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迫害妄想

座談会で、「新聞に広告を載せようとしたが寺の妨害で出来なかった」なるビデオが上映されたとのこと。内容を聞くことが出来ました。

親鸞会の活動について社会の理解が得られないのは、自分たちが過去に、そして現在においてやっていることが世の中に明るみになってきているからです。隠し続けていたことがどんどん明るみになっている。高森会長が「ワシがその場におったら、腕の一本や二本ではすまなかった。その場に切るものがあったらあたりは血の海になっていただろう。」なんて言ったことも多くの人に知られることになりました。(親鸞会はこの録音を「著作権侵害」としてネット上から削除させましたが、これが録音の信ぴょう性を裏付け、かえって広まる結果になったのもご存知のとおりです)

それなのに相変わらず「寺の妨害、本願寺の妨害」なんてことを丁寧にビデオまで作って信者に見せてる。顕正新聞や顕真を見たら自らの姿勢を全く省みることなく本願寺批判ばかり。

普通の人はこんな親鸞会の姿を見れば、教団内で殺人事件すら起こしながら、我々は日本国家やフリーメイソンから迫害を受けていると主張していたある教団を思い出すでしょう。これで1万年堂出版についての認識も随分と変わったように思います。親鸞会ってそんな事すらわからないのでしょうか。

中にいるときはここまで親鸞会が目先のことしか考えられず、常識のない教団だとは思いませんでしたが、もうそんなことを冷静に考えられる人は幹部の中にはいないのでしょうね。

自分たちがどう見られているかということは、閉鎖的な教団の中にいるとわからないものだということがよくわかります。

(当初追悼法要と書いていたのを、ご指摘があり座談会と訂正しました)

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高森会長亡き後

昨日衝撃的なニュースが報道されました。統一教会の創始者である文鮮明が危篤だというのです。

統一教会とは霊感商法や合同結婚、親鸞会同じ正体を隠した勧誘で知られる団体です。その創始者がついに危篤というニュースはカルト問題に関わる人にとって様々な思いを抱かせました。

親鸞会の会長である高森顕徹氏は1929年生まれ。いま83歳になります。東西本願寺なら80代で元気で説法している布教使はたくさんいますが、高森会長の場合は昔から「お疲れ」で説法をドタキャンすることが多く、最近も追悼法要に出なかったそうですがそこから健康的にどうなのかを推測することはできません。

ただ、説法はできてあと5年くらいでしょう。説法の様子を聞いても、座談会の中継を見ても、そんな感じがします。そしていずれは死んでゆきます。いかに真生会富山病院の医師が優秀でも。

私が講師部員だったときは高森会長の亡き後というのを話題にする人は殆どいませんでした。あえて言えば当時学友部長だったK氏くらいで、彼がその話題を語った時の息苦しい雰囲気を今でも思い出します。

親鸞会教団は高森会長亡きあと、どうなるのか。

私の手元には親鸞会で12年間使った柏原祐義編纂の真宗聖典があります。ところどころ線が引いてありますが、親鸞会では線を引いたところしか学びませんでした。

そうでないところについて質問しても「その部分は高森先生は教えておられない」の一言で終わりでした。親鸞会にいたときは、高森会長一人の解釈に依り、高森会長が解釈していない部分は「ないのと同じ」でした。七祖聖教は読むなと言われ、親鸞会発行以外の仏教書で読んでよかったのは山辺赤沼本と言われる古い教行信証講義だけでした。

親鸞会の人は親鸞聖人の教えに高森会長という存在を抜きにして向き合うことができません。考えることも出来ません。高森会長以外に教義理解を求めることが出来ず、高森会長という目を通じてしか聖教を読むことが出来ないのです。もっとも、その高森会長の教義理解も大沼法瀧の劣化コピーであることは、今日広く知られているとおりですが。

高森会長亡き後、だれが聖教を読むのでしょう。だれが教行信証に向きあうのでしょうか。

親鸞会の実態は高森教に他なりませんが、その高森会長自身は大沼のコピーか教学部の助けがなければまともな本一冊書くことはできませんでした。説法には多くの人が集いましたが、教義研究や著作という面では何も残さなかったに等しいと思います。

先月くらいから顕正新聞や顕真にアニメの話題が頻出するようになりました。アニメ講座やビデオ上映に切り替えてゆくことで「高森会長後」をしのぎ、本願寺批判をすることで信者の流出を防ぐという算段なのかもしれませんが、そんなことでこれから多くの人が付き従ってゆくとは思えません。

信者には親鸞会以外の本を読むなと言いながら、教学部は私がいた頃は本願寺派の学者の本をよく読んでいました。一方では本願寺を批判し、一方では取り込むことで教義理解を進めようという事なのかもしれません。

「師」を失った教団がどこに行くのか。依存する元を近い将来に失うであろう、親鸞会の残された人たちの行く末を見守ることにします。

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宝島新書:「カルト宗教」取材したらこうだった


宝島新書より『「カルト宗教」取材したらこうだった 』という本が出ました。親鸞会のことももちろん載っています。

著者はフリーライターの藤倉善郎さん。これまでに月刊宝島や新潮45、週刊ダイヤモンドで親鸞会の記事を書いているので、ご存じの方も多いでしょう。

帯の文章がアレですのでちょっと買いにくいかもしれませんが、内容はとても興味深いものなので(変なのもあるけど)著者を応援する意味でも買って頂ければと思います。

書名に「カルト宗教」とおもいっきり書いているので親鸞会からクレームが来るかもと心配される方もあるかもしれませんが、それはないでしょう。親鸞会がクレームを付けるのは木下さんのように普通の市民だけで、根性のある人や組織にはなにもしないのが親鸞会のやり方です。昔は本願寺に座り込んだこともありましたが、もう二度とあんなことは無理でしょう。

法論からは逃げまわり、こうした報道にはなんのクレームも付けられず、顧問弁護士を使って弱い立場の人だけに法的な圧力をかけて、それでいて「我らの相手に非ず」と口だけは一人前なのが親鸞会です。

申し訳ありませんが、私がやめてからここまで劣化するとは思いませんでした。でも本当は、こういう姿に気づいてなかっただけで、最初からこの程度だったんだろと思います。

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投稿:いたずらな誹謗中傷 であり、社会的評価を低下させるものであるため…

ぶるうの様

はじめまして。木下と申します。
以前、

「飛雲」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-513b.html

で取り上げて頂いた者です。覚えていらっしゃるかも知れません。

早いものであれから1年。私なりにその間、色々なブログや書物で浄土真宗の教えを学び、本願寺でのお聴聞でもお育て頂いて参りました。

そして分かったことは、親鸞聖人の仰せとことごとく反対のことを言っているのが親鸞会だということです。

きっかけとなった『光に向かって』のタイトルもそうです。私たちが阿弥陀仏に「向かう」のではなく、阿弥陀仏の方から、逃げ回る私たちにお慈悲をかけて下さっているのが浄土真宗のご法義だと味わっております。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、、、。

よくもまあこれだけ親鸞聖人のお言葉を巧みに曲解できるものだと感心すら致しますが、やはり募る思いは「だまされた」という怒りであり、歯痒さでございます。ちょうど、ミミズの肉を牛肉と偽られていたのが分かったような心境です。

私には、彼らは親鸞聖人のお言葉を「商売道具」程度にしか思っていないように感じられてなりません。残念ながら、宗祖聖人へ畏敬の念を抱いているとは思えず、別のところに大事とするところがあるように見受けられます。

そんな思いからうっかり書いてしまったのが、事の発端でした。

先日、私の管理しているブログの会社から次のようなメールが来たのです。
(一部伏字にさせてもらいました)
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このたび、ご利用のはてなダイアリー記事における「親鸞会は
浄土真宗ではありません。仏教でもありません。宗教でもありません。
■■■■ですのでご注意を。」という記述について、浄土真宗
親鸞会の法的代理人である弁護士●●様より、いたずらな誹謗中傷
であり、社会的評価を低下させるものであるため、損害賠償請求権行使
のため発信者の住所、氏名および侵害情報流通時のIPアドレスおよび
タイムスタンプに関する情報開示請求がありました。

http://d.hatena.ne.jp/mamoru_kino4ta/20120709/1341848901
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弁護士から「損害賠償請求権行使」「侵害情報流通」「情報開示請求」という単語を突きつけられて、大変な恐怖を覚えました。私は何か法に触れる悪いことでもやってしまったのではないか、と。

慌てて知り合いに相談し、上記アドレスの記事を削除して、何とか情報開示請求は拒否していただきましたが、ブログ運営会社の返信が来るまでの精神的ストレスは、久々に味わった重たいものでした。

なぜなら、親鸞会という団体の特殊性を、

「親鸞会教義の誤り」
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/?no=22

や、当「さよなら親鸞会」
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2012/01/post-78b2.html

などで知っていたからです。「親鸞会が夜中に脱会者の家に押しかける」という録音も聞いたことがあります。
そのような恐ろしい団体とは、今回だけでなく、今後も決して関わりたくないものです。

宗教的解釈、理解、味わいを、断定的に表現することの恐ろしさを知らされた一件でした。

ところで、なぜあのような記事を投稿してしまったのか。振り返ってみるに、どこか親鸞会を甘く見ていたところがあったのではないかと思います。

「真偽検証」
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-691.html

では、親鸞会には破邪顕正の意志が微塵もない様子が明らかにされており、
「さよなら親鸞会」「飛雲」でも同様な記事は何度も読ませて頂きました。

てっきり、親鸞会は諸々の批判を容認したものだと思っていたのです。

そこに弁護士からの突然の通告が来た訳ですから、驚かざるを得ません。

ところがよく読むと「いたずらな誹謗中傷であり、社会的評価を低下させるもの」という、反省の色のない責任転嫁の内容。これには思わず失笑させられました。「身から出た錆」という言葉をご存知ないのでしょうか。決して誹謗中傷が目的ではなく、喚起を促したものであることを、親鸞会様にはご理解頂きたいものです。

ところで、最近の

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2012/07/25/163928

には「見て過ぎよ」という言葉が紹介されています。

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『ひらく』に反応不能の
レベルの論難は
われらの相手に非ず。
聞き捨て、見て過ぎよ。
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今回問題になった私の投稿は「『歎異抄をひらく』に反論不能」ではないと親鸞会に認定されたということになります。

しかし、そもそも「『ひらく』に反論不能のレベルの論難」とはどういう意味なのでしょうか。分かりにくい表現だと思います。

私は

『ひらく』に反応不能の、
(低)レベル

の論難ではなく、

『ひらく』に、
反応不能の(常識的)レベル

の批判と解釈しています。

そう受け止めれば、確かに、常識を弁えぬ過激な表現をしてしまった、と納得がゆき、素直に反省ができるのでこざいます。


親鸞会に教義上の質問をしてもなかなか答えてもらえない、という声をよく聞きますが、ブログで公開される際の参考にでもなれば、と思い、初めて投稿させて頂きました。

長々と失礼致しました。

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