投稿:週刊金曜日(2011年9月23日号)の記事をめぐって
【序】
「やや日刊カルト新聞」主筆の藤倉善郎氏の自宅が9月16日、富山県警から家宅捜索を受けた件について、硬派な市民運動系雑誌として知られる週刊金曜日がニュースとして採り上げるとこちらの記事で知ったので、去る金曜日、書店で購入してきました(2011年9月23日号)。どこでも売っている本ではないので少し調達に手間取りましたが、問題なく手に入りました。一時のことを思えば、随分手に入りやすくなったものです。勿論、図書館で読むことも可能です。
・富山県警「やや日刊カルト新聞社」アジトを家宅捜索=著作権法違反容疑
・参考:Wikipedia contributors. "週刊金曜日." Wikipedia. Wikipedia, 10 Sep. 2011. Web. 27 Sep. 2011
この記事は、「メディア一撃」という常設コーナーの内の一つとして書かれています。これは、ジャーナリストやフリーライター等の書き手が顕名でメディア関連の出来事などを採り上げ論評するスタイルのコーナーで、単なるニュース記事よりも書き手個人の意向が強く反映されるものです。この号でも5つの記事が書かれており、そのうちの1つが、今般の事件に関する記事です。
【1,記事からわかる出来事の概要】
"「著作権法違反」の容疑でパソコン押収した富山県警"というタイトルで書かれたこの記事の書き手は、ジャーナリストの渋井哲也氏でした。知っている名前でした。渋井氏といったらメディア言論に関して何冊も著作のあるプロのジャーナリストで、私はこの人といったら自殺サイト問題にかかわる自殺事件を詳細に調査した著作を思い出します。「メディア一撃」コーナーに顕名で書かれているということは、この渋井氏自身が今般の出来事に興味を抱き、記事にするに値すると判断したものだと見て良いでしょう。
この記事を目にする以前、私は、市民運動系の雑誌ということと、消費者問題を扱う弁護士がこの事件に強い関心を持っているという話から、この記事もそういう方向性の記事かと推測していたのですが、実際に出てきた記事は、もっと直球でした。消費者問題という切り口ではなく、ネット言論で生じたトラブルの一種として、著作権法が反対言論抑圧の口実として持ち出された事例であることを示唆する内容でした。記事には以下のような記述があります。
「著作権法は表現の自由に対する強い制約になりえます。海賊版等の場合を除き、警察が著作権法違反で捜査する場合には慎重さが求められますが、今回の事件は、著作権法が公益性のある言論を抑圧する口実になることを明らかにしました。当然不起訴になるべき事案ですが、家宅捜索だけでも一市民にとっては大きな負担です。今後の改正論議に際してもこの視点を忘れてはいけません」(山口)
要するに、親鸞会側の狙いは端から見て丸わかりだということです。無理筋の告訴によって当局による初動捜査を誘導し、批判記事を書くことを萎縮させること。たとえ本人たち、藤倉氏やぶるうの氏が書くのをやめないとしても、家宅捜査を受けコメント欄で犯罪者だ犯罪者だと騒がれる可能性があると知らせておけば、少なくとも面倒くさいですから、世に数多あるはずの書き手を萎縮させ、ブログ等で批判的なことを書く者が減るかもしれない。…姑息といえば実に姑息な発想ですが、そういう意図ばかりが伺われる告訴だということです。だからこそ、ネット言論のトラブルに注目するジャーナリストが興味を持ち、著作権等を口実とした表現規制に敏感な左派系の雑誌が採り上げたのでしょう。
尚、この記事では、16日の家宅捜索の際押収されたパソコンおよびサーバーが、18日には返却された旨も書かれています。すごいスピード返却ですね。私が「けいおん!」のレンタルDVDを返却するよりも早いです(^_^; 因みに、これは正本堂図面の件で同様のことがあった際のことを考えても圧倒的に早いです。捜査当局の見方を伺うのに、この一件をしても思い半ばに過ぎようというものです。
ともあれ、この一件は、司法的にはそれほど進展してゆくものとは思えない事件で、捜査当局にとっては無理筋です。唯一、全文が掲載されたという一事が形式的に構成要件に引っ掛かるところですが、本件は一見して41条の違法性阻却事由に該当する可能性が高い事案ですから、結局違法性を問うことは難しいわけです。問題となった「やや日」の記事(2010年2月4日付)は親鸞会が学生相手に身分を偽った偽装勧誘をしているというのが趣旨で、そのための冊子掲載だったわけですから、その証明のためには全文公開されるほかなかったでしょう。冊子のどこにも「親鸞」「親鸞会」の文字が出てこないというところがミソなわけですから。ということは、公開されたのが全文ではあっても「報道目的上正当な範囲」ということになるわけです。
もっとも、たとえそうだとしても、親鸞会の目的が家宅捜索による萎縮効果そのものだとしたら、たとえ起訴されず有罪とはならないとしても、家宅捜索されそのことが知られた時点で目的を果たしたことになります。但し、これは親鸞会にとっては諸刃の剣です。というのも、訴えの材料が勧誘冊子である以上、それが法廷で争いになった場合、勧誘方法とその冊子の関連性が議論の焦点にならざるを得ず、その際には、親鸞会が学生相手に身分を偽った偽装勧誘をしているということが公的に証明されることを意味するからです。その意味では、今回の訴えは親鸞会にとって、不起訴にならなければならないわけです。また、これはあくまで憶測ですが、起訴されるという見込みになったら訴えを取り下げるかもしれません。
皆さんはこの事件のことを最初に知ったとき、どう思われたでしょうか?恐らく多くの人は憤りを感じたことでしょう。私はというと、腹が立つというより、呆れました。「ああ、馬鹿だなああの人たち(=親鸞会)、ものが偽装勧誘の証拠だってわかってるのか?」と。いささか無責任な言い方をすると、僕が藤倉さんの立場だったら、哄笑しながら「かかったな」と言うと思います(藤倉さん本人の意思はわかりませんけれども)。もし親鸞会の偽装勧誘の実態が法廷で証される事態に至ったならば、明らかに親鸞会の方が失うものが圧倒的に大きいのです。だから、私はコメント欄で、かれらの告訴戦術を「自爆テロ」と揶揄したのです。自爆テロでは攻撃対象を破壊できないかもしれないが、自分は確実に死ぬのですから。
自爆テロは、居場所も将来の見通しも完全に失い、極限まで追い詰められた人がする行動だと聞いたことがあります。親鸞会はどうなのでしょうか。親鸞会は、そこまで追い詰められているのか、それとも、自爆が理解できないほどおばかさんなのか。反社会的行動が日常になりすぎて感覚がマヒしている人たちのことだから、後者ということも十分考えられますが。。。
【2,親鸞会が捨ててきたものは絆】
週刊金曜日の記事に戻ります。著作権法が表現規制の口実になること、それが親鸞会の告訴で明らかになったということが、記事を書いた渋井氏や、それを掲載した週刊金曜日編集部の興味を引いたのではないかと先程私は書きました。もちろん、それ以外の切り口でこの一件を見ることも可能です。偶々今回は表現規制の口実という切り口でしたが、偽装勧誘ということになると、消費者問題として、大学運営の問題として、教育問題として理解することが可能になります。
また、そもそも「やや日刊カルト新聞」そのものに渋井氏が興味を持っていたということも考えられます。じっさい、記事の結びには、かつて「やや日」の人たちがやった、統一協会の断食デモに対抗して断食をやめるまで暴飲暴食を繰り返す「暴飲暴食デモ」が紹介されています。面白いことをしていれば話題になり興味を持たれるということかもしれないわけです。勿論それだけで記事が書かれたわけではないでしょうけれども、つくづく遊び心というのは侮ってはいけないものです。ホモ・ルーデンスという言葉がある通り、遊びは人間の文化的生産力の核心に関わるものなのですから。
ともあれ、金曜日の記事にしろ、また様々な取材申し入れがあるという話にしろ、たくさんの方面から興味関心を持たれていることがわかりますし、また様々な切り口からこの問題にアプローチすることが可能だということもわかります。言論抑圧を巡る言論と人権の問題、著作権法改正論議、偽装勧誘という消費者問題、大学運営をめぐる社会問題……etc。
親鸞会の反社会性は一面的なものではありません。偽装勧誘をめぐる一件にしても、こうしたたくさんの社会問題のトピックスにつながっていることがわかります。要するに、その分だけ親鸞会は、反社会的な行動を日々繰り返し、またたくさんの人にこれまたたくさんの方向から迷惑をかけ続けてきたということです。廃悪取善が聞いて呆れるというか世を儚んで出家してしまいそうな話ですが、とにかく親鸞会が世の人びとにたくさん、たくさん迷惑をかけ続けてきたことが、このようなかたちで注目される結果を生んだわけです。すでに親鸞会は四面楚歌の状況にありますが、まさに自業自得というものでしょう。
この自然の摂理が理解できない親鸞会の人たちは、ともすれば陰謀説に陥ったり、特定の個人を首謀者に見立てたりして、じぶんたちを取り巻く状況について誤った認識に逃げ込もうとします。じっさいにはたくさんの方面からその反社会性を問われているわけですが、かれらの世界観の内側では、じぶんたちを攻撃するのはつねに単純で、単一で、一面的なものです。なぜなら、それは想像された他者なのだから。他者から目を背け続けてきたかれらは、物事を直視することができないでいるのです。
【3,ローズマリー的卑屈】
昔放送された「明日のナージャ」という少女向けアニメに、ローズマリーという女の子が出てきます。主人公ナージャと同じ孤児院で育った彼女は、その後スペインでメイドとして下働きをし、みじめな日々を送ることになるのですが、夜な夜な彼女は暗い部屋の中で、鏡を前にドレスを身に中てて「私は本当はプリンセス」と、卑屈な笑みを浮かべるのです。そしてローズマリーは、旅芸人一座に身を置くナージャと再会したとき、再会を喜びながらも旅芸人に身を堕としたナージャを哀れな子だと蔑むのですが、その彼女が本物のプリンセスだとわかったとき、激しく動揺し、憎悪して、ついにはナージャの偽物に成りすますに至ります。……何だか、誰かさんに似ている気がするのは私だけでしょうか。
思えば、親鸞会の人たちは他者を敵視し、他者との絆を断ち、内側にひきこもることばかりを繰り返してきました。その最たるものは高森会長でしょう。高森会長の著作が伊藤康善師、大沼法龍氏の著作からの剽窃で成り立っていることはすでに周知の事実ですが、剽窃するからには伊藤師や大沼師の著作を読み、影響を受けているわけです。その場合、本来の筋合いからいうなら、自分の言葉で話しつつ、その影響を伊藤師、大沼師から受けた旨をはっきり言明することが必要だったはずです。名前を出して引用、言及することは、影響を受けた相手に対する最低限の礼儀であり、また絆を結ぶ行為です。しかし、高森会長はその絆を断ち、両師の言葉をじぶんのオリジナルと偽ることによって、内輪の絶対者となる道を選んでしまった。つまり、親鸞会という内的世界に「ひきこもった」わけです。
こういうローズマリー的卑屈によって絆を断ち、内輪の想像的世界で君臨することを選んだ高森会長を絶対的中心とする親鸞会は、なにもかもが空虚です。かれらは、自分を正しく認識することもできなければ、他者を正しく認識することもできない。だから、今般の件にしても、これが「自爆テロ」になるということさえ認識できていないかもしれない。自分たちは偽装勧誘をしていながら、それが反社会的行動だという自覚さえなく、身の潔白を確信さえしているかもしれない。だから、罪の自覚も反社会性の自覚もなく、まったくの善意のつもりでひとを傷つけ続ける。
でも、その結果行き着いたのは四面楚歌です。絆を断ち、他者から目を背け続けてきた彼らは、人びとが抱く自然な反感を理解できない。まして、その自然な反感が自然に連合し、自然に流れをつくって、会長の剽窃が明らかになったり会長の息子の不倫を契機とする騒動の顛末が白日の下に晒されたりするなどということは理解できないのでしょう。誰かが糸を引いているはずだと妄想するか、批判的なのはごく一部の限られた人間だけと過小評価するか、群賊悪獣悪知識だと抽象的に理解するか。いずれにせよ、こうして他者のまなざしから目を背け続けるかぎり、四面楚歌の状況は自然の成り行きでますますひどくなるでしょう。
【4,We won't need a hero.】
もっとも、批判している側はとくに連携しているわけでもなんでもないのだから、過大評価されているのかもしれません。藤倉さんにしてもぶるうのさんにしても、もちろん僕らにしても、それぞれの意志でそれぞれの意図することをしているだけだし、剽窃のことも偽装勧誘のこともその他のことも別に特定のプロジェクトの一環として暴露されたわけでも何でもない。それぞれが個別に動いて、個別に明らかになっただけのことです。それが、たまたま成り行きから「やや日」とかさよならに情報として集まってきたに過ぎないわけです。
既にコメント欄でも言及されているように、いま親鸞会をめぐって起きている事態は、いわゆる「アラブの春」や、中国高速鉄道事故をめぐって中国で起きている状況などと同時代的なものです。ひとつひとつは小さな、just a bit にすぎない声を、インターネットの技術は連合させ、同時多発的に、個々勝手に動いているだけの(スタンドアロンの)個人をスタンドアロンのまま連合させ、ムーブメントのような状況を作り出すことがある。それはかつて私がコメント欄で以下のように書いた通りです。
じっさい、私たちには中心がありません。私たちにしても藤倉さんたちにしても、誰が中心とかリーダーとかいうわけでもなく、それぞれの立場で親鸞会のやり方について憤りを感じた個々の人たちが個別に関心を持ち、偶々『やや日』やさよならを結節点として繋がっているにすぎないわけです。でも、じつはそれがむしろ強みなのではないかと私は思うんですね。こういうリゾーム状のつながりは中心がなく、いくら親鸞会が姑息な手で自爆テロ(笑)を仕掛けてきたとしても、世間全部を爆破するわけにもいかない。この点、高森会長という空疎な中心しかない親鸞会と正反対です。僕らは個別に興味を広げればいいだけですが、かれらはそれを抑止しようと思ったら全部自爆テロで撃破しなければならない(笑)。じじつ、結節点になりうるものはじっさい他に幾らでもあるわけで、それがわかっているからぶるうのさんたちも勇気を持って思いきりやれるのではないでしょうか。
親鸞会問題に関していえば、かつては2chやウェブ掲示板、いまは個人ブログが中心ですが、今後はtwitterやfacebookなどに自然に移行していくかもしれません。そうなったらどうなるか。もうどうしようもないですよ。個別のつぶやきやRTなどは、本当に小さな140字を越えないものでしかないけれども、それはものすごい速度でものすごい範囲に伝播してしまう。しかも、タイムラインはフォローしている人のつぶやきしか表示しないものなので、いくら親鸞会の対策員が躍起になったところでそんなものは存在しないのと一緒。まったくの無力です。twitterやfacebookがエジプトほどの大国をひっくり返す力を持っているのは、そのためです。そして、利用者は特別何かをする必要はない。たんに興味を持ち、つぶやき、情報をリークするだけでよい。それで勝手に事態は動く、そういう時代に既になっているのです。
さよならに関していえば、さよならがこれまでの数多の批判サイトと違ったところがあるとすれば、特に機関的に運営されているわけでもない(ですよね?)ブログでありながら、どこか「アラブの春」と同じようにリゾーム状の人と人のつながりを紡ぎ出す結節点になっているところにあるのでしょう。そこで飛び交っている情報は、基本的には(「アラブの春」をめぐるtwitterやfacebookと同様)たんに事実の記述です。そして、それが実際いちばん破壊力があるわけです。組織化であるとか剽窃の訴訟であるとか、いろいろ意見はありますが、個人的には、まあそれはやりたい人が、やるなら個別にやればいいかなと。ペンは剣よりも強しというように、淡々と事実が伝えられるというのが一番力になるのではないでしょうか。
単なる事実の記述、たんなる興味が、じつはいちばん威力を持つ。そういえば、こんな言葉がありました。最後に紹介しておきます。
アオイ:言葉では知っていても、実際に目の当たりにするまでは信じられなかった。オリジナルの不在が、オリジナルなきコピーを作り出してしまうなんてね。あなただったら、あの現象を何て名付けますか。素子:"Stand Alone Complex"。
アオイ:イエス。"Stand Alone Complex"……。元来、いまの社会システムには、そういった現象を引き起こす装置がはじめから内包されているんだ。僕にはそれが絶望の始まりに感じられてならないけど………、あなたはどう?
素子:さあ、何とも言えないわね。だけど私は、情報の並列化の果てに個を取り戻すための、一つの可能性を見つけたわ。
アオイ:因に、その答えは?
素子:「好奇心」……、多分ね。
(「攻殻機動隊S.A.C.」より)
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