しばらく前から親鸞会では講師部の説法が事実上なくなりました。
「ご法話ビデオ+十分間説法」というのは、私がいた時からそうだったのですが、アニメ講師がアニメの上映をするにしても、自分で話をするのではなく、解説のビデオを流すのだそうです。
高森光晴さんが話をする際も、事前に(おそらくチェック済みの)原稿を持ってそれをそのままに読むのだそうです。
十分説法というのは私も短い期間ですがやってました。原稿をそのまま丸暗記して、一字一句間違えないように話すのですが、最初は「講師部がちゃんと説法が出来るようになるまで」という限定の施策だったように思います。しかしながらもう完全に固定してしまったのでしょう。
高森会長以外の人は、説法は許されないというのが親鸞会になってしまいました。高森顕徹という人の庭から、一歩も出ることができないのが講師部員であり、会員なのだろうと思います。
親鸞会というのは潔癖と言えるほどに「正しさ」に執着する団体でした。正しさに執着し過ぎると、その正しさを疑うこと自体が許されなくなってしまいます。間違いが許されないというのは、なにが正しいのかを問いなおすことすら許されないという事だからです。
「正しさ」に過度に依存し過ぎるとそれを失った時にどこにも立つことができなくなります。高森会長が生きておれるのもあと僅かだと思いますが、こんな状況になってもまるで後任を育てること無く、益々会長への依存を強めてゆくのは不思議で仕方がありませんが、講師も会員も親鸞会は「高森会長一代のもの」と諦めているのかもしれません。私が最近に話をした現役の会員はみなそういう想いでした。
親鸞会の講師は以前はとても魅力的な説法をする人が沢山いました。情熱があってわかりやすく、今もこの人の話しなら聞いてみたいなと思う人はいます。しかしそういう人は次々と合宿で問題になって、結局こんなことになって誰も法話が出来なくなってしまいました。
伝統教団の法話では、ある程度「間違う」ことが許容されていると言えます。それは、仏法が持つ力を信頼しているという事と、話をする人は人に教えを説いて聴かせるということよりも、一番その場でお育てに預かる身であるとの考えによると思っています。
それは説法の場で親鸞聖人に問いたずねてゆくという有り様だと思うのですが、親鸞会の場合は55年経っても「高森会長にたずねる」事から一歩も進まない教団しか作れませんでした。
高森会長が死んだら、親鸞会は総アノミー状態に陥るでしょう。
その時、どこまでが本人のものかもわからない高森会長の言葉と、高森会長のビデオを飽きるほど見て、高森会長の言葉だけを教えの裏付けとして信奉する教団になるのかもしれません。
それは私にとってとても辛いことです。
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