« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »

妨害なんてしてないよ。

私は親鸞会の布教の妨害なんてしてないですよ。変な言いがかりはやめていただきたい。

親鸞会とはどういう団体であるか、それを内外(最近なら特に大学に)に明らかにしているだけです。

それを妨害だと感じるのならばあなたがたの有様に問題があるのだし、私の言っていることに間違いがあるのならばメールでも直接会いに来てもいい、誤解を正したらいいではないですか。

しかし5年もこういう事をやっていて、「誤解だ」と言いに来た人はひとりもいなかった。講師部員なんて会いにも来ない。これはどう考えても私がここに書いていることが正しいからでしょう。実際に、全部証拠があることだし。

私の言っていることを本願寺の陰謀だとかなんだとか勝手に決めつけて「デタラメ」だと言うのならば、何がデタラメなのか一言でもいいから指摘してみなさいよ。

「命がけで高森先生をお守りします」とか全員口だけですよね。ネット上でも実際にでも体を張ろうなんてひとは一人もいない。実にくだらない集団だ。

講師部って200人もいるけど、自分のこれまでの人生に悔いはないと自信を持って言える人って一人もいないでしょうね。弱々しい、自分の身を守ることが精一杯の人達。一人じゃなにもできないでしょう。

なんか私は最近、親鸞会が方々でないがしろにされ、馬鹿にされるのが悔しくて仕方がない。親鸞会の講師部といえばかつては鉄の団結と軍隊並みの厳しさと周りから思われていたけど、今やそんなこと思う人はだれもいなくなった。

内部情報なんてダダ漏れだし、さしたる教義も宗教的信念もない、矮小でウソつきで情けない集団だと思われるのがとても悲しい。

しかし、仕方が無いのでしょう。それが事実なのだから。

| | コメント (32)

投稿:仏縁と我が身を守る事、どちらが大切なのか

会員の仏縁を守ること、それとも講師、または会としての存続を守ること、どちらが大切なのでしょうか?
おそらく後者かもしれません。
そう感じ取られることは多々あります。
例えば、週刊現代や宝島、またはネットといった公の目に触れる物での対応。もし、「自分達が正しい、雑誌、ネットは間違っている」というのであれば、それなりの対処をすれば良いでしょう。
「本願寺の仕業」、「批判だけしていて、正しい教えは説いていない」だから放っておく、ブログのコメントも受け付けない、、、では、納得しないでしょう。間違っていれば、ネットでもどんどんを論破すれば良いと思いますが、、、その気配は感じません。
会員がそんな状況を見て、正常な心で居られるのでしょうか。
講師のブログは会員も普通に見られると思いますので(批判サイトではないので反対派されないでしょう)、普通に考えれば「講師の方々がバッサ、バッサと論破してくださる」と思うでしょう。でも、コメントを受け付けない。。。
どういうことですか?
「批判の者を放っておく、無視しておく」のが良いのでしょうか。

そのように、会員の仏縁と講師や会の保身どちらが大事なのか、これを考えさせる事が過去にありました。
この件で、私の仏縁は無くなった、無くなる、切れるきっかけを講師、会自らが起こしたと思っています。

その内容とは、数年前の除名騒動です。
当時の私は、参詣も年に数回、地区の行事には参加しない、と言った状態で、熱心にやっている方からすれば、かなり”危険な”状態だったと思います。
そんな私にある日、担当講師より突然1通のメールが来ました。
メールの内容は、K氏(皆さん、お分かりかも知れませんが、あえて伏せています)の除名についてです。
私は学生時代に短期間でしたが担当講師としてK氏にお世話になりました。
だから、関係していた、ということで連絡が来たようです。

メールが届いたのは正確な年月は忘れてしまいましたが、確か2006年か2007年の2~3月ごろだったと思います(K氏が除名になった後です)。
メールの正確な内容は覚えていませんが、「K(呼び捨て)からメールなど連絡があったか?」という内容でした。
この時点で、私はK氏が除名されたとは知りません。
なので、通常であれば「Kさん」、「K講師」というはずなのに、いきなり「呼び捨て」メールでしたので、「何故だろう?」と思うのは当然だと思います。
実際にK氏からは連絡はありませんでしたので「ありません」と返信しました。
それだけのやり取りでした。
理由も何も書いてありませんでした。
ただ、元同じ学生部だった方々の中には、実際にメールを貰った人はいたようです。
恐らくニフティ(親鸞会でメーリングリストなどで使用していたプロバイダ)に来ていたと思いますが、私は既にニフティを解約してしまっていたので届かなかっただけかもしれません。
よって、そのK氏からのメールがどの様な内容だったか、知りません。
突然、こんなメールを突然貰えば、当然”何かがおかしい”と思い、一体何が起こっているのか、そして理由が知りたくなります。色々な方面から情報をなんとか聞き「除名になった」ことを聞かされました。しかし、理由は「分からない」ということでした。
そこで、本当の理由を知りたいとネットなどで調べていたら、「さよなら親鸞会」、2ちゃんねるなどの存在を知り、事実を知った次第です。
自分で言うことでもありませんが、学生時代よりも明らかに遠のいており、いつ「辞める」、「辞めさせられる」と言ってもおかしくない状況だったと思うのですが(この状況は担当講師も分かっていたはず)、このメールが送られてきたことで、より不信に思うようになりました。
第一、突然、人に理由も告げずにそのようなメールを送ってくる、また、「~さん」、「元~講師」と呼んでもいいはずなのに、いきなりの呼び捨て。。。
仏法者、講師として、という以前に大人としてどうなのでしょうか。
子供の喧嘩で、翌日からあだ名から呼び捨てに変わったようなものです。
でも、そういう団体なんですよね。昔(学生時代)からそうでした。

この事について、大きな不信を持った私は、担当講師にメールで聞きました。
まず、私から「メールで不信を持った」と告げた上で、文章を書きました。
この時のメールを送った理由の答えは、
「Kは本会を非難しているため、早急に確認したかった」ということでした。

「ではなぜ、それを正して、その道に戻そうとしないのか。それが恩同朋、恩同業であないか」、「 ”一連の除名騒動”に関係した調査メールを貰ったから、不信になった」、と言っても、謝罪の1つもなく、「あなたの考えは間違えです。(私が)正しく聞いていないから、そんな間違えた事を考えている。Kは大変恐ろしい罪を作っている。どれだけ正そうとしても直らなかった。だから除名になった。どれだけ正そうとしたか、知らないで(私が)話をしている」で終わりました。
そんなこと、私が知ることはありません。
当然です。
同じ講師部員の仲間として、どうなんだと思いました。
身内の揉め事を会員に飛び火させて欲しくなかったです。
そういう理由があるなら、なぜ初めに言わなかったのか。。。
全ては、私が正しく聞いていないのがいけないんですね。

それから約2年が経ちました。
先日、再三来ていた連絡に答える形で直接担当講師に会い、話をしました。
(放っておくと面倒な事になっても困るので、仕方なく会いました)

まず、メールの件について話をしました。
「あの、一件で、一気に不信になった」と。
それに対する回答は、
「あなたの気持ちも判る。突然あのようなメールが送られてくれば困惑するのは当然だとおもう。でも、あの方法は仕方がなかった」とのことでした。
言い分としては(講師単独、会の方針かわかりませんが)、” 「除名された」理由を説明すると悪影響になる可能性があるため、荒いやり方ではあったが、それを告げずにメールの有無を確認した」”ということでした。
除名の本当の理由を言えば影響があると思っていたのでしょう。。
まずは、K氏との縁を切ることが目的だったようです。
これは、この担当講師の独断ではなく、一人でもK氏と関係のあった人がいる支部全てで行われていたようです。これも学生部時代の友人から聞きました。
しかし、そのようなメールを送ってきても、その後のフォローは全くありませんでした。
”連絡が無かった=K氏との縁は無い”という事で安心したのでしょう。。。
本来であれば、送られてきたメールの内容をそのままお伝えできれば良かったのですが、携帯に送られてきたメールで、機種変更などしてしまいましたし、何より不愉快でしたので、削除してしまいました。
すみません。

一体何がしたいのでしょうか。
本当に仏縁を守りたいからなのでしょうか。
知られたらマズイことでもあるんじゃないですか?
(内情、実は嘘だった、、、がバレるなど)
もし、自らの教えが正しく、会員を信じていれば、わざわざそんなことしなくても良いのでは?
そうやって動くことで、親鸞会にとってはより悪い方向になる事を考えていたほうがいいかもしれませんよ。
会員さんも一人の人間です。何かおかしいと思えば、、、、どういう行動を起こすか、分かっているはずだとおもいますが、、、どうなのでしょう。

| | コメント (14)

投稿:批判の多くは、あなた方の誠意のなさに端を発していることです

なぜ批判されているのか、何を問題視されているのか、本当は気づいているはずですが、親鸞会の方のブログでそれらの問題に触れられることはないように思います。全ての指示を決定している人間の品位に関わってくる問題だからではないでしょうか。

誤解される会員がいるからという理由で、会長の過去や振る舞い、会計報告の問題、F館の個室のことなど秘密にされているようですが、誤解なら解けばよい話です。

しかし、それに関する説明が為されたことはありません。

偽装勧誘を正当化する心理の下にあるものは、ぶるうの氏が以前書かれていたように、偽装しなければ理解してもらえないという、自分の体験に照らした負い目のようなものでしょうか。怒りや猜疑心を植えつける犯罪まがいの行為は、世間のルールから考えたら許されないことですし、親鸞会が目指している全ての人に仏法をお伝えするという目的からみても不健全です。

批判されているのは、こういったことでしょう。

しかしこれらのことは聞き流し、「私たちを問題にする暇があったら、自分の一大事を解決するほうが先だろう」と言われます。

いつまで不自由な檻の中にいるつもりなのか、今生こそが、真の自由を手にするときなのだ、と。

目的を示すことが、他の問題を蔑ろにして良い理由にはなりません。

これでは井戸にいる蛙同士が、空の大きさをひけらかすことで、一方の問題を避けているだけです。お互いに見合わせた顔は蛙です。井戸の現実は何一つ変わっていません。迷宮でもいいです。互いに迷宮にいるならば、信用を得るために迷宮内の人の声に耳を傾けるべきでしょう。

何か核心に触れるようなことを尋ねると、親鸞会では必ず、自分自身の後生は?と逆に尋ね返されます。言っている本人も過去、そのように言われて、ひたすら疑問を封殺してきたからです。

他の方のブログで指摘されていたことですが、会に対する疑問を持たないのが、まるで信仰の証のようになってしまっている状況です。年月が長くなるほど、立場が上になるほど、この信仰を体現しなくてはいけなくなってきます。人に教えを説く者という立場が、更に自分を縛り、そのうちに当たり障りのない言葉しか出てこなくなります。自分が、後生の一大事を分かっていない者になるわけにはいかないのです。

最後は、後生の一大事が分かっていない者の言うこと、と自分の立場を一段階繰り上げて、批判者や質問者を見てしまうのです。

会に対する疑問を、なぜ相手の人生の目的と絡めてしまえるのでしょうか?

人生の目的という大事なことを伝えるなら、相手の疑念は出来る限り払拭すべきです。

なのに、後生の一大事、人生の目的に対する自覚を質問者に促すことで回答としてしまう、この底に横たわっている感情は何なのでしょう?

「後生の一大事が分かっていない」というようなことを言うのは、決まって、高森会長その人に対する疑念や会の運営方法に対する疑問を口にしたときです。

しかし人生の目的を意識すればするほど、それを説く人や団体を信じたいと思うのは当然で、その人の過去や人間性に触れたいと願うことに罪はないでしょう。

そして、何も答えにくい質問ではないのだから、キチンと答えればいいのです。

誤解されそうだから黙っておく、或いは偽の情報を流す、というのでは事実を知ったとき、疑われるのは当然です。それを相手のせいにするのは間違いです。

親鸞会では、善知識の教えに無条件服従しなければ絶対に助からないと言われています。だとするなら、その人の行状や経歴を正しく伝えるというのは、信じる指標の一つとしてとても重要なものではありませんか。

それを切り捨てて、後生の一大事が分かっていないからだ、と言い切ってしまうのは、まるで人生の目的そのものより、会長への忠誠が先にあるように思えてなりません。

全てを知らせたうえで、相手を信じて参詣する、これが本来の姿でしょう。

親鸞会で助かるのかどうか分からないという人があれば、あなた方が生涯を会長に託したその理由を告げればいいのです。

それを聞いて、残る人もいれば去っていく人もいるでしょう。

去っていく人の一大事の受け止め方が、自分より軽いなどと思ってしまうのは、迷宮の中で互いを見比べているようなものです。その瞬間、相手の何かが変わるのですか。それとも自分の中で何かが変わるのですか。私には得られるものがないように思います。

あなた方はこれからも、去っていく人を一大事の分かっていない者と、自分はあたかも一歩駒を進めた先人として振舞うのでしょうか。同じ檻の中で、どこか高いところにでも立ったつもりになっていませんか?

違うのならば、ぶるうの氏の言われるように誠意ある対応を見せるべきです。

腹を立てる会員や脱会者がいるのは、まさか偽りの情報を呑み込んでいたとは思わなかったからでしょう。流れてきた情報を信じて、それで納得できたから多くのものを差し出せてこれたのです。誤解があってはいけないから黙っておく。これは更なる誤解を生み出します。偽装勧誘と同じで、その場だけの成果を意識した振る舞いです。

どんな非難にも耐える、自分のことはどうなってもいい。

このように覚悟を決めておられる親鸞会の方々は多いと思います。立派な姿勢とお見受けします。ならば、今どういった批判が起きているのか。その批判の中身に目を向けていただきたいと思います。

罵詈雑言の類なら相手にする必要はないでしょう。嫉妬や妬みで攻撃してくる人もいるのかもしれません、私にはよく分かりませんが。

しかし批判の多くは、あなた方の誠意のなさに端を発していることです。騙されたと思う人がいるのは、隠されてきたものの存在を嗅ぎ取ったからです。

親鸞会の方々のブログを見ると、地に足のついていない理屈をこね回しているもの、他を貶めることで自分の立場を再確認しているもの、誰を相手にしているのかよくわからないものといった感じで、言ってみればどれも自分本位な内容のものばかりです。ここから誠意を感じることはできません。

誠意の重要性を説く親鸞会の姿を覚えている人は多いと思います。

言っていることはよくわからなくても、その誠実な姿だけを信じた人がいたのではありませんか。今もその姿を信じて残っている人がいるのでしょう。その人たちに、正しい情報を伝えていますか。今の姿勢を続けていくなら、批判が止むことはありませんよ。

その批判は、あなた方が重ねている祖師の蒙った非難とは全く異にするものです。

迷宮の中の賢者では意味がないんです。

出口を知っているならば、まず自分の足元から周囲を見渡してみませんか?

| | コメント (4)

だから誰もついてこない

大前提が崩れるとき、というエントリを読みました。自分たちに向けられる批判に全く答えられなくなったと思ったら、今度は真宗大谷派の批判を始めました。「自分たちも間違っているかもしれないが、もっと間違っているところがあるじゃないか」とでも言いたいのでしょうか。

信者を騙して教団の金で自分の御殿を建てさせたり、主要な著作がほとんど大沼法竜のパクリだったり、教義批判からは逃げてばかりで、さらに弟子の講師部員はみんな口ばっかり。こんな教祖の率いる教団の中にいる人が、

船内の豪華絢爛な世界も、乗客たちの笑顔も、それがやがて沈み行く船の中のひとコマと知っている観客は、その〃幸せ〃を見るに忍びないのです。

と書いても、普通の常識を持った人からは「バカじゃないの?」と思われるだけでしょう。そもそもこのブログを書いている人物の人生自体も「やがて沈みゆく船の中」にいる訳であり、自分自身が「臨終に崩壊しない信仰」を持っているかどうかさえ明らかにできないのですから。

そういえばこのブログから、「浄土真宗を憂う」という弘宣部が作ったサイトにリンクが貼られていました。もともと弘宣部というのは平気で誤魔化したりウソをつく集団なので内容は殆ど信用できませんが、親鸞会の講師部員を息子に持つ住職が大谷派の寺を出たのは事実です。

高森会長が「本願寺を離脱した」というのが実際には「僧籍を剥奪された」のが事実であるように、彼らも自分から寺を出ていったように思えますが実際は追い出されたというのが正しいでしょう。

今までも宗派を離脱していった寺は多くあったのに、彼らにそれができなかったのはご門徒の支持を全く得られなかったからです。それを「宗務当局側の術策で後一歩のところで頓挫」と彼らは書いていますが、それなら一体何人のご門徒が住職と一緒に大谷派を出て親鸞会に入ったか書いたらいいと思います。絶対に書けませんから。

独りよがりな「真実」とやらを振りかざしてご門徒の気持ちを考えず、かえって親鸞会への不審を与えるだけだったから誰もついてこなかったのです。この人、今も「大谷派住職」という肩書きで親鸞会の発行物に本願寺の批判を書いていますが、私はご門徒に見捨てられ親鸞会にしかよりどころの無くなった人が、親鸞会に言われるがままに提灯記事を書いているようにしか見えません。

この事実は多くのことを私たちに教えてくれます。ご門徒や彼らの周りの住職、教務所の人たちには本当に彼らを心配した人も少なくなかったにも関わらず、「真実を知らない人たち」と見下し、自分たちの信仰や教義の正当性を省みることなく、彼らは最後の最後まで自分勝手に大勢の人に迷惑をかけ続けました。思えば親鸞会の通常の活動でもこんな事が多いのではないでしょうか。

親鸞会を脱会する人がいても「後生の一大事が分からないから」「苦しい求道に負けた敗残者」と勝手に決め付けて見下し、親鸞会を批判されると「本願寺の陰謀」とヒステリックに叫んで撥ね付けるばかり。これでは周囲が付いてゆけなくなるのも当然だから、自分たちと価値観の合う人ばかりで集まって「そうだ、僕たちは間違ってない」とお互い確認しあう。

「やがて沈み行く船の中のひとコマと知っている観客は、その〃幸せ〃を見るに忍びない」と言っている著者も全く同じでしょう。そのちっぽけなプライドが臨終のなんの役に立つのかは知りませんが、あなた方のそういった「盲信」のおかげで高森一族が「船内の豪華絢爛な世界」を楽しんでいることくらいはそろそろ気付いてもらいたいものです。

| | コメント (7)

投稿:今を大切に生きましょう

 カルト会に騙されて、色々辛い思いをしてきました。
 お金も、時間も注ぎ込んできました。
 でも、終った事です。

 大切なのは今です。
 過去の嫌な事、悔しかった事、怒った事、泣いた事は全て、水に流しましょう。

 あなたを苦しめる原因になった人には、心配しなくても、その人に直接、報いが来ますから。
 仮に、あなたが生きている間に、報いが来ているところを
見ることが出来なくても、構わないではないですか?
 おかしな事をする人の事を、思い出して眠れぬ夜を過ごしても、相手は枕を高くして熟睡しています。
 つまらないですよ、そんな人の事を考える時間が勿体ない。

 彼はまた考えます。
「多くの若者に親鸞聖人の教えを伝えたワシ、昭和、平成をまたがる大善知識だったな」
 彼の思考の中には、反省か思いやりというものはないのです。

 今から、何をするかが問題です。
 あなたを苦しめている人は、自分が、どんなに、多くの人の若者の人生を狂わせ、
塗炭の苦しみを味あわせたなんて、思ってもいません。

 なぜなら、彼はサイコパスであり、人の痛みを感じる感覚を生まれつき持ち合わせていません。
 アスペルガーの独裁者的な極端な面が現れたと私は見ています。
 彼の取り巻きも、高齢になり、既得権を放したくありません。
 さすがに全てがサイコパスではないでしょうから、おかしいことを知っていて、
それでも、止められない人も多いと思います。

 でも、あなたは、もう、騙されたと、わかったのですから、後ろを振り返ってはならないのです。
 自分で、この先の方向を決め、前を向いて堂々とこの先の人生を歩んで下さい。
 あなたの身の上に、ありとあらゆる幸せが、やってくることを念じて止みません。

| | コメント (15)

迷宮の森の「出口」

生簀の中の自由というエントリを読みました。ああ、またあのブログの話かと思われるかもしれませんが、大事なことを問いかけているので、ここで短いながらも私見を申し上げたいと思います。

かのブログの著者は言います。

出口のない森の中での自由など、ハッキリ言わせていただけば、もう聞き飽きたのである。
それよりも迷宮の森の「出口」こそ、万人の希求するものなのではなかろうか。

-中略-

私自身のことなど、どう思われてもいいのですが、あなた自身、本当に自由ですか?その自由はひょっとして生簀の中の自由でしかないのではありませんか?
敵対したり、いがみ合ったりして時間を潰している場合ではなく、親鸞聖人の正統な教えをよく聞いて、生死出離の道を歩ませていただき、その道を示すこと、 それがお互い、残された人生でやるべきことなのでは。

親鸞会を脱会した人、親鸞会を批判する人には人それぞれ、色々な理由や感情が有ることと思います。そのきっかけは高森会長の贅沢三昧や会員の金の使い方であったり(これについては新しい重要な情報が入っているのだけど公開を躊躇している)、高森会長の盗作や幹部モラルの欠如であったり、組織の腐敗であったり教義の誤りであったり、色々だと思います。

そんなことは少しネットで検索すればいくらでも出てくるでしょう。

ところがひとつだけ共通している理由が有るのです。どんなことがきっかけになって脱会したにせよ、根本のところは脱会者は「親鸞会にいては救われない」と思ったから脱会したのです。かのブログ風に言えば、「迷宮の森の「出口」」など親鸞会には無いと思ったのです。

私が脱会したときは教義批判は今ほど盛んではなかったように思います。しかし組織の隠蔽体質やごまかし、高森会長の盗作、幹部の腐敗をみて、「こんな腐りきった団体が世界唯一の真実を説いているなんてあるはずが無い」と思ったのです。

過去に親鸞会をやめた人も、今から親鸞会をやめる人も、ここだけは同じでしょう。親鸞会で救われると思ったらやめませんよ。

親鸞会をやめる人は生贄の中の自由を受容し、生死出離の道を捨てたのではありません。そう書きたい気持ちは分かりますが、そんなことを書いても脱会者は少しも共感などしないでしょう。まったく自分の思いと違うのですから。

親鸞会の人たちは自分たちが「誤解されている」と感じているかもしれません。しかし親鸞会自身も脱会者の気持ちなど、少しも理解しようとしてないのです。

本当にかのブログの著者が「迷宮の森の出口」を求めているのならば、親鸞会を批判する人は「親鸞会には出口など無い」と言っているのですから、その疑問に正面から答えてみては如何でしょうか。

それが出来ないのならば、結局かのブログの著者が求めているものは断じて「生死出離の道」などではなく、自分が親鸞会にささげたしがない人生を正当化する理由が欲しいだけなのでしょう。

もうすぐ50歳になりますよね。そろそろ勇気を出して自分の進む道を検証してみては如何でしょうか。そんな勇気はとても無いのかも知れませんが。

| | コメント (18)

やれやれ

都合が悪くなる人たち、というエントリを読みました。

この人たちは一体何を守りたくてこんなことを書いているんでしょうね。

最初に親鸞会は、自分たちは教義的に絶対に正しい。本当に親鸞聖人の教えが広まることが都合が悪いと考える人たち(本願寺)が、自分たちを非難攻撃しているんだ、といっていました。

それが最近はどこを見ても親鸞会に対する教義批判であふれるようになって、「自分たち以外にも親鸞聖人の教えを曲げている人はいるのに、それらを批判しないで親鸞会ばかり批判するのはなぜか」と言い始めました。

本当に親鸞聖人の教えを守りたいのならば、親鸞会に対する教義批判に対して応えたらいいのに、それには一切沈黙したまま。ブログのコメント欄も閉じ、mixiでは都合の悪い書き込みは削除するチート行為。会員が講師に質問などしようものなら、「批判サイトを見ている危険人物」扱いです。

「教え以上に優先し、守ろうとしているものがあるから、あの状態で結束できるのだと思われます。」

これ、誰がどう見てもあなた方のことでしょ?

本当に教えが大切なら、親鸞会に対する教義批判に腰をすえて応えたらいい。それが出来ないで「私たちは、非難攻撃などもとより折り込み済み」とか、本当に情けないですよね。

そもそも親鸞会を批判しているのは本願寺ではなく、そのほとんどが脱会者です。

どうしてこれほど多くの脱会者が親鸞会を批判しているのか、少しは真剣に考えてみたらどうだろう。それは教義が誤っていたからだけではない。高森会長やあなた方講師部員の言動、組織の腐敗、金の問題といったことに対して、怒りの声をあげているのです。

そんなことはこのブログだけでもちょっと見ればすぐに分かることでしょう。

今も昔も会員に対して「親鸞会への批判は本願寺の陰謀」という言い訳でごまかしてきたけど、もうそんな詭弁はとっくに通用しないレベルに来ている。

なぜそのことに気づかないのだろう。

ブログのプロフィールを見ると著者はもうすぐ50歳になろうという人物です。

30年間親鸞会で都合の悪い情報や自分の信念を崩しそうな事柄から目をそむけ続け、自分をごまかし、自己を正当化する理屈を考え続けてこの歳まで来たのでしょう。

実にかわいそうです。

私は自分の人生ではこんな50歳を絶対に迎えたくない。勇気を出して決断して良かったと思う。

| | コメント (8)

投稿:ネットや雑誌は全て本願寺の坊主がやっていること

今回、投稿させて頂いたのは、「さよなら親鸞会」などのサイト、「宝島」、「週刊現代」などの雑誌の内容に対する講師の見解、つまり親鸞会の見解を聞きましたので、どの様に思っているのか、参考までに皆さんに知ってもらいたく、投稿しました。
もしかすれば、担当講師がこの内容を見れば、私が誰だということを特定できるかもしれません。
もし、それで除名や、なんらかの処分があれば、それは受けるつもりです。

少し、前置きですが・・・
私は会員暦14~15年くらいの者です。
数年前までは、毎月参詣できなくても、せめて年2回の大きな行事だけは、と思っていましたが、それも無くなり、現在は幽霊会員です。
そんな私ですので、会費も未納であり、当然ですが担当講師から連絡が来ます。
私が全く地元も含めて参詣しなくなった理由、それは幾つかありますが、大きくは2つです。
1つが、たまに担当講師からの連絡がある時は、会費の事だけ。
”法を説く”なんてことは一切なく、「結局は金か」と思ったこと。
もう1つが、一連の除名騒動です。

メールや電話が頻繁に来ましたが、面倒なのでメールでやりとりしていたところ、
「家に行って話をする」
と切り出してきたので、それはマズイと思い、渋々会って話をすることにしました。

一連の除名騒動、ネットや雑誌の事について、私の思いを話しました。
その答えにビックリ、と言いますか呆れ、そして失礼ながらも笑いそうになってしまいました。

まず、見解は、
「ネットや雑誌は全て本願寺の坊主がやっていること」
「週刊現代の記事についても本願寺の坊主で、誰がやったのか大よそ掴んでいる。それに対し何らかの動きを掛けるかどうかは、高森先生が判断されること。どうでも良い、と思う内容なら放っておく」
という事でした。
”自分達が正しいと思うなら、誰だか特定しなくても良いのに・・・”と思いましたが、それは言いませんでした。
また、それを自信満々に言っている姿に呆れてしまいました。

F館の6Fについては、
「6Fなのに、5Fと言われているのはおかしい、という反論があるが、6Fは高森先生のお部屋。会員が利用できるのは5Fまで。だから5Fとして言っているんだ。お布施している者が言うなら分かるが、1銭も出していない者が言うのはおかしい」と。。。
6Fは高森会長の部屋だというのを講師の口からしっかりと聞きました。
6階建ての建物で5Fまでしか使えない、というなら正直にそう説明すれば良いのに。
わざわざ、完成モデルまで”5F仕様”で作っておいて・・・。
正しいなら隠す必要ないでしょ?
6Fに高森会長の部屋がある事が問題ではなく、”あの建物(F館)は5Fだ”と目に見える形で会員に提示しておいて、実際は6Fという矛盾がおかしいと思うのですが、、、
この見解には呆れ、都合の良い解釈に笑いそうになりました。

また、
「誹謗サイトの者は、間違っていると言っているだけで、正しい教えを解いているか?実際には解いていない。だから、教えを分かっていない」
と言っていました。
後は、経験された方もいらっしゃると思いますが、”正しい教え”のマシンガントークです。
一方的な話。全くキャッチボールが出来ていない。
それで、”話は伝った”とでも思っているのでしょうか。
逆効果だと思います。

何か言えば、
「教えを聞いていないからだ」
「どう生きるばかり考えているからだ」
と言うばかり。

聞かなくなったのは、会員自身が悪いからなんですね。
講師の方々は皆、悪くないんですね。
”一連の除名騒動で、とあるメールを貰ったから、不信になった”、と言っても、謝罪の1つもなく、「あなたの気持ちも判る。でも、あの方法は仕方なかった」で終わりなんですね。
謝罪して欲しい訳ではありません。
会員一人(妻もそうですので2人)を不信に陥らせ、仏縁が切れそうになっても?
自分の非を認めない・・・そういう体質なんだと、、、

そんな人間に、”正しい教え”をマシンガントークしてもダメですよ。
聞く耳を持っていませんから。。。
正確には、もう持てませんから。。。

じゃあ、なぜ今回会った?と思われるかもしれません。
ただ、直接会って話をすれば、少しでも自分のやったことに対し、何らかの言葉が出てくるだろう、と思ったからです。
期待した私が馬鹿でした。

しかし、あの上から目線はどうにかならないんでしょうか・・・
聞いているこちらが不快な思いをするだけです。

| | コメント (70)

« 2010年4月 | トップページ | 2010年6月 »