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投稿:自分は信仰と真実を取り違えていたことに気が付きました

自分は2008年ぐらいに退会しました。退会を決断することができたキッカケは、「なぜ親鸞会をやめたのか」と「さよなら親鸞会」の記事の内容を読んだところが非常に大きかったです。

そこで表題の件となりますが、さよなら親鸞会の中では、以下2つの記事が自分にとっては衝撃を受けました。

高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです

信仰と真実

2007年の初め頃、2ch経由でなぜ親鸞会をやめたのかを読み始めたのですが、最初は親鸞会は正しいとバリバリに思っていて、どういう誹謗中傷があるのかと興味本位で読み始めました。

その中でまず最初に気持ちが揺さぶられたのは、教義的な話ではなく、俗物的な話であったり、パクリ問題でした。

初めは証拠を実際に見たわけではないし、本当かなあと疑いの心で読んでいました。しかし、確実に今まで強固にあった信念というか信仰というか何かが崩れかけた気がしました。初めは小さかったですが、会長に対する疑念が確実に芽生えました。今までは絶対にありえなかったものでしたので、小さい疑念でありましたが、大きく気持ちが揺さぶられたのだと思います。

そしてしばらくして大分疑念が大きくなっている頃、この”高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです”という記事が出た時には、これは自分の中でもう信頼できない!という決定打になりました。言動と信心は関係ないとは言っても、心から行動が出てくるということを散々聞かされていた者にとっては、到底納得できることではありませんでした。

講師部や教学が得意な方にとっては、教義的な誤りに衝撃を受けるのかもしれませんが、教学が素人同然の自分にとっては、親鸞会の洗脳から目を覚ますキッカケとしてパクリ問題が非常に大きかったです。ですので脱洗脳の決定打となったこの記事をまずピックアップしました。

そしてもう一つの記事は、その後の気持ちを整理する上で大きなものとなりました。親鸞会を退会したのはいいですが、因果の道理、後生の一大事、阿弥陀仏などについて親鸞会の教義をすべて捨てることができた訳ではありませんでした。むしろほとんど教義的には親鸞会教義のまま頭に残っていました。よって親鸞会を辞めたからと言っても、後生の一大事が重くのしかかってくるのです。これは多くの人が体験することだと思います。

そこで退会された元講師の方たちに話を聞いたりしました。確かに親鸞会とは違う教義だと思いましたが、だからと言ってこちらが正しいのか自分には本当の所は判断できません。

何か指導者的な人から話を聞いてそれに従って生きている。自分で考えず、まずは真実を知っているであろう人から聞いたことを何とか信じよう、結論ありきでそれを納得する為に論理を組み立てていく。

今度の結論は真実かもしれないが違うかもしれない。それよりも信仰過程が親鸞会とまったく同じだ。確かに教義の内容は変わったが、本質的には親鸞会と同じような生活にまた戻っているのではないだろうかと不安になってきました。

活動量、拘束時間、お金の出費は減ったが、何か同じようなことをしている。漠然とそんなことを考えていました。

多分そんな時だったと思います。この”信仰と真実”の言っていることが心にストンと入ってきた感じがしました。

”信仰と真実”は実は最初あまりピンとこなかった記事でした。それどころか若干反発さえしていた記憶があります。

これは「なぜ親鸞会をやめたのか」にも書かれていた同じような内容でしたが、例えば、”私は「『親鸞会の教義が大宇宙の真理だ』と主張は、信念により信じているに過ぎないのでは」といった内容を書きました。それは、私が多くの先輩に質問しても、どうしても、論理的に理解できないことが、少なくなかったからです。それは、「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間地獄」「阿弥陀仏」といったことです。多くの学生が同じ疑問を抱いています”などです。

まさに”信仰と真実”の中に書かれているように自分は信仰と真実を取り違えていたことに気が付きました。真実だから信仰していたと思っていましたが、実はその前提自体が間違っていて、別に真実だからではなく、仮定の話を、何となくの正しく見える論理を元に真実だと思い込んでいたのだと気づきました。

そもそも信仰とは仮説を信じている状態であるのに、真実を信じていることを信仰だと思っていたのでした。

ちょっとしたパラダイムシフトのような衝撃を受けたのは、絶対的な真理だと思っていた因果の道理って確かに科学的に証拠があるわけではないなという気づきでした。

全くあり得ない発想でした。後生の一大事や阿弥陀仏はまだ分かるが、因果の道理が反証不能なものだとは考えもしなかったことでした。おそらく科学的な因果関係の話と親鸞会が説く因果の道理をごっちゃにしていたのだと思います。

どうやら脱会してもまだ思考停止していたみたいだと気づきました。あらためてこの記事を読んでから、やっと自分の人生を少し取り戻せたような気持ちになりました。そこからやっと親鸞会の洗脳から解放されてきたと実感しました。

間違っているかもしれませんが、今現在自分が納得していることは、つまり本質は、教えられている内容が真実かどうかよりも自分が本当に納得してやりたいから行動しているということが重要なのではないのかということです。

人生のコントロール権を自分が持つということです。他人の教えに従って動くのではなく、自分の本当の意思で動くということです。

結果がよくなくても自分が選んでやりたいからやったことだから、責任は自分が取れる。他人の指示で動いて結果がよくないと他人を恨みますが。自分の責任の元に決めて動いたことなら後悔はないです。

要は他人に人生を握られている不自由が苦しみを生み出すのではないのかと思います。苦しくても自分が決めたのなら精神的な苦しみは少ないです。

でも他人に人生を握られているのに、自分で決めた人生だと思い込んでしまうこともあると思います。

嘘や後ろめたいことをやったり、本当はやりたくないが自分の本当の気持ちを押し殺してしまうと、本当の気持ちがどこにあるのか分からなくなってくると思います。

又、思考停止も良くないですが、頭で考えすぎると本当の気持ちを間違うのかもしれません。考えには、今まで聞いてきた間違った教えや知識なども入っているからです。

だから自分は間違ってきました。苦しくても、正しいと思える理屈を優先してきました。苦しいのはやり方が間違っているからだと思っていました。正しいと思える理屈自体は疑わずに。

そこで、この記事で気が付いた大きなことはここでした。それは、今まで自分が思ってきたものの中には、真実と信仰をごっちゃにしているものがあるかもしれないよ、ということでした。

本当に今ある知識や信仰や考えは真実を元にできあがっているものですかと。仮説を何となく正しいからというあいまいさで真実に格上げしていないだろうかと。

だから色々と自分の考え方などを洗い直しました。

そして重要だと思ったのは、仮説を元に行動していることは、それは真実ではなく仮説として正しいだろうと思っているのだとちゃんと認識するということです。

仮説を真実にしてしまうと、ゆるぎないものになってしまって、自分の行動を縛ってしまいます。または他人にも押し付けたり、押し付けないまでも腹がたってしまいます。仮説なものは仮説と認識した上で信じることが大事だと思います。

何かを信仰すること自体は悪いと思いませんし、何かの正しそうなことを人生の指針として生きることは悪いことだとは思いません。それどころか世の中科学的に証明できるないことは一杯あります。

いちいち真実と証明できるものにしか従わないということでは、生きていけません。

そうではなくて仮説を前提にしているということを忘れない態度が大事だと思います。

仮説だという態度であれば、方針転換できます。悪い結果が返って来たら、仮説である前提自体が違うのではと目を向けることができます。

人生は失敗したらそれを教訓に学んで調整修正していくものだと思います。

しかし前提であるものを仮説ではなく真実としていたら、それ自体に目を向ける発想自体が出てきません。仮説自体が間違っているかもしれないのに、やり方が間違っていると思っていたらいつまでも苦しみや逆境から抜け出せないかもしれません。

他人の話、成功者の話、本やTVで言うことを参考にしてもいいと思いますし、親鸞会の中で教えられたことの中に有意義なこともあると思います。ただし、すべては仮説だということを前提にしておく方がいいと思いました。

だから真実を説くと思われる方の話もあくまで仮説であり、真実から出た言葉であっても言葉になったり、自分が受け取る時点ですでに真実ではなくなっているのだから、ある一面を現している仮説であり、それを信じることは信仰であると認識する。そう思うようにしてから、心が軽くなりました。

仏教でも宗派によって教え方が違う。でもどちらが間違っているのではなくある一面のことを言っているのだと思うようになって、あまり構えず色々な意見を本なり話なりネットなりで参考にすることができるようになりました。

ある人のいうことを真実だと思ってしまうと、その人や本の著者に人生をコントロールされてしまいます。ですので、自分の心に共鳴できたものは仮説として一歩引いて色々参考にしていくぐらいの態度をとるようにしたら、身構えず楽になりました。なぜなら他人の言うことが絶対的なものではなく、自分で人生を選択できるような気がしたからです。

もちろん浄土真宗にはとてもまだ関心がありますが、他の仏教の宗派の本を読んでみたり、宗教は置いておいて、普通の一般書や心理学、哲学や経済なども学んでいます。

今の所、宗教(元講師なども含め)に関係するのはもうやめておこうと思っています。もちろんまだ先のことはわかりませんが。今のこの時の目の前のことを当たり前のように人間がすることを着々と行って、今の状況でできることやりたいことをやるだけです。

ただ、これが本当に正しい生き方かはまだわかりませんが、さよなら親鸞会の記事を読んで、どう自分の心が軽くり解放感を得たかを書かせていただきました。

今の所、自分の人生を取り戻せたと解放感を味わっていますが、この先どうなるかはわかりません。でも親鸞会を脱会したことに後悔は全くないので、そう間違ってはいないのではないかと思います。

何よりも主体性をもってこの先、生きていくことができるかもしれないという可能性があります。これは親鸞会に入る前にもなかったことです。

でもこれは個人的に良かったということに過ぎないので他人には他人の生き方があると思いまし、今の所は解放感がありますが、今後どうなるかわかりません。やっぱり真実が分かっていると思われる方の言うことを無条件服従して行って言った方が幸せになるのかもしれません。それはわかりません。

でも今は親鸞会に入る前や入っていた頃より充実感があります。これは「なぜ親鸞会をやめたのか」と「さよなら親鸞会」のおかげです。もし読んでいなければ未だに親鸞会で苦しんでいたかもしれません。

本当に有難うございました。おそらく自分には想像もつかないくらい親鸞会を批判することは大変だったのだと思います。その中今までずっとブログだけでなく、色々カルト宗教対策の活動をされているようで頭が下がる思いです。

自分は何もできないですが、まずは自分の人生をしっかりと立て直すことが今は一番大事だと思っています。

やめてから数年仕事もやめ引きこもってしまい、それは暗い日々でした。でもやっと動き出すことができました。今振り返ると色々と学べたことも多いです。

今はもう親鸞会や色々なことに対する恨みや怒りなどほとんど気にならなくなり自分の人生に向き合うことができるようになったと思います。

ひとつだけ付け加えて頂きたいのは、退会したときに精神的な苦しさを元講師に方に助けていただき大変お世話になり、今でも感謝をしています。

もしかしたら文章力がないがために、元講師の方を悪く言っているように読めるかもしれませんが、そういうつもりは全くありません。自分の方が正しいということでもありません。間違っているかもしれません。

ただ自分に合った生き方を自分で決断して生きていきたい、というのが趣旨です。もし不快に感じられる方がおれたら申し訳ありません。

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コメント

投稿の方、自分の足でゆっくりと歩んでください。
私は親鸞会に「利用されている」と気づき、睡眠薬自殺をはかった者です。生還したとき自分はこれからどう生きようかと思いましたが、家族に恵まれ、これだと思える仕事につき、自分の足で立つ喜びを噛みしめています。親鸞会脱会の方にオススメなのは、読書と映画です。脱会したばかりの時は宗教はいやだと思っているでしょうから。少しずつ涼しくなってきましたし、何も考えず散歩もいいですよ。人生を大切に

投稿: | 2011年9月12日 (月) 07時42分

睡眠と読書は確かにいいです。長い間の親鸞会の癖は染み込んでますが、すぐには無理でも変えていかないとね。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 08時01分

私と同じような時期に脱会され、ご同慶です。私はその後特別苦しんでいませんが、投稿の方は直後かなり苦渋されたようで、文面から誠実で真摯なその人柄がうかがわれ、お察しすると共に胸が痛みます。

同じように人の苦しみに、心を添えるくらいのデリカシーを、この会長親子が持ち合わせるなら、こんにちの会のこの体たらくになっていなかったのかも。

今は平常心を取り戻されて間もなく、確かに会への批判も強くはないでしょうが、今後もネット情報を見てゆかれるなら、教義誤りの隠蔽、運営(ネット対策等)等の傍若無人、無神経さ、詭弁、捏造等に、怒りが増してくるのでは?

こんな信義もデリカシーも無い輩共には、綺麗ごとなど必要無いと思っています。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 08時21分

散歩がてら本願寺に行ってみて下さい。
すべて自然体で、なんの押し付けもありませんし、自由です。
自分がいまどうしなくちゃいけない、などという圧迫感のようなものはこれっぽっちもありません。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 08時24分

私は学生時代、激務な活動で体調崩し、三日間ずっと寝てました。
もったいないと思うかもしれないが、それだけ激務だったのです。
私は基本的に時間になったらすぐに帰りたいタイプでした。
しかし会合終わっても、ダラダラ話込みで話が終わらず、知らず知らずのうちにストレスがたまってたんだろうな。
この三日で完全にやる気をなくし辞めた。
親鸞会をやめる人ってほとんどが常識はずれの出費と激務です。
それに気づかないんだよな。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 20時48分

うーん、脱会過程において心がどう変化していくのかを投稿者は見事に描写されましたねー。実体験には説得力があります。拝読させていただきながら「そうだ、そうだ」と共感しました。素晴らしい!!!このような投稿はきっと多くの現役会員や講師の救済に繋がるでしょう。

投稿: 元弘宣部職員 | 2011年9月12日 (月) 21時24分

親鸞会の排出母体は学生部だが、団塊世代ジュニアの現在の35歳から40歳くらい。その世代の学生の時が一番入会者が多かった。
私が知ってる限りでは講師部に10人くらい希望していた。実際に進んで今も講師をしてるのが二人くらい。職員に進路変更が二人くらい。あとは辞めた。 親友部って女性でも数名すすんだがみんな辞めてしまった。
親鸞会には自由がない。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 22時07分

一番多かったのは、激務で倒れてそのままこなくなった。
親鸞会が得意なのは下宿訪問。しかも訪問時間が会合終わる夜の11時。大迷惑。無視無視無視。

投稿: | 2011年9月12日 (月) 23時24分

脱会者の方に、脱会おめでとうございます。
脱会してから、週末を過ごすのにサイクルがかなり変化しますから、何年間も会員歴があれば戸惑う人も多く、完全に近く親鸞会矛盾を知り、完全に近く自身の人生の障害物と認識して離れたなら新な出発です。
昔の会合で、講師の話で、 講師が参加した合宿での指導で、( 顕正は、日露戦争の陸軍のように、一人一殺でやるのです。一人が一人を顕正して入会させます。)
この講師は、一週間前に参加の講師合宿での、指導者からの、指導された事を会員の会合で指導していました。
親鸞会は、高森さんは、まだ頭は戦争状態なのですかね。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 03時36分

しかし現代社会で、親鸞会の活動 ( かなり正常化(昔と比較)した現在でも )は異質ですね。人間は孤独ですから、カルトと知っていても離れたたら、誰もかまってくれないから、離れたくない人もいると思います。
結局のところ、去るべき業縁が来ないと、脱会も入会も形となって現れません。
親鸞会の750回忌の参加人数と参加費は注目ですね。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 03時57分

さよならの威力がよくわかる投稿ですね。さよならの記事がなければそれぞれ何年も脱会者の中でくすぶり続けるようなことが、記事によってずばり突きつけられるということを、おそらく投稿者の方は経験しておられるのでしょう。ともあれ、本当に親鸞会の呪縛から解放されるに至られたようで、おめでとうございます。

さて、教義の問題よりも俗物話やパクリ問題、という話がありましたが、おそらく親鸞会をやめるとき私たちはみな「もうここではやっていられない」と思うに至ってやめるわけですが、そういう意味ではみな実践上の問題でやめようと思うのではないでしょうか。実践の問題を教義の問題として解釈する(そういう言葉に翻訳して理解する)ことも可能でしょうけれど、それはおそらく思考スタイルの問題にすぎないのかなと。まず第一には実践上の問題に直面して「やめよう」と決意し、そのあとで教義や世界観の問題にじっくり時間をかけて臨むと、そういう過程を辿るのではないでしょうか。親鸞会の世界観が抜けていない段階でも、とにかくここに居てもどうにもならないと、そういう確信が生まれる。それが脱会への第一歩になる。

だから、会長の俗物話やパクリ問題の話というのはじつはとても重要なのだと思います。つまり、これを知らなかったら脱会を決意するのが何年も遅れるような、そういう種類の話なのだろうと。じじつ私はこれらのことを脱会後何年も経つまで知らなかったし、実践上の問題に直面してから脱会を決意するまでの時間もかなり長い期間かかりました。私自身は全く別のきっかけで高森会長のことを「くだらない」と思うようになりましたが、これらの話を知っていたら逡巡する期間はもっと短かったと思います。

その後、親鸞会の世界観を「抜く」段階がやってくるわけですが、いちど脳にインストールされたものを抜く作業は簡単ではありません。大概はものすごく時間をかけて、いろいろ本を読んだり何かして、親鸞会の語彙をひとつひとつつぶしていく作業をするのではないでしょうか。その段階で何等かの脱会セラビーのようなものが必要となるでしょうし、そのためにたとえば哲学書(とくに20世紀哲学)などはとても有益なものだと思います。私は柄谷行人を読みあさりました。ただ、皆さん実感がおありだと思いますが、こういうことは時間も手間もものすごくかかります。しかし、それに対してもさよならは「信仰と真実」の記事などにおいて反証可能性と仮説の問題などがじつはとても的確に提示されていたりするわけで、そこがすごいなと。

もちろんすべてがこちらにそろっているわけではないでしょう。ここにあるのはあくまで必要条件であって、それを十分条件にまで落とし込むにはやはり僕ら一人ひとりが探求し見つけていかなければなりません。しかし、そのきっかけが一通り揃っているというのはとても意味の有ることだと思います。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 04時37分

親鸞会は激務だから辞めた、お金お金とうるさいから辞めた、というコメントはメリット、デメリッありますね。
親鸞会教義にどっぷり浸かっている人が聞けば、「後生が分かってないからそんな理由で辞めるんだ!そんな人が書くコメントなんて見るに値しない。後生の解決が遠退くだけ」となるでしょうし、辞めようかどうか悩んでいる人には共感を得られるかもしれません。

親鸞会の教義の問題や会長親子の人間性の問題、組織の問題はこれからも訴え続ける必要があるでしょう。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 07時40分

パクリものを知らぬ顔で売ってぼろ儲けし、「命がけで真実を伝えいてる」という人がいる。
信じられる人がいれば驚きです。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 10時33分

先日、鷲のついた円盤みたいな建物の写真の絵はがきが来て、「高森先生は真実を叫び続けておられる」とありました。
おかげさまで、親鸞会はまがう方なき邪教の風格を備えるに至ったと知ることが出来ました。
これが浄土真宗とだまされる人がおられるとしたら、これもまた一つの驚きです。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 11時09分

伝統宗教と新興宗教を混同するのは仏教でもキリスト教でも同じです。日本人は宗教を知らなすぎるのです。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 19時15分

見解の相違だろう。
親鸞会から言わせれば、激務や金がないから続かない?のは教えがわかっていない。と。
しかし、聞き始めの人は教えがわかる前につぷれてしまう。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 19時52分

チャリンコ秘事の犠牲者がこんなところに…
清森上田の罪は重い。

投稿: 絶対のやまぐちりこ | 2011年9月13日 (火) 21時32分

てか真宗僧侶のblogって感じじゃないよなココ……

お西の信徒だからよく知らないが、お東ってこんなもんなんですか??

投稿: 河西智美が最近中西里菜に似てきた件 | 2011年9月13日 (火) 21時47分

まあ、人生はひとそれぞれ、個人の選択の自由と言ってしまえばそれまでか。

やまぐちりこがDVDで、着れなかった「言い訳Maybe」の衣装のパチモノを着せられてシテるのを見ると胸を締め付けられるが、あれはあれで彼女の人生なんだと思うほかない。
それと同じだよね、言うなれば。

投稿: やまぐちりこは今でもたかみなから貰ったリボンが「私の宝物」だそうだ | 2011年9月13日 (火) 21時58分

>私は「『親鸞会の教義が大宇宙の真理だ』と主張は、
>信念により信じているに過ぎないのでは」といった内容を書きました。
>それは、私が多くの先輩に質問しても、どうしても、論理的に
>理解できないことが、少なくなかったからです。
>それは、「反証不能な因果の道理の真実性」や
>「三世」「必堕無間地獄」「阿弥陀仏」といったことです。
>多くの学生が同じ疑問を抱いています。

これこそまさにその通り。
信仰に過ぎないものを、真理だとする思考がカルトではないだろうか。

親鸞会の一番の問題点だとおもう。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 22時58分

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