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国家権力

1995年、アニメ世界の光親鸞聖人の訪問販売をしていた親鸞会の講師部員が訪問販売法違反で逮捕されたとき、親鸞会では会員が集められ「これは本願寺が国家権力と結託して親鸞会を弾圧するために仕組んだことだ」と発表され、法然上人と吉水教団が迫害された「承元の法難」と自分たちを重ね合わせえて「平成の法難」だとされました。

そのとき私の先輩講師は「捕まったH講師のアニメ販売はかなり際どいやり方でみんな心配していた。いつか捕まるんじゃないかとみんな思っていた」と語っていましたが、親鸞会は兼六法律事務所の小堀秀行弁護士を中心に5人の弁護士を送り込み、2000年には逆転無罪の判決を勝ち取ります。

あの事件の前後に限らず、親鸞会では国家権力との戦いがどうのという話はよくなされていました。親鸞聖人が当時の天皇をはじめとする権力者を痛烈に批判していたことは良く知られていますが、親鸞会もそうした親鸞聖人の姿勢に見習おうとしたのかもしれません。一時期を除いて政治にもあまり関心はありませんでしたし、権力を利用したり迎合して布教しようという話は聞かなかったように思います。

いまその親鸞会が、国家権力を利用して自分たちを批判するものに対して更なる圧力をかけようとしています。

親鸞聖人は剣を振りかざす弁円の元に念珠一連をもって赴かれましたが、法論の申し込みすら逃げざるを得ない親鸞会にそのようなことが出来るはずがなく、こうした方法を用いるしかないほど追い込まれているのでしょう。

私は昨日、親鸞会の講師部員として過ごした懐かしい高岡の街でこの事実を知り、親鸞会もここまで凋落したのかと涙が出てきました。

教義批判には法論を受けて正々堂々と戦ったらいい。社会的な批判については正すべきところは正し、デマなら違うと反論すればいい。

しかし、今の親鸞会にはそれが出来ないのです。

法論を挑んだら建造物侵入罪で訴えると脅された人もいました。この団体には200名の講師部員がいるが誰も戦う力のある人はいない。会長をはじめ誰も責任を取れる人もいない。

週間ダイヤモンドに「親鸞会悪魔の三大契約書」の記事が出たとき、編集部に抗議して来たのは末端の会員ただ一人だったそうです。あとはデマだたわけごとだと相手にしないふりをして逃げている人だけ。

私は立場柄いろいろな宗教問題の会議や集会に出席しているけど、親鸞会くらい情けのない団体はないと思う。特に幸福の科学が自分たちに批判的な記事が出るたびに、説明のためにあちこちに赴く姿をみていると、まさかこちらのほうがよほど骨のある立派な団体ではないかとも思えてくる。彼らは正すべき点は正すが誤解は解きたいと必死に話をしてくる。

同じことが親鸞会に出来ないのはなぜなのだろうか?

自分が元親鸞会の講師部だと包み隠さず明らかにしてきたが、あの幼稚なマンガといい、親鸞会のことが話題に出るとで恥ずかしくて穴に入りたくなる。いったいどうして親鸞会はこうなってしまったのだろうか。

私は最後まで戦うし、決して逃げたりはしない。

いま親鸞会が行っていることは、私のあらゆる人脈をつかって多くの人に明らかにするつもりだし、それは親鸞会の衰退をますます早めるものと思う。無茶なやり方で批判をつぶそうとした報いは必ず受けなければならない。

しかしどうなったところでその責任は誰も取らないのだろう、あの親鸞会では。

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投稿:他人のお金を返さない親鸞会

元講師部の者です。私の妻は昨年6月まで会員でした。

妻はしばらく法話にも参詣せず、何の活動もしていませんでしたが、昨年7月初めに人事異動で担当支部長が変わり、新しく赴任したH支部長から妻に連絡があったようで、久しぶりに会員さん宅での法話に参詣してきたようです。

日常生活の中で、親鸞会について話をする機会はそれほど多くはありませんが、妻は、私から親鸞会の裏側を聞かされると、会長や局長、講師の人たちが会員の皆さんの前で見せている姿と、それ以外のところで振舞っている姿があまりにも違うことに驚いていました。

そこで、それらの真偽を確かめたいと、新しく赴任してきたH支部長にいろいろと尋ねたそうです。しかし、支部長はのらりくらりと交わすだけで、何一つまともにこたえず、疑問をぶつける妻に不満そうな表情を浮かべていたそうです。

その中で、唯一、H支部長が笑顔をみせた場面があったそうです。妻は丁度、会費は6月分までしか納めていなかったため、7月から燈を上げたいと申請し、7~9月分の3ヶ月分の会費を納めました。すると、これまで不機嫌そうにしていた支部長は、この時だけは満面の笑みだったとのことでした。後で妻からこのことを聞いた私は、お金の話になると食いついてくるいかにも親鸞会の講師らしい姿だと思ったものです。H支部長はあまり嬉しかったのか、つい本音が顔に出たのでしょう。笑顔で妻が出したお金を受け取り、去っていったそうです。

しかし、数日後、前任者であるM支部長から連絡がありました。妻が親鸞会を除名になったとのことでした。(除名の理由は今にいたっても一つも聞かされていません)そして、除名になったので正御本尊を返納するようにとのことでした。私は妻が会費として納めたお金のことが気になりました。妻があの時納めたお金は私が貸したものでした。

それ以来、半年に渡り、何度も連絡をとってきましたが、新しく赴任したH支部長は逃げの一手で、妻から預かったお金を、前任者のM支部長に渡したとのことです。これまでM支部長と何度も連絡をとってきましたが、お互いの日程が合わず、会うことはできていません。正御本尊は郵送してはならないというため、会って渡すことにしていますが、妻が会費として納めた私のお金と引き換えだ、と言っています。

その後、指定の口座に振り込むように伝えても、何の連絡も反応もありません。あまりの対応に、親鸞会の事務管理部の責任者にも連絡をしましたが、無視し続けています。

これが親鸞会です。批判もせず従う会員には、裏の顔を見せることなく、誠実ぶった対応をしますが、相手が批判をするような人間であると、途端に対応に苦慮し、不誠実な対応をしてきます。親鸞会はいつからこのような不誠実な団体になってしまったのか。もしかしたら最初からそうなのかもしれませんが、今さらながら呆れています。

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講師部員はみな今からでもやり直せる

前のエントリにこんなコメントを頂きました。大事なことなのでここで取り上げさせていただきます。

息子が親鸞会員だった時、脱会させたくて何度か菊谷さんと話し合いをしました。いつでも話し合いは平行線でしたが、菊谷さんは誠実で真面目な人柄であることはわかりました。そんな人であるからこそ親鸞会に従順であるのでしょう。ぶるうのさんが批判されている「内向きの言い訳」は「親鸞会での正義」で菊谷さんが逃げているわけではないのだと思います。 菊谷さんのような人がこのまま親鸞会にいることが残念でたまりません。 菊谷さんでしたら今からでもきっとやり直せると思います。 「親鸞会での正義」が「内向きの言い訳」であることに、気付く勇気を持ってください。

菊谷さんはじめ、親鸞会の講師部員に「誠実だ」という印象をもたれる方は少なくないと思います。その方の気持ちを否定するつもりは毛頭ありません。

ただ、このことだけは知っておいてください。

親鸞会の講師が誠実だと感じたのは「会員の保護者であるあなた」と話している時の事だと思います。

その講師部員が、指示下の学友部員や職員に対しては、驚くほど横柄で尊大な態度を取ることも、知っておいてください。

またその講師部員が、組織の目的を達成するために平気で嘘をつき、学友部員にも同じ事をさせていることも、知っておいてください。

そしてその講師部員が、親身に相談にのっているように見えても、その内容は全て組織に報告されていることも知っておいてください。

さらにその講師部員が、脱会したり親鸞会を批判する人に対して、呼び捨てにして「シロアリ」とののしり、あることない事を言って貶めていることも、どうか知っておいてください。

過去には脱会者から「正御本尊」を取り返すために夜中に会員を引き連れて押しかけた講師部員もいました。この講師部員も普通にあって話をすれば「誠実な人」に見えるかもしれません。でも果たしてその人は誠実なのでしょうか。

彼らは親鸞会という論理の上で誠実であろうとしているだけで、そこから一歩でて自分達を見つめることが出来ません。ちょうど「裏社会」の人と会うと驚くほど腰が低く誠実な印象を受けるのに似ています。

だから私は彼らを「誠実」だと思ったことは一度もありません。外に対して誠実になるときがあっても、自分の人生に対して誠実であった試しがないではありませんか。


親鸞会に寄せられる批判については「でたらめだ」というだけでまともに反論しようとする人は一人もいません。

脱会者を貶めてもその人のところまで言って説得しようという人は一人もいません。

高森会長から「わしだったら腕の一本や二本…」と言われてもそれを聞いて行動する人は一人もいません。


こんな人たちのどこが誠実なのでしょうか?


「世界唯一の真実を求めている自分」という思いを捨てたくないだけです。その為に誠実になる必要があるときは、誠実になります。それだけです。


最近安心問答に「正しいかどうか以前に必要かどうか」というエントリが投稿されていました。

講師部員はこの文章を100回読んだ方がいいと思います。そして、本当に今の高森会長の説法を聞くべきなのか真剣に考えてください。

私は、菊谷さんに限らず、講師部員はみな今からでもやり直せると思います。

「世界唯一の真実を求めている自分」という思いを捨てる勇気さえあれば。

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親鸞会講師、きくたんこと菊谷隆太氏の情けない言い訳

最近、「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読み返す機会があり、以下の投稿が目に留まりました。

http://nazeyame.shinrankai.biz/response/toko1.html

考えさせられる内容ですね。親鸞会を批判するネットのコンテンツも増えてきましたが、たまに読み返すと過去のものでもすばらしいものがたくさん見つかります。

「さよなら親鸞会」もいつの間にか記事が増えてきて、いつか「選り抜きさよなら親鸞会」を作りたいと思っているのですが、忙しくてなかなか時間がありません。どなたかやっていただけると助かるのですが。

あと、親鸞会講師部員の菊谷隆太氏がこんなことをブログに書いていました。

■「間違っている、間違っている!」 と何かと連呼する者はいますが、 「じゃあ、正しいのはどんなの?」 と尋ねればなんと答えるでしょうか。

自信のある人なら
「正しいのはこうです。」
と言います。

「ごたごた言わんと、正しいこと明らかにしなさい。」
と言いたい。

自分が正しいこと判らないのに、
わめき立てているとしたら
無責任ではないですか。

菊谷氏は親鸞会の内部でもこういうことを言っているみたいですね。

何度も言っていますが、親鸞会への批判を初めて6年たちましたが、批判を堂々と受けてそれに反論した講師などただの一人もいません。内向きにこういう情けないことを言う人は沢山いますが、誰か一人でも批判を受けて反論した人がいるのでしょうか。

親鸞会の講師であることをひた隠しにして、批判されれば逃げ回り、こういう内向きの言い訳ばかりがうまくなってゆく。一度で良いから自分は親鸞会講師部の菊谷隆太であると名乗って、具体的に批判に対して反論してみたらいいのに。

親鸞会の講師ってどうしてこんな弱弱しいのばかりなのでしょう。「やめるときは1000万払え」という誓約書を書かされるほど会長からも信頼されておらず、会員からも社会的な常識が無いといわれ、一歩親鸞会の外に出れば「親鸞会講師である」という事すら堂々と名乗れないヘタレぶり。救いどころがありません。

菊谷さん、そんなに「親鸞会の誤り」を指摘されるのが怖いですか?偉そうな事ブログに書く暇があったら教義でも組織でも批判に反論してみろよ。(ま、無理だろうけど)

自分が一時でもこんなところにいたことが情けないです。

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謙虚であること

浄土真宗の信心は阿弥陀仏から頂くもの。「私には信じる心ぐらいはある」というキリスト教の信仰とは相容れないから親しみなど感じるはずもないと主張している人がいます。

親しみを感じるか感じないかはその人の感情ですからご自由にされたらいいのですが、キリスト教においても、信仰は聖霊から与えられるものとされている事をご存知ないのでしょう。

別にキリスト教の知識が今の私たちにとって特別に大事なものとは思いません。ただ、親鸞会で渡部弘宣部長あたりから聞いた知ったかぶりの知識を振りかざして自信満々なのは、知らないことへの謙虚さが足りないのだと思います。宗教は互いに似たところもあれば、異なるところもあります。知らなければ知らない、という。それが当たり前のことだと私は思いますが、こういう人には無理なのでしょう。

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。反対者を「愚者」であると見なすとともに、自己を「真理に達した人」であるという。かれはみずから自分を「真理に達した人」であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものである。

ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

【釈迦『スッタニパータ』】

すばらしいのは親鸞聖人の教えであって、あなたの知識や経験が優れているのではないのですから。

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750回忌、他

親鸞会の750回忌は、10月8~10日です。

他、親鸞会の講師部員、職員で脱会を考えている方、相談に乗ります。
絶対秘密厳守かつ全力であなたを助けます。
すでにご相談くださっている方も何人もおられます。連絡下さい。

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キリスト教への親しみ

「世尊布施論」という宝物が西本願寺に所蔵されているそうです。これは唐代に中国に伝えられた景教(ネストリウス派キリスト教)のもので、内容はいわゆる聖書であり、親鸞聖人が読まれたものだと言われています。私は昨年東京基督教大学の理事の方と食事をご一緒したときに、始めてこの話を聞き驚きました。

浄土真宗とキリスト教(特にプロテスタント)に似ている部分があるというのは昔から言われていることですが、根本の教理が全く異なるわけですからこうした話にはあまり興味はありませんでした。

しかし世の中の宗教というのは互いに影響しあっているのは事実ですから、当時の聖書を読んで親鸞聖人が何かしら感じられ、そこで影響をうけたとしても別に不思議はないでしょう。親鸞会だって創価学会の影響と思われる部分が沢山ありますし。

私には高森会長の正信偈の説法で「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」という部分を話するときのたとえが、今でも鮮明に記憶に残っています。

富山から東京に向かう飛行機の窓から下を見ると、無数の水溜りがきらきらと光っている。どの水溜りの水も最後はやがて海に入って一味になる。創価学会という水溜りもあるかもしれない、キリスト教という水溜りもあるかもしれない、その他色んなものを信じてみな生きているが、最後は必ず弥陀の願海に入り、一味の世界に救われるのだと。

私はその話を聞いて、浄土真宗はなんと懐の深い教えだろうかと感動したものでした。私も数多くの水溜りを経由して、流れ、今、弥陀の本願を聞いているのだと。

西本願寺の勧学が「キリスト教に親しみを感じる」と講演で言ったことをことさらに指摘する人がいます。私もキリスト教には親しみを感じます。きっと過去世にキリスト教を聞いていた時期もあっただろうし、多くの寄り道をしながら、弥陀のお力で真実に引き寄せられて来たのでしょう。親鸞会にいたことも寄り道の1つであったに違いありません。

相手の仏縁を念じつつ「キリスト教に親しみを感じる」という心が分からないのは、弥陀の願心がその表面からも分からないのでしょう。少なくともキリスト者に仏教を伝えたいと思ったら、その人の信仰を尊重しつつ、キリスト教と仏教の違いを時間を掛けて明らかにしてゆくものだと思います。自己満足したいだけならその場で「破邪」でも何でもやればいいと思いますけどね。

そういえば昔に高森会長から神棚の話を聞いたときに「親鸞聖人の教えが真実だからだといって、物事には段階というものがある。いきなり頭ごなしに否定してはならない。」「厳しい破邪は十分に真実を徹底した後のこと。」と教わったような気がしますが…まあ、時代によって教義をコロコロ変える人ですから、いまは違うのかもしれません。

私は教義批判にまともに答えることが出来ず、妄想丸出しのマンガで批判者を貶めるような事しか出来ない情けない団体の話より、遥かに「キリスト教に親しみを感じる」という西本願寺の勧学の話を聞きたいと思います。

それにしてももうこんなところでしか批判に対して答えることが出来なくなっちゃったんですね、親鸞会は。なんだか悲しいですね。

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