投稿:「本尊論を再考する」のブログを閉鎖してから
ぶるうのさん、お久しぶりです。
ぶるうのさんが親鸞会を退会されてから、およそ7年になりましょうか。月日が経つのも早いものです。近頃はすっかりご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
私は今も親鸞会におります。
ぶるうのさんからいろいろなことを伺って、それでもなお残っているのは私ぐらいでしょうか。
(ぶるうの註 他にもけっこうおられます)
私事ですが、思うところがありましてブログを開設しました。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/
「本尊論を再考する」のブログを閉鎖してから、私はぶるうのさんに対して協力も批判もしてきませんでしたが、今回のブログも同じようなスタンスで書こうかと思っております。
『なぜ生きる』に
> 平成七年の地下鉄サリン事件は、五千人以上の被害者を出しています。オウム信者の中には、「自分の存在意義に、正面から答えてくれたのは教祖麻原だけだった」と漏らした青年もいました。人生の目的に渇き切った心は、泥水でもすすらずにいられなかったのでしょう。
というくだりがあります。
>「泥水を取り上げるだけではダメだ。清水を与えなければ泥水でもすする」
という話を聞いたこともあります。
親鸞会は泥水である、ということを言い続けたのがぶるうのさんの7年間の活動だったのではないか、と思います。
私は、親鸞会は劇薬であると思っています。ただ、親鸞会によって苦しんだ人があまりに多すぎました。
本尊論ブログを書いて、閉じて、自分の来し方を見つめ、親鸞会と距離を置き、しかしなぜか追い出されずに居て、どうしたことか今は弥陀の本願を喜んでおります。
ただそれは、学生時代と同じように親鸞会でただ漫然と聞き続けたところでそのようなことはなかったでしょうし、あのまま親鸞会を追い出されていたらどうであっただろうか、とも思います。
不思議なご縁、といえば不思議なご縁ですが、そのご縁に対してぶるうのさんには感謝しております。
親鸞会で苦しんでぶるうのさんのところまでたどり着けた人は、かなりの葛藤や決心があったことと思います。一方、苦しんではいても本願寺に対する悪のイメージが強すぎてたどり着けない人もあると思います。
弥陀の本願は親鸞会の所有物ではなく、もちろん本願寺の所有物でもありません(そもそも物ではありません)から、もしその方が真に弥陀の本願を喜ばれるのであれば、どこで聞かれるというのは問題ではありません。
親鸞聖人がおっしゃっている通りです。
>それがしは、まったく弟子一人ももたず。そのゆえは、弥陀の本願をたもたしむるほかは、なにごとをおしえてか弟子と号せん。弥陀の本願は仏智他力のさずけたまうところなり。しかればみなともの同行なり。わたくしの弟子にあらず
私が書く言葉が、親鸞会によって苦しんでいる人にとってどのような意味があるのかは分かりませんが、何かしらの助けにでもなれば、と思っています。
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