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親鸞会という人生の1ページ

先日、久しぶりに親鸞会に居た頃の夢を見ました。高森会長と話をしている夢でした。

私は講師部員でしたが、高森会長と直接に話をしたことは数えるほどしかありません。一講師部の忘年会で同じテーブルになったときに一回、高森会長の随行(私はなぜか二回随行をしました)していた時に数回、パソコンの設定などを電話で聞かれたことが数回。

そして、最後に話をしたのが、退部する時です。正本堂の会長控室の前で、確か一分にも満たないくらい、ほんとうに短い話をしたのでした。内容はよく覚えていませんが、「お世話になりました」という私に対して、「やめるのか?」「はい」「そうか、わかった、別の立場で頑張りなさい」といったようなことでした。

私はなんだかんだ言って親鸞会に8年間ご飯を食べさせてもらったわけで、騙されたと知ってやめた時にもその事自体に対する感謝の気持ちはありましたし、長年世話になった人と袂を分かつ悲しみもありました。そんなに簡単に割り切れることではなかったですから。

ただその時驚いたのが、高森会長もまた、目から少し涙を出していて、本当に残念そうな顔をしていた、ということです。目薬でもさしていたのかもしれませんが。後になって見れば私は忘恩の輩と言われ親鸞会全体から罵られた身ですが、その時は私がそんな道をたどるとは思っても見なかったのでしょう。

今でもふと、あの時の寂しそうで残念そうな顔を思い出します。高森会長が本心でどう思っていたかはわかりませんが、少なくとも当時の自分にはそう見えたということです。

そして私は親鸞会と静かに別れて第二の人生を歩むつもりでしたが、その思いを変えたのは「2ちゃんねるに親鸞会を誹謗する書き込みをした」という訳の分からない理由でなされた除名と、それが全会員に発表されたことでした。静かにさらせて欲しかったのに、なんの根拠もない疑惑のために人の人生を無茶苦茶にする親鸞会に激しい怒りを感じました。その後はずっと戦ってきました。いろいろひどい目にあいました。

なんでこんなことを書くのかというと、「キャンパスカルト回想録」という80年台の親鸞会学生部の体験記を書いて下さった方が、「親鸞会にいたあの1年あまりの時間は、偶然に与えられた大切な人生の1ページだったという思いを強くしました。自分の足跡を、自分で大切に思えるということはとても有り難いことだと思います。」とコメントに書いてくださったのを読んですこし考えたくなったのです。

以前の自分なら、たかだか一年くらいの活動で、しかも今は十分に恵まれた人生を送っている人だから、そうも言えるんだろうなんて、かなり冷めた見方をしたように思います。しかし今は違います。自分より10年以上前の親鸞会を経験した人生の先輩がそう書き残してくださったことを、素直に喜ぶ自分が居ます。

親鸞聖人が「王舎城の悲劇」の登場人物を次々とあげられ、かの悪逆の提婆達多も含めてみな、「逆悪もらさぬ誓願に方便引入せしめけり」と和讃に記しておられるように、親鸞会もまた阿弥陀さまのご方便のはたらきの中の出来事であるとの思いを強くします。それは、私が今いる真宗大谷派もそうですし、縁の深い本願寺派もそうですし、

親鸞会で支えてくれた人、脱会後に掌返すように罵った人(私も散々親鸞会を批判したので、おあいこですが)、脱会後に支えてくれた人、高森会長、当時の講師部の友達、会員でお世話になった人、みんなそうです。

腹を立てたり感謝したり、自分の都合の良し悪しであれこれ思ったりしますが、やはりみんなご方便という思いは変わることはありません。

そう思うと、あの時寂しそうな表情をしていた高森会長もまた、孤独に生きるただ一人の人間にすぎないわけで、今は何も特別な人には思えません。あえていえば、私と同じように、迷いの中で本願に導かれているのです。

かっこいいことばかり書いてしまいましたが、今も親鸞会や高森会長に対する恨み憎しみは消えませんし、自分の都合のいいように教義を解釈して、自浄能力もなく、改める気配も全くないのには絶望します。顕正新聞を読むたびにため息が溢れます。未だに人生狂わされている人が大勢いるのも事実です。これからも私はずっと親鸞会を批判し続けるでしょう。

それでも、私にとっても親鸞会は、お念仏との出遇いの中の大事な1ページであったという思いを否定する事はできません。そういうのはなんか嫌だと思っていましたが、今はその思いも肯定できるようになってきました。

とはいっても、親鸞会の中にいたらこんな思いになることはなかったでしょう。

親鸞会の中にいると、本願がはたらいているのは親鸞会の中だけのように思ってしまいます。理屈や教義では中にいる人であっても違うと言うかもしれませんが、実感としてはそうではないですか?でもこれは親鸞会だけではなく、伝統教団の中にあっても陥りやすい錯覚なんですけどね。教団に真実が付随するように思ってしまうのです。

それは完璧な思い違いですから。

私はこれからもずっと言い続けます。「親鸞会はやめても心配ない、大丈夫ですから」と。それは本願寺派とか大谷派があって正しいから大丈夫と言っているのでは決してなく、阿弥陀さまが心配ないと仰ってくださっているから大丈夫なのです。

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