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新潮45、2012年6月号にて親鸞会のことが掲載

新潮45、2012年6月号にて親鸞会のことが掲載されました。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/newest/

『ふたたび増殖中「大学カルト」最新事情』という藤倉善郎氏のレポートです。親鸞会だけでなく、今の大学でのカルトの勧誘事情がまとめられておりとても参考になる記事です。

ご報告が遅くなりまして申し訳ありません。

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阿弥陀様は親鸞会をやめても必ず聞法と教学の場を用意して下さる

3月18日に行われた高森会長の「仏教の生起本末」の説明が各所で話題を呼んでいるようです。

3月18日学生大会で高森会長の説明した「仏願の生起本末」の説明がもっとひどいものだった件
追記:3月18日の学生大会での、高森会長による仏願の生起本末の説明
「何が何でも三願転入の教えに結び付けたい」欲が更に加速している高森会長

これらを読んで思ったのは、「親鸞会邪義を破る」で青山さんが書いておられるこの部分についてです。

仏願の本末とは仏願の因果ということです。

仏願の本 = 仏願の因本
法蔵菩薩(阿弥陀仏の因の位のとき)の発願修行。自分の力では生死を出離することのできない我々を救うため、菩薩は本願を起こされ、永劫の修行をせられた。

仏願の末 = 仏願の果末
因位の願行が成就して果成の阿弥陀仏となられた。願いの通りに十方衆生を育て導き、現に人々を救いつつある。

真宗学の基礎の基礎で疑いようのない説明です。当然高森会長も昔はこういう説明をしていた記憶がありますし、長く親鸞会で話を聞いている人もわかっていると思うのですが、問題はそれでも高森会長の新解釈(珍解釈?)を黙って受け入れてしまう事です。

親鸞会の会員も「驚くべきこと」と感想を述べているし、今までとは違うという自覚はあるのでしょう。しかし、そこに「どうして突然今になってこんな事を」という疑問がない。これは教行信証などの原典に接することを怠り、教義解釈を高森会長ただ一人に依存しきっているからです。

東西本願寺にもトンデモ珍解釈をする学者は沢山います。中には高森会長が可愛く思えるくらいひどい事を言う人もいます。しかし東西本願寺が親鸞会と違う点は、いくらでも他の学者の説を読んだり原典をあたったりして、正しいかどうかを確かめることが出来る事です。変な説は淘汰されますし、行き過ぎた解釈は元に戻されます。

親鸞会は存在自体が高森会長の無謬性によって成り立っていますから、そこに疑問符をつけてしまうと親鸞会自体が空中分解してしまいます。高森会長以外に原典を読める人もいなければ、語れる人もいないし、学べる人もいない。もちろん、高森会長を超える人間など出るはずがなく、必然的に衰退するしかありません。

私は、親鸞会にいた時はここの最高の強みは教学だと思っていましたが、それは強みではなく一番のウィークポイントにほかなりませんでした。そして高森会長は学生レベルの教学力もない人でした。いや、昔はひょっとしたらあったのかも知れませんが、長年「善知識」のトップとして君臨してきた慢心がそうさせたのか、少なくともその後の研鑽は殆どしてなかったのでしょう。

親鸞会の教学は仏教学や真宗学のほんの一部分しか扱いません。七祖聖教どころか、浄土論註といった最重要と言える聖教を学ぶこともない。いや、そんなレベルではなく、ご本典である教行信証ですら原典講義が全くなされていない。観無量寿経については「王舎城の悲劇」というアニメだけで本当に終わってしまう。一般の門信徒はそれでもいいかも知れませんが、講師部員や教学部員はどこまでその事を自覚しているのでしょうか。それでも、真宗学はまだマシです。仏教学は「全く何も学ばない」に等しいのですから。

真宗学、仏教学という大海を前にしてホンの一匙の海水をすくっただけで、講師だの大講師だのと「教学ゲーム」を繰り返し、他宗派の学者を批判し、返事がないといっては自らは正しく他は間違いだと決めつけ、足元の自説の正邪を全く省みることなく、ただただ井の中の蛙で自惚れている。それが偽らざる親鸞会の姿なのです。

昨日聞法に行ったお寺でのこと、途中で仕事があったので帰ろうとする私に、隣に座っていた御同行が言われました。「阿弥陀様はたとえ臨終でも聞きたいという心がある人には必ず聞法の場を用意して下さる。気をつけて行ってきなさい」

私も親鸞会の方に申し上げたいのです。「阿弥陀様は親鸞会をやめても必ず聞法と教学の場を用意して下さる。勇気を出して山をおりなさい」と。

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