存在の耐えられない軽さ
先回のエントリで、こんなコメントがついていました。
脱会したての頃、西本願寺の勧学の方の説法を聞きにいった際、 説法後にどうしても話をしたい、と受付の人に言ったら、「どうぞどうぞ」と気軽に会わせて下さった。親鸞会では会長と直接話ができるなんて考えたこともなかったので驚いた。 「親鸞会に15年以上いて・・・」と話を切り出したら、 「親鸞会????????????」 と全くピンときてない感じで返され、二度びっくり。 本願寺は親鸞会を脅威に思っている、というのは親鸞会の妄想だとしても、少なくともどんな邪義を教えてる団体なのかは把握しているのでは?と考えていたのに・・・全く相手にされていない、とハッキリして、赤面、恥ずかしさのあまりその場で泣き出すという醜態をさらしてしまった。 会員の人、本願寺は親鸞会を脅威に思っているどころか、存在自体「ああ、そんなとこもあるらしいね」程度にしか思ってません。それなのに反論書でないとか、ばかばかしいにもほどがある。 早く親鸞会という閉鎖社会から出てください、井戸の外に出たらなんと世界の広いことか。
私は脱会までの二年間は弘宣部(現弘宣局)に居ました。主にネット対策をしていたのですが、その当時は親鸞会が本気で本願寺に攻撃されていると信じて、まさに死力を尽くして戦っているつもりでした。
しかし親鸞会を出てみると、おっしゃるとおり「そんな団体もあるよね」という程度。顕正新聞には毎月のように本願寺本願寺と書いて、真宗改革だ真宗十派を飲み込む大津波だ脅威だと言ってはしゃいでいたのも、本願寺の攻撃だ迫害だ誹謗中傷だ恐れているんだと言っていたのも、全く親鸞会の一人相撲でした。
あっけにとられ、なんと自分は外の世界を知らなかったのかと思ったものです。自分が青春をかけてやっていたのは何だったのかと、情けなさと恥ずかしさで一杯になったものです。親鸞会のことなど歯牙にもかけてないような本願寺派の実態を知って、悔し涙でいっぱいになりました。「親鸞会って体験発表で救われた日時を言うんでしょ?」いや、それどんだけ昔の話ですかって‥本願寺の人の親鸞会のイメージは、御影堂に座り込みをしたあの時から完全に止まっていて、関心がないのです。
しかし相手に関心がないのは親鸞会も実は一緒で、真宗大谷派末寺の住職を「東本願寺の住職」と新聞にデカデカと書くのはまだいい方として、イラストや漫画をみると浄土真宗の僧侶なのに見事にみんな剃髪しているし(実際はそんな人はあまり居ない)、長老が五条袈裟をかけてバスに乗っている一方、下っ端(?)の僧侶は輪袈裟もせずに衣だけ着ているなど、少し調べたらおかしいとわかる事なのに、ボロボロ出てきます。この人達は全く東西本願寺も真宗十派も関心ないんだなと感じます。大体、親鸞会は本願寺といっても東西ごちゃまぜになって、こんなことすら区別の付いている人は殆ど居ないと思います。
「この世はどうにもならん、死んだらお助け」なんてどこの誰が言っているのでしょうか。私は僧侶になってもう4年になりますけど、未だにそんな説法を聞いたことありませんし、本でも読んだことはないです。
お互い、相手のことをほとんど知らないままにやってきたのです。何も知らないままに本願寺はああだこうだと批判したり戦ってるつもりになったり脅威を与えているつもりになったりしていたのです。
本願寺自体も親鸞会など殆どの人は何も知りません。いや、ホントのところを言うと西は東を、東は西を。これだけ大きな教団同士でもお互いに関心を持っていません。あれだけ大きな教団になると自分たちの世界だけで十分に回ってしまうという事もあるのでしょう。親鸞会は驚くほど閉鎖的な教団ですが、本願寺もそう人のこと言えないわけです。
私は、本当に親鸞会が本願寺に脅威を与えたらいいのにって、ちょっと思うことがあります。400年の太平の歴史を歩んできた教団は、このままゆでガエルのように衰退してゆくのかなと。それなら、外部から大きな脅威を受けて変わるしか無いと。
しかし親鸞会にしても高森さんにしても完全に役不足でした。会館をバンバンたてて、本も売ったけど、なにより信者はすぐに飽和状態に達してほとんど増えなかったし、言動はあまりに幼すぎたし、教義安心については話にならないくらい駄目だった。高森さんが学生の時に学んだか聞いたニワカ真宗学の範疇から一歩も出ることはなかった。私は思いますに、高森さんは龍大を出てからほとんど勉強して来なかったと思います。そしてせっかく優秀な人たちを勧誘しながら、何一つ高森教学から出ることを許さなかった。
もったいないなと思います。
親鸞会はおそらく、沢山の人の人生を迷わせた挙句、日本の歴史どころか真宗史にすら一行も記載されずに消えてゆく。
彼の教団に人生をかけた人たちは、外に出てその姿を見たらあまりの存在の小ささに愕然とすることでしょう。愕然としたくなければ、親鸞会とともに敗れ、朽ち果ててゆくしか無いのかもしれません。
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コメント
>しかし親鸞会にしても高森さんにしても完全に役不足でした。
ここは「力不足」とすべきでしょうなあ。
投稿: 何某、 | 2013年3月17日 (日) 00時14分
近隣のアパートで生活保護で70歳で結婚歴なしの女性がいます。女性は「狙われて、誰かがストーカーしている」と常に心配しています。類似で団地の10階のベランダに有刺鉄線で部外者の侵入に不安を抱く人がいます。この人達は少なくとも高森会長より人間的に優れています。被害妄想は個人のみですが高森会長は累計何万を巻き込み、何万人に被害妄想で人生を狂わしています。オウムの麻原も国家権力とかアメリカに攻撃されているとか言っていました。現役学徒さんも麻原を被害妄想と判断しても、高森会長を被害妄想と思えない。そこに問題があります。
覚醒。
投稿: | 2013年3月17日 (日) 02時21分
400年の歴史ある本願寺の今後も心配されていますが、そこは大丈夫です。これまで葬式法事を主としてやってきたのです。今後その需要が減ることは無いでしょう。しかし、もし世の風潮が極端に変わり、葬式法事での需要も無くなるかも知れません。そうなれば、あえて組織の存続を維持する必要性はないと思います。
投稿: お東 | 2013年3月17日 (日) 07時39分
本願寺派はどちらかというと、創価学会の方に関心があるみたいですね。本願寺新報と聖教新聞を読み比べても、残念ながら聖教新聞の方が読み応えがあると思います。別院はそんな事ないけど、近所の寺の法話に檀家以外の人が来ると、怪訝な顔をする住職や門徒さんもいる。それでも、月に一回法話をしてる寺は熱心な方で、永代経や報恩講だけの寺もある。ぶるうのさんには悪いけど、大谷派にいたっては、一切法話をしない寺も珍しくない。これじゃあ衰退しない方が難しい。浄土真宗は新興宗教が出づらい教えだと聞いた事があるけど、親鸞会は頑張ったほうじゃないかな。私も親鸞会には被害を受けたけど、親鸞会が無かったら勧学や和上の話を聞かなかったし、御念仏を称える事も無かっただろうから、その点は感謝してる。御念仏の教えは地味だから、広めるのは難しいと思うけど、本願寺にはもっと頑張って欲しい。長文・乱文失礼しました。南無阿弥陀仏。
投稿: | 2013年3月17日 (日) 22時44分