
弥陀の18願意を鮮明にせられた。

真宗の教えとは、この18願意を弘通する
「信心正因・称名報恩」の教えである。

平生に他力の信心を獲得していなければ、
どんなに称名しても極楽へは往けないから、
「早く他力の信心を獲得せよ」
「早く他力の念仏を称える身になれ」と、
終始一貫して獲信を勧めるのが真宗である。

獲信一つを勧めるということは、
獲信までの方便を説かないことではない。
獲信までの方便を説き示してこそ、
獲信一つを勧めることになる。

「獲信までの方便が他力の念仏」
などという飛●氏の説は論外。お聖教にない。

「獲信までの方便」は「定散両門」と、
宗祖は教行信証化土巻に教えておられる。


真宗をよく知らない人は、定散諸善は諸行往生だと思うかも知れぬ。


定散両門には隠顕がある。


顕説ならば諸行往生。それは本願にあらず。18願意の法門ではない。


親鸞会でも、諸行往生は本願にあらずと教えておられる通りである。


同時に、定散諸善は、隠彰においては、18願意とのお示しである。

「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。

「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ
定散諸善は方便の教たることを顕すなり。


「教我正受」というのは、
「金剛心を獲得することを教えたまえ」という韋提希の要請。

「諸仏如来有異方便」は、
定散諸善が、韋提希が金剛の真心を獲得するまでの方便の教ということ。


「定散諸善」は、直接それが顕説の如き「極楽往生の方便」ではなく、
《極楽往生の方便たる他力の念仏》を獲得(獲信)すると同時に廃る
権仮方便、すなわち18願意を勧める法門であることを、


宗祖は明らかにせられたのである。


されば親鸞会で説き示しておられる「三願転入の教え」が、


18願意一つを勧めておられる弥陀の御心そのものであることがわかる。


逆に、
「極重の悪人は、獲信の為には他力の念仏一つ。
獲信の為には定散諸善は要らぬ。」
という主張は、

「極重の悪人は、極楽往生の為には他力の念仏一つ」
「獲信までの方便が定散諸善」

という宗祖の教えと、悉く異する。


飛●氏の主張は邪説。明らかである。


三願転入を、諸行往生や称名正因の勧めだと思う人があるとすれば、


18願意(三願転入の教え)を少しも知らぬということである。


仏法聞き難し、今すでに聞く。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

投稿: 飛雲閣 | 2015年8月 3日 (月) 23時31分

『ただ念仏さえ称えていれば助かる』は間違いだということはこれでお分かりかと思います。

投稿: 飛雲閣 | 2015年8月 3日 (月) 23時36分

根拠はたくさんあるが『唯信鈔文意』から

「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。

「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。


念仏を称えた人のみ助かる、なので、『ただ念仏さえ称えていれば助かる』は間違いではない。


次に信心について『末灯鈔』から

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。


「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」が信心。
つまり『ただ念仏さえ称えていれば助かる』と深く信じたのが信心。


ここまでくれば、普通の思考の人なら分かること。

>「獲信の方便が他力の念仏」と誤解しているのである。

飛雲氏は「獲信」=「他力の念仏」と説明しているのに、それを誤解しているのが親鸞会会員のおつむ。

他力の信心とは信巻から

二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。


機の深信-自分のやっている善程度では出離できない
法の深信-念仏を称える者は数によらず必ず往生できる

高森会長の信心とはまるで異なる。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 03時49分

>「極重の悪人は、獲信の為には他力の念仏一つ。
>獲信の為には定散諸善は要らぬ。」

これは正しくは

>「極重の悪人は、他力の念仏一つ。これが獲信。
>獲信の為には定散諸善は要らぬ。」

とすべし。

>「極重の悪人は、極楽往生の為には他力の念仏一つ」
>「獲信までの方便が定散諸善」

これも正しくは、

>「極重の悪人は、極楽往生の為には他力の念仏一つ。これが獲信。」
>「善に拘る善人のために獲信までの方便が定散諸善」


それで、極重の悪人の具体例として阿闍世が取り上げられているが、

阿闍世は獲信までの方便として定散諸善を釈尊から勧められた根拠をだせ。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 03時57分


〉「信因称報の仏意を説き示」すこと。
「たゆまずアキラメず(信心正因、称名報恩)因の教えを勧め」ること。

これは、因果の道理の(因 )しか言ってませんがそれで良いですか?

称名報恩を(果)と解釈し(一大事業)と解釈し、(なぜ生きる)と解釈し(他力念仏)と解釈しているのが高森先生ですか?

称名報恩を(果)として勧めることが浄土真宗だというのが高森先生の意見ですか?

投稿: 高森先生は因果の道理の因しか延々たゆまず説かなくても良いと組員が言っていますが | 2015年8月 4日 (火) 06時01分

高森先生を擁護している人、チョット意見を言って突ついてみて下さい。

投稿: 6時1分書き込みました チョット突ついてみて下さい | 2015年8月 4日 (火) 06時08分

工作員が脊髄反応してるのはココにS会の醜い醜態や、黒い真実が書き込まれているからです。今までの歴史が証明してます。工作員のいつも同じ動き、全く学習能力無い機械人形ですね。

投稿: | 2015年8月 4日 (火) 08時00分

【善の勧めは光明のお働き】


★過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
他力の三信心を得たらん人は、
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。
(唯信鈔文意)


久遠の過去から、
三恒河沙という数えきれないほど多くの仏方の教えを聞き、
そこでそのお勧めによって仏道を求める心を発し、
莫大なる善根を修めてきた、その因縁あったなればこそ、
いま弥陀の大願業力に救われることができた。
他力の信心を獲たならば、決して決して、
諸善を謗ったり、諸仏・菩薩方を疎かにしてはなりませんよ。


今、弥陀の大願業力に救われた(獲信)その「因縁」を


”恒沙の善根を修せしめしに「よりて」”


と振り返られ、お喜びになっておられる御言葉である。
宗祖の湧き出ずる感謝が満ち満ちている。


そうは言っても、他力の信心がない人には、
結果無くしてその因縁を振り返る由もなく、
宗祖のように宿善を喜べる道理はないので、
「~によりて」(因縁)の感謝は絶対に読めない。

飛雲氏はどうだろう。
このお言葉を解釈する飛雲氏の言葉に、信仰が表れているようだ。
やはり、因縁の感謝が欠落している。

> 過去世において諸仏のみもとで善に励み迷ってきて、
> 今、善悪無関係の信心を賜った。
> だからといって、善を謗ったり、諸仏・菩薩方を蔑むことをしてはならない。
>
> です。
> どこに善をしなさいという意味のお言葉かありますか?
>
> この二文の前に、報土往生のためには、善を捨てて念仏をとりなさい、
> と親鸞聖人が強調されていますので、誤解する人のために、
> 親鸞聖人が、善を謗ることを誡められたお言葉を加えられただけです。


布教使仲間の言葉を借りれば「真宗の空気ではない」。
とんでもなく異質である。

飛●氏はこの唯信鈔文意のお言葉を、

「善を謗ることを誡められたお言葉」ただそれ「だけ」

と断言するのだから、飛●氏の信仰には、
諸佛方の「善根の勧め」に対する「感謝」は無い。
宗祖とは大きく異なる。自明である。

だから、こんな解釈になる。

> 過去世において諸仏のみもとで善に励み迷ってきて、
> 今、善悪無関係の信心を賜った。

「~によりて」が読めず欠落して1行目と2行目との関連性が希薄。
宗祖は濃厚に「救われた因縁」として「~によりて」と言われている。
ここでも飛●氏の異質感が漂う。


> どこに善をしなさいという意味のお言葉かありますか?

「恒沙の善根を修せしめしによりて」
三恒河沙の諸仏の「善根の勧め」があることに気づけない悲しさ。

真宗学における「宿善」までは難しくとも、
「三恒河沙の諸仏」と「恒沙の善根」との関係ぐらいは、
分かってもよさそうなもの。

「三恒河沙の諸仏」の「善根の勧め」によって、
「多くの善根」を修めてきたことが、
今、弥陀に救われた因縁となったのだと、宗祖は仰せなのである。

「だから」こそ、
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。

と言われている。決して、


「しかし」
ゆめゆめ餘の善をそしり餘の仏聖を卑しうすること莫れとなり。

ではない。


「だから」と「しかし」はニュアンスが正反対である。


このお言葉は、仏聖の方々の「善の勧め」が大切な「因縁」となったの「だから」、
善を謗ったり、諸仏・菩薩方を疎かにしてはいけないと言われているのだが、

「善の勧めがどこにある?」の飛●氏には、


よもや「善の勧め」の感謝などは高嶺の花。どうにも感じられない道理で
解釈が大きく異なり、「だから」ではなく「しかし」で文章が繋がれている。

> だからといって、善を謗ったり、諸仏・菩薩方を蔑むことをしてはならない。

「だから」と「だからといって」(しかし)とは正反対。

これは感謝の有無の相違でもあろうが、
飛●氏の解釈は、ここでも異質性を放っている。


飛●氏の主張をまとめると、この御言葉は、

・「善を謗ることを誡められた」ただそれだけ。

・ただそれ「だけ」、だから、
過去世の膨大な諸佛方の「善の勧め」への感謝は含まれない。

・そもそも「善の勧め」という意味の言葉もない。


飛●氏は、真宗界とは全く異質の解釈をしている。


以前から
「過去世の善根が無くても善知識に遇って弥陀の本願を信受できる」
と珍説を述べ、根拠にならない御言葉を根拠のつもりで提示する飛●氏。

遠い過去世からずっと、仏様からも善知識からも
善を一切勧められないままでも獲信できるという。自惚れのド天井だ。
そんな獲信者ならば、無いものには感謝しようもなく、
宗祖のような謝念は有ること無しとなる。

所詮、飛●氏は「諸善」を「自分で」捨ててから獲信すると言う程度だから、
よもや「修善の勧め」に対する感恩報謝など想像もできない。

事実、飛●氏の言葉を見渡しても、過去世の諸佛の「善の勧め」の
報謝、喜びが少しも見当たらない。

飛●氏を異安心と判定なさる利井鮮妙和上は
『宗要論題決択編』にこう仰る。

宿善の当体は自力の善なり、
中に於て諸行あり、念仏あり、皆機を成熟す。

真宗における「宿善」に、諸善も念仏も含まれるし、
皆、信仰が進むものである。

親鸞会でも「善をしなければ信仰は進まない」と教えておられる。
利井和上も述べておられるように、これが我らが真宗界の常識。
飛●氏は「真宗界を知らない」の自述通り、無知だから知らない。


「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」

この正統な真宗学を

「自己の励む善根の功徳によって宿善が開発する」という邪説

などと勝手に誤解し、その邪説を否定しようとして

「宿善の開発は自力によらず、他力による」と主張する人は、

真宗学も相手の主張も、宗祖が獲信の因縁を喜ばれるお心も、何も分かっていない。

ましてや、
「宿善の開発は自力によらず、他力による」ということを、

「宿善は過去世の善根ではない」とまで飛躍すれば飛●氏の珍説となる。

三願転入の正邪を己の信心ではなく「考え方」で判定して完全に間違えている飛●氏の
それは浅はかな「考え方」であって、真宗学どころではない。


「諸行も念仏も皆、機を成熟す」 「善をしなければ信仰が進まない」

とは、まさに

「宿善の開発は自力によらず、他力による」 ということであり、

「宿善は過去世の善根」 ということである。

それを利井和上は、同じく『宗要論題決択編』にこう仰る。

然れば宿善の体は自力なり、
自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、
例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて
却って酒を止めさすが如く、
密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、
酒を勧むるは酒を止めさするため、
今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは
自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、
之を宿善という。

宿善の体は、過去世の善根であるから自力である。
しかし、自分で励む善を勧めるのは、
それによって自力の善では助からぬ実相を知らせる為。
例えば、酒をやめさせるのに、酒を飲ませて懲らしめて、
それによって酒を止めさせるようなものが宿善である。
宿善とは、密かに働いて下されているのが
弥陀の悲願(方便願)の他力であるが、
表面的には人間が励む善行であるから自力である。
酒を勧めるのは酒をやめさせるため、
今、弥陀が自力の善(雑行・雑修)を捨てさせる為に、
「善を励めよ」と善根を勧めるのは、
自力を策励してされているのではなく、
それによって他力を勧めておられるのである。
これを宿善という。


利井和上も、親鸞会も教えておられる通り、これが宿善である。


自力は間に合わないという実機を知らせるために、
自力を捨てさせる(他力に帰せしめる)ために、、
「自分で善を励めよ」と弥陀が善を勧めておられ、
その弥陀のお弟子方(仏聖)はみな従われて善を勧めておられる。
これまでも、今も、これからも、それは変わらない。
常に、善を勧めるままが、他力のお勧めなのである。

事実、まことその通り、善の勧めという弥陀釈迦の慈悲の御方便がなかったら、
名号を獲得して大願業力に救われることはなかった、


と、宗祖が宿善を御喜びになっておられるのが、


さてこの智慧の名号を、濁悪の衆生に与えたまへるなり。
十方諸仏の証誠・恒沙如来の護念、
ひとへに真実信心の人のためなり。
釈迦は慈父、弥陀は悲母、われらが父母として
信心を教へたまへりと知るべきなり。
過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、
恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)

この御言葉なのである。


これが、真宗における正統な「宿善」の解釈。

「過去世の善根」でもなければ「善の勧め」もない飛●氏の解釈とは大違い。

これを真宗では「獲信の因縁を慶ぶ」とも言われてきた。
無論、獲信の因は名号であり、縁は光明と教えられる善導大師の教えである。


光明の縁に催されて、


菩提心を発さしめられ、善を励むようになり、
自力かなわぬ我が身を知らされると同時に


名号を獲得して獲信する。


一切が他力によると知らされる。
因も縁も他力という信知である。

別の言い方をすれば、

光明・他力(善の勧め)があったなればこそ、救われた。
光明・他力(善の勧め)がなかったら、救われなかった。

ということであり、それは、

光明・他力による発心修善があったなれば、こそ救われた。
光明・他力による発心修善がなかったら、救われなかった。

ということでもあり、それが


光明・他力による宿善があったなればこそ、救われた。
光明・他力による宿善がなかったら、救われなかった。


ということ。


これらは飽くまでも同じ意味で言われているのである。


このように宿善を「獲信の因縁」と言われて来たのを詳しく区別して、


「過去世の善根」と「善知識」を、遇法の因縁といい、


「名号」と「光明」を、獲信の因縁とも言われる。


真宗学では、いずれの表現もなされてきた。


表面的な言葉だけで意味を判じようとすれば誤解は免れず、


揚げ足をとろうとすれば尚更に、曲解は避けられないであろう。


いずれの表現の場合でも、他力による救いということは変わらない。

重ねて述べておくが、


決して自力の善の功徳によって宿善が開発するということではない。

他力によって、宿善は開発するのである。


弥陀が、方便の悲願において、

未だ自力が廃っていない善機を自力かなわずと知らしめて

智慧の名号を与えんが為にこそ、善を勧めていられる。


それを信知なされた宗祖が、


自力でありながらも「善を励めよ」と勧めてくだされた
「他力の催し」「光明の働き」
これ無しに今、大願業力に救われることはなかったのだと、
「恒沙の善根を修せしめしによりて」と
宗祖は他力の御方便を御喜びなのである。


それにしても、

「善の勧め」=「自己の善根によって宿善を開発させること」

と勘違いしている者は愚かである。

もしこのような方程式が正しければ、
過去世の諸佛菩薩の勧めはみな、
自己の善根によって宿善を開発させよと教えられていた
ということになるのだから、明らかに愚論である。


> 「余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれ」を読んでも、
> これは善を勧めていることになるとお目出度い主張するのなら、
> 同じ理屈で諸仏・菩薩を崇めることも勧められた、
> としなければなりませんが、そこは完全に否定するのが親鸞会です。
> これが矛盾していると判らないのなら、
> 中学生レベルの論理的思考から身につけてもらわなければなりません。

これこそがお目出度い主張。
病的思い込みで、ありもしない「中学生レベルの矛盾した理屈」を
一人で親鸞会の理屈に仕立てておいて、一人でそれを非難する。
大人から相手にされない言動である。

「そしり、いやしうすることなかれ」とあるから「善を勧める」は正反対。


「善の勧め」あったなればこそ救われたのだから


「そしり、いやしうすることなかれ」なのである。

どこどこまでも、見事に真っ逆さま。
飛●氏は仏法を語るほど、真っ逆さまの実体が浮き彫りになる。


利井和上もおっしゃる通り、
弥陀のお力に動かされて、お弟子方の策励に導かれて、自力の善を励まされ、
ついに自力廃るのである。

いつの時代においても仏様やその御代官たる善知識が、
常に善を勧めたもうことは、
十方衆生をひとえに他力に帰せしめんが為の、
三世にわたる慈父悲母の御方便、絶対他力であることに、いつか気づくであろう。

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 12時47分

それで

阿闍世に釈尊は善を勧められたと仰った親鸞聖人のお言葉は見つかったの?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 13時11分

> 「余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれ」を読んでも、
> これは善を勧めていることになるとお目出度い主張するのなら、
> 同じ理屈で諸仏・菩薩を崇めることも勧められた、
> としなければなりませんが、そこは完全に否定するのが親鸞会です。
> これが矛盾していると判らないのなら、
> 中学生レベルの論理的思考から身につけてもらわなければなりません。

これに対する反論がないのがおめでたいところ。

ポイントはここ

 ↓ ↓ ↓

同じ理屈で諸仏・菩薩を崇めることも勧められた、
としなければなりませんが、そこは完全に否定するのが親鸞会です。


『口伝鈔』にある親鸞聖人のお言葉

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。


過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。


これが真宗の根本。
なぜなら本願力回向だから、衆生の方で加えることは何一つない。

これが真宗の根本。

ただし、過去世に余仏を崇めたり、善をしてきたことに対して、それを謗ってはいけないと仰っただけのこと。

分かりやすい例でいえば、

親鸞聖人は比叡山で20年間修行をされてきたけれども、それがあったから法然上人にお逢いすることができ、救われたのだと喜ばれてはいるが、比叡山を謗ることも、比叡山を勧めることもしないのと同じこと。

曇鸞大師は仙人の教えに迷われたが故に、結果的に18願に帰依されたのであって、仙人の教えに迷ったことをふり返って、そんなことがあったと今を喜ばれているが、仙人の教えを勧めることはされていないのと同じこと。


中学生でも分かる理屈。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 13時22分

宿善には二つの意味があって、

通仏教では「過去世の善根」
覚如上人以降の真宗では「阿弥陀仏のお育て」

となる。覚如上人が宿善の定義を変えられた訳で、親鸞聖人は宿善という言葉は使っておられないが、「過去世の善根」という意味では、獲信とは無関係とするのが

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 13時33分

>阿闍世に釈尊は善を勧められたと仰った親鸞聖人のお言葉は見つかったの?


過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)


久遠の過去から、
三恒河沙という数えきれないほど多くの仏方の教えを聞き、
そこでそのお勧めによって仏道を求める心を発し、
莫大なる善根を修めてきた、その因縁あったなればこそ、
いま弥陀の大願業力に救われることができた。

弥陀に本当に救われた人(平生に信心獲得の一念の体験があり、弥陀より他力の信心を賜り、二種深信が立った人)は、皆一味の信心なのだから、
この親鸞聖人のお言葉の様に、必ず過去からの善のお勧めに対する感謝の心が起きます。
釈迦仏は地球唯一の仏様。
一切経で十方衆生に対して善をお勧めになられています。(弥陀の19願)

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 13時33分


●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)


●ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)


●三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)


また、「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)の親鸞聖人の卓見に感服せずにはおれません。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


19願はすべての人に勧められています。以下を読めば分かると思います。

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                  (『教行信証』化身土巻・本)

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。
後の文にも『諸有海(すべての人)を化したまう』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道、聖道門を信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのです。

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 13時55分

阿闍世の獲信後の言葉

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。(信巻)


「今まで仏をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります」
つまり、仏法の善をこれまでもしてこなかったし、釈尊からも勧められてもいないのに、信心を獲たので、「無根の信」と阿闍世が言った。


無善ということね。日本語が分かれば。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 14時09分

>もし聖道門の人のためだけの19願なら、
>『群生海(すべての人)を誘引し』
>とは書かれずに、

違うんだな、『一切の群生海』と書かれたら
浄土門の人も入るだろうけどね。

ここは、『群生海』

日本語が分かればね。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 14時10分

●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)


曇鸞大師は19願について言及されていないから、「万行諸善の小路」=聖道門

よって
聖道門より18願に入れば

と19願を通っていない。

●ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)


●三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)


これは方便と真実を比較することで、方便は捨てるべきものと教えられたということよ。
その証拠にこの後には

「まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。」

とあるでしょ。「自力・他力を対判して」なのであって、方便・真実を対判してということ。

法然上人が、

「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」

と仰っていることと同じこと。

投稿: | 2015年8月 4日 (火) 14時13分

●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)


>曇鸞大師は19願について言及されていないから、「万行諸善の小路」=聖道門

>よって
 聖道門より18願に入れば
 19願を通っていない。


弥陀の19願⊃聖道門ですが。
善を浄土に差し向けるのが19願の教え。
19願は三世十方を貫く教え。
親鸞聖人も法然上人も比叡山で20年以上修行しています。

●ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
(『愚禿鈔』下)


●三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心(19願)ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心(19願)より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師  [親鸞] 聖人の御釈を拝見せざるにや。
(改邪鈔)


>これは方便と真実を比較することで、方便は 捨てるべきものと教えられたということよ。
 その証拠にこの後には

>「まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。」

とあるでしょ。「自力・他力を対判して」なのであって、方便・真実を対判してということ。

法然上人が、

>「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」

と仰っていることと同じこと。


しかし方便(自力)を捨てる=善をしてはいけない、
とはなりません。


『宗要論題決択編』にこう仰る。

然れば宿善の体は自力なり、
自力善を以て自力かなはぬことを知らしむ、
例えば酒を止めさするに酒を呑ませて懲らしめて
却って酒を止めさすが如く、
密意より云へば他力大悲なれども当意は自力なり、
酒を勧むるは酒を止めさするため、
今自力の善を捨てしめん為に自力の善を与ふるは
自力を励ますに非ずして劫って他力を勧むるにあり、
之を宿善という。

宿善の体は、過去世の善根であるから自力であ
る。
しかし、自分で励む善を勧めるのは、
それによって自力の善では助からぬ実相を知らせる為。
例えば、酒をやめさせるのに、酒を飲ませて懲らしめて、
それによって酒を止めさせるようなものが宿善である。
宿善とは、密かに働いて下されているのが
弥陀の悲願(方便願)の他力であるが、
表面的には人間が励む善行であるから自力である。
酒を勧めるのは酒をやめさせるため、
今、弥陀が自力の善(雑行・雑修)を捨てさせる為に、
「善を励めよ」と善根を勧めるのは、
自力を策励してされているのではなく、
それによって他力を勧めておられるのである。
これを宿善という。

過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 14時51分

要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 14時54分

>親鸞聖人も法然上人も比叡山で20年以上修行しています。

曇鸞大師は仙人の教えを学ばれています。
迷いではあっても過去においてやってきたことにより、18願で救われた。

だからといって仙人の教えを肯定して人に勧めたり、比叡山の修行を肯定して人に勧められることはない。

日本語が分かればね。


>しかし方便(自力)を捨てる=善をしてはいけない、
>とはなりません。

となるんだなこれが。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

「定散は廃せんがために説き」日本語が分かればね。


『口伝鈔』にある親鸞聖人のお言葉

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。


過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。


これが真宗の根本。
なぜなら本願力回向だから、衆生の方で加えることは何一つない。

日本語が分かればね。


それで阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 15時00分

>曇鸞大師は仙人の教えを学ばれています。
迷いではあっても過去においてやってきたことにより、18願で救われた。

だからといって仙人の教えを肯定して人に勧めたり、比叡山の修行を肯定して人に勧められることはない。


聖道門の修行は勧めていません。
方便として勧められているのは、定散二善。

要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

ちゃんと門を通りましょう。


投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 15時23分

>聖道門の修行は勧めていません。
>方便として勧められているのは、定散二善。


これがおかしいな。
親鸞聖人が方便の教えとして、聖道門、19願を挙げられてはいるが、聖道門も19願も勧められたお言葉がない。

親鸞聖人が、19願を勧められたお言葉がない。

親鸞聖人が、19願を勧められたお言葉がない。

親鸞聖人が、19願を勧められたお言葉がない。

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 15時29分

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

>「定散は廃せんがために説き」日本語が分かればね。

それが善をしてはいけない根拠ですか?
弥陀に救われたら、獲信のための方便のだった定散二善は廃りますが。


『口伝鈔』にある親鸞聖人のお言葉

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。


>過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

だからこそ宿善の薄い人は今生で宿善を求めなくてはならないのです。

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 15時32分

宿善を求める=善に向かう

「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。
(唯信鈔)

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 15時40分

「親鸞聖人」あらため「釈迦如来」さんへ、

   非力な凡夫が門を通らずとも摂取不捨と誓われたのが御本願なのではありませんか?  まじめに善を行じている途上で武運つたなく命終した人はどうなるのですか?  ほんとに臨終に観世音菩薩の説法を賜ることができるのですか?

   鷲のマークもそうだが、親鸞会は妙に力みかえった姿勢が強すぎる。あれのどこが浄土門かと言いたい。できそこないの、そう、できそこないの聖道門じゃないか!

投稿: 門を通らずとも構わぬのが | 2015年8月 4日 (火) 15時43分

>>「定散は廃せんがために説き」日本語が分かればね。

>それが善をしてはいけない根拠ですか?
>弥陀に救われたら、獲信のための方便のだった定散二善は廃りますが。


さすが、日本語の分からない親鸞会会員。
善をしてはいけない、ではなく、善は往生とは無関係なので、往生のために善をするなってこと。
蓮如上人が

後生のためには雑行を捨てて、日常生活の上では倫理道徳の善に努めなさい、と仰っていることを前にも教えてあげたのにね。


>>過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

>だからこそ宿善の薄い人は今生で宿善を求めなくてはならないのです。

すごい日本語の能力。

過去に善をしてきたかどうかは、往生とは無関係と聞いて、だから善をして宿善を求めるとか、小学生以下の知能。


それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 15時43分

『唯信鈔』の断章取義

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。
われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

「宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。」

ここがポイント。

宿善少ないと言っても、深く本願を信じて念仏を称えている。
五逆の者は、過去世において善をしてこなかった理論上は宿善少なきものであるはずなのに、そんな五逆の者でさえも宿善があるなら、五逆を造っていない我らは、五逆の者よりも宿善は多いはずだ。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 15時48分

>過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。

なぜ、『善をしてきたかどうかは』なのですか?

過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし所にして、
自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、
いま大願業力にまうあふことを得たり。
(唯信鈔文意)


「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。
(唯信鈔)

しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
(教行信証化土巻)

投稿: 釈迦如来 | 2015年8月 4日 (火) 15時54分

『観経疏』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。


下輩の者について、聖道門の諸師は「過去世に大乗仏教を学んできたものだが、そこそこの悟りを得るところまでは至っていないだけだ」と解釈したのを、善導大師がこれを完全否定なされ、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。」と断言された。

つまり、過去世においても現在世においても、仏法・世俗の二種の善根あることなしの者が、念仏を称えて助かるのが18願だ、と善導大師が仰ったのに、それを否定するのが高森教。

高森教は聖道門の諸師とほとんど同じ主張。

阿闍世も五逆の者だが、善をせずに獲信したのは、善導大師の解釈の正しさを裏付けるもの。

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

それで、阿闍世に釈尊が善を勧められたと親鸞聖人が仰ったお言葉はまだ?

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月 4日 (火) 16時10分

私達は五逆と謗法の悪人です。だから悪人です。

これをやってみたら廃ると言い出したら大変です。

倫理道徳上の善だと言うならば、時代により善悪は変わりますから、時の善悪に従うのは生きる以上当たり前です。
その、実践倫理道徳を善だと高森先生が言われていて、倫理道徳を立派に行う事が浄土真宗の結論であると高森先生が言われたという事で理解していいですか?

投稿: 高森先生が言う善とは何のことですか? | 2015年8月 4日 (火) 16時22分

釈迦如来のお名前を語る人。その覚悟を聴きたい。爪の先ほどでも間違いを語ったり、回答せずに放置した場合は法謗罪を犯したことになる。特に念仏に関しての間違いがあれば阿鼻地獄に堕ちる。このことは個人の私見ではなく仏説である。そのことを否定しても、お伽噺だと思い込んでも間違いなく阿鼻地獄に堕ちる。

そして既に間違いを語っている。まずは放置した内容を全て回答すること。アジャセの件からどうぞ。

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 4日 (火) 16時23分

高森先生が言う善とは何のことですか? | 2015年8月 4日 (火) 16時22分 より引用
>実践倫理道徳を善だと高森先生が言われていて、倫理道徳を立派に行う事が浄土真宗の結論であると高森先生が言われたという事で理解していいですか?

だから善に励めとうるさかったのか!!
腑に落ちました。

投稿: そうだったのか親鸞会 | 2015年8月 4日 (火) 17時22分

こんどの追悼法要の会席弁当の予約期限が延びた。
注文が少なかったんでしょうね。

投稿: | 2015年8月 4日 (火) 19時56分

釈迦如来のお名前を語る人。

仏説まことを知らされた人は仏教は素晴らしい教えと知らされるだけでなく同時に怖いくらいに厳密な教えと知らされます。仏法を語る上で間違えたならとんでもないことと怖くなります。単に頭で知っている知識、思いだけで語ることはできません。また釈尊の真実の説きかたに驚かされます。もちろん釈尊は阿弥陀仏の本願を発見されました。それができたのは間違いなく釈尊が仏の悟りを開かれたからです。それはとんでもないことであり、そのとんでもないことがあったから今仏教を聴かせて頂くことができるわけです。

仏説の恐ろしいのは我々が知らされる以上に真実であることです。素晴らしい教えということは間違えばとんでもないことになるということです。真実を求めることはこの地球を持ち上げることよりも重いことと聴いたことはありませんか。だから釈迦如来というお名前を語ることがどれだけの重みなのかをわかって下さい。二度としないで下さい。

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月 4日 (火) 20時36分

オオクワガタ逃亡中さんの言われる通りです。明らかに法を誹っています。

毎日毎日とんでもない人が現れるものです。
本人は全く自覚もなく名前程度に使っているのでしょうが、台湾、チベットやタイなどの国に行って同じ事をしたら、袋だたきにあうことでしょう。
どれだけ恐ろしいことをしているのか分かっておられないようだから仕方ありませんが、そのままダイバダッタと同じようにならないことを祈ります。
まるで、浅原彰晃と同じです。
残念ですが、皆様、これ以上彼に罪を作らせない方が良いと思います。
彼のためです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年8月 4日 (火) 22時14分

>過去に善をしてきたかどうかは、往生の得にも損にもならない。(阿闍世はどうなったさんのコメント)

①だからこそ宿善の薄い人は今生で宿善を求めなくてはならないのです。(畏れ多いハンドルネームの人のコメント)

①これこそ迷いの根本です。
 いつも言われることですが、病床にある人に何を勧めるのですか。臨終を迎えようとしている人になにをお伝えするのですか。
明日あるかどうか分からないと今を恐れている人に何をせよというのでしょう。そんな人に貴方は会ったことがありますか。
残念ながら私はそういう人に出会ってしまいました。
その時、私がその人のために何が出来るのか、死ぬほど考えました。
答えは、私が出会ったものを伝えるしかない、でした。
分かりますか。
宿善求めよ、宿善求めよは結構です。でも、今息が切れるかもしれない命、それは、貴方も私も一緒なんですよ。本当に明日があるのか、突然死はそこら中にあふれています。
三願転入が浄土真宗だと狂ったように叫んでも、今、命の終わろうとする人に貴方はなんとお伝えするのですか。

(畏れ多いハンドルネームの人)よくよく考えてください。貴方の命が今日切れるかもしれないのですよ。それでも三願転入ですか。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


投稿: とくよしみね | 2015年8月 4日 (火) 22時43分

血の海発言や盗作思想が
工作員にそのまま継承されてますね。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1483821454

ウジ虫の様に出てくる工作員が↑内容が真実ですよって証明してます。有り難や。
心置き無く退会出来ました。
説得に来た者共にも見せてやり、音信不通後、退会しました。
工作員の会内部の実情を伝える上手さ特筆!

投稿: | 2015年8月 4日 (火) 23時31分

人間じゃ無ければ仏法聞けませんって偉そうにべしゃってた子牛たち。よくよく見よw
人間に成れず人形と化した哀れな工作員の醜い叫びを。
100%仏法のブの字も聞いてない工作員たち。

投稿: | 2015年8月 4日 (火) 23時45分

ウマイ!ニンゲンではない機械仕掛けの人形では間違いなくぶの字も聞いてないでしょうね。

機械工作員は!文面見ても分かります。そりゃ退会者続出でしょう。

投稿: | 2015年8月 5日 (水) 08時28分

三願転入しなければ蟻一匹助からないと言い出したのはいつ頃です?
そんな大事な話ならば最初から言えば良いではないですか。法を利用して魂胆があるならば、許されませんね。
我が身が助かっていない者が、高森先生に間違いがあるはず無いと断言できる理由てなんです?

投稿: 三願転入ていつ頃言い出したのですか | 2015年8月 5日 (水) 12時09分

↑出たw機械工作員人形w

投稿: | 2015年8月 5日 (水) 12時45分

  だいたい10日から2週間をめどに、敵さん(K玉氏およびM野氏)らの作戦方針も変動しつつあるようですね。

  御法義をめぐる討論もむろん大事であり、親鸞会の弱点もこれによって大いに明らかにされることでしょう。ただ、このコメント欄の用途(?)は親鸞会の組織としての問題点や悪業の数々を討論することにあるはず。もうそろそろ御法義関連の極度に長い書き込みは敵味方双方に自重を乞いたいところです。

  創価学会やエホバの証人をめぐるネット上での批判も、教義に関するものと、組織運営に関するものとが並び行われることで本来の成果が達成されたように記憶しております。このコメント欄が本来の用途で用いられることを念じつつ。

投稿: 機械人間=畸形人間と見てよいでしょうか? | 2015年8月 5日 (水) 14時05分

   『100の花束』を読む限り、高森氏は旧態依然たる男女役割分担意識に凝り固まっているように見受けられます。「男は外、女は家」、「主婦になってこそ女性本来の姿」というあれです。

   ところが、彼の女性秘書は青春を親鸞会に捧げた才女であり、顕真学院の院長も名門大学出身かどうかはともかく、これも青春を親鸞会に捧げた女性のように見受けられます。ほかにも一般会員ではたとえば、嶋田さんの今も親鸞会に入信したままの従妹さんあり。


   それから講師では、昨年、「やや日刊カルト新聞」さんが潜入したダミーサークルの勉強会の女性講師あり。正確に引用、朗読すべき一休さんの和歌に(高森大先生も引用したことあり)「糞たれて」たるのを恥ずかしそうに「トイレに行って」と言い換えていたお姿に萌えました。ここらで東西両本願寺を模倣して「男女共同参画室」を設ければ、「親鸞会に新風吹く」と外部からプラスの評価を受けるかもしれません。光晴氏にはそろそろ考えてほしいものです。

投稿: 2000畳の女たち...興味に堪えません | 2015年8月 5日 (水) 14時56分


「おじいちゃん、僕は親鸞会の講師にならなくてもいいの?」

会長
「そりゃいいよ。あんなものアホダラがなるもんやから(笑)。
世の中には簡単にだまされるアホがおる。それがあいつらやw、ああいうアホをうまく使って人生を楽しく生きる、
それがワシの本「なぜ生きる」の答えや(笑)。くれぐれもうちの講師連中みたいなアホになるなよ(笑)」

投稿: K釈 | 2015年8月 5日 (水) 21時09分

私「小杉のトコの入会しようと思います。」
担当ガックン「おー!尊いですね。食事しながら、どうですか。ご馳走しますよ。」
私「是非。あ、お言葉に甘えてコーヒーやデザートも一緒にいいですか。」
担当ガックン「何でも好きなの頼んで!めでたく尊いお祝いです。」
私「お腹一杯、ご馳走様です。」
担当ガックン「楽しいお話しながら食事も美味しく頂きましたので、、、」
入会用紙がさらりと登場。
私「これは?」
担当ガックン「一緒にガックンにさせて頂きましょう。」ニコニコ
私「え!入会決意はこちらですよ。」Cストコカードさらりと登場。
担当ガックン「!!!」
私「オープン楽しみですねー。⚪︎⚪︎さん入会まだなら買い物一緒に同行で連れてってあげますよ。また奢ってクサダイネ」
担当ガックン「こっちは?」例の用紙を指差し
私「?????」
解散〜
ホントCストコオープン楽しみですねー。
お金貯めとく&冷蔵庫スペース空けとかなきゃ!

投稿: | 2015年8月 5日 (水) 23時02分

>>三願転入しなければ蟻一匹助からないと言い出したのはいつ頃です?

35周年くらいのときから突然「善のすすめ」や「三願転入」が浄土真宗の根本であり基本である、という話が会長から出てきたらしいです。
それ以前は「善のすすめ」や「三願転入」がまず語られることもなかったので、突然の根本・基本重要事項の登場に怪訝に思った会員は少なからずいたでしょう。

なぜそんなに大事なことなら、35年間も語られなかったのか?
マインドコントロールされていない、まともな組織・団体なら、きっとさまざまな憶測が飛び交ったでしょうが、そこはカルト教団、疑問は大善知識さまへの無条件服従などの教理に封じ込められてしまいました。

冷静に考えてみればおかしな話です。
教義における最重要事項が、35年もの間その教団の教祖に語られることがなかった、そしてあるとき突然晴天の霹靂のごとく語られはじめたのですから。
理由として考えられるのは

①以前は会の運営上など何らかの理由で「善のすすめ」や「三願転入」を出すことができなかった、あるいは憚られた。
②会長先生が不勉強で知らなかった。
③「善のすすめ」や「三願転入」は実は真宗の根本・基本重要事項なんかではない!それどころか真宗の教えに違背する教理なのだが、それを根本・基本重要事項だとすべき現実的な問題・要請が生じた。

ですが、①は考えにくい、少なくとも私には「何らかの理由」のようなものが存在するとはとても考えられません。
②これは会長先生の実際の教学力(法論ほぼ全敗逃亡)や著作や機関紙が盗作ばかりで、彼がまともに著作を書くほどの能力はなかったのが明らかであることを鑑みると、あり得るかもしれません。

ただやはり多くの皆さんがブログなどでご指摘のとおり③「善のすすめ」や「三願転入」が実は根本・基本重要教義内容ではなく、それどころか真宗の根本的教義に違背すると知りつつ、真宗において最も大事な所為の『念仏』では、金集めや勧誘、聴聞を強制するネタにはなりにくいため、意図的に教義を捻じ曲げたのではないか、というのが、一番しっくりくると思います。

いずれにせよ、お聖教の文理・解釈からしても「善をしてそれが廃れることを知らなければ、そして三願転入しなければ阿弥陀佛の本願に救われない」という教えは根拠がなく(そんな大事な教えならお聖教の至る所に書かれていてもおかしくないが、実際はそのような記述はほんのわずかで実質皆無に近い)と多くの真摯な教学者から指摘を受けており、かつ上述のような極めて不自然な経緯で(35年も経って突然教導された)、「善のすすめ」や「三願転入」の教えが登場したことからみても、これらは相当眉唾物と結論せざるを得ないと思われます。

会員の人もよく考えて見るといいでしょう。

投稿: | 2015年8月 6日 (木) 01時24分

正信偈(正しい信心のうた)に書かれている七高僧は誰から三願転入の教えを聴かれたのでしょうか。仮に三願転入の道程を通られたとしても三願転入の教えは聴かれてないのでは、と思います。「三願転入のご文は、親鸞聖人の獲信の告白である。」とHPにあるので聖人以前の人は聴いていないのではないでしょうか。教えを聴かなくても通る人がいるのならすべての人が聴かなければならないとは言えないと思います。そしてどうしてもすべての人が三願転入の教えを聴かなければ助からないと主張するならば今まで信心決定した人はすべて三願転入の教えを聴いて、三願転入の道程を通ったという証明が必要になります。

投稿: | 2015年8月 6日 (木) 02時29分

キリスト教ならばいざ知らず、蟻をも一切衆生に含める仏教にあって、その救いからもらしたもうとは阿弥陀さまはずいぶんと無慈悲至極な仏さまということになりはしませんか?

深いこころの傷から、このブログなどを頼りに雄々しく立ち上がられつつある元会員諸氏に対し非礼を承知の上で申し上げたいのですが、

      「コーヒーはだめでミロはOK」

とか

       「いのちがけの聞法あるのみ」

とかいった言葉を聴かされた時点で、およそ浄土門とは似て非なる匂いを感じ取ることは現役時代には不可能だったのでしょうか? 非礼を顧みず、あえてうかがいとうございます。

投稿: 蟻一匹助からない…ですか | 2015年8月 6日 (木) 12時07分

http://www.shinrankai.or.jp/ 
      (この画面向かって左上,最新の動画を)
ハワイ大学名誉教授で、英語圏での浄
土真宗の最高権威、アルフレッド・ブ     ←  まずここ
ルーム氏は、英語版『なぜ生きる』(高    ←  次にここ
森顕徹先生著)を読み次のようなメッ
セージを寄せています。

  多少は改善されたようですね。姓と名のところで
ブルーム教授と大善知識さまのご芳名が寸断されるという
状況はひとまず改善されてはいます。しかし、それでも
やはり、可能ならば字句を補い、少なくとも大善知識サマの
ご尊名が2行にまたがるのは避けたいところです。親鸞会
(1万年堂の編集者らをも含む)の関係者はこの程度の常識も
わきまえていないのでしょうか?

  太閤記や家康の物語がお好きな大善知識サマが何かの
はずみに会のサイトを見たいなどとおっしゃったら、幹部らは
どうなさるのだろうか。

            国家安康

の故事を想起してセンセイが震怒あらせられないうちに早く訂正を!

投稿: ひとまずは改善されたがさらに一歩改善を! | 2015年8月 6日 (木) 12時15分

会のHPを見に行くのはタイミングを考えましょう。URLから簡単にJUMPすると、、、見に行った情報を与えます。

投稿: | 2015年8月 6日 (木) 12時39分

2015年8月 6日 (木) 12時39分さま、親切な御教示ありがとうございます。以後一層用心致します。幸いネットカフェから書き込みました。

それにしても、そうやってわれわれの側の情報を集めて何かよからぬことを企んでいるのでしょうか? ぶるうのさんらパソコンに明るい講師が去って久しく、われわれを震え上がらせるような悪さができるとは思えないのですが......ともあれ御教示に改めて感謝致します。

投稿: ご教示ありがとう,幸いネットカフェから書き込みました | 2015年8月 6日 (木) 16時48分

人の名前が行の終わりに来ることで寸断されるのは、できる限り避けねばならない......というお話は、20年前に、とある教科書会社(国語や歴史方面で定評あり)の編集者さんからうかがいました。20年をへた今も、十分通用する教訓かと思われます。上長への礼儀や社会常識をやかましくいう教団のサイトにしては、どうにもみっともなく思われました。彼らを含む皆さまのお役に立てば幸甚です。

投稿: 教科書会社の編集者さんにうかがいました | 2015年8月 6日 (木) 16時58分

Cストコ作戦最高に面白いですね!

早速実践させて頂きました。

先輩の顔ヒクヒクーってワロス。

ついでにこのサイトも見せてあげました。

さらに顔曇るーw

投稿: | 2015年8月 6日 (木) 20時03分

脱会者続出でしょうね。

親鸞会工作員は高森大先生を代弁して曰く『念仏だけ称えていれば救われるとかうさんくさいよ。』らしいですから。

このようにお聖教をまったく無視し浄土真宗を全否定した教えが、親鸞会内部で当たり前のようにまかり通っている現状では、早晩親鸞会は崩壊しそうです。

投稿: | 2015年8月 6日 (木) 20時18分

善の勧めの時期と豊田商事や中根氏の時期と被るのではないでしょうか。気のせいならいいですが。

投稿: | 2015年8月 7日 (金) 17時01分

高森会長と「金の亡者」仲間だった永野会長

https://www.youtube.com/watch?v=izqLgi82doY

親鸞会と同じにおいを感じるのは私だけでしょうか?

投稿: ○山○ひろ | 2015年8月 7日 (金) 21時14分

同じ穴の狢
追悼ホウヨウ人集まってないみたいですね

投稿: | 2015年8月 7日 (金) 23時31分

善痴識高森先生のご呆話も威力がなくなってきたね。

投稿: | 2015年8月 7日 (金) 23時39分

高森親子共々さっさと地獄へ堕ちろ。
破正顕邪に狂ったインチキカルト講師ども。
糞餓鬼共の血塗られた最期が見たいわ。

投稿: | 2015年8月 8日 (土) 00時34分

血ゲロ吐いてくたばりやがれ。カルト野郎。

投稿: | 2015年8月 8日 (土) 01時12分

高森会長の読解力では十分お聖教を読みこなせなかったんでしょう。
だから部分部分断章して「どうせ(ワシも会員も)わからんのだから、人集め、金集めしやすいようにテキトーに解釈して説法しときゃいいだろう(笑)」的な発想で、ずっとやってきたんですね。

投稿: | 2015年8月 8日 (土) 12時26分

会長はK会の教えをベースに金儲けに合わない部分を変えたのでしょうか。「宿善を求めよ。積め。」と。
そして「会で宿善を求めよ、と教えるのは未だ会員は善知識に遇えていない→自身(会長)は善知識でない」と本当のことに会長自身が気づいた頃、大沼氏の三願転入の教えに切り替えたのではないでしょうか。会の歴史上、常に根底には金儲けがあり、血だらけの惨殺現場映像で世の中を震え上がらせたT商事事件も例外ではなさそうです。しかし会費改定も宿善と思って受け入れるよう促すのいかがでしょうか。普通に物価高騰とか人件費のアップとか言えばいいのでしょうが、光りに向かわず、後ろめたいからできないのでしょうか。

投稿: | 2015年8月 8日 (土) 15時39分

     親鸞会では、いわゆる「盲亀浮木」のたとえを動画に仕立てていたような記憶がございます。けれども、平成5年(1993)暮れに西本願寺さんが出した『新「伝道読本」』では、69ページ以下でその問題性、差別性が太田信隆師によって詳細に指摘されております。味わい深いお話ではありますが、おおやけの場で触れる際には相当な注意を要することがよく認識できます。

     終戦がいまだに訪れていないような高森氏に対し、本願寺さんと同様の留意をせよとお願いしても、まずは聞く耳を持たないことでしょうが、講師諸氏はどうかこのエピソードが外部の世界では軽々しく言及できないものとなって久しいということを、脱会後の長い日々に備え、よくよく御認識いただきたく思います。

     最近のマスコミ報道(『週刊新潮』)にて、豊田商事の永野会長を衆人環視のもと殺害した2人の男が、事件から30年をへた今、おだやかな老後(主犯86歳)もしくは初老の日々(従犯だった青年,60歳,5人の子と20歳年下の妻あり)をすごしていることを知りました。いかなる理由をもってしても殺人は許されませんが、彼らの所業を義挙と讃える人々があの頃決して少数ではなかったことを、今更ながら思い出しました。高森氏の行いは豊田商事会長に輪をかけて罪深く、彼のいうとおりの地獄があるとすれば、その底の奥底に落ちねばならぬのは彼自身ではないかと思われます。

投稿: 盲亀浮木,外の世界ではとうの昔に | 2015年8月 8日 (土) 18時40分

衆生有碍のさとりにて
無碍の仏智をうたがへば
曾婆羅頻陀羅地獄にて
多劫衆苦にしづむなり (浄土和讃)

意味は「無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり。仏法を謗(そし)りたるもの、この地獄に落ちて八万劫住す。大苦悩を受く」(異本)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)

無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり、とは自分に絶対服従させている講師に向かって
「君達はまだ十九願の入り口にも入っていないのだよ」という上から目線での会長の発言が該当するのではないでしょうか。オマケに会員は「念仏だけ称えていたら助かるなんてうさんくさいよ」と衆生有碍のさとりにて、無碍の仏智をうたがう始末。まさに会を表現された御和讃ではないでしょうか。まずは会長がしっかりしてください。もし仏説がまことだったら大変なことになります。

投稿: 仏説まことです | 2015年8月 8日 (土) 22時24分

噂のアニメ第1巻を見ましたが、特に最後は土蔵秘事ですねえ。この指摘は誰もしませんか。これをバスまで走らせてふれまわるに至っては。

投稿: アニメ第1巻は土蔵秘事 | 2015年8月 9日 (日) 21時42分

追悼法要も散々でしたってウワサどうなんですか?

投稿: | 2015年8月 9日 (日) 22時57分

アニメバスって会員が提案して上映会してもタダでは来ないのでしょうから、新しい搾取の手段でしょうね。

投稿: | 2015年8月 9日 (日) 23時45分

ブログ主さんが御療養中のブログ「リバース」に以下のような書き込みを認め驚いております。華光会さんのサイトを拝見するに特に関連する新着記事を拝しませんが。もしも根も葉もないお話であるならば、この書き込みは工作員の手になるものと見るべきではないかと思われます。

http://blog.goo.ne.jp/yodogawakonan1/e/623a450d6fe4801540e46c9bf5a6a3cd?fm=rss
南无阿彌陀佛 (とくま)2015-08-08 22:03:40なんまんだぶつ
高森顕徹氏の (善知識・大恩氏)?
華光会の、増井吾郎師 御往生なさったと 先程メール頂きました。
有縁の方は、華光会ホームページ参照ください。

投稿: 増井師,つつがなきや? | 2015年8月10日 (月) 15時59分

必ずくる100パーセントの無常。
絶対服従だの、御教導下さい、だの寝ぼけていると、あと崩れ落ちて大変な事になるぞ、知識帰命

活動している暇が有るなら、今やる事あるぞ。
己の無常をまさか活動中なら大丈夫だ等のんびり構えていたり、自分がハッキリしないのを誤魔化しているんで無いだろうな。どれだけ金払っても、どれだけ活動しても、己の無常と取り引きは出来ないんだよ。

投稿: 人を頼りにしていると大変だぞ | 2015年8月10日 (月) 17時38分

増井師,つつがなきや?さま

失礼ですが貴殿は元会員ですか。それとも会長に報告しなければならない現役会員ですか?小生は華光会に所属しない元親鸞会会員です。

昨日増井悟朗師の告別式に参列致しました。
ご法名は 「釈悟朗」です。御本人の意志で延命措置を取られず静かなご往生だったそうです。
ご法話された孤杉英章師は「悟朗先生から指導を受けたということはなかった。もちろん強制されたことなど一度もなかった。阿弥陀仏のように、いつでも私に合わせて寄り添って下さる本当の善知識でした。」と涙ながらに語っておられました。
この増井悟朗師の指導を受けて信心決定したと自ら告白した高森顕徹氏は阿弥陀仏からのご命令に逆らい、会員の誰に寄り添うこともなく、自ら、崩れると豪語するお金と名誉の相対の幸福に寄り添っているだけではないでしょうか。

投稿: 元会員 | 2015年8月10日 (月) 20時23分

恩を仇で返す偽知識、犬鉄

投稿: | 2015年8月10日 (月) 21時34分

三願転入は、十方衆生の獲信の道程です。
 もちろんこれは、親鸞聖人だけのことではありません。

● 「至心信楽欲生と
  十方諸有をすすめてぞ
  不思議の誓願あらわして
  真実報土の因とする」(第十八願)

● 「至心発願欲生と
  十方衆生を方便し
  衆善の仮門をひらきてぞ
  現其人前と願じける」(第十九願)

● 「至心廻向欲生と
  十方衆生を方便し
  名号の真門ひらきてぞ
  不果遂者と願じける」(第二十願) 
                       (浄土和讃)


 十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する十方衆生の道程と、見ておられることがよくわかる。


■第十九願

●しかるに*濁(じょく)世(せ)の*群萌(ぐんもう)、 *穢(え)悪(あく)の含識(がんしき)、 いまし*九(く)十(じゅう)五(ご)種(しゅ)の邪道(じゃどう)を出(い)でて、 *半満(はんまん)・権実(ごんじつ)の法門(ほうもん)に入(い)るといへども、 真(しん)なるものははなはだもつて難(かた)く、 実(じつ)なるものははなはだもつて希(まれ)なり。 偽(ぎ)なるものははなはだもつて多(おお)く、 虚(こ)なるものははなはだもつて滋(しげ)し。
ここをもつて*釈(しゃ)迦(か)牟尼(むに)仏(ぶつ)、 *福徳(ふくとく)蔵(ぞう)(十九願)を顕説(けんぜつ)して*群(ぐん)生(じょう)海(かい)(すべての人)を誘引(ゆういん)し、 *阿(あ)弥陀(みだ)如来(にょらい)、 本(もと)*誓願(せいがん)を発(おこ)してあまねく*諸(しょ)有(う)海(かい)(すべての人)を化(け)したまふ。
すでにして*悲(ひ)願(がん)います。 修(しゅ)諸(しょ)功(く)徳(どく)の願(がん) (第十九願) と名(な)づく、
また臨(りん)終(じゅう)現前(げんぜん)の願(がん)と名(な)づく、 また現前(げんぜん)導(どう)生(しょう)の願(がん)と名(な)づく、 また来迎(らいこう)引(いん)接(じょう)の願(がん)と名(な)づく、
また至(し)心(しん)発願(ほつがん)の願(がん)と名(な)づくべきなり。(教行信証化土巻)

「さて、 *五濁の世の人々、 *煩悩に汚れた人々が、 *九十五種のよこしまな教えを今離れて、 仏教のさまざまな法門に入ったといっても、 教えにかなった真実のものははなはだ少なく、 虚偽のものははなはだ多い。 ^このようなわけで、 釈尊は、 さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、 阿弥陀仏は、 そのもととなる*誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。 ^すなわち、 すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。 この願を修諸功徳の願と名づけ、 ^また臨終現前の願と名づけ、 また現前導生の願と名づけ、 また来迎引接の願と名づける。 ^また至心発願の願とも名づけることができる。」


●しかるに、 いま ¬大本(だいほん)¼ (大経) によるに、 真実(しんじつ)・方便(ほうべん)の願(がん)を超(ちょう)発(ほつ)す。 また ¬観(かん)経(ぎょう)¼ には、 方便(ほうべん)・真実(しんじつ)の教(きょう)を顕(けん)彰(しょう)す。 ¬小(しょう)本(ほん)¼ (小経) には、 ただ*真門(しんもん)を開(ひら)きて方便(ほうべん)の善(ぜん)なし。 ここをもつて三(さん)経(ぎょう)の真実(しんじつ)は、 選(せん)択(じゃく)本願(ほんがん)を宗(しゅう)とするなり。 また三(さん)経(ぎょう)の方便(ほうべん)は、 すなはちこれもろもろの善根(ぜんごん)を修(しゅ)するを要(よう)とするなり。(教行信証化土巻)

「ところで、 ¬無量寿経¼ によると、 阿弥陀仏は他力念仏が説かれた真実の願すなわち第十八願と、 往生のためのさまざまな善が説かれた方便の願すなわち第十九願・第二十願とをおこされている。 また ¬観無量寿経¼ には、 釈尊が定善・散善の方便の教えを外に顕され、 他力念仏の教えを内に彰されている。 ¬阿弥陀経¼ には、 ただ*真門の念仏が説かれているだけで、 方便の善は説かれていない。 このようなわけで、 ¬無量寿経¼・¬観無量寿経¼・¬阿弥陀経¼ に説かれる真実の教えは、 第十八願をそのかなめとするのである。 また、 その三経に説かれる方便の教えは、 さまざまな善根を修めることをそのかなめとするのである。」

三経に説かれる方便の教えは、 さまざまな善根を修めることをそのかなめとするのである。


●凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門(第十九願)というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生(十方衆生)を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

この要門・仮門よりもろもろの衆生(十方衆生)を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。

よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。つまり、獲信の為の善の勧めは明らかに正しい。


■第二十願

●それ濁(じょく)世(せ)の*道俗(どうぞく)、 すみやかに円修(えんしゅ)至(し)徳(とく)の*真門(しんもん)に入(い)りて、 *難(なん)思(じ)往(おう)生(じょう)を願(ねが)ふべし。(教行信証化土巻)

「この五濁の世の出家のものも在家のものも、 速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、 難思往生を願うべきである。」


●しかればすなはち、 *釈(しゃ)迦(か)牟尼(むに)仏(ぶつ)は、 *功(く)徳(どく)蔵(ぞう)(二十願)を開演(かいえん)して、 十方(じっぽう)濁(じょく)世(せ)(すべての人)を勧(かん)化(け)したまふ。 阿(あ)弥陀(みだ)如来(にょらい)はもと*果(か)遂(すい)の誓(ちかい) この果(か)遂(すい)の願(がん)とは二(に)十(じゅう)願(がん)なり を発(おこ)して、 諸(しょ)有(う)の群(ぐん)生(じょう)海(かい)(すべての人)を悲(ひ)引(いん)したまへり。
すでにして悲(ひ)願(がん)います。 植(じき)諸(しょ)徳本(とくほん)の願(がん)と名(な)づく、 また係(け)念(ねん)定生(じょうしょう)の願(がん)と名(な)づく、 また不果(ふか)遂者(すいしゃ)の願(がん)と名(な)づく、 また至(し)心(しん)回(え)向(こう)の願(がん)と名(な)づくべきなり。((教行信証化土巻)

「そこで、 釈尊は、 念仏を称える功徳により浄土に往生する功徳蔵と呼ばれる教えを説き述べて、 すべての五濁の世のものを導かれ、 阿弥陀仏は、 そのもととなる*果遂の誓いをおこして、 あらゆる迷いの人々を他力念仏の法に引き入れてくださるのである。 ^すなわち、 すでに慈悲の心からおこしてくださった第二十願がある。 この願を植諸徳本の願と名づけ、 また係念定生の願と名づけ、 また不果遂者の願と名づける。 また至心廻向の願とも名づけることができる。」


■三眼転入

●ここをもつて愚(ぐ)禿(とく)釈(しゃく)の鸞(らん)、 *論主(ろんじゅ)の解義(げぎ)を仰(あお)ぎ、 *宗(しゅう)師(し)の勧(かん)化(け)によりて、 久(ひさ)しく*万(まん)行(ぎょう)諸善(しょぜん)の仮(け)門(もん)(第十九願)を出(い)でて、 永(なが)く双樹(そうじゅ)林(りん)下(げ)の往(おう)生(じょう)を離(はな)る。 *善本(ぜんぽん)徳本(とくほん)の真門(しんもん)(第二十願)に回(え)入(にゅう)して、 ひとへに*難(なん)思(じ)往(おう)生(じょう)の心を発(おこ)しき。
しかるにいまことに方便(ほうべん)の真門(しんもん)を出(い)でて、 *選(せん)択(じゃく)の願海(がんかい)に*転(てん)入(にゅう)せり。 すみやかに難(なん)思(じ)往(おう)生(じょう)の心(しん)を離(はな)れて、 *難(なん)思議(じぎ)往(おう)生(じょう)を遂(と)げんと欲(ほっ)す。 果(か)遂(すい)の誓(ちかい) (第二十願)、 まことに由(ゆえ)あるかな。
ここに久(ひさ)しく願海(がんかい)に入(い)りて、 深(ふか)く仏恩(ぶっとん)を知(し)れり。 至(し)徳(とく)を報謝(ほうしゃ)せんがために、 真(しん)宗(しゅう)の簡要(かんよう)を摭(ひろ)うて、 恒(ごう)常(じょう)に不可(ふか)思議(しぎ)の徳海(とくかい)を称(しょう)念(ねん)す。 いよいよこれを喜(き)愛(あい)し、 ことにこれを頂(ちょう)戴(だい)するなり。(教行信証化土巻)

「このようなわけで、 愚禿釈の親鸞は、 龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、 曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、 久しく、 さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、 永く、 双樹林下往生から離れ去り、 自力念仏を修める方便の真門に入って、 ひとすじに難思往生を願う心をおこした。 ^しかしいまや、 その方便の真門からも出て、 選択本願の大海に入ることができた。 速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、 *難思議往生を遂げようとするのである。 必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、 まことに意味深いことである。
 ^ここに久しく、 本願海に入ることができ、 深く仏の恩を知ることができた。 この尊い恩徳に報いるために、 真実の教えのかなめとなる文を集め、 常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、 いよいよこれを喜び、 つつしんでいただくのである。」

投稿: ショーマ | 2015年8月10日 (月) 23時37分

高森氏の若かりし頃を御存じの生き証人がご還浄なさったことを哀惜し、かつは少しく憂えるものでございます。全体的にはむろん親鸞会は滅びゆくことでしょう。ただ、こうして最良の生き証人が逝かれたことで、親鸞会のほうは今しばらく言いたい放題のことを言うのではないか案ぜられます。

ともあれまずは味わい深い、読みながらおのずと合掌とお念仏とが催されるお書き込みをありがとうございます。

投稿: 華光会会員でない元親鸞会会員さま,味わい深い書き込みをありがとう | 2015年8月10日 (月) 23時55分

「善の勧め」、漢字で書けば「勧善懲悪」ですね。いかにも自力の臭いにまみれた語彙と見受けられます。また、これを発話する主体を絶対の正義の高みに置いた語気さえ感ぜられます。

「破邪顕正」が会内ですっかり手あかのついた言葉になったので、これに代えて「勧善懲悪」を流布させたかったけれども、そのままではなんだか時代劇の水戸黄門みたいだ。そこで、後半分の「懲悪」を略し、かつ残る「勧善」を和語化して「善の勧め」としたのではないか? そんなふうに思われてなりません。皆さまの御批正を仰ぎつつ。

高森氏は水戸黄門気どりなのでしょうか?

投稿: 「善の勧め」が説かれだした背景について思うところを | 2015年8月11日 (火) 00時02分

1億円もするという正本堂の鷲のマーク、同期の桜を使った会内愛唱の替え歌、そしてやれるところまで「善」(実は高森氏とその一家へのばかばかしい「極限までの布施」)等々、親鸞会で説き勧められることは、およそ他力自然のことわりにそむいた自力の力みに溢れ返っております。長く在籍されてのち、ようやく目を覚まされた方は、なにがきっかけで「おかしいぞ」と感ずるようになられたのでしょうか?

投稿: 鷲のマーク,軍歌まがいの替え歌等々 | 2015年8月11日 (火) 00時07分

高森は念仏誹謗し過ぎ。
釈迦如来も法然上人も親鸞聖人も謗り倒して、自分の恩師も謗り倒してどこへ行くつもりか。
無宿善の高森は後生も因果も気にならないとすれば辻褄が合うのです。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 02時14分

》なにがきっかけで「おかしいぞ」と感ずるようになられたのでしょうか?

雑行です。諸善を雑行として嫌われるのは、行為は正しいが心がけが悪いと言うのです。これをやってみなければ分からないと言って法財施だからと言ったからです。

心がけが悪いと助からない、駄目ならば、単に金を出せ、人を集めろと言っているだけです。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 05時49分

》なにがきっかけで「おかしいぞ」と感ずるようになられたのでしょうか?

もう一つは三願転入の解説です。やたらと体験話を攻撃し始めた後、
これが親鸞聖人の体験だ、と声高に言ったからです。矛盾に加えて、ならば何故比叡山へ行けと言わないのか?
という、疑問です。最初は講師と呼ばれる人に聞くのですが、その後周り中が一気に冷たくなるので、直ぐ伝わっている事が分かった瞬間の興醒めから、他の情報を探しました。
そしたら、華光会は出てくるわ、大沼氏の文章は出てくるわ、紅楳氏の論文はちぎれて勝手に悪くでっち上げているわ、で散々でした。

投稿: 三願転入の解説で おかしいと思いました | 2015年8月11日 (火) 06時32分

会長が目指すのは日蓮。会が目指すのはS学会。

釈尊は脱仏で日蓮を敬うが如く、南無阿弥陀仏を謗って、自らを善知識として崇めさせる。【善のススメ=南無阿弥陀仏の願行具足の否定】は日蓮とタッグを組む輩である。

私腹を肥やすためなら何でも言う。相対の幸福はキリがない、必ず崩れる、と弱味につけこみ、地獄、地獄と恫喝して金品を差し出させる。恫喝を強めるため、また権威付けのためには他人の文章をもパクる。それもお世話になったと自ら告白する恩師、そして既にお亡くなりになった先達などクレームがつけられない姑息なやり方。会員が座り込みをしても後方待機と称して(リポD三昧?)絶対、表に出てこない小心ぶりは麻原氏を思い出させる。

結局お金と名誉(最近は特に長生き)の相対の幸福のためなら何でもやる人並外れた超執着心の持ち主。はたまた悪の塊で(ニセ)善知識としてこの世を渡り、悲劇的なエンディングを迎える還相の人か。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 07時08分

臨終現前の願(第十九願)により    
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり (浄土和讃)

第十九願は、定散諸機に勧められています。


果遂の願(第二十願)によりてこそ
釈迦は善本・徳本を
『弥陀経』にあらはして
一乗の機をすすめける(浄土和讃)

第二十願は、一乗の機に勧められています。

*** 観無量寿経 ***
下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を
犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。

 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。

 そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。」

「心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称える」これは、第
18願の教えです。

下品下生は、臨終に善知識に遇い第十九願、第二十願を通らずに獲信
しています。

善知識の説法は、第十七願です。獲信の為には、第十七願があります。


*** 顕浄土方便化身土文類 ***
結勧には、

 しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

「以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。」

投稿: | 2015年8月11日 (火) 09時17分

オッボ氏野々村氏佐村河内氏
佐野氏高森氏
みんな盗作詐欺の共通パラメーター

それに共感する輩擁護する輩も同類

投稿: | 2015年8月11日 (火) 09時59分

ハイデガーが日記に親鸞聖人とであった驚喜を記したというのは、松尾師(でしたっけ?)の妄想と見るのがどうやら正解のようですね。ただ、同師をしてこのような妄想を催さしめたとおぼしい原料のひとつを見出しました。ハイデガーと並び称されたヤスパースが、その著『偉大な哲学者たち』の中で以下のように仏教の美点を簡潔に讃えております。いわく、

「……。また、それは、生きとし生けるものと共なる、あまねき憐憫の情・歓喜の情として仏教的な愛であり、あの非暴力の態度である。アジアにはほとんどいたるところに、おそろしく忌むべきことどもが生起したし、また、現に生起しているにもかかわらず、慈悲の光はあまねく満ちているのである。仏教は暴力も、異教徒の迫害も、宗教裁判も、魔女裁判も、十字軍も伴わない唯一の政界宗教となった。
  仏教においては、哲学と神学、理性の自由と宗教的権威とのあいだに、決して分裂がなかったという点を、かかる思惟の根源的な本質のひとつとしてあげることができる。これらの区別は問題となったことがない。哲学そのものが宗教的な行為であった。知識そのものがすでに解脱・救済であるという根本命題が、あくまで妥当する」

  実は以上の言葉はまだヤスパースの原文(邦訳本をも含む)に当たっておらず、篠原誠(1931~2004)氏の主著『人生観と仏法』(第三文明社,1978年)116頁からの孫引きです。篠原氏は「学生時代に何を学ぶべきか」(初出は1964年12月号の『第三文明』)と題するエッセーの中で上記のヤスパースの言葉を引用し、「あやまれる哲学に迷うな」と題する一節全体のかなめとしております。

  篠原氏は、その叔父で『人間革命』代作者として知る人ぞ知る善太郎氏ともども池田大作氏からブレインとして生涯を通じ寵遇を受けました。上に引いたその著『人生観と仏法』は、病弱な少年期を過ごした篠原氏が「人生の目的」を求めて彷徨する姿が、共感と遺憾とを催させます。遺憾とはむろん真宗のような正統的仏教に進まず、語るもおぞましい創価学会ごときに走ってしまったことを申しております。以上、「ハイデガー日記」を考察するうえで、皆さまのお役に立てばと念じております。

投稿: いわゆるハイデガー日記の原料かと見受けられます | 2015年8月11日 (火) 16時42分

阿弥陀仏の第18願、19願、20願の、3つの願は、

どれもみな「十方衆生」と誓われている。

教行信証化土巻の「三願転入」のお言葉で、


「親鸞はこの3つの願によって救われた」


とおっしゃる親鸞聖人は、


「三願転入」こそ

”すべての衆生を救う弥陀のお計らい”

と、教えておられる。


弥陀の第19願の相手も「十方衆生」である。

よもや「聖道門の人だけ」などではない。


ところが、

「弥陀の第19願は、
第18願を聞いても素直に信じることのできない
”聖道門の人”だけ浄土門に導く為に
建立されたものである」

という、お粗末な邪説がある。

騙されること勿れ。


「聖道門の人だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」

この邪説が、正しいなら、

「聖道門の人にだけ、第19願が必要」
「聖道門の人がいなかったら、第19願は要らない」

ということになる。


しかし、実際は、

「聖道門の人」よりも、
「弥陀の第19願(要門)」が先にあったのだ。


すなわち、

「十方衆生」が相手の弥陀の第19願(要門)を、
お釈迦様が開かれて「善の勧め」の教えを説かれた。

そのお釈迦様の「善の勧め」の教えを受けて、
それを実行しようとする「聖道門の人」が現れたのである。


釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ
(高僧和讃)

低レベルな間違いである。
小学生でも、分かる子もあるだろう。
まして、頭が普通の大人であれば、
「聖道門の人だけ、浄土門へ導く為に建立されたのが19願」
などという主張は、
とるに足らない邪説であることが分かって当然である。


第19願は、
聖道門の人があるから建立されたのではなく、
迷えるすべての人があるから、建立されたのだ。

善の勧めは、
迷えるすべての人を相手に、
18願の救いまで導く為に、
必要だからこそ教えられたもの。


「雑行を捨ててこそ救われる」のは、
迷えるすべての人である。
聖道門仏教をやっている人だけではない。

救いを求めて諸善に励む(雑行)
というプロセスを通らずして
第18願に救われる人など一人もない、ということだ。


「雑行を捨てる」とは、
弥陀の救いを求めてやる善を
自分の意識で否定するのと、ワケが違う。

18願に転入する時に、はじめて、
雑行が廃るのである。

浄土門の人でも
弥陀の18願に転入するまでは、
雑行は廃っていないのだ。

「善の勧めと、信心獲得とは、無関係だ」


などの邪説は、速やかに廃捨すべきである。

投稿: 19願はすべての人に必要だから釈迦は説かれた。 | 2015年8月11日 (火) 21時18分


●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生(十方衆生)を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。つまり善の勧めは明らかに正しい。相手がもろもろの衆生(十方衆生)

しかし退会者は、残念ながらまだ19願の手前もしくは途中に居るにも関わらず、19願を放棄してしまったから、門を通り抜けていません。
ちゃんと門を通りましょう。


19願はすべての人に勧められています。釈迦が19願を十方衆生に説かれました。以下を読めば分かると思います。

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                  (『教行信証』化身土巻・本)

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。
後の文にも『諸有海(すべての人)を化したまう』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道、聖道門を信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのです。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 21時47分

>>しかし退会者は、残念ながらまだ19願の手前もしくは途中に居るにも関わらず、19願を放棄してしまったから、門を通り抜けていません。


この前、会の教えを主張する人物が、すべての人は19願にいると主張されたが会として路線変更ですか??また講師部の人は19願の入口に入れましたか??貴方は人を見て19願に入ったか、入っていないかを判断する力をお持ちなら簡単に答えられるでしょう。7、8年前に会長は、講師部は19願の入口に入っていないと断言されたそうですが。お答えできなければいつも通り逃げて頂いても結構です。

アジャセの件はいつご回答頂けますか??

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月11日 (火) 22時11分

・18願へ向かって善を実践している人=19願の軌道に乗っている人

・18願へ向かって善を実践していない人=19願の軌道に乗っていない人

19願は18願へ出るための要門・仮門の通過点
18願へ出るためには、19願が必要不可欠

投稿: | 2015年8月11日 (火) 22時26分

・19願にを進んでいる人=浄土を願って善を実践している人=後生の一大事を知らされている人

・19願の手前に居る人=浄土を願って善を実践していない人=後生の一大事が分からない人

・19願の軌道から外れた人=19願を不要と判断してしまった人=退会者=他流

投稿: | 2015年8月11日 (火) 22時45分

・19願を進んでいる人=浄土を願って善を実践している人=後生の一大事を知らされている人

これが親鸞聖人が進まれた道であり、
18願への唯一の道。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 22時48分

下記→の、質問に全く答えられないことがわかりました。質問キチンと読んで下さい。古文だけでなく現代文も勉強しましょう。

>>しかし退会者は、残念ながらまだ19願の手前もしくは途中に居るにも関わらず、19願を放棄してしまったから、門を通り抜けていません。

→この前、会の教えを主張する人物が、すべての人は19願にいると主張されたが会として路線変更ですか??また講師部の人は19願の入口に入れましたか??貴方は人を見て19願に入ったか、入っていないかを判断する力をお持ちなら簡単に答えられるでしょう。7、8年前に会長は、講師部は19願の入口に入っていないと断言されたそうですが。お答えできなければいつも通り逃げて頂いても結構です。
アジャセの件はいつご回答頂けますか??

投稿: オオクワガタ逃亡中 | 2015年8月11日 (火) 23時00分

>この前、会の教えを主張する人物が、すべての人は19願にいると主張されたが会として路線変更ですか??また講師部の人は19願の入口に入れましたか??貴方は人を見て19願に入ったか、入っていないかを判断する力をお持ちなら簡単に答えられるでしょう。7、8年前に会長は、講師部は19願の入口に入っていないと断言されたそうですが。お答えできなければいつも通り逃げて頂いても結構です。
アジャセの件はいつご回答頂けますか??


すべての人(他力の信心を獲た人以外)は19、20願にいますが、機は自力格別です。

講師部の方々に限らず、一般の会員でも後生の一大事を解決した人(弥陀より他力の信心を賜り、二種深信が立っていて、お礼の念仏を称えている人)は、何人もいます。
故に講師部は19願の入り口に入っています。
善も行っておられます。

アジャセですが、親鸞聖人はアジャセが18願だけで救われたとはどこにも仰っておりません。アジャセが19願、20願を通らなかった根拠を探してみてください。

投稿: | 2015年8月11日 (火) 23時32分

すいません。ややこしい表現をしてしまいましたね。

すべての人(他力の信心を獲た人以外)は19、20願にいる、ではなく、

正しくは、

すべての人(他力の信心を獲た人以外)は19、20願の対機であるです、

投稿: | 2015年8月11日 (火) 23時59分

ちょっとすいません。 

まじめな学生さんかな?

質問です。

「19願を通り抜ける」ってどういうことですか。

高森会長さん「19願通り抜ける」と 言ってるのですか?

投稿: すーめたる | 2015年8月12日 (水) 01時44分

何度言えばわかるのか。

阿闍世は

伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

こう言っているのね。初めて仏法を聞いて、信を獲た、ということは、19願はとていないのよ。
19願ん御説明をされている化土巻には阿闍世のことは書かれていない訳よね。18願の説明をされた信巻の4割が阿闍世の話。

>18願に転入する時に、はじめて、
>雑行が廃るのである。

それと、20願は雑行を捨てないと入れないのよね。あなたの主張は二願転入ってことね。

「群生海」と「一切の群生海」の違いは分かる?
何度も同じこといわせるな。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月12日 (水) 01時51分

》「十方衆生」が相手の弥陀の第19願(要門)を、
お釈迦様が開かれて「善の勧め」の教えを説かれた。

そのお釈迦様の「善の勧め」の教えを受けて、
それを実行しようとする「聖道門の人」が現れたのである。

分かったから直ぐに比叡山へ行きなさいよ。そのほうが早い。

投稿: だから早く比叡山へ行きなさいよ | 2015年8月12日 (水) 05時10分

聖道門の修行はね、法蔵菩薩がされているのよ。
聖道門は最初からあって、阿弥陀仏が聖道門の修行に堪えられない人のために代わって修行された訳。
順番から言えば、聖道門の方が先。

正信偈を読んでみな。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月12日 (水) 06時28分

>高森会長さん「19願通り抜ける」と 言ってるのですか?

19願はすべての人が18願へ出るために必要不可欠な方便願です。
なので、19願に励む=悪いことやめて善いこと
しなさい、六度万行しなさいと仰られております。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 07時36分

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                     (『教行信証』化身土巻・本)

「群生海」、「諸有海」に浄土門の人が入らない?

正信偈の
五濁悪時群生海

投稿: | 2015年8月12日 (水) 07時47分

救われるために 六度万行しなさいと 親鸞聖人 蓮如上人はどこで言われていますか?
「19願を通り抜ける」の「抜ける」とはどのような事ですか。

投稿: すーめたる | 2015年8月12日 (水) 08時09分

阿闍世が19願を通っていないことは認めたんだ。

それなら

>「群生海」、「諸有海」に浄土門の人が入らない?

「群生海」、「諸有海」阿闍世が入っていないことがわかったでしょ。よかったね。

投稿: 阿闍世はどうなった | 2015年8月12日 (水) 09時54分

>救われるために 六度万行しなさいと 親鸞聖人 蓮如上人はどこで言われていますか?


救われるために善を実践している人に対して親鸞聖人 蓮如上人は、

「雑行捨てよ」

と仰られております。

雑行=救われるために自力の心掛けで行う善=18願へ向かって19願を進むこと

救われるために善をしていない人にはそもそも
雑行捨てよとは言われない。つまり、19願の軌道に乗っていない人に雑行捨てよとは言われない。


「雑行捨てよ」とは、自力の心掛けを捨てよということ。善をするなということではありません。捨てるのは心掛けです。
神を拝んだりする五雑行は、行いそのものもやってはいけませんよ。

他力に帰するため、自力の善業を勧めるのは、
ちょうど酒をやめさせるために、酒を飲ませて懲らしめてやめさせるようなもの。

救われた時、雑行は廃ります。


>「19願を通り抜ける」の「抜ける」とはどのような事ですか。

自力が廃ることです。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 11時15分

》雑行=救われるために自力の心掛けで行う善=18願へ向かって19願を進むこと
救われるために善をしていない人にはそもそも
雑行捨てよとは言われない。つまり、19願の軌道に乗っていない人に雑行捨てよとは言われない。

19願を進むとは?そもそも進むとは?

自力いっぱい求めて進んだら他力になるの?

投稿: 19願を進むとは? | 2015年8月12日 (水) 11時34分

》》雑行=救われるために自力の心掛けで行う善=18願へ向かって19願を進むこと
救われるために善をしていない人にはそもそも
雑行捨てよとは言われない。つまり、19願の軌道に乗っていない人に雑行捨てよとは言われない。

投稿: 以外の文、高森会長の意見として理解していいですか | 2015年8月12日 (水) 11時38分

>自力いっぱい求めて進んだら他力になるの?

他力になるまで他力を求めます。
他力になるまでは自力です。

高森先生から教えて頂きました。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 11時42分

>19願を進むとは?そもそも進むとは?

救いを求めて真剣に善を実践することです。

信仰が進みます。宿善が厚くなります。
雑毒の善しかできない自己の真実の姿が知らされます。
因果の道理で自分に善果が来ます。


投稿: | 2015年8月12日 (水) 11時52分

不倫とは?盗作とは!?

投稿: | 2015年8月12日 (水) 12時03分

20願は如何致しましょうか?。

「因果の道理で自分に善果が来ます」ですか。なかなか良い表現だと思います。

ベテランの会員さんは その言葉は 退会者には聞かせません。

真面目で素直な方だと お見受けいたします。

投稿: すーめたる | 2015年8月12日 (水) 12時12分

こんな間違い内容を間に受けられる人が、見るなと言われているネットや、さよなら親鸞会に書き込めますかね?

投稿: こんな内容を間に受ける人が | 2015年8月12日 (水) 15時08分

変な日本語の人がいるね。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 16時37分

〉信仰が進みます。宿善が厚くなります。
雑毒の善しかできない自己の真実の姿が知らされます。
因果の道理で自分に善果が来ます。

◯ 確かに何を言ってるのか全然分からないね。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 18時22分

高森顕徹氏(浄土真宗親鸞会の会長)の盗作・丸写しって本当なんですか?誰の本を盗作したんですか?
血の海に沈める、手の2~3本かち折るとか発言の音声もあると聞いたんですがありますか? そのほかに親鸞会の高森氏の人格を表すエピソードってありますか?

投稿: | 2015年8月12日 (水) 20時32分

抱腹絶倒w超絶震撼w
のベストアンサー


高森顕徹氏は大沼法龍氏という仏教学者の本をほぼ丸写しして、それを自作として出版し利益を得ています。
大沼氏の本の文の並びや語尾や表現をほんのちょっと替えただけで、両者を比較すれば小学生でもわかる程の盗作です。
「親鸞聖人の教えを説ききっている」などと高森氏を持ち上げる親鸞会の宣伝がありますが、あんなもの絶対真に受けてはダメ。
正体はろくに勉強していない単なるカルト教祖です。説法や法論でも間違えだらけ。

しかし盗作なんて・・・いくら高森顕徹氏が本を書くほどの教学能力がないにしても、臆面もなくこんなデタラメがよくできるなあ、と思います。


高森顕徹氏の盗作問題
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/04/post-39ce.html

高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/100_80e4.html

大沼法龍師の言葉
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu

大沼法竜師に学ぶ 故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく
http://blog.goo.ne.jp/onuma_horyu/

【説法や法論の誤りを指摘するサイト】

飛雲
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

投稿: | 2015年8月12日 (水) 20時39分

佐野氏ピンチ!
これだけネットが普及した時代、情報化された環境社会、バレますよね。
佐野氏の奥様は部下のせいって他因自果発動中です。
何処ぞの教祖様も他因自果で逃走作戦を見習ってみては?


今回、取り扱いが中止されたデザインについて、インターネット上では、今月に入ってから佐野さんのデザインと、ほかのデザインなどを並べて比較しながら似ているとの指摘が複数出されていました。
赤っぽい色の矢印に「BEACH」と描かれたデザインについては、インターネット上のサイトに出品されている壁掛けのアートのデザインと似ていると指摘されていました。
また、女性が泳ぐ姿とその影が描かれたデザインについては、外国人デザイナーのTシャツのデザインと似ていると指摘されていました。
さらに、フランスパンの一部が描かれたデザインについては、おすすめのパンを紹介する個人のブログに掲載されていた写真と大きさや形が一致していると指摘されていました。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 09時37分

佐野氏よりも高森会長はもっとピンチですね。佐野氏は人の命は喰いものにしていませんが、会長は人の命の上にふんぞり返って生きてきました。ただのあほです。

投稿: | 2015年8月14日 (金) 11時12分

これは正直驚きました。驚くようではだめかな。
利用するにも節度がほしい。
率直な気持ちです。

投稿: ken39 | 2015年9月15日 (火) 19時51分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「リバース」開設。 | トップページ | 親鸞会の法話も変わる。 »