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過去に誇りを持つということ

私は少し前に真宗大谷派の教師資格検定試験を受験し、所属寺の住職に合格を報告に行ったのですが、後日その住職がこう語っていたそうです。

「さすがは親鸞会の元講師だ。まさか1発で全部合格するとは思わなかった。」

親鸞会をやめてから6年がたち、よく辛抱した、よく誤りに気付いた、という言葉は沢山いただきましたが、未だにこれ以上嬉しかった言葉はありません。親鸞会での努力を認められたのが初めてだったからでしょう。

もちろん、親鸞会時代の教学力で突破できる試験ではありません。(親鸞会の現役講師も受験していますが、何度も落ちています。)しかし親鸞会時代に蓄積した学びが役に立ったことも事実です。親鸞会の外の多くの人は、親鸞会から、いや問題のある宗教全般から脱会した人を、「救出」という言葉の傲慢さがそれを物語っているように、「暗黒の世界から抜け出してきた」くらいにしか思いません。しかし実際はそこで得たものもあり、そこで学んだこともあり、努力したこともあります。決して暗黒面だけではないのです。

私がこの先生についていってもダメだと感じた「高森先生のお言葉」という投稿があがっていました。

●そらごとたわごと真あることなし

閉じた写真をバッチリ写真に修正したり、居なかった人を隣に座わらせる合成写真も自由自在のご時勢である。ネット上などは言うに及ばず、斬り捨てゴメンの言いたい放題、書きたい放題、覆面殺人鬼の横行だ。まさに無法地帯そのもの。五濁悪世である。便利というか重宝というべきか、怖るべし、犯罪激増も頷ける。文章の改ざんや捏造など問題にもならぬわけだ。そんな世情を反映してか誰も真相を知らないことをいいことに、半世紀以上前のことまで引っぱり出して何を言おうと書こうと勝手次第無責任放言が多すぎる。

これは高森会長の華光会とのかかわりや、大沼法竜氏の著作からのパクリが暴露された時期の事のようです。読めば読むほどなんでこんな下らない男についていったのかと自分が情けなくなります。

何が捏造か、何が改ざんなのか、何が無責任なのかも一切書かず、しかも文章でなく電話で会員にのみ徹底するという念の入れよう。証拠を残したくなかったのでしょう。ここまで薄汚い事をする人というのは、社会に出てからも見かけたことはありません。親鸞会をやめていった人の気持ちを全く理解できないばかりか、こういうことを書いたらどう思われるかという事すら気付けない感覚に愕然とします。

顕正新聞や弁論大会で自分への賞賛の言葉をあふれさせる一方、メッキがはがれ自分の正体が明らかにされる恐怖に震えているのが実態ではないでしょうか。なんて小さい男なのだろうかと思います。

私が脱会した直後は脱会者でも「高森先生」と言っていましたが、次第に「高森会長」という呼び方が増えてきて、いまや「高森」と呼び捨てにしたり、「バカ森」という人も。私自身は親鸞会が脱会者を呼び捨てにするのと一緒にされたくないので努めて「高森先生」「高森会長」と言うようにしていますが、「バカ森」という人の気持ちも痛いほどよくわかるのです。それだけ、裏切られた思いが強かったのでしょう。

しかしでは高森会長に出会うことなく親鸞聖人のみ教えと出会えたのかと言われれば、否とこたえます。親鸞会の教えは確かに真宗とは言えない、高森会長の都合によって捻じ曲げられた独自教義でありましたが、伝えられた「親鸞聖人の言葉」は本物でした。これがなければ、聞くことも、求めることもなかったのです。少なくとも私にとっては。

この間親鸞会を脱会した方が、本派本願寺発行の「聖典セミナー」に付箋をはり丁寧に読んでおられるのを見ました。若い人が休日にお寺や聞法会館に頻繁に足を運んで法話を聞いている姿も見ています。東西本願寺のご門徒でこういう方はあまりおられません。

これらの人に最初に「親鸞聖人の言葉」を伝えたのは、間違いなく親鸞会です。だから私は本当はもっと自分が親鸞会であったことを誇りに思ってもいいと思います。親鸞会の可能性をもうすこし見守ってもいいと思います。

ただ、今回の高森会長の「お言葉」を見ると、恥ずかしくて穴に入りたくなるのも正直な気持ちです。だってこれが私のルーツなのだから。

※余談ですが、「閉じた写真をバッチリ写真に修正したり」というのは実際に弘宣部で行われていた事。だって正面から聞法風景を撮ると必ず寝ている人がいるんだもの。

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やや日刊カルト新聞:古賀市の竹下市長よ、自らの過去と向き合い、脱会者の灯火となれ!

やや日刊カルト新聞に、

古賀市の竹下市長よ、自らの過去と向き合い、脱会者の灯火となれ!

という記事を書きました。

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勇気を出して

先日、親鸞会の黎明期から活動と財施の両面で親鸞会を支え続け、数年前に脱会されたご夫婦とお会いしました。トータルでは家が建つくらい、いやそれ以上財施をされてこられたと思いますし、もちろん高森会長の法話も地元の法話も何十年も欠かさず参詣された方です。

一方親鸞会だけでなく社会的にも大きな役目と仕事を果たして来られた方ですから、その立場から見た親鸞会の非常識ぶりを色々と伺うことが出来ました。組織からの指示が朝令暮改続きであったこと、講師部員が如何に社会的な常識を知らなかったか、御報謝(お布施)の要求がどれほど無茶苦茶であったか。

私は1年間働いてすぐに学院に入り講師部になりましたから、殆ど世間を知らずに講師部員として活動していました。ですので講師部員の非常識ぶりを聞くと「仰るとおりで本当に申し訳なかった」と反省するしかありません。講師部員で社会に出て通用する人など殆どいないとも言われました。その通りだと思います。

別に講師部員が悪いのではないのです。仏法を説く人は三界の大導師である自覚が必要だと、私たち講師部員は事あるごとに言われました。それ自体は間違いではないのです。問題は、高森会長も講師部員も自分達が教えられるのは「仏法のこと」のみという自覚が殆ど無かったことです。仏法以外の事については一般の会員さんに比べたら子供のようなものなのです。(本当は仏法についても子供みたいなものなのですが…)

それを高森会長が社会の常識や倫理道徳までもを自分が基準のようにうぬぼれ、講師部員にも会員にも押し付けたからおかしくなったのでしょう。以前は高森会長の息子である高森光晴講師が法話のたびに「座談会」をやっていましたが、まともな人ならとても聞けないような酷い話でした。社会に出た経験が無いからそういう話をしても「酷い話をしている」という自覚も無かったのだと思います。

講師部は「最高の道」といわれ、格段に厳しい道を進んでいるという自覚がありました。その態度が会員さんにも伝わったのでしょう。講師部員は10万円お布施をもらっても10万円を稼ぐ大変さを知りません。「苦しい道」であることは否定しませんが決して「厳しい道」では無いのです。高森会長もそうならば、講師部員も自惚れているのです。私もあのころを思い出すと恥ずかしい気持ちで一杯です。

長年様々な組織を見られた方の思いとして、「組織はトップの考えがその末端まで行き渡るもの。末端がおかしくなるのはトップがおかしいから。なのに多くの会員は高森会長はまことの人だがその取り巻きがおかしいから親鸞会はおかしいのだと思い込んでいた。そんなことは絶対にないはずだ。」とも言われていました。これは私もその通りだと思います。講師部員はみな「ミニ高森」なのです。講師部は近くにいるから欠点が見えやすかった、高森会長は雲の上の人だったから欠点が見えにくかった、それだけのことです。全て高森会長の問題が末端まで浸透して派生しているのです。

他にも高森会長が「私は親鸞聖人の教えを説ききっている、それを聞ききらないのは聞いている人の責任」と言った事に対して「お釈迦様でさえ全てを説ききれなかったと言われているに、とんでもない自惚れだ。親鸞聖人なら絶対に言われる事ではない」と思われたこと、他人の著作をパクって平然としていること、様々な高森会長への怒りを語っておられました。

それでもずっと親鸞会を続けてこられたのは「教えは正しい」と思っておられたからで、そこから「教えもおかしい」と気付かれ脱会されるまでには大変な勇気が必要であったと思います。最後の最後に脱会に必要なものは「勇気」なのです。高森会長と親鸞会への怒りと失望のほかに、勇気を出して山を乗り越えられた人にしかわからない自信と開放感、そして親鸞会にいたときのような無理のある喜びではなく、心から仏法を求める喜びも伝わってきました。本当に良かったと思います。

親鸞会にいたときに様々な疑問が生じても、それを「会長先生の深い御心」という枠に何とか押し込めようとして苦しんでいたと。それが「単に人集めと金儲けのためだった」という枠に試しに入れてみたら全てすっぽり入ったのだと。親鸞会から出てみればそれは明らかなことなのですが、中にいると分からないものなのです。

勇気を持って一歩踏み出す方が、今年も多く現れる事を願っています。

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幼稚化する親鸞会

年末にある研究者と話をしていたとき、「親鸞会が幼稚化している」という話になりました。

歎異抄をひらくの衝撃度」という漫画を読んでのことだったようです。どうもこんな話を良く聞きます。その少し前に別の人からは最近の親鸞会は「子供みたい」だと言われました。

「歎異抄をひらくの衝撃度」を読んでいますと、さまざまなキャラクターが出てきます。KKKというのは華光会(KeKouKai)なのかあるいは親鸞会を脱会した講師のイニシャルを並べたものなのか。また、「縞狸(しまだぬき)」というのはこれも親鸞会を脱会して手記を発表した脱会講師のことなのだとか。

漫画の中では「本太郎」や「スガル」といったキャラクターが大活躍し、「善なんかすすめては間違いだ」「こうすれば一晩でいただける」と主張する「異安心」のキャラクターに法論を挑み次々と破ってゆきます。本願寺の僧侶は「歎異抄をひらく」を「悪魔の禁書」といって恐れ対策会議まで開いています。

まさに親鸞会が「こうであってほしい」と願う空想の世界がそこには描かれているのです。

実際には親鸞会は脱会者との法論に負け続け、ネットで激しく論争していた人たちもあらかた逃亡し、講師部員のブログは軒並みコメント欄すら閉鎖されてしまいました。講師が説法する会場にまで赴いて法論を挑んだ脱会者は「建造物侵入罪で訴えるぞ」と親鸞会の顧問弁護士から脅され、内容証明で法論を挑んでも逃げるのみです。

「歎異抄をひらく」は対策会議が開かれるどころか、真宗僧侶で話題にしている人すら私は知りません。アニメのときは「買うな」と言われていましたが、いまや「買うな」とすら言われていない無関心ぶりです。親鸞会は恐れられるどころか急速に関心を失いつつあるのです。

ちょうど部屋の外に出られない引きこもりがネットゲームに没頭し、現実から逃避しバーチャルな世界でのみ自分の存在意義を確認するのと同じように、「歎異抄をひらくの衝撃度」は自分たちの置かれた現状を正視できず、「せめて漫画の世界だけでも誇りある親鸞会でありたい」という願望の現われかもしれません。

親鸞会は組織としては次第に硬直化して老いていますが、精神的な年齢は下がっているのだと思われます。通常なら社会に出て責任ある立場で活躍しているだろう年齢の弘宣部の講師、職員たちがこうした漫画を嬉々として作っている様子を想像すると、「幼稚化している」という評もその通りだと言わざるをえないでしょう。

ちなみに、1月15日号には「真実の仏法の破壊工作を担当している悪口大好きのネットオタク」のパソコンを、「スガル」が機関銃で破壊し「「さよなら」に真実の言葉はなくってぇ~♪」と歌うシーンが描かれています。

私の元には残念ながら誰もパソコンなど破壊しに来ず、来たのは親鸞会の顧問弁護士である兼六法律事務所の小堀秀行氏から送られた、サイトの閉鎖を要求する内容証明だけでした。

親鸞会が法論を挑むのも真実のために戦うのも、今のところは漫画の中だけみたいです。怖くて出来ないのかもしれませんが、そろそろ2次元の空想世界から出てきて、自分たちへ向けられる批判に向き合ってはいかがでしょうか。

訳あって年始から「幸福の科学」という宗教の研究をしていますが、幸福の科学に詳しいあるジャーナリストに「宇宙人の霊言とか小沢一郎の霊言とか、こんな事いって外から見られて恥ずかしいと信者は思わないのでしょうか」と聞いたところ、「そうなんです。外から見られた自分たちを想像できないことが、幸福の科学の一番心配なところなんです。」と言っていました。

誰が見ても恥ずかしい漫画を機関誌にもウェブにも載せ続ける親鸞会も、同様に心配です。

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注目されていることにしたくて仕方の無い人。

●つぶやき
「『歎異抄をひらく』をこのまま野放しにして良いのだろうか。
真宗十派の受難であり危機だ。
愛山護法の全国の諸氏、
立つべき秋は今である。
断じて異端・異義を許すべきではなかろう」
こんなツイッターが真宗界に飛び交っているという。

ぶるうのコメント
ツイッターを検索しましたが該当するつぶやきはひとつもありませんでした。
注目されていることにしたくて仕方が無いんですね。

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岡山大学での取り組み

皆様

遅くなりましたが、2011年初の更新となります。本年もよろしくお願いします。

今年初めてのエントリでは岡山大学学生支援センターの取り組みを紹介します。
http://kymx.adm.okayama-u.ac.jp/hp/s_center/index.html

岡山大学ではカルト脱会者の手記を「学生相談室だより」として学生に配布するほか、こうしてウェブサイト上にも掲載し誰でも読めるようにしています。私の知る限り、ここまでしている大学は岡山大学の他には無いように思います。

たとえば、
http://kymx.adm.okayama-u.ac.jp/hp/pdf/gsdayori/2010_07.pdf
http://kymx.adm.okayama-u.ac.jp/hp/pdf/gsdayori/2010_06-1.pdf
などです。

ここにある体験談はキリスト教系カルトのものですが、親鸞会の人にとっても大いに参考になると思います。

親鸞会の信者は、自分達はキリスト教系のカルトなどとは全然違うと思い、あんな邪教のものたちと自分達を一緒にするなと思っているに違いありません。

一度虚心坦懐になって、キリスト教系のカルトから脱会した人の手記を読んでみてください。

きっと何かしら感じるところがあるはずです。

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