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一葉落ちて天下の秋を知る

弘宣局のN講師による「静かな劇場」で珍しくこのブログの話題が取り上げられていました。

内容は前回のエントリの「あまりに恥ずかしい」への反論…のようなもの。水月昭道著「他力本願のすすめ」という本に「高森顕徹先生は安心して読めます」とあること対しての親鸞会の反応を書いた私のエントリにたいして、「本願寺の僧侶に褒められ、あたかもこちらが舞い上がっているかのように早合点して書いている」「本願寺の僧侶に褒められて喜ぶ人は、こちらにはありません。」とのことです。

確かに、早合点して申し訳なかったと思います。この点は素直にお詫びします。

高森会長が布教を始めてから半世紀以上が経ったのに、高森会長の本は本願寺派その他の論文や関係する著作に全く取り上げられることも引用されることもなく、教学部が手取り足取り助けて新刊を発行し、本屋に並べて職員や会員が買い出しに出かけてランキングを操作し、信者からカネを集めて派手に宣伝しても東西本願寺の学者からは見向きもされず、未だに出るはずのない「反論本」すら待ち望んでいる日々。

そこに、自己流の解釈でまるで真宗教義を学んだとは言えない「トンデモ他力本願本」がでて、ようやく参考文献に載せてもらった。50年以上たって、ただ、それだけ。

そりゃ、これで喜べるわけないですよね。「頭大丈夫?」とかいって本当に申し訳ありませんでした。

ただ、僧侶名も著作名も全部隠して「福岡県の僧侶が書いた本」ってだけアナウンスして、顕正新聞一面の「浄土真宗の正統を示す」という大見出しの記事に載せたり、「高森先生以外の本は安心してよめないって事ですね」ってお花畑なビデオ作って紹介したお陰で、いくつかの支部の会合でも「いよいよ本願寺も高森先生を認めざるを得なかったって事ですね!!」ってそれこそ「大はしゃぎで舞い上がってた」みたいです。

つまりこのN講師の言いたいことは、「下々の者共には事実を隠して言えるところだけ言いましたが、自分は事実を知っているから喜べるわけない。早合点して書くな。」という事のようです。戦時中に前線ではボロ負けしているのに、国民には大事なところは全部隠して都合のいい情報だけ知らせ、無邪気な国民に提灯行列とかさせてた国を思い出させますね。N講師、正直過ぎます。

他にもこの顕正新聞7月1日号には、住職が講演会に参加して「歎異抄をひらく」を絶賛したとか、真宗住職が「花びら」の勉強会をしているとかいろいろ載っていますが、顕正新聞を編集しているN講師に言わせれば全然喜べない事なのでしょう。つまりこれも肝心なところはみんな隠しているのかも知れません。あのF館を紹介した顕正新聞の記事のように。

N講師は「一葉落ちて天下の秋を知る」という言葉を出していますが、こうした嘘っぱちが次々と明るみになり親鸞会が崩れてゆく兆しかと思えば、まことに含蓄のある、一講師部員としては実に勇気のある言葉だと思います。

それにしても、

加えて言えば、件の坊主は、その九州の僧侶に対して「少しでも浄土真宗を学んだ人なら最初の10ページで放り投げたくなるでしょう」とか、「この人にとっての他力とは、自分の心のもちようで楽になれるよくらいの自己セラピーでしか無いのだと思います」と厳しく批判しています。

この点に関しては、珍しく件の坊主と意見が一致しましたが、だとするなら、なぜ彼らの教団は、こういう間違ったことを教える僧侶を、そのままにしておけるのでしょう。

とありますが、この部分は珍しくN講師と意見が一致します。実にそのとおりです。

ただ本願寺派も「高森顕徹先生は安心して読めます」と一言参考文献に書いてあっただけで好意的に取り上げ、間違いだらけの内容を放置して批判もしない、書名すら書かない人たちに言われたくないでしょう。

これからお坊さんで本を書く人は「高森顕徹先生は安心して読めます」とカッコつきでどこかに書いておいたらいいですよ。どんなデタラメな内容でも親鸞会は好意的に受け止めて何一つ内容には突っ込んで来ませんから。

それにしてもこのN講師、私のこんなしょうもないエントリに反論するヒマがあるなら、安心問答の問いかけに答えたらいいのにと思います。出来ないなら、仕方がないですが。

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あまりに恥ずかしい

あさ川氏のブログに、こんな記事が載ってました。

内容をすでにご存じの方もあるかと思いますが、私がやや意外に思ったのは、本願寺派の僧侶が出版した本の参考文献に『歎異抄をひらく』を出して、

「高森先生は、安心して読めます」

と書いてあったという話。

私はまだ現物を見ていませんが、アマゾンの書評を見ると、どうも事実のようです。内容としては仏教書と言うより自己啓発系の匂いがいたしましたが。

ちなみに著者はウィキペディアに出てましたが、「日本の環境心理学者・評論家・浄土真宗の僧侶」だそうです。僧侶が本職ではないかもしれません。

ビデオでは、「参考文献に出ている名だたる本願寺の仏教学者の中で 、”安心して読める”のコメントがあったのは高森先生だけだ」ということで、「ほかのものは”安心して読めない”ということだ」という話になっていました。

Sanko
そういえばこの話は、7月1日号の顕正新聞一面にも載っていました。「浄土真宗の正統を示す」という見出しで、「高森顕徹先生は、やはり安心して読めます」と福岡県の僧侶が自著の参考文献に載せてたということ。

なんでその僧侶の名前と書名を載せないのか不思議でしたが、実際に自分が手にとって見てわかりました。

著者の名前は水月昭道氏。書名は『他力本願のすすめ』。

奥付によるとプロフィールは、1967年福岡県生まれ。バイク便ライダー等、人生の道草を経て九州大学大学院博士課程終了。人間環境学博士。月給3万円の非常勤講師等で日々を凌ぐ日本の博士の窮乏を自身の経験と共に綴った「高学歴ワーキングプア」で話題を集める。著書に続編「ホームレス博士」など。2006年得度(浄土真宗本願寺派)。学校法人筑紫学園勤務。

とあります。筑紫学園の事務員をしてる人のようで、僧侶を生業にしているのでは無いようです。

関心があったら読んでみて下さい。少しでも浄土真宗を学んだ人なら最初の10ページで放り投げたくなるでしょう。特に他力本願を「救済の発想法」と書いているところや、悪人正機の説明でも、「善人は努力の出来る頑張れる人」で、「悪人とは自己制御の一つも出来ないクズ」とあるところを読むと、この人にとっての他力とは、自分の心のもちようで楽になれるよくらいの自己セラピーでしか無いのだと思います。親鸞会の人にとってもとても許容出来る内容ではないでしょう。

一応僧侶なのでしょうが、得度をしただけの人なら仏壇屋さんや葬儀屋さんにもいます。巻末の参考文献を見るとそれなりに勉強はしている人のようなのですが、ずいぶん得手に法を聞いてきた方のように私には思えました。申し訳ありませんが、この人に「安心して読まれる」本なんて、終わってます。

そんな人の、こんな本の参考文献に「高森先生は、安心して読めます」と一行あっただけで、「浄土真宗の正統」だの「大転換期」だのと顕正新聞に載せ、ビデオを作り、数千人の会員を前におおはしゃぎで発表する。しかも書名も著者名も伏せられたまま。

こんなことする人は高森会長以外に世界に1人もいません。なぜか。

あまりに恥ずかしいからですよ。

私が書いた本が学校事務員(得度しているから僧侶)の書いた真宗本(書名も内容も見せられません)の巻末の参考文献に「安心して読めます!」って一行だけ書かれました、すごいでしょ!異端と正統の大転換期です!!

これ、機関誌の一面にのせてビデオまで作って発表することですか?
ほんとに頭大丈夫なのか真剣に考えて欲しいです。

そういえば、東本願寺派(浅草本願寺)から高森会長に執筆依頼があった時も、「一大方向転換」とか「本願寺との共存」とか会員に発表されましたが、編集上の理由で掲載できないと袖にされたこともありました。

未だに「歎異抄をひらく」の反論本が出てないと言いはるところや、また私が弘宣部(現弘宣局)にいたときは「顕正新聞は本願寺に向けて作っている」と言っていた事からもわかりますが、

高森会長は、本願寺に認めてもらいたくて認めてもらいたくて仕方がないのでしょう。

周囲のイエスマンと検閲済みの「お手紙」でいくら賞賛されても飽きたらず、自分を追い出した本願寺を見返したくて仕方がないのでしょう。大した自己承認欲求です。

彼が僧籍を剥奪されたのは1970年。もう40年以上経っているのに、未だに克服できてないんでしょうね。こんなつまらない人に振り回された私の青春も何だったのかと思います。

そういえば私もこんなブログを未だに書いてるのですから、親鸞会を脱会してから早7年、まだ克服できてないのかも知れません。

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「真面目な人からやめてゆく」

静かな劇場との対話ですが、いつの間にか安心問答との対話になってしまって置いてきぼりになったような気持ちです。最初から私なんぞ相手にされてなかったのかもという気持ちもありますが。

ところで私は真宗大谷派(東本願寺)の僧侶をしていますが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の知り合いも沢山いますし、よく法話を聞きに行っています。僧侶という立場でどちらの法話も定期的に通っているという人は、そう多くないかもしれません。

そこでいろんな話を聞くと、大谷派で「本願寺派は死後の浄土の救いしか説かない」と言う人がいたり、本願寺派で「大谷派は浄土や信心の話をしなくなった」なんて聞くこともあります。私はどちらにも行ってるので、「誰のことを言っているのかしらないけど、そういう人も確かにいるかもしれんが、それだけじゃないのな」と思ったりします。

真宗十派といっても、他派のことをそう詳しく知っている人がいるわけでもありません。そこには大なり小なり誤解が生じます。親鸞会にしてもそうです。未だに「親鸞会は獲信の日時を問題にする」といっている人は結構います。親鸞会の人にとっては「(゚Д゚)ハァ?」でしょうね。たしかに昔はそういうことを言っていた時期もあったようですが、少なくとも私が親鸞会に入ってからはそんなことはありませんでした。

私が親鸞会の中にいる人に対して「今救うという本願に気づいない」と、多分どこかの講演で言ったことを聴いたのか(最近は録音する人多いですからね。隠していてもすぐわかります)、あるいは安心問答の中にいる人の主張とごっちゃになっているのか知りませんけど、「本願の救いが今だなんてこと、わかってるよ」「ちゃんと話はされているよ」と思っているのでしょう。

親鸞会を批判している私にしても安心問答の中の人にしても、10年以上親鸞会の中で話を聞いてきた人です。そんな事知らないはずがありません。だからこそ親鸞会の外に出て「今救う本願」を振りかざす人を、本願文の上辺だけを理解して、救われてもいないのに救われたふりをしている人、あるいは救われた気分になっている人と考えているのではないでしょうか。私が救われてないのに、親鸞会を出て救われるなんてことがあるはずなかろうと。

頭ではそう理解している。しかし現実問題として私のこの心のもやもやは晴れない。疑情は晴れない。今救うという本願なのに、どうしてそれが腑に落ちないのか。

これは求道の根本的な問いだと思うのですが、親鸞会にいると、課題に対して気の利いた答えがたくさん用意されていて、なんとなくわかった気になって、そこに留まってしまいます。やがて頭の中では全部理解できているような気になり、それでも「晴れていない」自分に対して、疑問を抱かなくなってしまうように思います。

私は講師部員を7年間続けました。講師部の会合、総会、布教講義、座談会。こういう問いが話題になったことはひとつもありませんでした。疑問に思っている人がいないとは思いません。でも頭の中で問いも答えもすっかり入っていて、そこで完結してしまって外に出てこないのです。

法友通信という高森会長への手紙を紹介するコーナーもそうです。求道の悩みを吐露する手紙などひとつも載らず、高森会長の法話を賛美する内容しか掲載されず、人生の目的を知らされたからそれで喜ぼう、素晴らしい話を聞いたからうれしいな、そういう感想を持つことが正しいことで、それが自分の心の闇を塞いでしまって見えなくしてしまっているのです。

「真実の仏法を聞ける自分は幸せだ」「高森先生のお会いできて本当に良かった」という言葉ばかりが繰り返され、まるで自分がその心境にとどまることが推奨されているようなもので、晴れない自分の心を打ち明ける人など誰もいませんでした。それがまるで当然の事のように、当たり前のようになっていますから、「救われた」という人を見ると「嘘だ異安心だ」と見るほかに心の持ちようがなくなります。

機関誌を見ても信仰や信心に関する部分は高森会長の過去の著作から引用したものですから、私が今どう本願を受け取っているのかを書くこともなく、それが我が身の課題になることもありません。本願をショールームの中に入れて、私には所詮手に入らないものとして眺めているようなものです。

私は親鸞会を出てある布教使の法話にいった時に、「今ご信心を頂いてください。頂いて帰ってください。私も今いただかせて頂きます」と言って話し始めたのに驚きました。なぜこの言葉が親鸞会で聞けなかったのだろうかと思いました。

親鸞会にいると、居心地がいいです。誰も信心の有無を問題にしないからです。まるで晴れない心のままでいてもいいんだ、「善のすすめ」さえやっていればいいんだと。そう言われているようです。

いつまでも親鸞会の中にいて外に出た人を罵るのは、そういう居心地の良さを崩されたくないからでしょう。

つまり切羽詰まってないのです。晴れない心に悩んでないのです。本当に悩んだら、苦しんだら、自分はここにいていいのかと真剣に悩むようになるでしょう。

以前現役の学徒と話をした時に「真面目な人から順番に(親鸞会を)辞めてゆく」と言っていました。そうだろうと思います。

何度も言いますが、自分の人生に真面目になってほしいです。本当に今のままでいいと、心のそこから思っていますか?親鸞会を出たら高森さんの法話が聞けなくなるなんてことはありません。外に出ても何もないと思ったらまた戻ればいいだけじゃないですか。

あなたの「聞きたい」と思う心は阿弥陀様が起こしてくださっている心です。だから絶対に見捨てられるということはありません。真宗の救いにおいて「求道の敗残者」なんてものは絶対に存在しません。いや敗残者でいいじゃないですか。出て、求道に負ければいいんです。そんなの弥陀の救いになんの関係もないんですから。

何があっても阿弥陀仏はあなたの後生を見捨てられることはない。そのことだけ心に留めおいて、あとは心の奥底の声を聞いて欲しいのです。

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投稿:一部の洗脳によって作られた幸せな人だけを売りにして、それ以外の何十倍、何百倍の嫌な思いをさせている人を切り捨てている

1年前、「事実を見ようとしなければ~」を投稿させて頂いた者です。

この間、自分でも色々の思い、感情がありました。
親鸞会を許せない、高森会長、講師部を許せない、という方は、退会した方の中でどれくらいいらっしゃるのでしょう。

多かれ少なかれ、それまで信じていたものに裏切られたわけですから、つらい思いをされたのだと思います。

親鸞会に限らず、カルト宗教に関わった人は、脱会してからの精神的ダメージをもたれるのだと思います。以前、先輩にだまされて統一教会に入ったという女性と話す機会がありましたが、その方もやはり大きな葛藤をお持ちのようでした。何で、だまされたんだろう、信じていたのに、と。

しかし、私もそうでしたが、内部にいるときは信じるしかないのだと思います。
周りがどう言おうと、自分はこの道を進むのだ、と。

ある講師部の人が、「たとえ誰もやらなくても、私は親鸞聖人の教えを伝える、高森先生ましますことを伝える」と言っていた記憶があります。当時ばりばりの会員だった私は、やはり講師部の人はすごい、と思うと同時に、この人は高森先生がいなくなったら、どうなってしまうのだろうという怖さも感じました。

まず無いことだとは思いますが、この講師部の人のマインドコントロールが解けて、親鸞会は間違っていた、高森会長は善知識でも何でもない、ただの宗教詐欺師だったと知ったら。。。もし自分なら、発狂してしまうかもしれません。

ぶるうのさんはじめ、退会した方が親鸞会について書かれているブログがありますが、相当の思いでもって日々書かれているのだろう、と思います。私よりはるかに多くの時間、労力、お金を親鸞会と高森会長に捧げてきたのでしょうから。しかしそういった方々のおかげで自分は親鸞会をやめられたし、会員の方も多くやめておられます。改めて、感謝申し上げます。

私は、親鸞会の被害者であり、加害者でもあります。家族や友人を富山や聴聞会場に誘ったという事実、大学において後輩の学生に、親鸞会の話をしたという事実は消せるものではありません。幸いにも自分の家族は誰も会員にならなかったのですが。そのことは忘れてはならないことだと思います。

しかし、だまされた、傷つけられた、多くの大切なものを失った、という事実。親鸞会にさえ関わらなかったら、こんなひどい目には遭わずにすんだのに、という感情。高森会長許すまじ、親鸞会許すまじ、という怒り。自分と向き合う中で、こんなにも怒りの感情をため込んでいたのか、と気がつき、驚いています。

さらっと「そういえば親鸞会なんてものもあったなあ、学びになることもつらいこともあったなあ」と、これからの人生を生きられればいいですが。弱い人間なので、なかなかそうはいきません。それは今の自分の課題であり、乗り越えなければならないことだと感じています。

そんな中あるとき、ふと「被害者意識で生きるのはもうやめよう」と思えるときがありました。

親鸞会のせいで、とかあのときの講師の一言が許せないとか、何かにつけて思い出してしまう、いわゆるトラウマというものですが。それを手放そう、と思えるようにはなってきました。

被害者意識のまま生きていたら、辞めても親鸞会にコントロールされた人生になってしまうし、違う形で被害者になるようなことが起きてしまうかもしれない。そんなの嫌だし、あまりにもったいない。目の前にいない亡霊に取り憑かれた生き方はしたくない。

良いことか悪いことか、毎日のようにこの「さよなら親鸞会」やその他会関連のネットを見てしまっています。ブログを書いたいるするわけでもないですので、正直、生産性のあることではないでしょう。何が知りたくて見ているのか。わからないまま習慣になってしまっています。そろそろ、この習慣も捨てるときに来ています。辞めようかどうか迷っている方には、とても大切なことが書いてありますので、しっかりと読んで頂きたいです。

親鸞会を許す、ということは今すぐには出来ないと思います。子どもを失った親が、加害者を許せないように。もちろん程度は違いますが。しかし、それを糧にして生きることは出来ると思います。また、そうでなければ、本当の意味で退会したといえない、と自分では思っています。

私の他にも親鸞会で大きな心の傷を負った方、今も苦しんでいる方、いらっしゃると思います。また、会員の方で本当はもう辞めたいけど、自分に向き合うのが怖くて辞められない、親鸞会のいう後生の一大事が気にかかる、家族が入っている、という方もいらっしゃるかもしれません。

一つ言えることは、こういう思いをする人を作り出している時点で、親鸞会はまともな団体ではない、ということです。内部にいる一部の洗脳によって作られた幸せな人だけを売りにして、それ以外の何十倍、何百倍の嫌な思いをさせている人を切り捨てている。

仏教は、一部の人さえ幸せになればいいのか?そういう教えでは無いはずです。一般の会社で、契約して喜んでいる人が10人、クレームを入れる人が100人いたとしたら、そんな会社が存続出来るでしょうか。そして事実、親鸞会の崩壊は迫っています。

親鸞会が教義、組織、会長、あらゆる面でおかしな団体であることは、周知の事実です。であるからこそ、ネットが発達した今日、たくさんの人が誤りに気づいて辞めています。情報統制されて、外部からの意見を一切聞く耳持たない講師や会員の方には、早く知って頂きたい。友人で続けている人は退会して、お互いスッキリした思いでまた会いたいものです。

ほんの少しの違和感でも感じた時、その心の声に向き合うことは無駄ではないと思いますが、如何でしょうか。

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投稿:親鸞会が勧めているのは、現在ただ今の救いでしょうか。それとも、死ぬまで勧誘・献金に従事することでしょうか。

高森会長は、56年から70年にかけて、「会報」を執筆しました。既に広く知られているとおり、その内容は、山邊習學氏・赤沼智善氏の「教行信証講義」、伊藤康善氏の著書、そして大沼法龍氏の著書などとよく似た記述を多く含むものでした。

親鸞会では、山邊習學氏・赤沼智善氏の「教行信証講義」については、会員が読んでも差支えないとしていました。会員の間では、「記述の90%程度は正しい」などと言われていましたので、おそらく、少なくとも高森会長の主観においては、親鸞会教義は基本的にはこの本に依拠したものだったということなのでしょう。

では、「正しい記述」ではない残りの10%についての親鸞会の教義は、どこから来たものなのでしょうか。主にインターネットを通じて得られた情報から、私なりにまとめてみました。

伊藤氏・大沼氏の著書は、本願寺を批判し、「実地の求道」によって「一念の水際の立った信心」を獲ることを勧める点で、高森会長と共通しています。

しかし、高森会長は、かつて伊藤氏に師事していたにもかかわらず、伊藤氏を暗に「土蔵秘事に類するもの」だと位置づけています。土蔵秘事に「類するもの」という表現は、「人工的に信心を与えるという点で土蔵秘事によく似た異安心」という意味のようで、要するに異安心だということです。

また、高森会長の著書の特徴的な記述の多くが、大沼氏の著書にきわめて似通ったものであることは、最近になって、インターネット上で明らかにされていますが、この事実は長い間、会員には伏せられてきました。
高森会長にとっては、伊藤氏も大沼氏も、そのまま支持することはできなかったということでしょう。では、高森会長独特の教義はどこにあるのかといえば、それは、間違いなく「善の勧め」です。

大沼氏の「方便より真実え 浄土真宗」には、「真宗では、弥陀の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り作用だから、諸善万行や六度万行は修することはいらない」、「雑行雑修と嫌な名前をつけて捨てさせている」、「これを生かして、真宗で使用する方法はないものか」。「悪くいえば、善根功徳は積む必要はない、真宗は念仏一つで沢山だといっていますが、それでよいですか、いま少し深く研究して、善根功徳を生かす方法を考えなければ真宗は自滅しますよ。」という記述があります。高森会長による「善の勧め」のルーツはここにあるものと考えられます。

高森会長は、その著書で香樹院語録を紹介していますが、もともとは「法話のない時は、これまでに聞いた事を常に思い、常に聖教を拝見し、口に常に名号を称すべし」という内容だったはずなのに、「念仏」の勧めを「勤行と六度万行」の勧めに改めています。何を根拠に「六度万行」の勧めを付け加えたのかは、どこにも示されていません。

また、大沼法龍氏の「方便より真実え 浄土真宗」には、「生活の一段には全力を注いで、身の行ないを慎み、善根を励みなさい。これを至心に発願して、往生の助太刀にしようとするから雑毒の善、虚仮の行、雑行雑修という名をつけて機執まで捨てさすのです。善根そのものは立派な善根功徳だから、実行しなければよい果報は獲られません。」という記述があります。これに対して、親鸞会では、「諸善が雑行と嫌われ、捨てよと言われるのは、善を行う「自力の心」が悪いからだ。雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよということだ。」とした上で、「後生の一大事に驚き、救いを求めている者に、まず弥陀は修善を勧める19願を建てられた」として、修善を勧めています。大沼氏によれば、雑行と嫌われ捨てよと言われている「往生の助太刀にしようとする善」を、親鸞会は勧めているのです。

さらに、高森会長は、紅楳英顕氏の「派外からの異説について」「現代における異議の研究」に対しても独特の対応をしました。紅楳氏は、「真宗における宿善とは獲信のための因縁となる善根を意味する」という前提で、「宿善を自力とし、しかも聴聞(聞法)だけでなしに、破邪顕正や財施も獲信のための宿善になるとする宿善論は、宗祖や蓮如上人、それから真宗先哲の見解にもおよそみられない」と結論づけています。

親鸞会に対しては、「「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたいと求めた」が、「これについては何の返答もないままである」。「あれだけ自力で宿善をつめといい「破邪顕正こそ無上の宿善」とか「浄財はすべて尊い宿善」といって、それが誤りであると批判されると、繰り返し質問状を発し、さんざんな罵詈雑言を浴びせ、法要妨害までしておきながら、こんどは掌を返すように、自力の宿善は間に合わないというのである」。と批判しました。

これに対して、高森会長は、紅楳氏の論文を正確に会員に示すことをせず、紅楳氏の論文の引用・要約を含む質問状だけを公開して、逆に本願寺側からの回答こそがないのだと言い張りました。高森会長が、破邪顕正や財施も獲信のための宿善になるとする根拠として提示した文証は、明確な位置づけの示されていない「三願転入の文」のほかには、実質的には、七仏通戒偈と第19願の2つを挙げたのみで、まるで聖道門の立場からの回答のようでした。高森会長が、90年代に「三願転入の教え」を強力に打ち出し、やがて失敗した背景には、このような事情があったものと思います。

高森会長が、76年に大沼法龍氏が亡くなって以降、その著書とよく似た内容の「光に向かって」や「お歌」を、自ら苦心して著したものとして少しずつ発表して会員に有難がらせていたこと、80年代前半に豊田商事グループからの献金を受けていたこと、88年の本部会館建立時に立派な会長施設が設けられていたこと等を考えると、高森会長が「善の勧め」にこだわった理由がどこにあったのかについては、疑問の余地はないように感じられます。

2000年代以降の親鸞会の変節はかなり顕著なものでしたから、親鸞会から人が離れていったのは、そこに最大の原因があったと思います。しかし、「昔の親鸞会は良かったが、最近は変わってしまった」のではなく、80年代以前から、親鸞会の体質は一貫したものであったことが明らかになったのは、まさにネットの力によるものでしょう。親鸞会が勧めているのは、現在ただ今の救いでしょうか。それとも、死ぬまで勧誘・献金に従事することでしょうか。その点の判断が求められているものと思います。

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親鸞会という阿片

親鸞会弘宣局のN氏のブログが更新されていました。先回のは大谷派とか坊主とかあったので自分のことを言っていたのかと思っていたのですが、今回は誰に対して言っているのかよくわかりません。おそらく、複数の人の言っていることがごっちゃになっていると思われます。

これにしても批判するならちゃんと相手の主張に対してリンクを貼るなり引用すればいいだけの話ですが、N氏に限らず親鸞会の講師はヘタレなのでできません。学徒(会員)がまかり間違って相手の主張を読んで親鸞会の間違いに気づいてやめられては困るからです。古くは高森会長が「本願寺なぜ答えぬ」で、相手の論文を全文載せた!と言いながら実は肝心の紅楳英顕氏の論文は載せられなかったのと似ています。

内容についての批評は安心問答さんが取り上げてくださっているのでここで触れる必要もないでしょう。N氏のような考えがなぜおかしいのかは、真宗学では割りと初期の基礎的なところで触れるのですけど、高森会長が線を引いたところしか真宗を学ばない親鸞会の人にはわからなくても仕方がないとは思います。

私が親鸞会にいたときは、最初は「この一座で信心決定するつもりで聞きなさい」と言われたものです。それがいつしか二十年三十年聞いても求まるものではないとなり、「このご報謝が足りなかったから、この一座を逃したから臨終に間に合わないかもしれない」と臨終までの問題になり、いまや「観音菩薩の臨終説法」あるいは「多生の目的」と死んだあとの救いになってきました。そのうち浄土真宗親鸞会は「浄土宗親鸞会」になるかもしれませんね。あ、そうなったらもう「親鸞会」のはずもないか(いまもそうだけど)。

次々と「今の救い」が先に追いやられ、本願を信受できない言い訳ばかりがたくみになり、救われた人ってほんとうにいるのかと思えば「あれは信心決定している」と言うこともおかしいと、親鸞聖人も過去の親鸞会も全否定するようなことを言わざるを得なくなり、変だと思って他の解釈を当たろうにも「親鸞会だけが唯一正しい教えを伝えている」「本願寺の話を聞くな」「高森先生以外の本も読まなくていい」「ついでに七祖聖教も大沼法瀧も読むな」とのこと。

これはあなたを真実に導こうとしているんじゃないんですよ。「ただ今の救い」を否定し、真面目に求道し、疑問を持った人に対して、「なんにも心配するな、疑問を持つな、救われてなくても気にするな、親鸞会の外を見るな、勧誘してお布施して高森先生の話だけ聴いてれば死ぬまでにはなんとかなるから」と言っているに過ぎないのです。

つまり師を敬い、従っているのではなく、単に依存させてるだけなのです。マルクスの言った「人民の阿片」ってまさに親鸞会のことですよ。

それでもう一度お尋ねしますが、N氏、あなたはいつ、本願を聞くつもりなのですか?

N氏はもう50歳ですが、いつまで高森さんなり親鸞会なりに依存し続けるつもりなのでしょうか。はやく自分の姿に気づいて勇気ある一歩を踏み出してもらいたいと思います。歴史がお好きでしたよね。親鸞会と似たようなことをやっていた国家や集団がどうなっていったか、ほんの少し勉強すればすぐに分かるはずです。ほんの少しの勇気で、気づくことは出来ますから。

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投稿:「誤りを犯さないことを誇りとするよりも、誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」

かつて、親鸞会の学生組織は「歎異抄研究会」を名乗っていました。大学キャンパス内で熱心に宗教勧誘を行い、各地で連日開催されていた高森会長の説法に続けて参加するように勧めていたと聞きます。

しかし、「命懸けのご布教」が原因といわれる、説法の頻度の低下につれて、学生組織の在り方も変わっていったようです。平日の説法がなくなり、週末のみの開催となった90年代はじめころには、宗教色のないサークル名の偽装、勧誘方法のマニュアル化・画一化、偽装サークルに加入した学生に対する徹底した行動監視、教義説明の段階化などが行われるようになりました。

これによって学生会員が急増すると、親鸞会の教義にも、変化が生じました。93年には、「三願転入の教え」が、教義の「根基」だということになりました。従来、聞法する時間がないときの次善の教義実践だと言われていた勧誘と献金が、万人が通る求道の道程そのものであると位置づけられたのです。この「教え」の根拠は、数年がかりで、少しずつ展開されていきました。要約すると、「勧誘と献金によって信仰が進むけれども、阿弥陀仏の本願力によってのみ助かるのであり、勧誘と献金によって助かるということではない。」「これを矛盾と感じるのは、阿弥陀仏の本願を体得していないからだ。」「勧誘と献金は大いに勧めるべきだが、これによって助かるということではない。勧誘と献金はあくまで教えの理解に基づき自発的に行われるべきものだ。」「七祖聖教は読んではならない。親鸞会が編纂した教学テキストには、善の勧めの聖教上の根拠が多く抜粋されている。」ということでした。

93年に作成されたアニメビデオ「世界の光・親鸞聖人  第1部」には、親鸞聖人が信心を獲るシーンが含まれていました。以後、会員が信心決定の「生々しい」体験を語ることは禁じられ、さらには、あの人は信心決定したとかそうでないとか話すことも為にならないと言われるようになります。勧められたのは、常に「前向き」な発言をすることです、前向きな発言とは、浄土真宗の教義がいかに深遠で理解し難いかを知り、勧誘と献金の実践を通じて信仰を深めたいと決意を新たにした、と語ることを意味します。これこそが「光に向かう」ことなのだと、強く推奨されるようになりました。

おそらく、私を含めて、90年代に親鸞会の学生会員となった者の多くは、「なぜ生きるか」という問いに正面から取り組む姿勢に惹かれて親鸞会に入会し、多くの時間と費用を投入しなければ聞けない高森会長の話をなんとか理解しようと奮闘し、その結果、「アニメ頒布」と「正本堂建立」に力を注ぐことを動機づけられていったように思います。当時の会員たちにとっては、親鸞会の明るい未来の基礎が築かれつつあるように思われました。しかし、今にして思えば、このころに親鸞会が取り組んでいたのは、信心決定した唯一の人物である高森会長から、勧誘と献金を勧める話を聞き、信仰を深めるために勧誘と献金の実践の決意を固めるということを永遠に繰り返すよう求めるという、親鸞会教義の基本的なスタンスの明確化でしかありませんでした。

親鸞会は、2000年代に入って、急速に勢いを失ったように思います。2001年発刊の「なぜ生きる」は、会員以外の読者からは「問題提起だけで、答えがない。」「どうすれば救われるか、書かれていない。」との声が多く寄せられました。この後、高森会長の説法は、「なぜ生きるか」という問いに取り組もうとする姿勢を大きく後退させ、ごく基本的な内容を繰り返すだけの定型的なものが多くなったように感じています。さらに、2002年には「不倫疑惑事件」が起こりました。親鸞会は、講師部員はもちろん、学生会員に対しても、飲酒や男女交際は求道の妨げになるとして戒め、不倫などもってのほかという厳しい規律を守るよう求めてきました。そのような中で、会員の模範となるべき高い地位にある人物に対する疑惑ですから、会員の注目を集めたのは当然のことです。しかし、親鸞会が、このような規律の正当性を示すことに失敗したのは周知のとおりです。

2004年に正本堂が完成したころには、もはや親鸞会は教義的にも組織的にも求心力を失っていました。そのような状況を自覚できていなかったのか、親鸞会は、2007年に会員の多大な負担を少しも顧みない「聞法ドメイン計画」を発表し、そうかと思うと、2009年には全く逆の方向性を持つ「テレビ座談会」をスタートさせました。その後も理解し難い企画ばかりを打ち出していますが、重い献金の負担に耐えてきた会員に対する説明責任が果たされているようには思われません。外部からの重要な教義上の批判に対しても沈黙を続けています。

かつての親鸞会の勢いは見る影もなくなり、今や、夢から醒めたような想いを持っている元会員も少なくないことと思います。高森会長はじめ、今なお親鸞会に関わっている方々には、「誤りを犯さないことを誇りとするよりも、誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」という言葉をよく味わっていただきたく思います。

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「今救うという本願に気づいていない」

親鸞会の講師部員であるN氏が、自身のブログで私(多分)の事を取り上げて下さいました。

「今救うという本願に気づいていない」

などと説教するに至っては、もう返す言葉も無い。
言いたい放題。ここは「先に言ったもの勝ち」の世界なの
だろうか?と思う。

今救う、今救うと、何とかの一つ覚えみたいに言うが、
仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念で
あろう。疑い晴れる一念の前に、そもそも仏願の生起とは
何か、この坊主は分かってのことなのだろうか?

「仏願の生起」の理解も曖昧な坊主に、疑い晴れるの
晴れないのなど、問題になりようもなかろう。
幼稚園の女の子に、出産時の注意をしているような
ものである。
だとすれば、この坊主は、全くトンチンカンなことで
「今救われる本願」と言いまくっていることになる。

まるで闇夜に鉄砲ではないか。
どうせ何を言っても分かるまい、地獄なし、極楽なしと
タカをくくってのことだろうが、「語るに落ちる」とは
このことで、言えば言うほど、親鸞学徒なら、この坊主
の腹底が、信仰のほどが透けて見える。
気づかないのは哀れ、ご本人だけなのである。

静かな劇場より

この文章のすごいところは、「今救うという本願にきづいていない」以降がすべて憶測によって語られていることです。まさか「今救うという本願」のあと、「だろうか」「だとすれば」の論理展開だけで「腹底が、信仰のほどが透けて見える。」とまで言われようとは、この坊主(あ、僕か)も思いもしなかったでしょう。

心配なのはこのN氏って弘宣局で親鸞会の発行物を作っている人だと言う事なんですが、大丈夫なんですかね、親鸞会。あそこにそんなこと誰も気にする人いないか…

しかし「仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念であろう」って言うけど、なんに対しての疑いが晴れるのか分かっているのでしょうか。「今救うという本願」に疑いが無くなるのですよ。

そこが分からないから、「疑いが晴れる」ことと「今救うという本願」が別々のもんだと思っちゃってるんでしょうね。困ったものです…

N氏の記事にもあるように、私は真宗大谷派、また浄土真宗本願寺派もそうですが、問題の無い宗派だなんて思ったことは一度も無い。だから脱会する人に「うちに来ないか」なんて言ったこともない。私がずっと言い続けているのは、自分の人生に対して、まじめになって欲しい、それだけなんです。

縦の線と横の線を書いて、「善のすすめ」とやらをすればここを進んでいって助かるんだと信じて、「今の救い」だと説く人間を哀れだと見下す。

別に僕が見下されるのはいいんですけど、それであなた、いつ、本願を聞く気ですか?

「聞即信の一念」って、「いま」の事ですよ。少なくとも僕は高森会長からもそう聞いたけど、今は「善のすすめ」の先に一念があると教えているのですかね。

親鸞会の学友部では「続きは次回」「続きは次に」なんていってずっと聞きに来る人を引っ張る。高森会長の話も結論は「私の話を聞きなさい」いつまでそんなのを聞き続けるつもりだろう。

ずーっとこの話を聞いてればいつかは信心頂けるだろうと思って、聴聞が単なる精神安定剤になってませんか。

高森会長が死んだらどうするんだろ。「ご法話ビデオ」とやらを後生大事に抱えて、これさえあればいつか信心頂けるにちがいないと信じて、うつろな目でビデオの高森さんの話を聞き続けるつもりですか?

この質問にまじめに答えて下さいよ。あなたはいつ、救われるつもりなのか。

僕は本当に不思議でならない。自分が脱会してから、本当に沢山の方と話をしてきた。一般の学徒(会員)で話をしてきた人は殆ど辞めた。でも、N氏のような講師部員は辞めない。辞めないからと言って疑問が無いわけではなくて、疑問は無くならないし高森会長の話を聞いてもどうにもならないって頭では理解しているのに、ずるずると辞められない。

ある講師部員の言葉が忘れられない。「あなたはまだ30代前半だからいいよ、やりなおしがきくから」ふざけんじゃないよ。人生やり直すために親鸞会やめるんじゃない。仏法聞くために、辞めるんじゃないのか。

今までに親鸞会に費やしてきたものがあまりに大きすぎて、もう辞められなくなってる。教義批判について「答える必要は無い」「耳を傾ける必要も無い」と耳目をふさぎながら、「いつか助かるかも知れない高森さんの本願」にすがって、他を批判することでようやく精神の安定を保っている人たち。

わたし一人を哀れんで、本願を建てて下さっている存在に、なぜいま気づかないのか。

自分に正直になって欲しい。俺の人生は本当にこれでいいのか、そう思って立ち上がる人を、如来様は決して見捨てられない。

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投稿:「どこかで」「誰かから聞いて」なるのではなく

随行者&体験発表会は激しかったです。。

随行者は、高校まで野球一筋で、地元ではけっこう活躍し
顕正新聞にも載った事があるような男性でした。
幼い頃から、心から楽しめた事が無かったけれど、
次第に一生を野球に捧げよう、監督になろう、と心に決めていったようです。

ところが、神戸大学に入った際に「人生の目的」などの言葉から
ダミーサークルに引っ掛かったようです…。
監督になるという夢を「小さな夢」、信心決定を「最高の夢」と
表現していたのが違う意味で印象的でした。

体験一人目の女性は、幼少の頃から人生にむなしさを感じて、
多種多様のいろんなカルト宗教を渡り歩いてきた方のようです。
郵便ポストのチラシがきっかけでやっと本物に出逢えた!!と感動されてましたが…。
会員になって日も浅いようですが教学試験を既に受けて幾つか通ってるらしく、
いわゆる「カルトにハマリやすいタイプ」の方なのだろうなぁ、と。

二人目の男性は「自力仏教に長年励んできた」80代のお爺さんで、
この年になって初めて「他力仏教」を知って感動した、と何だか一人目の方と似た感じで。。
30万枚のチラシを配って300人が講座等に来てくれた、と
自力いっぱいの活動ぶりを自慢されていてどうしようかと。
(御本人は面白そうな楽しそうな方ではあったのですが)

話の共通したパターンとしては、こんな感じでした。
 ①比較的若い頃から人生にむなしさを感じている
 ②今まで他の何かに迷ってきた(会が言うところの、相対の幸福や自力宗教・外
道)
 ③親鸞会および高森会長に出逢って、凄まじく感動した
 ④真実を知らせてくれた会長への御恩とやらを語る
 ⑤現在は会の活動に全力投球している事を、高らかに誇らしげに宣言する

話聞き終わって、すごーくモヤモヤしました。
思わず誘ってくれた友人に聞きました。
「(彼らは)真実知らされたって言ってるけど、信心決定はしてるの?」と。

友人が「してないけど、でも真実を知っているから」と言うので、つい
「でもご信心頂いてないなら、真実知らない人と変わらないよね?
知らされた御恩って言うけど救われてないなら、御恩って何か違わないかな。
むしろ、知らされて救われないって余計苦しいし、
救われてないなら知らされてない方がラクかもしれないよね」
などと言ってしまいました…。言い過ぎです。我ながらダメだと思いました。

そしたら「じゃあ自分は救われてるの?」と聞かれてしまい、思わず肯定してしまいました。
聞かれない限りは、彼女には言うつもりはなかったのですが。
(あと、個人的には「救われた」という表現はちょっと…なのですが)

何言われるかな、そんなん嘘やって否定されるかな、と思ったのですが。
「すごいね。私もそうなりたい。どこでなれるの?」と案外あっさりで。
(端っから信じてなくて適当に合わせただけ、って感じですが)

とりあえず「どこかで」「誰かから聞いて」なるのではなく、
ご本願をそのまま聞いた、聞かせて頂いた、阿弥陀様によってそうならせて頂いたということ。
あくまでも「すごい」のは私じゃなく阿弥陀様だということ。

というような事を話したら「そうだね(「どこかで」「誰かから」は間違い)」
「(ご本願を暗誦して)そのまま聞いてるけど」「すごいのはわかってる」と。。
ついつい『あーもう、じゃあなんでそれでそうなん!』と思ってしまいましたが。

親鸞会の人は、ご本願をスラスラ言えるんですよね。
(私、申し訳ない事に全然スラスラ言えません。。他にも色々。
お分かりだとは思いますが、正確な言葉・知識は全然身に付いていません。。)

ご本願だけじゃなく、法話中もお聖教が出されると、
真宗聖典や御文章をサッと開いて見つけられるんです。
凄いなぁ、と心から思っています。
凄いからこそ、どうして、と思います。

私が、と考えるのは全然違うことだとは思うのですが。
もっと何か伝えられたらなぁ、とその時の自分の言葉足らずを申し訳なく思いました。

上記の事もあるんですが。
私があんまりお聖教知らずなのもどうなのかな、と。

伝えたい時・伝えられる時に伝えられなかったり…。
それから、私自身が自己流解釈し過ぎて変な方向?に行かないように。
会長の解釈を読んでて思うのが、初心者のやらかすミスや誤解・言葉の定義の曖昧さ、
それらの積み重ねによる教義の誤り、という印象を受けるんですよね…。

ご信心がどうこうなる事は無いけれども。
煩悩具足の私自身は、ほっといたらどうこうなっちゃう訳ですし。。。
ちゃんと勉強していくべきじゃないかと考えるこの頃で、
ちょっとずつですがお聖教読み出しています。

親鸞会以外の法話も行きたいのですが、他の事でバタバタしていたら
だから、彼女が親鸞会からは伝えられてないこの部分を、
せめて私は惜しまず話すようにしたいな、と思いました。
お聖教のお言葉は出せなくても…。

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さよなら親鸞会の過去記事選集(評価の高かった記事)

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さよなら親鸞会 評価の高かった記事

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宗教と社会のフロンティア: 宗教社会学からみる現代日本

宗教と社会のフロンティア-宗教社会学からみる現代日本」という本が刊行されました。主に大学で宗教学や宗教社会学を学ぶためのテキストという位置づけです。

特に「第3 章社会問題化する宗教―「カルト問題」の諸相―」ではオウムや統一教会と共に、もちろん親鸞会のことも取り上げられています。

もともとが教科書として作られたものですから、大変わかりやすく学べます。宗教問題を学ぶテキストとして、どうかお読みになって参考にして下さい。

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