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信心を獲たらハッキリするのか

親鸞会では信心を頂いたらハッキリするものだと教わってきたと思います。ところが親鸞会をやめて東西本願寺などで話を聞くようになると、この問題についてはいろいろな見解があること、またそもそもこの問題自体があまり論じられない事に気付かれると思います。

私も、ずいぶん長いこと、どうして本願寺の学者の先生にこのことを質問しても、「ハッキリした」解答が帰ってこないのかなぁと思っていました。

これについては大きく3つにスタンスがわかれると思います。すなわち、

1.信心をいただいてもハッキリしない場合がある
2.信心をいただいたらハッキリする
3.論じない

この「ハッキリ」ということについても、初起一念(つまり信心をいただいた一念)かその後かという議論もあるのですけど、今は話が難しくなるのでやめておきます。詳しく知りたい人は「歓喜初後」で検索して調べてみてください。

さて、1.の場合ですが、ハッキリしなくてもいいという人には二通りあると思います。すなわち、「ご信心のことをとても良くわかっているがゆえにこう言っている」場合と、「自分がハッキリしていないからハッキリしなくてもいいんだ」という、自分が自分の心を見て信心とはこんなものだと思っている人です。

前者の理由は後述しますが、後者については私は「居直り信心」と思っています。あてにならない自分の心をもって、あてにならない自分の心の有り様を見て「これでいいんだ」とあてにして居直っているわけです。ハッキリしないでいいと言われるとこういうところに落ち着きがちなのは確かです。もちろんこれは浄土真宗の他力の信心とは異なるものです。

それでは2.はどうでしょうか。ハッキリという言葉を使わないまでも、「めざめ」とか「自覚」という言葉で信心を表現する人は東西本願寺にも多くいます。この言い方の問題は、「ハッキリ」という言葉にとらわれて、「ハッキリしたのが信心」と勘違いしてしまうことです。

親鸞会のように、信心が頂いたらハッキリして喜べなければならないと言ってしまうと、私の心がはっきりしていないから、喜べてないから信心いただけてないのだと思ってしまいます。そして、間違いのない「何か」をいただいてハッキリスッキリして、歓喜の心に満たされるのがすなわち信心だと思ってしまうのです。

あてにならない私の心をもって、あてにならない私の心に往生の根拠を求めているわけで、自分の目で直接に自分の目は見れないように、これはどれだけ突き詰めても不可能なことです。言葉を変えれば、自分が勝手に想像している「信心決定のすがた」と自分の今を比較して判断しているのですが、あてにならないものどおしを擦り合わせてもいつまでも一致することなどありません。

浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏が私を救ってくださるという事実を聞いて、それに疑いのないことです。それ以外には何もありません。

蓮如上人が言われるように、つまりは往生が定まるという証拠は南無阿弥陀仏にあるのであって、私の心にはありません。ハッキリか否かにやたらにこだわるのは、往生の証拠を南無阿弥陀仏に見ていないのだと私は思います。

もちろん大事なことですからその問いはしっかりと心に持っていていいと思うのですが、「ハッキリする」という親鸞会風の結論を持ちだして、それに合わない意見を切りまくる余裕があるのだったら、答えや結論ばかりを先にしないで、本当はどうなのだろうとしっかり自分の中で考えて聖教を読んでみたらいかがでしょうか。

あと、以前は高森会長から信心決定体験を「火だるまになって地獄に落ちる」「大宇宙の真理と一体となる」などと聞いたことがある人もいるかもしれません。

自分以外の人による「体験」が正確にどんなものかは知るよしもありませんが、こういうのは「変性意識体験」といって別に珍しくもない宗教体験であるということを最後に付け加えておきます。

オウムの信者が長いこと麻原の影響から抜けられなかったのは、こうした「体験」をしてしまったからだと言われています。宗教体験を相対化するのは難しいことなのです。高森会長がそのことにどこまで気づいているかは、わかりませんけど。

追記 高森氏の信一念の体験談ーーーーーーーーー
 高森先生は静かにお答えになった。
「信一念の時の、回りの世界の見え方は、世界が破壊せられる感じです。その一念の時、世界は一心に収まる。自もなく他もなく、全くの個になる。そしてそれがそのまま地獄に堕ちるのです」
 彼が、
「世界全てが自分の心になって、それ全体が地獄に堕ちる、ということですか」
と尋ねると、
「そうです。それがいつも私が火だるまになって、地獄に堕ちる、などと表現している体験です」

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コメント

仏教で「めざめ」とか「自覚」とか言う場合はそもそも「仏陀」のことですから、安心についてこういう言い回しをしてしまうと、確かに「ハッキリ~」というふうな誤解を招きます。また最近は伝統教団内でも「念仏者としてのめざめ(自覚)」などと軽々しく(?)言われる現実もあり、なかなか根の深い問題です。

お聖教では「信知」という言葉をつかっておられますから、それに倣うのがよろしいかと思います。

いずれにしても帰順勅命(帰順教命)ということによくよく思いを致し、念仏申すのが肝要でしょう。

投稿: | 2014年2月 4日 (火) 18時07分

「信心を獲る」とは阿弥陀仏という超自然的存在及び阿弥陀仏が助けてくれることに疑いがなくなった知覚状態やね。
「疑いがなくなった」というのは「疑わないように積極的に信じよう」ということとは違う。それではまだ自力の計らいや。
たとえ自分が無で無意識であっても、阿弥陀仏の存在と救いが客観的に存在することへの知覚やろう。

何のこっちゃ?って?

アインシュタインとインドの詩人タゴールの有名な対話で(人間の)意識とは無関係にこの世界(宇宙や地球)が存在するか、という論争があってな。
タゴールは「意識の中にしか月(=世界)は存在ない」と主張し、アインシュタインは「意識とは無関係に月(=世界)が客観性が存在する」と主張した。

たしかに太陽や月、地球などは人間が意識しなくとも存在しているように思える。しかしこれらの存在を認識できるのは人間みたいな意識主体だけや。もしこの宇宙に人間みたいな意識主体が全くいなかったら、太陽や月、地球などは「存在する」と言えるのか?

これは難しい問題でわてにはわからん。

でもな、真宗での「他力の」信心ちゅうのはアインシュタインの言うてるようなことやと思う。阿弥陀仏が存在して、救うてくれるのが自分の意識とは無関係に知覚できるような状態やな。

真宗の信心獲心を「火だるまになって、地獄に堕ちる」と高森が表現してるが、そんなにハッキリわかるなら他力の信心を獲たとは言えんな。
あんまりにもハッキリしすぎやで(笑)

投稿: K(49) | 2014年2月 5日 (水) 01時36分

それはそうと、肝心要の高森会長先生の信心は信後ですか信前ですか。詳しく説明可能な方は解説をお願いします。迷える講師達の為に。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 18時35分

15、6年前でしたか、『別冊宝島』で親鸞会が取り上げられた際には、会長の信心決定の瞬間は火を見るように鮮やかだった、とされております。だから実際にはどうあれ、会員向けには信心決定の人とされているんでしょう。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 18時42分

会長が信心決定の人かどうかなんて、本人と如来様以外は誰もわからないよ。
ただ、彼の言動を見ていると、おそらく信心について致命的な勘違いをしているように思う。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 19時27分

麻原が傍らにいた愛人の石井久子に「なあケイマ、俺は最終解脱したよなあ?」と尋ねていたのを思い出した。これを見て「こいつは最終解脱していない。宗教詐欺師だ。」と気づいてオウムをやめた人がいましたっけ。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 19時33分

この問題については、本願寺も悪いと思います。覚如上人の創作した「信行両座のじょう論」や「体失不体失往生のじょう論」をあたかも事実として御聖教にのせてあるのですから。この二つのお話に関しては、あくまで覚如上人の創作であり、ひらたく言えば嘘です。本願寺の立場では、覚如上人は礎を築いた方なので、否定しづらいのでしょうが、誰であろうと嘘は嘘です。御聖教からは、この二つのお話は外すべきです。「信心同異のじょう論」も嘆異抄とは微妙に違いますし。覚如上人はちょっと人格に問題ある方かなと思います。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 19時43分

ぶっちゃけ、三大じょう論は本願寺派でも大谷派でも学ぶことはまずない。
親鸞会だけだよ。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 20時07分

昭和51年に出た毎日新聞社取材班の『宗教を現代に問う』第一巻165頁以下で、親鸞会が取り上げられております。

そののっけから、「(1975年/昭和50年)6月25日、阿弥陀さまに会えました。高森先生のおかげです。もう死んでよし、生きてよしの気持ちです。これからは法を広めるのみです」うんぬんと信仰告白する若者が登場します。この人はその後、専任講師になった(なれた)のでしょうか? それとも高森氏の不興を買い、なんのかんの理由をつけて追放されたのでしょうか?

発言内容からして、明らかに一会員による事実上の信心決定宣言のように見受けられますが、どんなものでしょうか。

投稿: この信心決定宣言の主は? | 2014年2月 5日 (水) 21時42分

高森会長は「この宿善論争は龍華の御代まで続くのだ」と言ってましたが、もう今は一切の論争を止めてしまってますね。会長自身の一代さえも続かなかった。これってどゆこと?

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 21時42分

あ~今知ったけどあれじょう論の話創作だったんだ?
親鸞聖人がそんな無粋なことするのかどうも疑わしくおもえる部分があった。
親鸞会で聞いたウソ話も全部違う気がするとおもってたし
流石俺、仏法に対する感覚は正確だわ ワハハ

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 21時57分

本願寺を攻撃するのは心理学でいわれる承認欲求のため
自分の中に確信の持てるものがないので他者と戦って勝つことで他者の承認を得ようとする
子供が喧嘩をして親分子分をはっきりさせようとするあれ
つまり高森は救いを得てないからそのような行動に出る

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 22時05分

>覚如上人はちょっと人格に問題ある方かなと思います。

これは少し言いすぎでしょう。覚如上人のご著述については、上人御在世の本願寺(というか大谷廟堂)を取り巻く状況をよく考える必要があります。東国の門弟方や仏光寺の方々、あるいは浄土異流と言われる方々などとの関係、廟堂の寺院化や留守職の継承、血脈相承についてなど、さまざまです。

ただ所謂「本願寺史観」というものについては検討する余地はあるかと思われます。

投稿: | 2014年2月 5日 (水) 22時59分


投稿: ジエン | 2014年2月 6日 (木) 22時58分

高森会長の歴史は親鸞会の歴史。
訂正。
高森会長の歴史は金集めの歴史。
金集めとは人集め。宿善の名の元に金集め。
もういいよ高森会長。

投稿: | 2014年2月 7日 (金) 00時20分

金集めでない。
学生は常識の範囲内。って聞いた。
しかし、世間の常識、親鸞会常識はちがいすぎ。

投稿: | 2014年2月 7日 (金) 12時13分

親鸞会のおかしな点

会長の話 全国からくる。話するだけでお金が入る。
息子さん 地方でも結集になるからそれなりのお金が入る。しかも給料あり。
支部長 地方でも、お金はすずめの涙。

こんな格差なら講師になる必要ないだろう。

投稿: | 2014年2月 7日 (金) 12時38分

カルト新興宗教の特徴はコモンセンスからみると完全に感覚がずれまくってしまっていることです。

投稿: | 2014年2月 7日 (金) 21時12分

学院で修行。
時間・金銭・約束
おかしな所
時間守る。当たり前だけど死ぬほどクタクタになり、次の日に朝早く集合。
金銭
節約なり金銭管理だが、一番大事なのは会費収入や資産、経費がどれだけかかったかだよね。

投稿: | 2014年2月 7日 (金) 22時24分

親鸞会教義は全部間違っていると認識した上で、まっさらな状態から仏法を学び直さないと、真実の仏法の意味は解らないよね。

投稿: | 2014年2月 8日 (土) 13時46分

昨日(2月8日)たまたま『朝日新聞』夕刊にて1万年堂の全面広告を見かけました。ただの全面広告ではなくきれいなカラー広告でした。あれって広告料いくらぐらいでしょうか? 1000万円ぐらい? もっと安いのかな。いずれにしても元はといえば、会員から徴収した「御報謝」から出てるんですよね?

投稿: 広告料どれぐらいでしょう | 2014年2月 9日 (日) 02時11分

もちろん。ご報謝。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 08時35分

1000マンもしない。数百マンでしょ。
最近はネット社会だからね。地方新聞でも100マンしないから。
親鸞会はそういった収支報告がないからまったくわかりません。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 10時38分

朝日新聞の朝刊全面広告で1000万円。
夕刊なら、半分以下でしょう。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 10時51分

経費の無駄。
新聞広告はたまにのせるから意味があり、何でもかんでものせても意味がありません。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 12時08分

広告とはいえメディアへの露出が増えて繰り返し見せられると心理的なハードルが下がるし、何か良いもののように見えてくる。そこを狙っているのだろう。広告費が何億円掛かろうと会員からむしり取った金銭だから高森の懐は傷まない。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 12時34分

http://tiyu.to/permalink.cgi?file=news/03_11_28

ネットアイドル「ちゆ」さんのサイトは、井狩春男氏と親鸞会との縁故について、この「さよなら」以外では最も詳細に論じてくださっております。この画面の得難い点は、会員向け『光に向かって』の表紙写真をも掲げている点にございましょう。

  さてこの「光に向かって」というフレーズですが、ひょとして高森氏が外道の経典として痛罵してやまぬ『聖書』に淵源するものではないでしょうか?こんなことを申しますのも、「ちゆ」さんによれば、会員向け『光に向かって』のキャッチフレーズは「光に向かって進むものは栄え/闇に向いて走るものは滅ぶ」だったとのことですが、この文言たるや、

ヨハネによる福音書/ 03章 20節
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

から取材しているように見受けられるからであります。若き日の高森氏の腕章の文字「死線を越えて」もまた、賀川豊彦牧師の往年のベストセラーのタイトルから借用したものであり、高森氏がキリスト教に対し複雑な、しかし鮮烈な心境をいだいていたことは疑いを容れません。この点皆さまはいかがお考えになられますか?

投稿: 「光に向かって」のルーツって | 2014年2月 9日 (日) 13時16分

高森さんは給料もらっても金の使い道はない。
だからご法礼を全部広告費につかえばいいのにな。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 13時57分

そろそろあらゆる意味で大勢は決しつつあります。初老以上の、なんの背景も持たない、あるのは大学中退の学歴のみという講師諸氏は、めぐりあわせ次第では木造アパートに生活保護で独り住まいの老後を覚悟せねばならぬかもしれません。

1930年代、共産党やアナーキズム運動に挺身した女性闘士たちの中にも、やっと戦後という自由の春を迎えながら、党の路線変更や、つれあいの裏切り(組合活動で知り合った若い女性と不倫)などで、結局上記のようなわびしい暮らしを余儀なくされた女性たちが五指にあまるようです。

牧瀬菊枝女史や保阪正康氏のルポルタージュには、そうした元女性闘士らを訪ね、半生を聴き取ったものが少なくありません。親鸞会の初老以上の講師も、そろそろ最悪の場合に備え、それでも誇り高く生きるためにも、これまでのお歩みを取りまとめておき、しかるべきルポライターの訪問に今からお備えあってはいかがかと存じます。以上、取り急ぎ提言まで。

投稿: 塩を送るようですが | 2014年2月 9日 (日) 15時44分

いくら真宗を装っても、本質が外道だから表に出てくるものもそれに準じた外道、間違い、捏造

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 15時45分

http://makotonoai.web.fc2.com/index.html

このサイトの主はたぶん1979年(現役入学)か1978年(一浪した場合)の生まれ。自分の意志で統一教会に入り、その後は親鸞会にも出入りし、その一方でAVや風俗店にも親しみ、かつ一の会会長氏の性癖についても真偽のともかくは別として情報に接しています。訥々とした文体に真実味が籠っています。読み応えあり!

投稿: ネットサーフィン意外な収穫 | 2014年2月 9日 (日) 18時41分

遠くない将来。ホームヘルパーが介護利用者宅(木造アパート)を訪問してサービスを提供していました。部屋の整理をしていたら親鸞会関係の書籍がありました。そのヘルパーは学生時代に親鸞会の会員でした。遠い記憶を思い出したら、この部屋の男性は○○部長で担当講師だった。今後あるでしょうね。
ちなみに男性は脳梗塞で下半身不随でした。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 18時44分

会員は富山へ呼びつけて、自分は毎週のうのうと大河ドラマを見る高森。
会員を財産のように思っていればこそ。

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 21時11分

親鸞会講師

高速逆そう事故あったが、病気で倒れたとか亡くなったとかそういう話はないのか?

投稿: | 2014年2月 9日 (日) 23時41分

ちゆちゃんの話題が出たので。

http://tiyu.to/permalink.cgi?file=news/05_01_16


文面から察するに、これも恐らく高森会のことだと思われます。
「ずいぶん前」とされていますがなかなか興味深い記述です。

※両方とも投稿日が御正忌(旧暦と新暦)なのはそれとなく意識していたのかも

投稿: | 2014年2月10日 (月) 00時42分

追記、ちなみに脳梗塞+生活保護受給者で独身。毎日うわ言で後生の一大事とかを言っていました。これが親鸞会講師の老後でしょう。高森一族以外の講師は全員将来的には生活保護受給者予備軍です。その日まで元気にやりなさい。

投稿: | 2014年2月10日 (月) 09時41分

脳梗塞、独身。まずいよね。金の切れ目が縁の切れ目か?。
最後まで責任もって面倒見ろよ

投稿: | 2014年2月10日 (月) 10時31分

親鸞会と講師の関係に誤解がある様です。
講師は親鸞会を通じて宿善を求めて、高森会長から宿善が与えられていると思い込んで、又は思い込まされています。講師が脳梗塞で講師の業務に支障があるなら早々に講師を辞し、親鸞会の迷惑にならないようにして生きるのです。間違っても宿善を頂いた高森会長と親鸞会ん非難してはなりません。ですから講師の老後と親鸞会は無関係です。生活保護で臨終を迎えても高森会長にお礼を念じて旅立つのです。

投稿: | 2014年2月10日 (月) 11時29分

今話題のエセ作曲家佐村河内というのが高森一族と非常に似通っている
現代のベートーベンとなりきっているのは何百年に一度の善知識、親鸞聖人の生まれ変わりと言ってるのと似ているし、他の話も高森を連想させることが多い
おそらく同種の人間だろう

投稿: | 2014年2月10日 (月) 13時18分

他人の作品を自分の作品と偽って披露し利益を騙し取っているところとか高森式詐欺法の真骨頂じゃないか

投稿: | 2014年2月10日 (月) 14時04分

あんな非常識なことをしていたら誰もついてこない。
時間
金銭
組織

金銭は節約につとめることも必要だが、きっちり公表することが必要。

投稿: | 2014年2月11日 (火) 14時56分

ついていかんでええ、というかついていったらいかんぞ

投稿: | 2014年2月11日 (火) 17時07分

金銭とは節約はもちろん、会費やご報謝、聴聞のための交通費の計画であり、日常の食費や光熱費、生活費、雑費の計画が大事。 親鸞会の会費収入、人件費、経費や維持費を会費の皆さんに公表してはじめて学院で学んだと言えるんです。

投稿: | 2014年2月11日 (火) 18時22分

ほとんどの方は興味は無いと思いますが、オンリーライフと中根繁氏の関係性をご存知の方いますか?いらっしゃればご教授ください。

投稿: | 2014年2月14日 (金) 09時05分

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