「なぜ生きる2」は故意に誤った教義を書いたのか。
前回のエントリではとても有意義な意見をコメントでもまたメールでも多くいただきました。心から感謝申し上げます。
コメントの中で、高森会長はあの「三願転入論」を真実だとは思っておらず、私利私欲のために故意に誤った真宗教義を創作したのだという意見がありました。
もちろん高森会長本人に聞かなければ本当のところはわからないのでしょうが、そう思われるだけの合理的な理由はあるし、私自身が長くそのように思っていたこともあり、全くそのような見方を否定するものではありません。
ただ、私自身は前回のエントリで、「高森会長が、これが浄土真宗の正しい解釈であるということ、そしてそれは世に問うても批判に耐えうるだけの内容を持っているということを本気で思い込んでいる」と書きました。どうしてそう思うに至ったかを述べたいと思います。
私は2005年に親鸞会を脱会しましたが、その時に所属していたのは弘宣部(現弘宣局)でした。親鸞会に関わってきた人ならばあえて説明の必要もないかと思いますが、そこは、「顕正新聞」や「顕真」といった会員向けの発行物を初め、「とどろき」などの対外的に出されている冊子の取材編集、デザインや組版、ものによっては印刷まで一貫して行われている部署です。
弘宣部で驚いたことは、こうした発行物は会員に向けてということよりもむしろ、「本願寺」に向けて作られていたということです。これは高森会長の意志として編集会議などで何度も確認されていました。高森会長の口癖は「これで本願寺も親鸞会を脅威に思うだろう」です。なるべく参詣者であふれているような写真を載せ、親鸞会が発展している印象を与え、本願寺に対してまるで子供のように虚勢を張っている姿を私は見てきました。会食会や忘年会では親鸞会の発展と本願寺の衰退ぶりをセットで話すのがお約束で、それを聞く高森会長の顔はなんとも言えない満足そうなものでした。
東西本願寺が親鸞会に対して脅威を感じているというのは、全くのプロパガンダだったと思いますが、親鸞会がなにか行動を起こすたび、語られるターゲットはいつも「本願寺」でした。アニメを頒布した「光大作戦」もそうですし、「本願寺なぜ答えぬ」のイナズマ作戦もそうでしょう。どちらも最初のターゲットは本願寺の末寺でした。今も各地の東西本願寺末寺に行くと「本願寺なぜ答えぬ」「どちらがウソか」といった高森会長の本が残っていたりして驚くことがあります。
私利私欲を満たしたいという思いのあるであろうことは否定しませんが、それだけではなく、自分を追い出した本願寺に対してなんとかして見返したいという思い。それが高森会長の行動の原動力になっていたように私には思います。(もちろんそれも私利私欲の一つですけど)
その上で、高森会長が「間違っている」とわかって「なぜ生きる2」を騙すために出したのならば、あの本はあまりにみっともなさすぎるし、古巣の本願寺に馬鹿にされるようなことをするはずがないと思ったのです。
あの本はそもそも根幹部分が間違っていますが、個々の説明についても本当にひどい部分がたくさんあります。取り急ぎ気付くところを申しますとp291など。
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなおもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
このご和讃の解説として、
「十八願真実は信じられていないが〔如来の諸智を疑惑して〕、十九の願を深く信じて〔罪福ふかく信ぜしめ〕弥陀に向かって善に務めている。そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号〔善本〕を称える〔修習〕身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか。」
と記されています。
私はこんなのが本当に本に書かれて出版されるとは思いませんでした。こんな師匠に師事していた事が恥ずかしくて、今すぐ穴に入りたい気分です。
このご和讃は誡疑讃と言われる中の一つです。親鸞聖人が本願を疑うことを誡められたもので、「仏不思議の弥陀の御ちかいを疑うつみとがをしらせんとあらわせるなり」とも書かれています。前後のご和讃ではひたすらに本願を疑う罪の深さを説いておられ、それでもなお、「本願を疑い、諸善や自力念仏をすぐれていると思っている人がいる」事を嘆いているのです。
おそらくこのご和讃を「なんと素晴らしいことであろうか」と読んだのは真宗史上高森会長が初めてでしょう。これを彼らは卓見だとか、独自の読替えで親鸞聖人の真意を明らかにしたとか言わせるのかもしれませんが、そんなレベルの話では決してありません。真宗教義を全く知らない人が読んだとしても絶対に絶対にこんな解釈になるはずはありません。恥ずかしすぎてありえない間違いです。
本願寺にずっと虚勢と見栄を張り続けてきた高森会長が、わかって騙そうと思ってこんな恥ずかしいことをわざわざ書くはずがなく、本当にそう思っているのだなと思ったのです。
「どうすれば親鸞聖人のように大悲の願船に乗れるのか」これがこの「なぜ生きる2」の最も大きなテーマです。
しかし大悲の願船に乗るのに「どうすれば」はありません。そもそも、どうかしてどうにかなるようなものではない私を乗せようとして作られたのが「大悲の願船」だからです。そこをわかった上であえて「どうすれば」という問に親鸞聖人が答えられたとすれば、
「本願を信じ念仏もうさば仏になる」
という言葉になるでしょう。
しかし、「本願を信じ」はともかく、「念仏をもうさば」はこの本にはどこにも触れられていませんでした。
歎異抄第二章の内容が本文に出てきますが、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」は一言も触れられていませんでした。高森会長によって書かれた結論は聴聞のすすめです。
観無量寿経の内容も出てきますが、「至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」にも触れられていませんでした。これも結論は善のすすめにです。
親鸞聖人、善導大師によって勧められたお念仏は全く無視されて、すべて高森会長が言いたいことに結論がすり替わっていました。
私はこの本ほどお念仏というものが軽視された「真宗書」を読んだことはありません。そう考えると、やはり親鸞会は浄土真宗とは似ても似つかぬものだと言わざるをえないのでしょう。
思えば私もそうでしたが、教義的に間違っていることに気づくきっかけはいくらでもありました。本願寺派の論文『派外からの異説について』を読んだ時も、ひょっとしておかしいのは本願寺派ではなく親鸞会ではないかと思いました。
しかし一生を親鸞会にかけて人生を捧げるつもりで入っていた私には「親鸞会が間違いであっては困る」という心があり、その思いが本当のことを知るのを躊躇わせました。別に親鸞会にいて情報統制されていたわけではありません。読もうと思えばいくらでもバレないように本願寺派なり大谷派の学者の書いた本を読むこともできた。しかし、私自身がそれを拒んだのです。あの時の私は、目の前で親鸞会教義の間違いを全く反論の余地のないほどに説明されても、おそらくに自分から耳をふさいで親鸞会を信じ続けたでしょう。
私は高森会長も今はその状態なのだろうと思います。ナチスドイツの犯罪がただヒトラー1人の暴走ではなかったように、今や親鸞会は会員と高森会長が同じく「親鸞会が間違いであって欲しくない」という思いを持ちつつ、自分たちの作り上げたドグマでお互いにお互いを縛り上げているのだと思います。
内部を知るものとして本当に寂しいことだと思います。
最後に、曽我量深師の言葉で締めくくりたいと思います。もうこれ以上「なぜ生きる2」に触れることは時間が勿体無いのでしません。
南無阿弥陀仏と、一念疑なく自力のはからひをすてて、静なる心をもって、仏願くはこの罪深き私をたすけましませと念ずるのであります。
これはだれでも、どこにいても、いつでも、かなしい場合でも、うれしい場合でもたやすく自由に仏を念ずることができるのです。
この念が現前する時いかなる煩悩妄念が襲ひ来っても内心の平和は絶對にやぶれません。是を真の救済と申します。


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