迷宮の森の「出口」
生簀の中の自由というエントリを読みました。ああ、またあのブログの話かと思われるかもしれませんが、大事なことを問いかけているので、ここで短いながらも私見を申し上げたいと思います。
かのブログの著者は言います。
出口のない森の中での自由など、ハッキリ言わせていただけば、もう聞き飽きたのである。
それよりも迷宮の森の「出口」こそ、万人の希求するものなのではなかろうか。
-中略-
私自身のことなど、どう思われてもいいのですが、あなた自身、本当に自由ですか?その自由はひょっとして生簀の中の自由でしかないのではありませんか?
敵対したり、いがみ合ったりして時間を潰している場合ではなく、親鸞聖人の正統な教えをよく聞いて、生死出離の道を歩ませていただき、その道を示すこと、 それがお互い、残された人生でやるべきことなのでは。
親鸞会を脱会した人、親鸞会を批判する人には人それぞれ、色々な理由や感情が有ることと思います。そのきっかけは高森会長の贅沢三昧や会員の金の使い方であったり(これについては新しい重要な情報が入っているのだけど公開を躊躇している)、高森会長の盗作や幹部モラルの欠如であったり、組織の腐敗であったり教義の誤りであったり、色々だと思います。
そんなことは少しネットで検索すればいくらでも出てくるでしょう。
ところがひとつだけ共通している理由が有るのです。どんなことがきっかけになって脱会したにせよ、根本のところは脱会者は「親鸞会にいては救われない」と思ったから脱会したのです。かのブログ風に言えば、「迷宮の森の「出口」」など親鸞会には無いと思ったのです。
私が脱会したときは教義批判は今ほど盛んではなかったように思います。しかし組織の隠蔽体質やごまかし、高森会長の盗作、幹部の腐敗をみて、「こんな腐りきった団体が世界唯一の真実を説いているなんてあるはずが無い」と思ったのです。
過去に親鸞会をやめた人も、今から親鸞会をやめる人も、ここだけは同じでしょう。親鸞会で救われると思ったらやめませんよ。
親鸞会をやめる人は生贄の中の自由を受容し、生死出離の道を捨てたのではありません。そう書きたい気持ちは分かりますが、そんなことを書いても脱会者は少しも共感などしないでしょう。まったく自分の思いと違うのですから。
親鸞会の人たちは自分たちが「誤解されている」と感じているかもしれません。しかし親鸞会自身も脱会者の気持ちなど、少しも理解しようとしてないのです。
本当にかのブログの著者が「迷宮の森の出口」を求めているのならば、親鸞会を批判する人は「親鸞会には出口など無い」と言っているのですから、その疑問に正面から答えてみては如何でしょうか。
それが出来ないのならば、結局かのブログの著者が求めているものは断じて「生死出離の道」などではなく、自分が親鸞会にささげたしがない人生を正当化する理由が欲しいだけなのでしょう。
もうすぐ50歳になりますよね。そろそろ勇気を出して自分の進む道を検証してみては如何でしょうか。そんな勇気はとても無いのかも知れませんが。
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コメント
目的の大きさを思い浮かべ、それこそが一大生死と考え、それ以外の人生を無意味と切り捨てる。
ええ、わかりますよ、目的というものの意味合いが大きいほど、そのような思考にしかならないのですから。
親鸞会の根っこの部分にあるのは上記の考え方で、だから極端なことを言えば、その他のことも些細なこととして投げ出せるのです。
収支報告がないことも、高森さんの散財も、身内に対する教義との矛盾も、自身の困窮ぶりも、親族の目も、周囲の評価も、泣く人がいることも全てです。
おそらく親鸞会の人は、高森さんが今後どんなおかしなことを言おうが、振舞おうが、許容してしまえるのだと思います。
なぜなら自身の抱えた一大事とは関係ないですからね。
解決を急げと自分を鼓舞し、周りの誰かが何か言おうとすれば、そんなことを言ってる場合か!と、大目的を指差す。
本人は、その姿が変だとはまるっきり思っていないのでしょう。だって、後生の一大事なんですから、ね、そうですよね?
これ、勘違いです。
井戸蛙の喩えで言うなら、空の大きさをひけらかすことで、一切の不自由から逃げてしまっているのです。出口を探すことを、井戸を軽んじる理由にすべきではありません。暮らしている場所は同じです。
特にブログを書いている講師の人たちは、少し何か言われると「あの空の大きさが見えないのか、バカ者め!」と言い捨てて、あとはもう振り返りもせずに走り去っていく人が多く見受けられますが、これは楽な方法ですよね。批判が嫌で、なんで分からないんだ、と腹を立て、そんな奴はもう知らんと殻に閉じこもって、慰めてくれる友達とだけ語り合う。
空は本物でも、空を指差すあなたは偽者です。
…元をたどれば、奇妙な蛙が一匹、他の蛙を焚きつけているからなのでしょうが、でも、とてもそうとは思えないのかもしれませんね。今はまだ…。
投稿: | 2010年5月13日 (木) 01時26分
私の知っている人で「阿弥陀仏は存在しない、架空のものだ」といって
やめていった人がいますが、
最近の脱会者は、「阿弥陀仏の御心に反している」のが高森会
「うそ、パクリ、サギ、珍しい教え」と考えている
大きく違います
投稿: 最近の脱会者 | 2010年5月13日 (木) 05時43分
「目的の大きさを思い浮かべ…」のコメントを送信された方、是非投稿としてまとまった文章を書いていただきたく思います。よろしければ連絡いただけませんか?
このブログの右に「プロフィール」というリンクがあり、そこからメールを頂きたく思います。よろしくお願いします。
ぶるうの
投稿: ぶるうの | 2010年5月13日 (木) 13時55分
> ところがひとつだけ共通している理由が有るのです。どんなことがきっかけになって脱会したにせよ、根本のところは脱会者は「親鸞会にいては救われない」と思ったから脱会したのです。かのブログ風に言えば、「迷宮の森の「出口」」など親鸞会には無いと思ったのです。
> 私が脱会したときは教義批判は今ほど盛んではなかったように思います。しかし組織の隠蔽体質やごまかし、高森会長の盗作、幹部の腐敗をみて、「こんな腐りきった団体が世界唯一の真実を説いているなんてあるはずが無い」と思ったのです。
私が脱会したのは10年以上も前で、教義批判はおろか、組織の
隠蔽体質やごまかし、高森会長の盗作、幹部の腐敗といった
情報すら入って来ませんでした。とはいえ「親鸞会にいても
救われない」と思ったのも事実です。一生懸命、ゴールに向かって
全力で走れ、走れ、と言われるだけで、誰もゴールに到達した、
と喜んでいる人を見ませんでしたから。私よりもずっと頑張っている
人ですらゴールに到達しないのだから、私のようなのんびりペースでは、
まずゴールに到達することはないだろうと思いました。
投稿: | 2010年5月13日 (木) 14時01分
会長や会のおかしな事にも目をつぶって会員さんが、長い間、会に献身的に尽くしてきたのは、皆さんが仰るように、「後生の一大事」の解決の為でした。
三願転入の先に後生に驚きがたって、解決できる身に、献金や人を連れて行ったら、いつかは出口に出られるものだと、諦め切れず、ずるずる続けているように思えます。
会の献金と人集めのおねだりを受け入れてしまう理由は、この「後生の一大事」でした。
「一息切れたら、皆さん後生です
悪いことしかしてこなかった報いで、必堕無間地獄です。
そんなあなたを助けてくださる、阿弥陀仏の本願に救われる為に、
三願転入しなければなりません。
19願では善をしなさいといわれています
真実を伝える団体への、献金は善です。
多くの人に真実を伝える事も善です。
できるだけ、たくさんお金を持ってきなさい。家を持っている人は、
それを売って、アパートに住んででも、より多く出しなさい。
一人でも多くの人をつれてきて、
会長先生のお話を聞いてもらうのは法施という最も尊い行いです。」
こんな事をいわれて、お金や人をせっせと運びました。何十年も。
でも、いつになっても、後生が一大事だとも、地獄だともちっとも、しらされませんでした。
本当の悪の意味は、すなわち助からない理由はハッキリしています。
それは、阿弥陀仏の本願を疑う心です。
煩悩でつくる悪は止まる事はありません。
悪の止む事のない、煩悩で罪をつくり続けるから、その為の本願なのに、
疑いを止めるどことか、信罪福に迷って、
自ら本願の救いから遠ざかっています。
ずっと、ずっと、阿弥陀仏に大悲の涙を流させても何とも思いません。
そんな姿そのまま、今、救われるのが、阿弥陀仏の本願です。
自分の力は何一つ及ばない、間に合わないことが知らされます。人間の思考を完全に超えています。それを、道筋があるように教えるのがこのカルト集団です。
もちろん、臨終までに、本願に救われなければ、六道輪廻に舞い戻ります。
これは一大事といえば一大事なのでしょうが、元の古巣に戻るだけです。
むしろ、「一大事」というのは、本願寺の言うように、煩悩を断てない、悪の止められない凡夫が、阿弥陀仏の本願で、今、信心決定出来て、死んで、阿弥陀仏のお浄土に生まれて、仏の悟りを開けることでしょう。
阿弥陀仏の本願が真と、疑いなく信じたら、今救われることを知らされたあなたは、今救われます。「聞思して遅慮することなかれ」です。
投稿: | 2010年5月13日 (木) 20時12分
どっかできずくタイミングが必要。言われたことをやるのはロボットと同じ。
投稿: | 2010年5月13日 (木) 22時59分
長年聴聞を繰り返し、一体俺は何を求めていたのか。 親鸞会や知識、また他の会の組織が真実なんかではない。本願をおこされなければならなかった、この俺が何様なのか。その一つを聞きたい。
投稿: | 2010年5月14日 (金) 14時42分
>親鸞会の人たちは自分たちが「誤解されている」と感じているかもしれません。
誤解ではなくて、正解だと思う。
投稿: 遺言動物 | 2010年5月14日 (金) 22時35分
だいたいそんな大事な話を、座って話聞くだけでモノにしようって発想が異常
投稿: | 2010年5月15日 (土) 11時22分
昔、20周年記念 顕正マンガ② と いう本があり
高森会 の 機関紙 の挿し絵 を まとめたものでした
まんが の 作者の ◎◎子 さん は ご健在でしょうか?
投稿: | 2010年5月15日 (土) 14時12分
人に負けて信をとれ、という蓮如上人のお言葉を理解していない人が多い。我執が強くて、そもそも厳しく指導すべきところが間違ってる。
投稿: | 2010年5月15日 (土) 18時12分
コメント追記 私が思う善知識のイメージとして、我執はあまり感じられないがとても厳しいというものがある。親鸞会の講師は(例外はもちろんあるが)これとは逆のタイプが多く、また他人の後生を本気で心配していない。
投稿: | 2010年5月15日 (土) 23時42分
親鸞会に疑いを持ったのは21世紀になって明らかに衰退の一途をたどってからです。
高森先生が元気なときはなんだかんだ全国飛び回っていた。
今は富山へ行くだけで金金で万事休す。
どういう理由であれ、会員から会費とかご放射を払ったならば
収支報告をするのは当然です。
それを仏法のためで終わりですからね。
誰もが不審を持つのは当然です。
投稿: | 2010年5月16日 (日) 12時00分
今さらいうまでもないが、昔、親鸞会は人集めじゃないと言われた。しかし、人集めです。ノルマがあり何としても達成しないといけないと言われる。結局は人集めなんだな。嘘ばっかりです。親鸞会発展には会員増やすのは当たり前です。増えたぶん以上に減ってますからマイナスですね。 支部長制度にしろ意味ないし、バカ息子はしっかり給料もらってるからね。
投稿: | 2010年5月16日 (日) 14時52分
高森会長の息子さんの M春講師ですが
はじめて、あった時 へんな人だと 思った
で、こっちから近かづいても メリットはないと 判断した
正解でした
M春講師の とりまき はおかしい
絶対君主みたいにもちあげて
おん同房 おん同行 ではないのか
とにかく、おかしな人達でした
投稿: | 2010年5月16日 (日) 18時19分
683 :神も仏も名無しさん:2010/05/16(日) 07:46:24 ID:an5oVwrQ
真生会で聞いたんだけど、三願転入のことで特専部が大騒ぎになっているみたいですね。
今まで騙されてきた、といっている人が出てきて、真生会にも影響があるそうです。
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本当ですか ネタ じゃないでしょうか
知り合いが 沢山いるのですが 心配です
無茶なことをしなければ いいのですが
投稿: | 2010年5月16日 (日) 18時29分
バカ息子はM晴ですね。もちろん。
彼は、子供が成長したままで、精神年齢は子供です。叱咤しながら成長していくものだが、会長の息子ってことで、腫れぼったく扱われたんでしょうね。
孫はまだ息子よりはマシです。
投稿: | 2010年5月16日 (日) 18時55分
医者は意志免許あるから辞めれるだろう
投稿: | 2010年5月16日 (日) 21時56分