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投稿:高森さんへの恩返しとは

先回のエントリを見られた方から感想を私信で頂きました。ご本人の了解を得てその内容をここに公開いたします。(投稿ではありませんが、私の書いたものではないので便宜上投稿とさせて頂きます)

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さよなら親鸞会のエントリ読みました。

私は共感できました。

高森先生は自ら「布教一筋でやってきたから、教学には明るくない」と言って、外部からの批判をとても気にしていたように感じます。そして、その布教経験の集大成が、あのアニメだったのでしょう。

高森先生が露骨に教義を曲げ始めたのは、アニメ作戦がひと段落した後だったように思います。
本願寺は、高森先生の布教力を評価せず、教学を批判することもしなかった、そのような意味でアニメ作戦が失敗したということだと感じています。

最近の教義上の批判に対する高森先生の反応を見ると、彼自身、教義の誤りをわかっているはずだと思います。
はるか昔、彼が自ら信仰を求めた際の真摯な想いの、かすかな残り香だけが、親鸞会に人を引き留めているということも、わかっているはずです。
そんな状況にあって、自分が死んだ後直ぐに離散するに違いない教団を、自分を信じていない人たちに遺してどうするのか?
周囲のわずかな人だけから善知識と崇められ、後世の人には邪義・異安心と唾棄されるような存在で終わっていいのか?
真面目に聞き求めてきた会員は、このまま騙され続けるしかないのか?
そう思うと、高森先生には、誤りを改める勇気を持ち、原点に戻ってほしい、と思う気持ちは私にも起きてきます。

ただ、実際のところ、最近の私は、そのことに関してはすっかり絶望しています。そして、改めて欲しいという期待が強かった分、深い深い絶望感を持っています。

そのきっかけは、下記掲示板の「現役生」の投稿を読んだことです。

http://hpcgi2.nifty.com/nonsect/spict/smallpict.cgi?mode=view&key=4903_4903

この人は、大学4年生という設定です。こういう「体験談」から始まります。

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「世間では、飲食や異性で釣らなければ、人が集まることなんてない。」
「どんな集まりでも、派閥ができ、金がかかるのは、必然だ。」
「宗教に偏見を持ち、仏教は死者を弔う儀式と思っている者に対して、仏教だと名乗ってどうする。」
「財施の強要はないから、普通に大学生活を送りながら、親鸞会の活動を続けることは十分にできる。」
「批判者はどうせ、親鸞会嫌いの本願寺か元会員だ。」
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こんな感じの会員はよくいると思うので、ここまではどうということはありません。
その後が酷いんです。

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「真面目な偽装サークルより、酒に溺れ、カラオケで喉を潰し、野外で下ネタを叫ぶ公認サークルの方がいいんですか?」
「真面目なのは末端会員だけではない。講師部員は努力して、多くの知識と、プレゼン力を身につけた上、日々苦労して布教に邁進している。」
「葬式仏教と揶揄される本願寺とは偉い違いだ。親鸞会が「珍しき法を弘めず」だから、こういう違いが生まれるのだ。」
「そんな組織にも不祥事はある。親鸞会に不祥事があったとして、親鸞会が悪いということにはならない。」
「本願寺という名前を信用するのでなく、親鸞会の中身を見るべきだ。親鸞会は学術的には不足な点があるかもしれないが、教義の正確な理解だけで心の問題が解決できるものではない。親鸞会は「信心」にフォーカスしている。」
「真宗十派はそれぞれ教義が異なるのに、なぜ、親鸞会だけを法論の標的にするのかといえば、それは目立つからやっかんでいるのだ。」
「退会者は、親鸞会のお陰で仏法と縁があって、その後本願寺で聞いている、という人達だろう。本願寺を勧めるならともかく、仏教を聞くのをやめろ、ということを言うのはその立場からするとおかしいのではないか。」
「親鸞会会員にもいろんな人がいて、中には人間関係で苦しんだ人もあるだろうけれども、今親鸞会で仏法聞くことを喜んでいる人に、他には苦しんだ人もあるから辞めよなどと言うのは、その人の自由意思を踏みにじるものだ。」
「学生サークルだけに属して親鸞会に入会しないという選択肢もあるし、別に、同朋の里計画に積極的に賛成でなくても、高森会長でなく教えそのものに関心があっても、そのまま親鸞会との縁を保つことは十分に可能だ。」
「親鸞会が反社会的団体だというなら、訴訟を起こして公にすればよい。」
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こんな具合の意見が述べられていきます。
明らかに、学部生が言うことではないし、言えることでもありません。

さらにその後、この「現役生」は、その凄まじい粘着ぶりを発揮して、文字がやたらに多いレスをごじゃごじゃと重ねていきます。

しかし言っていることは、要するに、会員は自分の意思で、親鸞会で仏法聞いて喜んでるんだから、外野からごちゃごちゃと関係ないことを吹き込むんじゃない、というに尽きており、実に下らないです。
こういう「信心」を持つのは、親鸞会が間違っていると知りながら、改める気のない幹部層以外にはありえないですよね。

何より面白いのは、「親鸞会と法論したいなら、どこかの全国紙に、名指しで法論を仕掛ければよく、そうすれば親鸞会は応じざるを得ない」というコメントですね。
親鸞会が法論に応じないのは、仕掛け方が悪いからだそうですよ!!!
これを書けるのは、高森先生以外にないのでは?
実際に誰が書いているのか知りませんが、私は、高森先生の頭の中を覗いているような感じがして、暗澹たる気持ちになりました。

こんなどうしようもないのを相手にしても、時間のムダで、仕方がないですね。

高森さんへの恩返しは、高森教が誤りだと誰にでもやさしく分かって、しかも、人々の苦しみ悩みにフォーカスしたような形で親鸞聖人の教を明らかにする、そんな布教を通じて親鸞会を潰すことしかない気がします。悲しいことですが。

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もう一度、一人の聞法者に戻ろう。

高森会長の法話に変化が出てきているようです。

二河白道の譬で、白道を他力とする解き方を「親鸞聖人の説かれ方」と言ったり、または最近あさ川氏のブログで触れたように、苦悩の根源を今までの解釈を覆して、無明の闇ではなく本願疑惑心だと言ったり。

無責任といえば無責任だし、悪知識といえばその通りなんだろうと思います。

ただ、私が感じるのは、高森会長は変わろうとしているのかもしれません。

私は何しろこんな甘っちょろい見方しか出来ないし、馬鹿と言ってしまえばそのとおりなのですが、間違いを認めた高森会長がしている精一杯の軌道修正の結果かもしれない。

自分の誤りを認めて正すのは、勇気がいるものです。あれだけ多くの人に先生先生と言われ続けた人間なのですから、急にはそんなことは出来ないでしょう。

1929年生まれの高森会長は、もう84歳。無理かもしれないけど、もう一度一人の聞法者に戻って欲しい。

あなたがそうなれば、皆付き従うでしょう。最後の最後に、本当の親鸞聖人のみ教えにあわせてあげてください。

高森会長は私も親鸞学徒と言いながら、今まではそうじゃなかった。あなたは法主を目指そうとしていた。

最後の最後にそれをやめて、一人の聞法者として共に親鸞聖人の教えを学ぶ身になり、本当の意味で親鸞学徒に戻るなら、自分はどんな批判を浴びてもそれを助けたいと思っています。

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存在の耐えられない軽さ

先回のエントリで、こんなコメントがついていました。

脱会したての頃、西本願寺の勧学の方の説法を聞きにいった際、 説法後にどうしても話をしたい、と受付の人に言ったら、「どうぞどうぞ」と気軽に会わせて下さった。親鸞会では会長と直接話ができるなんて考えたこともなかったので驚いた。 「親鸞会に15年以上いて・・・」と話を切り出したら、 「親鸞会????????????」 と全くピンときてない感じで返され、二度びっくり。 本願寺は親鸞会を脅威に思っている、というのは親鸞会の妄想だとしても、少なくともどんな邪義を教えてる団体なのかは把握しているのでは?と考えていたのに・・・全く相手にされていない、とハッキリして、赤面、恥ずかしさのあまりその場で泣き出すという醜態をさらしてしまった。 会員の人、本願寺は親鸞会を脅威に思っているどころか、存在自体「ああ、そんなとこもあるらしいね」程度にしか思ってません。それなのに反論書でないとか、ばかばかしいにもほどがある。 早く親鸞会という閉鎖社会から出てください、井戸の外に出たらなんと世界の広いことか。

私は脱会までの二年間は弘宣部(現弘宣局)に居ました。主にネット対策をしていたのですが、その当時は親鸞会が本気で本願寺に攻撃されていると信じて、まさに死力を尽くして戦っているつもりでした。

しかし親鸞会を出てみると、おっしゃるとおり「そんな団体もあるよね」という程度。顕正新聞には毎月のように本願寺本願寺と書いて、真宗改革だ真宗十派を飲み込む大津波だ脅威だと言ってはしゃいでいたのも、本願寺の攻撃だ迫害だ誹謗中傷だ恐れているんだと言っていたのも、全く親鸞会の一人相撲でした。

あっけにとられ、なんと自分は外の世界を知らなかったのかと思ったものです。自分が青春をかけてやっていたのは何だったのかと、情けなさと恥ずかしさで一杯になったものです。親鸞会のことなど歯牙にもかけてないような本願寺派の実態を知って、悔し涙でいっぱいになりました。「親鸞会って体験発表で救われた日時を言うんでしょ?」いや、それどんだけ昔の話ですかって‥本願寺の人の親鸞会のイメージは、御影堂に座り込みをしたあの時から完全に止まっていて、関心がないのです。

しかし相手に関心がないのは親鸞会も実は一緒で、真宗大谷派末寺の住職を「東本願寺の住職」と新聞にデカデカと書くのはまだいい方として、イラストや漫画をみると浄土真宗の僧侶なのに見事にみんな剃髪しているし(実際はそんな人はあまり居ない)、長老が五条袈裟をかけてバスに乗っている一方、下っ端(?)の僧侶は輪袈裟もせずに衣だけ着ているなど、少し調べたらおかしいとわかる事なのに、ボロボロ出てきます。この人達は全く東西本願寺も真宗十派も関心ないんだなと感じます。大体、親鸞会は本願寺といっても東西ごちゃまぜになって、こんなことすら区別の付いている人は殆ど居ないと思います。

「この世はどうにもならん、死んだらお助け」なんてどこの誰が言っているのでしょうか。私は僧侶になってもう4年になりますけど、未だにそんな説法を聞いたことありませんし、本でも読んだことはないです。

お互い、相手のことをほとんど知らないままにやってきたのです。何も知らないままに本願寺はああだこうだと批判したり戦ってるつもりになったり脅威を与えているつもりになったりしていたのです。

本願寺自体も親鸞会など殆どの人は何も知りません。いや、ホントのところを言うと西は東を、東は西を。これだけ大きな教団同士でもお互いに関心を持っていません。あれだけ大きな教団になると自分たちの世界だけで十分に回ってしまうという事もあるのでしょう。親鸞会は驚くほど閉鎖的な教団ですが、本願寺もそう人のこと言えないわけです。

私は、本当に親鸞会が本願寺に脅威を与えたらいいのにって、ちょっと思うことがあります。400年の太平の歴史を歩んできた教団は、このままゆでガエルのように衰退してゆくのかなと。それなら、外部から大きな脅威を受けて変わるしか無いと。

しかし親鸞会にしても高森さんにしても完全に役不足でした。会館をバンバンたてて、本も売ったけど、なにより信者はすぐに飽和状態に達してほとんど増えなかったし、言動はあまりに幼すぎたし、教義安心については話にならないくらい駄目だった。高森さんが学生の時に学んだか聞いたニワカ真宗学の範疇から一歩も出ることはなかった。私は思いますに、高森さんは龍大を出てからほとんど勉強して来なかったと思います。そしてせっかく優秀な人たちを勧誘しながら、何一つ高森教学から出ることを許さなかった。

もったいないなと思います。

親鸞会はおそらく、沢山の人の人生を迷わせた挙句、日本の歴史どころか真宗史にすら一行も記載されずに消えてゆく。

彼の教団に人生をかけた人たちは、外に出てその姿を見たらあまりの存在の小ささに愕然とすることでしょう。愕然としたくなければ、親鸞会とともに敗れ、朽ち果ててゆくしか無いのかもしれません。

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5年も解説書が出てないのだ。正統と異端の逆転だ。カウントダウンだ。

いい加減に記事を書かなければいけないと思いつつ、もう先回の更新から四ヶ月近くが経過してしまいました。

別に親鸞会に関心がなくなったわけではなく、とても忙しい上にあまり目新しい情報も無いので、筆が進まなかったというのが現状です。こんな記事にも書かれたりしましたが、卒親鸞会というわけでも無いのでしょうけど、親鸞会のことをアレコレしている時間があったら、一行でも教行信証を拝読したい気持ちになっているのは事実です。普通の人は1~2年でそんな気持ちになってゆくのでしょうが、私の場合は8年もかかってしまったという事なのでしょう。それも、僧侶になって、親を亡くし、住職になって、ようやくです。阿弥陀様はよほど気長に自分のことを待っていてくださったのだと思います。

手元に、顕正新聞の3月1日号があります。「歎異抄をひらく」から5年も本願寺は沈黙しており、歎異抄の解説書は一冊も出ていない。異端(である親鸞会)と、正統(である本願寺)が逆転しましたよ、ということみたいです。ご丁寧に「門主は正意安心の正否を裁断する」と本願寺派の宗法まで出してきています。

「親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、ほんとうの親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」と言っておりながら、内容証明郵便で質問状を送っても無視した教団の言っていることとは思えませんが、ずっとこれからもこういうことを言い続けるんでしょうね。

前にも書きましたが、私はこういうことはやめたほうがいいと思います。

親鸞会は、教義安心の問題では全く箸にも棒にも引っかからない教団です。私は12年間も親鸞会にいましたが、講師部員であった時期も含めてただの一度も本典である教行信証の講義すらありませんでした。脱会して読んで目からうろこでした。3月1日号の顕正新聞には大峯顕氏や故桐渓順忍氏の著作からの抜粋が載せられ批判の対象になっていますが、ご本人と直接法論したら親鸞会は全く相手にもならないと思います。高森会長の教義安心(といえるべきものがあるかどうかも不明ですが)を補強する目的でしか聖教を読んだことのない人たちですから、仕方がないとは思いますが。

しかし、親鸞会の全部が全部ダメかというと、そうではないと思っています。本願寺派の碩学の法話に行くと少なくない確率で元親鸞会にいた人達に出会います。笑顔でうなづきながら聞いている姿を見るとあの教団の存在を全否定する気にはなれません。

深夜まで、どうやったら親鸞聖人のみ教えをお伝えすることが出来るだろうか、どうしたらわかりやすいか、どうしたら抵抗なく参詣されたかと、語り合い工夫し合った日々。それは内実を見ると違法で詐欺的な偽装勧誘ではありましたが、あの時の情熱や努力そのものまで全否定する気もありません。

本願寺教団に欠けているものが、たしかに親鸞会にはあると自分は認めています。災害支援も大事ですが、本当に大事なこと、教団の僧侶が聞法して、目の前の門徒さんだけでなく、未だにご縁のない人にお伝えする。その活動においては親鸞会の真似をする必要は全く無いけど、少なくとも刺激は受けて欲しいと思っています。

5年も解説書が出てないのだ。正統と異端の逆転だ。カウントダウンだ。

親鸞会の人、気づいて下さい。いくら高森会長がそういう記事を望んでいるからといって、外から見たらただのアホです。(会員でもこれはアホだろうと思っている人はかなりいるみたいですが)挙げ句の果てには、二河白道の白道を「他力」であるのに「自力」と言っていたのは、相手に打ち込ませるためで、宮本武蔵の剣術であると。

元親鸞会の身としては、恥ずかしくって顔から火が出るような事を平然と言う。取り巻きに囲まれて全く自分への批判の許されない環境で過ごすと、こうなってしまうのでしょう。

本当は親鸞会というものにもう少し目を向ける必要が、東西本願寺だけでなく真宗十派にはあると思うのです。それは宗教の持つ問題、真宗教学の持つ問題、布教の問題。親鸞会は課題の宝庫です。しかし、教団としての言動があまりに幼すぎるので、結局のところ誰も相手にしなくなってしまう。最初からバカにされてしまって目も当てられない状況です。カルト以前の問題です。

例えて言うと、幸◯の科学で「坂本龍馬は劉備玄徳の生まれ変わりだ」とか言っているのを見て、親鸞会の皆さんはここからなにか学ぼうとする気力が起こるでしょうか。私が言いたいのは、そういうことです。

また親鸞会の人へ。教学を勉強してくださいとは言いませんが、もうすこし仏法を真摯に聞いて下さい。大峯顕氏の「私たちは十刧の昔から阿弥陀様のお助けの中にいるんです」というのを切り出して、「本願寺トップの誤った信心」とか言ってたら、もうおしまいですよ。

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