弘宣部はいいかげんに高森会長をだますのをやめたほうがいいのではないか
3月15日号の顕正新聞に、また、「歎異抄をひらく」についての記事が載っていました。忙しかったので自分なりにまとめてからエントリしようと思っていましたが、もう次の顕正新聞も出てしまうのでここらで書いておこうと思います。
「歎異抄をひらく」発刊以降歎異抄の解説書が出ていない、という記事についての反論は今までいくつか書いてきました。
その間、いつの間にか「解説書が出ていない」は「反論書が出ていない」と形を変え、親鸞会弘宣部は「歎異抄をひらくの発刊で真宗界は衝撃を受け沈黙をしている」ということを主張しています。
ただ、今回の記事で違ったのは、「歎異抄をひらく」以降の歎異抄本を一応記事として取り上げていたことです。それを見ると誰が見ても「歎異抄をひらく」の発刊以降も順調に歎異抄の本は出版を重ねており、何の影響もないことは明らかなのですが、弘宣部は相変わらず「学者の書いた本ではない」「歎異抄をひらく、以前に企画された本」「以前の復刻本」といちいち奇妙な理由付けをして、「ほれみろ、やっぱり歎異抄をひらく、以降の真宗界は沈黙している」と言いたいようです。
冷静に考えれば、本当に親鸞会の言うような衝撃が真宗界を襲って沈黙しているのなら、復刻本だろうとそれ以前に企画された本だろうと学者の本でなかろうと出版されないような気がしますし、「歎異抄をひらく」以前にもそうした本は沢山あったわけですが、それは意図的に無視されているようです。
そして、いつも出てくるあの論文の数の推移も載っていました。「歎異抄をひらく」発刊前に論文数が急増して、発刊以降に急減している(ようにみえる)図ですが、これも単に「大法輪」が2008年2月号で「歎異抄再入門」という特集を企画して、それに応じた寄稿が15本あったからだけの話で、一度にそれだけ出れば後は少なくなるのは当たり前の話です。
私は比較的本願寺界隈の方とお話しすることも多いのですけど、「歎異抄をひらく」は親鸞会が信者の献金で部数を水増ししている本、という以上の認識を持っている人はほとんどなく、内容は「親鸞会にしてはいいんじゃない?」程度のもので、致命的な間違いがあるとか異端だとか思っている人にも会った事がありません。一言で言うと、相手にされていません。
今回の顕正新聞の記事では本願寺がどう異端に対応してきたかも書いてありますが、大沼法竜から教義をパクっただけで、一貫した教義体系を持たない親鸞会はそもそも異端とすら見られていません。親鸞会への認識は異端ではなく、違法勧誘と高額な献金に起因する「社会問題」です。かつては異端として考えていた人もいるようですが、いまやほとんどが「社会問題」として見ていると言っていいでしょう。
私が残念なのは、この事実を親鸞会弘宣部は認識しながら、それでもこうした記事を相変わらず出し続けているということです。その理由は高森会長に対して、自分たちの仕事である1万年堂出版の事業成果を水増しして見せたい、という我欲と諂いに尽きると思います。それにまんまとだまされている高森会長もかわいそうですが、もっともかわいそうなのはこういう馬鹿げた記事を出して、社会からあきれられる親鸞会に属する会員たちでしょう。
社会の中で生きる会員はさすがに冷静なのか、ここ最近会って話をした人はみなこうした馬鹿げた宣伝を「やめてほしい」と言っていました。私は「歎異抄をひらく」は悪い本だとは思いませんが、こうした馬鹿げたおべんちゃらで著作そのものの価値を貶めているのはとても残念です。
親鸞会は今、馬鹿にされています。数年前までは私から親鸞会の「いいところ」を学ぼうとする人が大勢いました。しかし今はいません。その原因がどこにあるのか。親鸞会弘宣部の人は胸に手を当てて真剣に考えてみたらいいと思います。


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