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聴聞のすすめ

親鸞会をやめて、それでも仏法を聞きたいという人へ。聴聞しましょう。一緒に。

本願寺派だと勧学和上さんもちゃんと聴聞しています。どこぞの会長さんとは全然違います。というか、あの会長さんも如何に妙ちくりんな「信心決定体験」をしたとしても、その後ちゃんと聴聞をしていれば、あそこまでおかしい方向に曲がることはなかったと思います。本を読めば十分だよ、という人もいるでしょうが、ちゃんと足を運んで直接にお話を聞くのは大事なことなのです。(この点は親鸞会の言っていることは間違ってないです)

聴聞にノウハウなどもちろんあるわけじゃないのだけど、とりあえずどうしたらいいのかわからない人へ。

とりあえず、浄土真宗の法話案内をみてみましょう。
http://shinshuhouwa.info/

これを見れば、どこで話が聞けるか、ということは少なくともわかります。便利な世の中になったものです(宣伝)。

話を聞いたら、最初は「なんじゃこりゃ」と思うこともあると思います。その原因には大きく2つあって、ひとつは話をする講師がそもそも何もわかってない場合と、わかっている人なのだけど親鸞会と言葉が違うのでうまく伝わってきてない場合です。何しろ親鸞会で使われる言葉というのは独特なものがあるし、真宗の基本的な事柄がすっぽりスルーされていたりしますから。

「駄目だこいつ」とか思ってツイッターとかフェイスブックに愚痴を書いても自分のためにも講師のためにもなりません。疑問があれば控室に入って聞いてみましょう。法話が終わったあとお寺に人を見つけて「ご講師に質問したい」といえばいいのです。質問しても逃げたりごまかしたりする人はもうご縁のない人です。でも殆どの人は真摯に答えてくれると思います。

自分をごまかさず、納得ゆくまで聞いて、合わなかったら、何しろいろんな人の話を聞いてみましょう。聞法会やあちこちの法座に参詣すると、「このおばちゃん、あちこちでよく見るなぁ」なんて人がいたりします。臆せず話しかけて友だちになってください。こういう人が一番たくさん法座の情報を知っていますし、どんな先生がいるかも詳しいのです。教えてもらいましょう。

時間の許す限りいろんな先生の話を聞いて、とにかく控室に入ってわからないことがあったら聞いてみる。その繰り返しです。親鸞会時代の頭でっかちの教学みたいなのをやっていた人には、自分が今まで聞いていた真宗にはポッカリと抜けていたものがあったなぁと気づくかもしれません。そして、この先生から続けて聞きたいという人が見つかるはずです。そうなったら、続けてお話を聞いて、直接に話す機会を持って、質問したり自分の領解を聞いてもらったりしてください。

私の場合はずいぶん色んな所に話を聞きに行って、でもひょんなことから自分の住まいのすぐ近くに素晴らしい先生がおられることを知りました。聞きたいという人をほっておかれないのが阿弥陀様です。これは間違いありません。絶対にほっておかれませんから。

いろんな人の話を聞きたいという人もいれば、決まった先生の話を続けて聞きたいという人もいると思います。私は最初は前者で、今は後者です。もうあんまりあちこちに聞法には行きません。もちろん、いろんな有り方があっていいと思います。

でもすごく大事なのは、自分が仏法やご信心のことについて相談できる先生を持つことだと思います。「細細に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ」と蓮如上人が言われるとおりです。

そして、お寺に行ってお同行の方と一緒に法話を聞く、と言うのはとてもとても大事なのですけど、日々の生活、日々の仕事も聴聞の一つだと思います。私の身の回りに起こるいろいろな出来事から、仏法を聞かせていただくのです。

でもさ、とりあえずどれを聞けばいいの?という人は、これなんてどうでしょうか。会社さえ許してくれれば仕事休んで泊まりがけて聞きに来てもいいと思います。
http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=1200

唐突になんでこんなことを書いたかというと、これは私の友人に対して書いたのです。親鸞会だけが聴聞の場じゃないよということと、これからも聴聞しようぜ、ということです。これからが大事なんです。これからがね。

称名

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ベルトコンベヤー安心

私が通っているあるお寺の定例法話会で、80歳を過ぎた方とお話をしました。浄土往生の確信が持てず、このままでは死んでも死にきれないと欠かさず聴聞しているとのことです。各地で法話を聞いてきて、ようやくここに辿り着いたと言われていました。

信心は「信ずる心」と書きますが、どうしても「心」とある以上は自分の心に確信を求めてしまいます。そこを見てもなにもないのですけど、そうやって悩んで足を運んで迷うのも阿弥陀様が私を放っておかれない姿なのだと思います。

なんでこんなことを書いたかというと、「ベルトコンベアで流れてくるようにやってくる「仏法とのご縁」」といエントリを呼んだからです。親鸞会にいると確かにベルトコンベアで流れるように進む道が用意されます。親鸞会を辞めるのでもなければ、いわゆる「求道」に迷うことはないでしょう。

ただ、私はベルトコンベアというのはもうひとつの意味があると思います。親鸞会にいると、親鸞会という「ベルトコンベア」に乗っていれば、いつか「信心決定」という世界に連れて行ってくれると思う心です。ここにいて、言われるとおりに聴聞や活動をして、お布施をして、みんなといっしょにいれば、なんとなくこのまま絶対の幸福の世界に運んでもらえるんじゃないかという思いです。学徒の方、自分の心を覗いてみてそんな気持ちはないでしょうか。

阿弥陀如来がこの身このままの私を救うと仰っている事実ではなく、未来の自分に救いの姿を見ているわけで、結局これは親鸞会が批判する「念仏となえていれば死んだらお助け」と何も変わらないように思います。信心が「期待」になっているのです。それは浄土真宗の信心ではありません。

親鸞会というベルトコンベアは私をどこにも運んでくれやしません。あえて言えば同じ所をグルグル回るだけです。いつまでそこにいてもそれはその人の自由ですが、臨終までにはいつか降りなければならない時が来ます。

私達は善知識や聞法の場が救いであるという思いからいずれは降ろされるのです。親鸞会が真実であるという確信がもしあったとしても、それは往生の証拠には絶対になりえません。

往生の証拠は南無阿弥陀仏にしかありません。

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やめるひと、やめないひと

いままで、相談を受けてきた人、コンタクトを取ってきてくれた人の事を思い出してみました。現役の学徒という事では、講師部員も親友部員も致し、一般の支部や学友部に所属する人もいました。その中、支部や学友部の人はほとんどがやめました。今も親鸞会の中にとどまっている人もいないわけではないけど、本当にほとんどがやめてゆきました。

親友部員も大体はやめました。講師部員はごく一部が退部して、ほとんどがまだ残っています。次第にやりとりの出来る人も少なくなり、連絡をとっている人は数えるほどになってしまいました。

親鸞会を辞めたいとなった時に、辞めたいという本人が最も懸念することは、昔も今も変わりません。支部や学友部の人は「やめたあと、どこで仏法を聞けるのか」を心配する人が一番多い。

講師部はどうでしょうか。講師部が心配するのは、「やめたあと、どうやって食べてゆくか」です。とは言ってもさすがにそんなことをダイレクトに聞く人はそんなにいません。でも、私が講師部をやめたあとに、どうやって仕事を見つけて生計を立てて来たのかをみんなまず最初に聞きます。一番気になることだからでしょうね。これは別に情けないのでもなんでもなくて、一般の支部の人でも、同じ状況になれば同じことを気にすると思います。

私自身は31歳という、人生の大きな方向転換をするのに最後のチャンスとも言える年齢で脱会しました。それでも、食べて行けるようになるのは相当大変なことでした。もし私が今のように40歳を目前として、親鸞会の人と結婚して純粋な親鸞会の家族を作っている中で脱会できるかと言えば、踏みとどまるかもしれません。

親鸞会で生きてきた人にとって、特に大学を出てからすぐに親鸞会に「就職」した人にとって見れば、親鸞会の外というのはまさに暗黒の世界に等しいと思います。働いたことがない人は、どうやってそんなところに出てやってゆけばいいのか怖くて仕方がないのだろうと思います。親鸞会にいれば、高森会長と組織に従っていれば飢えることはありませんから、自分を偽ってでも中にいた方がいいという気持ちは、私もとても良くわかります。

私はそういう人たちにずっと、最初は苦しいかもしれないけど、なんとかなると言い続けてきました。でも、そこを突破できる人はあまりいませんでした。彼らは今も、親鸞会の作ったアニメを眠い目をこすりながら何十回も見ることを生業にしています。親鸞会の教義が浄土真宗のそれとかけ離れていることも、わかっています。開き直って続けています。悲しいことです。

人生に正しいも間違いも無いけど、できれば気づいたならばそこにとどまらず行動してほしいです。

脱会すれば苦しいことは有ります。すごく有ります。でも、それは必ず報われる苦しみです。そしていまはその苦しみを理解して応援してくれる人は沢山いますから。

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信心を獲たらハッキリするのか

親鸞会では信心を頂いたらハッキリするものだと教わってきたと思います。ところが親鸞会をやめて東西本願寺などで話を聞くようになると、この問題についてはいろいろな見解があること、またそもそもこの問題自体があまり論じられない事に気付かれると思います。

私も、ずいぶん長いこと、どうして本願寺の学者の先生にこのことを質問しても、「ハッキリした」解答が帰ってこないのかなぁと思っていました。

これについては大きく3つにスタンスがわかれると思います。すなわち、

1.信心をいただいてもハッキリしない場合がある
2.信心をいただいたらハッキリする
3.論じない

この「ハッキリ」ということについても、初起一念(つまり信心をいただいた一念)かその後かという議論もあるのですけど、今は話が難しくなるのでやめておきます。詳しく知りたい人は「歓喜初後」で検索して調べてみてください。

さて、1.の場合ですが、ハッキリしなくてもいいという人には二通りあると思います。すなわち、「ご信心のことをとても良くわかっているがゆえにこう言っている」場合と、「自分がハッキリしていないからハッキリしなくてもいいんだ」という、自分が自分の心を見て信心とはこんなものだと思っている人です。

前者の理由は後述しますが、後者については私は「居直り信心」と思っています。あてにならない自分の心をもって、あてにならない自分の心の有り様を見て「これでいいんだ」とあてにして居直っているわけです。ハッキリしないでいいと言われるとこういうところに落ち着きがちなのは確かです。もちろんこれは浄土真宗の他力の信心とは異なるものです。

それでは2.はどうでしょうか。ハッキリという言葉を使わないまでも、「めざめ」とか「自覚」という言葉で信心を表現する人は東西本願寺にも多くいます。この言い方の問題は、「ハッキリ」という言葉にとらわれて、「ハッキリしたのが信心」と勘違いしてしまうことです。

親鸞会のように、信心が頂いたらハッキリして喜べなければならないと言ってしまうと、私の心がはっきりしていないから、喜べてないから信心いただけてないのだと思ってしまいます。そして、間違いのない「何か」をいただいてハッキリスッキリして、歓喜の心に満たされるのがすなわち信心だと思ってしまうのです。

あてにならない私の心をもって、あてにならない私の心に往生の根拠を求めているわけで、自分の目で直接に自分の目は見れないように、これはどれだけ突き詰めても不可能なことです。言葉を変えれば、自分が勝手に想像している「信心決定のすがた」と自分の今を比較して判断しているのですが、あてにならないものどおしを擦り合わせてもいつまでも一致することなどありません。

浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏が私を救ってくださるという事実を聞いて、それに疑いのないことです。それ以外には何もありません。

蓮如上人が言われるように、つまりは往生が定まるという証拠は南無阿弥陀仏にあるのであって、私の心にはありません。ハッキリか否かにやたらにこだわるのは、往生の証拠を南無阿弥陀仏に見ていないのだと私は思います。

もちろん大事なことですからその問いはしっかりと心に持っていていいと思うのですが、「ハッキリする」という親鸞会風の結論を持ちだして、それに合わない意見を切りまくる余裕があるのだったら、答えや結論ばかりを先にしないで、本当はどうなのだろうとしっかり自分の中で考えて聖教を読んでみたらいかがでしょうか。

あと、以前は高森会長から信心決定体験を「火だるまになって地獄に落ちる」「大宇宙の真理と一体となる」などと聞いたことがある人もいるかもしれません。

自分以外の人による「体験」が正確にどんなものかは知るよしもありませんが、こういうのは「変性意識体験」といって別に珍しくもない宗教体験であるということを最後に付け加えておきます。

オウムの信者が長いこと麻原の影響から抜けられなかったのは、こうした「体験」をしてしまったからだと言われています。宗教体験を相対化するのは難しいことなのです。高森会長がそのことにどこまで気づいているかは、わかりませんけど。

追記 高森氏の信一念の体験談ーーーーーーーーー
 高森先生は静かにお答えになった。
「信一念の時の、回りの世界の見え方は、世界が破壊せられる感じです。その一念の時、世界は一心に収まる。自もなく他もなく、全くの個になる。そしてそれがそのまま地獄に堕ちるのです」
 彼が、
「世界全てが自分の心になって、それ全体が地獄に堕ちる、ということですか」
と尋ねると、
「そうです。それがいつも私が火だるまになって、地獄に堕ちる、などと表現している体験です」

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