もう一度、一人の聞法者に戻ろう。
高森会長の法話に変化が出てきているようです。
二河白道の譬で、白道を他力とする解き方を「親鸞聖人の説かれ方」と言ったり、または最近あさ川氏のブログで触れたように、苦悩の根源を今までの解釈を覆して、無明の闇ではなく本願疑惑心だと言ったり。
無責任といえば無責任だし、悪知識といえばその通りなんだろうと思います。
ただ、私が感じるのは、高森会長は変わろうとしているのかもしれません。
私は何しろこんな甘っちょろい見方しか出来ないし、馬鹿と言ってしまえばそのとおりなのですが、間違いを認めた高森会長がしている精一杯の軌道修正の結果かもしれない。
自分の誤りを認めて正すのは、勇気がいるものです。あれだけ多くの人に先生先生と言われ続けた人間なのですから、急にはそんなことは出来ないでしょう。
1929年生まれの高森会長は、もう84歳。無理かもしれないけど、もう一度一人の聞法者に戻って欲しい。
あなたがそうなれば、皆付き従うでしょう。最後の最後に、本当の親鸞聖人のみ教えにあわせてあげてください。
高森会長は私も親鸞学徒と言いながら、今まではそうじゃなかった。あなたは法主を目指そうとしていた。
最後の最後にそれをやめて、一人の聞法者として共に親鸞聖人の教えを学ぶ身になり、本当の意味で親鸞学徒に戻るなら、自分はどんな批判を浴びてもそれを助けたいと思っています。
| 固定リンク
コメント
高森センセイは単に、外部からの批判に対して、幹部や会員の動揺を防ぐために、その場凌ぎをしているだけでは?
今までも散々その場その場で「教義新作」をしてきた手合いですよ?
「間違いを認めた」も何も、「正しい教義安心」などハナからどうでもよく、いかにもっともらしくて、金集め人集めになる事を説くかしか頭になかったのが、彼の「伝道」ではなかったかと思います。
投稿: まゆゆのおしっこで炊いたご飯 | 2013年3月18日 (月) 04時50分
甘いですね。
何も学んでこなかった真宗末寺の次男坊が、お山の大将になって、天下取りの気分を味わいたかっただけのことです。
嵐のように吹き荒れる教義批判に対して、
本当は知っていたけど、打ち込ませただけ
無知な人に理解させるために、このように説いた
と必死に誤魔化しているだけですよ。
変わろうとしているのではなく、変わらないと批判がかわせないから仕方なく変えているだけです。
高森会長がどんな人物か考えればわかるでしょうに。
ぶるうのさんも考えを変えるべきですよ。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 06時30分
切ない記事ですね。
会長には聞法者に戻ってほしい。これらの変化がその表れであってほしいと自分も思います。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 12時56分
え聞法者?無理です。
聞法者どころか一人の人間に戻る事も難しい
投稿: | 2013年3月18日 (月) 13時52分
会長センセイは「善のすすめ」など彼の特異解釈は改めないでしょう。
仮に間違いをすべて改めたとしても、今まで何十年も聴いてきた人にとってすべて一からやり直しとなる。
これは大きな罪だと思います。
(これまでつぎ込んだ膨大な時間やお金はなんだったのか?)
さらに言えばあさ川さんのブログでは「疑情」=「死後どうなるか分からない『無明の闇』」を「会員の聞き誤り」にされていますが、これまでの会長の話や著作ではまさに上のように書かれているのですから「会員の聞き誤り」では断じてなく「会長の教え誤り」です。
軌道修正自体は悪いことではないですが「疑情」の件は明らかに自分の過ちなのに、これを認めずまたもや「会員の聞誤り」などと責任転嫁している点まだまだ安易に心を許してはならないと感じます。
今回のぶるうの氏のエントリで
>あなたがそうなれば、皆付き従うでしょう。
と書かれていますが、少しセンチメンタルに過ぎるのでは・・。会長を真実の人と信じてついてきて命を落とした人もいるのです。実はあれは間違えでした、では済まないと思います。わかっていれば退会して今頃元気に生きているでしょうし。
何かぶるうのさんにあったのかな、と思ってしまいます。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 14時09分
会長は変わろうとしているのでなく、教義上論破されまくって悪あがきをしているだけと見るのが適切なのでは。
もしくは高齢による知力の衰えから話の整合性がとれなくなってきているだけか。(歳を取れば自然なことで仕方ないことですが)
親鸞会で我慢は間違いと知りながらどこどこまでも自分の意見を押し通すことと聞きましたが、この我慢で会長は自説を訂正することはないですよ。
親鸞会、高森会長に変わるかも、良くなるかもと一ミリばかりでも期待を持つから、会員さんは辞められないでズルズル続けてしまうのです。
駄目な奴は一生駄目。こいつは駄目だ!と見切りをつければいいんじゃないかな。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 16時44分
この更新には賛否両論がありますが、高森会長を別にして私はぶるうのさんを判断します。
ぶるうのさんのやさしさは講師のやさしさです。自ら講師を志願する志願者にはぶるうのさんのやさしさを有しています。そうでなければ講師を志願しません。どんな講師でも有する一面で(大小個人差あり)す。M野講師にも多少ありましたが普通の講師の有する十分の一ぐらいはありましたが、いかんせん詐欺師的な人間性では話になりません。ぶるうのさんの言われる通りに高森会長も良い方向に進めばいいですね。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 18時09分
会長が謙虚になってちゃんと「自分の間違えだった、許してくれ」と言えばたいがいの人は許すでしょう(もちろん許せない人もいるはずです)。
誰でも間違えは犯すし会長は善知識でもなければ高邁な人格者でもないこともすでに大方の知るところとなりました。
後は会長自身の問題です。旅立つときに後を汚したままいくのか、全てきれいにしていくのか。
会長の人生の決算の時は迫っています。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 19時13分
もう一度聞法者になってとは、誰から仏法を聞けという提案なのですか?東本願寺のトップからでしょうか?
投稿: 質問者 | 2013年3月18日 (月) 21時45分
高森会長が本当に変わろうとし、いち聞法者としてやり直そうとする場合、彼のとりうる行動、またとるべき行動は、ひとつしかありません。
親鸞会の解散です。
高森会長が懺悔し悔い改めるというのは、高森顕徹という者が指導者としてふさわしくないことを認め、また彼のつくりあげてきた親鸞会という存在そのものの有害性を認めることと同義であり、そのことを示す唯一の証しが、親鸞会の解散なのです。この決断がない限り、彼が懺悔し悔い改めたとはいえないでしょう。親鸞会が変わって良い集団になればいいというのではありません。
およそ団体というものはその生涯を通じて設立思想に規定され続けるものです。まちがった思想によって生まれた団体は、その終了までまちがった思想を生命として存続するしかないのです。これは、ひとによってつくられる団体というものの本質に由来する限界です。
ぶるうのさんの考えはもちろん甘いです。しかし、それはぶるうのさん自身が自分でそう思っているよりもっとずっと基本的な部分で甘いのです。今更高森会長を赦すことが甘いのではありません。上に立つ人間一人が悔い改めさえすれば、その人も集団も生まれ変わることができるという、その認識が甘いのです。高森会長が悔い改めようが誰が彼を赦そうが、会も会員も、もちろん会長も、もう引き返し不可能なところまで来てしまっています。
世の中、取り返しのつかないものというのは厳然としてそこにあるのです。
投稿: | 2013年3月18日 (月) 23時34分
私は以前、誰かから高森会長は精神障害ではないかと聞いたことがる。
統合失調症ではなくでアスペルガー症候群の方ではないかと。
・とにかく自分の思いだけにこだわっていく。
・人の意見を聞いていても聞かない。(結局聞いていない)
・同じ事を何度も繰り返す。
・とことん潔癖症なところがある。
ちゃんと精神鑑定をしないと分からないが、よくもあそこまで同じ話を
何度も何度も出来るものだ思っていたが、アスペルガーのことを聞いて十分納得してしまった。
もちろん現役時代でなく退会してからだが。
ぶるうのさんは、そんな会長の最近の情けないまでの変化を見て、お慈悲から言われているだけではないだろうか。
それが甘いとかどうとかは、人それぞれの判断で良いのではないかと思う。
まあ、中には絶対許せないと思う人もいるかもしれないが、
阿弥陀様のお心を聞かせてもらったら慈悲のこころは出すなと言っても出てくると思う。
それにしても会長は老いを重ねて最後はどうなるのか、私は最後まで見届けたい。
一度は自分も人生の師と仰いだ人だから。
投稿: | 2013年3月19日 (火) 00時10分
いまや会長は善知識ではなく、人格者とさえ言えない煩悩具足の凡夫であることが明らかになりました。
この点はたとえ親鸞会内部の人でも(よほど情弱の人やマイコンにはまりきっている人を除いて)抗う余地が無くなってきたように思います。
あとは高森顕徹という人の人間性のみに帰着する問題でしょう。
この人がどういう人間か、あくまで利己を通したい人なのか、わずかでも血の通った人間味のある面もあるのか、ということです。
もう84歳、普通の人ならあれこれ我欲がなくなって後の世代のことに思いを馳せてもいい年齢ですが・・この人には普通とか一般とかいう公式・常識は当てはまらない(それゆえに多くの人が騙されたわけですが)ので、憶測や予断を捨ててこの人の言動のみを客観的に思料していくしかないでしょう。
投稿: K | 2013年3月19日 (火) 01時10分
毎日更新しなくてもいいんだぜ(ねぎらい)
月に2、3回多くて1週間に1回でいいんだからな
投稿: | 2013年3月19日 (火) 09時40分
1~2ヶ月に一回くらいでいいんじゃね。
忙しそうだし無理してかえっておかしくなっても、ね
投稿: | 2013年3月19日 (火) 11時23分
自分の我欲を満たすためだけに、どれだけの人達を苦しめてきたか。出発点はそこからだろう。
投稿: | 2013年3月19日 (火) 13時57分
その通り。何千、何万の人々を不幸に突き落とした大罪は、何物をもってしても償うことの出来ない、取り返しのきかない、悪業だ。
投稿: | 2013年3月19日 (火) 18時56分
ぶるうの兄貴に質問なんすけど...
2chに常駐してる顔文字&語尾に(笑)つけて下品な文を書き込む連中って対策淫なんですか?
投稿: | 2013年3月19日 (火) 22時54分
そうなればいいですけどねぇ。
もうやめて4年?ぐらいになるかなぁ。
もう昔々の出来事のようだ。。
投稿: | 2013年3月19日 (火) 23時24分
高森顕徹という途轍もない巨大な罪を抱えた悪人に「一人の聞法者に戻ってくれ」と呼びかけ、そうするなら自分はどんな批判を浴びてもそれを助けたいと仰るぶるうの様のご意志はたいへん真摯な、殊勝で、敬服します。
ただ、この記事を読み、またここで書かれたぶるうのさんの態度をやさしい、慈悲だと称賛するコメントを読むと、それぞれのお気持ちはわかる一方で、同時に「ああ、だからこの人たちは親鸞会をやめられなかったのだな」というのがよくわかってしまいます。
おそらく、高森会長や親鸞会に最初に触れた時、誰もが多かれ少なかれ、その幼稚さや稚拙さに気づいたことがあったと思います。誰でも知っているはずのことを知らない、日本語がおかしいことがある……etc。しかし、いつしかそういうことを問題とすることをやめてしまった。なぜか?
捨てられなかったからですよ。すでにその頃には高森会長および親鸞会に情が移ってしまっており、それゆえに「悪いところもあるだろうが、いいところもある、それを自分は知っている」と思い始めていた。そして、その「やさしさ」ゆえ、抜けられなくなった。思えば、親鸞会の勧誘活動でも勧誘対象にそのように思わせることを推奨していましたよね。
失礼な例えかもしれませんが、世の中にはダメな男ばかりを渡り歩く女性(いわゆる「だめんずうぉーかー」)が相当数いるそうで、そうした人たちの心理に近いかもしれません。その意味では、ぶるうのさんやこれらの人たちは、たしかに親鸞会は脱したかもしれないが、この人達自身はなんら変わっておらず相変わらず「だめんずうぉーかー」であることに変わりはなく、まったく同じ事を繰り返していると。
そういうのも確かにやさしさです。やさしいことそのものを慈悲と呼称するのが適切なら、それも慈悲というものでしょう。甘いというなら言えばいい、それでも自分は彼を見捨てたくない、何とか立ち直って欲しいと。たしかにそのこと自体はたいへん素晴らしいことですよ。誰もそれ自体を否定なんかしませんよ。
しかし、その結果どうなってきたのか。だめな相手(高森会長や親鸞会)を見捨てることをためらい、やさしさをその言い訳にしてきた結果、だめな相手をなおさらだめにしてきたのではなかったのか、そう思わずにいられないんですよ。こういうのも慈悲といえば慈悲なのかもしれないけど、智慧を伴わない慈悲はたんに弱さでしかありません。そんなことでは結局、だめな相手を助け遂げることなんてきわめて有難いでしょう。
――ここまで厳しく言ったのには理由があります。「高森会長は変わろうとしているのではないか」という淡い期待が、飛雲で早速、完膚なきまでに反証されてしまっているんですよ。これはいつか見た光景です。以前にもここで「歎異抄をひらく」のくだらなさを書き立てた人があって、そのとき穏健なやさしい(!)人が「自分は『歎異抄をひらく』はいい本だと思う、親鸞会だからといってなにもかも否定しようとすべきじゃない」とたしなめたことがありました。しかし、今なら言うまでもないことですが、主に飛雲をはじめとしたやさしくない(!)批判者によって「歎異抄をひらく」のくだらなさはこれでもかというくらい明らかにされてしまっています。
要するに、穏健なみなさんの「やさしさ」は、親鸞会の真実を明らかにしなかった。それどころか、この二件に関していう場合、これらの「やさしさ」は、真実の認識を妨げる障害にしかなっていない。そしてそれが、「さよなら親鸞会」の限界でもあります。たしかに「さよなら親鸞会」は慈悲深いです。理想肌で、やさしくて、大人です。それに比べると、飛雲や、安心問答に出入りする法論好きの人たち、この時期にコピペに勤しむ誰かさんなどは子供っぽい人たちかもしれない。しかし、少なくともここ数年、役に立ってきたのは一体どっちだったのか?
それを思うと、やりきれない残念な気持ちになります。
投稿: | 2013年3月19日 (火) 23時40分
親鸞聖人は善鸞の邪義に対して寛容でしたか?
逆ですね。勘当され、親鸞聖人の臨終に許しを請いに来た善鸞にさえ会われなかった。
親鸞聖人がなぜそのような厳しい態度をとられたかは、皆さんにも想像できると思います。
投稿: | 2013年3月20日 (水) 08時12分
上の方、臨終に許しを請う〜、などの話はどのような史料から確認出来るのでしょうか?
どこに書き残されてる話なのでしょうか?何を参考にされていますか?
投稿: | 2013年3月20日 (水) 10時06分
済みません。コメントが途中になっていました。最後の文を追加。
親鸞聖人は善鸞の邪義に対して寛容でしたか?
逆ですね。勘当され、親鸞聖人の臨終に許しを請いに来た善鸞にさえ会われなかった。
親鸞聖人がなぜそのような厳しい態度をとられたかは、皆さんにも想像できると思います。
こんなことを言っていた高森会長ですから、その通りにしてあげるのが優しさかと思いますよ。
投稿: | 2013年3月20日 (水) 11時50分
腹を切れ、と言いたいところですが、そこまで要求しないところが、愛情かと、
投稿: | 2013年3月20日 (水) 12時56分
聞法より、念仏を称える事をすすめるほうが大事なんじゃないかな。
投稿: | 2013年3月20日 (水) 20時46分
このエントリには当初ちょっと衝撃を受けました。
ぶるうの氏が「変心」されたんじゃないかと思って。
オウムの上祐氏に対面され言葉を交わされたそうですが、
オウムの上祐氏が「麻原に対する帰依や尊敬の念はない」とマスコミ向けに言いつつ実は教団内では機密に真逆のことを伝道し本人もそう信じているのではないかと思われること、そのことがぶるうの氏の深い心の闇に閉ざされていたある種の感情を呼び起こしてしまったのではないかと危惧したからです。
が、しかしよくよく読んでみると会長への提案「一人の聞法者に戻る」を実際会長先生が履行するには極めて厳しい条件というのがわかり、むやみに甘い条件ではなく「変心」とまではいえないと考えました。
「一人の聞法者に戻る」とは唯一無二の善知識から具足の凡夫に戻ることであり、プライドの塊である会長にはおよそ不可能な条件かなと。
近時誤りを認めるような発言をしましたが、相変わらず聴聞した人の間違いということにしていて本質は変わらないと思えるからです。
したがって今回のぶるうの氏のエントリは一種の釣りのようなイメージを受けています。
投稿: | 2013年3月20日 (水) 22時27分
ぶるうのさん本当に甘いです。
自分の誤りを認めて正したり、変わろうとしたりなどできる手合いではないのですよ。彼は。
彼自身、自分の心の闇に正面から対峙したらとても正気ではいられないでしょう。一生ウソをつき続けることしか選択肢はありません。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 01時40分
あの傲慢翁に、そんな変革は高度過ぎてムリムリwww
少しでも会員の減少を食い止めようとするブレまくりのいつものパターンですねー
投稿: | 2013年3月21日 (木) 02時58分
講師が有するやさしさ(除くM野講師)での投稿者ですが、高森会長を別にして書きましたが高森会長を主役としてコメントします。ぶるうのさんの期待どおりに進む事は多数が期待します。が、あまりにも遅すぎた。それと改めたから高森会長の大罪が0にもならないのです。
あまりにも被害者と物心両面の被害が莫大です。高森会長が何を意図として、何を期待して、言い出したかは本人に聞くしかありませんが、高森会長を知っているなら的確に高森会長の目的は多数のコメントで書いてあります。私も気持はぶるうのさんと同じですが、もう手遅れです。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 07時19分
親鸞会は間違っていたとはいえ、消えかけていた真宗の教えを多数の若者に認知させたという点で、存在意義があったと思います。
ぶるうのさんをはじめ、親鸞会から巣立って教えを説いている若者もたくさんいますし、親鸞会で一生を棒に振ったと思われる人も、実は親鸞会が必要だったようにも思います。
「人生に無駄な事は無い」とはよく言われますが、救われてみたら「あれも弥陀のはからいだった」と感謝できるのではないでしょうか。
高森会長もきっとこうなる必要があったからこうなったんだと思います。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 08時14分
これは以前からそう思っていたことですが、ぶるうのさんや、或いは他の除名講師の方々の方が余程、会や会長のことを真剣に心配し、行く末を憂いていると思えます。
私自身は今回の内容に同意は出来かねますが、このように書きたくなる心境は少しは見当がつきます。何せぶるうのさん達はこの会に青春の全てを捧げ、会長を「唯一無二の善知識」と本気で信じてついていったのですから、思い入れはそう簡単に消せないでしょう。私なんかよりはるかに真面目な学徒だったのでしょうし…。
しかし、こういうふうに会長のことを否定できない会員がまだまだ大勢いて、だからこそあの会は細々とでも命脈を保っていられるのだろうなあ、と思います。でも、会長の後生も自分の後生もいつ来るか分からないのだし、本気で本当の浄土真宗の教えを聞きたい人はすぐに去った方がいいことに変わりはないです。たとえ会長に本当に教えを修正する気があったとしても、既に遅きに失していますし、今まで説いてきたこととの矛盾が浮き彫りになるばかりでしょう。亡くなった会員の方々のことは取り返しがつきませんし、著書に書いたことも撤回はできません。
しかも、このように書いてくれる人がいるだけまだいいのです。本願寺のように全く相手にもしてくれない場合だってあるのですから。会長はそれを知ってか知らずか、こういう、自分のことを思ってくれる人達を追い出して、(誰とは言いませんが)本心を隠して保身のために媚びへつらってくる人達ばかりそばに置いている(いわゆる「忠臣と奸臣の区別がついていない」状態)ようですが…。
投稿: あずきあらい | 2013年3月21日 (木) 10時20分
ぶるうのさんが親鸞会や会長に手を差し伸べる気になったのは、ぶるうのさんが脱会当初の最悪の境地を脱せられ、今の生活が充実して幸せになられてるからでしょう。
親鸞会や会長に騙され人生の貴重な期間を無駄に過ごして後悔している、あの人たちはウソばっかりじゃないか!って激しく憤っていた時期がぶるうのさんにはありました。過去のさよなら~を見るとはっきりそうわかります。
でも今や大谷派の僧侶となられ、過去の親鸞会のマイナス部分を反面教師的に自分の人生に生かすことができ(カルト問題の研究・講師)あるいは親鸞会のプラス部分(←わずかですが)「若者に真宗を積極的に布教する姿勢」を自分の人生の新たなテーマの一つにできることを知り、良くない過去でも一種の試練であったと考え有為的に自分の中で消化されたのだと思います。(もちろんダミーサークルによる偽装勧誘などはもってのほかですが)
親鸞会や会長が許せない!あるいは社会の害悪であると考える人もまだたくさんいます。親鸞会でのトラウマや、現在の人生に非常に悪い影響を受けて未だに幸せになれず苦しんでいる人もいます。
また真摯に真宗を教学されていて、会長のような間違えだらけを堂々と「浄土真宗」と名乗るのは許せないと考える人も相当います。
だから今回のエントリはぶるうの氏の「個人的な」感想の表明と考えるべきですね、ブログならそれでいいと思います。ブログの意味は日記エッセイですから。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 15時46分
自分が変わるご縁をいただいた人は、「こんな自分でさえ変われたのだから、他人も変われるのではないか? いや変われないはずがない」、と思うのだと思います。わたしはそうです。ぶるうのさんがそうなのも、とてもうなずけます。
また、自分が頑張ったから阿弥陀さまに出遭えたのではなく、阿弥陀さまがはたらいていてくださったからわたしに阿弥陀さまが出遇ってくださったのだ、と思うのも、そんな感じのことだと思います。
わたしを救うのは阿弥陀さまです。他人が救われるかどうかを云々するのはわれわれですが、わたしが何を思おうと、そんなものは阿弥陀さまのはたらきとは関係がない。
ぶるうのさんはソコを体感してるからこういう日記を書かれたのだと思います。「甘い」のとは違うように思います。(…思います)
投稿: | 2013年3月21日 (木) 21時00分
↑
「出遭う」と「出遇う」とがありますがどっちも「出遇う」です。最初のは間違えました。スミマセン。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 21時02分
犬徹は追い詰められて逃げ場がなくなり誤魔化すために言うことを変えただけです。親鸞会設立の目的は名利の追求以外にありません。設立当初から現在まで不変です。一瞬たりともブレたことはありません。そのために犯してきた大罪の数々を謝罪することもなく、勝手に軌道修正など許されません。変わり身だけは早い、餓鬼のような卑劣な生き物に何かを期待するのはもうやめましょうよ。普通の人間とは到底解り合えない別種の生き物なのですよ。
投稿: | 2013年3月21日 (木) 21時14分
高森会長は本質は変わっていないと思います。
ぶるうの氏も会長が変われば手を差し伸べるといってるだけで、ボールは会長・親鸞会に投げている。
まあ会長はこれからもいろいろはぐらかしながらやっていくと思います。親鸞会側もぶるうの氏の助太刀は求めないでしょう。親鸞会は今までやってきた手法を変えることはできない、そんなに器用な人たちではないから。まさにその手法に嫌悪感を覚えてぶるうの氏は脱会したのです。
このエントリはぶるうの氏も大人になって会長の最終章を見届けてあげようというちょっとした思いやりだと思います。
悪人であっても救うという阿弥陀如来的な感情でしょう。
これまで会長のやってきたことを全て水に流して許すというのはとてもできないが(彼は利己的な動機だけでたいへん多くの人に迷惑をかけ人生を狂わせました)批判ばかりでなくちょっとした建設的な声も発してみたらどうかとぶるうのさんは考えたのかも・・
このような声に会長たちが反応するかどうかは阿弥陀仏のみが知るところでしょうか・・・
投稿: | 2013年3月21日 (木) 22時22分
>>最後の最後に、本当の親鸞聖人のみ教えにあわせてあげてください。
中途半端な物言いだな。
高森は仏法を知らんのだろ?
これまでネット法論とか親鸞会批判で散々暴露されてきたわけだもん。
ぶるうの自身もそういうこと書いてきたじゃん。
高森に導く力なんてないこと知ってるのに何でそういう白々しいこと書くわけ?
物知り顔な気持ち悪い人格者に見えちゃうよ。
投稿: | 2013年3月22日 (金) 07時44分
↑
それを言ったら、その通りかも知れませんが。確かに現実離れとも思いますが、ぶるうのさんの気持の現れと思います。
殺人被害者(親族)「時間の経過が癒してくれます」の発言が複数あります。時間の経過が加害者に対しての感情も変化するようです。それはそれである程度は個人の問題。
投稿: | 2013年3月22日 (金) 20時17分
元講師部の者です。
世話になった高森会長の愚かさや、行なってきたことのひどさを身にしみて感じているからこそ、死ぬ前に一度でもいい、会長に改心してほしい、との願いがこめられている気がします。
投稿: | 2013年3月22日 (金) 23時50分
ぶるうの氏はこれまでの会長の人生は「親鸞学徒」とは言えない、とこのエントリで書いているように、これまでの会長や会の悪行やデタラメを許容しているわけではないんじゃない。
ある意味思いっきり否定してるよね。
会長が「一人の聞法者」に戻れば、サポートするとぶるうの氏は書いておられるが、これは会長にとって極めて厳しい条件であり必ずしも甘いとまでは言えないかな。
たぶん「一人の聞法者」になんぞ戻る気持ちはないでしょうし、プライドが許さないでしょう。最近の若干の軌道修正も会員の入退会や勧誘への影響を考えた実利的・打算的な要求に基づくものである公算が高いです。これまでもずっとそうでしたから。
したがって今回のエントリは観測気球を上げた程度の意味と思います。
投稿: | 2013年3月23日 (土) 04時12分
もう一度、戻ろうってあるけど、ケンテツに一度でも一聞法者であったことはあるのかな!?
投稿: | 2013年3月24日 (日) 20時22分
大学時代です
投稿: | 2013年3月25日 (月) 05時23分
学生時代には起業家を目指して高森商店を考案しただけです。起業に必要な仏教を聞いただけですから、高森会長は求道者でもありません。必要なノウハウを聞き出し、自身で味付けをしたのが親鸞会です。一時でも高森会長が私利私欲を離れて仏教と対峙したとも思えない。
投稿: | 2013年3月25日 (月) 11時24分
>もう一度一人の聞法者に戻って欲しい。
フン、何をいまさら!?
投稿: | 2013年4月12日 (金) 19時11分