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投稿:週刊金曜日(2011年9月23日号)の記事をめぐって

【序】

「やや日刊カルト新聞」主筆の藤倉善郎氏の自宅が9月16日、富山県警から家宅捜索を受けた件について、硬派な市民運動系雑誌として知られる週刊金曜日がニュースとして採り上げるとこちらの記事で知ったので、去る金曜日、書店で購入してきました(2011年9月23日号)。どこでも売っている本ではないので少し調達に手間取りましたが、問題なく手に入りました。一時のことを思えば、随分手に入りやすくなったものです。勿論、図書館で読むことも可能です。

富山県警「やや日刊カルト新聞社」アジトを家宅捜索=著作権法違反容疑
・参考:Wikipedia contributors. "週刊金曜日." Wikipedia. Wikipedia, 10 Sep. 2011. Web. 27 Sep. 2011

この記事は、「メディア一撃」という常設コーナーの内の一つとして書かれています。これは、ジャーナリストやフリーライター等の書き手が顕名でメディア関連の出来事などを採り上げ論評するスタイルのコーナーで、単なるニュース記事よりも書き手個人の意向が強く反映されるものです。この号でも5つの記事が書かれており、そのうちの1つが、今般の事件に関する記事です。

【1,記事からわかる出来事の概要】

"「著作権法違反」の容疑でパソコン押収した富山県警"というタイトルで書かれたこの記事の書き手は、ジャーナリストの渋井哲也氏でした。知っている名前でした。渋井氏といったらメディア言論に関して何冊も著作のあるプロのジャーナリストで、私はこの人といったら自殺サイト問題にかかわる自殺事件を詳細に調査した著作を思い出します。「メディア一撃」コーナーに顕名で書かれているということは、この渋井氏自身が今般の出来事に興味を抱き、記事にするに値すると判断したものだと見て良いでしょう。

この記事を目にする以前、私は、市民運動系の雑誌ということと、消費者問題を扱う弁護士がこの事件に強い関心を持っているという話から、この記事もそういう方向性の記事かと推測していたのですが、実際に出てきた記事は、もっと直球でした。消費者問題という切り口ではなく、ネット言論で生じたトラブルの一種として、著作権法が反対言論抑圧の口実として持ち出された事例であることを示唆する内容でした。記事には以下のような記述があります。

「著作権法は表現の自由に対する強い制約になりえます。海賊版等の場合を除き、警察が著作権法違反で捜査する場合には慎重さが求められますが、今回の事件は、著作権法が公益性のある言論を抑圧する口実になることを明らかにしました。当然不起訴になるべき事案ですが、家宅捜索だけでも一市民にとっては大きな負担です。今後の改正論議に際してもこの視点を忘れてはいけません」(山口)

要するに、親鸞会側の狙いは端から見て丸わかりだということです。無理筋の告訴によって当局による初動捜査を誘導し、批判記事を書くことを萎縮させること。たとえ本人たち、藤倉氏やぶるうの氏が書くのをやめないとしても、家宅捜査を受けコメント欄で犯罪者だ犯罪者だと騒がれる可能性があると知らせておけば、少なくとも面倒くさいですから、世に数多あるはずの書き手を萎縮させ、ブログ等で批判的なことを書く者が減るかもしれない。…姑息といえば実に姑息な発想ですが、そういう意図ばかりが伺われる告訴だということです。だからこそ、ネット言論のトラブルに注目するジャーナリストが興味を持ち、著作権等を口実とした表現規制に敏感な左派系の雑誌が採り上げたのでしょう。

尚、この記事では、16日の家宅捜索の際押収されたパソコンおよびサーバーが、18日には返却された旨も書かれています。すごいスピード返却ですね。私が「けいおん!」のレンタルDVDを返却するよりも早いです(^_^; 因みに、これは正本堂図面の件で同様のことがあった際のことを考えても圧倒的に早いです。捜査当局の見方を伺うのに、この一件をしても思い半ばに過ぎようというものです。

ともあれ、この一件は、司法的にはそれほど進展してゆくものとは思えない事件で、捜査当局にとっては無理筋です。唯一、全文が掲載されたという一事が形式的に構成要件に引っ掛かるところですが、本件は一見して41条の違法性阻却事由に該当する可能性が高い事案ですから、結局違法性を問うことは難しいわけです。問題となった「やや日」の記事(2010年2月4日付)は親鸞会が学生相手に身分を偽った偽装勧誘をしているというのが趣旨で、そのための冊子掲載だったわけですから、その証明のためには全文公開されるほかなかったでしょう。冊子のどこにも「親鸞」「親鸞会」の文字が出てこないというところがミソなわけですから。ということは、公開されたのが全文ではあっても「報道目的上正当な範囲」ということになるわけです。

もっとも、たとえそうだとしても、親鸞会の目的が家宅捜索による萎縮効果そのものだとしたら、たとえ起訴されず有罪とはならないとしても、家宅捜索されそのことが知られた時点で目的を果たしたことになります。但し、これは親鸞会にとっては諸刃の剣です。というのも、訴えの材料が勧誘冊子である以上、それが法廷で争いになった場合、勧誘方法とその冊子の関連性が議論の焦点にならざるを得ず、その際には、親鸞会が学生相手に身分を偽った偽装勧誘をしているということが公的に証明されることを意味するからです。その意味では、今回の訴えは親鸞会にとって、不起訴にならなければならないわけです。また、これはあくまで憶測ですが、起訴されるという見込みになったら訴えを取り下げるかもしれません。

皆さんはこの事件のことを最初に知ったとき、どう思われたでしょうか?恐らく多くの人は憤りを感じたことでしょう。私はというと、腹が立つというより、呆れました。「ああ、馬鹿だなああの人たち(=親鸞会)、ものが偽装勧誘の証拠だってわかってるのか?」と。いささか無責任な言い方をすると、僕が藤倉さんの立場だったら、哄笑しながら「かかったな」と言うと思います(藤倉さん本人の意思はわかりませんけれども)。もし親鸞会の偽装勧誘の実態が法廷で証される事態に至ったならば、明らかに親鸞会の方が失うものが圧倒的に大きいのです。だから、私はコメント欄で、かれらの告訴戦術を「自爆テロ」と揶揄したのです。自爆テロでは攻撃対象を破壊できないかもしれないが、自分は確実に死ぬのですから。

自爆テロは、居場所も将来の見通しも完全に失い、極限まで追い詰められた人がする行動だと聞いたことがあります。親鸞会はどうなのでしょうか。親鸞会は、そこまで追い詰められているのか、それとも、自爆が理解できないほどおばかさんなのか。反社会的行動が日常になりすぎて感覚がマヒしている人たちのことだから、後者ということも十分考えられますが。。。

【2,親鸞会が捨ててきたものは絆】

週刊金曜日の記事に戻ります。著作権法が表現規制の口実になること、それが親鸞会の告訴で明らかになったということが、記事を書いた渋井氏や、それを掲載した週刊金曜日編集部の興味を引いたのではないかと先程私は書きました。もちろん、それ以外の切り口でこの一件を見ることも可能です。偶々今回は表現規制の口実という切り口でしたが、偽装勧誘ということになると、消費者問題として、大学運営の問題として、教育問題として理解することが可能になります。

また、そもそも「やや日刊カルト新聞」そのものに渋井氏が興味を持っていたということも考えられます。じっさい、記事の結びには、かつて「やや日」の人たちがやった、統一協会の断食デモに対抗して断食をやめるまで暴飲暴食を繰り返す「暴飲暴食デモ」が紹介されています。面白いことをしていれば話題になり興味を持たれるということかもしれないわけです。勿論それだけで記事が書かれたわけではないでしょうけれども、つくづく遊び心というのは侮ってはいけないものです。ホモ・ルーデンスという言葉がある通り、遊びは人間の文化的生産力の核心に関わるものなのですから。

ともあれ、金曜日の記事にしろ、また様々な取材申し入れがあるという話にしろ、たくさんの方面から興味関心を持たれていることがわかりますし、また様々な切り口からこの問題にアプローチすることが可能だということもわかります。言論抑圧を巡る言論と人権の問題、著作権法改正論議、偽装勧誘という消費者問題、大学運営をめぐる社会問題……etc。

親鸞会の反社会性は一面的なものではありません。偽装勧誘をめぐる一件にしても、こうしたたくさんの社会問題のトピックスにつながっていることがわかります。要するに、その分だけ親鸞会は、反社会的な行動を日々繰り返し、またたくさんの人にこれまたたくさんの方向から迷惑をかけ続けてきたということです。廃悪取善が聞いて呆れるというか世を儚んで出家してしまいそうな話ですが、とにかく親鸞会が世の人びとにたくさん、たくさん迷惑をかけ続けてきたことが、このようなかたちで注目される結果を生んだわけです。すでに親鸞会は四面楚歌の状況にありますが、まさに自業自得というものでしょう。

この自然の摂理が理解できない親鸞会の人たちは、ともすれば陰謀説に陥ったり、特定の個人を首謀者に見立てたりして、じぶんたちを取り巻く状況について誤った認識に逃げ込もうとします。じっさいにはたくさんの方面からその反社会性を問われているわけですが、かれらの世界観の内側では、じぶんたちを攻撃するのはつねに単純で、単一で、一面的なものです。なぜなら、それは想像された他者なのだから。他者から目を背け続けてきたかれらは、物事を直視することができないでいるのです。

【3,ローズマリー的卑屈】

昔放送された「明日のナージャ」という少女向けアニメに、ローズマリーという女の子が出てきます。主人公ナージャと同じ孤児院で育った彼女は、その後スペインでメイドとして下働きをし、みじめな日々を送ることになるのですが、夜な夜な彼女は暗い部屋の中で、鏡を前にドレスを身に中てて「私は本当はプリンセス」と、卑屈な笑みを浮かべるのです。そしてローズマリーは、旅芸人一座に身を置くナージャと再会したとき、再会を喜びながらも旅芸人に身を堕としたナージャを哀れな子だと蔑むのですが、その彼女が本物のプリンセスだとわかったとき、激しく動揺し、憎悪して、ついにはナージャの偽物に成りすますに至ります。……何だか、誰かさんに似ている気がするのは私だけでしょうか。

思えば、親鸞会の人たちは他者を敵視し、他者との絆を断ち、内側にひきこもることばかりを繰り返してきました。その最たるものは高森会長でしょう。高森会長の著作が伊藤康善師、大沼法龍氏の著作からの剽窃で成り立っていることはすでに周知の事実ですが、剽窃するからには伊藤師や大沼師の著作を読み、影響を受けているわけです。その場合、本来の筋合いからいうなら、自分の言葉で話しつつ、その影響を伊藤師、大沼師から受けた旨をはっきり言明することが必要だったはずです。名前を出して引用、言及することは、影響を受けた相手に対する最低限の礼儀であり、また絆を結ぶ行為です。しかし、高森会長はその絆を断ち、両師の言葉をじぶんのオリジナルと偽ることによって、内輪の絶対者となる道を選んでしまった。つまり、親鸞会という内的世界に「ひきこもった」わけです。

こういうローズマリー的卑屈によって絆を断ち、内輪の想像的世界で君臨することを選んだ高森会長を絶対的中心とする親鸞会は、なにもかもが空虚です。かれらは、自分を正しく認識することもできなければ、他者を正しく認識することもできない。だから、今般の件にしても、これが「自爆テロ」になるということさえ認識できていないかもしれない。自分たちは偽装勧誘をしていながら、それが反社会的行動だという自覚さえなく、身の潔白を確信さえしているかもしれない。だから、罪の自覚も反社会性の自覚もなく、まったくの善意のつもりでひとを傷つけ続ける。

でも、その結果行き着いたのは四面楚歌です。絆を断ち、他者から目を背け続けてきた彼らは、人びとが抱く自然な反感を理解できない。まして、その自然な反感が自然に連合し、自然に流れをつくって、会長の剽窃が明らかになったり会長の息子の不倫を契機とする騒動の顛末が白日の下に晒されたりするなどということは理解できないのでしょう。誰かが糸を引いているはずだと妄想するか、批判的なのはごく一部の限られた人間だけと過小評価するか、群賊悪獣悪知識だと抽象的に理解するか。いずれにせよ、こうして他者のまなざしから目を背け続けるかぎり、四面楚歌の状況は自然の成り行きでますますひどくなるでしょう。

【4,We won't need a hero.】

もっとも、批判している側はとくに連携しているわけでもなんでもないのだから、過大評価されているのかもしれません。藤倉さんにしてもぶるうのさんにしても、もちろん僕らにしても、それぞれの意志でそれぞれの意図することをしているだけだし、剽窃のことも偽装勧誘のこともその他のことも別に特定のプロジェクトの一環として暴露されたわけでも何でもない。それぞれが個別に動いて、個別に明らかになっただけのことです。それが、たまたま成り行きから「やや日」とかさよならに情報として集まってきたに過ぎないわけです。

既にコメント欄でも言及されているように、いま親鸞会をめぐって起きている事態は、いわゆる「アラブの春」や、中国高速鉄道事故をめぐって中国で起きている状況などと同時代的なものです。ひとつひとつは小さな、just a bit にすぎない声を、インターネットの技術は連合させ、同時多発的に、個々勝手に動いているだけの(スタンドアロンの)個人をスタンドアロンのまま連合させ、ムーブメントのような状況を作り出すことがある。それはかつて私がコメント欄で以下のように書いた通りです。

じっさい、私たちには中心がありません。私たちにしても藤倉さんたちにしても、誰が中心とかリーダーとかいうわけでもなく、それぞれの立場で親鸞会のやり方について憤りを感じた個々の人たちが個別に関心を持ち、偶々『やや日』やさよならを結節点として繋がっているにすぎないわけです。でも、じつはそれがむしろ強みなのではないかと私は思うんですね。こういうリゾーム状のつながりは中心がなく、いくら親鸞会が姑息な手で自爆テロ(笑)を仕掛けてきたとしても、世間全部を爆破するわけにもいかない。この点、高森会長という空疎な中心しかない親鸞会と正反対です。僕らは個別に興味を広げればいいだけですが、かれらはそれを抑止しようと思ったら全部自爆テロで撃破しなければならない(笑)。じじつ、結節点になりうるものはじっさい他に幾らでもあるわけで、それがわかっているからぶるうのさんたちも勇気を持って思いきりやれるのではないでしょうか。

親鸞会問題に関していえば、かつては2chやウェブ掲示板、いまは個人ブログが中心ですが、今後はtwitterやfacebookなどに自然に移行していくかもしれません。そうなったらどうなるか。もうどうしようもないですよ。個別のつぶやきやRTなどは、本当に小さな140字を越えないものでしかないけれども、それはものすごい速度でものすごい範囲に伝播してしまう。しかも、タイムラインはフォローしている人のつぶやきしか表示しないものなので、いくら親鸞会の対策員が躍起になったところでそんなものは存在しないのと一緒。まったくの無力です。twitterやfacebookがエジプトほどの大国をひっくり返す力を持っているのは、そのためです。そして、利用者は特別何かをする必要はない。たんに興味を持ち、つぶやき、情報をリークするだけでよい。それで勝手に事態は動く、そういう時代に既になっているのです。

さよならに関していえば、さよならがこれまでの数多の批判サイトと違ったところがあるとすれば、特に機関的に運営されているわけでもない(ですよね?)ブログでありながら、どこか「アラブの春」と同じようにリゾーム状の人と人のつながりを紡ぎ出す結節点になっているところにあるのでしょう。そこで飛び交っている情報は、基本的には(「アラブの春」をめぐるtwitterやfacebookと同様)たんに事実の記述です。そして、それが実際いちばん破壊力があるわけです。組織化であるとか剽窃の訴訟であるとか、いろいろ意見はありますが、個人的には、まあそれはやりたい人が、やるなら個別にやればいいかなと。ペンは剣よりも強しというように、淡々と事実が伝えられるというのが一番力になるのではないでしょうか。

単なる事実の記述、たんなる興味が、じつはいちばん威力を持つ。そういえば、こんな言葉がありました。最後に紹介しておきます。

アオイ:言葉では知っていても、実際に目の当たりにするまでは信じられなかった。オリジナルの不在が、オリジナルなきコピーを作り出してしまうなんてね。あなただったら、あの現象を何て名付けますか。

素子:"Stand Alone Complex"。

アオイ:イエス。"Stand Alone Complex"……。元来、いまの社会システムには、そういった現象を引き起こす装置がはじめから内包されているんだ。僕にはそれが絶望の始まりに感じられてならないけど………、あなたはどう?

素子:さあ、何とも言えないわね。だけど私は、情報の並列化の果てに個を取り戻すための、一つの可能性を見つけたわ。

アオイ:因に、その答えは?

素子:「好奇心」……、多分ね。

(「攻殻機動隊S.A.C.」より)

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親鸞会関係の刑事告訴

すでにコメント欄で書いておられる方もありますが、親鸞会関係の刑事告訴が2件ありました。

1件目はフリーライターの藤倉善郎氏に対してで、容疑は著作権法違反となっています。

富山県警「やや日刊カルト新聞社」アジトを家宅捜索=著作権法違反容疑

詳細は上記の記事をご覧ください。尚この件については明日(9月23日)発売の週刊金曜日で取り上げられる予定です。

2件目は私に対してです。私には去年にも刑事告訴を受け、「私を犯罪者呼ばわりする方へ(回答)」というエントリでご報告していますが、今回も著作権法違反の疑いをかけられています。対象となっているのは高森会長の専用施設を扱った「正本堂図面」という記事にある間取り図で、告訴人は浄土真宗親鸞会です。

加えて私が招聘教員を務める大阪大学にも、とある弁護士から「強制捜査を受けた人物(私)を大学の教員として置くべきかどうか、事実関係を調査して再検討されたし」という内容の申し入れ書が届いています。ちなみに上記3件の告訴は全て、この弁護士が所属する弁護士事務所の弁護士を代理人として行われました。

今回の一連の告訴は消費者問題を扱う弁護士や大学関係者などから強い関心を得ており、複数の月刊誌、週刊誌から取材申し入れが来ています。


支援者の皆様へ

このような状況ですが私は今後も従来と何ら変わらずカルト対策と相談業務を続け、引き続き浄土真宗親鸞会という団体の実態を明らかにしてゆく所存です。これからもよろしくお願いします。

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投稿:「親鸞聖人の花びら」(高森顕徹著 1万年堂出版)を読んで

仲のよい会員の友人から「高森先生が問答形式の親鸞聖人の花びらという御著書二巻を御発刊して下される。それを拝読したらまた先生から聞かせて頂きたいという気持ちになれるよ」と声をかけて頂き、では読んでみようかと早速購入してみました。

親鸞会で指定されてる某大型書店に行くと新刊コーナーに平積み、親鸞聖人特集コーナーに平積み、新興宗教コーナーに平積みと三ヶ所にこれでも目に留まらぬかと言わんばかりのアピールでした。これを組織的に買い占めるのですから販売数は伸びるわけです。

「問答」という言葉を聞いた時、親鸞会内部で発行されている「こんなことが知りたい」を表現や教義上まずいところを上手く焼き直したものだろうと予想はついていましたがその通りでした。

焼き直しですから、会員さんが講師などから聞かされるほど高森先生は今回の執筆に涙ぐましいご苦労はされてないでしょう。

本書の編集には井狩春男氏が全面協力してあり、また有名な書家の書が掲載され、美しく読みやすいものに仕上がっていると思います。

その内容については完全否定も完全肯定もしません。

ただ私には疑問が出てきました。

この本をたまたま読んだ一般の方は思うでしょう。

著者の経歴が殆ど書かれてないが高森顕徹という人物は一体何者なのか、どういう経歴があり、今どういう立場の人なのか、と。

この本の著者紹介には高森顕徹氏が浄土真宗親鸞会会長であることは書かれてありません。

まるで不気味な正体不明の人物が書いた本という印象なのではないかと思われます。

自分が龍大時代に増井悟朗師に顕正され、伊藤康善師をよき知識とし華光会で熱心に活動してたこと、その後決別し親鸞会を立ち上げ、大沼法龍師に密かに心酔し師の書籍を読破し、師の説く所こそ我が信念と大沼教学を追及し、改変し親鸞会を運営してきたこと、そういった自己の経歴については何一つ明らかにしていません。

こんなことが知りたいの再編集ということでこんなことが知りたい二に掲載されている「なぜ自ら本願寺を飛び出したのか」や「なぜ親鸞会は本願寺を非難攻撃するのか」という文章も当然掲載し己の立場と信念を大衆に宣説するものだと期待しましたが、それは内輪向けにしか出来ないことであったと再び思い知らされました。

華光会や大沼氏のことはともかく、せめて親鸞会会長であること位は紹介してもいいと思いますが、何かしら深い御心があるのでしょうか。

桜の巻で秘事法門についての文章で「インチキ性の漏洩を防ぐためのものでしかありません」と秘事法門が秘密にする理由を述べていますが、高森会長が自分の経歴を隠すのもインチキ性の漏洩を防ぐためのものなのかと妙に納得しました。

会長からしてこれですから、会長先生の御心のままに活動する講師が身分を明かさずブログを書くのも、その講師の指揮のもと活動する学友部が偽装勧誘するのも当然といえば当然です。

思えば学生時代勧誘され話を聞いてた当初は「質問大歓迎」と先輩に言われたものです。私も一杯質問しました。嘘をつかれたものも沢山ありましたが、一応講師や先輩は懸命に答えてくれました。しかし学年が上がり、幹部になる中で少しおかしな質問をすると「そんなことは愚痴だ」「高森先生を疑うのか」と注意されることが多くなりました。

いつの間にやら質問大歓迎が質問すると批判と受け取られることが多くなっていき、当たり障りのない質問しか出来なくなっていきました。これでは信心の沙汰も出来ません。

親鸞会には質問内容如何ではそれは聞いちゃいけないという空気がありました。

親鸞会では教えについても組織についても本音で「なぜなぜ問答」をすることは出来ないのです。

組織面だけでもなぜ正体を隠した勧誘をするのか、なぜ因果の道理を説きながら悪を平気に犯すのか、なぜ収支報告しないのか、なぜ仏法の為と集めたお金で会長は贅沢な生活をするのか、なぜ華光会との関係を隠すのか、なぜ教義批判に立ち向かわないのか、なぜ?なぜ?と疑問が膨れ上がり、遂にはここにいたら本当に自分がおかしくなってしまうと思い退会を決意しました。そういうなぜなぜ問答を出版すればいいのに。

親鸞会は隠すのが上手です(上手といっても頭隠して尻隠さずなんだけど)。いかに誤魔化し立派なものに見せれるかという努力工夫を重ねて今に至ります。

今回の書籍もその努力の結晶です。批判をかわすためか文章を以前と変えてる箇所があります。

一つ挙げれば藤の巻26「後生の一大事とは、どんなことか」では後生の一大事は阿弥陀仏の救いの前後によって大きく変わります、と前置きしてまず「往生浄土の一大事」について説明されます。その後堕地獄の一大事と説明されてますが、こんなことが知りたいには何度も書かれていた「一切衆生必堕無間」は出てきません。

会内部では講師方は相変わらず「一切衆生必堕無間」と説明しています。しかし今回の本ではそう書かれていません。(桜の巻33に必堕無間の一大事を抱え…苦より苦に流転してゆく私たちという表現はあります)

歎異鈔をひらくでも「永遠の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう」と説明されてます。

会内部で聞いてる話と一般向けに出される本の間には微妙な違いがあるのです。

私は会員時代、ひらくを読んで後生の一大事の説明を読んだ時に本願寺が「後生の一大事とは『往生浄土できるか、どうかの一大事』」と回答したのと同じじゃないかと思っていました。

ついでにもう一つあげれば教学聖典二の一の涅槃経のお言葉も教学聖典は「地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、人間に生れる者は爪の上の土の如し」とありますが、花びら桜の巻3には「人趣に生るるものは爪の上の土の如し。三途に堕つるものは、十方の土のごとし」となってます。地獄を三途に見事に改訂してあります。(こういうことは今回の本でも沢山あります)

会員さんにも一般に向けての話と内輪での話には微妙な違いがあるという違和感を感じてる方もあると思いますが、そこにも親鸞会の卑怯さが現れていると感じ取っていただきたい。

恐らく会員さんでも「結局一切衆生必堕無間は間違いだったということでよろしいでしょうか?」なんて問を会長に発することは出来ないでしょう。何とか脳内変換して一貫して変わらぬことを教えておられると自己完結させることでしょう。

なるほど確かに今回の本は仏教に対して漠然としたイメージしか持ってない人にはそうなのかと胸を打たれる内容もあるだろう、何となく空しい気持ちを抱えて生きてる人にはハッとさせられる文章もあるでしょう。だから私は全てがくだらないとは言いません。

ただし親鸞会は発行部数○十万部突破!とか会員の喜びの手紙や、わずかばかり現れるであろう本書をきっかけに入会する人の紹介やたまたまどっかのテレビか雑誌で取り上げられたニュースを元に親鸞会は今盛なりと新聞で発表するのでしょうが、今の親鸞会に親鸞聖人の花びらが満開に咲いているとは思いませんし、東日本大震災で疲弊している大衆の悩みを晴らす力もないと思います。

そんなことは会員さん本人が薄々気づいていることです。

親鸞会会員になると次から次へと募られる御報謝の“御縁”に内心溜め息をついて疲れることになります。

今回も書籍御発刊記念御報謝が募られているかも知れません。またこれからなぜ生きるやひらくの時と同じく特装版が十万近くで売られるかも知れません。七百五十回忌法要をあと一ヶ月に控え経済的に大変な中、会員さんは死ぬまで終わらぬ財施をし続けるのです。ぶるうのさんが昔「財施は手を変え品を変え」というエントリーで書かれた通りです。

親鸞会にとっては書籍の発刊も会員から金を集める一つの手段に過ぎないのです。

阿弥陀様のまこと一つで浄土往生という信心とはまるで違って親鸞会には「地獄の沙汰も金次第信心」という毒花が咲いているのです。

友人は今回の書籍を読んでもう一度親鸞会にと念じてくれていますが、再び親鸞会で聞法を、となったかというとそうはなりませんでした。
思うことは親鸞会を離れて正解だったということばかりです。

今回の本では掲載されませんでしたが、こんなことが知りたい二31にありがたや信心を批判した文章に「ことさらありがたいと言うのは、ありがたくない心に自己暗示を与えて何とかありがたくなろうとしているけなげな努力なのであろうと思われます。ありがたいことなのだぞありがたいことなのだぞと言い聞かせることによって、ありがたそうな気分を盛り上げないと、どうにも安らかでない人達なのです。ありがたくなければ自分の信心が動揺して不安でおれないので、ありがたくなろうありがたくなろうとつとめている、悲痛な叫び声のように聞こえてなりません」とあります。

恐らく今後の顕正新聞には、内心では鬱々とした気持ちを抱えながら、組織内では笑顔を繕っているありがたやの絞り出した空しい喜びが沢山掲載されるでしょう。
しかしそんな会員さんでも大多数は数ヶ月、数年立つと自ら進んで拝読することはなくなり本棚の肥やしになります(ちょっと前講師と話しててなぜ生きるに~と書かれてますねと言うと、そんな文章あったっけ?と言われたことがありました。講師も先生命懸けの執筆をまともに読んでないですよ)。その時その時発せられる会長先生のお言葉に風見鶏のようにくるくる回り続け、どこにも辿り着けない輪廻道を無一文になるまで爆走するだけです。

桜の巻23に「人は百味のご馳走、金や財、名誉、地位、享楽などの夢を追い、夢に酔うことを幸福と信じ、必ず、開かなければならない玉手箱を知りません。活眼を開いて人生を達観しようではありませんか」とあります。個人的にはいい文章だと思いますが、この言葉、高森会長にそっくりそのまま返してあげたいです(そう思う文章が沢山ありました)。会員さんはこの会長の描く悪夢にすべてを剥ぎ取られるだけです。活眼を開いて親鸞会の実態を達観して頂きたい。

高森会長はきっと飾られた賛美の虚構の中でほくそ笑みながら死んでゆくのでしょうが、会員さんにはしまったと後悔する前に、生きてる時に目覚めて欲しい。

たとえ講師であっても生きてる間なら失ったものは大きくてもきっとやり直せる。これ以上、親鸞会でわずかな感謝と感動を絞り出しながら、けなげに高森先生の御心に酔い続ける人生から抜け出して欲しい。

私は退会した今でも会員の友人やお世話になった講師との縁は大切にしたいと思っています。何とか七百五十回忌をよき縁とし自分の心を誤魔化さずとも本当に心から笑って生きられる身になって頂きたいと思っています。それにはどうすればいいか、このブログを見ている会員さんなら自ずと分かると思います。

教義面でも私が一読しただけでも??となる内容が多々ありました。

今後今回の本の教義的批判も色々なブログで展開されることになると思いますが、会員さんにも是非閲覧して頂き、親鸞会のどこがどう間違っているのか、よく検証して頂きたいです。親鸞会のおかしさに気づく最良のテキストに今回の本がなってくれると思います。

最後に。ぶるうのさんは以前の記事で高森会長最後の書籍になると思います、と書いてましたが私はまだ会長も元気なようだからあと一、二冊は出すと思います。(予想は正信偈の解説書)。なぜなら親鸞会にとっては今まで話してたことのまずい点をさりげなくちょっと修正し、かつそれに絡めてお金を募るいいご縁になりますし、先生は御年を召しても真実開顕に命懸けだという会員向けのアピールにもなりますから。

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投稿:一歩踏み出せば、あとはなんとかなる。勇気を出せば未来は開ける。

いつも、さよならを拝見させて頂いています。私は今から25年前西日本の国立大学教育学部で親鸞会に入会し、大学卒業後に当時の親鸞会子供部屋に進んだ者です。大学で学んだことを親鸞会で役立てたい、未来を担う子供達を仏縁ある大人に教育したいという夢がありました。しかし現実は違いました。

元々、子供部屋はk子講師が高森家に嫁ぐ前に、子供をもっても預けられる場所を作り、結婚後も講師部を続けられるようにと設立したものです。まさに高森家からの結納品のようなものでした。

当時の本会職員は残業なんて当たり前です。子供部屋もそれは同じで昼も夜も子持ち講師の子供の保育でした。それは自分の選んだ道だからいいとしても、納得できなかったのは「どうしてあなたの目標達成できなかったの?」という講師の言葉でした。その講師の子供を一番長く保育しているのです。夜も含め1日の大半を任務に費やしいつ顕正活動しろというのか。毎日が苦痛へと変わりました 。やがて親友部制度になり、子供部屋も保育部となりましたが、上司には無条件服従、講師部の言うことは絶対でした。私は教育学士だという自負があり、自分の意見を言うと「国立大学卒業といい気になって」「上司批判する者は親鸞会で生きていけると思うな」と皆の前で指摘され、やがてそれに慣れてしまい、「私が悪い、私が悪い、私が悪い…」と思うようになりました。

そして、ある年の本部報恩講。風疹が流行していました。子供部屋は、当たり前ですが病気の子供は預かれません。そうなると当時の主婦上隊の参詣人数に関わります。そこでもうけられたのが、風疹の子供専用部屋でした。

熱のためぐったりした子供、発疹で真っ赤な頬の子供。子育て本のA医師の子供さんもいました。「ごめんなさい、先生は何もできなかった」子供たちに申し訳なくて泣きました。そしてトイレで吐きました。吐物と涙と鼻で顔がぐしょぐしょでした。

それから私は倦怠感が激しくなり、食欲が落ち、心が何もわからなくなっていきました。ぼんやりして、すべて悲観的でした。鬱病です。

保育部はやめました。保育部を辞める時「あいつ(私)とは接触するな」と言われた人もいます。当時、婚約していた現夫にk子講師が「彼女のことどれだけ知ってるの?」と言ったそうです。それから一会員としての活動が始まりました。しかし相変わらず鬱病への偏見はありました。「心の病は求道が曲がっているから」「気持ちの問題」何度言われたかわかりません。心療内科受診の日に(予約)「今日は活動どうしても休めないの?」と言われました。会合時は皆の前で「○○さんわかってる?」と必ず数回聞かれます。鬱病は理解力がないわけじゃないのに。偏見の中で疲弊してしまい、ある朝、発作的に行動を起こしてしまいました。睡眠薬自殺です。しねませんでした。親鸞会の人間は何人かこのことを知っていましたが誰も電話ひとつ葉書ひとつありませんでした。かと思えば金の無心にやって来るのです。親鸞会の冷たさ、厚かましさ、正体見たりでした。

やがて、親鸞会以外の本を読むようになりました。親友部にいた頃には考えられないことです。重松清に感銘を受けました。やがて映画やミュージカル、音楽、美術に心が少しずつほぐれていきました。

今、介護の仕事をしています。昔なりたかった教職ではないけれど必要とされている満足感は何物にも替えがたく、充実しています。今ヘルパーの資格を持っているのですが、1月の介護福祉士の受験に向けて勉強を始めました。

9月12日満月の日、家族皆で月をみながらお団子を食べました。幸せだと思いました。

ぶるうのさん、ありがとうございます。そして親鸞会で悩んでいる人たちに、一歩踏み出せば、あとはなんとかなる。勇気を出せば未来は開ける。私はそう伝えたいです。

最後に、私の好きな「嵐」の「サクラ咲け」という歌から

―振り向くな 後ろには 明日は無いから 前を向け―

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投稿:借金地獄

私自身の体験ですので、全ての方が同じようなことを行っているとは限りません。
ただ、学生時代に苦しんだ、お金に関係することを書きたいと思います。

1、2年生の時は、仕送りと割りの良い日雇いバイトで活動費をやりくりしていました。
もちろん、余裕などありません。僅かに自分の好きなように使ったことはありましたが、大半は親鸞会の活動費に消えていきます。
大変だったのは、幹部になってからです。
例えば、御報謝は"幹部ということ"で周りよりも少し多めにしないといけない・・・という思いが出てきました。
私自身もそうでしたが、入りたての1年生は純粋に求め、御報謝も不思議と多めにしていました。後から先輩から聞きましたが、それがプレッシャーになったと。。。
結局、同じ目に自分も合いました。
しかし、収入は増えるわけなく、出費だけが多くなります。
御報謝だけではなく、会費のレベルも上げました。10年ほど前の制度ですが、「正会員(たしか、月1万円)」になることが当たり前・・・みたいな空気がありましたので。
「お金が無いから」と遠方聴聞を休むことも出来ません。

当時、自分の弟も大学に行き始めたので(もちろん、親鸞会とは無関係です)、両親の金銭的な苦労は相当なものだったはずです(私も、弟も県外、1人暮らし、私立・・・)。なので、親を頼るわけにもいきません(いや、できません)。

入学当初から、"将来のために"と"何かあったときのために"と両親が入学時に出してくれたお金プラス僅かながら貯金をしていて、「これだけは、絶対に手を付けない」と決めていたのですが、途中から貯金することもできなくなり、もうどうする事もできず、結局そのお金に手を付けました。
しかし、その貯金も親鸞会の活動費を前にしては、あっという間に無くなりました。


ここで、「毎日深夜バイトすればいいだろう」と思いましたが、
活動を理由に退学、留年する先輩や同期を見て「自分はそうならない。必ず、4年で卒業し、社会人になる」と決め、出来る限りの時間を学業関係に当てたかったので、定期バイトはいれず、先にも書きましたが、日雇いバイトで凌ぎました。

また、年金の支払いも止め、活動費にあてました。



しかし、限界があります。

そして、悩んだ結果、消費者金融に手を出しました。

初めは、「その時、どうしても必要なだけ」と決めて、1万円、2万円というお金を借りました。リボ払いで払えば、何とか返せるだろう・・・と安易に考えていました。

翌月から、その支払いがスタートし、口座から引かれます。当然です。
もちろん、その分はマイナス。
結果、また活動費が足りません。
そして、またカードで借ります。

自転車操業です。
どんどんと借金は膨れ上がりました。

「社会人になって、給料貰ったら返済すれば良いさ」とまで考えるようになりました。


結果、総額20万円の借金を学生という身分で背負うことになりました。
実際にはもっといっていた可能性もありますが、膨れ上がる返済の目処の立たない借金に怖くなり、たまに親をごまかし、余分に仕送りしてくれるよう頼んだこともありました。
(本当に申し訳ないです)


借りたところが、闇金ではなく、誰でも知っている大手だったので、怖い思いはせずに済みましたが、、、



借金は働き始めて、完済しました。



大金が必要、借金がある・・・と、日々お金には悩みました。
でも、さすがに犯罪を犯してまで手に入れようとは思うはずもありません。
お金が無いからと、万引きも同様です。



以下、偏見、差別だというお叱りを覚悟で書きますが、
私は男性ですが、「もし女性だったら夜の仕事で稼げるのに・・・」と思った事もありました(夜の仕事は、個人のご判断にお任せします)。


もう10年以上前の話ですので、今の時代に合っているか分かりません。
しかし、学生の借金はダメです。
現役の学生さんで観覧している方がいれば、念を押して言います。
「借金は絶対にダメです」


今思えば、借金までしてやることだったのか・・・と思わずにおれません。

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投稿:自分は信仰と真実を取り違えていたことに気が付きました

自分は2008年ぐらいに退会しました。退会を決断することができたキッカケは、「なぜ親鸞会をやめたのか」と「さよなら親鸞会」の記事の内容を読んだところが非常に大きかったです。

そこで表題の件となりますが、さよなら親鸞会の中では、以下2つの記事が自分にとっては衝撃を受けました。

高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです

信仰と真実

2007年の初め頃、2ch経由でなぜ親鸞会をやめたのかを読み始めたのですが、最初は親鸞会は正しいとバリバリに思っていて、どういう誹謗中傷があるのかと興味本位で読み始めました。

その中でまず最初に気持ちが揺さぶられたのは、教義的な話ではなく、俗物的な話であったり、パクリ問題でした。

初めは証拠を実際に見たわけではないし、本当かなあと疑いの心で読んでいました。しかし、確実に今まで強固にあった信念というか信仰というか何かが崩れかけた気がしました。初めは小さかったですが、会長に対する疑念が確実に芽生えました。今までは絶対にありえなかったものでしたので、小さい疑念でありましたが、大きく気持ちが揺さぶられたのだと思います。

そしてしばらくして大分疑念が大きくなっている頃、この”高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです”という記事が出た時には、これは自分の中でもう信頼できない!という決定打になりました。言動と信心は関係ないとは言っても、心から行動が出てくるということを散々聞かされていた者にとっては、到底納得できることではありませんでした。

講師部や教学が得意な方にとっては、教義的な誤りに衝撃を受けるのかもしれませんが、教学が素人同然の自分にとっては、親鸞会の洗脳から目を覚ますキッカケとしてパクリ問題が非常に大きかったです。ですので脱洗脳の決定打となったこの記事をまずピックアップしました。

そしてもう一つの記事は、その後の気持ちを整理する上で大きなものとなりました。親鸞会を退会したのはいいですが、因果の道理、後生の一大事、阿弥陀仏などについて親鸞会の教義をすべて捨てることができた訳ではありませんでした。むしろほとんど教義的には親鸞会教義のまま頭に残っていました。よって親鸞会を辞めたからと言っても、後生の一大事が重くのしかかってくるのです。これは多くの人が体験することだと思います。

そこで退会された元講師の方たちに話を聞いたりしました。確かに親鸞会とは違う教義だと思いましたが、だからと言ってこちらが正しいのか自分には本当の所は判断できません。

何か指導者的な人から話を聞いてそれに従って生きている。自分で考えず、まずは真実を知っているであろう人から聞いたことを何とか信じよう、結論ありきでそれを納得する為に論理を組み立てていく。

今度の結論は真実かもしれないが違うかもしれない。それよりも信仰過程が親鸞会とまったく同じだ。確かに教義の内容は変わったが、本質的には親鸞会と同じような生活にまた戻っているのではないだろうかと不安になってきました。

活動量、拘束時間、お金の出費は減ったが、何か同じようなことをしている。漠然とそんなことを考えていました。

多分そんな時だったと思います。この”信仰と真実”の言っていることが心にストンと入ってきた感じがしました。

”信仰と真実”は実は最初あまりピンとこなかった記事でした。それどころか若干反発さえしていた記憶があります。

これは「なぜ親鸞会をやめたのか」にも書かれていた同じような内容でしたが、例えば、”私は「『親鸞会の教義が大宇宙の真理だ』と主張は、信念により信じているに過ぎないのでは」といった内容を書きました。それは、私が多くの先輩に質問しても、どうしても、論理的に理解できないことが、少なくなかったからです。それは、「反証不能な因果の道理の真実性」や「三世」「必堕無間地獄」「阿弥陀仏」といったことです。多くの学生が同じ疑問を抱いています”などです。

まさに”信仰と真実”の中に書かれているように自分は信仰と真実を取り違えていたことに気が付きました。真実だから信仰していたと思っていましたが、実はその前提自体が間違っていて、別に真実だからではなく、仮定の話を、何となくの正しく見える論理を元に真実だと思い込んでいたのだと気づきました。

そもそも信仰とは仮説を信じている状態であるのに、真実を信じていることを信仰だと思っていたのでした。

ちょっとしたパラダイムシフトのような衝撃を受けたのは、絶対的な真理だと思っていた因果の道理って確かに科学的に証拠があるわけではないなという気づきでした。

全くあり得ない発想でした。後生の一大事や阿弥陀仏はまだ分かるが、因果の道理が反証不能なものだとは考えもしなかったことでした。おそらく科学的な因果関係の話と親鸞会が説く因果の道理をごっちゃにしていたのだと思います。

どうやら脱会してもまだ思考停止していたみたいだと気づきました。あらためてこの記事を読んでから、やっと自分の人生を少し取り戻せたような気持ちになりました。そこからやっと親鸞会の洗脳から解放されてきたと実感しました。

間違っているかもしれませんが、今現在自分が納得していることは、つまり本質は、教えられている内容が真実かどうかよりも自分が本当に納得してやりたいから行動しているということが重要なのではないのかということです。

人生のコントロール権を自分が持つということです。他人の教えに従って動くのではなく、自分の本当の意思で動くということです。

結果がよくなくても自分が選んでやりたいからやったことだから、責任は自分が取れる。他人の指示で動いて結果がよくないと他人を恨みますが。自分の責任の元に決めて動いたことなら後悔はないです。

要は他人に人生を握られている不自由が苦しみを生み出すのではないのかと思います。苦しくても自分が決めたのなら精神的な苦しみは少ないです。

でも他人に人生を握られているのに、自分で決めた人生だと思い込んでしまうこともあると思います。

嘘や後ろめたいことをやったり、本当はやりたくないが自分の本当の気持ちを押し殺してしまうと、本当の気持ちがどこにあるのか分からなくなってくると思います。

又、思考停止も良くないですが、頭で考えすぎると本当の気持ちを間違うのかもしれません。考えには、今まで聞いてきた間違った教えや知識なども入っているからです。

だから自分は間違ってきました。苦しくても、正しいと思える理屈を優先してきました。苦しいのはやり方が間違っているからだと思っていました。正しいと思える理屈自体は疑わずに。

そこで、この記事で気が付いた大きなことはここでした。それは、今まで自分が思ってきたものの中には、真実と信仰をごっちゃにしているものがあるかもしれないよ、ということでした。

本当に今ある知識や信仰や考えは真実を元にできあがっているものですかと。仮説を何となく正しいからというあいまいさで真実に格上げしていないだろうかと。

だから色々と自分の考え方などを洗い直しました。

そして重要だと思ったのは、仮説を元に行動していることは、それは真実ではなく仮説として正しいだろうと思っているのだとちゃんと認識するということです。

仮説を真実にしてしまうと、ゆるぎないものになってしまって、自分の行動を縛ってしまいます。または他人にも押し付けたり、押し付けないまでも腹がたってしまいます。仮説なものは仮説と認識した上で信じることが大事だと思います。

何かを信仰すること自体は悪いと思いませんし、何かの正しそうなことを人生の指針として生きることは悪いことだとは思いません。それどころか世の中科学的に証明できるないことは一杯あります。

いちいち真実と証明できるものにしか従わないということでは、生きていけません。

そうではなくて仮説を前提にしているということを忘れない態度が大事だと思います。

仮説だという態度であれば、方針転換できます。悪い結果が返って来たら、仮説である前提自体が違うのではと目を向けることができます。

人生は失敗したらそれを教訓に学んで調整修正していくものだと思います。

しかし前提であるものを仮説ではなく真実としていたら、それ自体に目を向ける発想自体が出てきません。仮説自体が間違っているかもしれないのに、やり方が間違っていると思っていたらいつまでも苦しみや逆境から抜け出せないかもしれません。

他人の話、成功者の話、本やTVで言うことを参考にしてもいいと思いますし、親鸞会の中で教えられたことの中に有意義なこともあると思います。ただし、すべては仮説だということを前提にしておく方がいいと思いました。

だから真実を説くと思われる方の話もあくまで仮説であり、真実から出た言葉であっても言葉になったり、自分が受け取る時点ですでに真実ではなくなっているのだから、ある一面を現している仮説であり、それを信じることは信仰であると認識する。そう思うようにしてから、心が軽くなりました。

仏教でも宗派によって教え方が違う。でもどちらが間違っているのではなくある一面のことを言っているのだと思うようになって、あまり構えず色々な意見を本なり話なりネットなりで参考にすることができるようになりました。

ある人のいうことを真実だと思ってしまうと、その人や本の著者に人生をコントロールされてしまいます。ですので、自分の心に共鳴できたものは仮説として一歩引いて色々参考にしていくぐらいの態度をとるようにしたら、身構えず楽になりました。なぜなら他人の言うことが絶対的なものではなく、自分で人生を選択できるような気がしたからです。

もちろん浄土真宗にはとてもまだ関心がありますが、他の仏教の宗派の本を読んでみたり、宗教は置いておいて、普通の一般書や心理学、哲学や経済なども学んでいます。

今の所、宗教(元講師なども含め)に関係するのはもうやめておこうと思っています。もちろんまだ先のことはわかりませんが。今のこの時の目の前のことを当たり前のように人間がすることを着々と行って、今の状況でできることやりたいことをやるだけです。

ただ、これが本当に正しい生き方かはまだわかりませんが、さよなら親鸞会の記事を読んで、どう自分の心が軽くり解放感を得たかを書かせていただきました。

今の所、自分の人生を取り戻せたと解放感を味わっていますが、この先どうなるかはわかりません。でも親鸞会を脱会したことに後悔は全くないので、そう間違ってはいないのではないかと思います。

何よりも主体性をもってこの先、生きていくことができるかもしれないという可能性があります。これは親鸞会に入る前にもなかったことです。

でもこれは個人的に良かったということに過ぎないので他人には他人の生き方があると思いまし、今の所は解放感がありますが、今後どうなるかわかりません。やっぱり真実が分かっていると思われる方の言うことを無条件服従して行って言った方が幸せになるのかもしれません。それはわかりません。

でも今は親鸞会に入る前や入っていた頃より充実感があります。これは「なぜ親鸞会をやめたのか」と「さよなら親鸞会」のおかげです。もし読んでいなければ未だに親鸞会で苦しんでいたかもしれません。

本当に有難うございました。おそらく自分には想像もつかないくらい親鸞会を批判することは大変だったのだと思います。その中今までずっとブログだけでなく、色々カルト宗教対策の活動をされているようで頭が下がる思いです。

自分は何もできないですが、まずは自分の人生をしっかりと立て直すことが今は一番大事だと思っています。

やめてから数年仕事もやめ引きこもってしまい、それは暗い日々でした。でもやっと動き出すことができました。今振り返ると色々と学べたことも多いです。

今はもう親鸞会や色々なことに対する恨みや怒りなどほとんど気にならなくなり自分の人生に向き合うことができるようになったと思います。

ひとつだけ付け加えて頂きたいのは、退会したときに精神的な苦しさを元講師に方に助けていただき大変お世話になり、今でも感謝をしています。

もしかしたら文章力がないがために、元講師の方を悪く言っているように読めるかもしれませんが、そういうつもりは全くありません。自分の方が正しいということでもありません。間違っているかもしれません。

ただ自分に合った生き方を自分で決断して生きていきたい、というのが趣旨です。もし不快に感じられる方がおれたら申し訳ありません。

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かなりどうでもいいこと

さよなら「さよなら親鸞会」、という記事がアップされていました。
http://ikiruimiwositte.blog83.fc2.com/blog-entry-76.html

挑発的なタイトルだったので興味津々で中を見たのですけど、かなりどうでもいい内容でした。でもこのブログを名指ししてくださったみたいなので、一応の礼儀として触れておきます。

> 現在の寺や僧侶は、そんな尊敬に値するのでしょうか?

現在の僧侶も昔の僧侶も尊敬に値するかどうかは人によります。

親鸞会の講師部員にしてもそうです。M野講師のように「我が宗門」とか言って本願寺関係者を装った嘘つきブログを書いても恥ずかしくない人や、このブログのコメントで人格者と絶賛されていたM利講師のような方もおられます。まともに頑張っている人ならM野さんのような人とは一緒にして欲しくないと思うでしょう。僧侶でも同じ事です。

> 「亡くなられた方は仏の御手に還られた」。
> 祖師の教えを破壊する十劫安心の異安心の説法を10分間説法。

前後が分からないのでなんとも言えないですね。ただ、ひどい説法をする僧侶はたくさんいると思います。

> 後でその親戚に聞いたら、呼びもしないのに僧侶が3人来て
> 大体1日の葬儀で100万円かかったとのこと。

出仕するときには必ず事前に喪主と葬儀屋で打ち合わせするので、勝手に来るという事はありえないですね。そもそも葬儀場の準備もありますし。おそらく、何も知らないでウソ書いてるんでしょうね。

あと、100万かかったというのは僧侶へのお布施だけでそれだけかかったのでしょうか。お布施はお気持ちですから100万出されたのでしたら尊い方だと思います。しかし坊さんがそれだけ出せと言ったのならば問題ですから教区と寺名を教えてほしいです。

私は田舎のお寺のせいでしょうか。葬儀に100万という話は聞いたこともないです。私の在所では枕経から始まって百か日まで約10回の出仕で、ご法名も合わせて大体15~30万円くらい包まれる方が多いように思います。いくら必要と言ったこともありませんし、どれだけ包まれてもお気持ちですから全く同じようにやっています。

> 中でも親鸞聖人の御影の掛け軸が2時間で10万円。

親鸞聖人の掛け軸を借りたら2時間で10万円だったのでしょうか。それ、僧侶が貸しだしたんじゃなくて葬儀屋の話では?僧侶がそういうのを貸して金を取るって話は聞いたことがありません。

> 君らが「金儲け云々」とS会批判ができるのか?

出来ますよ。

> 僧侶にしては教えに関してもしろうとだが

このブログには教義的なことは殆ど書いてないんですけど、何を見て言ってるんでしょうね。

親鸞会では大谷派のひどい僧侶の話をいっぱい書いたり話したりして、「親鸞会を批判しているのはこんな東本願寺の僧侶だ」と言うのが流行ってるみたいですね。

別に私はそれでも構わないです。そうやって親鸞会は自分たちの姿を見つめて改めるチャンスを自ら葬ってきましたし、これからもそうでしょう。私はただただかわいそうに思います。

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投稿:だから、私は、高森先生の全てを否定したくはないのです。

親鸞会では、「善をする」のではなく、「光に向かって進む」のだと教わります。「自力一杯求める」のではなく、「他力を聴き抜く」のだと教わります。「善をすれば救われるのか?」と聞かれたら、「信仰が進めば、(必ず信心が徹底して、自力の善は往生の資助にはならぬと)分かります」と答えよと教わります。

じゃあ何でこんなに活動や献金を熱心に勧められるのか?うまいそばを食ったら、人にいわずにおれぬように、無上の法を聞けば、人にいわずにおれんでしょうと、そういう意味で、「財施の多寡は、法施の多寡による」んであって、強制すべきものではない、と教わります。

また、目標は、あくまで自らの意思で設定する「赤い石」であって、これまた強制すべきものではない、と教わります。さらに、財施は、その絶対的金額の多寡ではなく「精一杯が尊い」のだと教わります。

助かりたいと思ったら活動・献金せよ、と言われたことは、私の記憶ではなかったと思います。だから、私としては、宿善を求めよということは、熱心に聞法せよ、ということとほぼイコールだと聞いていました。

ところが、実際には、助かるにはまず法施や財施で成果を上げることだ、という風潮があったように思います。その原因は、会自体が「善」を勧めるのではなく、「人集め・金集め」を推進する体質だったことにあります。

講師部員は、顕正戦の終期が近付くと、目標達成のためなりふり構わない行動に出ることがしばしば見られました。そういう自らの言動を正当化するためだと思うのですが、「法施や財施を頑張ることは、仏法を求めることで善になるが、仕事や勉強を頑張っても、それは生きるためにすることで、求道の妨げになる必要悪だ」などという趣旨のことを思ったり言ったりしているように感じました。目標が自主的なものではなく、強制的なものか、あるいは生活のかかったものであることは、傍から見ていても明らかでした。

私は、法施や財施は宿善になるが、その他の善の実践は宿善にならぬなどということには根拠がなく、聞き間違いであろうと思っていました。

それで、私は、高森先生は真っ当なのに、その下に無茶苦茶な運用をしている連中がいると、そのように思い込んでしまいました。実際、講師の方でも、末端の会員でも、この人本当に分かってんのかなという感じのする人もあれば、この方は本当に真剣に救いを求めておられて、しかも良識が備わっておられると思われる方もあって、それは、会の中での地位には余り関係ないように感じられていましたから。

でも、聞法ドメイン計画が発表されて以降、何かおかしい、と思い始めるようになりました。それと並行して、さよなら親鸞会で、衝撃的な記事が出てくるのに接し、少しずつ、親鸞会から離れようという気持ちが強くなっていきました。

まず、何といっても、「次第にその迷雲も晴れ」が驚きでした。しかし、こんな信心のまま、あんな布教ができるのか?という疑問もあり、この問題は、私にとっては、信心に対する疑問というよりも、「この人は、なぜ、華光会を、土蔵秘事に類するものなどと批判しているのか?どういう感覚をしているのか?」という疑問になっていきました。

その後、聞法ドメイン財施の規模と内訳を見て、呆れました。正本堂の絵画の高級さにも違和感を感じていたところに、本尊の原価が無茶苦茶に安いことが指摘されるに至っては、この人の意図がどこにあったか、もう否定できなくなったと思いました。アニメのパロディで、「この前は正本堂やったし、今度は同朋の里じゃ。何だかんだと、とりよる」とあったのも、もはや笑えませんでした。

この時点で、親鸞会に献金する気持ちは完全になくなりました。

その後の建築関係の情報に接して、驚きました。これは本気で業者さんを怒らせたとしか思えない、親鸞会はこんな団体だったのかと、ショックでした。やってることは、講師部には偽装請負親友部にはサービス残業強制、そうでいながら、あんな無駄な会長専用施設を建て、しかもそれを必死に隠すなんて、とんでもない話です。

高森先生は、会員のことなど考えていない、自分のために献金させていただけだ、という確信が生まれるとともに、「私の白道」を読んで、教義上にもその点の影響があるのではないか、と感じ始めました。しかし、その点にハッキリした整理をつけるには至らないままでした。

そのような時期に、「ある老人の孤独な家出」を読みました。これは、本当に衝撃でした。不倫事件があっても光晴さんを除名せず、家族のためだけに行動して、自分を人格者のように宣伝し、会員に献金させてきていながら、最後に、こういうことを機関紙に書くのかよ、冗談じゃない、勘弁してくれよと、そう思いました。

正本堂でカラオケ」事件は、比叡山の根本中堂で、坂本冬美が演歌を歌っていたことを話しておられたことを思い出させてくれました。この人、仏法を何だと思っているのだろうと、そういう気持ちになってきました。

そういう心境で、「飛雲」を読みふけりました。

読むのにも理解するのにも時間がかかりましたが、ある程度のところで高森先生が意図的に浄土真宗の教えを改変し「善の勧め」をはじめたと感じられたので、退会するに至りました。ただ、もう会にかかわる気持ちがなくなって久しく、疑問を感じたからやめたというよりは、退会のきっかけになった、というのが実際です。

それにしても、大沼法竜氏の本をタネ本にしておきながら、「本派本願寺の危機 どちらが異安心か」の三三法門の記述を改変し、「方便より真実え 浄土真宗」の善の勧めの記述を改変してまで、善の勧めを強く打ち出すというのは、全くの確信犯としか思えません。山賊より重い罪を犯しているのは誰なんだと言いたいです。

しかも、平成12年頃の「教学聖典」改訂も、断章主義的に、善の勧めを会員に刷りこむ試みの一環だった疑いが濃厚で、さらに、七祖聖教を読むなというのも、選択本願念仏集を読むと、善の勧めのない法然上人の教えと三願転入の教えの整合性を問われて、回答に窮するからではないかと思われ、なんということだという気持ちばかりが強くなっていきます。

ただ私は、そう思う一方で、自分が、まともな飯を食えない日ばかりで、徹夜続きで、辛い労働に耐えて、必死になって親鸞聖人の教えを求めようという気持ちになったのはなぜか、運命は自分で作るしかないものだという信念を持つようになり、生き方も性格も大きく変わってしまったのはなぜか、そう考えると、やっぱり、浄土真宗の教えは素晴らしい教えなんだぞと教えてくれたのは、高森先生だったなと思うのです。

人は、生まれたときには、自分で決めたわけでもない、ある状況の中に否応なしに投げ込まれ、しかも、様々に関わってきた全てのものを失う死に向かって進んでいくというのは、ハイデガーの言ったことらしいですよね。

そういう人間の置かれた状況と、極楽に往生すべき身になる意義とを、簡潔にあらわすたとえは、浄土真宗で、真剣に救いを求めた者でないと作れないのではないか、と思うのです。

だから、私は、高森先生の全てを否定したくはないのです。でも、現状、何か信じられる点があるとすれば、それは、信心しかありません。信心を得た喜びから布教を始めたものの、名利のために教義を曲げてしまい、長年のうちにズレが大きくなり、やがて修復不能になってしまった。でも、もともとはそういう意図ではなかった、そう信じたいのです。

私は、高森先生が、「私が名利のために行動するようになったら、私を顕正して下さい」と言われたと聞いています。

だから、高森先生には、今起こっている批判に対して、これは「破るべきもの」ではなく、「傾聴に値するものだ」と真摯に向き合って貰いたい、そして、できることならば、会員と会員であった者全員に謝罪した上で、誤りを全て改めてもらいたい、という気持ちがあります。

しかし、「19願は雑行の勧めだ」、「三願転入は万人が三世で通る道程だ」、「一念で三重廃立する」と言い張っているようでは、困ったものだと思います。誤りを改めて、親鸞聖人の教えを正しく伝えることよりも、善の勧めを守ることが大事なんだろうかと思ってしまいます。

この頃は、もう高森先生のことは考えたくないという気持ちになっています。ただ、どんな人であれ、自分にとっては、恩のある「先生」であるということに変わりないと思っています。

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