投稿:批判の多くは、あなた方の誠意のなさに端を発していることです
なぜ批判されているのか、何を問題視されているのか、本当は気づいているはずですが、親鸞会の方のブログでそれらの問題に触れられることはないように思います。全ての指示を決定している人間の品位に関わってくる問題だからではないでしょうか。
誤解される会員がいるからという理由で、会長の過去や振る舞い、会計報告の問題、F館の個室のことなど秘密にされているようですが、誤解なら解けばよい話です。
しかし、それに関する説明が為されたことはありません。
偽装勧誘を正当化する心理の下にあるものは、ぶるうの氏が以前書かれていたように、偽装しなければ理解してもらえないという、自分の体験に照らした負い目のようなものでしょうか。怒りや猜疑心を植えつける犯罪まがいの行為は、世間のルールから考えたら許されないことですし、親鸞会が目指している全ての人に仏法をお伝えするという目的からみても不健全です。
批判されているのは、こういったことでしょう。
しかしこれらのことは聞き流し、「私たちを問題にする暇があったら、自分の一大事を解決するほうが先だろう」と言われます。
いつまで不自由な檻の中にいるつもりなのか、今生こそが、真の自由を手にするときなのだ、と。
目的を示すことが、他の問題を蔑ろにして良い理由にはなりません。
これでは井戸にいる蛙同士が、空の大きさをひけらかすことで、一方の問題を避けているだけです。お互いに見合わせた顔は蛙です。井戸の現実は何一つ変わっていません。迷宮でもいいです。互いに迷宮にいるならば、信用を得るために迷宮内の人の声に耳を傾けるべきでしょう。
何か核心に触れるようなことを尋ねると、親鸞会では必ず、自分自身の後生は?と逆に尋ね返されます。言っている本人も過去、そのように言われて、ひたすら疑問を封殺してきたからです。
他の方のブログで指摘されていたことですが、会に対する疑問を持たないのが、まるで信仰の証のようになってしまっている状況です。年月が長くなるほど、立場が上になるほど、この信仰を体現しなくてはいけなくなってきます。人に教えを説く者という立場が、更に自分を縛り、そのうちに当たり障りのない言葉しか出てこなくなります。自分が、後生の一大事を分かっていない者になるわけにはいかないのです。
最後は、後生の一大事が分かっていない者の言うこと、と自分の立場を一段階繰り上げて、批判者や質問者を見てしまうのです。
会に対する疑問を、なぜ相手の人生の目的と絡めてしまえるのでしょうか?
人生の目的という大事なことを伝えるなら、相手の疑念は出来る限り払拭すべきです。
なのに、後生の一大事、人生の目的に対する自覚を質問者に促すことで回答としてしまう、この底に横たわっている感情は何なのでしょう?
「後生の一大事が分かっていない」というようなことを言うのは、決まって、高森会長その人に対する疑念や会の運営方法に対する疑問を口にしたときです。
しかし人生の目的を意識すればするほど、それを説く人や団体を信じたいと思うのは当然で、その人の過去や人間性に触れたいと願うことに罪はないでしょう。
そして、何も答えにくい質問ではないのだから、キチンと答えればいいのです。
誤解されそうだから黙っておく、或いは偽の情報を流す、というのでは事実を知ったとき、疑われるのは当然です。それを相手のせいにするのは間違いです。
親鸞会では、善知識の教えに無条件服従しなければ絶対に助からないと言われています。だとするなら、その人の行状や経歴を正しく伝えるというのは、信じる指標の一つとしてとても重要なものではありませんか。
それを切り捨てて、後生の一大事が分かっていないからだ、と言い切ってしまうのは、まるで人生の目的そのものより、会長への忠誠が先にあるように思えてなりません。
全てを知らせたうえで、相手を信じて参詣する、これが本来の姿でしょう。
親鸞会で助かるのかどうか分からないという人があれば、あなた方が生涯を会長に託したその理由を告げればいいのです。
それを聞いて、残る人もいれば去っていく人もいるでしょう。
去っていく人の一大事の受け止め方が、自分より軽いなどと思ってしまうのは、迷宮の中で互いを見比べているようなものです。その瞬間、相手の何かが変わるのですか。それとも自分の中で何かが変わるのですか。私には得られるものがないように思います。
あなた方はこれからも、去っていく人を一大事の分かっていない者と、自分はあたかも一歩駒を進めた先人として振舞うのでしょうか。同じ檻の中で、どこか高いところにでも立ったつもりになっていませんか?
違うのならば、ぶるうの氏の言われるように誠意ある対応を見せるべきです。
腹を立てる会員や脱会者がいるのは、まさか偽りの情報を呑み込んでいたとは思わなかったからでしょう。流れてきた情報を信じて、それで納得できたから多くのものを差し出せてこれたのです。誤解があってはいけないから黙っておく。これは更なる誤解を生み出します。偽装勧誘と同じで、その場だけの成果を意識した振る舞いです。
どんな非難にも耐える、自分のことはどうなってもいい。
このように覚悟を決めておられる親鸞会の方々は多いと思います。立派な姿勢とお見受けします。ならば、今どういった批判が起きているのか。その批判の中身に目を向けていただきたいと思います。
罵詈雑言の類なら相手にする必要はないでしょう。嫉妬や妬みで攻撃してくる人もいるのかもしれません、私にはよく分かりませんが。
しかし批判の多くは、あなた方の誠意のなさに端を発していることです。騙されたと思う人がいるのは、隠されてきたものの存在を嗅ぎ取ったからです。
親鸞会の方々のブログを見ると、地に足のついていない理屈をこね回しているもの、他を貶めることで自分の立場を再確認しているもの、誰を相手にしているのかよくわからないものといった感じで、言ってみればどれも自分本位な内容のものばかりです。ここから誠意を感じることはできません。
誠意の重要性を説く親鸞会の姿を覚えている人は多いと思います。
言っていることはよくわからなくても、その誠実な姿だけを信じた人がいたのではありませんか。今もその姿を信じて残っている人がいるのでしょう。その人たちに、正しい情報を伝えていますか。今の姿勢を続けていくなら、批判が止むことはありませんよ。
その批判は、あなた方が重ねている祖師の蒙った非難とは全く異にするものです。
迷宮の中の賢者では意味がないんです。
出口を知っているならば、まず自分の足元から周囲を見渡してみませんか?
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コメント
批判されるのは、教えがわかっていないからと返答しないからです。教義の内容ならまだしも、収支報告をしないのは、教えがわかっていないとか関係ありません。収支報告しないのは不正をしているのと同じと言われても仕方ない。顧問会計士いようがいまいが関係ありません。
聞かれたことを答えるのは当たり前です。
ちがいますか?
投稿: | 2010年5月17日 (月) 17時06分
批判があれだけあるのに、講師のプログやホームページは相変わらずだね。 これだけ景気が悪くて、嘘偽りの勧誘したり、ご放射したら、悪い方向に行くのは当たり前です。 学業だけでもきちんとさせればずいぶん変わるのに相変わらずです。
投稿: | 2010年5月17日 (月) 18時30分
>偽装勧誘を正当化する心理の下にあるものは、ぶるうの氏が以前書かれていたように、偽装しなければ理解してもらえないという、自分の体験に照らした負い目のようなものでしょうか。怒りや猜疑心を植えつける犯罪まがいの行為は、世間のルールから考えたら許されないことですし、親鸞会が目指している全ての人に仏法をお伝えするという目的からみても不健全です。
偽装勧誘する理由は、名乗って勧誘するよりも多くの人を集められるからです。渡部弘宣部長がそう言っていました。「結局のところ、私はより多くの人が集まる方法が一番いいと思う」と。
結果的に、長期的に信用を失うことよりも、多くの人を集められることのほうが優先順位が先なのが親鸞会です。
信用を得れば、長期的には多くの人が集まることは、彼らの説く因果の道理からすれば明らかであり、会長も、講師部員も、そのようなことは口にしているはずですが、結局、実践できていません。
彼らの上に降りかかっている不幸はすべて自業自得です。それ以外の何物でもありません。
投稿: 元講師部の者 | 2010年5月17日 (月) 21時13分
親鸞会で成果は得られてもまわりは迷惑です。 そもそも親鸞会の勧誘成果はあがってません。
親鸞会が学友部に力を入れる理由はわからないでもないが今のやり方ならば、体質を改善しないかぎり衰退するだけです。
投稿: | 2010年5月17日 (月) 22時06分