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投稿:だから、私は、高森先生の全てを否定したくはないのです。

親鸞会では、「善をする」のではなく、「光に向かって進む」のだと教わります。「自力一杯求める」のではなく、「他力を聴き抜く」のだと教わります。「善をすれば救われるのか?」と聞かれたら、「信仰が進めば、(必ず信心が徹底して、自力の善は往生の資助にはならぬと)分かります」と答えよと教わります。

じゃあ何でこんなに活動や献金を熱心に勧められるのか?うまいそばを食ったら、人にいわずにおれぬように、無上の法を聞けば、人にいわずにおれんでしょうと、そういう意味で、「財施の多寡は、法施の多寡による」んであって、強制すべきものではない、と教わります。

また、目標は、あくまで自らの意思で設定する「赤い石」であって、これまた強制すべきものではない、と教わります。さらに、財施は、その絶対的金額の多寡ではなく「精一杯が尊い」のだと教わります。

助かりたいと思ったら活動・献金せよ、と言われたことは、私の記憶ではなかったと思います。だから、私としては、宿善を求めよということは、熱心に聞法せよ、ということとほぼイコールだと聞いていました。

ところが、実際には、助かるにはまず法施や財施で成果を上げることだ、という風潮があったように思います。その原因は、会自体が「善」を勧めるのではなく、「人集め・金集め」を推進する体質だったことにあります。

講師部員は、顕正戦の終期が近付くと、目標達成のためなりふり構わない行動に出ることがしばしば見られました。そういう自らの言動を正当化するためだと思うのですが、「法施や財施を頑張ることは、仏法を求めることで善になるが、仕事や勉強を頑張っても、それは生きるためにすることで、求道の妨げになる必要悪だ」などという趣旨のことを思ったり言ったりしているように感じました。目標が自主的なものではなく、強制的なものか、あるいは生活のかかったものであることは、傍から見ていても明らかでした。

私は、法施や財施は宿善になるが、その他の善の実践は宿善にならぬなどということには根拠がなく、聞き間違いであろうと思っていました。

それで、私は、高森先生は真っ当なのに、その下に無茶苦茶な運用をしている連中がいると、そのように思い込んでしまいました。実際、講師の方でも、末端の会員でも、この人本当に分かってんのかなという感じのする人もあれば、この方は本当に真剣に救いを求めておられて、しかも良識が備わっておられると思われる方もあって、それは、会の中での地位には余り関係ないように感じられていましたから。

でも、聞法ドメイン計画が発表されて以降、何かおかしい、と思い始めるようになりました。それと並行して、さよなら親鸞会で、衝撃的な記事が出てくるのに接し、少しずつ、親鸞会から離れようという気持ちが強くなっていきました。

まず、何といっても、「次第にその迷雲も晴れ」が驚きでした。しかし、こんな信心のまま、あんな布教ができるのか?という疑問もあり、この問題は、私にとっては、信心に対する疑問というよりも、「この人は、なぜ、華光会を、土蔵秘事に類するものなどと批判しているのか?どういう感覚をしているのか?」という疑問になっていきました。

その後、聞法ドメイン財施の規模と内訳を見て、呆れました。正本堂の絵画の高級さにも違和感を感じていたところに、本尊の原価が無茶苦茶に安いことが指摘されるに至っては、この人の意図がどこにあったか、もう否定できなくなったと思いました。アニメのパロディで、「この前は正本堂やったし、今度は同朋の里じゃ。何だかんだと、とりよる」とあったのも、もはや笑えませんでした。

この時点で、親鸞会に献金する気持ちは完全になくなりました。

その後の建築関係の情報に接して、驚きました。これは本気で業者さんを怒らせたとしか思えない、親鸞会はこんな団体だったのかと、ショックでした。やってることは、講師部には偽装請負親友部にはサービス残業強制、そうでいながら、あんな無駄な会長専用施設を建て、しかもそれを必死に隠すなんて、とんでもない話です。

高森先生は、会員のことなど考えていない、自分のために献金させていただけだ、という確信が生まれるとともに、「私の白道」を読んで、教義上にもその点の影響があるのではないか、と感じ始めました。しかし、その点にハッキリした整理をつけるには至らないままでした。

そのような時期に、「ある老人の孤独な家出」を読みました。これは、本当に衝撃でした。不倫事件があっても光晴さんを除名せず、家族のためだけに行動して、自分を人格者のように宣伝し、会員に献金させてきていながら、最後に、こういうことを機関紙に書くのかよ、冗談じゃない、勘弁してくれよと、そう思いました。

正本堂でカラオケ」事件は、比叡山の根本中堂で、坂本冬美が演歌を歌っていたことを話しておられたことを思い出させてくれました。この人、仏法を何だと思っているのだろうと、そういう気持ちになってきました。

そういう心境で、「飛雲」を読みふけりました。

読むのにも理解するのにも時間がかかりましたが、ある程度のところで高森先生が意図的に浄土真宗の教えを改変し「善の勧め」をはじめたと感じられたので、退会するに至りました。ただ、もう会にかかわる気持ちがなくなって久しく、疑問を感じたからやめたというよりは、退会のきっかけになった、というのが実際です。

それにしても、大沼法竜氏の本をタネ本にしておきながら、「本派本願寺の危機 どちらが異安心か」の三三法門の記述を改変し、「方便より真実え 浄土真宗」の善の勧めの記述を改変してまで、善の勧めを強く打ち出すというのは、全くの確信犯としか思えません。山賊より重い罪を犯しているのは誰なんだと言いたいです。

しかも、平成12年頃の「教学聖典」改訂も、断章主義的に、善の勧めを会員に刷りこむ試みの一環だった疑いが濃厚で、さらに、七祖聖教を読むなというのも、選択本願念仏集を読むと、善の勧めのない法然上人の教えと三願転入の教えの整合性を問われて、回答に窮するからではないかと思われ、なんということだという気持ちばかりが強くなっていきます。

ただ私は、そう思う一方で、自分が、まともな飯を食えない日ばかりで、徹夜続きで、辛い労働に耐えて、必死になって親鸞聖人の教えを求めようという気持ちになったのはなぜか、運命は自分で作るしかないものだという信念を持つようになり、生き方も性格も大きく変わってしまったのはなぜか、そう考えると、やっぱり、浄土真宗の教えは素晴らしい教えなんだぞと教えてくれたのは、高森先生だったなと思うのです。

人は、生まれたときには、自分で決めたわけでもない、ある状況の中に否応なしに投げ込まれ、しかも、様々に関わってきた全てのものを失う死に向かって進んでいくというのは、ハイデガーの言ったことらしいですよね。

そういう人間の置かれた状況と、極楽に往生すべき身になる意義とを、簡潔にあらわすたとえは、浄土真宗で、真剣に救いを求めた者でないと作れないのではないか、と思うのです。

だから、私は、高森先生の全てを否定したくはないのです。でも、現状、何か信じられる点があるとすれば、それは、信心しかありません。信心を得た喜びから布教を始めたものの、名利のために教義を曲げてしまい、長年のうちにズレが大きくなり、やがて修復不能になってしまった。でも、もともとはそういう意図ではなかった、そう信じたいのです。

私は、高森先生が、「私が名利のために行動するようになったら、私を顕正して下さい」と言われたと聞いています。

だから、高森先生には、今起こっている批判に対して、これは「破るべきもの」ではなく、「傾聴に値するものだ」と真摯に向き合って貰いたい、そして、できることならば、会員と会員であった者全員に謝罪した上で、誤りを全て改めてもらいたい、という気持ちがあります。

しかし、「19願は雑行の勧めだ」、「三願転入は万人が三世で通る道程だ」、「一念で三重廃立する」と言い張っているようでは、困ったものだと思います。誤りを改めて、親鸞聖人の教えを正しく伝えることよりも、善の勧めを守ることが大事なんだろうかと思ってしまいます。

この頃は、もう高森先生のことは考えたくないという気持ちになっています。ただ、どんな人であれ、自分にとっては、恩のある「先生」であるということに変わりないと思っています。

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コメント

>この頃は、もう高森先生のことは考えたくないという気持ちになっています。ただ、どんな人であれ、自分にとっては、恩のある「先生」であるということに変わりないと思っています。

元会員のものです。
上記の部分は個人的にはとてもよく分かります。

高森会長や親鸞会はひどい、と思う一方で、
そうは言っても、仏教、浄土真宗と引き合わせてくれたことには
感謝している、という思いはあります。

親鸞会を批判している、元会員の中にも、
このような思いでいる人は少なくないように思いますが、
いかがでしょうか。

しかし、こういうことを講師や現役会員に伝えても、
「何を言っているか、この恩知らずが、感謝の思いなどウソだろう」
と言われることが多いです。

講師や現役会員の人には、こういった退会者の気持ちは、
理解できないものなのでしょうか。

投稿: | 2011年9月 2日 (金) 23時37分

退会して半年位はこの人みたいな気持ちになったが、段々そんな気持ちは
なくなり、許せないという気持ちが強くなったなあ。会長はもともと金目
当てだと思うし、世間に対してのコンプレックスというか恨みみたいなの
を感じるなあ。なんか個人的な世間に対する復讐みたいのの片棒を担がさ
れたかと思うと本当に自分が許せないし、気分が悪くなる。ただ
ややカルト新聞を見て大川某の記事を読んだけど、
こいつに比べればまあ高森会長はましな気がする

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 00時11分

高森会長には、直接に関わり指示を受けるは、限られた講師、有力会員を除いて有りません。私は高森会長の事はコメントで書いても、一直線の怒りより、高森さんが親鸞会の代表としての憤りになります。
さまざまの人がさまざまの立場( 会員年数・脱会までのお布施の金額・所属の役・扱い )
での憤りです。私の場合は、元から高森さんを(講師の高森話)全く信じていませんから高森会長に怒りより、講師や所属幹部の言動に腹立ちがあります。
なぜ高森会長を信じていなかったと書けば。
高森さんの卒業された大学のレベルで、書ける文章ではありません。
現在の大学受験のセンター試験で判断しても、高森さんは書けません。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 01時08分

高森会長の卒業大学では、・・と書きました。それでは大学に失礼ですので、今一度説明します。
高森会長が大学卒業後に何歳で書いたです。
会報の5集は、かなり若年での執筆でした。
素晴らしい内容です。
あんな文章と組織運営のお粗末差の開きが有りましたから、私は高森会長を信用しませんから、現在盗作が暴露されても、腹立ちも有りません。
結局は、高森会長は世間的な誘惑に負けた人ですね。
自分の能力では到底書けない文章を盗作で、自分の文章にして自身を拡大させ会員を欺き。
終戦記念日も過ぎましたが、高森会員も人間宣言( 信前 )したらどうでしょうか。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 06時33分

親鸞会高森会長高森会長親鸞会共に前後するだけです。
親鸞会会員時代は、所属する組織内での会員同士は、一応特別( 世間的な人間関係を離れた )な関係にありました。
親鸞会に属さなければあり得ない関係と思います。内容は多種です。
親鸞会・会員時代を振り返り、楽しい思い出もありますから、親鸞会全体を全否定は無理です。
何より浄土真宗とのご縁が与えられましたから、感謝の気持もあります。
子供が成長して、親の間違いを子供が指摘して正すのは、これ以上の親孝行はありません。
さよならのコメントの書き込みも、最高の親孝行と思います。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 07時04分

>自分にとっては、恩のある「先生」
確かに、浄土真宗を求める縁にはなったですね。

ただこの男に恩を感ずる感覚は、他の諸悪を薄めてしまいかねませんね。
日がたつごとに、憎しみが増すといった脱会者も決して少なく無いと思います。

ここまで来ても、改める様子も窺えず、傲岸不遜を繰り返す輩共に、謝罪など望むべきもないことでしょう。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 11時06分

今回台風12号が高知に上陸した。台風の影響で、大雨や浸水、強風などの被害が出てる。
公共交通機関や高速も止まってる。
明日には台風は去るだろうが、それでもやるのかな。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 11時07分

高森会長はこれまで常人にはできないような努力・苦労をしてきていると思う。私利私欲ではここまでできないのではないかという努力をしてきていると思う。しかし、一方でそれらの努力が水泡に帰すような不始末を多々犯している。因果の道理が徹到した人のはずなのになぜ、というようなことを。まことに勿体無い気がする。深刻な自損損他となっている。

投稿: 広島の名無し | 2011年9月 3日 (土) 13時06分

書いてある通り。高森会長は、今まで相当な努力をされ、今の親鸞会にしてきたと思います。
ただ、高森会長の側近の方が亡くなられ、会長にモノを言える人がいなくなったのも衰退をまねいた要因です。高森会長は善知識やからだれもモノを言えない。言ったら除名やからね。
亡くなられた○○最高顧問や○○事務総長は会長より年上で一般社会でも成功された親鸞会発展の功労者です。
直言できる人がいないのも問題なんですね。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 13時30分

会館は、前田町の会館から本部は芳野の会館にうつり、昭和末期に小杉にうつり2000畳ができた。
時代の変化もある。 芳野の会館(今の高岡会館)が本部の頃は車がまだ普及しておらず、高岡駅からも近かったから、電車でも参詣もしやすかったな。
小杉にできた頃は自家用車も普及し、タイミングよく移転できた。
2000畳ができたときは、急激なご報謝増加、富山に建物の集中、全国法話がなくなったこと、親鸞会先行不透明さ、インターネット批判で、一気に衰退した。 2000畳は高森会長の夢だったんだろうが、そのさきの将来性を見込んでなかったのがミステイクや。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 13時58分

高森会長は私利私欲が特別強かったからこそあそこまで努力ができたのだと思う。「仏とも法とも知らなかったお前にご縁を与えてくだされた御恩を忘れたか」というのが会の言い分。まず恩を着せて心理的に反発できないようにする。会長から恩など受けていないし、仮に受けたとしてもとっくに返し終わっている。会員が会長から受けた恩より会長が会員から受けた御恩の方が比較にならないほど大きいと思う。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 15時40分

親鸞会の拡大は会長の努力もあるが、○○最高顧問○○事務総長の力が大きいです。
会員のみなさんの努力のおかげです。
息子さんみたいにふんずりかえったらソッポ向かれます

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 16時35分

恩とは着るものであり、着せられるものではありません。
恩知らずの言葉も、言っても万人が認める人が言う言葉と認識します。
言うに値する人は、絶対に口にしませんと認識します。
(仏とも、法とも )の言葉も意味は深いです。長期間親鸞会幹部で在籍した講師が、なんらかのトラブルで、親鸞会を去りまして、ネットで経緯を発信して(仏とも、・・)も、私もこんな気持だから、私にもこんな気持での、誘導の意味もありますから。もしこの講師がこの気持でないなら、コメントを受け付けると私は思います。
高森会長が親鸞会から離れた会員を避難する資格は認めません。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 16時52分

親鸞会をやめた人を何人も知ってるが、除名された講師は一部を除き、難癖つけられてやめさせられたりしたが、ほとんどは活動激務、金銭問題、一部の幹部によるパワハラですから、やめた人を批判するのはまちがいですね

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 17時13分

ある大学の新入生が、息子さんの講演会に行って話を聞いたが、あまりに下らなすぎてそれいらい講演会に来なくなった

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 17時17分

非難を避難と書き間違いで失礼しました。
せっかく登場しましたから。
先生と弟子の話をします。
ある組織の代表がいました。
その先生の弟子というだけで、マスコミも殺到する程の有名な先生でしたが、過去に複数の弟子が組織を去り、先生の悪口をマスコミに載せました。
弟子の行為に先生は、( 子供が親の悪口を言っても、親は子供の悪口は言えない、すべて私の不徳です )
相対社会の組織の先生ですら、こんな言葉を言われます。
絶対の仏法の先生は、離れた弟子 ( 会員 )にどんな言葉をかけられているのでしょうか。
その言葉が高森会長を表現する全てではないでしょうか。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 17時19分

こんな尊敬できる先生に今まで出会った事がない。
かなり以前にそう思ったことがありました。

化けの皮が剥がれてみると、中々の詐欺師だと思います。
人間いくら上辺を飾っても、人柄は自然に滲み出てくるものですね。
例えば、教祖の言動から、人格者 品性 優しさ 思いやりといったものが、伝わってきません。
反対にここの管理人さんの文章からは、まず誠実な人柄、品格 品性が自ずから伝わってきます。 

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 18時37分

親鸞会が大学で偽装勧誘したから、浄土真宗と親鸞聖人の教えを学ぶ縁を結ぶことができた、ともある意味では言えます。ただ、そんなのは結果論なんで。
ひょっとしたら、別のきっかけで仏法に巡り合ったかもしれないし、親鸞会で無駄な経済的・精神的損失を被らなかったかもしれない。
仏教の教学的な見地から言えば、宿縁があれば善知識には巡り合えるので(本人の意思にかかわらず)高森さんに感謝するというのは間違いでしょう。感謝するのは、阿弥陀仏に対してです。他力の教えなんですから。
親鸞聖人も歎異抄で仰っておられる通りです。
個人的には、親鸞会という外道の集団で学んだのも阿弥陀仏のお慈悲、御方便だと味わっています。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 23時29分

親鸞会に入会してよかったのは親鸞聖人の教えに出会えたというくらいでしょ。
教義についても人集め・金集めしやすいよう捻じ曲げられていて、続けるほど損害が増える。
入会したおかげで支払った代償(膨大な時間とお金の無駄)を思えば、
高森会長に感謝するどころか、会長一族こそこちらに感謝しろと
いいたいくらいです。

「高森先生がお疲れの中、・・・」などとよく聞きましたが、
会長は専用の渡り廊下をわたるくらいの「お疲れ」、
他方会社を休み富山まで時間とお金と労力をかけて行く会員さん・・・
どちらが「お疲れの中」なのか!
しかも内容はスカスカ、間違いや捻じ曲げは多く、浄土真宗とはいえない話。

会員さんの多くはさほど時間も置かずやめてしまうのも肯けます。

投稿: | 2011年9月 4日 (日) 15時17分

高森会長がお疲れのなかって無駄がね使って専用廊下つくって、講師は毎日六時半に起きてるのに何時に起きてるんや!ってこと。
高森会長のおかげじゃなく会員さんみなさんのおかげやな

投稿: | 2011年9月 4日 (日) 16時09分

退会した当初よりも、退会して一年以上たってからのほうが親鸞会が浄土真宗と私を引き合わせてくれたことに感謝する気持ちが強くなってきたように思います。
私の支払ってきた金額は、死の前には大したことないものでした。

親鸞会には感謝しています。
早く解散してください。

投稿: | 2011年9月 5日 (月) 06時19分

↑逆説的な言い回しですが、気持ち何となく解ります。
憎しみはありますが、あんな下らんやつ等から手を切れたのは、不幸中の幸いですね。

投稿: | 2011年9月 5日 (月) 10時35分

>できることならば、会員と会員であった者全員に謝罪した上で、誤りを全て改めてもらいたい

むーりだって。たとえ大政奉還したとしても倒幕しない限り維新は成り立たないんです!!

投稿: | 2011年9月 8日 (木) 00時36分

19年前に親鸞会と出会い、未だに入会はしていません
勉強会にも富山にも行きますが入会は迷ってる状態です。

弟は学徒です。

ただ思うのはどうしたら救われるのか?だけです。

信心決定など本当にあるのだろうか?とすら思ってしまいます。

でもおかる同行は救われてるんですよねぇ…

投稿: | 2011年9月11日 (日) 18時04分

質問だがなぜ入会しないのかな?
20年近く聞いていたら、入会するよ。

投稿: | 2011年9月11日 (日) 20時01分

おかる同行は親鸞会で救われたわけではないし、
高森会長や講師部員の話で救われていない。

お寺と住職に大変お世話になって歌も沢山残している。
その中に必堕布施地獄とか宿善活動するとか御心転入とかは一切無い。

高森会長は妙好人の本を読むなと言いたいんだろうが、
高森会長しかいないのなら「他力本願」は専売特許かなにかでしょうか。
高森会長の意見に自主的に選択せざるを得ないようにしむける環境もどうかと思いますが、
講師部員も生活がかかっているのでしょう。

本物を紹介したからといって紹介した者が本物とは限りません。
お寺めぐりをしてみると意外といいもんです。

投稿: | 2011年9月13日 (火) 14時13分

いずれにせよ阿弥陀仏と出会われたご縁は尊いです。
高森氏に限らず人間すべては凡夫ですし・・・

投稿: 西本願寺門徒 | 2011年10月 4日 (火) 10時36分

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