親鸞会とマインド・コントロール
西田公昭著「マインド・コントロールとは何か」を読んだ時の衝撃は忘れる事が出来ません。親鸞会の腐敗や矛盾を知りつつ「それでも親鸞会が真実だから」という自分の心、この心がどこから来たのかを考えるきっかけを与えてくれたこと。そして、親鸞会の勧誘方法が統一協会などのいわゆる「カルト宗教」のものとなんら変わりがない事を知ったからです。
「マ インド・コントロールとは何か」にはマインド・コントロールのシステムとともに、「破壊的カルト」がどのような手段で布教を行い、それがどう私達の心を左右するのかを具体的に詳説しています。そしてこんな手段で布教をする団体というのは「親鸞会」や「統一協会」「摂理」くらいしかありません。それで親鸞会だけがマインドコントロールを「正しく」用いて、統一協会や摂理については「悪用している」とはとても思えなかったからです。
親鸞会が行っている勧誘方法とマインド・コントロールとのかかわり、他のカルト宗教との類似性については、「なぜ私は親鸞会をやめたのか|マインドコントロールについて」を読んでください。
しかしなぜ「破壊的カルト」と言われる団体の勧誘や育成には類似点が多いのでしょうか。その理由は「そういう勧誘や育成をしないと信者を維持できないから」です。
「破壊的カルト」の特徴として人の入れ替わりの激しさがあげられます。親鸞会でも幹部以外は毎年相当の人が辞めて行く。だから教勢を維持するために強引な勧誘をせざるを得ない。当然やめる人が多ければ教団に対する評判は悪化するから、勧誘の時点でウソをついたり育成のプロセスで意図的な情報隔離をせざるを得なくなります。
「破壊的カルト」でなければ入信する人も少ないかわりにやめる人もあまりいません。だから社会的モラルに反するような勧誘をわざわざ行う必要はないのです。
これは何事にも通じる話です。信仰の言葉を大沼氏や伊藤氏の著作から盗作して「自分が書いた」と言い張るのは、自分に信仰がないからです。あればそんな倫理に反することをする必要はありません。機関誌や集会で自分のことを褒め称えさせるのも信仰がないからです。無条件服従を要求したり「やめるときは1000万払え」という要求をさせるのも同じことです。
インターネットを見るな、やめた人間の話を聞くなと徹底するのは、自分達の教団の悪い評判が満ち溢れているからです。普通の教団にはそんな必要はないのです。
会計報告が出来ないのは人に見せられないような使い方をしているからです。自分の「師匠」を明らかに出来ないのはそこに致命的な問題があるからです。信者を動員して自分の著作を買わせるのは内容のレベルが低いからです。「歎異抄解説の決定版」と言わせているのも同じです。著者が自分の著作を「決定版」と呼ばせていたら典型的なバカですが、内容に自信がないからそんなことも分からなくなっているのです。
そこらじゅうに信者の金を使って自分の専用施設を建てさせているから、いろいろな事を隠す必要も出てきます。信者に対してますます嘘や誤魔化しが多くなります。大きな立派な教団を作ったと思われたいから、そこらじゅうを美術品で飾り不要な建物を建てまくります。これも全く同じ理由です。教義にも信仰にも自信がないからです。
私は最初に親鸞会で「弁論大会」なるものを聞いた時に、みんながみんな「高森センセー有難うございましたー」と褒め称えるのを聴いて、ここは創価学会かと気分が悪くなりました。そういうことを求められる教団では信者もそういう風に育ってゆきます。統一協会の機関誌を見てください。他の怪しげな新宗教団体の行事を見てください。あなたがかつて親鸞会に大して感じた「気持ち悪さ」と全く同じものを感じることでしょう。
類似しているのは理由があるのです。やっている事は他の新宗教と一緒だが中身だけは違うなんて事は絶対にありません。「マインド・コントロールとは何か」が私に教えてくれたのはそういうことです。「統一協会は金儲けのためにウソをつくが、親鸞会は真実を広めるためにウソをつく」と思っている人は少し頭を冷やしたほうがいい。
なぜ今回こんなことを書いたのか。それはこんな記事を見つけたからです。これを書いた人は、親鸞会をやめた多くの人が「自分はマインド・コントロールされていた」と感じるのはなぜか、真剣に考えたことなど一度もないでしょう。人の痛みを分かろうとしない宗教者ばかりの団体なら、脱会者が減らないのも納得できます。
ただの俗人を「世界唯一の善知識」と信じ込まされていたからこそ、その「マインド・コントロールされていた」という気持ちも出てくるのです。そしてそれは他の「破壊的カルト」から脱会した人の気持ちとなんら変わる事はありません。






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