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お詫びと訂正(井上雄彦の屏風絵巻について)

皆様にお詫び申し上げます。

7月25日にアップした記事、私を犯罪者呼ばわりする方へ(回答)にて、

私は大谷派が御影堂の修復や屏風絵巻を書く金があるのならば、その半分でもいいから布教のために使ったほうがいいとどこに呼ばれてもそう主張しています。これのどこが「悪口」なのでしょうか。

と書きましたが、ある方から作者の井上雄彦氏はほとんど無償でこの屏風絵巻の制作を引き受けたことを教えて頂きました。

訂正しお詫び申し上げます。知らないのにいい加減なことを書いてしまい申し訳ありません。

それにしてもこのブログ、親鸞会関係者の方にのみ読まれているものと思っていましたが、実際はそれ以外の方にもわりと読まれているのですね。

あとすみません。コメント欄に高森会長の息子の人格について何度も何度も書かれる方がおられます。

そんなに大事なことでしょうか、それは。

私は過去に高森会長の息子のスキャンダル疑惑があったときに、高森会長が全講師部員を3日間、法話も休ませ本部に召集し、その疑惑を隠蔽し闇に葬り去ろうとしたとき、強いショックを受けました。

しかしそれは、息子だけを特別扱いして、息子を守ることを親鸞会の命である布教より優先させたことに対するショックであり、怒りです。

高森会長の息子自身は、確かに人格的にどうだろうかと思う部分もありましたが、面倒見のいい、情に厚い面もありました。

彼の人格それ自体が親鸞会の致命的な問題だとは思いません。

ただ、仏法を伝えるという名目の元にどれだけでも人を傷つけ、ないがしろにする親鸞会の体質は、どれほど批判しても批判しすぎることはないと思います。

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コメント

さるべき業縁があればいかなる振る舞いをするのも人間なのだから、私も会長の息子の人格攻撃には違和感がありました。
問題は、それを組織的に隠蔽しようとする体質なのだと思います。

会長の盗作についても、盗作したことを素直に認め、それを反省しないことが問題なのです。

人間みな極悪の悪人であるのだから、人格攻撃をすることよりも、
組織的な問題(隠蔽、不正会計、組織的な反社会的行為)、
教義上の問題(数多くあります)
を重点的に指摘したほうが、「現会員」には説得力があると思います。

投稿: | 2011年8月27日 (土) 21時09分

>管理人さんへ

屏風絵の作者は「井上雄彦」さんですよ。雅彦ではありませんので、念のため。

投稿: | 2011年8月27日 (土) 21時21分

例の不倫疑惑後の講師部合宿については、S田さんの「私の白道」を読む限り、会長が息子をかばい、疑惑を揉み消そうとしたことが見て取れました。会長が組織の秩序よりも身内の保身を優先したことに大きな不信感を持ちました。
退会した今、親鸞聖人の真のお勧めよりも身内の利得を優先しているのがいよいよ明らかです。

投稿: | 2011年8月27日 (土) 21時57分

いかなる組織も運営するのは、人が運営します。
会社は取締役社長、親鸞会は会長、自称全知識が運営しています。親鸞会に株主が無存在ですから、運営の全権は会長です。息子さんの人格攻撃に違和感の方も多数存在すると思いますが、親鸞会の隠蔽、盗作、不透明会計も人が行うと思っています。
現在の運営は息子さんが決定権を所持して運営されています。現在親鸞会ニ代目の指名はまだですが、どこのどちらさんに聞いても、ニ代目は息子さんです。
息子さんの人格攻撃 ( この表現が適切か? )に違和感なら控えもしますが。息子さんの自分本位、自分勝手、人を人ともの言動をさよならで明らかにする事は、親鸞会を正すことに繋がっているのではありませんか?現役学徒さんも親鸞会、講師、それを束ねる布教局長の人間性を明らかにする事は、親鸞会を正す事と思います。

投稿: | 2011年8月27日 (土) 22時08分

高森さん一家の生活費の収入は会員のお布施です。
一般の労働者収入ではありません。株式投資で株主配当はあるかもですが。
株式投資も会員のお布施です。つまり高森一家は24時間公人と判断しています。
公人だから許せない、認められない言動があります。
人格攻撃で違和感と思われと不快と言われれる事態が、息子さんに振り回されて被害を受けて、コメントで皆さんに訴えた人に対しての人格攻撃ではありませんか。
前の( 8月15日の最後付近のコメントを読んで下さい)
人格攻撃と批判されて、憤慨されています。
批判する人は、さぞかし偉い人なんですね。
そんな偉い人が、さよならに訪問する必要があるのですが?場所を間違えていますね。もっと高度な場所に行かれたら。

投稿: | 2011年8月27日 (土) 22時38分

息子の取り扱いは難しい。
まだ親鸞会全体の責任者とはいえないから、息子の人格即親鸞会の欠点とは
いえない部分も確かにある。

個別的に考えるべきではないか。

たとえば息子が暴走族であった点は親鸞会とは関係がないから、
それほど責めるべきものでもない。

不倫事件はどうだろう。
これは関係者が親鸞会に所属していたこと、このような不道徳は許されないとする方針を
親鸞会が採っていたこと、息子が責任ある立場にあったこと、
親鸞会所属関係者に深い傷を与えたことなどを考慮すれば、
人格面でやはり取り上げて批判されてしかるべき問題と考える。
この事件の処理の仕方がさらにまずかったこと
(「いじめないでくれ事件」)で親鸞会がより深く信用を失う契機となった。

あと講師部で威張り散らしていて、嫌いだったという話も数多く聞く。

息子と接触した人は数多く、みな接触の仕方や立場、感じ方など千差万別なので
十把ひとからげには言えない。
ただ息子の起こした事件や振舞いについて最大公約数的な見方は
ある程度固まっており、今後親鸞会で彼がどんな立場に立ち、
どのような言動をするかで、人格に対する批判も
やむを得ない場合もあると思う(例えば、さらに不倫を繰り返すなど
した場合・・まったく無反省)。

是々非々の精神が必要だろう。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時02分

>あとすみません。コメント欄に高森会長の息子の人格について何度も何度も書かれる方がおられます。

激しく同意です。。

同じことばっかり何度も書いたコメント見るのに嫌気がさして、しばらくさよならを見ないでいました。

正直、思考停止状態だと思いますよ。
ロジックに発展も何もないし、陳腐すぎます。。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時03分

ぶるうのさん、難しい、微妙な問題を提起されましたね。ただ、あえてこの難しい問いを投げかけるのは相当に勇気のいることだったのではないでしょうか。共通の敵を持つ僕らは、放っておけば高森親子を叩いて溜飲を下げておけば皆気持ちのいい思いをできたかもしれない。しかし、このサイトも訪問者が増えて転機を迎えつつあり、僕らも親鸞会への怨恨を越えて第三者に説得力をもつ何かをもっているかどうか問われる時期に来ている。そのために必要と判断されたのではないでしょうか?

私自身は、長男の言動はある意味で批判されるべきだと思います。裸の王様を「裸だ」と言う人が一定数いることは必要ですから。ただ、ややこしいのは、それが正当化されるのはあくまで親鸞会の病理にかかわる限りのことで、それ以上は個人を叩いて溜飲を下げることになりかねないわけですが、にもかかわらず、親鸞会が高森商店である性質上、その区別は容易ではないわけです。ただでさえ人生を狂わされた悔しさを抑えて冷静になるのは難しいのに、です。

今後私たちは長男を批判するとき、つねに同時に、その批判がなぜ必要なのかを問われることになるでしょう。その結果、さよならのコメ欄がもっと殺伐とするかもしれない。要するに、批判者としてタフになることが要求されるわけです。賽は投げられたわけです。

とにかく、その決断には迷われたことでしょう。私は最低でも、その勇気は理解したいと思います。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時16分

おもしろいですね。
いろいろ意見があって。
私は息子についての書き込みは内容が陳腐なためさらっと流し読みしていた関係で
それほどひっかかることはなく、そんなたくさん書き込みがあったかな、と思いましたが、
過去のエントリで「息子」の文字で検索すると多くでるのでびっくりしました。
私も息子が人格的にどうかなと思う点はぶるうのさんや多くの読者の方と同じです。
ただ現在息子は法話など親鸞会の表舞台にあまり出てきていませんので
親鸞会批判と息子の人格は今ではあんまり結びつかない点多くなってます。

あまり息子のことばかり注視していると、親鸞会の反社会的な性格を見失う虞なしとしません。
悩める学徒を救い、はまっておかしくなってる学徒に気づきを
与えるというさよならのメインテーマからあまりそれないようときどき注意喚起が必要ですね。

親鸞会の対策員などから、さよならは「個人的な愚痴」と言われても、堂々と違う!と言いたいですね。

もちろん親鸞会関連でまた悪さをやらかせば、息子は批判すべきですが、
ほどほどということも知恵です。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時46分

あと井上雄彦批判の件ですが、私は率直にそれは違うよと思っていました。あれは井上氏本人が親鸞聖人の生き様に打たれ、その魂の響きを表現した「本物」の作品です。そりゃあ氏は信心決定していないかもですが、阿弥陀如来の誓願はそんな偏狭なものではないでしょう。ただ、これはぶるうのさんの真宗観が私よりストイックというだけかもしれず、ひょっとして個人的に話す機会でもあれば軽く訊いておけば済むの話と思い、場違いと思ったのであえてここでは書かなかった次第です。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時53分

すみませんつながりがややこしくなりました。2011/08/28 1:53:28 は2011/08/28 1:16:33が書いたものです。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 01時55分

ここまでのコメントを読んで、皆さん文章上手ですね。
息子さんの批判、高森一族の批判については、根拠があり、自分と周辺の被害なら書き込みは無条件で認めるべきと思います。
高森一族は個人ではなく、親鸞会高森一族は、高森一族イコール親鸞会です。最初に文章上手と書きました。皆さん、それなり学歴と教養の中でのコメントですが、コメントの文章も長文を書けない、なぜ書けないか、文章を整理できない、まとめられない方もおられます。
コメントを書いても、5行10行までしか、まとめられない方もおられます。元親鸞会会員で被害にあい、親鸞会を信じて、お布施と称して莫大なお金を出した方もおられると思います。そんな方が、さよならで書き込んで、皆さんに知って貰おうと書き込んだ、魂の叫びを否定する事は、慎重にして頂きたく思います。
管理人の方が不必要と感じられるのならば、仕方ありませんが管理人の方も、( あとすいません )の前置きをしてある通りに、かなり遠慮がち ( コメントをする人に ) です。
さよなら、には多数の訪問者、書き込み者がおられます。
自己中になり、自分の意に達しない文章については、批判的になりますが、まず教養のある方は、道を狭くしたり、閉鎖的にしないで頂きたいです。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 06時06分

コメントに対してのコメントについて一言。
多数の訪問者、聞き込み者が、さよならを支持しています。
確かに問題コメントもあると思います。
その場合最低限の礼儀として、厳守しなければならない事もあります。
上から目線は×頭ごなし的は×教養を出して×自分にとって意味がないから、批判的な言葉×コメント誘導×これは同等のコメント者に対してです。
確かに頭の良い人が読まれたら、馬鹿馬鹿しく感じられるコメントもある事でしょう。
もう少しさよならを高度にしようとの意味から、自分に不必要と感じるコメントを排除の考えも理解します。コメント一番の方は、人格攻撃と書かれたのは、息子さんの被害者のコメント者に対しては、×と思います。息子の事でさよならでコメントした方に攻撃的暴力と感じます。
その方は、管理人の投稿文章を分かりやすく説明しようと親切心の中で、普段思っている本音を言われたと思いますが、管理人さんが、あとすいません、の前置きがありましたから、管理人さんもコメント者に敬意と尊重の礼儀の上でと、思います。同等者のコメントを尊重する事は、自分のコメントも尊重される事ではないでしょうか。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 07時46分

>息子さんの批判、高森一族の批判については、根拠があり、自分と周辺の被害なら書き込みは無条件で認めるべきと思います。

賛成です。このルールは簡潔明快でいいのではないでしょうか。

私も長いものを書きます。というより、一番理屈っぽいんじゃないかという自覚があるので、じつはあまり登場しないように気をつけています。前エントリまでは一日一回という自分ルールでやってました。もっと抑えろと言われるなら私はもっと抑えますけれども、まあ心配なさらずとも長いのはそうしょっちゅう書けるもんじゃないのでご安心ください(苦笑。

短文で直接怒りをあらわにされる方には、そういう方にしかできない役割があると思います。また、それでいい、それができるというのがさよならの良さでもあると思うので、今回の管理人さんの問題提起を書き込みをためらうような風に取られなければと願います。節度を外れおかしな流れになったら、そのとき個別に軌道修正されればいいだけの話ですから。

…そういうことで良かったですかね?>管理人さん

投稿: | 2011年8月28日 (日) 07時54分

コメントを書き込みをする者には、最低限の厳守があると思います。
確かに問題コメント、無意味コメント、と感じられるコメントがあると思います。が。
コメントにコメントをする場合。
上から目線は×と思います。
それぞれの方がそれぞれの立場でのコメントですから、敬意と尊重の受けこころでコメントするべきと思います。
人間は弱いもので、自己中は誰しもです。
さよならで多くコメントをしたら、自分がさよならの御意見番的な存在と思い込み、自分で御意見番イスに座り込みたいのですが、コメントする者は、同等です。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 08時05分

息子批判は以前からの言動に対する反省が全くない上に、人望がない。
批判されても仕方ない。 一方的な感情論もありがちだが被害者も多いしね。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 08時45分

>あとすみません。コメント欄に高森会長の息子の人格について何度も何度も書かれる方がおられます。そんなに大事なことでしょうか、それは。(2011年8月27日 (土) ぶるうの)

ぶるうのさんの問題提起から始まり、続くみなさんの議論は興味深いです。これからもこの問題について多数のご意見がブログ「さよなら」に書き込まれるでしょうが、私が現時点で思うところでは、ブログ参加者の自主性に任せるべきではないかという意見です。
親鸞会の弘宣部に私が所属していた頃(約20年前)の様子を語ると、同会の『顕正新聞』等の機関紙は完全に言論統制の下に置かれていて、掲載される会員さんの高森会長への手紙も同様でした。高森会長は機関紙の内容を隅々までチェックしていました。要するに、高森会長を賛美する投稿は、数多くの手紙の中から高森会長が気に入ったものを選び、修正を加えさせ、機関紙に載せていたのです。ですから、そこに自主性は皆無で、会員さんの現実が反映されず、プロパガンダにしか過ぎませんでした。
このブログについて話を戻すと、高森会長の長男M晴氏への人格批判が適切がどうかは別として(※)、ブログ参加者の自主性に任せれば、書込みのバランスがとれるのではないでしょうか。より多くの人がここに参加することによって、書込みの方向性が危うくなったとき、それに対して反対意見の書込みもあるだろうし、参加者全体の良識が機能するような気がします。
賛否両論のブログの方が自然体であり、親鸞会の被害に遭っている方々に受け入れやすいのではないでしょうか。

※公人としてのM晴氏は批判されるべきと思います。

投稿: 元弘宣部職員 | 2011年8月28日 (日) 09時54分

さよならの管理人さんの投稿文章とコメントを読んで、親鸞会の情報を得ています。
どれ一つとして無駄なコメント( ネット対策除く ) はありません。
わからない事も、コメントでお願いしたら、教えて頂いたりしますから、貴重な、さよならです。多数の支持者とコメント書き込みの方がおられます。
ただお願いとして、このコメントに、さよならに管理人のぶるうのさん以外は、役付きも、委員も係も存在していないと認識しています。
ですから、親鸞会の通達みたいに、コメントの誘導的な事は、遠慮して頂きたく思います。
頭の良い人から見れば、( なんやこのコメントと ) 無意味と思われるコメントもあると思います。
しかしコメントする人は真剣な気持で・・・です。
ですから、ハッキリ言うと、ああせい、こうせいの立場かどうか今一度考えて下さい。
自分が、自分がと思い込まないで下さい。
さよならの方向性は管理人のぶるうのさんに任せて下さい。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 10時22分

元弘宣部職員さん。
わたしの気持と考えが常に一緒です。
ありがとう。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 10時31分

>元弘宣部職員さん。わたしの気持と考えが常に一緒です。ありがとう。(2011年8月28日 (日) 10時31分)

↑↑↑まあ、本当は「元弘宣部職員」というような肩書をここで使わず、御意見番にならないようにしたいです。小心者ですから。しかし、救いの言葉を求めて、ぶるうのさんのブログに辿り着いた現役会員さんを想像すると、書込みの信憑性を高める意味で肩書は有効であるような気がします。また、匿名でありながらも書込みに対して最低限の責任をとる形となります。
それぞれの人が、それぞれの立場で、それぞれの言葉で、見たり体験した親鸞会を語らないといけないでしょうね。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 11時18分

そうですね。自主性というのが一番と思います。かりに誘導的な、方向性を指示するようなコメントがあったとしても、コメント書く人にはそれを無視する自由があるわけですし、否定する自由ももちろんあるわけですから。それでどんどん書き込んで、おかしいなと思ったら議論もすればいいし、管理人さんがブログ運営上問題ありと判断される事態に至ったときはお任せすると、それでいいんじゃないでしょうか。

投稿: | 2011年8月28日 (日) 13時15分

「さよなら」も、元会員の集まりから、同志的な集まりへと変わる時なのでしょう。うごうの衆ではなく、最低限のマナーが根底に流れているというような。

息子の人間性についてもそうですが、会長の幼少時の諸事情についても同様と思います

投稿: | 2011年8月28日 (日) 13時50分

訪問者が増え、書き込みが増えるといろいろ管理者さんも大変ですね^^。
(サイトの意義としてはそのほうが望ましいのですが)
基本的には参加者の自主的な判断にゆだねるべきだと思います。
これから初めて書き込みをする人も多くなりそうです。
悩んでる会員さんが、初めて自分の意見や質問を書きたいときに
あまり萎縮させたり、厳しい暗黙律で内容を縛ってしまうのは
サイトの目的にそぐわないと思います。
親鸞会に入ってしまうような人は(誤解を恐れずにいえば)
性善説的な考えを持った善人の人が多いと思うので、
モラル面ではある程度信用してよいのではないかと思います。

それとある程度長い文を書くときは、読み手の立場に立って
日本語として言葉の使い方や単語の順序などおかしくないか
気を配って書く、すぐに送信せず推敲してみる、ということも必要でしょう。

文章の長短は人それぞれ個性でいいかな。

あと各エントリにはテーマがあるのでそれもお忘れなくw。
絶対とはいわないけれど、ほどほどに話がそれないようにしましょう。
管理人さんもいろいろ苦労してテーマを探して考察されてるので。

管理人さんが屏風絵巻の誤解についてきちんとお詫びと訂正
されてることはすばらしいですね。

絶対非を認めず「言った覚えはない」とか、「デッチアゲ」などと
平気でうそをつくどこかの新興教団の教祖とは大違いです。

学徒のみなさん、どちらが信用できますか?

投稿: | 2011年8月28日 (日) 14時44分

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