« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

私の先生

今、富山のある大谷派のお寺でずっと法話をさせて頂いています。親鸞会が発足する半年前に「親鸞講」という御講が立ち上がり、以来半世紀以上にわたって毎日のように法話がなされているお寺です。こういうところは昔は北陸では多かったそうですが、今は末寺ではここくらいかもしれません。

お寺の方と話をしていると、以前は高森会長もここで説法をしていたそうです。本堂の障子をはずさないと入れないほどのお参りがあったとか。高森会長が本願寺派の僧籍を失った経緯も知っていて、しばらくは応援しようという気持ちでいたということも聞きました。そういう話はここだけでなく、何件か聴いたことがあります。本願寺派では高森会長が呼べないことになっても、大谷派ではしばらく呼ぶ寺もあったのでしょう。

親鸞会が立ち上がる前、今から半世紀以上前になりますが、高森会長が人気のある布教使で、門徒さんだけでなく東西本願寺の少なくない僧侶にも人気があったというのは、多分本当のことなのでしょう。休憩時間には控室にお年寄りが来られて、私が親鸞会の出身者と知ってか、高森会長のことを懐かしく語っていました。

その頃の高森会長は龍谷大学を出たばかりですから、教義的にも今ほどは変なことは言っていなかったのかもしれません。おそらくかなり一念覚知的な話をしていたと思われますが、そういう話をする布教使もこの時代では珍しくなかったと聞くこともあります。

そう思うと、なんでこんなになってしまったのかと思います。親鸞会は、東西本願寺(特に本願寺派)を敵視、あるいはライバル視することで成長してきた教団です。もちろん規模から言うと本願寺派とは比較にならないくらいに小さな教団ですが、本願寺を徹底的に批判することで、本願寺に飽きたらない人に対して一定の存在感を示してきたのは確かなことです。そして教義安心と組織面の両面で高森会長を絶対者と位置づけることで、強力なトップダウンによる教団運営をしてきました。

しかしその戦略をとってしまったおかげで、高森会長自身が聴聞することができなくなってしまいました。私は高森会長の学友と言われる人と話をしたことがありますが、以前は高森会長は熱心に聴聞に行き、その感想を一晩でも語る人だったそうです。しかし親鸞会発足以降は殆ど自分以外の人の法話を聞くことはなかったでしょうし、「先生」といえる人もいなかったでしょう。以前に自分が師事をした大沼法竜はその関係を隠し、かつて所属していた華光会は敵視するに至っています。自分以外の教義的な権威を認めることは全く出来なかった人でした。

高森会長にとって一番不幸だったことは、特に四十代以降、自分の先生を持ち得なかったことだと切に思います。そして聴聞をしなかったことです。する気がなかったのか、したくても出来なかったのかはわかりませんが、仏法を聞かずに仏法の話をすれば限りなく曲がってゆきます。自分以外の権威を認めなくした教団の王様だった以上は、誰の話も聞けるわけがないし、高森会長をおかしいと指摘する人がいても、除名にするしかないでしょう。

つい先日、本願寺派の勧学である梯實圓和上が亡くなられました。私の周囲では、和上のお育てを頂いた人たちが次から次へとその思い出を語っています。

先生がいるというのは幸せなことです。誤った師匠につくくらいなら先生がいないほうがいいのかもしれませんが、それでも先生がいないというのはとても不幸です。先生を隠さなければならないのは不幸なだけでなく更に悲しいことです。親鸞会の会員は高森会長から浄土真宗を学んだというのかもしれませんが、高森会長は自身は全くそれが出来ない人でした。学んだことも、学んだ経緯も、学んだ人も、何もかも隠したり否定せざるを得ない人生を送った人です。

私はこの先生について学びましたと高森会長が言えるような人ならば、親鸞会ももう少しまともな教団として、ひょっとしたら浄土真宗の歴史にそれなりのインパクトを与えていたかもしれません。もう私は高森会長から仏法を聞くことはありませんが、紛れも無く最初に仏法の話を聞いたのは高森会長からでした。今思うととんでもない人に師事したものだと想いますが、その事実は隠すつもりも消すつもりもありません。

今となっては全くの夢物語ですが、かつて多くの寺の法座を満堂にした一人の布教使の晩年を想い、こんなことを書いてみました。これから親鸞会の将来を担う人は、高森会長のようにはならないでください。

| | コメント (224)

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »