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寄稿:ビデオダビング「死刑」の背景

寄稿がありましたので掲載します。
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元講師部のものです。同じ時期に講師部を退部した親愛なる元先輩講師の方から手紙をいただきました。本人の承諾をいただきましたので、紹介させていただきます。(一部を抜粋しました)

(以下引用)
 久しぶりです。T会長のデタラメ狭義に今だにダマされ続けている、講師部、会員さんが哀れです。昨年出した、「なぜ生きる2」にもいかにも信心、教義がお粗末かが出ています。
P182に「仏願の生起本末の本は18願、末は19願、20願」と書いてある。
(途中略)
 18願成就 文、仏願生起本末を聞く以外救われることはないのに、T会長はこれが分っていない。決定的な問題であり、親鸞会は邪宗になります。
(途中略)
 T会長は、「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず仏の仇なり」とさんざん言いながら、責められる立場になると逃げまわりダンマリをする。こんな程度の人なのだ。
 T会長の若いころをよく知る方によると「T君は大学で仏教学をやっていたが真宗学が分っていない。真宗の深いところが分っていない」としみじみ言われていた。
 大沼氏や伊藤氏の本をパクリ、さも大学者のように見せかけ、信仰のことは「信心決定しなければわからん」「体験したら仏智全領でわかる」と、自分しかわからん、善智識は オレ一人だと50数年人をだまし続けてきたペテン師だ、サギ師だ。
 だから、何度もT会長に教義を指摘しても未だ親鸞会からも講師部からも何一つ言ってこない。
 
 南阿弥陀仏を御本尊にしながら一番分っていないのはT会長だ。口先だけの男だよ。学生時代に、本願寺当局より呼び出されてついに布教使資格を失ったのは門徒の人のテープレコーダー証言だった。
だから今でも自分の説教が録音されて分析されて批判されるのを怖れ、ビデオダビングを「死刑」録音も厳禁にするのはこの経験からだ。
 仏願の生起本末の本が18願、19願、20願は末と聞いて、教学を少しやっている講師ならオカシイと気付いて異論をいうべきだが、T会長がオ カシイとなれば自分のこれまでの人生全部が無駄事になる。未来も見えず、どう生きるかさえ分らぬ怖ろしい、だから目をつむる。
盲信、マインドコントロールを受け入れる。オウムと同じ組織感覚だよ。
(以下省略)

以上ですが、心に響いたので紹介させていただきました。
この手紙の内容を読まれてどう判断されるかは個々人の自由ですが、かつて友人たちに心をこめてメッセージを送りたいと思いました。

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「信心決定」という権威

一日に複数の記事を投稿するなんて久しぶりですね。

皆さんにはおなじみかと思います。親鸞会を脱会した人(したい人)へ、というブログに以下の記事が上がっていました。
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/06/25/171710

K講師が台湾で念仏誹謗と信心詐称を行っていたという話です。私思い出しますのが、K講師が台湾担当を解任された時に、真っ青な顔をしてとある会議室の前で待っていたり、ご迷惑をかけましたと幹部講師に頭を下げていた姿です。あの時はいろいろな噂が流れましたが、ここに書かれていることと繋がっていないこともないのでしょう。そして、台湾からは毎年大勢の参詣者が富山に来ていましたが、この時期ずいぶんとその数を減らしました。

親鸞会では信心詐称というのは日常的に行われていたように思います。ただそれは新人に対してであって、勧誘されて間もない人は「信心決定した」という人がいないと心配になってしまいますから、学友部ではよく「三年生以上は信心決定したことにする」といった指示が出ていました。最もこれは関東学友部では1997年までの話で、翌年からはやめたと思います。今はどうなっているのか知りません。

不思議なことに、入るときは「信心決定している人がたくさんいる」という触れ込みで人を惹きつけておいて、しばらく親鸞会にいると、逆に「信心決定は難しくてめったにしている人はいない」という話になってきます。信心決定できないというのは「当たり前なのだ」と思わせると同時に、唯一の公式「信心決定者」である高森会長の権威付けのためと思われます。

かつての親鸞会は「信心決定した」という人が大勢いて、ご法話の休憩時間になるとその人の周りに人だかりができ、信心決定の「体験談」を聞いたといいます。それを快く思わなかったのが高森会長です。そうして、信心決定した人は今は殆どがやめてしまいました。私が講師部であった時の上司で1人「信心決定した」という人がいましたけど、その人はそのことを自分から話すことは決してありませんでした。

とにかく、信心決定した人から話を聞かないと信心決定できないというのが親鸞会における「暗黙の了解」であったと思います。なんだか聖道門の「悟り」みたいな話です。そしてそれは常に高森会長1人に限定されていました。もちろんそれ以外に全くいないというわけではありませんでしたし、滋賀県を担当していた時は、この人はホンモノだなぁと思った会員さんも何人かいましたけど。

そんなことを、徒然思い出していました。

こんな中で何年も求めてゆくものですから、親鸞会を脱会した少なくない人が(もちろん私も)、やめたあとも「信心決定した人」を追いかけてゆくのです。親鸞会を脱会した元講師の方でも「信心決定した」と言う人があって、そういう人たちを中心としたいくつかのグループも出来ました。これは良し悪しを言っているのではなく、私が当時感じた正直な気持ちです。そこでは信心決定というのは何かのライセンスみたいに思えました。

私自身は伝統教団の中に身を投じましたが、そこでは不思議なほど、信心決定したひとか、まだのひとか、ということは話題にもなりませんでした。私はお説教を聞いてあの人はしたのだろうか、まだなのだろうか、なんてことを思ったりしたものです。どうせ聞くなら「信心決定した人」から話を聞きたいと思いました。

今思うと、そういう心が阿弥陀さまを泣かせていたのだと思います。

親鸞会では、信心決定というのは権威でした。人を信心決定に導くライセンスでした。そういう話し方ばかりしていたから、信心詐称などという行為が生まれてきます。

でも私は、そうしてしまった気持ちも分からなくもないし、K講師はひょっとしてそのことで苦しんでいたのではないかな、という思いもあります。

信心決定は権威でもないしライセンスでもないということを、いつか気づいてもらえれば、と思っています。

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やや日刊カルト新聞:親鸞会の偽装勧誘の記事について

やや日刊カルト新聞に以下の記事が掲載されていました。
http://dailycult.blogspot.jp/2014/06/blog-post_23.html

親鸞会の元講師である宮田さんのブログでは、親鸞会は一般対象の勧誘では偽装を行わなかったとありましたが、私は一般の支部を担当していた時もこのような「親鸞会」であると隠した行事を見てきましたし、自分もやって来ました。

もっとも、私は後半は滋賀や富山といった、親鸞会という団体の知名度が比較的高いところが担当だったので、隠してやっていたのだろうと思います。東北では親鸞会と隠していませんでしたし、隠す必要もありませんでした。

このことからも、親鸞会が言う「団体名を隠すのは宗教偏見があるから」というのは嘘で、単に自分たちの団体の評判が悪いところでは隠してきたというだけのことではないかと思いました。

さて、動画を見て私が思ったのは、親鸞会の行事や法話というのはますますマニュアル化されてきたのだなということです。ビデオやアニメを組み合わせて、講師が合間合間に丸暗記した「法話」を話せばいいだけになっています。

これでは伝わらないだろうなと思いますし、講師部員自身も成長はないのではないでしょうか。それでも、最近親鸞会の講座に行った方々の話を聞くと、わかりやすくて良かったという評価を聞きます。不思議なことです。

そして、富山からの中継で高森会長の顔が殆ど映らないというのも気になりました。その事自体は別の人から聞いたことはあったのですけど、実際にこのように報道されると不思議な気持ちになります。私が視聴覚担当でカメラの操作を指定た時には、高森会長の顔ばかり撮っていましたから。何が変わったのでしょうか。

他にもいろいろと思うところはありますが、まとまりません。

※追記

そういえば、動画の中で「お布施は仏法を聞いたお礼」という言い方をしていました。これも私がいた時は、「ご法礼は仏法を聞いたお礼」と言っていたと思います。お布施では意味合いが違うし、このあたりの言い方は私のいた時は結構厳しかったように思えます。

まあ、よくわかりません。もうやめて10年近く経ちますから。

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