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「なぜ生きる2」は故意に誤った教義を書いたのか。

前回のエントリではとても有意義な意見をコメントでもまたメールでも多くいただきました。心から感謝申し上げます。

コメントの中で、高森会長はあの「三願転入論」を真実だとは思っておらず、私利私欲のために故意に誤った真宗教義を創作したのだという意見がありました。

もちろん高森会長本人に聞かなければ本当のところはわからないのでしょうが、そう思われるだけの合理的な理由はあるし、私自身が長くそのように思っていたこともあり、全くそのような見方を否定するものではありません。

ただ、私自身は前回のエントリで、「高森会長が、これが浄土真宗の正しい解釈であるということ、そしてそれは世に問うても批判に耐えうるだけの内容を持っているということを本気で思い込んでいる」と書きました。どうしてそう思うに至ったかを述べたいと思います。

私は2005年に親鸞会を脱会しましたが、その時に所属していたのは弘宣部(現弘宣局)でした。親鸞会に関わってきた人ならばあえて説明の必要もないかと思いますが、そこは、「顕正新聞」や「顕真」といった会員向けの発行物を初め、「とどろき」などの対外的に出されている冊子の取材編集、デザインや組版、ものによっては印刷まで一貫して行われている部署です。

弘宣部で驚いたことは、こうした発行物は会員に向けてということよりもむしろ、「本願寺」に向けて作られていたということです。これは高森会長の意志として編集会議などで何度も確認されていました。高森会長の口癖は「これで本願寺も親鸞会を脅威に思うだろう」です。なるべく参詣者であふれているような写真を載せ、親鸞会が発展している印象を与え、本願寺に対してまるで子供のように虚勢を張っている姿を私は見てきました。会食会や忘年会では親鸞会の発展と本願寺の衰退ぶりをセットで話すのがお約束で、それを聞く高森会長の顔はなんとも言えない満足そうなものでした。

東西本願寺が親鸞会に対して脅威を感じているというのは、全くのプロパガンダだったと思いますが、親鸞会がなにか行動を起こすたび、語られるターゲットはいつも「本願寺」でした。アニメを頒布した「光大作戦」もそうですし、「本願寺なぜ答えぬ」のイナズマ作戦もそうでしょう。どちらも最初のターゲットは本願寺の末寺でした。今も各地の東西本願寺末寺に行くと「本願寺なぜ答えぬ」「どちらがウソか」といった高森会長の本が残っていたりして驚くことがあります。

私利私欲を満たしたいという思いのあるであろうことは否定しませんが、それだけではなく、自分を追い出した本願寺に対してなんとかして見返したいという思い。それが高森会長の行動の原動力になっていたように私には思います。(もちろんそれも私利私欲の一つですけど)

その上で、高森会長が「間違っている」とわかって「なぜ生きる2」を騙すために出したのならば、あの本はあまりにみっともなさすぎるし、古巣の本願寺に馬鹿にされるようなことをするはずがないと思ったのです。

あの本はそもそも根幹部分が間違っていますが、個々の説明についても本当にひどい部分がたくさんあります。取り急ぎ気付くところを申しますとp291など。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなおもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

このご和讃の解説として、

「十八願真実は信じられていないが〔如来の諸智を疑惑して〕、十九の願を深く信じて〔罪福ふかく信ぜしめ〕弥陀に向かって善に務めている。そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号〔善本〕を称える〔修習〕身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか。」

と記されています。

私はこんなのが本当に本に書かれて出版されるとは思いませんでした。こんな師匠に師事していた事が恥ずかしくて、今すぐ穴に入りたい気分です。

このご和讃は誡疑讃と言われる中の一つです。親鸞聖人が本願を疑うことを誡められたもので、「仏不思議の弥陀の御ちかいを疑うつみとがをしらせんとあらわせるなり」とも書かれています。前後のご和讃ではひたすらに本願を疑う罪の深さを説いておられ、それでもなお、「本願を疑い、諸善や自力念仏をすぐれていると思っている人がいる」事を嘆いているのです。

おそらくこのご和讃を「なんと素晴らしいことであろうか」と読んだのは真宗史上高森会長が初めてでしょう。これを彼らは卓見だとか、独自の読替えで親鸞聖人の真意を明らかにしたとか言わせるのかもしれませんが、そんなレベルの話では決してありません。真宗教義を全く知らない人が読んだとしても絶対に絶対にこんな解釈になるはずはありません。恥ずかしすぎてありえない間違いです。

本願寺にずっと虚勢と見栄を張り続けてきた高森会長が、わかって騙そうと思ってこんな恥ずかしいことをわざわざ書くはずがなく、本当にそう思っているのだなと思ったのです。

「どうすれば親鸞聖人のように大悲の願船に乗れるのか」これがこの「なぜ生きる2」の最も大きなテーマです。

しかし大悲の願船に乗るのに「どうすれば」はありません。そもそも、どうかしてどうにかなるようなものではない私を乗せようとして作られたのが「大悲の願船」だからです。そこをわかった上であえて「どうすれば」という問に親鸞聖人が答えられたとすれば、

「本願を信じ念仏もうさば仏になる」

という言葉になるでしょう。

しかし、「本願を信じ」はともかく、「念仏をもうさば」はこの本にはどこにも触れられていませんでした。

歎異抄第二章の内容が本文に出てきますが、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」は一言も触れられていませんでした。高森会長によって書かれた結論は聴聞のすすめです。

観無量寿経の内容も出てきますが、「至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」にも触れられていませんでした。これも結論は善のすすめにです。

親鸞聖人、善導大師によって勧められたお念仏は全く無視されて、すべて高森会長が言いたいことに結論がすり替わっていました。

私はこの本ほどお念仏というものが軽視された「真宗書」を読んだことはありません。そう考えると、やはり親鸞会は浄土真宗とは似ても似つかぬものだと言わざるをえないのでしょう。

思えば私もそうでしたが、教義的に間違っていることに気づくきっかけはいくらでもありました。本願寺派の論文『派外からの異説について』を読んだ時も、ひょっとしておかしいのは本願寺派ではなく親鸞会ではないかと思いました。

しかし一生を親鸞会にかけて人生を捧げるつもりで入っていた私には「親鸞会が間違いであっては困る」という心があり、その思いが本当のことを知るのを躊躇わせました。別に親鸞会にいて情報統制されていたわけではありません。読もうと思えばいくらでもバレないように本願寺派なり大谷派の学者の書いた本を読むこともできた。しかし、私自身がそれを拒んだのです。あの時の私は、目の前で親鸞会教義の間違いを全く反論の余地のないほどに説明されても、おそらくに自分から耳をふさいで親鸞会を信じ続けたでしょう。

私は高森会長も今はその状態なのだろうと思います。ナチスドイツの犯罪がただヒトラー1人の暴走ではなかったように、今や親鸞会は会員と高森会長が同じく「親鸞会が間違いであって欲しくない」という思いを持ちつつ、自分たちの作り上げたドグマでお互いにお互いを縛り上げているのだと思います。

内部を知るものとして本当に寂しいことだと思います。

最後に、曽我量深師の言葉で締めくくりたいと思います。もうこれ以上「なぜ生きる2」に触れることは時間が勿体無いのでしません。

南無阿弥陀仏と、一念疑なく自力のはからひをすてて、静なる心をもって、仏願くはこの罪深き私をたすけましませと念ずるのであります。
これはだれでも、どこにいても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。
この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對にやぶれません。是を真の救済と申します。

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コメント

今まで親鸞会と縁のあった人、辞めた人いろいろだろうけど、やはり辞めた人でも親鸞会の話を聞くと、辞めたとはいえ胸が痛くなります。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 17時45分

気持ちはわからないでもありません。
しかし、現実問題として、上で例出した和讃もそんな意味ではないことは、法論を通してわかっている筈です。現実に、法論で反論できずに負けたのですから。
三願転入の法論もそうです。完全な敗北であったことは、誰よりも会長がわかっている筈です。
多くのいわゆる誹謗サイトを会長自身が読みながら、それに反論することもできず、会員が辞めていくのを留めるだけの有効な反論もできないのが、実態です。
このままでは駄目だ、なんとかしなければ親鸞会の存亡の危機という焦りがあの本を出させたと見るべきでしょう。
もし本当に、三願転入の教えが正しいと信じていたなら、昔から三願転入について口を酸っぱくして説いていたであろうし、説明が少しずつ修正されることもないでしょう。

まあ、このことを議論していても無益ですので、これ以上は言いませんが、会長の性格をよく知る人間として、上記はほぼ間違いないでしょう。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時13分

昔から会長の言うことは変わってないですよ。三願転入も「本願寺なぜ答えぬ」から言われてた「善のすすめ」そのもの。
ネットでの法論も負けたとすら思ってないでしょう。そもそも表にでて法論する気もない人とか相手にしてないかと。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時25分

『派外からの異説について』を隠した時点で、間違っていることを自覚しているでしょ。
『本願寺なぜ答えぬ』以前には、三願転入なんて、会員は説法で聞いたことが無かったんだからね。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時35分

会員の流出を食い止めたいのが主目的なら、わざわざ出版して広告費かけて売り出す必要ないよな。
自分から恥かくとわかっててやる理由は確かにない。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時39分

それとネット上での法論には、必ず会長が指示してきたよね。
「若不生者」しかり、その前の善の勧めもしかり。
それを冊子にしたりして経緯を大々的に宣伝してきたのに、三願転入の法論についてはそれが3年経った今までなされてこなかったし、相手の主張も一切載せていない。

なぜかって?

相手の主張を載せたら、負けがばれるからさ。

あとね、「若不生者」の解釈は、今回ちゃっかり修正されていたね。相手の意見を全面的に採用して。つまり、「若不生者」については完全に会長が間違っていたことを認めたんだけど、間違っていたとは絶対に言わないでしょ。あれだけ、会員に吹き込んできたのにさ。

これもなぜかって考えてみたらいいと思うよ。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時42分

「法論には負けてはないが、これを見せると誤解されるから」でしょう。
間違いない証拠を突きつけられても人間が信念を変えないことくらいありますよ。誰だかわからん人との法論にまけたくらいで間違いに気付くような人間とは思えないけどね。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時50分

この話題とは直接関係ないですが、三願転入の法論で、平和堂のまんびきがどうかとか毎回ドヤ顔で書いてくるのにはマジでひきました。独り言すみません。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 18時54分

法論読みました。自分も高森会長は間違いに気づきながらもそれを隠しつつ騙していると思っています(今回の出版は確かに謎ですけど。田中氏との法論みたいに、学徒向けの冊子とかにしとけばいいのにって)
ただ、法論でもうなんだか嫌になるくらい、親鸞会を批判する人の態度が傲慢なのが気になった。仏法者なのに。
親鸞会の学徒はやめても親鸞会の学徒なんだって思った。あれを読むのは本当に辛かったです。
このブログのコメント欄でさよならの著者を批判する人にも同じものを感じます。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 19時06分

ネット上での法論では、第三者からみれば高森会長の負けでしょうが、本人は微塵もそのように思っていないでしょう。
自身の信念を貫くために出版したような気がしてなりません。外からの批判とか、気にしていないんじゃないですか?

投稿: | 2013年12月22日 (日) 22時11分

傲慢なのは飛雲氏だけでしょ。彼は複数の人物を装ってブログやコメントを書き分けてるけど、同一人物なのは誰にでもわかる。あの独特の口調だからね。上から2番目のコメントもそうかな?宮田氏とか他の人は普通。ただ飛雲氏の書き込みが半端じゃなく多いから、批判組全体に悪いイメージが付きがち。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 22時36分

「なぜ生きる2」まだ読んでいませんが、ご和讃のあの部分を(三願転入を示した素晴らしいところ)などと無茶苦茶な解釈をしていたんですね。驚きました。
よくいちびった不良中学生が答案で先生をおちょくるために書いたアホ解答ような内容の解釈ですね。それくらいひどい。・・・それを真宗の「無二の善知識」様が公定解釈として堂々公開ですか・・
よくこんなもの出版するもんですね。

高森会長が間違いに気づいてかどうかは不明ですが、おそらく無意識下で(ひょっとしたら間違っているかもしれんが、ワシは認めたくないからそのまま出す)とあえて外部の声には耳をふさいでしまっている状況のように思います。
彼は聞きたくないことは聞こえなくなる人ですから、自信を持って(←少なくとも表向きは)出版したと思います。

このような態度をとると周囲は彼が故意に誤ったのか、過失で間違ったのかわからなくなります。

投稿: | 2013年12月22日 (日) 22時55分

お久しぶりでございます。

> 私は高森会長も今はその状態なのだろうと思います。ナチスドイツの犯罪がただヒトラー1人の暴走ではなかったように、今や親鸞会は会員と高森会長が同じく「親鸞会が間違いであって欲しくない」という思いを持ちつつ、自分たちの作り上げたドグマでお互いにお互いを縛り上げているのだと思います。

わたくし的にもとてもしっくり来る表現です。他人を騙す人間自身が同時に自分自身をも「騙す」というのはじつはありふれたよくある話で、ナチスなどはその典型でしょう。高森会長と会員はその例に習って共同幻想を構築し、親鸞会という箱庭遊びに興じるようになったと。

しかし、その箱庭遊びもどうやら最終フェーズに入った感じがしますね。外の視線から必死に目を逸らす段階を越え、ついに本当に外の視線が見えなくなったと。「高森大勝利」という幻想しか見えなくなったと。

病理としては末期でしょう。ただ、それだけに嫌な感じがします。奴さんたちがどういうオチをつけようとするか想像しにくくなりますから。個人的にはこのみっともない本もみっともない団体ももうどうでもいいのですが、これ以上他人に迷惑をかけないでほしいですね。

投稿: dandelion | 2013年12月22日 (日) 23時16分

ところで、飛雲さんの話が出ていますが、正直私もあのテンションの上がり方はちょっと引くというか、困ったお人だなあという思いがしています。あの人としては高森会長を徹底的に叩きのめしたいのでしょうし、その執念が一定の役割を果たしてきたのは確かなんですけど、ちょっと虚しい感じがするんですよね。そんなに入れあげても相手はどうせ夢の世界から出てきませんよと。

まあ、余計なことでした。

投稿: dandelion | 2013年12月22日 (日) 23時27分

なぜいきる2の発刊に対する感想

 会を退会した後、沢山の退会者と話した。そのなかで気になる発言をした人が二人いた。かなり以前に退会した人だが、あるとき高森さんが「どうしたら早くみんなを信心決定させることができるのか?」と言われたことを聞いて「この人では駄目だ。」と思われ退会したそうだ。
 また、ある人は信心をハッキリさせた後、会合で高森さんの話を聞いている時「そうだ、そうだ、その通り。」とある部分の話で頷いていたら高森さんがあたふたしていたと言われていた。

 前者の人の話を聞いた時思ったのが、そもそも高森さんは聴聞不足ではないかと思った。本願寺では説く人も立場変われば聞く人で、説いてばかりは基本的にない。高森さんは、ずっと一人で無二の善知識を演じたわけだから自らもMCしているかもしれないが、所詮聴聞不足のため人を導く力がどんどん落ちてきているのではないか。それを補おうと思っても力不足で訳の判らない本を出し続けているのでは無いだろうか。とにかく現役時代何を言いたいのかさっぱり分からないことが多々あった。

 後者の人の話を聞いて思ったのは、なかなか信を得た人がいない中で自分勝手に話していたら、それに同意する人がいてびっくり仰天あわてたのではないかと思った。自分の間違いを指摘されたらどうしようと急に自信を無くしたのではないか。いるべきはずのない人がいてびっくりか。

 要するに高森さんは、自分一人の世界にいるような気がする。だから他の人の話は一切聞く耳を持っていないのではないか。60年もそうしてきたんだ。若不生者の誓いも何も無かったようにさっさと本に取り入れて、都合の悪いことには蓋をして、さらに、今は老人の頑迷さに磨きがかかっていると思う。簡単に言うと凡夫丸出しだ。

 ネットの中で過去の自分がばらされても、「そんな昔のこと何を今更。」と言ってほうかむりしているんだから。それに85歳だよ。頭だってどこまでまともに働いていることか。高森さんは結局、死ぬまで変わらないと思う。

 一時は、ネット批判で会長が変わるのではないかと期待したんだけど、最近は諦めています。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2013年12月23日 (月) 02時02分

親鸞会批判で大きな成果をあげているのは、さよならと飛雲ですよね。
なんの成果もあげていないコメンテイターが、二人を見下して批判する。
じゃあ、自分で理想的な親鸞会批判ブログを作って成果を出してみたら?
何もしないで上から目線で批判をするのは、なんだかなって思っちゃいます。
という自分もその一人ですが、彼等を批判だけするのはしたくないですね。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 07時07分

上の人の言う通りです。
私への戒めとして聞いておきます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2013年12月23日 (月) 10時47分

そうね、反親鸞会のブロガーの姿勢を批判ができるのって、彼らと同じくらい親鸞会に影響を与える自信があるんでしょうね。

じゃあ、やってみたらいいと思いますよ。

今回の本を見る限り、『飛雲』の影響をまともにうけていることは事実じゃない。『本願寺なぜ答えぬ』やその後の親鸞会では使っていない根拠で『飛雲』で使われた根拠が一杯出てくるみたいだからさ。

会員の時に散々言われたよ、『飛雲』は間違っているから見るなと。それなら反論すればいいのにと思ったけど、誰も反論しなかった。それで俺は辞めたんだけど。

「若不生者」の話は、遠い昔のことになったんでしょ。だからいつの間にか修正した。当時から間違いに気が付いていたんじゃないの?
でも間違いとは言えずに、自己主張を頑なに通した。

今回も同じだと思うけどな。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 10時50分

dandelionさん

>ちょっと虚しい感じがするんですよね。そんなに入れあげても相手はどうせ夢の世界から出てきませんよと。

「若不生者」については、夢の世界から出てきたと思うけど、違うってことですか?
虚しいどころか、影響大じゃないかなって。

三願転入だけは、夢の世界から出てきませんってこと?

投稿: | 2013年12月23日 (月) 11時48分

「後生の一大事」の説明も「歎異抄をひらく」から変わったよね。こっそりこっそり間違っていたことに対する何のお詫びも無く、前から言っていたような振りをして堂々と書いて載せる。「親鸞聖人の教えを間違って教えたら切腹うする」って法話で言っていたのにね・・。
ある講師いわく「朝三暮四は親鸞会ではいつもの事だから」。
感覚が麻痺してしまうのでしょうか?

投稿: | 2013年12月23日 (月) 13時34分

たしかに『飛雲』氏は普通に見るとちょっとくどすぎではないのか、と思われるほど親鸞会教義の批判をされてます。

しかし相手が親鸞会のように「浄土真宗」を標榜しながら、誤りを指摘され反論するどころか一切に耳を塞いで、根拠も掲げられないのに「自分たちは正しい!」と連呼するのみの態度では、或る意味あのようにされざるを得ないのではないか、と思います。

しかも親鸞会・高森会長は非常に都合よく忘れる(ふりをする)人たちです。過去に批判された事項でも放置しておけば、あたかも存在しなかったかのような態度を彼らがとることは、多くの方が知るところでしょう。そのうち飛雲で指摘されて初めて親鸞会側が知ったような証文も、初めからウチたちが主張していた!などと言い出しかねません。

やはり監視という観点からもくどいほどの批判は有効なのではないかと思います。
もちろん会長や幹部の誤りを糾すだけことでなく、一般の会員に親鸞会の実相、教義の真偽を知らせるという重要な役割を担い続けているのはいうまでもないでしょう。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 13時40分

私は飛雲さんにはとても感謝しています。質問すればどこどこまでも何回でも懇切丁寧に答えてくれます。その行動力と継続力、強い信念にはすごいな、の一言です。どれだけの人が親鸞会教義の間違いを知らされ、親鸞会の永遠の十九願ループから抜け出せるきっかけとなったか。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 13時42分

「若不生者」については、「派外からの異説について」の次の一節が思い出されます。

あれだけ自力で宿善をつめといい「破邪顕正こそ無上の宿善」とか「浄財はすべて尊い宿善」といって、それが誤りであると批判されると、繰り返し質問状を発し、さんざんな罵詈雑言を浴びせ、法要妨害までしておきながら、こんどは掌を返すように、自力の宿善は間に合わないというのである。

親鸞会の「三願転入」論は、もともとは単なる言葉遊びに近かったような気がします。たとえば、「19願の対機は、18願と同じく十方衆生と記されている。矛盾か、仏意は。」というのは、矛盾しているとも仏意をはかりかねるとも言っていませんが、読み手がそう受け取ることを狙っていたように思います。そして、「疑心の善人」は善で助かるとうぬぼれている人ではなく「善ができる」とうぬぼれている人であり、善を修めないと信仰は進まない(善をつめば信仰が進むとは言っていない)が、信仰が進めば(善は間に合わないと)分かるので、善を捨てよとは結局のところ疑心を捨てよということだ、というような話をしていたと思います。

それが退会者と論争を重ねるうちにどんどん劣化して、ついに破綻の域に達してしまいました。ところが高森さんは、なぜか自信満々に論争相手の主張だけを伏せて、論争の成果を「なぜ生きる2」として出版しています。私にはこのいきさつが「本願寺なぜ答えぬ」と重なって見える気がしてなりません。「なぜ答えぬ」は本願寺に相手にされませんでしたが、「なぜ生きる2」はこれだけ退会者が気にかけているのでまだマシなのかもしれません。おそらく高森さんは、今までも、今も、これからも、夢の中に住み続けるのではないでしょうか。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 14時16分

皆さんのご批判ご叱責有難く頂戴しました。ちょっと余計なことを言ったと反省しております。ただ誤解なきよう願いたいのは、別に私は飛雲さんの功績にケチをつけようという気は全くないということです。ただ、高森会長やマイコン真っ只中の会員には論争相手としての適格がない(ふさわしい能力がない)ので、法論にこだわっていてはせっかくの能力が生かされるべきところに生かされないのではないかということです。論点そのものはすでに出尽くしているわけですから、これまでやってこられたことですでに十分足りている気がするのです。それで、あのような表現になりました。

なお、言うまでもないことですが、私はさよならに関して否定的な見解を述べたことはありません。

>「若不生者」については、夢の世界から出てきたと思うけど、違うってことですか?

恐らく私の舌足らずな書き込みのせいでニュアンスを誤解なさったと思いますが、親鸞会の共同幻想は恐らく教義体系の無矛盾性とか学問的正しさなどには無関心なのだと思います。つまり論理的に筋を通すとか、そういうことには最初から関心がないわけです。だから、彼らは他人から言われてしれっと主張を変え、それでも自らの正しさは揺るがないと思い続ける事ができると、私はそう見ています。それゆえ彼らと議論することは無益なことになります。

>虚しいどころか、影響大じゃないかなって。

私が虚しいと言ったのは、飛雲さんほどの人が親鸞会程度の人らに能力を使い続けるのはもったいないということです。親鸞会問題への影響ということはまったく想定していません。そもそも、私がやめたときには飛雲もさよならもありませんでした。その状況から現在を見たら会員が「目を覚ます」チャンスや資料はこのふたつのお陰ですでにそこらじゅうに溢れているわけで、だったらもうその段階を終え、その先を見てもいいのではないかと、それが既にやめた人のやるべきことなんじゃないかと。もっと言うと、「法論」なるものに意味はあるのかと、そういうことです。

ただ、あえてくどいくらい執念をもって親鸞会批判を続けることは、僕らにはとても億劫でやっていられないことですから、それをあえてやっておられることそれ自体には私は敬意を惜しみません。

投稿: dandelion | 2013年12月23日 (月) 14時56分

なぜ生きる2は、新聞の一面下に出ていた。
http://uploda.cc/img/img52b7e1b22fdc0.png
一般人に売るのに必死なのか、意図がよくわからない。この本が売れたとしたら、売れるほど親鸞会に入る人はいなくなる。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 16時11分

飛雲の言葉遣いはそう気にならないけど、宗義上ちょっと解釈が変なところがあるのが気になる…
まあ、別にいいんだけど。大意は伝わってると思うから。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 16時59分

飛雲さんは法論がしたいわけではないし、法論そのものの理論的・学術的成果を求めて議論をされているわけではないでしょう。未だに夢を見続けて搾取され続けている会員への憐れみ親切心ではありませんか?それは仏教的な価値観から見て理論的・学術的成果より数段すぐれたことだと思いますよ。

投稿: | 2013年12月23日 (月) 22時51分

>法論そのものの理論的・学術的成果を求めて議論をされているわけではないでしょう。

あの段落で書いたことは飛雲さんには掛かっていません。親鸞会の人はそもそも筋を通そうという気がなく、法論という手段を採っても延々はぐらかされるだけで、なおかつ自分たちの正しさへの確信を失うこともないだろうということです。

>未だに夢を見続けて搾取され続けている会員への憐れみ親切心ではありませんか?それは仏教的な価値観から見て理論的・学術的成果より数段すぐれたことだと思いますよ。

そうですね。それはその通りで、頭が下がります。そして、そのことを私が疑った覚えはありません。誤解なさっていると思います。

投稿: dandelion | 2013年12月23日 (月) 23時22分

一応申し上げておきますと、私は2013年12月23日 (月) 13時40分の方のコメント内容に全面的に同意します。その上で、そのような徒労ともいえるやり方にこだわり続けてゆかれるのはやはりもったいないと思うんですよ。その気持ちがあのような余計な言葉になりました。

私の拙いコメントのせいでややこしいことになって申し訳ありませんでした。これ以上他所様のコメント欄を占領してしまうのは本意ではありませんし、ご本人がいらっしゃるかどうかもわからないところで話題にし続けるのも飛雲さんに申し訳ないので、今後この件に関するコメントは控えたいと思います。悪しからずご了承ください。

本当に余計なことを書いたと心底後悔しています。

投稿: dandelion | 2013年12月23日 (月) 23時56分

そんなことはないと思います。
飛雲さん自身そのことにうすうす気が付いていると思います。
ただ、まだその時期じゃないだけではないですか。
いずれdandelionさんの様な意見は出てくると私は思っていました。
どちらにせよ、役割が終われば変化していくものです。
高森さんだって亡くなって次の親鸞会に変わっていくのです。
この世は無常ですから。
偉そうにまた、書いてしまいましたが、感想の一つと思ってください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2013年12月24日 (火) 00時32分

とくよしみね様

勿体ないお言葉です。ありがとうございます。
そうですね。その時をじっくり待つことにします。

それでは、今度こそ本当に失礼します。

投稿: dandelion | 2013年12月24日 (火) 01時23分

飛雲さんは法論がしたいわけではないし、法論そのものの理論的・学術的成果を求めて議論をされているわけではないでしょう。未だに夢を見続けて搾取され続けている会員への憐れみ親切心ではありませんか?それは仏教的な価値観から見て理論的・学術的成果より数段すぐれたことだと思いますよ。
投稿: | 2013年12月23日 (月) 22時51分

投稿: | 2013年12月24日 (火) 11時52分

高森さんの無茶苦茶な教義をぜんぜん紹介しないまま、人生の目的を解く鍵があるぞと誇大宣伝しているという点で、12年前に出た『なぜ生きる』も、もっと以前に出たマンガ『青春の旅立ち』も同様ではないかと思っております。

それでかねがね思っていたのですが、マンガに登場する明らかに京都大学とおぼしい大学の部室で、りゅうとした身なりに身をつつみ、なにやらえらそうに説教している青年。あれのモデルは、名声を博したが、せっかくの収入が身体を通り抜けていくだけのお医者さんや、いい歳して毎日ばかばかしい書き込みを2チャンネルでやっている彼だと解釈してよいのでしょうか?

投稿: | 2013年12月24日 (火) 20時16分

いいですよ。

投稿: | 2013年12月24日 (火) 21時25分

かねがね思っていることなのですが、たい焼きを買い与えたことに対しお礼状を書くよう迫る行為こそ、「雑毒の善」の最たるものだと思うのですが……。

それから見真学院のブログを見るに礼儀作法その他ずいぶんとうるさいようですが、これもいわゆる「専修賢善」に思われてなりません。

なお、『新潮45』平成4年(1992)2月号に発表された、とある元会員の手記「新々宗教渡り鳥懺悔」では、

         「もーやってられません!」

という絶叫を残して、学院の外へ飛び出し、どこまでも畑の中を息せき切って逃げるという場面が印象的です。全体の4分の1が親鸞会での体験回顧に割かれており、脱会者の手記としては早期の、しかも傑作に属するように思われます。皆さまもぜひなんとかご閲覧ありたく、つねづね念じてやみません。

投稿: | 2013年12月25日 (水) 12時57分

http://www.shinrankai.or.jp/b/honmadekka/20120501jiinjika.htm

なにごとも原因は自分にある、と説く教訓話ですが、これでゆけば、先日の真生会病院の医療ミスに際し奇妙な人物が現れ、常識では考えられないことを書きなぐっていった背景がよく理解できるように思われます。ただ、こういう親鸞会での常識が、世間では非常識であることは改めて申すまでもないと存じます。

なお、「なにごとも原因は自分に」というのは基本的には真理ですが、こんにち一般の真宗寺院では、差別にあえいで来た人々をこれ以上苦しめてはならない、という配慮から書籍であれ、ネットの記事であれ、それなりの配慮(しかるべき注釈を付す)を怠っておりません。

この点、親鸞会の時代遅れぶりを「あっと驚く為五郎」と批判せざるを得ません。高森さんは、他の多くの真宗寺院の住職が味わうような緊張感を生涯味わわずに済み、少なくとも今生では幸運でした。お寺を継がせてくれなかったという父上や兄上に今からでも遅くはないから感謝のお念仏を申してほしいです。

投稿: 親鸞会のサイトから | 2013年12月25日 (水) 13時04分

会館が建つことを会員囲いのためかやっている模様だが創価学会に追い付こうという気概はないということだろう
グーグルかで創価学会とマップで調べたことがあるが四千ほどかあったように思う
他の宗教団体にしても一千億の美術館もある
無量寿寺なんて地域住民巻き込んで拡大してんのになんてやる気ないのかしら
外から見たらすぐ見破れるのにそれらしく飾ることしか脳がない

親鸞会はそもそもショボイ
権力者や為政者には近づかなかったり媚びないはずが、高森という張りぼてロボットを御輿に担ぎ崇めさせる独裁者と共産党幹部のごった煮の体をようしているのか
能無しのようにカオスかピエロなやつもいる
もはやすでにマスコミにすら注目されない

豊田商事の最後は永野刺殺だけでなく、金庫には金五百グラムと九百七十万円しかなかったようだ
金自体は渡さないファミリー純金の紙切れ契約と家庭の中まで親切と言葉で入り二千億円の詐欺友達だったのに平気で関係ないとのたまう会長や幹部講師に次期会長やパンスケども


親鸞会頭も心も全部駄目
ちょっとしか建たなかったのになんで騒いでんのか理解できん
最後は各々どうなるんだろう
関わりたくはないが掃いて捨てるほどの教団なんだけどな

なにが政治経済に文章講座だ
なんてことはない
ATMが欲しいだけじゃねえか

投稿: 無駄使い | 2013年12月26日 (木) 12時15分

南アフリカにも会長先生のような人がいました。

本当によく似たタイプの人です(必見)。

http://www.youtube.com/watch?v=yi9m6pWh0gQ

投稿: | 2013年12月27日 (金) 22時15分

   「転んでもただでは起きない」と申しますが、超一流の国立大学と呼ばれる大学の出身者は、卒業したにせよ、中退であるにせよ、思いもよらぬ人生の大問題に直面して、ぶざまな最期を遂げないという点にこそ、その真価があらわれるのではないかと存じます。
  
   東大でいえば、ほりエモン氏(宗教学科中退)、島田裕巳元教授(宗教学科卒)、オウムの恐怖のイニシエーションの数々を完成したという石川某(医学部中退)……彼らは常人ならこらえ切れず自殺か発狂するであろう人生の難事に直面しつつもどうにか生き延びております。そう、それから石もて追われるがごとく夫の教団から放逐された幸福の科学の教祖夫人(英文科)も、カルト幹部での罪は罪としてたくましく生き延びております。

   また、京大でいえば、オウムの広報部長である荒木某、それからオウムの顧問弁護士だった青山某などが印象に残ります。青山某は出所後は親の資産である10数軒ものアパートマンションの管理をしつつ余生を過ごすものと見られておりましたが、不幸にして親の会社は倒産。ただ世をはかなんで自殺したという話は聞かないから、なんとか彼なりに世を渡っているのでしょう。

    これに対し、つい最近までこのコメント欄でくだを巻いていた現役の講師氏(京大中退…ですよね)や、東大数学科を去って親鸞会入りしたことを看板にしている現役講師氏、あるいは例の著名な医師らは、本当の意味で超一流国立大学出身者の名に値するのかどうか、黄金なのかそれとも鉛の屑であったのかがいよいよ明らかにされる日が近づきつつあるように思われます。

    私自身は、以上に列挙したような人々のような時間の使い方のうまさや、まんべんなくいろいろな科目に注意する敏捷さをからっきし持たず、それで私大(かなり名は通ったところではありますが…)に【しか】入れなかったので、官尊民卑的な考えを捨てきれない70歳代の両親との間には、今でもわだかまりがないとは言えません。
    仏の大いなる目から見れば実にくだらぬことなのでしょうが、凡夫の悲しさ、わかっちゃいるけど煩悶はなおやみません。ともあれ、親鸞会の学歴貴族が今後どういう人生航路を歩むのか、強い関心とともに見守ってゆきたく思います。

投稿: | 2013年12月28日 (土) 12時52分

マンガ『青春の旅立ち』の作者と、1昨年から昨年にかけて親鸞会のサイトで連載されたマンガとを見比べてみるに、両者は同一の作者の手になるものか、あるいは、前者からマンガの手ほどきを受けた人物の手によって後者は描き上げられたように見受けられます。

現役講師の罪深さばかりが取り上げられますが、御用マンガ家や書道家(K氏)のそれも、そろそろ討論されてしかるべき時期かと存じます。

マンガや書道作品こそは、冗漫な文章や講話に幾倍する力量で不幸な犠牲者をカルトにつなぎとめる効果を発揮するように見受けられるからです。いかがなものでしょうか。

投稿: 講師よりも罪悪甚重なのでは? | 2013年12月28日 (土) 12時57分

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1365781537/l50/
                       (書き込み番号491より)

「唯一無二の善知識」などという人をさして、「高森教」といわれるのなら、 そのとおりでしょうが、「唯一無二の善知識」といった時点で、それは
浄土真宗ではなくなってしまいます。真宗の何処に、善知識は同時代に一人でなければならないとあるでしょうか。

そんなことをいっている人があるかもしれませんが、少なくもと(=少なくとも)私は高森先生ご自身の著作やご説法で聞いた記憶はありません。

↑  読んでいて、なんだか切なくなりました。青いなぁ…でもまぁだからだまされるんですよね。
  かの池田●●氏は、高森氏が憎みつつもいろいろな面で長年お手本にしてきたカルト教祖ですが、池田氏の頭のいいところは、
    「先生は(日蓮)大聖人の生まれ変わり」
であるの、
     「先生が大石寺へ来ると雨が晴れ上がる」
であるのといったばかばかしい神話を、複数の部下たちに口頭で言わせたところにあります。高森氏も多少拙劣ながら同じ手法を使ったのだということに、この書き込みの主はまだ気がつかないのでしょうか。あるいは薄々気がついてはいても、これまでの人生が無駄だったと思いたくないがために、ことさら見まいとしているんでしょうか。

投稿: | 2013年12月28日 (土) 13時10分

Test

投稿: | 2013年12月28日 (土) 16時01分

会長は誤った教義を故意に書いている。それは本願寺から反論がないことを確信しているからである。本願寺には反論できない理由があるし(教義ではなく、組織の事情)、反論するメリットもない。「なぜ、答えぬ」のときも反論がなかったでしょ。このときは明らかに事実を捻じ曲げているのでなおさら反論できたはず。

うそだと思うなら、管理人さんは本願寺から反論するように末寺が所属している組織の上層部に働きかけてはいかがですか?きっと無視されますよ。

そのうち、「本願寺から反論がない。よって正しさが証明された」と言い出すことでしょう。

また、会長の老い先が長くないことも今の時期に出版した理由でしょうね。

投稿: 同病院総務部の広報担当者 | 2013年12月28日 (土) 16時09分

組織の事情とはどういう事情ですか?

投稿: | 2013年12月28日 (土) 22時06分

組織の問題?「金持ち喧嘩せず」、あるいは薄汚い狂犬に対して正しくしつけようとしても、牙をむき通しだし、逆に噛みつかれたら、アホらしい、とかそんな感じでしょ。

親鸞会教義に真っ向から反論し、的確に論破した紅梅氏が物好き、あるいは高森会長とは、きっと普通に議論ができるという幻想をいだき、見事に裏切られた、というだけの話。会長は、ファンタジーの世界の住人だからね。本願寺を見返したい、少しでもこっちを振り向いて欲しい、この恨みの煩悩を原動力として生きている。

東西本願寺が、ローカルなカルト教団なんか相手しないのは当然。
最近本願寺もカルト問題についてはかなり真面目に取り組んでいるようだけど。これはぶるうの氏の功績でしょう。

投稿: | 2013年12月29日 (日) 10時17分

  狂犬に何を言ってもむだ…本当にそのとおりです。会長はお寺を継げなかったことをむしろお父上や兄上に感謝して然るべきです。

  かりに一寺の住職になったとして、いわゆる「悪しき業論」や身障者差別(精神病院はおもしろい…嫌いなはずの清沢満之からのパクリですが)、あるいは韓国朝鮮の歴史に対する無知(加藤清正は朝鮮人に尊敬されたうんぬん…大沼師からのパクリか?)といった問題で、遅かれ早かれ部落解放同盟やしかるべき組織から糾弾を受け、本山からも呼び出しをくらって布教活動の休止を余儀なくされたことでしょう。
   自分の生まれた時代がどういう時代であるかを認識する能力が皆無である以上、牛後となるよりも鶏口となった、その人生の選択は、彼の人生の大部分を快楽で彩りました。ただし多くの若者やその家族の人生を台無しにしてしまいましたが……。

    生まれ育ったお寺の建物が取り壊されるや、手下の者を遣わし写真を撮らせ、得手勝手なことを書かせる。どこまで根性の悪い男なのかと思います。そんな男にあれだけの現世的快楽がもたらされるとは、つくづく因縁は恐ろしいと存じます。

投稿: | 2013年12月29日 (日) 13時09分

お寺を継ぐも継がないも後妻の連れ子がどうして寺を継ぐのでしょうか。
お寺の相続は連れ子に資格ももない。

投稿: | 2013年12月29日 (日) 20時55分

>生まれ背だったお寺。
高森会長はお寺で生まれていないよ。幼児期に母親の再婚でお寺で育っただけ。高森会長はこの事実を知らないで育ちましたが大学入試の手続きで戸籍謄本で父親と兄との血縁関係が発覚したした。母親からは後妻の遠慮があり兄に優しく自分に厳しく育てられたと本人弁です。
18歳の衝撃でした。この事実発覚が現在の高森会長の人間結成に大きな影響を与えたのは言うまでありません。人を人とも・・・・。

投稿: | 2013年12月30日 (月) 10時52分

嘘つき本人弁なんぞ誰が信じるんよ
厳しく育てられたなら長男も厳しく育てる傾向があるものの、実態が物語ってまっせ

もしくは実家のお寺さんに聞きにいって実際のところ聞かんと、一人物の言うことを事実としても安易にとるのではなく、さらに嘘つきが本当のことを述べても採用しない方がいいと思うよ

投稿: ? | 2013年12月30日 (月) 13時14分

高森会長の弁
母親に厳しくされ「私は本当にこの家の子供だろうか」そのように思いながら幼年期少年期を過ごされました。

投稿: | 2013年12月30日 (月) 13時55分

また広告費の無駄。またなぜ生きるを新聞に載せてたよな。

投稿: | 2013年12月30日 (月) 20時24分

beyoungだっけか
ビーヤングていったと思うが、あれやとどろきに載せた漫画家の名前を一覧にすると面白いかもな
あとハッピーアドバイスだっけ
あの漫画家と書家?と会館に寄付した美術家たち
俺は美術なんぞ興味なかったが親鸞像もあったはずだ
一応要らんと言っといたが財施が募られていたかもしれない

親鸞会のことを懺悔するならなにかしらの漫画やアニメか書を書いても良さそうだが、これは退会したのならあまり責める気にならん
宗教は強制したくないし反宗教も自由かも

できればヤクザから足を洗ってほしいものだ

投稿: あ | 2013年12月30日 (月) 22時32分

あさん、皆さま、私のしょーもない書き込みをお読みくださり、とりわけあさんからは読み応えあるお返事を賜り、まず心より御礼申し上げます。

人間の実相とやらを描いた富山在住のK女史も、こうした「絵心あるカルト犯罪人」の一人であり、その中でもA級戦犯でしょう。ただ、彼女の場合、平成21年(2009)の『とどろき』史上のインタビューで、よき理解者であった夫君を喪って以降、いよいよ高森氏からの聞法にいそしむにいたった旨語っております。

すでに70代に入っているはずの彼女が親鸞会を知ったのは、半世紀以上も昔、母堂を介してであるとのこと。彼女こそはいわば大変な古参会員であり、したがって、問題もまた複雑です。特級の加害者であるとともに、自覚せざる被害者の一人でもある。あらためて高森氏の罪業性が深く感じられてなりません。

投稿: あさん、お返事ありがとう! | 2013年12月31日 (火) 12時48分

オウムの元御用マンガ家の一人は、脱会後、麻原らオウム幹部の実態を描くマンガを発表したように記憶しております。したがってK女史(上述)を除く、大多数の親鸞会御用マンガ家には、同様にして贖罪の道が残されていると言えるでしょう。

投稿: ちなみにオウムの元御用マンガ家は | 2013年12月31日 (火) 12時51分

なぜいきる1(笑)の翻訳は立命館の教授だか誰かに依頼したとか聞いたことがある
実際は誰かは知らないが、何度も訂正させて違うチガウを連発したとかなんとか
実態をインタビューしても面白いかもしれない

どうせ権威付けだろうがな

投稿: 1 | 2013年12月31日 (火) 14時08分

なぜいきるが東京でベストセラーらしいが、また会員がたくさん買い込んでるのかな?

投稿: | 2013年12月31日 (火) 16時43分

くだらん。

投稿: | 2013年12月31日 (火) 16時57分

何がくだらんの?
確かにくだらんが。

投稿: | 2013年12月31日 (火) 18時55分

若き日の高森氏が京都では「死線を越えて」としたためられた腕章を着用しつつ辻説法をしていた、と富山大の元学長(小澤浩教授)が書いた本には書いてあります。ほんとでしょうか? 「死線を越えて」とはむろん、神戸のスラム街で大正時代に活躍した賀川豊彦牧師の口癖であり、名高い著書のタイトルでもあります。

高森さんは大のヤソぎらいのはずですが、池田大作や清沢満之の名言や行動を平気で真似していることから推して、「死線を越えて」もやはりパクリではないかと思われます。

投稿: 「死線を越えて」の腕章のこと | 2013年12月31日 (火) 21時31分

U田さんがはじめてご自身のサイトを立ち上げた当時、そこで用いられていた鏡の御影は、親鸞会式の油絵ふうのものだったように記憶しております。

勢いこんで新たな組織を立ち上げたはいいが、親鸞会での洗脳は、こんなところにも影を落としていたと思えば、納得がゆきます。御用絵師や御用書家の悪業は、洗脳対象の無意識の領域にまで及ぶものであり、今後は彼らの罪(たとい法律的なものでないにしても)ももっと俎上に載せられてしかるべきではないかと存じます。

    藤田嗣治をも含め、名高い洋画家らがいわゆる戦争画を描いた(描かされた)結果、戦後の画壇にも深く不快な影響を及ぼしました。彼ら画家たちの場合はいやいやながらも軍命にあらがえなかったという点で同情に値しますが、親鸞会の御用芸術家の場合は、真摯な懺悔(会の実態をあばく作品を退会の上、制作する)なき限り、強く指弾さるべきものではないかと思われます。

投稿: 御用絵師の罪業を考える | 2013年12月31日 (火) 21時37分

( ゚д゚)ポカーン

投稿: | 2013年12月31日 (火) 23時25分

「若不生者」の解釈の件は興味深いです。
チューリップ企画と田中氏の法論は私も読んでいましたが、山田氏こと高森氏の非常識な回答に、田中氏はよく耐えて返答していたものだと思っていました。
さて、内容的には田中氏の主張に対して親鸞会はまったく反論できず、詭弁を繰り返していましたが、5年経ってようやく間違えを認めたということでしょうか。
そこを、間違っていましたと言わないところが、高森氏らしいところですね。
あれだけ田中氏のことを非難しておきながら、しかも教義の根本に関わるところを修正しておきながら、会員諸氏は何とも思わないものでしょうか。
いまだにチューリップ企画のサイトは残っているようです。支離滅裂な教義がますます露呈しましたね。

投稿: R | 2014年1月 1日 (水) 01時37分

「氷見の魚は日本一だ」と高森氏はつねづねおっしゃっているそうですね(貧乏講師らにうまくもない弁当を食べさせつつ、陰では高級料亭で…)。

ただこの氷見という街は、現在50歳前後の、小中学校時代に医学関係の少年向け図鑑をひもとくのが好きだったという多くの人々にとっては、

    日照時間の不足に由来する「くる病」の患者さんが日本一多い

地域であったように記憶致しております。

高森氏は心身障がい者をあざ笑うような、およそ仏法者らしからぬ暴言の人だとうかがっております。ご自身の郷里のこの風土病の患者さんに対してはどういう感想をもっていたのでしょうか?  しかるべき人々の手で、実態が語られることを年のはじめの際し、願ってやみません。

投稿: | 2014年1月 1日 (水) 13時40分

http://caloo.jp/hospitals/search/16205/d1176

「くる病,氷見」で検索しますと市内の実に6軒もの病院が今も鋭意患者さんを診察していらっしゃることが知られます。

昨年は医療ミスでさんざんな騒ぎに巻き込まれた真生会さんも、この際、「お通じ外来」とやらをやめて、「くる病外来」をお始めになれば、地域への大きな貢献をした組織として、親鸞会も少しはお株が上がるのではないでしょうか。

投稿: くる病は過去のことにあらず | 2014年1月 1日 (水) 13時44分

富山に来たら普通の人は外に海の幸をたべにいく。
親鸞会員は、コンビニのパン、あんしん弁当

投稿: | 2014年1月 1日 (水) 14時25分

http://www.keyrose.net/2011/04/higashi-hongwanji/
                    (この画面一番下です)
何を語り合うかと思えば……、
» 死刑制度と真宗
» 男女両性で形づくる教団をめざして
» ハンセン病問題と真宗
» 部落差別問題と真宗
» 同朋社会の顕現をめざして
まあ、確かに大切なことかとは思いますが、もはや、信心の沙汰とは関係ないですね。
是非とも、後生の一大事を知らせ、その解決の道を明らかにしていただきたいと思うのでした。

↑  この記事の筆者である「もん太」氏が、750遠忌ほか東西両本願寺の行事をのぞきにゆく、これを腐すという「イミズム」名物の記事のひとつです。それから、高森氏に命じられてでしょうけど、高森氏の生まれ育った寺が取り壊される様子も、ねちっこく報じていました。

   それはそうと、ここに記された東本願寺の布教方針をくさす一文。もしもこういうことをですね、末寺の住職がおおやけの席で言おうものなら、お東であれお西であれ、本山に呼び出され、関連する組織から厳しい糾弾にさらされることでしょう。

   1981年(昭和56)にお東で起こった宗務総長問題発言事件というのも、実のところは
   「部落とか靖国とかの問題を考えるよりも前に、『自己とはなんぞや』ということが明らかにならねばならぬ」
という発言内容であり、普通の末寺住職が内輪の席で語ればまったく問題にならぬものでしたが、宗務総長(お孫さんは石田ひかりさんと結婚)という要職にあった方のお言葉ゆえ、大変な騒ぎとなってしまったのでした。

     高森さんの場合「自己とはなんぞや」の代わりに「人生の目的」というところでしょうが、こういう発言をそれなりの地位にある人(組長以上)が不注意にも口にした場合、東西両本願寺では

          「信心中心を唱える独善主義者」
          「後生ばかりで現世の改革を忘れた独りよがり」
  
として物議をかもす、それが戦後の真宗だったのです。あらためて高森さんが、寺を継がせてくれなかった父上や兄上に感謝なさるよう望んでやみません。まぁ太陽が西から昇っても、そういうことはないのでしょうけど…。

投稿: 寺を継げなかったことに感謝を! | 2014年1月 1日 (水) 17時11分

( ´_ゝ`)フーン

投稿: | 2014年1月 1日 (水) 17時16分

お寺を継ぐも継がないも後妻の連れ子がどうして寺を継ぐのでしょうか。
お寺の相続は連れ子に資格ももない。
投稿: | 2013年12月29日 (日) 20時55分

ご教示ありがとうございます。古くから長男中心の世襲制度を採る真宗寺院では、なるほど連れ子さんには資格がないかもわかりません。ただ、真言宗や曹洞宗では、世俗の仕事に関心をもつ前妻の生んだ長男が、後妻の生んだ弟に寺を継がせた例などままございます。

近所にある幼稚園を付設した真言宗寺院では、前妻の息子(長男)はマージャン大好きで、その道を進みたかったにもかかわらず、なかなか父親の許しが得られなかったので、いつも寝巻きで栗の2階からぼおっと園児たちを見つめておりました。

    やがて父親が死ぬと、寝巻きの彼は籠から解き離れた鳥さながらに寺を去り、寺は腹違いの弟へ譲って雀荘経営に着手、こんにちまで自分なりに納得のいく人生をあゆんでいらっしゃいます。高森氏は龍谷へまでは進めたのですから、婿養子かなにかで他の寺を継ぐよう、父上や兄上は望んでいたんではないでしょうか。事実を知る老会員からの情報提供が待たれてなりません。

投稿: | 2014年1月 1日 (水) 17時20分

どうもごめんなさい。でも書いたことは事実です。

投稿: 訂正:栗→ 庫裏です | 2014年1月 1日 (水) 17時21分

お寺は選べばいい
捜せばいい
法然聖人は一人で八万の法蔵に挑まれた。
本願寺非難や畳の数で威張る必要はない。
信心の沙汰に二千畳も他教団非難も要らん。

というより高森自体が要らない。
不要です。

投稿: あ | 2014年1月 1日 (水) 22時52分

以前メンタルヘルス友の会の中根繁という方がいましたが、オンリーライフの仏教療法って酷似していると思うのですが、何か情報を知っている方おられませんか?

投稿: | 2014年1月 3日 (金) 23時19分

558 :(^ε^) ◆.Vipper/sM :2014/01/02(木) 08:55:54.86 ID:1bI0iuKP
>>557
うるせえわ、ボケが。
おまえは所詮偏差値55の大学出だろうが。
偏差値70のオレに意見するなんぞ、20年早いんだよ(笑)

2チャンネルの書き込みで、はじめはしょーもないな、またかと思ったが、どうにも腹に据えかねるので、日ごろ思っていることを……

   いわゆるネット対策員が将来的に複数になったり、あるいは更迭されるとしても、その任にあたるのは、数十年も前にいわゆる超一流とされる国立大学を中退(もしくはやっとの思いで卒業)したような人物が担当する可能性が、親鸞会の体質からしてやはり否定できません。

    それで言いたい。親鸞聖人や蓮如上人の偏差値はどれほどのものだろうか? 古文や漢文、世界史(東洋史)や倫理社会(東洋方面)は抜群でいらっしゃるにしても、理科や数学で、親鸞会の一部の高学歴講師に叶うとは到底思えません。それにそもそも「彼」が嘲笑している「偏差値55」の大学の中に、「彼」が敬愛している(と意識の上では思い込んでいる)会長先生の母校も含まれているのではないか?と。

    偏差値そのものが半世紀に満たぬ歴史をもっているに過ぎません。その程度のものを自己のはかない存在の唯一の支えとしているとおぼしいこの対策員氏が哀れでないといえばウソになります。
   それに文理あらゆる科目に均等に力を配分し受験に勝利して名門国立大学(軍人の学校をも含む)に入ったはずの偏差値秀才がよってたかって戦前の日本を破滅の底へ追いやったのではないでしょうか? 

    あらゆる科目に目を配れる国立名門校に合格するような人間はもちろん尊敬に値するが、なんらかの一芸に秀でた、しかし牢固たるこの国の入試制度のもとでは知名度の低い私大にゆくしかないかもしれぬような若者も同等に尊い、最近ではこう信ずるに至りました。もとより私は創価学会も池田大作も嫌いですが、池田氏の数少ない名言(迷言ではなくて)に…

    「早稲田出身者が基盤を築き、そのあとを東大出が固める……うまくゆく事業の秘訣はこれだな。」
       (昭和42年,創価学会関連企業の社長たちの集まりにて発言)

とあるのに、彼なりの人材使用術の極致を認めております。くだんの工作員さんは、ここに「東大」とあるのを「京大」と読み替え、本来はなばなしい人生を歩むはずだったのが、こんにちこのていたらくに至った道のりを年初に際し、真摯に振り返ってみられてはどうでしょうか。あなたの真摯な懺悔とその後の立ち直りを、私のみならず、相当数の元会員諸氏も仏法者として念じていることと存じます。

投稿: 親鸞聖人の偏差値は? | 2014年1月 4日 (土) 13時36分

偏差値なんてあてにならない。少子高齢化の時代。ゆとり教育受けた人が大学、社会人になる時代。偏差値高くても夜中に会員宅訪問する輩はいらない。

投稿: | 2014年1月 4日 (土) 15時42分

「抜苦与楽」を目指すと称する病院。「黄金の雨が降るよ~」と煽り立てる驚愕、もとい、教学試験用テキスト…これってひょっとして会長さんが自分自身の受けるであろう快楽を胸に秘めつつ、さもおためごかしに発した言葉でしょうか? あの「注文の多い料理店」みたいに、客(会員やその他ユーザー)ばかりが店の経営者から一方的に注文を付けられてるようにしか見えないもんですから。

投稿: 注文の多い料理店だったんでしょうか | 2014年1月 4日 (土) 17時23分

高森会長の偏差値はいくら。

投稿: | 2014年1月 4日 (土) 18時04分

高森会長の頭は悪くないのではないかなと思います。
ただし、後生大事とも仏法尊いとも思わないから教義の誤りなどどうでもよいと思っているのでしょう。
「どうでもいいじゃん」の無知が「捻じ曲げてもいいじゃん」の暴論にすり替わります。
人生の目的を臨機応変に変更することもできるし、同時にいくつもの目標を立てて追求することもできる。
その中の一つが本願寺を見返すことであっても何ら不思議はありません。
持てる頭脳のほとんどを、人をたぶらかして操ることに使ったのでしょう。
アタマが悪いわけでは…あ、でも医学部落ちたんでしたっけ?

投稿: | 2014年1月 4日 (土) 20時03分

会長は教学とか勉強の頭はそれほど良くないと思う。
というか、むしろあの人はじっと勉学に励むのが苦手で嫌いなんじゃなかろうか。嫌いだからやらない、やらないから勉強頭は良くならない、という感じかな。
カルト組織を作ったり、詭弁やウソで迷彩をしたり、人格者を装ったり、仏教一筋の人のようなお芝居するというペテン師的な頭はいいと思う。
やっぱ彼はカルトの人だね。

「なぜ生きる2」を読むと高森教学の「変さ」値は80を超えてるよ。
これだけは間違いないw

投稿: | 2014年1月 4日 (土) 21時25分

高森会長が医学部受験を失敗したとかは聞いた事がありません。詳しく知っている方は教えて下さい。
普通に考えれば医学部を目指したなら私大に行かずに国公立の大学に行きます。当時はセンター試験もなくて受験だけは可能かも知れませんが、高森会長は私大を八年の歳月で卒業したとかです。現在ならセンター試験だけで受験資格すら与えられませんから、高森会長独自の嘘話でしょう。正月そうそう・・・。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 06時45分

      医学部を受けたとか落ちたとかいうのは、息子さんが「その父が父だから…」という理由で龍大を落とされたというお話と同様、会員をして会長を尊敬せしめるために故意に流されたウソではないかと見ております。
      ただし、ウソと決め付けることもできません。今年こそは会草創の頃を知る一握りの高齢信徒の中からさえも脱会者が出て、真実が語られるよう念じてやみません。そうそう、予科練へ行ったか行かないのか、行ったとしたらどこの部隊だったのか、ということも、真実を知る人が現れるか、動かぬ証拠ともいうべき名簿(戦友会名簿のたぐい)が出現するよう念じております。

       公明党の竹入氏は、公明党に守られていた現役の政治家時代は、旧日本軍の飛行士だった、とされていました。ところが、彼が池田氏に叛いて日蓮正宗へ走ってからは、飛行場の整備係であった事実が明らかにされました(反創価学会の人々からは久しい)。整備係も飛行機を飛ばすのに不可欠な尊い仕事ですが、ウソはいけません。高森氏と予科練の関係もこんなようなものだったのではないかと思われるのです。

       それよりも、やはりお孫さんの存在がどうにも気になります。通信教育で二つの資格を取得された(見真学院院長談)、とのことですが、なにかこう、父上の元暴走族氏とは非常に対照的な、およそ人付き合いが不得手で線の細い人物を連想せずにおられません。
       祖父なる会長も、お孫さんの性格を彼一流の鋭さで見抜き、浮世の寒風に当ててはかわいそうとばかり、講師をもさせなければ、外の企業でなく例の病院で雇用しているのではないでしょうか。会長なきあとクーデターなるものが本当に起こるとして、お孫さんがどういう扱いを受けるのか注目されます。仏法では「親の因果が子(孫)に報い」ということは明確に否定されておりますが、特定の家庭に生を享けたがゆえの「共業」までは否定されていないと聞いております。どうなるものでしょうか……。

投稿: 若き日の「伝説」について | 2014年1月 5日 (日) 14時01分

会長の孫が通信教育で資格とった?何の資格ですか?資格はピンからキリまである。
簿記から司法書士から消防から調理師、ソムリエ、販売士から宅建から。何ですか?

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 14時13分

「なぜ生きる 2」を読んだ

  親鸞会は「浄土偽宗 修善会 高森教」であることを天下に示した
  本であり、高森会長はイイ物を最後に残してくれたと思う
  これで 浄土真宗に非ずの証拠本となった

  会長の意図よりも 書かれていることが問題であると思う

  教義の間違いを多くの人が指摘続けた結果 修正部分もあるが
  大部分高森教、自説のままでこんな本を出してきた

 1 仏願の生起本末、本は十八願で末は十九、二十願であるから
  十八願への道程は十九、二十願である

 2 「自力無効を知らせ、弥陀の仰せを聞かせるために建てられたのが
   随他意の十九、二十願の方便願なのである」139p

  ところが同じく高森会長の「顕正」には   126p

 「然るにわが浄土真宗はこのような十九、二十の本願に当たる浄土宗とは
  違って十八願である信心正因称名報恩の教えを勧めねばならない。
  勿論、機には未熟な者もあるからーーー直ちにその通りになれない人も
  あろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を
  示さなければなりません。---
  未熟な人に合わせて信心正因称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を
  得る方法には称名せよなどとおしえれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。
  故に、教家は常に虎の説法をしなければならないのであります」


  これが同じ人の書いたものと読めますか
  三願転入 従仮入真の今の話は本願寺との「宿善論争」あたりから
  、大沼氏の三願転入説を盗作して 自己流に味付けして理論武装した
  ものです。

  その結果

 1「雑行を知るには30年40年かかる」
  「講師部は十九願の入り口にも入っとらん」
  
  「なぜ生きる 2」のほとんどが十九願のことばかりなのは
   そのためです
  では、今80歳の人、重病で動けない人、貧乏な人は親鸞的善「聴聞、人集め、金集め}出来ない人はどうするのですか


 2 三願転入が救われる道程ならなぜ十九願の次の二十願、念仏の勧め   も詳しく書かないのですか
   二千畳に来る人の中には二十願まで進んだ人はいなのですか 
   講師部でさえ無理だから会員全員それ以下ですか
   応病与薬ができず 十羽一からげの話しかしない
から今の現状です

 3 「善をやらねば信仰はすすまない、自力無効と知らされない」と
    会員は理解するしかありませんが、ではその会員の臨終は
   どうなったのか、私は何人も見てきました
   その余りの哀れな心情を知って 私は目がさめた、おかしいと。   又 善を勧める講師部はどんな悪をして講師部合宿、会合で
   糾弾されたか手帳にきっちりと記入してあります、20年分。
   これは高森講師局長が「人事やと思うなー、誰が何をしてどうなるか
   よーく覚えておけ、分かったカー」と常に気合を入れていたので
   真面目にメモしておいた

   会員が聞いても信じられないことをやっています
   2人や5人や10名ではない
   これが善を勧める団体の正体、「親鸞会の体質を問う」という本が書けます
   だから、「講師部は十九願の入り口にも入っていないと言われるなら
   わかりますが。   
 
  4 そんな講師部が不思議にも信心決定しているとハッキリと個人的に言  って
    いる。今のところ4名います。他にもあるでしょう
    本当ならこれ以上の尊いことはありません。
    十九願の入り口からいきなり4人もーーー十八願は願力不思議ですか
    らうそとは言いません どんな人でも救われます
    
    しかし高森教の十九願、親鸞会的活動善で自力無効と知らされ
    助かったというなら、人工信心、機決定です

    自力無効とぶった切られて南無阿弥陀仏と一体にならせていただく
    のは
   「仏法は聴聞に極まる、正しい仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の謂れ」
    「悪人そのまま この弥陀にまかせよー必ず救う 往生成仏させる
     堕ちてこーい、引き受けたー」の真実 まことに貫かれたときです


    高森会長は18歳で獲信したと自分で書いたものを読んだが、どこに    も三願転入はない。だから「顕正」が書けたのだ
    三願転入しなければアリ1匹助からないなら、今の会長はどうなりま
    すか。
    「あなたの信心はどちらですか」まことですか人工信心だったのです
    か、一大事です。

    こんな矛盾だらけ人を「無二の善智識」と信じ込んでいる人がまだま
    だいます。
    一人でも目を醒ましてもらいたいと念ずるばかりです


   南無阿弥陀仏

    


投稿: | 2014年1月 5日 (日) 14時45分

祖父が善知識、息子が講師なら孫も当然講師になるのが普通。
通信制の学校で資格とって、病院の職員になったのか?
病院の職員が悪いんではないよ。
なぜ親が講師(しかも直系)なのに孫は講師ではないのか?
通信制で何の資格を取ったのか?
資格なんてピンからキリまであるからな。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 16時35分

正月にある弁当屋のビジネスがテレビでやってました。
一日の売上計画を立て、当然過不足は発生するでしょうけど、ほとんど余りもなく、ゴミもほとんど出ません。1%もなかったかな?
そして弁当のカラもチェックして、お客さんにも確認する。
そうすればどういうおかずが客受けがいいのかチェックまでしてる。
弁当の配達も無理むら無駄がなくコスト削減にまでつとめてますね。
頭が下がります。

あんしん弁当はどうかな?
見てる限り、衛生面の問題はないと思いますが、1日の売上計画は立ててないでしょう。経営ど素人の会長の息子がこれだけ売りあげなさいって弁当を作らせ、余ったら捨ててると思います。
当然、ゴミは何十%はでるし、あんしん弁当・健康が売りだから、食べて当たり前って感じだね。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 16時40分

高森会には本当に呆れる。
かまびすしく廃悪修善を言い立てる者に限って悪ばかり積みよるわ。
仏法のイロハも解っていないばかりか自分たちが信心している高森教義にも反しておる。
邪悪すぎるわ。恥知らずどもめが。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 20時24分

高森が諸悪の根源だろうが、廃善修悪のカルト講師にも呆れるわ。
造悪無碍の邪教やろが。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 20時32分

高森会長に「今も"虎の説法"をしてますか」と聞いてみたい。高森会長は何と答えるんでしょう。「そんな昔のことを持ちだしおって」とか「我々は真実には固執するが一貫性には必ずしも固執しません」とか言うのでしょうか。

投稿: | 2014年1月 5日 (日) 23時37分

高森会長を知り尽くした回答ですね。

投稿: | 2014年1月 6日 (月) 09時09分

     17年前、関東地方の大型会場での会長法話会を覗きに参りました。勤行での「正信偈」の声、どなたか女性講師のそれでありましょうが、なんとも金属質で、ご本人には失礼ですが、サイボーグの声もこんなかなと思いました。
     少なくともこの組織の中に、信心決定を果たした人はまだおるまいと直感されました。一人でも信心決定した人がいたら、あんなにせっかちで金属質な声にはならないと思います。
       「恋の満足を知っている人はもっとおだやかな声を出します」
という漱石の『こころ』の中の名言(作品冒頭の海水浴場の場面に登場)は、なにも恋にばかり限ったことではないのではありませんか。

   創価学会とか顕正会の会員が唱えるお題目も、ともすれば、「な〔む〕みょうほうれんげきょう」というふうに、2番目の〔む〕がすこんと抜けた、いかにもせっかちな、聞くだけで「ご利益をくれ~」と物乞いしているような感じです。今はどうなってるんでしょうか。

投稿: 金属質の声に… | 2014年1月 6日 (月) 12時45分

部屋の片隅に置いてあったので、速攻で捨てました。

投稿: なぜ生きるの本が | 2014年1月17日 (金) 13時16分

「救われるには善をせよ」と高森は口うるさいくらい説いてました。だが、その「善」の真の意は、聴聞、豈目の押し売り、布施、新入学生の勧誘、などなど。全ては自分のところに金を集めることしか考えてないのです。
阪神大震災から、ちょうど19年が経ちましたね。高森のことだから、今頃はまたもや布施布施と言ってるんでしょうね。
なぜ生きるがベストセラーとなっているようですが、大半は高森信者が勧誘の道具として大量購入している為です。Amazon等の絶賛レビューも、大半は高森信者の仕業であることがバレバレです(笑)。みなさんも、ダマされないよう気を付けてくださいね。

投稿: | 2014年1月17日 (金) 13時18分

うーん、高森さんの話はつまるところ大沼師と伊藤師の受け売りでしかないからねぇ・・・もはや批判の対象ですらないわけで。良書は他にいくらでもあるし、立派なお坊さんもそれなりにおられますよ・・・こんなモンにいつまでも関わっておっても時間とカネのムダでは!?

投稿: 受け売り | 2014年1月20日 (月) 00時08分

「3願転入の法論」というのは読んでないんですけど、御消息の「薬あり、毒をこのめということはあるべくもそうらわず」とおっしゃられた親鸞聖人のお言葉はどのように解釈されていましたか?このお言葉は造悪無碍を戒められたお言葉であって、19願の諸善を勧められたお言葉ではないと思いますが、確か親鸞会では「善のすすめ」の根拠の1つとして言われていませんでしたっけ?まあ、どうでもいいですけどね。

投稿: 受け売り | 2014年1月20日 (月) 00時21分

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