なぜ親鸞会は摂理や統一教会と変わらない偽装勧誘を続けるのでしょうか。
ほんの少しばかり賢い人がいれば、このやり方は一時的にそこそこの信者を獲得することは可能かもしれないけど、長い目で見れば教団の社会的な信用を失い、また多くの人を傷つけ悪評をうむことはわかるはずです。実際に、親鸞会学友部は偽装と隠蔽が不信と悪評を生み、それを隠すためにさらなる偽装と隠蔽を行う…という負のスパイラルを続けてきました。
偽装勧誘をやめれば、一時的に成果は落ちるかもしれませんが、よくある新宗教の一つとして社会的に批判されたり、大学側から排除されるようなこともなくなるでしょう。有名大学を出た親鸞会の幹部がどうしてこれしきのことが分からないのでしょうか。
その理由は「勧誘している講師部員や幹部も殆どが偽装勧誘で入信したから」です。自分たちの正体を隠して誘われ、あらゆる隠蔽とマインド・コントロール的手法で自分が入信したから、他の人もその方法でないと入信できないと思い込んでいるのです。
自分の信じているものが「素晴らしい」という絶対的な自信があるから、嘘をついてでもその信仰を伝え幸せになって欲しい、というのは間違いです。自分の信仰がごまかしと隠蔽の中で育てられた自覚があるから、他の人もそうだろうと思ってしまっているだけのことです。結局自信がないのです。自信がないから、隠す。もっとはっきり言ってしまえば、勧誘している人自身が「親鸞会の信仰」をそんなに素晴らしいものだと思っていないのです。
宗教は理屈や手法で伝わるものではありません。それを信じている人の信仰の力で伝わるのです。私は親鸞会をやめてからいろいろな宗教、宗派の方と会いました。親鸞会にいたときには邪教と唾棄すべき存在であったはずのこれらの人々ですが、話をしただけで強い信念と誇り高い信仰を感じる人が少なくなかった。当たり前ですがそうであったなら偽装勧誘など不要です。
偽装勧誘をする人は、本当のところは自分がどうして親鸞会に入って高森会長を善知識としているのかが分からない。嘘をつかれ、誤魔化され、マニュアルによって「育成」されて来た自覚があるから、自分と同じプロセスじゃないと到底信じられる教えではないとなんとなく感じているのです。体験発表や懇親会で「高森先生に出会えて良かった!!」と言っていても、結局それは学友部というベルトコンベアで「作られた」信仰だと心の奥底で気付いているのです。
だから、偽装勧誘を捨てられない。胸を張って親鸞会の会員だとも言えない。自分たちは誤解されているから配慮して言わないのだと言いながら、本当は「親鸞会の内実を最初から知っていたら、絶対に入らない」ということを分かってる。本願寺の陰謀でもなんでもないって事も分かってる。分かっているけど自分の行動を正当化するために無理やり思い込んでるだけです。
そういえば「講師部員で実名でブログと書いているものはおるのか!!」と渡部弘宣部長は叫びましたが、結局彼も実名でブログなどかけない。実名でブログを書いている講師部員も、自らの喜びや信仰の叫びなど書ける筈も無く、差しさわりの無い日常生活や高森会長の著作からコピーしてきたような文章しか載せられない。
親鸞会という「環境」と「手法」の中で作られた信仰だと気付いているから、書けないのです。そんな頼りない信仰だから、親鸞会や高森会長の信仰の幻影に必死になって合わせようとするのが精一杯で、そこから外れないかと不安で仕方が無い。身から湧き出るような信仰などあるはずがありません。
私がこれを書いている今も親鸞会学友部はどうやって大学の監視を掻い潜って、新入生をごまかしながら勧誘できるかを必死になって考えています。丸暗記するほどに高森会長の著作を読みつつ、自分が乗ったベルトコンベヤーに如何に新入生を乗せるかばかりを考えています。
親鸞会の偽装勧誘は親鸞会会員の信仰の表れそのものです。それは摂理も統一教会も全く一緒です。そうなると親鸞会は自らが破滅するその日まで偽装勧誘を続けるしかないのでしょう。高森会長が大沼氏や伊藤氏の著作をパクって教義体系を作った時点で、この根無し草のような教団がいずれ偽装勧誘をすることは宿命付けられていたのかもしれません。
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