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「リバース」開設。

http://blog.goo.ne.jp/yodogawakonan1

リバース、というブログが開設されました。書いているのは親鸞会を退会して各所で熱心に仏法聴聞している方です。

ただの批判ブログにしたくはない、ということですから、今までの批判ブログとは異なった立ち位置で書かれる内容になるだろうと私は期待しています。

私も著者と立ち位置は似ているのでしょうが、親鸞会が100%間違っているとは思いません。ただ、浄土真宗を聞きたいという人に親鸞会を推奨することは全くありえないことですし、中で聞いている人については、一刻も早く親鸞会を出て仏法聴聞したほうがいいですよ、と思っています。

でも、親鸞会を通じて仏法に出遇っていく、という道も当然あるだろうとは思っているのです。そういう人を沢山見てきましたから。このブログの著者もそうでしょうし、私もまたそういう縁の中で導かれた人間でした。

とにかく、よんでみてください、ブログ。まだ記事は3つしかないですけど、これから増えてくると思います。

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コメント

私も擁護派でネットをチェックし始め、内容を精査、確認していく中で正しい判断を取り戻し、脱会出来ました。

投稿: | 2015年5月20日 (水) 12時41分

博多でけんてつ と豊田商事の殺された永野会長と同じエレベーターに乗ったことがある

吉村も永野の友達の岐阜の菊池もいたなあ~
金の亡者 極悪人が狭い空間にいっぱい

今から思うと刺激的な瞬間だな

あの時辞めてつくづくよかったと思う
あの頃けんてつの異常性に気づく者が少なくて…

投稿: | 2015年5月22日 (金) 14時20分

  来年は、「往生すっきり、往生はっきり」さんの生誕100周年ではないかと存じます。この谷本さんもまた、豊田商事の永野氏に同じく岐阜県出身でなかったかと記憶致します。かつての高森氏は剽窃という悪事を重ねつつも、個々の(ただし比較的富裕な)会員の後生へ、それなりの関心をいだいていたように見受けられます。それがしかし金の亡者としての本性をあらわにしたのが、1980年代前半からの豊田商事との悪縁ではなかったかと思われます。この悪縁はしかし高森氏みずからが招いたものか、子息たる光晴氏を通じて得られたものか……事実を知る人々の証言が待たれます。

  嶋田氏が講師をおやめになってからの血を吐くような日々は、拝読するたびにわれわれの胸を打ちます。彼が宗教者として今後多くの元現会員を救ってゆかれることを信じて疑いませんが、彼にのみ光晴氏や高森氏の実態を語らせるのは、俗っぽい世界をとうに脱したとおぼしい今の彼にとって酷でありましょう。もっと多くの現在50歳から70歳ぐらいの幹部クラスの元会員が真実を語ってくださることを求めます。それともこの年齢層の人は、このブログの存在しら知らぬ「情弱」なのでしょうか?

  会長夫人の役割、青春をささげた学院の院長と現在の秘書……心の中でこの3氏は髪を蛇にし、互いに今しも相手へとびかかろうとしているのではないか、そんなふうにも思われます。世にカルトは数あれど、教祖の経歴や家族(ただし幹部である者に限る)に対し、被害者(元会員)がこれほど無関心なカルトは少ないように思われます。いうかがなものでしょうか。

投稿: | 2015年5月23日 (土) 11時47分

親鸞会の罪の深いところは退会者を仏法嫌いにしてしまうところです。
本来宿善がありながら親鸞会と一緒に仏法も捨ててしまった人も多いのではないでしょうか。
そうして去っていった人は会について語ろうと思わないでしょう。
親鸞会は仏法ではなく、親鸞会はなくとも生きる目的はあると気付かれれば良いですが…

投稿: | 2015年5月23日 (土) 23時51分

谷本さんのテープは今もつかわれてますか?

投稿: | 2015年5月24日 (日) 00時21分

http://www.tanimotokensetu.co.jp/
(谷本建設さんのサイトより、会心作を列挙したページ)


滋賀会館(でしたか、岐阜会館でしたか…)が今でも当時のままであるならば、この画面になんらかの形で取りあげられていそうなものですが……このサイトを拝見する限り、どうも今はご縁も絶えてしまったように思われます。それでも「すっきり、はっきり」テープを使っているのであれば、どうも問題ではないかと思われます。

投稿: | 2015年5月24日 (日) 20時47分

「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」


十九願は「九十五種の邪道を出でて」仏道に入った人に説かれた教えで、

外道は問題外。

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要
門といふ、これを仮門となづけたり。」(一念多念証文)

総じていえば、仏教全体が要門。

別していえば弥陀の十九願。

浄土の要門⊃聖道門じゃね?


弥陀の本願は「三世十方を貫く」教えですよね。

「500年程度の在世正法の時機のためだけに説かれた聖道門」と

「弥陀の十九願」⊃「聖道門」になるのは当然じゃないの?

「要門」に入っている人に「入れ」って普通言うかな?

今聖道門の修行していない人は、普通に生活している人は、

みんな19願に入ってる事になるよな?


聖道門から浄土門へ入る要の門、仮の門が19願らしいですが、

今批判サイトをを更新している飛雲さんは浄土門の人、真実に入った人らしいですが、

19願にいたんじゃないの?

19願以外のどこから真実に導かれたの?

投稿: ゴミムシ | 2015年7月10日 (金) 12時15分

19願はすべての人が通らなければならない道ですね。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)


 これは外道の者が、折角、仏縁を結んでも、ということだけのことではなかろう。

「真なる者(真実信心の人)は甚だもって難く、
  実なる者(真実信の人)は甚だもって希なり。
  偽なる者(安楽椅子の人)は甚だもって多く、
  虚なる者(安楽椅子の人)は甚だもって滋し」とも、仰っている親鸞聖人のお言葉である。

 安易に座れる椅子は満ちている。勧める者も数多い。襲いくる群賊悪獣悪知識のその中を、千万の化城(安楽椅子)を突破して

「常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽、実に獲ること難し」 (親鸞聖人)

「信を得る者希なり」 (蓮如上人)

投稿: ヘラクレス | 2015年7月10日 (金) 12時40分

親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる者です。

「二種深信が立ち、往生一定の身になるのに、善の実践(19願)は必要ない」

と言うのは、どう考えてもおかしいですね。

悪意に満ちた親鸞会の批判サイト等の悪縁に触れて、親鸞会に対して疑念が生じて、

「親鸞会にだまされていた、詐欺」

と思い込んでしまう人は可哀想過ぎて涙が出てきます。

それこそ最も恐ろしいマインドコントロールです。

しかし実際そうやって退会に追い込まれた人が多いのが現状です。

人間は迷いやすい生き物なので、信心決定していなければ、縁次第でいくらでも迷ってしまいます。

組織に対する不平・不満、人間関係のトラブルと、
自分の後生、

どちらが大事ですか?

以下、教義内容で間違いやすいところなので、引用させて頂きます。


>無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。


「定散諸機をすすめけり」を「定散諸機に勧められた」と理解するのは間違いでしょう。
「を」と「に」は違います。

「定散諸機を(選択の願海に)すすめけり」と拝読し、
「定散諸機を選択の願海に進められた」と理解するのが正しいと思います。


『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」


この御和讃の

「釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」

は、

「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」
(この要門・仮門より、諸々の衆生を進め(勧め)こしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教え勧め(進め)入れ給う)

に対応します。


釈尊が「定散二善」を説かれた相手は、「もろもろの衆生」すなわち「十方衆生」です。

「こしらえて」は、導いて、という意味で解説している本もありますが、作り上げる、という意味を含めればなお良いでしょう。


要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。

これが、「定散諸機をすすめけり」の意味です

投稿: | 2015年7月10日 (金) 13時19分

親鸞会と思われる人達の主張が負けました。

タイトル:
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義4: 飛雲 〜親鸞会の邪義を通して〜
URL:
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1305709/1323088/100398095/list_comments

投稿: | 2015年7月10日 (金) 13時52分

●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)

『九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。』

この中に飛雲氏が含まれることになったら、この人のすべての主張に矛盾が生じて、この人の理屈が崩壊します。

なのでこの人はなんとしてでも
『半満・権実の法門』は聖道門だけである、と理屈を並べて主張するのに必死です。

この人の主張が親鸞会の教義内容とことごとく正反対になり、親鸞聖人の教えを誤解し仏教を破壊しているルーツはここにあります。

また、この人は、
「自分は浄土門であり、二種深信が立っている」と言いながら、

聖道門、19願以外のどこから真実に入りましたか?

という質問に答えていません。

この人には19願、20願を通らずに18願に出る秘密の法門でもあるのでしょうか?

投稿: | 2015年7月10日 (金) 16時27分

ちなみに飛雲氏は、
阿弥陀仏が十方衆生に誓われている19願、20願の方便願を、浄土往生には絶対に必要ないと主張としています。

つまり因果の道理や六度万行を自分には必要ないと主張して仏教を破壊しています。

親鸞聖人の教えを根本から誤解しています。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 16時41分

往生浄土のための善をススメるのは 南無阿弥陀仏の願行具足を疑え と言っているの同じです。要するに南無阿弥陀仏への疑いのススメです。浄土真宗ではありません。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 17時08分

「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」というお方、その喜びは隠そうとしても言動に表れますよ。あなたの信心獲得が本当のものであればあるほど、以後あなたが大好きな親鸞会にいられる日々も限られたものとなってゆくことでしょう。ご覚悟あれ!

投稿: しのぶれど色に出でにけりとか | 2015年7月10日 (金) 18時22分

諸善万行が一部の人に必要なら方便の善と言えますが、すべての人の往生浄土に必要ならば それは 方便ではなく真実(絶対)の善になってしまいます。おかしな話です。わざわざ親鸞聖人は「諸善万行はことごとく方便だ」と書かれています。真実の善は南無阿弥陀仏、念仏だけです。会にいて救われた人がいるのなら なぜ南無阿弥陀仏を軽んじるのでしょうか。願行具足の南無阿弥陀仏に何の不足がありますか。阿弥陀仏は何かやり忘れたので それをカバーする凡夫の善が必要ですか。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 20時55分

念仏を軽んじているということは決してありません。

しかし、あまりにも
「ただ念仏だけ称えていれば二種深信が立って後生助かる、善の実践はいらない」

と信じている人が多いのが事実です。

これを称名正因の異安心というのです。

●まず世間にいま流行して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称えれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきこと(助からない)なり
(御文章三帖)


称え心の違いで念仏に3通りあるのを知っていますか?
・万行随一の念仏
・万行超過の念仏
・自然法爾の念仏

以下、浄土往生に善の実践がすべての人に必要である根拠を引用します。

三願転入は、十方衆生の獲信の道程である。

 もちろんこれは、親鸞聖人だけのことではない。

 「至心信楽欲生と
  十方諸有をすすめてぞ
  不思議の誓願あらわして
  真実報土の因とする」(第十八願)

 「至心発願欲生と
  十方衆生を方便し
  衆善の仮門をひらきてぞ
  現其人前と願じける」(第十九願)

 「至心廻向欲生と
  十方衆生を方便し
  名号の真門ひらきてぞ
  不果遂者と願じける」(第二十願) 
(浄土和讃)

 十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する十方衆生の道程と、見ておられることがよくわかる。
 このことは『三経往生文類』にもみえるが、いまは『愚禿鈔』の文をあげておく。

「ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなはち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり」

「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)

 誰もが、意識するとしないとにかかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の絶対界には出れないのだ。
 方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして真実と知れようか。
真実を、真実と知らすための、方便なのだから。

 なればこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して説かれ、〝方便より真実に入れよ〟との、教えなのである。
 その方便(仮)を知らないのは、真実(真)もわかっていない証拠、と結論づけられる。

「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)

 親鸞聖人が、キッパリとこう仰有るのも、当然なのだ。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 21時31分

「ただ念仏だけ称えていれば後生助かる、善の実践はいらない」 との阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いて 念仏を称える心が阿弥陀仏から賜る他力の信心。自分の心で、ただ口先だけで称える念仏しか想像できないから本当の念仏の素晴らしさがわからないのです。蓮如上人のお言葉の意味わかりますか。他力の念仏を聴いたことがありますか。南無阿弥陀仏は願行具足ですよ。否定しますか。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 22時20分

「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」というお方、
先日、嶋田様が 「電話で他力回向の信心を讚嘆しませんか」とおっしゃっておられます。09023758256だそうです。もしキチンと電話しなかったら、会で信心決定したと言っている人はすべて嘘、そして会ぐるみで嘘(悪のススメ)を推進していると断定させて頂きます。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 22時55分

「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」お方、本当に信心決定したならば、親鸞会で、じゃなくて 阿弥陀様に、でしょう。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 23時08分

「親鸞会に所属して、全く阿弥陀仏のお力によって信心獲得させて頂きました」が適切な表現でしょう。

「親鸞会にいたら後生の一大事を解決できない」

と思っている人が多いので、そんなことはないですよと言いたかったのでしょう。

また、親鸞会を退会して高森先生や組織に対して誹謗中傷を重ねている人に言いたいのですが、

・親鸞会を批判し続けること
・自分の後生の一大事を解決すること

どちらが大事ですか?


投稿: ヘラクレス | 2015年7月10日 (金) 23時29分

>・親鸞会を批判し続けること
>・自分の後生の一大事を解決すること
>どちらが大事ですか?

→どちらも大事な問題だと思います。どちらも間違っていることは正せばいいと思います。

>「親鸞会にいたら後生の一大事を解決できない」と思っている人が多いので

→「多い」と断定されるのなら間違いなく何かに問題があるのでしょう。よくご存知なのではないですか。蒔かない種は生えてこないですから。親身に話を聴いてくれるなら上層部に話をして下さい。キチンとした組織ならば相談を批判と曲解する上司などいないでしょうから。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 00時43分

>「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」というお方、
先日、嶋田様が 「電話で他力回向の信心を讚嘆しませんか」とおっしゃっておられます。09023758256だそうです。もしキチンと電話しなかったら、会で信心決定したと言っている人はすべて嘘、そして会ぐるみで嘘(悪のススメ)を推進していると断定させて頂きます。


電話で他力回向の信心を驚嘆しても、おそらく嶋田様のためにはなりませんよ。
また、たとえ電話で驚嘆したところで、嶋田様が

「この人は本当に信心獲得している人だ」もしくは「この人は異安心だ」

と判断すると思いますか?判断できますか?


その人が信心獲得しているかどうかは弥陀と本人しか分からないので
第3者が判断することは禁じられています。
もちろん私も、

「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」というお方

が本当に信心獲得しているかどうかは分かりませんし、判断できません。
ですので、

「もしキチンと電話しなかったら、会で信心決定したと言っている人はすべて嘘、そして会ぐるみで嘘(悪のススメ)を推進していると断定させて頂きます。」

と判断するのはあなたの自由ですが、私にはとてもできません。

そして、

「親鸞会で信心獲得させていただき、大変喜んでいる」

となぜこの人がそう言ったのか。私にはその意図が分かりません。

あくまで私の想像ですが、言わずにはおれなかったのでしょうか。

投稿: ヘラクレス | 2015年7月11日 (土) 13時21分

すみません。肝心なことを言い忘れていましたが、


「親鸞会にいたら後生の一大事を解決できない」

と思っている人が多いので、そんなことはないですよと言いたかったのでしょう。


というのもあくまで私の想像でした。

投稿: ヘラクレス | 2015年7月11日 (土) 13時53分

嶋田様にご判断をお願いするつもりは一切ございません。
勿論私も判断できないので、ご本人が判断して、救われたのが本当なら電話して他力回向の信心を讚嘆して下さい、と書いただけです。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 13時57分

特定の宗教団体に在籍しておりながら、なんらかのより高度高次な宗教的なめざめを経験し、元いた宗教団体から無理なく、あるいは苦痛を経験しつつも離脱し、自分なりの人生を歩んでゆく……そういう人の例は皆無ではありません。くだんの御仁も、今のところ親鸞会におりながら、そうした意識に目覚め、そして今のところはひとえに高森先生のお蔭だと信じ込んでいる段階なのでしょう。阿弥陀さまのお手配により、彼(彼女)が親鸞会をあくまでも信心決定への縁であると看破してくださることを念じてやみません。

それにしても今はなき大石寺の正本堂(主に創価学会の寄進で建立)には「幸福製造機」が鎮座ましました。一方、親鸞会の正本堂には今のところ信心決定機が鎮座ましましていますが、悲しいことに、前者とは異なり、あくまでも人間であるがゆえに、信心決定機はいつかはその動きをやめねばなりません。そのあと彼を取り巻いて
   「ああっ、信心決定させてちょーだい!」
と念じている人々はどうなってしまわれるのでしょうか…。

投稿: 幸福製造機,信心決定機どちらも正本堂に… | 2015年7月11日 (土) 14時03分

問:どうして浄土往生のために善をしなければならないのですか。阿弥陀仏の19願は捨てるべきではないのですか。19願に入れとは善知識方は誰も仰られておりません。


答:阿弥陀仏とお釈迦様が十方衆生にお勧めになられています。
また、現在外道を信じている人、聖道門の修行をしている人、信心決定している人以外は、

みんな19願=要門・仮の門の中に入っています。既に19願の中に入っているので、「入れ」とは言われないのです。

以下に根拠を示します。


●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)


19願は「九十五種の邪道を出でて」仏道に入った人に説かれた教えであります。
外道は問題外。


●「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ、これを仮門となづけたり。」(一念多念証文)


総じていえば、仏教全体が要門。
別していえば弥陀の19願。

故に、浄土の要門⊃聖道門

となります。

弥陀の19願=弥陀の本願は「三世十方を貫く」教えであります。

「500年程度の在世正法の時機のためだけに説かれた聖道門」と
「19願」⊃「聖道門」になるのは当然であり、

「19願」=「要門・仮門」の中に入っている人に「入れ」とは言われません。

つまり、

今外道を信じている人、聖道門の修行をしている人、信心決定している人以外の人は、

みんな「19願」=「要門・仮門」の中にいる事になります。

親鸞会会員でまだ信心決定していない人や、親鸞会を退会した人も

「19願」=「要門・仮門」の中にいるのです。

そんな19願の中にいる人達に対してお釈迦様は、

●臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり(浄土和讚)

と善の実践をお勧めになられています。


>無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。なので私には関係ないです。


「定散諸機をすすめけり」を「定散諸機に勧められた」と理解するのは間違いでしょう。
「を」と「に」は違います。

「定散諸機を(選択の願海に)すすめけり」と拝読し、
「定散諸機を選択の願海に進められた」と理解するのが正しいと思います。

『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。

●「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」


この御和讃の
「釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」


「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」
(この要門・仮門より、諸々の衆生を進め(勧め)こしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教え勧め(進め)入れ給う)
に対応します。


釈尊が「定散二善」を説かれた相手は、「もろもろの衆生」すなわち「十方衆生」です。
「こしらえて」は、導いて、という意味で解説している本もありますが、作り上げる、という意味を含めればなお良いでしょう。


要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。
これが、「定散諸機をすすめけり」の意味です

投稿: ヘラクレス | 2015年7月11日 (土) 17時20分

なるほどこの内容を見ると 「講師部は 19願の入り口にも 入っとらん」という人は悪知識になりますね。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 17時54分

19願の中にいても、阿弥陀仏がお釈迦様がお勧めになられている善を実践せずに怠けていれば、
19願に入っていないのと同じではないですか。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 18時42分

>>19願の中にいても、阿弥陀仏がお釈迦様がお勧めになられている善を実践せずに怠けていれば、19願に入っていないのと同じではないですか。

→ 結局、その人は19願の人ですか?それとも19願でない人ですか?どちらですか?
どうしてもというなら19願に入っていても 善を怠けたら実質19願に入っていない人がいるとする聖教上の根拠を挙げて下さい。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 20時02分

講師部は 会長からの善のススメを無視して 善の実践を怠けている という解釈は理解しました。それでよいですね?

投稿: | 2015年7月11日 (土) 20時09分

19願の人です。
ですが、19願に入っていても阿弥陀仏に向かっての善の実践、五正行の実践、仏教の聴聞をしなければ、宿善が厚くならないので信心獲得の一念まで進みません。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 20時16分

>講師部は 19願の入り口にも 入っとらん」

何年前の話ですか?

私は講師部ではないので今はどうなのかは知りません。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 20時21分

>>何年前の話ですか?
私は講師部ではないので今はどうなのかは知りません。

→ 今がどうなのかは聴いていません。約8年前の講師部会合での会長の話です。あなたが講師部かどうかは関係ありません。知らないなら責任を持って会長もしくはその会合に参加した講師部員に確認して下さい。知りませんでは逃げられませんよ。回答がなければ まず講師部は会長の善のススメを無視する怠け者と判定させて頂きます。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 22時04分

>>19願の人です。
ですが、19願に入っていても阿弥陀仏に向かっての善の実践、五正行の実践、仏教の聴聞をしなければ、宿善が厚くならないので信心獲得の一念まで進みません。

→ これは親鸞会の教えです。19願の中に19願でない人がいるという聖教上の根拠を挙げて下さい。ただ廃版になった会報を含む会独自の文章、言葉は除きます。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 22時32分

ぜひ一度確認したく願っておりましたが…高森氏は弁当屋さんを創業するに際し、本当に
      「聞法には元気な身体が欠かせない」
もしくはそれに近い意味のことをのたまったのですか? だとすれば、この言葉自体が、高森氏が偽の真宗布教者であることを立派に裏書していると言わざるを得ません。この言葉を裏返せば、

    元気な身体を既に失っている人(いわゆる障がい者)や、
    元気な身体を維持したくとも経済的理由でそれも難しい人
       (無給の大多数の講師ら)

は弥陀の救いから漏れざるを得ない、と言っているにひとしいからです。なんとまぁ無慈悲な善知識サマでしょうか?
   これではまるで、「すべての人を救うメシアこそ私だ」と大見得を切っておきながら、身障者の入信を歓迎しなかった生前の文鮮明氏やその意を承けた統一協会大幹部らと同類と言わざるを得ません。

   そうそう、真生会病院にしても
      「『抜苦与楽』が当院のモットーです」
などと威勢のよいことを言っておきながら、かなり重大な医療ミス事件を起こしてしまっております。たといこの事件が発生せずとも、病院ごときに実践できるのはせいぜいが聖道の慈悲どまりでありましょう。

   上のほうで19願のことが取りざたされておりますが、精緻な教義論争に敬意を表しつつも、なんと申しましょうか、親鸞会の言葉の端々からおよそ真宗的でないものをもっともっと嗅ぎ当てて頂ければ幸甚に思います。

投稿: 高森氏は本当に「健康な身体で聞法を!」とのたまったのですか? | 2015年7月12日 (日) 22時00分

●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)


この後に、聖道門と浄土門の説明がありますよ。

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。


聖道門と浄土門は別で、浄土門の中に19願があるのだと。

つまり、聖道門と19願は別。

愚禿鈔にも

 聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。

 大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。

 頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。

 漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。

 小乗教について、二教あり。
一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、第四果・阿羅漢向、八輩なり。


とあります。

聖道門と19願とは別。

一念多念証文は

聖道門を19願に導くから、聖道門も19願にまとめて示されたにすぎない。


それよりアジャセが19願を通っていないことは理解できたのできないの?

アホすぎて涙がでてくるわ。

投稿: スリク | 2015年7月13日 (月) 00時47分

教行信証は、根本聖典だと高森センセから聞かなかったのかね。

教行信証の解釈を一念多念証文に当て嵌めるのであって、一念多念証文を根本にして教行信証を解釈できますか?
一念多念証文は、略して説明されているだけでしょうが、そんなことも分からないから、バカにされるのよ。

二双四重の教判くらい勉強してきたら如何。

投稿: スリク | 2015年7月13日 (月) 00時55分

正信偈の

「定散と逆悪とを矜哀して」を否定するのですか。

定散諸機と逆悪の機は別ということをどう説明するのですか?

投稿: スリク | 2015年7月13日 (月) 01時00分

まとめます。

「獲信のために絶対に善をしなければいけません。善ができなければ助かりません。」

「獲信のために絶対に善をしてはいけません。」

はともに間違いです。

ただ、獲信に向けて善をするメリットはあります。

①善因善果 自因自果 で自分に良い結果が来る。
②宿善が厚くなるので早く救われる。(どうせ反論が来そうですが。)

なので、阿弥陀仏、お釈迦様は善をお勧めになられています。

阿弥陀仏に救われたとき、今まで獲信に向けて行ってきた善はご方便だった
と知らされます。

●「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(19願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」(浄土和讚)


 雑行の説明ですが、ここで親鸞聖人が、「善とならぬはなかりけり」と仰っているのは、善が往生浄土の間に合うとか役に立つということでは、決してないということで、
 大人になれば間に合わない物でも、子供の時には必要なものがいくらでもあるだろうということです。


雑行捨てよ」の『御文章』を朝・晩拝読していても殆どが「雑行捨てよ」の意味を知らないから悲しいです。

「善をするな、する必要はないのだ」「善を勧めるのは教えに反する」と言う者までいる始末です。まさに仏教の破壊であり、これは僧俗ともに、全く「雑行」の何たるかを知らないのが原因であると言われています。
そもそも実践しなければ、「雑行」にすらなりません。

「雑行捨てよ」とは、最初から「善をしなくても良い」と言うことでは断じてないです。善を行うことが悪い筈がないではないですか。
では、「諸善」を「雑行」と嫌われ、捨てよと、なぜ言われるのでしょうか。


「雑行」とは、「悪い心で行う諸善」のことです。。だから「捨てよ」と言われるのは善ではなく、「悪い心」なのです。
「雑行捨てよ」は「悪い心を捨てよ」と仰っているのだが、その「悪い心」を知る人がいないのです。
「悪い心」とは、弥陀からは「五逆罪・法謗罪の屍」と見抜かれ、釈迦からは「曽無一善」「必堕無間」の極悪人と言われながら、「ふざけたこと言うな」「少し位は善ができるぞ」「真剣に聞けば、なんとかなれる、なってみせる」と、真っ向から弥陀に刃向かっているうぬぼれ心を言うのです。

 そのくせ「ひょっとしたら、助からんのではなかろうか」と不安になり「やらんよりは、やった方が増しだろう」と諸善をやっている心である。弥陀の本願を疑い、己のやった善を往生の足しにしようと思っている心です。

 この「本願疑う心」が最も悪い心だから、「その心」=「自力の心」を捨てよ、と言われているのです。

 この本願疑惑の心を「最も悪い心」と知らないから、「雑行捨てよ」を「善を捨てよ」と聞き誤って、善に向かわず悪を慎む心はさらになく、やりたい放題言いたい放題、心にまかせて悪因を撒き散らしているから、因果の道理に狂いはなく善果は来ないし悪果ばかりがやって来て、この世も地獄、死んでも地獄、闇より闇に入り、苦より苦に入ることになるのです。

五雑行に関しては行い自体もやってはいけません。

「諸行往生ではないか」と非難する声があるらしいですが、諸行往生とはどういうことか、分かってのことなのでしょうか。

 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いです。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからです。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されています。

●「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)


●雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。(教行信証化土巻)

雑行とは、正行以外の行で、「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」ということですから、19願ともいえますが、善をやらなくていいということではありません。

「いやいや、最初から善をするなってことだろ」という人が現れそうですが、善を実践しなければ「雑行」と名付けられることもありませんし、良い結果もきませんし、まことの善のできない私であったと知らされることもありません。捨てるのは心掛けである「自力の心」なのです。

投稿: ヘラクレス | 2015年7月13日 (月) 03時58分

それでアジャセが三願転入した証拠でも見つかった?


>ただ、獲信に向けて善をするメリットはあります。

>①善因善果 自因自果 で自分に良い結果が来る。
>②宿善が厚くなるので早く救われる。(どうせ反論が来そうですが。)

>なので、阿弥陀仏、お釈迦様は善をお勧めになられています。


①について
罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる
      (正像末和讃)


罪福の因果の道理を信じる心が仏智疑う心、本願を疑う心

ヘラクレスさんの言う

>この「本願疑う心」が最も悪い心だから、「その心」=「自力の心」を捨てよ、と言われているのです。

この「罪福の因果の道理を信じる心」が最も悪い心だから、「罪福の因果の道理を信じる心」=「自力の心」を捨てよ、と言われているのです。

もちろん、阿弥陀仏に救われようと思っての「罪福の因果の道理を信じる心」ですよ。これを高森顕徹センセは教えている。

だから親鸞会で教える「罪福の因果の道理を信じる心」は、デメリットにしかならない。

②は、法然上人のお言葉

彌陀は、惡業深重の者を來迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名號となふるものの往生するそと信しおほしめすへく候。
              (和語灯録)


宿善が厚い薄い関係なく救われる。

釈尊は

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。(阿弥陀経)

これを祖師は

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。(化土巻)

と善根を釈尊は嫌われていると仰ってますよ。

雑行を捨てよとは

すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。
           (御文章3錠帖目11通)

信前信後を問わず、国の法律と倫理道徳の善に心がけ、後生のためには雑行を捨てよ

つまり、親鸞会の勧める善は雑行だから捨てよ、親鸞会が仏法のためには犠牲にしてもよいと言っている法律と倫理道徳の善には努めなさい、ということで、真宗でいる善の勧めは、親鸞会とはまるで反対のこと。

「いやいや、最初から親鸞会の勧める善をするなってこと」
捨てるのは親鸞会で勧める善である「財施・法施」なのです。

投稿: スリク | 2015年7月13日 (月) 05時47分

親鸞会の善のススメは 六道輪廻のススメ

五劫の思惟も、兆載永劫の修行も私達の後生の一大事の解決のために私達にかわりすべて法蔵菩薩がなさってくださった。

私達が後生の一大事の解決のために もし善をしなければならないのなら 法蔵菩薩は既に私達のかわりにその修行を終えられている。法蔵菩薩は 私達を救える南無阿弥陀仏が完成していないのに 阿弥陀仏になられることは絶対にない。阿弥陀様が私達の心を見落としますか?

要するに 会の善のススメは 法蔵菩薩の修行だけでは足りないと 法蔵菩薩を見下し 阿弥陀様の救い、願行具足の南無阿弥陀仏への疑いをススメる教えである。これを疑情という。

還来生死輪転家 決以疑情為所止 と正信偈にあるように 六道輪廻の原因である疑情。

わかりやすく言えば 会の「すべての人は後生の一大事の解決のために善をしなければならない」という教えは 「この世は苦しみながら死になさい。来世も苦しみながら死になさい。永遠に苦しみながら死になさい」という六道輪廻のススメである。
会長は「講師部は19願の入り口にも入っていない」と言いながら 願行具足の南無阿弥陀仏を否定する自らは浄土真宗の入り口に入っていないことに 未だ気づいていない。いつまで群賊悪獣の悪魔の法を説き続けるのか。

会員さんへ
後生の一大事の解決のための善は不要ですがそれ以外の善は是非ともよろしくお願いします。決して悪魔の教えのために嘘はつかずに堂々と振る舞ってください。阿弥陀様の救いは完璧です。

投稿: | 2015年7月13日 (月) 20時47分

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                           (『教行信証』化身土巻・本

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道も聖道門を信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのですよ。

投稿: | 2015年7月28日 (火) 09時50分

問い

親鸞聖人は、「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)と仰っています。釈尊は『観無量寿経』を通して、獲信のために諸善を全ての人に勧められている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。


答え

しっかり読んでください。「定散諸機をすすめけり」です。定散諸機に対して諸善を勧められた、と仰っているのですが、何を勘違いしているのですか。何度も言ってきたように、逆悪の機に対する定散諸機です。
法然上人の「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て」(勅修御伝)、存覚上人の「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と同じことを親鸞聖人が仰った根拠です。

問い

「定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。


答え
同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

問い

19願に「十方衆生」と誓われているのだから、善が阿弥陀仏の救いと関係がない筈がないでしょう。


答え

「十方衆生」とあるからすべての人に関係がある、という単純思考でしょうが、「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。
あなたの理屈なら、聖道門もすべての人に関係がある筈です。まずは聖道門からはじめるべきですね。

問い

釈尊が仰った「十方衆生」の話ではなく、本師本仏の阿弥陀仏が仰った「十方衆生」の話をしているのです。阿弥陀仏が19願で全ての人と誓われたのが、間違いだというのですか。


答え

間違いです。親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」について「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられました。18願には「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」なんだと。つまり「唯除五逆誹謗正法」のない19願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではないということです。

問い

親鸞聖人は、19願の「十方衆生」に漏れている者がいるとまでは仰っていないではないですか。


答え

前にも紹介しました「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)に、「臨終現前の願」の対機は「定散諸機」と仰ってますよ。「逆悪の機」は漏れていますが。

投稿: わざわざ別の所でコメントする愚か者へ | 2015年7月28日 (火) 10時58分

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