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ネット対策

最近久しぶりに2ちゃんねるの「心と宗教」を見ました。親鸞会関係のスレッドが乱立していますが、まあなんとも酷い荒らしですね。カルト脳バカウンチとか、すごいです。

私も親鸞会の弘宣部にいたときは、こういう荒らしを一生懸命になってやっていたものです。ウンコのアスキーアートを大量に貼り付けてスレッドを機能停止に追い込んだりとか、2ちゃんねるを装った全然関係ないサイトを作ってかく乱させるとか、本当に、色々やりました。これらのことは大法輪という雑誌に二回にわたって結構詳しく書いたので、ご縁のある人は読んでみて下さい。

一生懸命になっているときは使命感に燃えて気づかないのですが、一番心配なのは、こういう荒らしをしている人が親鸞会の欺瞞性に「ふと」気がづいた時に、自分がした行為のバカバカしさに死にたくなるほど後悔することです。

いい歳して、本来なら生産的な職業について家族を養って社会の一員として働いているような自分が、会館や親鸞会のビルのIPアドレスを使うのはまずいから携帯電話をつないで、卑猥な言葉とかアンチとかウンチとかを一生懸命書き込んで、使命感に燃えて真実を守っている気になっていた事が、全て無駄であり間違っていたということに気づいて、立ち直れなくなるほど苦しむことです。

それは私が一度経験したことだからよく分かるのです。

誰がどう客観的に見たって、やってることはまともじゃないわけで、自分の周囲三メートルくらいの人しか理解できないことを、全人類唯一の救われる道とか思ってやっていたそのギャップ。

今は夢見ているようなもんですからせいぜい頑張っておやんなさいとしか言い様がないのですが、いずれ必ずのたうちまわって苦しむことになるから、それだけは覚悟しておいて下さいよと一応は言っておきます。

でも人生にはそういう時も必要なのかもしれません。私にとっては、ああやって「アンチ氏ね氏ね」とか思ってパソコンに向かって荒らしていた時も、南無阿弥陀仏のおはたらきは確実に自分に届いていたし、それも浄土への道だったと今は思っています。

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コメント

最後の一節は(たとえご自身でそう思っていらっしゃったとしても)公の場で書くべきではないと思います。一部会員の反社会的行動を半ば肯定しているかのようにもとれ、親鸞会に関わってしまって相当にキツい思いをされた、あるいは現在もそのまっただ中におられる方々にとって、場合によっては余計にその苦しみを増長させかねません。

前々回の真宗合同布教大会で「(親鸞会にいたから)大谷派の教師検定試験なんてちょろいもんです!」という趣旨の発言をされたのをたまたま聞き、その時は(なんだこいつは、人の気持ちをよく考えて喋れよ、法話は独演じゃねぇぞ、、、)と、かなり怒りに近い感情を覚えましたが、今回はなんだか悲しくなってしまいました。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 11時05分

親鸞会やめた人、特に数年でも活動してた人は感情で怒りがこみあげますね。
社会にでて明らかにおかしなこともたくさんありますから。
特に高森さんのためにやってるようにしか見えないんだよね。自分のためにやらやきゃいけませんがね。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 12時42分

宗教で怖いのが、時間とお金ですね。
税務署やマルサのように徹底的に揚げ足をとらないといけませんね。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 12時45分

対策員による2ちゃんねる荒らしはひどいですね。
チン○ス、マ○カス、ウンチetc.etc..書き込み主は例の特定の講師部員でしょうか。
人間五十にして天命を知るといいますが、掲示板を荒らして排泄物の俗称を朝から晩まで書き込むことが天命と知ったんでしょうかねぇ。
哀れです・・・
世間はオリンピック東京開催が決まって華やいでいるのに、西日本の一地方の狭い暗いアパートの1室にこもってPCの前で朝から晩まで2ちゃんねるに下品な書き込みや無意味なコピペをしているカルト講師。人相もますます猟奇的になってきているでしょう。
虚しさの果て。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 14時00分

「一部会員の反社会的行動を半ば肯定しているかのようにもとれ、親鸞会に関わってしまって相当にキツい思いをされた、あるいは現在もそのまっただ中におられる方々にとって、場合によっては余計にその苦しみを増長させかねません。」ということですが、人によるのではないかと思います。
飛雲みたいに余りに親鸞会をボロカスに言われると余計に苦しくなる人もいるでしょうし、結局は親鸞会も自分にとって意味のあったことなんだと思える事がその人の救いになることもあるかと思います。
今まで親鸞会を批判するブログとかは、如何に親鸞会がダメで幼稚で反社会的でクズであったかということばかりを書いて、少しでも親鸞会を認めるような事は書けないような雰囲気がありました。
私はそういうのがいいことかと言われればそうは思いません。何もかも切って切って否定して「本願寺に行きましょう」とかいまさらふざけんなって思います。
自分の過去を否定したいがために人の心まで踏みにじるなよって思うこともあります。変化する人の思いの中でその時々に適切なブログがあるということなんじゃないですか?それとも、脱会した講師はいつまでも親鸞会を否定していつまでも反省し続けていなければならないのでしょうか。
親鸞会で勉強していれば検定試験ってちょろいんですか(笑)それでいいじゃないって思いますけどね。意味はともかく、沢山お聖教のご文は覚えました。試験なんて受けてないけど、いま聴聞にあるいてそれは確かに私の血になり肉になっているように思えます。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 17時07分

ぶるうのさんの時代は 全国で法話があり、小杉に新しい建物が増え、寝る時間もなく朝 昼 夜会合があり、後輩の育成、なんたら部長の講演会
聴聞の誘い アルバイト 学業ほったらかしで 移動中 トイレの時間に教学の短冊を丸暗記 それもコピーしたかのような書き方でなければ叱られる時代でしたね。そんなことを思えば「ちょろいもん」と言われたように思います。
ぶるうのさんが言いたかったのは 如何に親鸞会という所が自由の無い 洗脳するためだけの人格を奪う酷い教育をしていたか だったと記憶しています。

その親鸞会に関わってしまい 不幸な人生を歩む方を一人でも少なくしようと合同布教大会を開催され 事情あってぶるうのさんが話をされて
かなりヒートアップされながら 時間をオーバーして話されたのを覚えています。元親鸞会会員として会の 組織の規則に辛い思いをされておられる方々を身近に見て来た私には「ぶるうのさん頑張ってね」と思いました。

いろいろな方がいろいろな思いで親鸞会から離れられずに ブログを見ておられるのでしょうね。
辛い思いをしてブログを読む必要はありませんし ご自分が共感できる
ブログを読んで頂いたら良いと思います。
会長や講師をボロクソに言う『飛雲』
やめた人やめたい人の『安心問答』
自由に思いを書ける『さよなら親鸞会』
さりげなく批判し会の状況を教えてくれる『A宗教と私』
その他 真宗の要を綴って下さるブログを その時の気分で 読ませてもらってます。

投稿: 都のS | 2013年9月10日 (火) 22時22分

親鸞会を脱会した人にもいろんな人がいます。
「入会したときは真実の団体と思っていた。しかし親鸞会には騙された、デタラメの教義を教える反社会的教団であり、許せない、放置しておくことは社会の害悪だ」と考える人もいるでしょう。
同様な理由で親鸞会には批判的ではあるが、反面教師とし、あるいは人生の運のめぐりあわせとして、あえて振り返らない、あるいは、人生に無駄はなくどんな不遇も肥やしにして先につなげればよいと考える人もいましょう。
また会員には未だに会長を無二の善智識として崇め、真実に向かっているという風に思い込んでいる人もいます。会員でも会長や組織のやり方をある程度客観的に見ている人もいます。あるいは単にさびしいのでサークル活動的に参加してる人もいます。

一口に親鸞会の脱会者(や会員)と言ってもさまざまな人がいますし、それはそれでどの考えが悪いということもないと思います。全員が親鸞会において同じ経験をしたわけでもなく、性格も許容範囲も違うから。

だからこのブログでも親鸞会について思うことを凡夫目線で素直にコメントできるのがいいと思います。全員が同じ方向を向け!というのであれば、ファシズムあるいは親鸞会のかつての会是である無条件絶対服従とかわりがなく、すごく窮屈なブログになってしまうでしょう。
自分と違う意見でもとりあえず頭ごなしに「違う!」と切ってしまうのではなく、とにかく一度耳を傾けてみる。相手の主張にも納得できる部分が多少でもないか、と一旦譲ってみるということも必要かも知れません。

とくに客観的に正邪の判定が明確にできる「教義面」とは異なり、組織や運営面をメインにしてきたさよならでは、主観的部分が多くどうしても感情的になりがちです。

投稿: | 2013年9月10日 (火) 22時44分

厳しいのもあり、ゆるいのもありでいい
それぞれ自由な感情の発露に基づくものなら

ただ故意にウソをついてまで会を擁護するネット対策はいただけない。自由な感情でなく、隠された動機や目的のために不正にさよならを利用しているように思えるので

投稿: | 2013年9月10日 (火) 23時02分

われらがぶるうのさんが本当にそういう席で「ちょろい」うんぬんとおっしゃったのか、その場に居合わせたわけでない私がとやかく申し上げることは本来ならば許されません。しかしながら、もしも本当にそうおっしゃったのだとすれば、ある意味でありがたいことであります。

10数年前の『別冊宝島』でのルポによれば、親鸞会の教学試験においては、渡された『仏教学』『真宗学』などのテキストを、点や丸の位置もそのままに丸暗記しさえすれば
   「真宗系の大学教授なんて【ちょろい】」
と豪語していたそうであります。この【ちょろい】とはたぶん
    「簡単に論破できる」
ぐらいの意味でありましょう。ともあれ、まだぶるうのさんが在籍していらしたころの親鸞会で
    「××なんてちょろい」
という言い回しが広く行われていたことはどうやら間違いないようで、ぶるうのさんが本当にその席でそうおっしゃったのだとすれば、とかく外部からは見えにくい親鸞会独特の言い回しや慣習が確実に存在していたことをうらがきしてくださるものにほかなりません。

    ぶるうのさん、今後はしかし壁に耳ありのようですから、いま少しご注意くださいませ!

投稿: うらがきに感謝! | 2013年9月11日 (水) 09時47分

大谷派の検定試験の問題集を見たことがあります。これは京都の本山にあるブックセンターみたいなところに行けばだれでも立ち読みできるし買えるものです。買わなかったけど。

で、その問題は仏教学も真宗学も親鸞会の教学をした所で全く太刀打ち出来る内容ではありませんでした。特に仏教学はちんぷんかんぷんです。真宗学も親鸞会で講師試験を通るような人でも1/3も書けないと思います。

ぶるうのさんがいった「ちょろい」の意味はわかりませんが、どう見てもちょろいとは思えませんでした。多分親鸞会時代にした努力を考えればということかもしれないし(それにしても親鸞会でやったような暗記中心の勉強では全く歯が立ちません)、合格率も数パーセントとのことで、よくわかりませんでした。

直接ぶるうのさんがそう言っていた現場に立ち会ったわけではありませんが、親鸞会の人たちを励ます意味で言ったんじゃないかなと。

まえからあの人は、親鸞会を出た人が伝統教団に入って勉強をして、そして布教に旅立ってゆくことを助けたいと言っていたそうです。自信持って来てよってメッセージじゃないかなって思っているんですが。

投稿: | 2013年9月11日 (水) 10時24分

「チ○○ス」「マ○○ス」「う○こ」と連呼してらっしゃる方。日々の指先のご労働、大変だと思います。腱鞘炎にだけは注意してくださいね。

われわれは生きている以上、どんな立派な念仏者であっても、上に挙げたような老廃物を身体から出さずにはおられません。そういう者たちをさえもどこまでも摂取してくださる阿弥陀さまであるのに、そのお救いの正機たることを明示する老廃物の名称を用いつつ、そういう者たち、つまりわれわれ凡夫を日々罵倒なさっている、ということは……工作員さんはよほどりっぱな方なんでしょうね。

投稿: 生きていれば新陳代謝もするでしょう | 2013年9月12日 (木) 09時37分

>前々回の真宗合同布教大会で「(親鸞会にいたから)大谷派の教師検定試験なんてちょろいもんです!」という趣旨の発言をされたのをたまたま聞き、その時は(なんだこいつは、人の気持ちをよく考えて喋れよ、法話は独演じゃねぇぞ、、、)と、かなり怒りに近い感情を覚えましたが、

「人の気持ちをよく考えて喋れよ」とは、
誰の、どのような気持ちを指しておられるのですか?

試験の質が、親鸞会と大谷派では異なりますし、
どちらが優れているのか、私には分かりませんが、
少なくとも、親鸞会の教学問題を、
訪問した何人もの寺の住職に尋ねても、
誰一人、答えられる人はいませんでしたけど。

大谷派といっても、数多くの人がいるのでしょうが、
内容はともかく、勉強や勧誘に熱心という点は、
親鸞会はじめ、新興宗教から学ぶところは
多々あるかと思います。

伝統宗教があぐらをかいていると思われるのは、
そういったところではないでしょうか。

投稿: | 2013年9月15日 (日) 11時26分

寺の住職が親鸞会の教学問題に答えられないのは、単に親鸞会の会員みたいに暗記してないからでしょ。
習っている所が違うからで、逆に大谷派や本願寺派の教学問題を親鸞会の講師が答えられるかと言ったら、全く答えられないか、頓珍漢な回答をするか、どちらかじゃないかな。
親鸞会の人って教学熱心だというけど、単に暗記しているだけじゃない。
教行信証を読んで自分で考えるとか、七祖聖教を読むとか、全然してないよね。そんなのが果たして教学に熱心と言えるんだろうか。

投稿: | 2013年9月15日 (日) 19時29分

親鸞会の教学はお聖教の文を暗記するだけで理解しない。
仏教の布教師から学ぼうとする場合、聴く人がどちらを選ぶか?
お聖教の文ならテキスト見ればわかるんだから、布教師が丸暗記して覚えても、それをわざわざ聴く意味は少ない。聴く人にすれば、教師が音読するのとなんら変わりはないから。
たとえば中学時代、英語の先生が英語の教科書を丸暗記していたかと言えば、そうではない。丸暗記だけなら先生を超えるくらい覚えた学生もいただろう。
しかし教科書を丸暗記しても訳せなかったり、文法がわからなかったり、英作できなかったり、では英語を習得したと言えるだろうか。

やはり親鸞会の教学には致命的な欠点があると思う。

投稿: | 2013年9月17日 (火) 01時23分

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