投稿:「どこかで」「誰かから聞いて」なるのではなく
随行者&体験発表会は激しかったです。。
随行者は、高校まで野球一筋で、地元ではけっこう活躍し
顕正新聞にも載った事があるような男性でした。
幼い頃から、心から楽しめた事が無かったけれど、
次第に一生を野球に捧げよう、監督になろう、と心に決めていったようです。
ところが、神戸大学に入った際に「人生の目的」などの言葉から
ダミーサークルに引っ掛かったようです…。
監督になるという夢を「小さな夢」、信心決定を「最高の夢」と
表現していたのが違う意味で印象的でした。
体験一人目の女性は、幼少の頃から人生にむなしさを感じて、
多種多様のいろんなカルト宗教を渡り歩いてきた方のようです。
郵便ポストのチラシがきっかけでやっと本物に出逢えた!!と感動されてましたが…。
会員になって日も浅いようですが教学試験を既に受けて幾つか通ってるらしく、
いわゆる「カルトにハマリやすいタイプ」の方なのだろうなぁ、と。
二人目の男性は「自力仏教に長年励んできた」80代のお爺さんで、
この年になって初めて「他力仏教」を知って感動した、と何だか一人目の方と似た感じで。。
30万枚のチラシを配って300人が講座等に来てくれた、と
自力いっぱいの活動ぶりを自慢されていてどうしようかと。
(御本人は面白そうな楽しそうな方ではあったのですが)
話の共通したパターンとしては、こんな感じでした。
①比較的若い頃から人生にむなしさを感じている
②今まで他の何かに迷ってきた(会が言うところの、相対の幸福や自力宗教・外
道)
③親鸞会および高森会長に出逢って、凄まじく感動した
④真実を知らせてくれた会長への御恩とやらを語る
⑤現在は会の活動に全力投球している事を、高らかに誇らしげに宣言する
話聞き終わって、すごーくモヤモヤしました。
思わず誘ってくれた友人に聞きました。
「(彼らは)真実知らされたって言ってるけど、信心決定はしてるの?」と。
友人が「してないけど、でも真実を知っているから」と言うので、つい
「でもご信心頂いてないなら、真実知らない人と変わらないよね?
知らされた御恩って言うけど救われてないなら、御恩って何か違わないかな。
むしろ、知らされて救われないって余計苦しいし、
救われてないなら知らされてない方がラクかもしれないよね」
などと言ってしまいました…。言い過ぎです。我ながらダメだと思いました。
そしたら「じゃあ自分は救われてるの?」と聞かれてしまい、思わず肯定してしまいました。
聞かれない限りは、彼女には言うつもりはなかったのですが。
(あと、個人的には「救われた」という表現はちょっと…なのですが)
何言われるかな、そんなん嘘やって否定されるかな、と思ったのですが。
「すごいね。私もそうなりたい。どこでなれるの?」と案外あっさりで。
(端っから信じてなくて適当に合わせただけ、って感じですが)
とりあえず「どこかで」「誰かから聞いて」なるのではなく、
ご本願をそのまま聞いた、聞かせて頂いた、阿弥陀様によってそうならせて頂いたということ。
あくまでも「すごい」のは私じゃなく阿弥陀様だということ。
というような事を話したら「そうだね(「どこかで」「誰かから」は間違い)」
「(ご本願を暗誦して)そのまま聞いてるけど」「すごいのはわかってる」と。。
ついつい『あーもう、じゃあなんでそれでそうなん!』と思ってしまいましたが。
親鸞会の人は、ご本願をスラスラ言えるんですよね。
(私、申し訳ない事に全然スラスラ言えません。。他にも色々。
お分かりだとは思いますが、正確な言葉・知識は全然身に付いていません。。)
ご本願だけじゃなく、法話中もお聖教が出されると、
真宗聖典や御文章をサッと開いて見つけられるんです。
凄いなぁ、と心から思っています。
凄いからこそ、どうして、と思います。
私が、と考えるのは全然違うことだとは思うのですが。
もっと何か伝えられたらなぁ、とその時の自分の言葉足らずを申し訳なく思いました。
上記の事もあるんですが。
私があんまりお聖教知らずなのもどうなのかな、と。
伝えたい時・伝えられる時に伝えられなかったり…。
それから、私自身が自己流解釈し過ぎて変な方向?に行かないように。
会長の解釈を読んでて思うのが、初心者のやらかすミスや誤解・言葉の定義の曖昧さ、
それらの積み重ねによる教義の誤り、という印象を受けるんですよね…。
ご信心がどうこうなる事は無いけれども。
煩悩具足の私自身は、ほっといたらどうこうなっちゃう訳ですし。。。
ちゃんと勉強していくべきじゃないかと考えるこの頃で、
ちょっとずつですがお聖教読み出しています。
親鸞会以外の法話も行きたいのですが、他の事でバタバタしていたら
だから、彼女が親鸞会からは伝えられてないこの部分を、
せめて私は惜しまず話すようにしたいな、と思いました。
お聖教のお言葉は出せなくても…。
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コメント
キリスト風新興宗教とそっくりで大爆笑しました。キリスト風新興宗教でも「証する」といって人前で自分が信仰をもつに至るまでの話をします。新興宗教の人はよく「私は救われました」という表現を好んで使います。
伝統宗教では証なんてしませんし、だいいち「私は救われました」ということもありません。
仏教でもキリスト教でも新興宗教はなぜみんな同じなのでしょう?
投稿: | 2012年9月12日 (水) 19時10分
市場が同じだから売り方も同じなのでしょう。
名前を変えた商品なだけであって、やり方はどこも同じです。
消費者がだまされて感謝してるんですから、おかしな商売です。
投稿: | 2012年9月12日 (水) 21時11分
一つ言っておきます。
信心決定なんてない。
自分でそう信じているだけ。自己満足。
まあそいつがそれで幸せならいいんじゃね。
投稿: | 2012年9月12日 (水) 21時42分
長くなりますので読みたくない人は飛ばしてください。
そもそも宗教とは何か。
ここから話さないといけないのかなと思います。
まず、何のために生きているのか、漫画の「ガンツ」でも言われていますが、
人生に意味があると思いたいのが人間の性です。
意味が無いとすれば全く何をしても、それこそ意味がありません。
では、人間は何のために生きているのか。
答えは、幸せになりたい、満足したい、死んでも悔いは無い人生を生きたい等です。
そのために宗教に惹かれていきます。
では宗教は、何が一番正しく、間違いなく私を救ってくれる宗教なのか。
皆さん、全ての宗教を比較検討して「これが間違いない。」と誰にでも納得できるように
説明できる方はみえるでしょうか。
それこそ、イスラムがキリストがモルモンが統一教会が天台宗が浄土宗が幸福の科学が・・・・
それとも親鸞会が・・・・。
結局、救われたと言う人の言葉が本当かどうか、皆さん誰にでも分かるように説明出来ますか。
私は、無理です。
私にそんな智慧はありません。
私は、仏様のお言葉を真実と私が感じ私が納得しています。
それは他の誰にも理解できないことかもしれません。
なぜなら言葉をどういう風に理解しているかは千差万別、人それぞれです。
しかし、
仏は一音を以って法を演説したまうに衆生は類に随いて各解することを得、
皆な世尊は其の語を同じくすると謂う・・・です。
仏様の言葉は、受け止め方はひとそれぞれだけど、
私を導く言葉だと人それぞれに受け止めることが出来るのです。
だから私が救われたと言っても簡単に信じてもらえませんが、
しかし、私の言葉に賛同し、一味の味を味わえる御同行がみえます。
本当に御信心を頂いた御同行(自分の勝手な判断かもしれませんが)と話していると有り難くてしかた無いのです。
親鸞会には、そんな人は誰もいませんでした。
退会して、私も曲がりなりに自他力廃立させられ、そんな御同行と話す機会を頂きました。
すると今まで分からなかった仏語が、本当に心に染みいるように知らされるのです。
親鸞聖人のお言葉が、釈尊のお言葉が嘘のように私に理解できるようになってくるのです。
お前はきちがいだ、騙されている、自分で自分をマインドコントロールしている等言われるでしょう。
でもね、私はこれで満足、何も言うことが無い、人生に悔いがないのです。
私はこのために生かされていたのか、有り難い、本当に有り難い。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・。
分からない人には、分からないかもしれません。
くどいようですが私はこれで本当に満足しています。
世間虚仮、唯仏是信。
現在、ただ今、そのままの救い。
ただのタダもいらない、申し訳ない、もったいない、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
皆さん、人生に救いはある。
私は、我が身を通して知らされています。
親鸞聖人、蓮如上人、覚如上人、香樹院師、梯実圓師、加茂迎順師、伊藤康善師、大沼法龍師・・・。
お軽同行、左市さん、庄松同行、源左さん、おその同行・・・。
皆さんのお言葉に頷かざるを得ないのです。
全くその通りですと頭を下げざるを得ないのです。
皆さんが私の言葉をどう受け止めるかは、皆さんの勝手です。
私は阿弥陀様のお言葉に信順せざるを得ない身にさせられました。
死ぬまでお念仏の人生を送らせて頂くだけです。
私が忘れていても阿弥陀様は私を忘れることは無いのです。
今回の投稿に私の心が反応しました。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: | 2012年9月12日 (水) 21時43分
親鸞会の人の特徴は仏語・聖典を一応暗記しているが、心にまで染み渡っていないことだと思います。ただの丸暗記、受験勉強。
親鸞会の信者はお互い周囲を心配そうに見て(自分の心にもまったく染み渡っていないのに)仲間はずれにならぬよう周りに合わせて「救われた」「助かった」とか言ってるだけ。付和雷同して信心ごっこしてるに過ぎないのです。
それは一人になれば消え去ってしまうような似非信心。
投稿者の方が言ってるように、親鸞会の会員の話がどうも軽々しくウソっぽく聞こえるのは、まさに上っ面だけの口裏合わせだからだと思います。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」聖人は弥陀の悲願を一人孤独に信受され、その有り難味に報恩されました。
本当の信心は、聖人の言うように孤独に自分一人で感得するもの、集団でお互い牽制しあって、無理にそう感じてるふりをするのは偽の信心。そういうのは他力ではなく自力です。自力の無理からの信心、これが親鸞会の教えです。細かい教学の誤りもさることながら、こういう真宗の根本がなっていない、これが親鸞会の教えの実相なのです。
投稿: 元神戸大学生 K講師 | 2012年9月13日 (木) 00時03分
まさにZEN知識ごっこ遊びの思考停止人形が多い集団って感じですね!
投稿: | 2012年9月13日 (木) 00時24分
やたらと大学名出てますが、宗教に学歴は関係ないからね
投稿: | 2012年9月13日 (木) 12時38分