親鸞会の幼さと愚かさについて
以前私は本願寺はなぜ親鸞会に無関心なのかという記事を書きました。これはいざ親鸞会を出て本願寺の人たちと話をしたときに、そのあまりの親鸞会への関心のなさに衝撃を受け、その驚きと関心をもてない理由を記事にしたものです。
その後は本願寺は親鸞会に少しは関心を持ったのか。結論から言うと、全く変わってないのが現実です。私は最近全国霊感商法対策弁護士連絡会の集会で講演をしたのですが、会場が西本願寺の聞法会館であったにも関わらず本願寺派の僧侶で来た人はわずか2人でした。会場を埋め尽くすほどの参加者がいたのに…。
東西本願寺にはどちらもカルト問題を扱うセクションが最近出来ましたが、私はもちろん何のかかわりも持っていません。大谷派では各地の教務所が独自に主催する勉強会で呼ばれて話をすることもありますが、本山のある京都で話をしたことは一度もありません。もちろん、東西本願寺に組織として私の活動を支援してもらったことなど一度もありません。
確かに、親鸞会は小さな弱い団体です。しかし、そこには本願寺が反面教師にするべき点もあれば、学ぶべき点もあると思っています。なのに親鸞会に対する関心度は低いままです。僧侶が個人的に関心を持ち取り組む例もありますが、知る限り10人もいないのではないでしょうか。各地の大学が親鸞会の偽装勧誘に強い関心を持ち、その防止に力を尽くす姿を見ていると、親鸞会が注目されるのは偽装勧誘だけなのかよとつい愚痴が出てきます。
なぜ突然こんなことを書くのかというと、親鸞会弘宣部の作った「親鸞会と本願寺10の相違点」というページを見ていたからです。このページが主張していることは単純で、「親鸞会への批判は本願寺の仕業」と、ただこれだけのことを何ページにもわたって主張しています。どうも私も本願寺に使われている「ネットオタク」らしい。こういうのを見るたびに私はため息が出ます。何もしていない本願寺。親鸞会に関心を持たない僧侶。自分達への批判の内容には一切答えず、「批判は本願寺の陰謀だ」と数十年間言い続けている親鸞会。
何十年も親鸞会の会員を続けて、家が建つくらいに献金して来た人が、「打倒バカ森、打倒強欲爺に向けて協力させていただきます」と私にメールをくれます。つい最近まで「高森先生」を師と仰いでいた人たちが、ある人はだまされたと憤慨し、ある人は親鸞会にかけた自分の人生は一体なんだったのかと落ち込み、親鸞会をやめてゆきます。これはネットが普及する前から、親鸞会の歴史と共に何十年も変わらず繰り広げられてきた光景です。
そのたびに親鸞会は、やめた人は欲に負けた敗残者、親鸞会への批判は本願寺の陰謀、見るな、近寄るなといい続けて、どうしてこれらの人たちが親鸞会を去っていったのか、その思いを理解しようと努力したことは一度もありませんでした。その場限りの言い訳やウソを繰り返し、そのウソを取り繕うためにさらにウソをつき、いつの間にかごまかしと隠し事だらけの醜い団体になってしまいました。
親鸞会は、なぜすぐ分かるウソをつき続けるのでしょうか。一方では教義論争から逃げ、その事実を隠したまま「正しい親鸞聖人の教えが広まるのを恐れる本願寺が親鸞会を批判する」とウソをつきます。とても正気とは思えません。
自分たちの姿に向き合わず、あまりに見え透いたウソや誤魔化しをするから、会員も何かおかしいと思ってやめてゆき、やめた人は憤慨して親鸞会を批判します。その批判を本願寺の陰謀とまたウソをつき、その醜いウソに気付いた人がまた親鸞会をやめて批判を始めます。
ずっとその繰り返しが続き、世界の光である親鸞聖人の名前を付けた団体は、日本でも有数の精神年齢の幼い団体になってしまったのでしょう。
親鸞会の「ネット対策」のページを見せると、「ああ、統一教会とかと同じですね、本当に良く似ている」と言われます。私は心のそこでは親鸞会は統一教会とは違うと思っている。でも、やってることの幼さ、愚かさにおいては統一教会といい勝負なのかもしれません。
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