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絶望するなかれ

今まで随分沢山の親鸞会脱会者に会って来ました。親鸞会にいた期間を前向きに捉える人もあれば、親鸞会に対する恨みや憎しみに溢れている人もいたし、活き活きと生きている人もいれば、落ち込んでいる人もいた。本当に、様々です。

何でこんなバカな団体に人生を費やしていたのか、自分はなんて愚かなのか、と絶望する人も多かった。程度の差こそあれやはり脱会に至る過程で一度は絶望するものなのだと思います。今までの人生観や価値観を根本から覆すような決断をしたわけですから、当然そういう気持ちにもなるでしょう。

しかし親鸞会に入らない人生でもいろんなことがあります。交通事故にあうこともあるだろうし、家族と死別したり離婚したりすることもあるかもしれない。解雇になったり勤め先が倒産することもあります。火事や地震で財産を失うこともあるでしょう。

倒産するような会社を選んだ人は愚かなのか、そんなことはありません。その人はその人なりに一生懸命に人生を生きてその道を選んだに違いない。親鸞会にしたってそうです。確かにマインドコントロールはあったし、嘘つき勧誘もされた。親鸞会は色々な嘘をつき大事なことを隠していた。でもそのときはそのときで一生懸命だった。悩んだり迷ったりしながら親鸞会という道を選んだはずです。

親鸞会に別れを告げ、新しい人生を歩み始めた人たちへ。その決断をした勇気があれば必ず地に足をつけて生きて行けます。親鸞会にいた時代に得たものは決して幻じゃないし親鸞会から出た人生も無意味でもない。

親鸞会にどっぷりはまっている人は親鸞会を離れた人生を否定する。親鸞会を恨み絶望する人は親鸞会にいたときの人生を否定する。どちらも間違いです。

私は13年間親鸞会にいたけど、自分の人生には親鸞会に迷うという経験も必要だったのだと思う。多くのものを失わなければわからない事だってあるし、だからもう2度と同じ過ちは繰り返さない。

どうか絶望しないで欲しいのです。そして安易に「高森顕徹」の代わりを探そうとしないで欲しい。苦しいかもしれないけど、もうあなたは誰の奴隷でもないのだから。

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コメント

確かにです。親鸞会で得たものもありますし、腹の立つこともありました。  社会人になってからは、仕事あっての活動ですから、どうでもいいですが、学生時代だけは、許せなかったね。寝る時間がない、お金がない、活動で時間がない。常識では考えられなかった。部室も毎月、何十万も家賃があったから、それの一部でもとおもって納金しましたよ。
年々方向もおかしくなり、化けの皮が剥がれてきました。 
思うことはみんな同じですから、少しでも、立ち直っていけばいいんじゃないかな。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 14時23分

「善知識」のかわりを探してもあかんです。
そしたらまたおなじことです。救いを人に求めてはあかんです。
最近いかがですか。

投稿: あ | 2010年1月23日 (土) 15時14分

善知識を探し求めることは全然オッケーだと思いますよ。
親鸞会批判している人の中には、親鸞会憎しから勢いあまって
真宗憎し、仏教憎し、宗教憎しになっている人がいます。
悲しいことです。

救いを人に求めるのはだめですね。
法を求めないと。

本当に後生(≠地獄)が気になるのなら、親鸞会から早く離れた方が
いいでしょう。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 15時42分

善知識を求めることはいいことですし、個人の自由です。親鸞会の人は邪教、裏切り者などというからな。被害者のなかには、親鸞会で被害を受けて、求めるなみたいな発言する人もいます。個人の自由です。 
被害者としては、学校の留年、退学、破産、貯金なし、体調不良、病死、過労死だろう。
 親鸞会側は自分のまいた種といい、やめた職員には退職金はびた一文でないからね。無責任極まりない。 
 世界一の教えなら絶対そんなことするわけないだろう。親鸞会は邪教だ。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 18時40分

私は学生時代に今から十年位前にもとめはじめてようやく退会しました。確かK講師かな。カルトの親玉みたいで、気持ち悪かった。幸いにも理系でしたから、勉強重視でうまくにげれたかな(笑)。 
下宿で文系学部は要注意ですよ。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 18時44分

親鸞会や高森一族には恨みはないが、学生部アルタと青年部の
先輩信者には本当に腹が立つ。
退会して10年になるが、奴らのことを思い出すと、今でもはらわた
が煮えくり返るな。
エラそうに命令ばかりしやがって。
自分が世界で一番偉いと思ってるヤツらばっかだった。
留年したくせに。大学中退したくせに。
マインドコントロールされていたなんてウソだろ!
エラそうに振舞うのを楽しんでいただろ!
他人に命令するのを気持ちいいと思っていただろ!
会長やO学生部長のマネして、お説教している自分に酔っていただろ!
青年部長に「貴様らに必ず仕返しするからな!」と罵声浴びせて
退会したときの怒りは、今も変わっていない。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 19時56分

地域にもよるだろう。関東の出身には、すべてとはいわないが、そういった傾向が強い。とにかく上の言うことをそのまま伝えるだけ。融通が聞かないし、下がついてこない。普通は下の人間には噛み砕いてわかりやすく言うべきだろう。そういった意識がない。最近の除名講師は関東の大学出身がほとんどだろう。北陸や東海は聞かないからなあ。関東のトップに問題ありだね。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 20時04分

私は年間親鸞会で百万以上使った。もちろん生活費を除いて。一般の体育会系でもそこまではしない。体育会系で年間百万もしない。五十万もしないだろう。 今考えれば、資格試験とか有効に使えたと思う。親鸞会で学んだことは一般社会では何の役にも立たない。早く、車の免許をとって、いくつか資格(簿記や宅建など)をとったほうが、就職には役に立ちます。
資格は死ぬまで役に立ちますが、親鸞会のものは何の役にも立たない。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 20時41分

安易に顕徹の代わりを求めるなってのは、そのとおりだと思う。
親鸞会の勧誘、また会員への育成てのは、とにかく善知識というシンボルに対して従順になるよう思考を矯正させてゆく。善知識という言葉の権威が十分に染み込んだ後に、その代弁者として自分の言うことをきかせる。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 21時03分

私は親鸞会を10年経験して良かったのは、我慢強くなったことです。
皆さんと同じように、ちょっとやそっとではない理不尽な苦労を経験したからです。
また、偏りまくった考え方を経験したおかげで、バランスの取れた考え方をとれるようになりました。
親鸞会のような自己中な考え方の人を、そんな人はしゃあないや、と思ってほどほどに付き合えるようになりました。
親鸞会でどん底を味わったおかげで、後はのぼるだけの人生です。
もちろん、親鸞会は許せる存在では絶対にありません。会長の罪は許せるものではありません。
しかし、私は親鸞会を恨みから昇華して、前向きに生きたいと思います。
その上で、親鸞会や会長には罪を償わせるように出来ることはしていくつまりです。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 21時25分

確かに我慢強くなった。 得るものもあり、失うものもあった。親鸞会は、企業で言えば大企業です。しかし、そんな組織で講師に給料払わないのは世界ひろしと言え、親鸞会だけ。  組織が小さいときは小回りは聞くが、これだけの大きな組織なのに、ワンマン、絶対服従なんて無理です。だから親鸞会は崩壊にむかってるんだ。これだけアドバイスしてるのにまだわかんないんだよなあ。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 22時06分

今はあまりいないかもしれないが、S会を離れたら無間地獄行きだと苦しんでいる人にはT先生の代わりは必要なのかもしれない。

ただ、S会から離れたとしても、善知識という概念が非常に根深く浸透されている場合、注意が必要なのかもしれない。

つまり、善知識の教えられることは絶対服従で納得しなければならないという構造をね。

自分の場合、絶対服従自体が間違った態度なのに、悪知識ばかりに焦点をあてて、絶対服従の方は無意識では間違っていると認識していないのかもしれない。

絶対服従でなければならないとまでいかなくても、本当の真の知識ならば、絶対服従的に納得した方がいいという意識がある。無意識に刷り込まれているかもしれないが。

自ら納得したようでも、錯覚かもしれない。もしかしたら善知識の言われることに反発するのは謗法罪だから危険だーとオートマチックに無意識の過程で納得している可能性もなきにしもあらず。
一歩引いて参考程度にする方がいいのかもしれない。

たとえ真実の教えだとしても絶対服従的にしているかぎりは、奴隷には違いないように思える。「自分」が抜けている限り、誰かの奴隷であって、奴隷である限り、たとえ真実に囲まれていても苦しみから抜け出せないのではないかと思う。本当にS会を離れることができたというのは、奴隷的思考から開放されたということなのだと思う。

でも正直わからない。もしかしたら善知識の言うことに絶対服従した方が早く救われるのかもしれないから無責任なことは言えないが、
一個人の意見としては奴隷はもういやだ。

長文すみません。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 22時38分

>救いを人に求めるのはだめですね。
>法を求めないと。

よく言われることですが、いまいちわからないのです。
法を求めるということは、仏典を直接自分で読むことなのではないのかと思ってしまいます。でも難解です。親鸞聖人の書かれたものでもやはり自分で読むとなったら難しい。学者の間でも全く同じには解釈していないし。

だから善知識に頼ることになるのですが、
結局、善知識から教えられる法というのは、人の解釈であって、
善知識を求めることは、人を求めている面もあるのではないかと思ってしまいます。

善知識を求めるという行為は、前提として善知識から法を聞かないと理解できないから救われない、ということがあると思います。

だから善知識を求めることは、潜在的に人に救いを求めていることがあるように思えるのです。

投稿: | 2010年1月23日 (土) 23時21分

ばかばかしい。呆れます。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 00時38分

子供の数も減り、ゆとり教育の時代に軍隊教育してたら、崩壊するでしょう。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 01時03分

>>善知識を求めることは、潜在的に人に救いを求めていることがあるよう
>>に思えるのです。

「人に無条件服従しない。」
これが重要です。人間のすることですから誤って教えることもあります。
親鸞上人の教えに合わないと感じる教義があれば、善知識に問い続けないといけません。

教えに関する問いであるにも関わらず、明確かつ誠実に答えない人、
教えに関する問いを受け付けない人、
教えに関する問いをしにくい雰囲気を作り出す人は、
善知識ではありません。


会長は親鸞会教義の誤りに書いている内容に明確かつ誠実に答えてくれますか?
会長に親鸞会教義の誤りに書いている内容を質問をして受け付けてくれますか?
会長に親鸞会教義の誤りに書いている内容を質問できる雰囲気がありますか?

冷静に考えてみてください。
この3つができない組織や人が本当に善知識ですか?

投稿: | 2010年1月24日 (日) 01時20分

最終の目標を何に置くかで色々違ってくるのでしょう。
 
 仏教の学問を議論したいのなら、学者の仲間に入っていって、追求したらいいし。
 仲間を求めるなら、教えが間違っていても、カルトでも、某会でも、どこでも、互いの傷を舐め合うのもよし。
 阿弥陀仏の本願に救われたいのなら、阿弥陀仏に向かって下さいといってくれる、知識や同行のところに行ったら良いのではないですか?
 結局、釈尊、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人の残された教えと言っても、全部
「南無阿弥陀仏」の解説書でしょ?
 頭の良い人や、初めは理論で納得してからでないと、阿弥陀仏の本願を信じられない人のためにあるのだと思います。
 でも、結局、「今」救われる本願を受け取ったか、受け取れないでいるかでしょ?この二つでしょ?
 教えを全部理解した、知った時が、信心決定でもないし、連れ、仲間がいなくても救われるし、阿弥陀仏に向かって自力が廃ったらいいだけ。
 考えて、頭で分ろうとばかりするから、阿弥陀仏を感じられないし、それどころか、阿弥陀仏で無く、知識頼みになってしまっていることをよく考えてみた方がいいでしょう。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 10時08分

人生の目的果たすためなら、自分で納得して、自分で決めることだろう。 
学問なら大学院行って勉強したらいいだろう。
正本堂ができて次から次に建物が建つ、そのたびにご報謝。長年親鸞会にいればいかにおかしいかわかりますよ。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 11時06分

>>救いを人に求めるのはだめですね。
>>法を求めないと。

さて・・一言で片づけられるほど簡単ですかね?
私自身、在籍時には高森崇拝ではなかったですが、親鸞会の教義に従ってました。
阿弥陀仏の救いに遇える立派な教えだと信じてね。
それでも多少のマインドコントロールはあったと思いますし、時間や金銭の損失も少なからずあります。

今は的を射た親鸞会の組織の裏側や教義批判など有識者からの情報が得られることで間違いに気付きます。

しかし真宗(あるいは真宗を名乗る団体)には話題にも挙がらない小規模な団体が少なくありません。
そのような集まりに縁があり、またそこの教義が間違っていれば指導者を崇拝しなくとも結局は似たような過ちを繰り返すことになります。

>>法を求めないと。

簡単じゃないと思いますよ。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 12時17分

本当の善知識とは、人間的に尊敬される人であると思います。昔と今では時代が違いますが、根本は今も昔も変わりません。    じゃあ、高森一族はどうか?教義はもちろんだが、教義以外も正しいことをしていないといけない。収支報告もない、違法勧誘、学生の留年や中退など無茶苦茶なことを当たり前のように容認し、都合が悪くなると責任転嫁してるようでは、善知識とはいえないだろう。有能な講師を除名にしたことでより明白だろう。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 14時04分

親鸞会の幹部、または少し違うが学生の幹部対象に指摘会合というものがある。簡単に言えば人格を否定するような会合だ。サラ金の借金とりみたいだ。何のメリットもない会合だ。  会議の多い組織は、崩壊に近いといわれる。今はネットなどで情報を流すなどすれば簡単なのになぜわざわざ面倒で金のかかることをするのか? 
会員対象にチャットみたいにネットで情報を流せるようにしたらいいと思います。問題もあるので、多少は考慮しないといけないが。情報を流したらそれこそ処分にするとか、必要な情報は必要な人だけに送ればいいとおもう。

投稿: | 2010年1月24日 (日) 14時12分

指摘会合は会議じゃねーんだよ、従順な会員をつくり出すための一環なんだ。時間かけて金もださせて、権威づけした上でやらねーと「なにムチャクチャ言ってんだ?」って逆に目を覚まさせちまう。

親鸞会の教義ってのは、”とにかく従順に顕徹の指導を受け続けることが、目的の救いに至る道筋”だってんだから、自己批判させて無批判に従う人格に改造する儀式は大切だわな
俺はその対象が顕徹でなく、釈迦自身であったとしても、それでは仏教にならないと思うがな

投稿: タカラマチ | 2010年1月24日 (日) 17時38分

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