ご法話・法要の案内
浄土真宗本願寺派・西本願寺での御正忌報恩講が始まっています。
http://www.hongwanji.or.jp/news/info/post-573.html
「本願寺派の法要なんて行けるか!見つかったらどうすんねん!!」という現役学徒の方も、インターネットでライブ中継されていますから、皆さん見られてはどうでしょうか。
http://webtv.hongwanji.or.jp/html/n1c6.html
あと、うちの寺でも12日、13日と法要があります。
http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=811
こちらもインターネットでのライブ中継が有りますので、関心のある方は見てください。
http://www.ustream.tv/channel/genshoji
以上、ご法話の案内でした。
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コメント
津の高田派本山専修寺も報恩講ですね。
投稿: | 2014年1月 9日 (木) 18時17分
ぶるうのさん、素晴らしい最高のエントリーだと思いますありがとうございます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
投稿: 元会員 | 2014年1月10日 (金) 05時50分
中継はじめて見るんですが、意外や意外、今雅楽の演奏。
こういうのもあるんですか?雅楽というと神社でやる印象があるんですが。
投稿: | 2014年1月10日 (金) 10時08分
平日はどうしても難しいかもしれませんが、連日の改悔批判(13日は御伝鈔拝読)と15日の通夜布教はぜひともお聴聞されることをお勧めします。法要や雅楽に興味がおありならば、ちょうど日曜の12日逮夜に勤修される「浄土法事讃作法」がお勧めです(変な言い方ですが)。
投稿: | 2014年1月10日 (金) 17時42分
こんばんは。いつも読ませてもらっています。
ライブ中継、いいですね。
ぶるうのさんは、せっかく僧侶になられたのですから、
ぜひ今年はこのブログで教義面もいろいろ教えてください!
飛雲さんのサイトもありますが、ちょっと難しい言葉が多いので、
ぶるうのさんには、わかりやすい教義の解説を期待しています!
ちなみに、飛雲さんは、雑行を自力で簡単に捨てれると言って
いるのですが、これは正しいのでしょうか?
ぶるうのさんのご意見を聞かせてもらえないでしょうか。
投稿: こねこ | 2014年1月10日 (金) 20時01分
あ、この雑行は、五雑行だけじゃなくて、阿弥陀仏に向かって往生の足しにしようとする善も含めてのことです。
よろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: こねこ | 2014年1月10日 (金) 20時15分
今日も雅楽やってますが報恩講というのは儀式がメインで法話はないんでしょうか?
投稿: | 2014年1月11日 (土) 10時35分
信前の真宗の同行は、20願の同行と言われることがありますが、20願は雑行を捨てないと入れないでしょう。
だったら、自分で雑行を捨てられるということになります。
浄土宗でも真宗でも念仏を一生懸命称えていて、雑行に心なんか掛かってませんよ。
投稿: 20願 | 2014年1月11日 (土) 10時56分
19願を自分で捨てて20願に入るということが、雑行を捨てるということ、、、
雑行を捨てるというのは五雑行だけでなく諸善万行を捨てるということ。
そこが正直ピンとこないんです。すみません
僕だけなのかもしれませんが、、、
実は、他の方にもお聞きしてるんですけど、
阿弥陀さまに向かって善はしないぞって誓ったら、諸善万行を捨てたことになるってことですか?
調べ方が悪いからだと思うんですけど、雑行は自力で簡単に捨てれるって、
飛雲さん以外の方でハッキリ書いてるのを見たことがないんですよね。
もしそれが本当なら、少なくとも4,5人は書いていそうなものなですけど、
他に誰か書いている方はいらっしゃいますか?
ネットでも本でもいいので、、、
コメント欄だと一人でいくらでもなりすますことも出来るので、
サイト運営者とか、著者でそういった方が何人もあれば説得力が増すんですよね。
人数の問題ではないのはわかってるつもりですけど、飛雲さん一人だけだと、心配になります、、、
ぶるうのさんはどうなのでしょうか?
投稿: こねこ | 2014年1月11日 (土) 12時38分
今ではすっかり閑古鳥が鳴いている被害者家族の会の掲示板。あまりにも教義面でのスレッドが少ないので、元会員さんたちが投稿する気にならなくなったためと見受けられます。思えば2007年秋ごろがあの掲示板の最盛期だったのではないでしょうか。
このコメント欄も、むろん今よりも多少は教理方面の論議が交わされることを否定はしません。でも
法律の文書さながらにこまごまとした聖典からの引用がわあっと場所をとるのも
どうかと思われます。このコメント欄は、願わくはまず第一にカルト被害とその予防や対策(すでに起きてしまった場合の)を論ずる場であってほしい…そう願う人は私だけではないと存じます。こねこさんには申し訳ないが、率直な感慨を述べさせていただきました。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 13時22分
こねこさんは「安心問答」の先生はお嫌いですか?この先生ならばきっと飛雲さんと同じぐらいの熱心さでご教示くださるのではないかと思われるのですが……ぶるうのさんは今現在は大事な法事のご準備でおそらく猫の手も借りたいほどのご多用ぶりかと拝されます。お返事を求めるならば、いま少し気長に待ってあげてはいかがでしょうか。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 13時47分
親鸞聖人の
「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」を
存覚上人は
「建仁等とは、元年辛酉、大祖聖人六十九歳、鈔主聖人二十九歳。始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う。」(六要鈔)
としてます。
「雑行を棄てて」=「(法然上人の)門下に入りて」
ですが、何をこだわっているのやら。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 13時52分
>今日も雅楽やってますが報恩講というのは儀式がメインで法話はないんでしょうか?
ありますよ。中継日程にも「御堂布教」ってあるでしょ。初夜の「改悔批判」も浄土真宗の安心・報謝・師徳・法度についての法話です。15日の「ご親教」というのは門主の法話です。15日は通夜布教もありますね。他にも法話はありますが残念ながら中継がないのですね……。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 13時55分
聞きました。
30分にも満たない時間ですがピコーンとなったことが7回ぐらいありました。
某会の話ではありえなかったことです。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 17時45分
えっと、いろんな方のご意見ありがとうございます。
お名前がないので、上手にコメントできるか心配ですが、、、
>このコメント欄も、むろん今よりも多少は教理方面の論議が交わされる
>ことを否定はしません。でも
>法律の文書さながらにこまごまとした聖典からの引用がわあっと場所を
>とるのもどうかと思われます。
ええ、まったく同感です。
僕も、あの、引用わあっとは苦手なんです。お好きな方もあるのでしょうけど、ちょっと目がまわるといいましょうか、、、
すみません。
ですから、そんなのでなくシンプルなのがいいです。
せっかく、ぶるうのさんは僧籍をもっておられるのですから、、、実際これは貴重だと思いますよ。
スタンダードな本願寺の解釈も知りたいですし、短くていいんです。
ただ、現状としては、教義面はこのブログの1割にもみたないように思うんです。正確に調べたわけではないんですけど、、
ですから3割くらいは教義について語っていただけると嬉しいのですね。
他のブログは、引用わあっと系がおおいので、、、(^^;
今回の質問ならとりあえずは、「飛雲さんと同意見です」とか「このURLの解釈と同じです」、「かなり違いますとか」とか、そんなお返事でいいです。
そして、お時間あるときに、また改めて教えていただければ幸いです。
他の方からのご指摘にもありましたように、大事な法要の前ですし、、、
>こねこさんは「安心問答」の先生はお嫌いですか?
>この先生ならばきっと飛雲さんと同じぐらいの熱心さでご教示くださる
>のではないかと思われるのですが……
はい。実は「他の人にも聞いています」というのは、この安心問答の先生なのです。
まだお返事はいただけてないのですが、必ず何らかのお返事をいただけるものと期待しています。
あと、ねこつながりで、黒猫さんにもお聞きしてみようかとも考えています。
今は、情報が少なすぎて判断のしようもない状態なので、もう少し色んな人の意見を聞いてみたいと思っています。
他にも聞いたほうがいい方がありましたら、教えてもらえないでしょうか?
大事な問題には間違いないですよね、、、
勝手なことばかり言って申し訳ありませんが、
よろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: こねこ | 2014年1月11日 (土) 18時00分
>「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」を
>存覚上人は
>「建仁等とは、元年辛酉、大祖聖人六十九歳、鈔主聖人二十九歳。始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う。」(六要鈔)
>としてます。
>「雑行を棄てて」=「(法然上人の)門下に入りて」
>ですが、何をこだわっているのやら。
すみません。これは「雑行=往生のためにする諸善万行」という意味の雑行の解釈ではないですよね。
(僕の理解が間違ってたらすみません)
僕は、往生のためにする諸善万行(雑行)が自力で捨てれるかどうかがしりたいんです。
(本願寺のスタンダードな解釈はどうなんだろう?)
ただ、今は「僕はこういう意見です」という強い主張をもっているわけではなくって、サイトを立ち上げたり本を出しているような方が、どのように解釈しておられるのか、そういった方々の意見を知りたい、という段階なんです、、、
せっかくお答えいただいているのに、すみません、、、
投稿: こねこ | 2014年1月11日 (土) 18時10分
〉すみません。これは「雑行=往生のためにする諸善万行」という意味の雑行の解釈ではないですよね。
法然上人が教えられたことを少しでも知っていたら、こんなことは言えませんね。
法然上人は、諸善を廃して念仏一行に帰せよと、何度も何度も繰り返し教えられた方。
親鸞聖人は、その仰せに従われた、それが雑行を棄てたことになるということでしょう。
投稿: | 2014年1月11日 (土) 18時24分
>僕は、往生のためにする諸善万行(雑行)が自力で捨てれるかどうかがしりたいんです。
今一つわかりかねるのですが、これはこねこさんご自身が「雑行を捨てたくても捨てられない!」と悩んでおられるということなのでしょうか……?
投稿: | 2014年1月11日 (土) 19時41分
親鸞聖人が言わんとした「悪人正機説」はもともと法然上人が唱えた説です。
歎異抄=悪人正機説じゃないです。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 02時41分
こねこさんへ
阿弥陀仏に向かっての諸善万行の結果は臨終来迎の化土往生ですよ。こねこさんは臨終での化土往生を願っておられるのですか?
万行超過の念仏を称えてでも何とか・・となってくるのが自然だと思いますが?(勿論自力心ですが)一声で80億劫の罪が消える念仏ですよ!諸前万行を差し向けている場合ではないでしょう。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 13時14分
僧侶となったからといって、すぐに教学通になるわけではないし、僧侶といってもいろいろな僧侶がおりましょう。声明がうまい僧侶、平易な法話がうまい僧侶、いろいろです。
ぶるうのさんは煩瑣な教学を分析なさるお力をむろんおもちでしょうが、それは今後に譲るとして、当面はこのままゆけば、それこそ滝つぼに呑まれるであろう現役会員さんへの「目をさませ!」という呼びかけに重点を置いていただきたいなぁというのが偽らざる気持ちです。
こねこさんは真摯に教学の勉強をなさっているように拝されます。これなら華光会へ法話を聞きにいっても、決して疎外感をお感じになることはないと信じます。いかがなものでしょうか。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 16時38分
『法戦』のどれかの巻で、20数年前、当時の同朋大学の学長さんがNHKの「こころの時代」でお話なさいました。それに目をつけた親鸞会の講師三浦某がしつこく質問攻めにし、学長さんがへきえきなさると、
「なにが『自体満足者』だぁ」
うんぬんと勝利宣言を発していたように記憶致します。また、会員向けの書籍ではあれ、学長さんや番組の司会の亀井氏から自分へ寄せられた私信を勝手に書籍に全文引用してしまう姿も、仏法者以前の問題だと感じられました。
こねこさんがむろん、この三浦某の同類でないことは行間にこもる熱意からもうかがい知られますが、ぶるうのさんの素性が知られている以上、それこそ法話会に実際に足を運び、だんだんとご縁を深めてのち、改めて、それこそお酒でも口にしつつ、じっくりじっくりご討論なさってはいかがかと思われるのです。交通費がかかるって? 親鸞会にいたときほどではありますまい。
「かんしゃくの『く』の字を捨ててただ感謝」
と悟りすましてるどこかのえらい先生へ、その先生が好まぬ味付けの料理をわざと出して反応を探ってみたいものですよね。その先生がご自分に
「俺は詐欺師なんかじゃない。500年に一度の善知識さまだぞ」
という誇りがあるにしても、その誇りがおよそ他力の行者のそれらしからぬことは、この名句ひとつをみても明らかです。こんなことが実践できるのは、よほど修行を積んだ聖道門の修行者しかいないのですから。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 16時51分
多額の布施をしてきた会員を生前は模範者のように褒めちぎっていたのが、亡くなると葬式にも出ず知らん振りだったということですが、
感謝云々とは空々しいにも程がある。
心にもない善良なことを言って平気で人をだまくらかすことが出来るのが高森狸。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 18時16分
子供がカルト新興宗教の信仰を継承すれば葬儀にも出ていたでしょうw。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 19時33分
「被害者家族の会」の親御さんがたとも、以前数回にわたり語り合うご縁をいただいたことがございますが、どなたも真宗だの仏法だの耳にするのもいや、という感じで、精神科がどうのカウンセリングがどうのとおっしゃってばかりいらっしゃいました。その気持ちはむろん理解できますが、これでは100年たっても親鸞会に一時は人生のすべてをかけた息子や娘との真の和解は成り立つまい…と内心では憂慮されました。
その後はさいわいにも、こうしてぶるうのさんが立ち上がられ、飛雲さんも、「安心問答」の主宰者さんも立ち上がられ、元会員さんが心の傷をも癒しつつ、引き続き宝の山である真宗のおみのりに親しむ場も得られたように思われます。
ただ、勝手な願望ではございますが、教学方面のことは後二者がになわれ、救急病院的な役割は引き続きこの「さよなら」さんがになってくだされば心強いことこのうえないが…と念じております。私のこうした考えが狭隘に過ぎるとお感じの方も少なくないとは存じますが、ひとまず日ごろ思っておりますことを申し述べさせていただきました。
ぶるうのさん、時節柄どうかくれぐれも健康にはご留意を!
投稿: | 2014年1月12日 (日) 20時07分
私は、こねこさんの意見に賛成です。
ここに来ている人は、「さよなら親鸞聖人」と思ってる人は
少ないはずですから。
(また、そんなためのブログであっては困りますからね)
いろいろなスタンスすがあるのは分かりますが、教えと
関係のない避難場所は、被害家族の会でいいのではないでしょうか。
ぶるうのさんは教学がないから無理との非難を何度か目にした
ことがありますが、そんなことはないと思います。
その疑惑を払拭される上でも、やはり、こねこさんが希望される
ように少なくとも2、3割は教義面がほしいですね。
しかも、今回のこねこさんの質問は、
「雑行は自力で簡単に捨てれるのですか」
という大事な質問じゃないですか。
結論だけなら1分もかからずにコメントできますよ。
それくらいは、ぶるうのさんにもやってもらいたいなあ。
せめて法要が終わってからでもね。
投稿: | 2014年1月12日 (日) 22時04分
こねこです。こんばんは。
色んな方の様々な意見、賛成の方にも反対の方にも感謝ですm(_ _)m
ちょっといろいろありすぎて、どうコメントしていいか分かりませんが、色んな意見を聞くことができて、とても勉強になりました。
私も、あくまで一つの希望としてお伝えしますと、
確かに教義の面では、飛雲さんや宮田さんなどのブログがあるのですけど、
飛雲さんと宮田さんは、ツーカーといいましょうか、ほぼ同じお考えのように感じます。(今回のやりとりで、違うところもあるようで少し意外だったのですが、、、)
でも、ぶるうのさんは、ちょっとまた違う視点をもっているように思うのですね、あくまで、そんな感じ、なのですが、、、
なので、もう1つくらい違う視点の意見が知りたいなって思うんです。
おそらく飛雲さんも、宮田さんも僧籍はもっておられないでしょうし、
僧侶であるぶるうのさんの意見が聞けるというのはとても貴重だと
思うんです。
前の繰り返しになってしまいますが、まるっきり方針を変えるのでなくて、特に「なぜ生きる2」が出て議論も活発になってますし、
ぶるうのさん自身の意見も少しですが聞けましたし、ああいう形で、
つぶやき程度でもいいので、教えについて語ってほしいと思うんです。
あくまで個人的希望ですけど、ただ、そういう人もいるってことを知ってもらえたら幸いです。
投稿: こねこ | 2014年1月12日 (日) 22時41分
さよなら親鸞会は、「なぜ生きる2」やら親鸞会の三願転入論やらについて突っ込んだ議論をするのは無益だというスタンスですよね。
親鸞会が会員に伏せている都合の悪い事実が山ほどあること、親鸞会を離れても聞法の場はいくらでもあること、これまで通り、その2つを伝えてくれればそれで十二分だと、私は思います。
「雑行を自力で捨てられるか」にこだわっているのは親鸞会以外にはなく、意味のある問題設定だとも思えません。名号のいわれを正しく聞きひらくとはどういうことか、といったことを議論するのなら有益かもしれませんが、それはこのブログである必要はないでしょう。
また、親鸞会的「善の勧め」の当否については、もうあちこちで議論され尽くされていると思います。「引用わあっと」を読んで理解することができず困っているということなんであれば、さしあたり、「顕正」の虎の絵のたとえ、大沼法竜師の善の勧めと親鸞会の違い、第18願成就文の「聞其名号」について言われた「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」の最近の親鸞会の新解釈がありえなさすぎること、あたりに絞って下記の記事を読まれたらいいんじゃないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/sutybi/archives/2623950.html
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-ed45.html
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-9926.html
http://noabop.blog.fc2.com/blog-entry-84.html
投稿: | 2014年1月13日 (月) 04時02分
なんだなんだ?こねこちゃんの質問ひとつに、この「教義はいらない」擁護論は?
いつもならこんな言い方はしないんだが、今日は朝から失望してる。がっかりさせないでくれ。
こねこちゃんの質問は
「飛雲さんは、雑行を自力で簡単に捨てれると言っているのですが、これは正しいのでしょうか?」
だけだろ。
「正しい」か「正しくない。詳しくは後で」と答えればいいだけじゃない。
知りたいのは、ぶるうのさんがどう思っているかってことなんだろ?こねこちゃんは。
それに雑行がどうでもいいってことないだろ。聖人一流章をはじめ、あれだけ御文章に頻出しているんだし。
何だか、この「教義いらない擁護論」は、ぶるうのさん自身が書いてるんじゃないかとさえ思えてきた。
いや、実際はそうじゃないのかもしれないが、イメージとしてはそうなってきてる。
教義は語れないぶるうのさんって。
どこかの野党じゃないんだから、だめだだめだだけでなく、自分の意見を表明すべきでないのか?教義の間違いを正すのも僧侶の役目でしょ。
リテラシーも高まってきてるんだし、99%が非難の内容じゃあ、ヘイトサイトといわれても反論できなくなってしまう。
少なくとも「さよなら親鸞会を見たらいいよ」とは勧められなくなってきてる。
正しいのはこうって、シンプルに語るスタイルはいいと思うよ。
長々とでなく。
それとももしかして、飛雲さんと違う意見だから、違うといったら十倍返しがくるのがこわくて黙ってるのか?
もし、そうならぶるうのさんのために、ちょっと厳しい言葉だけどあえていう、
「あんた、僧侶失格だよ!」って。
そうでないことを願っているが。
もし、飛雲さんと同じ意見なら「私も同じです」で終了。
それだけのことじゃないの?
投稿: | 2014年1月13日 (月) 08時23分
ぶるうのさんもわれわれもそろそろ本当に親鸞会にさよならする時期にきたのかな。。。
投稿: | 2014年1月13日 (月) 08時39分
いやいや、実際のところ、雑行が自力で捨てられるかどうかって問題にしているのは親鸞会だけでしょ。そんな議論に意味があるかね。
「雑行を捨てよ」と親鸞聖人や蓮如上人からいわれて、雑行の捨て方を尋ねた人がいるの?
ホント、愚問だと思いますよ。
親鸞会の分断工作かな?
投稿: | 2014年1月13日 (月) 09時20分
上の人が言っていること、よく分からないな。
「雑行が自力で捨てられるかどうかって問題にしているのは親鸞会だけでしょ」
って、ここは親鸞会を論ずるサイトじゃなかったのか?
それに、もしこの質問に答えるのが愚かなら、飛雲さんや、宮田さんは愚かな行為をしていることになるけど、そういうことなの?
あなたの言ってることはそういうことだよ。
あなたは教義面は苦手なんだろうけど、ぶるうのさんはやる時はやるはずだ。
それにあなたは、こんな程度の質問で、「分断工作かな?」とかって、何びびってるんだろうって思うよ。
たかだか、YES or NO って答えるだけじゃないの。
ぶるうのさん、こんな奴はほっとこう。
スグ終わるんだから、スパッと答えて、スカッとさせてくれ!
投稿: | 2014年1月13日 (月) 17時59分
「聞其名号信心歓喜乃至一念」とある通り、平生に「名号を聞いて」救われるのですよ。
こねこさんがなぜ、臨終来迎を期する19願の行である雑行(諸善万行)にとらわれていて18願で誓われている名号(南無阿弥陀仏)に目が向かないのか不思議に感じます。
本当に救われたいのなら、蓮如上人の仰せに従って「何が何でも振り捨てて」となるでしょうし「万善万行の功徳が収まった南無阿弥陀仏に自然に目が向く」でしょう。
「自分で雑行がかんたんに捨てれますか?」という質問があまりにのんきに感じるのは私だけでしょうか?
親鸞聖人も、善知識の仰せに従って「万行諸善の仮門(19願)」を出て離れたと言われているではないですか。
こねこさんが名号に目が向くようになり、平生業成の身になられることを念じ申し上げます。
投稿: | 2014年1月13日 (月) 18時48分
すみません。法要で忙しく返事が遅くなりました。「雑行」が自力で捨てられるかどうかですか?私はそういうことは僧侶になって、聞いたことがないのですが、そんなのどっちでもいいのではないでしょうか…?
「 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御たすけさふらへと、たのみまうしてさふらふ。」とおっしゃっておられるのですから、そのようになさって下さい。それだけです。自力も他力もありません。お念仏申される様になったら、振り返ってその意味がわかると思います。
私が教義のことをあまり触れないのは、私自身の不勉強も有りますが、それ以上にそこはご自分で学んでくださいと思っているからです。
親鸞会を脱会してしばらくは、何しろ「親鸞会は間違ってる!」という結論を求めたがるものです。その時期は必要だと思います。でも、そこに安易に答えを求めず、直接聖教にあたって拝読するなり、本を買って読むなり、聞法に励むなりして、多様な人の豊穣な真宗解釈に触れてください。
それが私のおすすめするところです。
投稿: ぶるうの | 2014年1月13日 (月) 20時55分
>雑行が自力で捨てられるかどうかって問題にしているのは親鸞会だけでしょ
まさにその通りの答えでしたが。
>あなたは教義面は苦手なんだろうけど、ぶるうのさんはやる時はやるはずだ。
期待通りでなによりです。
投稿: | 2014年1月13日 (月) 21時21分
>自力も他力もありません。お念仏申される様になったら、振り返ってその意味がわかると思います。
誠にぶるうのさんのおっしゃる通りです。当面としては「雑行を自力で捨てた!」ように思えても、もはやお念仏申す身となっては「阿弥陀さんに取っ払ってもらったんじゃなぁ」とか味わえると思います。「仏願力によって雑行を捨てさせられる」なんて言うとどうにも堅苦しいですね。なんにせよ「我にまかせよ必ず救う」の南無阿弥陀仏のご本願を疑いなく頂戴し、お念仏申させていただくばかりです。
御正忌報恩講も残り少なくなってまいりました。こねこさん、改悔批判だけでもぜひぜひお聴聞くださいますよう……。
投稿: | 2014年1月13日 (月) 23時03分
1月13日(月)04時02分にコメントした者です。言うまでもないでしょうが私はぶるうのさんではありません。
「雑行が自力で捨てられるかどうかって問題にしているのは親鸞会だけでしょ」で、親鸞会を論ずるには十分じゃないでしょうかね。
「雑行」は「正行」と対で用いられる、行体を指す言葉ですよね。法然上人が雑行=諸善を廃せよと言われたのは、正行=念仏に帰せよということで、親鸞聖人はその真意について、真実信心の伴わない雑修の念仏では往生できない、往生は信心一つと言われて、名号のいわれを正しく聞きひらくことを勧められた、ということだと私は理解しています。
高森会長は、以前は「顕正」で「信心を得る手段として19・20願を教えてはならない」と言っていました。高森会長がその後の著作の種本にしたと思われる大沼法竜師の著作には、「往生の助太刀にしようとするから雑行という名をつけて機執まで捨てさすが、生活の一段には全力を注いで、身の行ないを慎み、善根を励まなければ日常生活上の善果は得られない」という趣旨の記述があります。高森会長が「雑行」で説明する理屈と似たところがあるけれども、結論は全然違いますよね。そして、高森会長は、最近、18願成就の名号を聞くということは、19・20・18願のいわれを疑いなく聞くことだと言うようになっていますが、本当にそう読むべきなのか。私は、この流れを見るだけで、高森会長の言が信ずるに値するかどうかを決めるに十分ではないかと思っているから、先のとおりコメントしたまでです。
親鸞会の問題設定の中で、「正しい」か「正しくない」かを答えるのでなければ、自分の意見を表明していることにならないなどという、親鸞会の教義枠組みを絶対視する「なぜ答えぬ」的な姿勢こそが、ずっとぶるうのさんが批判してこられたものではないでしょうか。
また、最近のさよなら親鸞会のエントリの内容は、なぜ生きる2はもはや浄土真宗と言い難い域に達しており嘆かわしい、親鸞会の会員の方にもネットで親鸞会以外の法話を聞いていただきたい、というものですよね。これがヘイトサイトだとか人に勧められないとかいうのは、批判として全くあたっていないと私は思います。
投稿: | 2014年1月14日 (火) 00時44分
自分も親鸞会辞めた身なんで、親鸞会のことがけちょんけちょんに言われるのは心地いい部分もありますが・・・
ただね、こねこさんのように高森説に毒されてた人が必死に抜けようとしてるのに、いわゆる「詳しい人たち」が妙に上から目線で、しかもところどころいらっとさせるような一言を踏まえて解説するのってそろそろやめたほうがよくないかなと。
親鸞会にいたころは退会者を見下すような物言いをすることがあって胸糞悪かったけど、ここでこねこさんへ解説してくださった何人かのコメント、正直読んでて気持ちのいいものじゃないんですよね。
だったらお前がやれって言われたら何もできないので、自分がこんなこと述べる権利はないのかもしれませんが。
皆さんが親切心で解説なさってるのは十分に理解してるつもりです。すみません、気に食わない意見かもしれませんが。
投稿: | 2014年1月14日 (火) 01時02分
1月14日(火)00時44分にコメントした者です。
さよなら親鸞会で、「なぜ生きる2」について指摘されているのは、念仏の勧めが軽視されすぎていることと、「親鸞会が間違いであって欲しくない」という気持ちを離れて真宗聖典を読めば親鸞会の教義解釈の誤りは十分判断できること(例として、「本願を疑い、諸善や自力念仏をすぐれていると思っている人がいる」と嘆いたご和讃を「なんと素晴らしいことであろうか」と解釈するのはあり得なさすぎることが挙げられています)の2点だと思います。
だから、「さよなら親鸞会をいつも読んでいるんであれば、もう少しエントリに対応したことを質問しろよ」ということで、コメント欄が冷ややかなものになりがちなのは、仕方のないところもあるような気がします。少なくとも私はそうです。
また、「雑行(往生のためにする善)が信前に自力で廃るのか」というのは、なぜ生きる2のアマゾンのレビューのコメント欄で親鸞会会員とおぼしき人が問題にしている事柄です。単にこねこさんという方の個人的な信仰上の疑問とみてよいのか、微妙なところがあるように思います。
親鸞会は、雑行を捨てよと言う反面、念仏を称えよと勧めることは殆どありません。念仏の真仮を問題にすることなく、捨てものの諸善の真仮(?)ばかりを問題にします。まるで、「名号のいわれ」ではなく「善の勧めのいわれ」を信じるのが信心だとでも言うかのように。
一歩離れて親鸞会教義を見直したいということなんであれば、そういう根本のところを疑ってみるべきじゃないでしょうか。
投稿: | 2014年1月14日 (火) 02時58分
予想していたように、いえ、予想以上に、飛雲さんとは違う答えでした!
ぶるうのさんの答えはいかにも本願寺の僧侶の回答だなって思います。
ただ、正直、一番、雲をつかむようなお答えではありましたが、、、
すみません。
色んな方の回答をいただきましたので、今一度時間をかけてしっかり
考えてみたいと思います。
やり取りの中で、正直、なんでこんなことをいわれねばならないのだろうと
傷ついたことも少なからずありました。
また、「雑行は自力で簡単に捨てれる」というのが私の意見と誤解された
こともありました。(実際は、他の人が言っていたので疑問に思って質問
したのが出発点なんです)
でもともかく色々な意見を聞けたことに感謝しています。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: こねこ | 2014年1月14日 (火) 21時10分
>予想していたように、いえ、予想以上に、飛雲さんとは違う答えでした!
この理解が意味不明です。
飛雲さんは、高森会長の矛盾を指摘した。
ぶるうのさんは、本願寺では問題にもなっていないことを親鸞会は問題にすると指摘した。
こういうことじゃないの?
投稿: | 2014年1月14日 (火) 21時18分
ちなみに、こねこさんが「雑行は信前に簡単に捨てれる」と主張したのは、たんぽぽさんとやりとりした新人太郎という人です。
(459とやりとりした新人太郎さんとは別人ですのでお気をつけください)
詳しくはこちらに出ています。
http://tanpopotohiuntarou.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
投稿: | 2014年1月14日 (火) 22時19分
>予想していたように、いえ、予想以上に、飛雲さんとは違う答えでした!
飛雲さんは、雑行や19願なんて自分で簡単に捨てれるのに何いってるんだって、繰り返し発言している(ムキになるくらい)
ぶるうのさんは、論じない
普通に読むと、ちがうね
投稿: | 2014年1月14日 (火) 22時21分
ややこしくなってますが、こういうことですよね。
飛雲さんの雑行の解釈
1.法然上人・親鸞聖人
正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
宮田さんの雑行の解釈
1.法然上人・親鸞聖人
正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
a.正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。
宮田さんは、蓮如上人が雑行と仰った場合に2通りあるとしたところですね。それで問題となっているのは、善が信前にすてることができるかの話なので、
b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。
は、当たり前のこと。
b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。
をもって飛雲さんと宮田さんの雑行をすてることの解釈が分かれるのではない。
論理のすり替えがあることに注意が必要。
投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 21時55分
とどのつまりは、
雑行=自力の心
という意味であったなら、何も問題にならない。
善が信前に捨てられるのがどうかを問題にしているのに、いつのまにか自力の心が信前に捨てられるのかどうかにすり替えられている。
↑
ここに注目!!
投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 22時02分
投稿: | 2014年1月14日 (火) 22時57分
安心問答を見ると「雑行」という定義について行から見るか自力心という点から見るかで答えているけど、ぶるうの氏はあえてそこの議論を避けて、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」という部分の御文章を出している。
わかってる人だと思った。
飛雲とか安心問答とか見ると、なんでこんなところをそんなに問題にするのかなって思うところが結構出てくるけど、ぶるうの氏自身はそこはあえて否定も批判もしたくなかったのでここを出してきたんだろう。
投稿: | 2014年1月14日 (火) 23時00分
「雑行が自力で捨てられるかどうか」というようなことは親鸞会だけが問題にしているが、それは親鸞会が【諸善万行を行ってみて、それが廃ること(できないこと)がわからないと、(20願を経て)18願で救われない】という変てこな解釈をしているから、そのような疑問が起こるのだろう。
つまり19願行を本願の救いの必須条件に置いているから、捨てるだの捨てないだの悩むことになる。
親鸞聖人はたしかに浄土仏教に出会う前は山で雑行修行をされていて、中興の祖・蓮如上人が「何事も聖人のようにせよ」と仰られたのは本当だ。
高森会長は当初それを曲解・誤解して(カルト路線に入った後は人集め・金集めに利用できると踏んで)18願で助かるためにはまず、19願の雑行(諸善)をせよと誤った教えを説いている。
誤っているという根拠は親鸞聖人が阿弥陀仏の19願を勧められた御文はないということが決定的だ。もし勧められていたなら無いはずがない。経典に教義として勧める内容を書かないと言うなら、もはやそれは宗教経典とは言えないだろう。現に18願の念仏を勧められた御文があれほどたくさんあるのと対比すれば、19願の雑行や三願転入を聖人が勧められていないというのは全く自明のことだ。
しかも高森会のいうとおりだと、9歳の聖人が「廃ることがわかるために雑行をされていた」ことになるが、当時浄土仏教を知らなかったであろう聖人がそんなことを思うはずがない。
それとも聖人が20年余後の法然上人との邂逅・対機の経験を予知して実行できる超能力者だったとでも言いたいのであろうか。
また親鸞会は勧誘やお布施を善行として勧めている。この親鸞会の考えだと家が何件も建つぐらいお布施をした会員がいたが、その人は結局諸善万行ができなかったことを知り、自力念仏の20願に転入することになる。それは何千万円もの大金の献金が【結局無意味とわかるためにだけに!】なされた行と考えることになる。
歎異抄にこのようなことを戒めている十八章があることを知らないのであろうか?
親鸞会高森氏の教えはまったく真宗を破壊したふざけた教義と言える。
投稿: | 2014年1月14日 (火) 23時55分
元会員です。
法然上人が、「雑行を捨てて正行に帰せよ」と言われたのが、「諸善を廃してただ念仏を用いよ」という「行い」について言われたことだというのは、選択本願念仏集を読めば誰でもわかることでしょう。ハッキリそう書かれてありますから。「心がけ」については、雑修、専修という別の言葉を使っておられますし。
ただ、法然上人の教え方は、行を前面に出しつつも、「自力諸善を廃して他力念仏を称えよ」と言われているので、その限りでは、雑行を捨てて念仏に帰するのが、自力を捨てて他力に帰することだ、と読めると思います。このような教え方から「念仏に帰する」を省略して、行いを捨てるのではなく心がけを捨てるのだ、という説明を付け加えれば、親鸞会理論ができあがります。
行いよりも心がけに重きを措いた話がそれらしく聞こえるのは、親鸞聖人の教えが信心正因だからでしょう。親鸞聖人は、他力の念仏は往生できるが、自力の念仏では往生できない、と言われているわけですから。阿弥陀仏の六字名号のはたらきで称える念仏と、行いを慎み悪をおそれて称える念仏とがあるのと同じように、「報謝の行」と「雑行」とがあるのだと。
ただ、話としてはもっともらしくても、根拠がないですよね。親鸞聖人が諸善について言われているのは、諸善で往生しようとしてどんな行いをどんな心がけで修しても(雑行雑心、雑行専心、専行雑心のいずれであっても)往生できない、ということであって、「自力の諸行」を離れて「報謝の諸行」で往生すべしとは言われていません。念仏こそが往生の行なんですから。
しかも、昔の親鸞会は、雑行だからといって善をしないのでは今生での善果が得られませんよ、と言っていましたが、最近の親鸞会は、雑行を修する気持ちを起こさせてしかもそれを捨てさせるのが三願だと、雑行が捨てものなのか拾いものかよく分からない説明をするようになっています。「念仏」を「諸善」に置き換えてしまっているわけです。親鸞会的三願転入論がどれほどヘンテコなものかに気付くのは、それほど難しくなくなっていると思います。
「雑行(自力諸善)を自力で捨てることができるか」という問いは非常に奇妙な問いで、心がけについていえば、自力を自力で捨てられないのは当然だし、行についていえば、諸善を廃して念仏一行を修することができるのは当然です。また、後者について自力か他力かという問いを持ち込むなら、自力の念仏と他力の念仏の分かれ目を問題とすべきだと思うのですが、どうして「雑行を捨てる」ばかり出てきて「念仏を称える」が出てこないのかが謎です。こういうトリッキーな質問に対する答え方が人によって違うとしても、親鸞会的三願転入論の当否とは何の関係もないと思うのですが…。
実際問題、雑行を捨てよというのが行について言われたことなのかどうかを検証したいのであれば、「諸善を廃して念仏を称えよ」という教えがお聖教の中にあるかどうか、親鸞聖人、蓮如上人のお2方がどこにどのように言われているかを、探してみるのが一番いいんじゃないでしょうか。
投稿: | 2014年1月15日 (水) 01時43分
今日の講演、たのしんで拝聴させていただきました。
僕はカルト宗教の問題に少し興味があって、瓜生さんの事は存じ上げていませんでしたが、エホバの証人・統一教会・顕彰会・アーレフ・光の輪・創価学会などを個人的に調べていた所に、今回のご講演がきっかけで、改めてカルト教団の卑劣さと巧妙な手口に感心しました。
僕自身は、上祐さんの事も含めて、瓜生さんが未だに白か黒かはわかりません。しかしながら、言うまでもなく上祐さんが行った諸々の悪行をリスペクトするわけではありませんが、瓜生さんも含めた御二人のディベート能力には憧れます。(o^-^o)
受験を一年前に控えていい刺激になりました。
きょうはありがとうございました!
、、、ちなみに
瓜生さんは、親鸞会の高森会長が、(親鸞会内でのマインドコントロールや激しい勧誘、その他の悪い行いがあったとして、)巻き上げた金で贅沢をしていなかったのなら、今頃どうしていたと思いますか?
投稿: 平安の生徒です | 2014年1月16日 (木) 21時40分
古くは耳四郎の例にも見るがごとく、悪に強き者は善にも強いとも申します。それでゆくと、息子さんは悪にさえ強くないように思われます。
大谷派では暁烏敏師とその高弟である高光大船師、毎田周一師が、真剣に不倫していらっしゃいました。暁烏師は夫人と愛人(現在の奈良女子大出身の女学校教師)を同伴して旅行に出て記念写真まで撮っていらっしゃるし、高光師は夫人と二人の愛人との間を行ったり来たりするご自分を「足の裏に米粒がひっついとるわ」と苦笑しつつ達観しておられました。
そして毎田師に至っては、愛人との間に子までもうけた。月日は流れ、夫の不行跡に悩む君島一郎氏(故人)夫人が若き日に道を求めた亡き毎田師の夫人(本妻さん)に相談にゆくや、夫人は自己の経験をも踏まえつつ、不行跡な夫を変えるよりも、自己を充実せしめよと説かれたとか(君島立洋著『父・君島一郎』より)。
私がこれまで一度ならず息子さんは思い切って開き直り、「こんなわしでも弥陀に救われる見本にはなれる!」と会員さんの前で高らかに宣言するよう建議しているのは、こうした偉大な先例あればこそ、です。
ちなみに、「わしは人から仰がれる手本にはなれんが、こんなわしでも弥陀に救われるという見本にならなれる」とおっしゃったのは、一部の市民から「あんなやつは人間じゃない」と冷笑されながらも、孜々として法を説き続けられた高光師のお言葉であります。付け加えますと、高光師を師と仰ぐ人々は、冷笑する人々へ
「そうです、仏さまです!」
と反撃した、と聞いております。
2チャンネルでは最近、息子さんが琵琶湖湖畔の歓楽街に出没し、大金を散じているうんぬんと書き込みあり。真偽のほどは、もとより確かめようもありません。
それでも、息子さんが本当に言われるごとく、1回10万円もするお店で遊んでいらっしゃるのであれば、今こそ豊田商事時代の夢をふたたび、一番の高級店「フォー○○ン」さんの常連となり、作家花村萬月氏(若き日のご縁から本当にアドバイザーをしていらっしゃる)に代わって、新たにお店のアドバイザー、いや、「精神的指導者」となり、大所高所からお店の前途を指導されたらどうでしょうか。
アンバパーリーを教導されたお釈迦さま、売春宿でも法を説いた維摩居士や、元暁大師(古代朝鮮の高僧。ただし還俗して子をなす)の例もございます。ここに謹んで息子さんとそのお取巻きの皆様の御一考を念じ上げます。
投稿: 悪に強き者は… | 2014年1月18日 (土) 09時36分
平安の生徒さん、ぶるうのです。
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瓜生さんは、親鸞会の高森会長が、(親鸞会内でのマインドコントロールや激しい勧誘、その他の悪い行いがあったとして、)巻き上げた金で贅沢をしていなかったのなら、今頃どうしていたと思いますか?
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ということですが、巻き上げたお金で贅沢しているということ以外にもいろんな疑問があったので、結果としてはやめていたと思います。あの時間内ではそのくらいしか話ができなかったということなので、他にも脱会のファクターはあったんです。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 12時11分
親鸞会も学生勧誘がうまくいかず年配者をターゲットにしてるみたい
投稿: | 2014年1月18日 (土) 15時50分
ときどき新聞に浄土真宗無料講座のチラシが入っています。公的な施設を借りてやっています。北陸地方は菊池という名の講師が責任者のようです。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 19時41分
親鸞会が公的な施設を借りて講座をひらくのは、一般の人が入りやすい会場を使うということ以外にも、公的機関がお墨付きを与えたかのような印象を与えるという狙いもあります。
多くの地方自治体では、管轄下の公的施設での宗教活動は禁止されています。
見つけたら役所に知らせてあげるのも善いと思います。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 20時08分
>「雑行」が自力で捨てられるかどうかですか?
>そんなのどっちでもいいのではないでしょうか…?
>自力も他力もありません。
>お念仏申される様になったら、振り返ってその意味がわかると思います。
どっちでもいい?
自力も他力もない?
「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり。
故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、
くわしく何とたのめということをしらざりき。
然れば前々住上人(蓮如上人)の御代に『御文』を御作り候いて、
「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」
とあきらかにしらせられ候。
然れば御再興の上人にてましますものなり」
『蓮如上人御一代記聞書』
「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」が真宗の肝要。
なのに、どっちでもいい?
・本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ(唯信鈔文意)
・今の真宗においては、専ら、自力をすてて、他力に帰するをもって宗の極致とする(改邪鈔)
「捨自帰他」こそが親鸞聖人の教えの肝要ではないのですか?
>そんなのどっちでもいいのではないでしょうか…?
>自力も他力もありません。
瓜生さんに限らず、本願寺の坊主は大体そうなのかもしれませんね。
「どっちでもいい」に賛成のコメントもあがってますし。
「肝要」が抜けてしまっている。
本願寺が急激に衰退しているのも分かります。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 20時30分
親鸞会の方は、高森会長の話をもっと真剣に聴聞したほうがよいと思います。
そもそも高森会長の教えをきちんと理解できていないから、会長の教えのどこが問題かもわからないのです。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 21時37分
英雄色を好む 色を好むからとて英雄ではない。
頭の良い人は そうでない人を理解しようとするが アホは
頭の良い人を理解できない。
下手な鉄砲は数撃っても当たらない。
つまり スケベでアホな人間はどこで何をやっても まともに勤まらない。
参謀とか局長とか名前変えても アホでスケベは はずれっぱなしである。
投稿: | 2014年1月18日 (土) 22時05分
以前ご教示を受けた問題を再度ご教示いただければと…
西日本の農村に老夫婦二人ぐらしのところへ以前親鸞会の布教師が押しかけては洗脳し、もう少しで家を売り払って富山へ行ってしまうところでした。幸いお子さんがたが配偶者同伴で変わりばんこに老親を見守り、数か月かけて布教師を撃退した。
今はでも、再び老親の二人ぐらしだそうです。父親のほうは高森氏と同世代であり、数年前に転んでからは、ずっと床に就いていらっしゃるとか。彼ら老夫婦の子女の一人と私が同僚だったのですが、
「これでもうあの布教師たちも来ないでしょう」
とのんきなことを言っている……やっぱりこれって能天気ですよね?カルトのカルトたるゆえんは、その非常識さにあると思うのです。寝付いている老人(もと公務員,旧制中学卒)の耳元で、親鸞会の関係者が地獄ゆきの恐怖を煽るんではないか、そんな気がしてなりません。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 10時24分
現在オウムの平田信の裁判が報道されています。
多数の若者の将来を破壊したカルト教団で多数の信者が巻き込まれ未来が閉じられました。閉じられた未来も最悪の信者は死刑囚としての未来を与えられました。オウムと親鸞会は同じカルトとしても、親鸞会高森会長の側近で死刑囚になっていませんから、まだマシです。親鸞会信者の被害は時間と金銭だけです。まぁ親鸞会のカルトのレベルはオウムが大学とすれば親鸞会はカルトの幼稚園程度と思います。現役学徒の皆さんが訪問されていたなら、ぜひオウム裁判で若者がオウムに引き込まれ死刑囚の階段を一歩一歩進む姿に注目してみたらでうでしょうか。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 10時35分
撃退したからってのんきにしていたらいけない。
最近では縁を離れた人に誘いの案内をしてるらしいよ。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 16時07分
「ご両親は親鸞会とご縁があったのに子供が邪魔をした」と考える可能性はあります。
家族の反対に対して対策を講じた上で再度押しかけてくる場合もあると思われます。実際、そのような手口には数十年かけて研究し実績を積んでいますから、油断なさらないほうがよいと思います。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 16時44分
最近は若者がネットで簡単に親鸞会のカルト性を
知ることができるので、親鸞会は老人にターゲットを絞っている。
誰でも死ぬのは怖いし、死後のことは気になるから
(親鸞会で話を聞かなければ死後地獄に落ちる)と
言われると簡単に嵌められてしまうのだろう。
まだまだ警戒は必要だ。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 17時48分
肝要が抜け、教義を軽んじると、こんな議論ばかりになるのですね。
よく分かりました。
>スケベでアホな人間はどこで何をやっても まともに勤まらない。
>アホでスケベは はずれっぱなしである。
>
>投稿: | 2014年1月18日 (土) 22時05分
でも、瓜生さん、ほんとうにこんなことに時間かけてていいんですか?
こうばいさんも勧学寮頭もダメだと、嘆いているようですが。
まず教義、信仰をしっかりすべきでは?
投稿: | 2014年1月19日 (日) 18時44分
なんか親鸞会はだんだんと豊田商事と類似(類似は以前から)して、現在の親鸞会はアラカサマに豊田商事が高齢者を標的にして金の証券を売り付けて高齢者のお金を巻き上げた行為と同じことをしていますね。
現在の親鸞会の財政難を現しているのかも知れません。講師にも財政のノルマも与えられでいますから、高齢者世帯なら狙われます。首尾よく高齢者から全財産を巻き上げた講師もいづれ親鸞会から除名で消える身の上です。哀れ、哀れ現役会員のうちに覚醒あれかしと、朝夕思いはんべり、誠に縁まかせとはいえ、哀れみの心いまだ止むことなし。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 18時55分
親鸞会では「目的は手段を正当化する」など公然と言われていましたが、少なくとも仏法の土俵の上ではそのような屁理屈は成り立ちません。
人生の目的のためならウソもつくし破廉恥行為もするなどというのは、あまりにも分かりやすいカルト性の顕現です。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時07分
生きる目的は何?どうやって達成するのか?素人にわかりやすく書いてありますか?
投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時15分
ちょっと分かりにくい表現だったので修正します。
↓↓↓
肝要が抜け、教義を軽んじると、こんな議論ばかりになるのですね。
よく分かりました。
>スケベでアホな人間はどこで何をやっても まともに勤まらない。
>アホでスケベは はずれっぱなしである。
>
>投稿: | 2014年1月18日 (土) 22時05分
でも、瓜生さん、ほんとうにこんなことに時間かけてていいんですか?
【こうばいさんも「今の勧学寮頭はダメだ」と、嘆いているようですが。
】
まず教義、信仰をしっかりすべきでは?
投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時27分
そこまでおっしゃるのであれば、貴台ご自身で肝要(教義、信仰)をしっかりさせればよろしいではありませんか。方法はいろいろあると思います。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時47分
その通りと感じます。注文して用意してもらえる立場かどうか自身に問うべき。求める物を得たいなら注文よりも自身で用意して、訪問者に与えて下さいませ。あなたにその能力があればです。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 20時15分
さよなら親鸞会
元会員から見た親鸞会のすがた
ぶるうのさんが言いたいのは「親鸞会ってこんな所なんですよ、変でしょ、間違っているでしょ」と 狂った組織や 会長の裏の顔、苦しむ会員の姿等を発信してくれています。
親鸞会のすがたって本当はこんなに醜いんですよ。って教えてくれてます。
それに対して元会員や たまに現役会員(講師?)がコメントし、それを見た普通の会員が退会するか残るか判断する基準にすれば良いってぶるうのさんは思われているんじゃないですか。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 21時41分
退会して知らされた二代目の評価なんて
あほでスケベで人望が無い人の上に立てない奴って ハッキリわかったよ。ホントにやめてよかった。
ぶるうのさんありがとね。
投稿: | 2014年1月19日 (日) 21時52分
他力、自力、どっちでもいいというのは誤解を生む表現だったかもしれませんね。
他力とか自力とか、そういうところを計らわなくていいのではないですか、位にしておいたほうが良かったかもです。
雑行がすたるのは自力か、他力か、というのが元々のコメントでしたでしょうか。自力が自力で捨てられることはありませんので、雑行を自力とすればすたるのは他力によります、というお返事になるのでしょう。表面に現れた自分の行動としての「雑行」で言えば、見る位置によって自力か他力か解釈が分かれるところかもしれませんね。
私が思いますのは、親鸞聖人が王舎城の悲劇の登場人物を次々と書かれて、それらすべてを阿弥陀仏のご方便と味われたように、私が自力で悩んで計らって聴聞したりお念仏したりすることも、すべて他力の中でなさしめられたものではないかと思います。そうなると、私の側から見たら自力に思えたことも、振り返ってみればすべて南無阿弥陀仏の中でなされたものです。
これは自力、あれは他力と分別しているくらいなら、それは私のはからいにほかならないのですから、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の仰せの通りになさって下さい、としか私は言い様が無いです。
これこそが「捨自帰他」の要ではありませんか?
投稿: ぶるうの | 2014年1月19日 (日) 22時01分
そういえば、こんな書き込みもありました。
>でも、瓜生さん、ほんとうにこんなことに時間かけてていいんですか?
>【こうばいさんも「今の勧学寮頭はダメだ」と、嘆いているようですが。
】
こうばいさんが「今の勧学寮頭はダメだ」と言っている理由も勧学寮頭さんがどういう人かも私はわかりませんので、なんとも言えません。
ところで、こんなことに時間をかけてていいんですかの「こんなこと」ってなんでしょうか?
>まず教義、信仰をしっかりすべきでは?
そうですね。でも、教義をしっかりする、信仰をしっかりするというのは、何をどうすることを言われているのでしょうか。
私は親鸞会にいた時に、唯一の正しい解釈以外は全部間違っていて、親鸞会の完璧な教義体系こそが全てだと思っていましたし、信仰もしっかりしなければと思っていました。信仰が進むとああだこうだとか、そう言われていたこともありますし。
今となっては、お念仏以外なんも必要なかったんだなって思います。少なくとも、しっかりした信仰になって救われる教えではなかったと思います。そのことさえ間違ってなければ、教義にしてもいろんな見方があっていいものだといまは思っています。もちろん、その部分を大きく外した教義ならば(親鸞会みたいに)ダメですけど。
私のブログでは教義についてはあまり触れませんが、久しぶりに親鸞会時代みたいにお聖教の言葉を書いて「肝要が抜けてる」みたいに書いてくれる人がいて、懐かしかったです。
投稿: ぶるうの | 2014年1月19日 (日) 22時13分
二代目
たいやき事件
不倫事件
人望なし
投稿: | 2014年1月19日 (日) 22時53分
自称阿弥陀仏の化身こと中根繁氏は、メンタルヘルス友の会をオンリーライフと名称を変えて、豊島区立勤労福祉会館で活動してるみたいですね。代表者は菅野景司氏だそうです。親鸞会も公共の施設を借りてますが、豊島区立勤労福祉会館も公共の施設ですが問題ないのでしょうか?
投稿: | 2014年1月20日 (月) 10時44分
紅楳英顕氏の嘆きはこれですね。
http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/kinnnenn.htm
この度、新勧学寮頭が誕生したが、信心不決定体質は一向に変わりはない。
著よりみるに、 念仏の信前と信後の違いを全く認識出来ていない、信心不決定の寮頭といえる。
最近の『真宗学』第一二六号(平成二十四年三月)にも「私は回心を直線的時間の上に置くのもいかがと思います。三願転入のあの転入の時は(中略)、歴史家の詮索するところであって、行信論においてはそういうことを問題にしないというのが、私はよいと思います。(中略)
★ある時点で信心をいただいたことが分かるんだという方もおられると思いますけど、私はそうではない」(九三頁)
と述べているように、二十願(信前真門自力念仏)から十八願(信後弘願他力念仏)への転入の事実を否定し、また信心獲得の確信(機辺の決定心)、をも否定しているのである。教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に全く光はないと想う。
。。。。。。。。。。。。。。。
無帰命安心の親玉のようですが、ひょっとして、瓜生氏も
紅楳英顕氏に嘆かれる立場???
投稿: | 2014年1月20日 (月) 20時50分
アニメバス?お値段如何ほど?
これから お布施?
投稿: | 2014年1月20日 (月) 21時56分
弥陀に帰命せず高森会長に帰命したところで安楽椅子にドン座ってしまう型の無帰命安心もある。
投稿: | 2014年1月20日 (月) 22時19分
自分達の唱える人生の目的すら逸脱している。
会長という『板きれ』にしがみついて自己満足している
講師部員。
投稿: | 2014年1月20日 (月) 22時31分
http://ameblo.jp/oakmonn/entry-11751850663.html
環境が限界を作る! 自分をひとまわ【い】大きくするコツ
↑
東大にうかるほどの学力の持ち主であることが表看板の某現役講師のブログ記事のタイトルです。いったいいつになったら訂正なさるのか。発表からすでに4日を経ておりますが、そんなにお忙しいのでしょうか。
以前どなたかがこの欄で、「うろおぼえ」と書くべきところを、おそらくは手元がくるって「うるおぼえ」と書いてしまわれたのを目ざとく見つけた工作員が
「うるうるしないでくださいよ本願寺さん」
うんぬんと書き込まれました。自己の意に逆らうことはなんでもかんでも本願寺関係者の書き込みと信じて疑わないカルト脳に呆れ返りつつ、こういうことは立場のいかんを問わず互いに包容し合うようでなければならぬと感じて次第でございます。
--うかっても東大京大とは違い、とある難関学部の合格者以外は『サンデー毎日』で報じてもらえぬ某私大出身者より
投稿: 弘法にも筆のあやまり,でしょうか | 2014年1月21日 (火) 17時00分
遅ればせながら、先日の「同僚の老親」に関する、皆様からの前回にもまして懇切なご教示の数々、幾重にも御礼申し上げます。
30秒に1回はアイドル歌手の親衛隊(古いか…)さながら、高森先生の御名(みな)を唱え続ける--お念仏ならばともかく--ご老人のお姿に慄然と致しました。寝たきり老人となられたというご本人には失礼のきわみながら、確かにこれでは「奇形人間」と言われても仕方がないか…と感じました。
工作員とおぼしき人物が以前この欄を「加齢臭ただよう」云々と嘲笑しておりましたが、工作員として組織の内部事情を知り得る立場上、皆様をしてどこまでも責任追及に向かわしめる元凶が誰であるのか、彼も知らないはずはありますまい。加齢臭だのなんだの、言いたい奴には言わせておけばいいと思います。ただ、お互い目は大切にしたいものです。工作員に付け入る隙を与えぬためにも…。
ただ、西本願寺座り込み30周年が今月であるにかかわらず、正確な日付がわからないのは残念。どなたかご教示頂ければ幸甚に存じます。
投稿: お年寄り問題の件,ありがとう! | 2014年1月21日 (火) 17時15分
>西本願寺座り込み
http://www.yosizaki.net/modules/bwiki/index.php?%B9%E2%BF%B9%B2%F1
投稿: | 2014年1月21日 (火) 17時59分
私は座り込みに参加しました。親鸞会関係の新聞を探せば日付はハッキリしますが、私の記憶では1月5日に座り込み6日の早朝に解散しました。参加者全員一睡もしないでの抗議でした。私の白道の著者もハンドマイクで西本願寺に抗議していました。
投稿: | 2014年1月21日 (火) 18時14分
瓜生氏は、現・勧学寮頭と紅楳英顕氏と。
また、どっちでもいい、ただ念仏ですとか残念なこといわないでくださいね。
恩徳讃のお気持ちで死刑流刑覚悟で仏法を伝えられ、『教行信証』を著された偉大な方を宗祖に持たれたのですから。
親鸞聖人の歩まれた道を理想とし、少しでも近づくべきではないでしょうか?
せめて、少しは教義を明らかにしてもらいたいものです。
以下、ニュース
。。。。。。。。。。。
●本願寺の教義の最高責任者・徳永道雄(一道)氏が決定的な問題発言
をしたため、本願寺内部でも問題になっています。
紅楳英顕氏の嘆き
http://www12.ocn.ne.jp/~kobai/kinnnenn.htm
この度、【新勧学寮頭】が誕生したが、信心不決定体質は一向に変わりはない。
著よりみるに、 念仏の信前と信後の違いを全く認識出来ていない、
信心不決定の寮頭といえる。
最近の『真宗学』第一二六号(平成二十四年三月)にも
「私は回心を直線的時間の上に置くのもいかがと思います。
三願転入のあの転入の時は(中略)、歴史家の詮索するところであって、
行信論においてはそういうことを問題にしないというのが、
私はよいと思います。(中略)
★ある時点で信心をいただいたことが分かるんだという方も
おられると思いますけど、私はそうではない」(九三頁)
と述べているように、二十願(信前真門自力念仏)から十八願
(信後弘願他力念仏)への転入の事実を否定し、また信心獲得の
確信(機辺の決定心)、をも否定しているのである。
教学、安心の最高責任者がこのようなことでは宗門の将来に
全く光はないと想う。
。。。。。。。。。。。。。。。
「勧学寮頭」とは、本願寺の教義の最高責任者です。
以下は、より詳しい発言です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
■質問者
「獲得名号」と回心をどう思われますか。
■徳永道雄(一道)勧学寮頭
私は、回心を直接的時間の上に置くのもいかがと思います。
三願転入のあの転入の時は、六角堂参籠の時とか、三部経の
読誦の時とか、いろんなやかましい議論がありますが、
それは歴史家の詮索することであって、
行信論においてそういうことを問題にしないというのが、
私はよいと思います。
もちろん、反対のご意見もおありでしょうけど、
【ある時点ではっきりと信心をいただいたことが分かるんだ
という方もおられると思いますけども、
それはそれでいいと思いますけど、私はそうではない。】
すべて如来の側に帰すべきであって、それは如来の仕事である
というふうに理解すればよかろうと思います。
【三十年、四十年聴聞している人たちは、そういうことは
消し飛んでしまう。
回心があろうとなかろうとですね、あの人たちはただ如来の声
を聞きたくて来ているという、そういう素晴らしい人たちです。
こういう人たちを見ていたら、そういうことを問題にする必要は
なくなるというのが私の言いたいところです。】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
整理しますと、
「阿弥陀仏に救われても(回心しても)、ハッキリする人としない人がいる、
私は、ハッキリしない」
「阿弥陀仏に救われてても救われなくても(回心してもしなくても)問題にならなくなる。
また、問題にする必要はない」
という問題発言です。
親鸞聖人の『教行信証』の最初に、「誠なるかなや」と言われ、
全編に書かれていることは、弥陀の不思議な救いの讃嘆と、広大な慶心ばかりです。
覚如上人も「救われたことを喜んでいる」と『執持鈔』におっしゃっています。
蓮如上人も「他力の信心を今獲たり、弥陀より賜った大信心ということ、
今こそ明らかに知られたり」と『御文章』に記されています。
ハッキリしなければ、往生の一大事、安心できません。
救われた喜びがなければ「真宗宗歌」も歌われません。
「真宗宗歌」には、
「永久の闇より救われし、身の幸なにに比ぶべき」とか、
「深きみ法にあいまつる、身の幸なににたとうべき」
と歌われているからです。
親鸞聖人は、『教行信証』に
「金剛の真心(他力回向の信心)を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、
【必ず】現生に十種の益を獲。
と教えておられます。
他力の信心を獲得すれば、【必ず】現生に十種の幸せを獲ることが
出来るのです。勧学寮頭は、こんな幸せを獲ても気づかないことも
あるし、気づこうが気づくまいが、どうでもいい、のでしょうか?
本願寺の教えは、親鸞聖人の教えと異なるようです。
投稿: | 2014年1月21日 (火) 21時18分
失礼しました。言葉が切れていましたね。
↓↓↓
瓜生氏は、現・勧学寮頭と紅楳英顕氏とどっちが正しいと思っているのだろう。
投稿: | 2014年1月21日 (火) 21時50分
上のコメントを書かれたのは、玉見さんですね。
揚げ足取りに熱心なようですが、
親鸞会の教えは、親鸞聖人の教えと完全に異なっています。
はやくお気づきください。
投稿: 珠美 | 2014年1月21日 (火) 21時54分
2014年1月21日 (火) 21時18分の方へ
「あなたは「ハッキリ」したんですか?」
投稿: | 2014年1月21日 (火) 23時13分
「高森先生しかおられません!」とハッキリしているのでしょう。
そしてこの道一つとドン座ります。
投稿: | 2014年1月21日 (火) 23時56分
なんか本願寺の勧学さんがどうだと色々教学的な内容を書き込んでおられる富山の人がいますけど、前後の文脈を読んでみないとわかりませんので、掲載誌を送って下さい。そうしたらお答えしますので。
送り先
〒527-0056 滋賀県東近江市御園町441玄照寺
投稿: ぶるうの | 2014年1月22日 (水) 00時51分
オウム平田被告公判で中川死刑囚は「やめていれば良かった」と言ってました。
同じくカルトである親鸞会でも後悔している会員、講師部員は多いでしょうね。
投稿: | 2014年1月22日 (水) 01時21分
後悔しても被害の大小がありますから脱会は早ければ早い程最小限で止められます。決断が人生を決めます。中川死刑囚は京都府立医科大学を卒業した医師ですか、平田被告の裁判の証人尋問で中川死刑囚が後悔を述べても現在の立場(死刑囚)での後悔の言葉は馬の耳に念仏でしかありません。
現役学徒と講師部の世迷い人の皆さん。自己判断の責任は自身で背負います。以上。
投稿: | 2014年1月22日 (水) 08時15分
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-3e7f.html
飛雲さんは、(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」に入る、という理解ですね。
【男らしく】ハッキリ答えてください!
投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時26分
↑
飛雲さんへここ数日来ねちっこく論争をいどんでいる人物の書き込みです。現役会員なのか、元会員なのか判然としませんが、親鸞会的な「黒か白かの思考様式」に依然として支配されている人物と言わざるを得ません。
ここで揚げ足を取るようで済まないけれど(事実、揚げ足なのですが…)、この【男らしく】という形容詞、そうですね、組(そ)の会合以上のおおやけの席では東も西も、特にお東では、絶対、口にしないほうがいいでしょう。それこそご本山に呼び出しを受け、「調理」されてしまいますよ(「調理」とは元来、江戸期における本山での異安心査問のこと)。
現役会員さんも、元会員さんも、親鸞会とは縁もゆかりもない一般人との会話(普通の末寺関係者をも含む)には、今後はもっと留意なさったほうがいいように存じます。
でも戦争が終わってもなお、「参謀」だの「中隊長」だのいう職称を幹部へ与えていた親鸞会のこと。そこで染み付いた習気(じっけ)を除くには、よほどしっかりとした意識を持たねばならぬことでしょう。
幸いぶるうのさんはすてきな仲間に恵まれています。「洗脳は結婚して奥さんに解いてもらうのが一番」と語った、早稲田出身の元オウム信徒猪瀬氏のことをなつかしく思い出します(日比谷公園内で尊師が裁かれている裁判所へ向かって「立位礼拝」。家族の懇願で警察に無理に逮捕してもらって脱会した人です)。
息子さんの不倫にしても、彼の置かれた立場の特異性に加え、父親から受け継いだ女性蔑視のなせるわざではないかとも見られるのですが…。
投稿: 現役会員さんも脱会者さんも… | 2014年1月22日 (水) 10時07分
お二方、ありがとうございます。
私の記憶する限りでは宗教ジャーナリスト室生忠氏が昭和59年(1984)に時の経済社からお出しになった『若者はなぜ新・新宗教に走るのか』が、一章まるまる親鸞会について書いており、座り込み事件に関する記述も詳細であったように記憶致します。その本はその後、被害者の会でご縁のできた親御さんへお譲りしたので、今は手元にございませんが、
雪国に響く死からの解放
という章のタイトルは、まじめに人生を考えていた親鸞会に集う若者たちのいじらしさを改めて印象付けるとともに、この世には若者の純粋さを利用する陰険な人間がいるんだなぁと認識させるに十分でした。
今はもう、古本屋でしか手に入らないでしょうが、もっと読まれてよい文章だと仰いでおります(ただし小澤浩先生の場合と同様、高森氏に関する叙述は詐欺師の語るところをそのまま録したに過ぎぬから、読む必要もありますまいが…)
投稿: 座り込みに関するご教示に感謝! | 2014年1月22日 (水) 10時26分
室津の遊女へ御説法なさる場面が『法然上人絵伝』にありましたよね。その向こうを張って息子さんも
琵琶湖湖上に浮かべたクルーザーの上で
雄琴の女性たちへ説法なさればいいんではないかと存じます。この点、取巻連の皆さんが真摯に考慮することを希望します。
投稿: そうだ、法然上人にも… | 2014年1月22日 (水) 10時38分
(前略)
ハッキリしなければ、往生の一大事、安心できません。
救われた喜びがなければ「真宗宗歌」も歌われません。
「真宗宗歌」には、
「永久の闇より救われし、身の幸なにに比ぶべき」とか、
「深きみ法にあいまつる、身の幸なににたとうべき」
と歌われているからです。
(後略)
投稿: | 2014年1月21日 (火) 21時18分
↑
あれっ? これって確か『親鸞会/本願寺どちらが本当か』(うろ覚えでごめんなさい)とかいう会内向け書籍の一段とほぼ同文ではありませんか。馬脚を現すって、このことですよね。
投稿: あれっ、どこかで読んだような… | 2014年1月22日 (水) 10時48分
親鸞会の人は、基本、高森さんの本に書いてあることしか言えない。
投稿: | 2014年1月22日 (水) 15時07分
『親鸞会と本願寺の主張 どちらがウソか』に、「救われれた喜びがなければ「真宗宗歌」も歌われません」うんぬんの叙述が見られます。お里が知れるとはこのことかと存じます。
投稿: | 2014年1月22日 (水) 15時20分
会長先生は皆さんが信心決定してくれと日夜願われています。ですから皆さんはお布施の額でお礼しましょう。
それと皆さんが信心決定する為には親鸞会以外の書籍は読まないことです。
会長先生以外の書籍に触れる行為は信心決定を遠避けます。
会長先生の言い付けを守ることが信心決定の近道です。
こんな言葉を講師様から言われて何十年の歳月を経て社会復帰は無理になり、人間関係は親鸞会だけ 「真実は親鸞会のみ」
と自身を慰めて残りの人生を生きます。内心は「やられた」
投稿: | 2014年1月22日 (水) 15時26分
そういえば、上記の浄土真宗本願寺派・西本願寺でのご法話・法要のお礼は皆様どうされていますか?最後に「やられた」と思いたくないので・・・。(笑)
南無阿弥陀仏
投稿: | 2014年1月26日 (日) 16時57分
ごほうれいの金額決まってるとか、お勤めに遅れるなら連絡しろとか名前書けとか意味がわからん
投稿: | 2014年1月27日 (月) 00時30分
最近生きのいいのが荒らしに来ているようだが、仲間内では「あの時ウソつき勧誘をしていただかなかったならば、私は仏法聞けなかった。」「高森先生と先輩方のウソつき勧誘あったなればこそ」と感動を語るのだろうね。
「ウソも方便」どころではない「ウソが方便」だな。
投稿: | 2014年1月27日 (月) 22時19分
方便の方は正直と記憶している
南無阿弥陀仏
投稿: | 2014年1月27日 (月) 22時45分
本願寺サンも、入会したら結局は後々お布施の請求が来ますよ。寺や瓦の修理代とか色々な名目を言って。
投稿: | 2014年1月27日 (月) 23時07分
寺や瓦の修理って50万もしない。
親鸞会は億だろ
投稿: | 2014年1月27日 (月) 23時25分
親鸞会は個人から何百万円何千万円と搾り取って池にダムに橋です。
会長は悪フザケして会員をおもちゃにしているだけ。
「本願寺サンから寺や瓦の修理代の請求が来る」と言うのは親鸞会本に書いてあること。
「嘘を吐かなければ求道にならない」が親鸞会の当たり前。
何の変哲もない外道です。
投稿: | 2014年1月27日 (月) 23時50分
http://ameblo.jp/oakmonn/entry-11759132279.html
生きる目的を知らされ、生きる意味をハッキリ知らされた時、
「生まれ難い人間に生まれることが出来て良かった!!」
と生命の大歓喜を味わうことができます。
「人身(じんしん)受け難し 今已に受く」
↑
人身事故じゃあるまいし、仏教講師なんだから、「にんじん」とただしく読んでほしいものですよね。弘法にも筆のあやまり、東大合格を果たしたお●●んさんにもこの不明あり、というところでしょうか。
投稿: 「人身」事故でもあるまいに | 2014年1月28日 (火) 08時04分
ダムと仏教の関係、根拠を教えていただきたい。
正本堂から駐車場までの地下道は不要です。除雪車あれば経費は安くすみますね。
投稿: | 2014年1月29日 (水) 12時53分
会員をプールしたいだけでしょ
教義が留まらせて絞るためだもん
救いがない
投稿: | 2014年1月29日 (水) 14時18分
この
投稿: | 2014年1月30日 (木) 23時59分
ダム湖に舟を浮かべ、雅楽の音も高らかに仏法讃嘆をする、という宣伝でしたが、はたして本当に実行に移されたのでしょうか? そうでないのならこれほど会員を愚弄する事業もないのではないかと思います!
投稿: | 2014年1月31日 (金) 17時43分
過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ
↑
自分が過ちを犯したことに気づいたら、体裁や対面などにとらわれることなく、ただちに改めるべきである、という意味の『論語』の名句です。
この欄をお借りして、お●●んさんのブログで見かけた誤字や仏教御語としては間違った読み方(「人身」と書いて「にんじん」でなく「じんしん」と誤読していらっしゃる)を敢えて指摘させていただきましたが、一向に訂正なさる御様子なし。どうもこれは彼自身の態度というよりは、親鸞会にどっぷりはまっているうちに、師である高森氏のそれに学び、たとい間違っていても体裁を気にするあまり、どこまでも誤りを犯したまま突っ切るようになってしまったものとみるべきではないでしょうか。
お●●んさんはせっかく東大に入るだけの頭脳をお持ちでいらっしゃりながら、本当にもったいないことをなさいました。彼をこんな変わり果てた畸形人間にしてしまった親鸞会の責任たるや甚大です。国家社会から将来の優秀なリーダーたるべき人材を奪ったという点において。
投稿: 論語の名句を高森さん師弟へ | 2014年2月 1日 (土) 12時35分
『白道燃ゆ』は、比較的パクリの見当たらない、高森氏の日ごろの口ぶりをもよく伝えた、今後親鸞会の狂気の歴史を研究するうえでも、ごく有用な書物と思われます。
ただ、もしもこの本を再度市販するのであれば、親鸞会も1万年堂もよほど慎重に校正を進めねばなりません。高森氏が「一字一句も改めてはならん!」とおっしゃるのであれば、それはそのまま会や1万年堂の評判の著しい低下につながりましょう。
私がこんなことを申し上げるのも、同書69および71頁において、ハンセン病を遺伝病であるかのごとく捉えた記述が見受けられるからです。この本の初版が出た昭和49年(1974)当時は、
「本で読み知ったことを(or 幼少期に大人たちから聞かされたことを)そのまま書いたんだ」
と言えば十分言い訳になったことでしょう。ただ、平成26年の現在、もはやそのような言い訳は通用しません。「編集部より」と題して、しかるべき注釈と弁明とを掲げねばなりません。
問題は高森氏がそうすることの必要性を一体どこまで認識できているか、ということです。
「わしの千古の名文へくだらん注釈を付けるとはなにごとじゃぁ」
とかなんとか言いやしないだろうか。そして親鸞会や1万年堂の中に、果たして善智識サマの不興を買ってでもこうした建言を行う勇気をもつ人がまだいるかどうか、ということです。
いろいろ考えてみましたが、『白道燃ゆ』の再版はやはり思いとどまったほうが賢明でしょう。それでも強行するのであれば、21世紀の日本に「北朝鮮並みのアナザーワールド」が存在することを満天下に知らしめる結果となることでしょう。
なお、同書111頁に列挙されている著名な女優さん女性スポーツ選手の短い結婚期間の例とか、116頁に記された高森氏が地元富山の薬売りから聞かされた「主婦の笑顔とその家の盛衰との関連性」などは、今読んでも十分におもしろく、高森氏が
田舎の法話のうまい御住職
になれていたら、これほどの悲劇の数々を生み出しはしなかっただろうにと思われてなりません。彼を婿養子に迎えてくれそうな寺はなかったのでしょうか。
投稿: この病いに「血統」なし! | 2014年2月 1日 (土) 12時50分
Test
投稿: 同病院総務部の広報担当者 | 2014年2月 1日 (土) 14時46分
ぶるうのさん、
「東本願寺からなぜ生きる2の誤りを指摘する」よう上層部に上程しましたか?
それとも、以前私が「組織的な問題で本願寺から反論することはない」と指摘しましたが、それに気づいて上層部にあげるのを取りやめましたか?
うかうかしていると、そのうち、「本願寺から反論書がでてない」と親鸞会は吹聴しはじめますよ。
投稿: 同病院総務部の広報担当者 | 2014年2月 1日 (土) 14時53分
ところで例の医療事故の進展はどうなった?
投稿: 同病院総務部の広報担当者 | 2014年2月 1日 (土) 14時55分
〉うかうかしていると、そのうち、「本願寺から反論書がでてない」と親鸞会
〉は吹聴しはじめますよ。
↑
昨年9月30日の記事を最後に、いわばお城の本丸ともいうべき親鸞会のメインサイトではなんら新たな記事がアップされておりません。二の丸ともいうべき「イミズム」では、これ見よがしに新しい会館の内装がいかに豪華であるかを写真を添えて宣伝しておりますが、『なぜ生きる2』に触れた形跡がございません。
『歎異抄をひらく』のときと同様、メインサイトでまた内輪受けしか起こせないであろうマンガの連載でも始めればいいのに。
投稿: その割には肝心のお城の本丸が | 2014年2月 1日 (土) 17時25分
反論書はほんとうにでてないのか?無視してるのか?どちらかな
投稿: | 2014年2月 2日 (日) 15時58分
親鸞会も創価学会に反論書は一冊くらいです
幸福の科学に対してはゼロ
顕正会に対してもゼロ
日蓮正宗に対しても聞かない
福井県 さゆり で検索してみなさい
親鸞会の行動はキ印なんで誰も相手したくないんですが、なんでかわからない人がいるんですよね
宗教で詐欺するやくざなんかに関わりたくありませんよ
投稿: | 2014年2月 2日 (日) 16時30分
相変わらずですね。
親鸞会辞めて大きいのはお金の余裕と時間の余裕だね。
まだ結婚してませんが、親鸞会にいたころ毎月最低6万は飛んでいきました。大きい行事もあり、年間100万ですね。
普段も毎日平日は朝早くから夜は帰宅は10時、11時です。
土曜日は休みですが、活動もありーので日曜日は法話。
お金に余裕があるのは大きい。この前は九州へ旅行へ行った。最高ですわ・
投稿: | 2014年2月 2日 (日) 19時32分
高森会長先生は身も心も阿弥陀仏ではなく、身も心も銭一直線です。
銭道一代であり、名誉欲凄まじくても社会から認知されませんから自身の親鸞会組織で名誉欲を満喫しています。信心もいまだに未信心です。銭と女を親子二代で求めていれば世話はない。
投稿: | 2014年2月 2日 (日) 20時15分
会長は一日話するだけで1000マン以上金入るからあほらしいわな。息子も結集やからかなりの金額入るだろうし。
地方の支部長なんて多くて数万円だろう。
投稿: | 2014年2月 3日 (月) 12時40分
講演会場の売店では大量のリポDが目立ったモンや。
リポDは犬徹に飲ませてもっと頑張らせればエエ。
宗教詐欺はほっておいて栄養のある暖かい食事と十分な睡眠を取ろう。
投稿: | 2014年2月 3日 (月) 23時04分
昔Y山商店のパンを法話かいじょうで販売してた。 なつかしい。
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 00時11分
毎日白菜鍋なら一日かなり安くなる
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 00時11分
講師にならなかった理由
①世間体
②自由がほしい
③金
④男と女
⑤休み
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 00時12分
豈目を売りに逝かされるようになって以来、訪問販売員には絶対になりたくないと思うようになった。それにしても、豈目(当時ビデオテープ)1本が15000円って、高いのでは?と思ったのは私だけではないはず。
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 10時34分
ビデオの15000円はたかすぎるよね。
レンタルでも一回数百円。購入しても数千円。(2千円もしない)
アニメ頒布ってセールスと同じ。
会長はもちろん息子もしたことないよね。
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 11時30分
アニメ頒布って売れなければ給料なしだよね。
ありえない。
一日最低7000円くらいはもらわなきゃ。
投稿: | 2014年2月 4日 (火) 12時55分
親鸞会のアニメは色々と調べるほどにおかしさが目立ってきてしまいにはゴミとなる
これを買うくらいなら法然全集や親鸞全集や法然上人全集を大型書店で探して買う方がいい
投稿: | 2014年2月20日 (木) 10時23分
蓮如上人の名は歴史に刻み込まれても、犬鉄の名は刻み込まれないだろうな。
悪名高い宗教詐欺師として語り継がれる伝説になることはあると思うが。
投稿: | 2014年2月20日 (木) 18時09分