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「真面目な人からやめてゆく」

静かな劇場との対話ですが、いつの間にか安心問答との対話になってしまって置いてきぼりになったような気持ちです。最初から私なんぞ相手にされてなかったのかもという気持ちもありますが。

ところで私は真宗大谷派(東本願寺)の僧侶をしていますが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の知り合いも沢山いますし、よく法話を聞きに行っています。僧侶という立場でどちらの法話も定期的に通っているという人は、そう多くないかもしれません。

そこでいろんな話を聞くと、大谷派で「本願寺派は死後の浄土の救いしか説かない」と言う人がいたり、本願寺派で「大谷派は浄土や信心の話をしなくなった」なんて聞くこともあります。私はどちらにも行ってるので、「誰のことを言っているのかしらないけど、そういう人も確かにいるかもしれんが、それだけじゃないのな」と思ったりします。

真宗十派といっても、他派のことをそう詳しく知っている人がいるわけでもありません。そこには大なり小なり誤解が生じます。親鸞会にしてもそうです。未だに「親鸞会は獲信の日時を問題にする」といっている人は結構います。親鸞会の人にとっては「(゚Д゚)ハァ?」でしょうね。たしかに昔はそういうことを言っていた時期もあったようですが、少なくとも私が親鸞会に入ってからはそんなことはありませんでした。

私が親鸞会の中にいる人に対して「今救うという本願に気づいない」と、多分どこかの講演で言ったことを聴いたのか(最近は録音する人多いですからね。隠していてもすぐわかります)、あるいは安心問答の中にいる人の主張とごっちゃになっているのか知りませんけど、「本願の救いが今だなんてこと、わかってるよ」「ちゃんと話はされているよ」と思っているのでしょう。

親鸞会を批判している私にしても安心問答の中の人にしても、10年以上親鸞会の中で話を聞いてきた人です。そんな事知らないはずがありません。だからこそ親鸞会の外に出て「今救う本願」を振りかざす人を、本願文の上辺だけを理解して、救われてもいないのに救われたふりをしている人、あるいは救われた気分になっている人と考えているのではないでしょうか。私が救われてないのに、親鸞会を出て救われるなんてことがあるはずなかろうと。

頭ではそう理解している。しかし現実問題として私のこの心のもやもやは晴れない。疑情は晴れない。今救うという本願なのに、どうしてそれが腑に落ちないのか。

これは求道の根本的な問いだと思うのですが、親鸞会にいると、課題に対して気の利いた答えがたくさん用意されていて、なんとなくわかった気になって、そこに留まってしまいます。やがて頭の中では全部理解できているような気になり、それでも「晴れていない」自分に対して、疑問を抱かなくなってしまうように思います。

私は講師部員を7年間続けました。講師部の会合、総会、布教講義、座談会。こういう問いが話題になったことはひとつもありませんでした。疑問に思っている人がいないとは思いません。でも頭の中で問いも答えもすっかり入っていて、そこで完結してしまって外に出てこないのです。

法友通信という高森会長への手紙を紹介するコーナーもそうです。求道の悩みを吐露する手紙などひとつも載らず、高森会長の法話を賛美する内容しか掲載されず、人生の目的を知らされたからそれで喜ぼう、素晴らしい話を聞いたからうれしいな、そういう感想を持つことが正しいことで、それが自分の心の闇を塞いでしまって見えなくしてしまっているのです。

「真実の仏法を聞ける自分は幸せだ」「高森先生のお会いできて本当に良かった」という言葉ばかりが繰り返され、まるで自分がその心境にとどまることが推奨されているようなもので、晴れない自分の心を打ち明ける人など誰もいませんでした。それがまるで当然の事のように、当たり前のようになっていますから、「救われた」という人を見ると「嘘だ異安心だ」と見るほかに心の持ちようがなくなります。

機関誌を見ても信仰や信心に関する部分は高森会長の過去の著作から引用したものですから、私が今どう本願を受け取っているのかを書くこともなく、それが我が身の課題になることもありません。本願をショールームの中に入れて、私には所詮手に入らないものとして眺めているようなものです。

私は親鸞会を出てある布教使の法話にいった時に、「今ご信心を頂いてください。頂いて帰ってください。私も今いただかせて頂きます」と言って話し始めたのに驚きました。なぜこの言葉が親鸞会で聞けなかったのだろうかと思いました。

親鸞会にいると、居心地がいいです。誰も信心の有無を問題にしないからです。まるで晴れない心のままでいてもいいんだ、「善のすすめ」さえやっていればいいんだと。そう言われているようです。

いつまでも親鸞会の中にいて外に出た人を罵るのは、そういう居心地の良さを崩されたくないからでしょう。

つまり切羽詰まってないのです。晴れない心に悩んでないのです。本当に悩んだら、苦しんだら、自分はここにいていいのかと真剣に悩むようになるでしょう。

以前現役の学徒と話をした時に「真面目な人から順番に(親鸞会を)辞めてゆく」と言っていました。そうだろうと思います。

何度も言いますが、自分の人生に真面目になってほしいです。本当に今のままでいいと、心のそこから思っていますか?親鸞会を出たら高森さんの法話が聞けなくなるなんてことはありません。外に出ても何もないと思ったらまた戻ればいいだけじゃないですか。

あなたの「聞きたい」と思う心は阿弥陀様が起こしてくださっている心です。だから絶対に見捨てられるということはありません。真宗の救いにおいて「求道の敗残者」なんてものは絶対に存在しません。いや敗残者でいいじゃないですか。出て、求道に負ければいいんです。そんなの弥陀の救いになんの関係もないんですから。

何があっても阿弥陀仏はあなたの後生を見捨てられることはない。そのことだけ心に留めおいて、あとは心の奥底の声を聞いて欲しいのです。

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コメント

親鸞会の著作物や体験発表では「高森先生のおかげで救われたのだから、高森先生のご恩に報いよう」という趣旨の話が頻繁にでてくるが、これは根本的な誤りだ。救ってくださるのは阿弥陀如来であり、報恩するのは阿弥陀如来に対してだ。会長は自称善知識として、それを伝達したにすぎない。
阿弥陀仏への報恩という言葉は恩徳讃を唱和するときしか聞かれないことも多い。いくらなんでもこれはないだろう。
盗作のことも然り、高森会長は他者の栄誉・願力を途中で介入して全部ぶんどってやろう、というあざとい卸業者にしか見えない。

まじめに真宗をやりたい人が出て行くのは自因自果、当然の結果だろう。

投稿: | 2012年9月23日 (日) 13時54分

親鸞会のやっているのは忘恩のススメと服従献金要員の価値創造です。

一紙半銭もいらないと言った歎異鈔は素晴らしい。
親鸞会とは偉い違いだ。

高森会は親鸞聖人と蓮如上人の代わりに伊藤聖人と大沼上人を飾った方がいいんじゃないですかな。

投稿: | 2012年9月23日 (日) 17時11分

最近は全国に会館たててるね。そしてご報謝を集めて、また浮いた分を親鸞会の経費にしてるのか?
11月に岐阜会館がリフォームされリニューアルされ座談会と祝賀会されるみたいです。
またまたご報謝を集めるみたいだね。

投稿: | 2012年9月23日 (日) 18時23分


もし、非会員が収支報告見せてくださいっていったらどうやって説明するんやろう。そういう会員は絶対にいるはすやしね

投稿: | 2012年9月23日 (日) 18時27分

http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&u=http://dailycult.blogspot.jp/2012/09/blog-post_2454.html&ei=bBNgUODoOYPkkAWau4HQBg&wsc=tb&whp=3Amore


カルトは不倫が好きなのか。粛正も似た感じで幹部も構成員もどうしちゃったの状態。

統一というより支配か芝居か。
教祖死んでお布施のかき集めもすごいらしい。

モルモンや無量寿寺も教義に金が絡む。

カルトを調べてると鬱になりそうだ。

金は欲しいがあんなのにはなりたくない。

投稿: | 2012年9月24日 (月) 17時19分

カルト教祖なんてみな金の亡者みたいな人ばっかりだよ。

親鸞会でも「相対の幸福を捨てて、絶対の幸福になりましょう!」と叫んでるが、会長一族は相対の幸福(財欲、性欲、名誉欲等)にばかりにご執心。

絶対の幸福なんて実はどうでもよくて、会員に捨てさせた相対の幸福をシメシメと戴くのが親鸞会みたいなカルトの本当の目的だとわかれば、あんなスローガンにだまされないですむよ。

投稿: | 2012年9月24日 (月) 19時03分

>未だに「親鸞会は獲信の日時を問題にする」といっている人は結構います。親鸞会の人にとっては「(゚Д゚)ハァ?」でしょうね。たしかに昔はそういうことを言っていた時期もあったようですが、少なくとも私が親鸞会に入ってからはそんなことはありませんでした。

昔も今もその通りじゃないですか。S会は明らかに一念覚知であり、それは「獲信の日時を問題にする」以外の何物でもありません。彼らは批難をかわすために「実時ではとらえられないが仮時ではわかる」という詭弁を弄しているだけで。紅楳和上の論文の通りです。もっと勉強してください。

投稿: ゆきりんの母乳でつくったワンダ特製カフェオレ | 2012年11月 7日 (水) 02時32分

そうか
確かにカクチがすっきりはっきりを主張して他を廃していた気がするよ
単なるすり替えだったんやね
ありがとう
少しすっきりしました

投稿: 糖質百 | 2012年11月 7日 (水) 10時42分

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