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「今救うという本願に気づいていない」

親鸞会の講師部員であるN氏が、自身のブログで私(多分)の事を取り上げて下さいました。

「今救うという本願に気づいていない」

などと説教するに至っては、もう返す言葉も無い。
言いたい放題。ここは「先に言ったもの勝ち」の世界なの
だろうか?と思う。

今救う、今救うと、何とかの一つ覚えみたいに言うが、
仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念で
あろう。疑い晴れる一念の前に、そもそも仏願の生起とは
何か、この坊主は分かってのことなのだろうか?

「仏願の生起」の理解も曖昧な坊主に、疑い晴れるの
晴れないのなど、問題になりようもなかろう。
幼稚園の女の子に、出産時の注意をしているような
ものである。
だとすれば、この坊主は、全くトンチンカンなことで
「今救われる本願」と言いまくっていることになる。

まるで闇夜に鉄砲ではないか。
どうせ何を言っても分かるまい、地獄なし、極楽なしと
タカをくくってのことだろうが、「語るに落ちる」とは
このことで、言えば言うほど、親鸞学徒なら、この坊主
の腹底が、信仰のほどが透けて見える。
気づかないのは哀れ、ご本人だけなのである。

静かな劇場より

この文章のすごいところは、「今救うという本願にきづいていない」以降がすべて憶測によって語られていることです。まさか「今救うという本願」のあと、「だろうか」「だとすれば」の論理展開だけで「腹底が、信仰のほどが透けて見える。」とまで言われようとは、この坊主(あ、僕か)も思いもしなかったでしょう。

心配なのはこのN氏って弘宣局で親鸞会の発行物を作っている人だと言う事なんですが、大丈夫なんですかね、親鸞会。あそこにそんなこと誰も気にする人いないか…

しかし「仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念であろう」って言うけど、なんに対しての疑いが晴れるのか分かっているのでしょうか。「今救うという本願」に疑いが無くなるのですよ。

そこが分からないから、「疑いが晴れる」ことと「今救うという本願」が別々のもんだと思っちゃってるんでしょうね。困ったものです…

N氏の記事にもあるように、私は真宗大谷派、また浄土真宗本願寺派もそうですが、問題の無い宗派だなんて思ったことは一度も無い。だから脱会する人に「うちに来ないか」なんて言ったこともない。私がずっと言い続けているのは、自分の人生に対して、まじめになって欲しい、それだけなんです。

縦の線と横の線を書いて、「善のすすめ」とやらをすればここを進んでいって助かるんだと信じて、「今の救い」だと説く人間を哀れだと見下す。

別に僕が見下されるのはいいんですけど、それであなた、いつ、本願を聞く気ですか?

「聞即信の一念」って、「いま」の事ですよ。少なくとも僕は高森会長からもそう聞いたけど、今は「善のすすめ」の先に一念があると教えているのですかね。

親鸞会の学友部では「続きは次回」「続きは次に」なんていってずっと聞きに来る人を引っ張る。高森会長の話も結論は「私の話を聞きなさい」いつまでそんなのを聞き続けるつもりだろう。

ずーっとこの話を聞いてればいつかは信心頂けるだろうと思って、聴聞が単なる精神安定剤になってませんか。

高森会長が死んだらどうするんだろ。「ご法話ビデオ」とやらを後生大事に抱えて、これさえあればいつか信心頂けるにちがいないと信じて、うつろな目でビデオの高森さんの話を聞き続けるつもりですか?

この質問にまじめに答えて下さいよ。あなたはいつ、救われるつもりなのか。

僕は本当に不思議でならない。自分が脱会してから、本当に沢山の方と話をしてきた。一般の学徒(会員)で話をしてきた人は殆ど辞めた。でも、N氏のような講師部員は辞めない。辞めないからと言って疑問が無いわけではなくて、疑問は無くならないし高森会長の話を聞いてもどうにもならないって頭では理解しているのに、ずるずると辞められない。

ある講師部員の言葉が忘れられない。「あなたはまだ30代前半だからいいよ、やりなおしがきくから」ふざけんじゃないよ。人生やり直すために親鸞会やめるんじゃない。仏法聞くために、辞めるんじゃないのか。

今までに親鸞会に費やしてきたものがあまりに大きすぎて、もう辞められなくなってる。教義批判について「答える必要は無い」「耳を傾ける必要も無い」と耳目をふさぎながら、「いつか助かるかも知れない高森さんの本願」にすがって、他を批判することでようやく精神の安定を保っている人たち。

わたし一人を哀れんで、本願を建てて下さっている存在に、なぜいま気づかないのか。

自分に正直になって欲しい。俺の人生は本当にこれでいいのか、そう思って立ち上がる人を、如来様は決して見捨てられない。

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コメント

>幼稚園の女の子に、出産時の注意をしているような
ものである。

この部分に親鸞会の間違いがあると気づいていないのでしょうね。
幼稚園の女の子が出産するから、超世の悲願と呼ばれる、という事なのに。
阿弥陀様は、幼稚園の女の子に「早く大人になりなさい」とはおっしゃってません。

投稿: ひろし | 2012年9月13日 (木) 23時10分

小さな窓から見えるこの世界がぼくのすべて
空の青さはわかるけど 空の広さがわからない♪

投稿: | 2012年9月13日 (木) 23時18分

この文章の出所は 全て会長でしょうね。

講師部員は会長のコピーであることに誇りを
持っていますから 会長の言ったことを
そのまま 添付しているのでしょう。

講師は自分では何も考えず 会長のコピーとなり
会長は講師に言わせて責任を逃れる。
親鸞会の特徴の一つです。

我が往生より 会長のメンツが大事なんですね。

投稿: | 2012年9月13日 (木) 23時38分

憶測で語るのやめよう。
直接ぶるうのさんに聞けばいいのにw

投稿: | 2012年9月14日 (金) 00時12分

殺人仔牛は機械人形だねw

投稿: | 2012年9月14日 (金) 07時58分

会全体が会長の気まぐれで、気に入られなきゃ生きていけなくなる。支部はそのミニチュア。次長とかに気に入られくなったら、とたんにいじめ。仏法聞いてる者のすることか。

投稿: | 2012年9月14日 (金) 09時24分

気に入られる気に入られないのはどこの組織でも同じ。
一般社会や会社は給料をもらってるからむかついても我慢できる。
しかし、親鸞会は金をもらうのではなく、金を払ってやってる。
だから気に入られなかったらやめればいい。

投稿: | 2012年9月14日 (金) 19時31分

親鸞会は、会長の話を聞いてるという行動にすがらないと、生きていけない。聞く目的は何か、それを忘れてる。聞く為に聞いてるって感じなんだよね。
仏法を精神安定剤と勘違いしている。あるいは名誉欲の為。

投稿: | 2012年9月14日 (金) 20時56分

これですよ。まさにこれ。
親鸞会というのはまさにこのN氏のような自力執心を暴走させて構築された自力の砦のようなところだと、そういう確信が生まれた瞬間が私の在籍末期に確かにありました。
以後は、やめることに一切のためらいがなくなりましたね。むしろ、親鸞会のような自力執心の砦を捨てることこそが廃立であり回心だと、そう解ったらやめないわけにはいかないでしょう。

今回は久々にぶるうのさんの肉声に近い言葉が聞けた気がして嬉しく思っております。
ただ、N氏のターゲットは安心問答かと思っていたので多少意外な感じはしましたが、まあ、彼の人なら他力を説く人すべてにああいう言葉を吐くでしょうから別に不思議でもないのでしょうね。だからこそあそこは自力執心の砦なのだから。

投稿: dandelion | 2012年9月14日 (金) 23時09分

ほとんどの親鸞会の講師はお聖教の言葉を会長を通して暗記しているだけで意味わかってない。
だから間違った説明や話の展開を平気でする。
そもそも会長自身がそういう人で、会長の言ったことのみを講師・会員が覚えるだけだから、そうならざるを得ない。
まぁ仏教の素人・初心者を対象にそれらしくしゃべれれば彼らの目的(金集め・人集め)は達成されるのだから、暗記した言葉を吐き出すだけでいいのかもしれないが・・・

このような聴聞を何年も続けることが如何に無駄で虚しいものか、学徒・会員の人たちにいい加減気づいてもらいたいものだ。

投稿: | 2012年9月15日 (土) 21時34分

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