« 投稿:親鸞学徒を自覚するなら、高森学徒を辞めて下さい | トップページ | 2009年、親鸞会の内堀は埋められた。 »

コペルニクス的転回

私が現役の会員だったころ、「因果の道理は科学的に立証されている」「仏教が科学的というより、仏教に説かれている世界観に科学が追いついて来たに過ぎない」といった話が随分されていたものでした。「死後の世界の証明」を部会でやりだす講師部員もいましたし、聞いているほうも年端の行かない学生ばかりで、こうした説明をさしたる熟考もなく鵜呑みにしている人が殆どであったように思います。

「信じるか、信じないか」の問題である宗教的な理念を、あたかも科学的な裏づけを持った真理であるかのように説いた事で、親鸞会を脱会した後も堕地獄の恐怖に苦しんだり、親鸞会の教義を単に信仰の問題と捉える事が出来ず、会に深刻な疑問を抱きつつも離れられない人を数多く生み出す結果となったのはご承知のとおりです。

多くのカルトに共通するこれらの「説き方」の問題点を、北海道大学の櫻井義秀教授はこう語っています。

物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。
(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)

「因果の道理は反証可能性のない仮説であり、宗教的な信念で信じているに過ぎない」と「ジャンヌ」や「なぜ私は親鸞会をやめたのか」が論じたのは、まさにこうした背景があっての事でした。それは、あなたが信じている「親鸞会の信仰」は科学的な裏づけを持った「真理」ではない。宗教的「信仰」にすぎないのだから、それが自分を幸せにしないと思ったならばその信仰から離れてもいいのだ、と言っているに過ぎません。

これは「いい事をすればいい結果が返ってくる」といった倫理的な因果応報を否定し、悪をし放題すれば良いと言っているのではありません(そんなことを言っている人など聞いた事がありません)。明らかに「阿頼耶識に蓄えられた業力が物理現象まで支配する」という「親鸞会的因果の道理」と、そこから導き出される死後の地獄といった、仏教にも科学にも根拠のないトンデモ教義の事をそう言っているわけです。まあ、そんな事はこのブログの読者の方にとっては常識だと思いますが。

さて、このブログでも何度か取り上げた「静かな劇場」というブログがあります。

「静かな劇場」の著者であるN田氏は、最初は親鸞会を批判する人を「因果の道理を否定する人たち」と勝手に決め付けて、なぜか科学を因果の道理の対立軸におき科学批判をはじめ、そのうち「因果の道理は信じるものです」「因果の道理は証明できないから公理です」と突如言い出し次は唯物論を批判し、今度は唯心論物理学なるものを取り出して唯識の説明を始めました。

「因果の道理は信念によって信じているに過ぎない」という主張は、親鸞会があたかも因果の道理に科学的な裏づけがあるかのように説いていた事に対するものなのに、それを棚に上げて「因果の道理」VS「科学・唯物論」の架空の展開を一人で作って延々と持論を展開しているわけです。日中にケンカで負けてその悔しさが忘れられず、寝床に入って相手を倒す妄想をしているようなもので、なんとも暇人というか非生産的としか言いようがありません。

根拠としているゲーテルや現代物理学の知識も相当いい加減なので、その時々で読んだ本やサイトで自分の考えにあってそうなものを適当に拾って書いているだけなのでしょう。ここまでいい加減な事を書いて平気なのですから、仏教や唯識に対する理解もかなり適当であるのは間違いありません。

私の友人は「誰も著者に対して、こんなみっともない文章を書くのはやめたほうがいいと忠告しないのだろうか。親鸞会は冷たい組織だ」と言っていましたが、こんなものでも「親鸞会を信じたい人たち」にとってはそれなりに有益なものなのです。何しろダーウィンの言うように「確信というものは知識のあるところよりも、知識のないところから生まれることが多い 」のですから、彼らに自分たちの知らない知識に対する謙虚さを求めるのは無理なことです。

ということもあってここしばらく「静かな劇場」は殆ど読んでなかったのですが、最近「コペルニクス的転回」というエントリを見て思わず失笑してしまいました。

親鸞会が言うように親鸞会だけが真実を説く団体とするのならば、その裏づけがなければなりません。

しかし親鸞会といえば、統一協会のように嘘つき勧誘をし、神慈秀明会のように山奥に建物を建てまくり、真如苑のように信仰に不要な絵画を買い集め、創価学会のようにしょっちゅう金集めをしています。そしてどこの新宗教団体もそうであるように個人崇拝に熱心で信者は貧しいのに会長の使う施設は過剰に立派です。

そして言っている事はコロコロ変わるし教義は間違いだらけで、会長の主要な著作は殆ど先人のパクリです。

こんな「どこにでもある金集め新宗教団体」以下の団体を「世界唯一の真実を説く幸せな団体」だと信じるために、会長先生の深い御心は私たちには理解できないだのなんだのと会員は随分無理な辻褄あわせをしています。

地動説が信じられず、天動説で天体の動きを説明するために、随分な無理をして理論を組み立て複雑な天球儀を作って辻褄あわせをしていた人たちとなにが違うのでしょうか。

親鸞会をやめた人が一様に「すっきりした」「言いようのない開放感」と言っているのは、もう無理な辻褄合わせをせずに、素直に「親鸞会はどこにでもある金集め新宗教団体の一つだ」と思えるようになったからなのです。

内田樹は言っています「人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけ」だと。

N田さん、そろそろあなたも「親鸞会が唯一の真実」という天動説を捨てる「コペルニクス的転回」は出来ませんか?

地動説にパラダイム・シフトするのに必要な観測結果は、もうとっくの昔に出ていますよ。

|

« 投稿:親鸞学徒を自覚するなら、高森学徒を辞めて下さい | トップページ | 2009年、親鸞会の内堀は埋められた。 »

コメント

年々、ひどくなってますよね。
・喜捨を、喜んで捨てると説明し、金を集めようとする。
・弁当屋・すし屋の経営、保養施設や造園庭園の維持に金を浪費している。
・100円出した人は100円分聞かれ、1万の人は1万分聞かれると言ってる。
・先生の許可を得ずしてやると善でも悪になると言っている。
・高級車に乗るのは、銀行の信用を得るためと言っている。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 02時26分

ぶるうのさん、いつもありがとうございます。講師の支部長は営業マンとある会員さんから聞きました。正月のお餅の注文をとったり、また配ったり、ほんと気の毒ですね。いつから仏法と関係ない世間ごとばかりになったんでしょうかね?会員も講師も何を思ってこの会に在籍しているのか、ほんと不思議です。会を離れて正解でした。これからもよろしくお願いいたします。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 09時49分

先日古くからの友人(元学徒)に会った時に、「未だに親鸞会をやっている人がいるのが信じられない。親鸞会が真実だと思うのに見たくないものに目をつぶり自分を納得させるのに必死でクタクタだった。あんな毎日に耐え続けるのはさぞかし苦しいだろう」と言っていました。
私も彼の気持ちがよくわかります。「親鸞会が唯一の真実」というばかげた信仰を守るためにどれだけ無駄なエネルギーを使っているのか早く気付いて欲しいです。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 09時49分

親鸞会がおかしな方向に行ってるのは誰が見ても明らかでしょう。  


投稿: | 2009年12月23日 (水) 10時01分

「人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけ」

これ、本当に今の親鸞会の会員の姿を見事に表した言葉ですね。
親鸞会だけでなく、新宗教の信者というのは見る限りどこも同じような印象を受けます。

その中でも一部の上層部は確信犯でやっているのでしょう。自分の子供を講師部にさせず真生会病院に入れたT局長とかね。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 10時04分

親鸞会の講師は、自分たちが何をしているか考えた事があるのでしょうか?
会長の話が富山である度に、参詣人数の把握とその推進、交通手段、宿泊申し込み、行事に御報謝した人数の把握、御法礼特別申請の把握、会員の到着が開始時間に遅れる場合時間と理由の報告、インフルエンザ感染者が会場に来ていないかの把握、椅子席の申し込み、椅子席に申し込みに必要な診断書提出(数ヶ月に1回)、子供部屋の申し込み、あんしん弁当の申し込み(昼・夜)、法輪閣宿泊時ならレストラン法輪への朝食申し込み、割りふられた係の仕事等をしなければなりません。
降誕会や報恩講には上に加えて、おときの申し込み、新人の担当を決める等が加わります。

葬式や法事をする以上に無駄が多そうですね。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 11時07分

今は情報化時代です。雑務はパソコンにいれれば、手間はかからない。 
時代が変化してるなら、環境も変化してる。人間も変わる。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 16時16分

前から不思議でしたが、親鸞会講師って何のためにいるんですか?
10分間説法と言いつつ毎回きまった話をして、
ビデオを入れて終わったら、
連絡事項を伝えて終わり。
それ以外にも上記のコメントのとおり。
ビデオ聴聞の最中は、眠たそうに眼をこすって、
会員の前でさえ居眠りすることもしばしば。

ヤリガイというか、そもそも自分の存在意義をなにに見出しているんでしょうか?
親鸞会に入らなかったら、社会で活躍してそうな方も多くいて、
もったいないなぁ~と思う次第です。
もちろん、すべてを分かった上で、生活のためにやっている人もいますが。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 21時02分

もう後戻りできないから仕方がなくやっているだけでしょう、講師部員なんて。
仕事に誇りなんて全然感じられないからね。

親友部員は転職できそうな人はとっくに転職しているし。
親鸞会自体がいま大きな閉塞感に包まれているね。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 21時52分

なんか最近本当にやる気無いよね。
布教革命なんていっているけど、創価学会が何十年も前にやっていることを今更インターネットでやったからって何の感動もない。
講師から喜びが感じられない。口から出てくるのはお布施の話と連絡事項と弁当やらの数字取りと十分説法ばかり。
昔はもっと活き活きしてたのになー。
親鸞会にいつになったら活気が戻るんだろう?

投稿: | 2009年12月23日 (水) 22時23分

親鸞会の講師は世間に出れば間違いなくエリートコースを歩めた人材ばかりです。親鸞会という異色な団体にどっぷりつかったがために、おかしくなったのだ。今はパソコンあるんやから、会員専用のホームページで流したら良いだろう。まずい情報は流さなければ良いだろう。パソコン使えない人はコピーすりゃいいだろう。講師は布教が仕事だろう。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 22時31分

親鸞会講師も本来は労働組合つくったらどう?っていいたい。 
最近、キャバクラ嬢の労働組合もできたが、キャバクラはいろんな問題が多い。キャバクラ嬢は罰金など天引きされるとか、経営者側は経営にかかわるのに遅刻が多いとか。
どうなるかはわからんがな。 
親鸞会講師はやめるまで年中無休。しかも睡眠時間は一様六時間くらいあるが、あんな労働では居眠りしても仕方ない。疲れ切って顔が逝かれてますよ

投稿: | 2009年12月23日 (水) 22時40分

なんかぶるうのの問題提起と関係ない話で盛り上がってるな。
早く「コペルニクス的転回」してよ、N田さん。
僕でもできたのにさ。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 22時42分

N田講師は、親鸞会講師の中ではまだマシですね。
あまりにもいい加減であっても、担当した学生が事故で死んでいても、ブログの内容が逃げて誤魔化そうとしていてもです。
理由は、ただ1つ、己が信ずる教親鸞会教義の正統性を、何としてでも(誤魔化し、論理操作、ボカしてでも)相手に認めさせようとしている点においてです。

他の講師にはない姿勢です。
そんなN田講師が、もしも親鸞会の間違いを認めて辞めたならば、除名になった講師の皆さん以上に、親鸞会の問題を訴えるでしょうね。
高森一族の皆さん、N田講師には気を付けた方が良いですよ。

投稿: | 2009年12月23日 (水) 23時03分

N田さんは確かにマシかもしれない。
こうやって一生懸命ブログで自分たちの教義の正当性を守ろうとしているのだから。(言っていることはだいぶ頓珍漢ですが)

そういえば、脱会した講師ってみんな説法上手で熱く語る人ばかりだったな。U田、K森、U生、K藤、S田、M田。みんなそうだった。上からはどう見られていたのか分からないけど、少なくとも一般会員には人気の高い人ばかりだったような気がする。

N田さんがこの列に加わる日もひょっとしたら近いのかもしれませんね。

投稿: | 2009年12月24日 (木) 10時05分

>親鸞会をやめた人が一様に「すっきりした」「言いようのない開放感」と言っているのは、もう無理な辻褄合わせをせずに、素直に「親鸞会はどこにでもある金集め新宗教団体の一つだ」と思えるようになったからなのです。

本当にそうだな。
親鸞会が唯一の真実を説く団体と信じるために随分と無理をしてきたから。
今は素直にそこらの新宗教団体と一緒だと思えるので本当に楽になった。
親鸞会が「唯一の真実」であるという理由も裏づけも実はどこにもないんだよ。

投稿: | 2009年12月24日 (木) 10時08分

N田さんのことは知らないけれども、接点のあった講師部員のことを思い出すと、
MCされた人格を除外してみると、お互い親鸞会に入っていなかったと仮定して
ほとんどの人は、普通の人だったのではないかと感じます。

親鸞会云々関係なく、とてもついてゆけない人が居たかと考えてみると、
会長一族が真っ先に思い浮かぶ。おそらく普通の精神状態では会長に接することは
できなかったのだろう。会長の性格に合う例外的な講師部員もいるだろうけれども、
普通の人が大半だった気がする。

それと当時は、多くの講師部員が特技や能力をもっていることによく感心しました。
字がとても上手だったり、歌がプロ?級のような人も、リーダーシップのある人もいたり、
語学(英語・中国語・韓国語など)ができたり、年配の会員さんのお世話がすばらしかったりした。
高齢化社会でそんな講師の人は貢献できるのではないかと思います。

学歴は申し分なし、頭脳も明晰、カルトに入っていなければ
相当社会で活躍した人もあったでしょう。今からでも遅くないかもしれません。

数十年の過労働を考えると、講師部員は日本で最も労働時間の多い人達といっても
おかしくないと思いますし、精神力も並はずれているでしょう。

願わくば、バーンアウトして精神的な病にならないように気をつけてほしいと思います。
そして、いつまでも自分をだまし、会員の方をだまし続けることだけは
しないでいただきたいと切にお願いします。

投稿: | 2009年12月24日 (木) 21時43分

ぶるうのさん、本当に有難うございました。
あなたが立ち上がってくれなければ、私は今だに親鸞会から離れられず、修善の教えに疑問を抱きながらも苦しんで、空しく一生を終えていたかも知れません。
危ないところを救われました。

それにしても親鸞会の人は、一体どうしたいんでしょうか?
善をやりたいの?
求道したいの?
阿弥陀仏に救われたいの?

善をやりたいなら、親鸞会から飛び出して海外青年協力隊にでも入った方がいいですよ。
善ができない自分と知らされるために善をやるなんて、やる気起きますか?

求道したいなら、親鸞会は金集め人集めの団体ですから、求道になりません。辞めて比叡山や禅宗の寺へ行った方がいいんじゃないですか?

阿弥陀仏に救われたいなら、19願通りの善を実行できたとしても化土往生ですから、親鸞会教義を信奉している限り思いは遂げられません。

やはり親鸞会を飛び出して華光会やK藤さん、M田さんなどを当たったらいいんじゃないかと思います。

いずれにしても、このまま親鸞会教義がコペルニクス的転回をして正意の安心に基づかない限り、親鸞会にいても百害あって一利なしです。

今さら元へは戻れませんかね・・・

投稿: 真偽検証 | 2009年12月24日 (木) 22時34分

親鸞会は善をすすめる。善をやることは確かにすばらしい。問題なのは最高の善は財施といい、それに対して収支報告しないこと。本末転倒だ。 
善は親鸞会にいなくてもできます。 
親鸞会の講師が世間の民間で働いたなら、間違いなく、名前の通った人材になってる。もったいない。

投稿: | 2009年12月25日 (金) 07時11分

はっきり言って、親鸞会が本当に善を勧めている団体なら、浄土真宗としてどうかは置いておいて、一宗教としては存在意義を認めますよ。
嘘つき勧誘、お聖教の改ざん、他人の著書の剽窃、強引な人集め、金集め…と悪ばかりやっているではありませんか。

こんな団体や、自称「善を勧めている」というのは、滑稽です。

投稿: | 2009年12月25日 (金) 21時29分

親鸞会入会は先輩のごり押しみたいなもの。よく喜びや感動があるっていうがそんなものはまったくない。法話中、高森のくだらないギャグに笑う奴がいたが完全にマインドコントロールされてるなって。 
スポーツ選手が一生懸命スポーツする姿や高校球児が白球を追い掛ける姿がすばらしい。

投稿: | 2009年12月25日 (金) 22時18分

自分はあまり笑わなかったけど、うなずきマシーンだったかな。

意味なく会長の話、上司の話にうなずく癖がついていた。
これも絶対服従の特徴の一つだと思います。

MCのことを知ってから自分が知らず知らずに上司の話に
うなずきまくっているのに気がついたんですが、そのときははずかしかった。
その後意識して徐々に改善したけどMCの影響ってこわいですね。

講師部員の首ふりは模範的なので、社会へ出るときは気をつけてください。

投稿: | 2009年12月25日 (金) 22時41分

親鸞会でうけた教育は一般社会では通用しない。理由はいくつかあるが、絶対服従は学生時代の体育会系か昔の軍隊だけ。今は若い人も意見をのべたり、考えたり組織として動かないとつとまらない。

投稿: | 2009年12月25日 (金) 23時15分

親鸞会のは教育じゃない。しいて言えばアレは訓練。高森顕徹に逆らわないための訓練。社会に役立つかどうかわからんが、会社の駒には間に合うかもしれんな

投稿: | 2009年12月26日 (土) 09時05分

訓練?その通りだな。絶対服従やからな。そんな感覚は一般社会では通用しない。すなわち悪く言えば、非常識な行動をしてもかまわないことになるからな。
マインドコントロールを抜くには、距離をおくこと、一般社会に早く溶け込み、良く見て観察すること。

投稿: | 2009年12月26日 (土) 09時54分

マインドコントロールは自覚症状がない。まわりから言われて気が付く。聴聞のくせが抜けないんだよな。

投稿: | 2009年12月26日 (土) 11時23分

でも盛んに頷きすぎているのは気持ち悪かったなー。
傾聴という言葉があるけれど、本当に真剣に重い話をする時、あるいは集中して聞いている時にあんなに盛んに頷けるか?、という違和感はずっとあった。

投稿: | 2009年12月26日 (土) 20時11分

聞いてる話がスカスカだからね、大袈裟にうなづいてないと不安だってのはあるかも。

投稿: | 2009年12月27日 (日) 07時11分

頷いている人は、周りな人に「自分は真剣に聞いているんだ」とアピールしている人もありました。
そんな人は頷く話以外でもしきりに頷いていました。
私の知り合いで「首振り人間」と呼ばれていた人がいました。
いつの間にか消えていました。
勿論そんな人ばかりではありませんが、皆名誉欲があるから大なり小なりそんな気持ちはあると思います。
また頷く事によって「自分は理解しているんだ」と思い込みたかったのだと思います。

投稿: | 2009年12月27日 (日) 11時43分

ばかばかしい。 
親鸞会の教育は親鸞会内部だけに通用する。 
会費の徴収とか!。高森のバカ息子が主犯かくだが、親鸞会さえよけりゃいいんだな。世界一腹黒い男。

投稿: | 2009年12月27日 (日) 17時50分

親鸞会さえよけりゃいいのは顕徹だろ?息子は自分さえよけりゃいいだけだ

投稿: | 2009年12月27日 (日) 19時15分

親鸞会の会員の皆さん
親鸞会には、いろいろな嘘があります。
嘘をついて勧誘、嘘をついて参詣、嘘をついて金集め、嘘をついて法論勝利、極めつけは嘘教義。具体的に言えば数え切れません。
しかし、それらは話を置いておいたとして、これを読まれているあなたに問いたいことは、「自分自身に嘘をついて」親鸞会で求道して、本当に阿弥陀仏に救われるのでしょうか?
後生の問題はいうまでもありませんが、自分自身に嘘をついて生きている事は辛くありませんか?
自分自身の心に問いかけられてください。

投稿: | 2009年12月29日 (火) 20時41分

コペルニクスでつかんで、ライプニッツのマイナーな話題を拾い上げ、゛心が産み出す世界゛という世界観にわたりをつける。

残念なのはこの話の運びは、顕徹の自説をすりこむ為の口実でしかないということ
全ての人は死後地獄におちるから善知識から話を聞いて信心決定という免罪符を得よ という薄っぺらいオチしかない

投稿: | 2009年12月29日 (火) 23時02分

やれば少しは善が出来ると自惚れている者に微塵の善も出来ないことを知らせるためだから、「善をせねば信仰が進みませんよ。しかし、善では助かりませんよ(微塵の善も出来ないから)。」と説くのです。これでは善をやる気が起きない、と言う人は全く後生が問題になっていないからです。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 01時44分

馬鹿だな。「善をしなければ信仰は進まない」=「善をしなければ助からない」と言っているのと同じだということが何故わからない?

それと、「善をしなければ信仰は進まない」という「親鸞聖人」のお言葉を示して話せ。現役会員さん。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 02時01分

「善をしなければ信仰は進みませんよ。」は「善をすれば信仰が進みますよ。」と言っていることにもなりますが、「善をしなければ助からない。」は「善をすれば助かる。」と言っていることにもなります。前者は「善が宿善になる。」という意味ですが、後者は「善が後生の解決の足し(往生の資助)になる。」という意味になってしまいます。決して、これらは同じではありません。
諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(浄土和讃)
これが、諸善万行が宿善となる(信仰が進む)ことの根拠です。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 03時04分

現役会員のA 様

宿善の意味が全くわかっていないようですね。
宿善とは、阿弥陀仏の本願を聞いて信じるための条件であって、宿善の厚薄は問題ではないのです。
たとえていえば、人間に生れるためには五戒を保つことが条件と教えられています。すでに人間に生れている人が、更に五戒を保って人間界に生れようとするようなものです。そうではなく、次のステップに進まないと意味がないでしょう。
もう少しいえば、ある資格試験の受験条件として、大学卒業というのがあったとすれば、東大であろうが、無名私立大であろうが、合否には関係ありません。受験資格を満たしていればいいだけです。
それと同じで、阿弥陀仏の本願を信じることができる人は宿善のあった人、ということであって、それ以上の条件は問題ではありません。

「親鸞会教義の誤り」に宿善についての解説がありますので、読んでみなさい。

諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

これは、観無量寿経の顕説である19願意について解説された御和讃です。

親鸞会の会員には、方便の意味も、顕説の意味も分かっていないので、これでは理解できない幼稚な知識しかないことは分かっています。かつての自分がそうでしたから。

ですから正しい理解をするために「親鸞会教義の誤り」「21世紀の浄土真宗を考える会」をよく読んでから発言した方がいいですよ。そうでないと恥を晒すだけでなく、謗法罪を造ることになります。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 10時44分

「親鸞会教義の誤り」から引用します。

---------------------------------
親鸞聖人が尊敬されていた聖覚法印の『唯信鈔』には、


つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


と教えられています。ここで言われていることは次の通りです。

宿善の薄い人と厚い人があるが、それは今生で善悪をしている有様でわかる。自分は善いことを行おうという心がなく宿善が薄いが、五逆罪を犯しておらず、阿弥陀仏の本願を深く信じさせて頂いている。五逆罪の者の十回の念仏が宿善によるものであって、我々の一生の念仏をもって宿善の浅いこととどうして思うのか。その考えが往生の妨げになっている。

つまり宿善の厚薄を問題にすることが間違いであると言われているのです。

この詳しい内容につきましては

「21世紀の浄土真宗を考える会」
宿善の厚薄 唯信鈔の言葉

に、分かりやすい解説がなされていますので、御参照下さい。

ところが驚くことに、この『唯信鈔』のお言葉を断章取義して、真逆の意味で利用しているのが親鸞会です。

親鸞会で使われている『教学聖典(5)』なるものには以下の問いと答えが載っています。

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

『教学聖典(5)』にある他の問いと答えから、このお言葉が、宿善の薄い者は、宿善を厚くするように勧められたかのような誤解を生じさせる悪質な設問です。


親鸞会は諸行往生12のところでもにも述べましたように、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中では1度も使っておられません。親鸞聖人は、経典や善導大師、法然上人、聖覚法印のお言葉を踏まえられた上で、宿善を宿縁と敢て言い換えておられます。自力的な要素を徹底的に排斥されたのが親鸞聖人ということも述べてきました。

法然上人の教えを受け継がれ、『唯信鈔』を同行に読むように勧められた親鸞聖人が泣いておられるでしょう。


最近、当ブログの読者から、獲信の報告を頂きました。大変喜ばしいことです。獲信とは捨自帰他です。阿弥陀仏に救われた人は、これ以外にないことをこの方も含めて皆語られます。当然なことです。なぜならすべてが阿弥陀仏のお力によるものだからです。

たとえどんな理由を付けようとも獲信のために修善に励むことは、阿弥陀仏の本願に反する行為です。雑行を捨てるためには、雑行に励まなければならないなどという考えが、阿弥陀仏の救いから遠ざけているのです。
『唯信鈔』のお言葉で言えば、「小智は菩提のさまたげといへる」なのです。
親鸞会会員の獲信を妨げている最大の原因が、善の勧めでしょう。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 10時50分

どうして、親鸞会教義の誤りで、親鸞会の宿善の誤りの指摘が出た途端に、さよなら親鸞会のコメントに親鸞会の宿善の定義は正しいんだ、とコメントするんですか、現役会員のAさん。
さよなら親鸞会は、主に親鸞会の組織・活動面の問題点が示されているので、教義の誤りに対して異論があれば、それを明示しているサイトにコメントするのが筋ですよ。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 10時52分

確かに。教義のことを言われてもわからない。   組織のこと、活躍について言ってもらいたい。 

投稿: | 2009年12月31日 (木) 11時11分

諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

現役会員のAさんは「至心発願」した上での諸善万行できるのですか?
少なくとも親鸞会の人集め・金集めは「至心発願」した上での諸善万行ではありませんよ。
「至心発願」して諸善万行を行なえば、その果報により化土往生できます。その後、そこで修行を行い、やがて浄土往生できるのです。それゆえ、親鸞聖人は「往生浄土の方便の善」と書かれたのです。

「諸善万行が宿善となるからやれ」との御心ではありません。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 11時41分

「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」とあるように「諸善万行を行い、まず化土往生して、その後、そこで修行を行い、やがて浄土往生する」というのは真宗の教ではなく、仮門です。

「諸善万行が宿善となる(信仰が進む)」 というのは仮門でもなく、まして真宗のはずがありません。

高森宗の邪義です。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 11時56分

10時44分のメール様

宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
(御一代記聞書309)
とあるように、宿善の厚薄が救いを前後しますので、無常迅速の私達には大いに問題です。連如上人は御文章4帖目13通に信心決定のすがた是なしを歎かれ、人間界は老少不定でどんな病で死ぬか分からないから、一日も片時も急いで信心決定することをすすめておられます。その信心決定が宿善まかせということを4帖目15通に説かれてあります。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 14時51分

11時41分のメール様

至心発願して善に向かうことは出来ます。弥陀の19願力によってです。心で念々に悪を造り通しの自分が知らされ、後生に驚きが立ち、その後生を足元に感じ、頭燃を払うが如く、善に向かうことは出来ます。そして知らされることが微塵の善も出来ない自分なのです。19願はやれば善が出来ると自惚れている十方衆生に微塵の善も出来ないことを知らせるための願ですから、善で化土往生出来る人は一人もいません。善で化土往生してそこで修行して浄土往生するから「往生浄土の方便の善」と言われたのではなく、善が微塵も出来ないことを知らせ次の20願に導き(廃観立称)、弥陀の救いに近づけるからそう言われたのです。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 15時50分

現役会員のA 様

「21世紀の浄土真宗を考える会」の宿善について読まれましたか。
蓮如上人が宿善と仰っているときには、2つの意味があります。
聞法心と信心決定の2つです。

「宿善も遅速あり」の宿善は、信心決定のことです。

このことは、「安心問答」に書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091020/1256038973

信心決定する近道を教えられたのが、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人ということはお分かりですよね。では、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が諸善をして宿善を厚くして救われよとどこにも仰っていないことがおかしいと思わないのですか。

それどころか、

それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣きて、選びて、淨土門に入れ。
浄土門に入らんと思わば、正雑二行の中に、
しばらく諸々の雑行を抛てて、選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと思わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、
選びて正定を專にすべし。
正定の業というは、すなはち、これ佛の御名を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得。
佛の本願によるが故に。
(選択本願念仏集)

横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
(教行信証信巻)

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、
すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、
弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、
いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。
しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。
このゆえに、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいわく、
「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり。
阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、
いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまわざるべきや。
このいわれをもってよくよくこころうべし。
さて、南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、
そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか
諸行諸善にこころをとどむべきや。
すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、
いよいよたのもしきなり。
(御文章 二帖目第九通)

と諸善を否定されているのは、悪知識だとでもいうのでしょうか。高森会長と明らかに違うことを教えられていることがまだ分からないのでしょうか。

迂回の善をしていて、一日も片時も急いで信心決定しようと思っていること自体、漫才です。なぜ歴代の善知識方に従わないのですか。

本気で信心決定する気があるのならば、高森会長のいうことではなく、歴代の善知識方の御著書を素直に拝読したらどうですか。

解説は、多くのブログにもあります。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 16時12分

現役会員A様

自惚れないで下さい。

あなたは一体、定善・散善という行がどんな行か全く分かっていないから、ぬけぬけと「至心発願して善に向かうことはできます」などと言えるのです。

何なら、定善十三観の説明と、散善である世福・戒福・行福の説明、そしてそれを行ずる時の至誠心・深心・廻向発願心の三心についての説明をしてみて下さい。

会長が説明したのを私は聞いたことがありません。

定善・散善とはどんな行なのか教えられなかったら行じようがありません。

行じようがありませんから、Aさんが仰るようになるかどうかもわかりません。

いい加減騙されていることに気づいてくれませんか?


それと、皆さんが仰るようにここでの発言は場違いです。
「親鸞会教義の誤り」であなたの意見を述べたらよいでしょう。
管理人さんが親鸞会子牛よりよっぽど丁寧に教えてくれますよ。

それとも直接対決できませんか? 揃いも揃って親鸞会は腰抜けばかりですね。

投稿: 淳心房 | 2009年12月31日 (木) 16時15分

11時41分のメールの本人です。

あなたの書かれていることは高森教の教義であり、親鸞聖人も蓮如上人もそのようなことは教えられていません。

「凡夫至心発願して善に向かうことは出来ないこと」淳心房の書かれているはに通りです。
もしも、凡夫至心発願して善に向かうことは出来きたとするならばそれこそ、化土往生出来ることになります(かりにそれが弥陀の19願力によってできたとしてもです)。

『19願はやれば善が出来ると自惚れている十方衆生に微塵の善も出来ないことを知らせるための願』というのは全くもって高森教の邪義です。

末法濁世の私たちにはできませんが、時機によっては19願の善を行い、実際に化土往生をしておられる方はたくさんおられます。

報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり (高僧和讃)


また次の教行信証のご文もよくよく味わってください。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆえに知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを「方便化身・化土」と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。これに因って、いま真仏・真土を顕す。これすなわち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしとなり。

投稿: 高森宗の邪義を糾弾す | 2009年12月31日 (木) 16時33分

コピペしているうちにおかしくなったので書き直します。

あなたの書かれていることは高森教の教義であり、親鸞聖人も蓮如上人もそのようなことは教えられていません。

「凡夫至心発願して善に向かうことは出来ないこと」は淳心房さんの書かれている通りです。
もしも、凡夫が至心発願して善に向かうことは出来きたとするならばそれこそ、化土往生出来ることになります(かりにそれが弥陀の19願力によってできたとしてもです)。

『19願はやれば善が出来ると自惚れている十方衆生に微塵の善も出来ないことを知らせるための願』というのは全くもって高森教の邪義です。

末法濁世の私たちにはできませんが、時機によっては19願の善を行い、実際に化土往生をしておられる方はたくさんおられます。

報の浄土の往生は おおからずとぞあらわせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり (高僧和讃)


また次の教行信証のご文もよくよく味わってください。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。かるがゆえに知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを「方便化身・化土」と名づく。真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。これに因って、いま真仏・真土を顕す。これすなわち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしとなり。

投稿: 高森宗の邪義を糾弾す | 2009年12月31日 (木) 16時36分

現役会員のA 様

『やれば少しは善が出来ると自惚れている者に微塵の善も出来ないことを知らせるためだから、「善をせねば信仰が進みませんよ。しかし、善では助かりませんよ(微塵の善も出来ないから)。」と説くのです。これでは善をやる気が起きない、と言う人は全く後生が問題になっていないからです。』
と貴方は書かれていますが、一体いつ助かるつもりですか?

また、信仰が進んだ先に18願の救いがあるとお考えですか?

さらに、貴方は、自分は後生が問題になっているという立場でしょうか?
後生といっても遠い先と思っているから、「善をせねば信仰が進みませんよ」とのんびりしたことを言えるのではないですか?

現役の会員さんなら、吸う息吐く息にふれあっているのが後生だと繰り返し聞いているはずです。ですから、後生といっても今の問題だといって分かられると思います。

一方、18願は、「今、必ず救う」という誓いです。
平生業成の「平生」とは、「いま」ということだと聞いていると思います。

無常の風に誘われるのが先か、18願の救いにあうのが先かという問題なのです。
白骨の御文章で教えられているように、「人間のはかなきことは老少不定のさかい」です。
今救われずして、一体、いつ助かるというのでしょうか?

そんな「短命の根機」、「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」をめあてに阿弥陀仏は本願を立てられたのです。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。」(口伝抄)

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」
の教行信証総序のお言葉をよくよく噛み締め、「今、私を、必ず救う」という18願のこころを聞いて頂きたいと思います。

なお、複数の人がコメントしていますが、「親鸞会でいうところの善のすすめ」については、ブログ『親鸞会教義の誤り』の
・「親鸞会は諸行往生」
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-category-1.html
・「宿善」
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-category-4.html
の記事に全部目を通されてから、『親鸞会教義の誤り』にコメントされたらよいと思います。

投稿: 元会員 | 2009年12月31日 (木) 17時36分

高森宗の邪義を糾弾す様

至心発願して善に向かえるというのは凡夫が自分の心で起こす至心ではなく、全く弥陀からの借り物(これを19願力と言ったのです)です。微塵でも真実の心があれば弥陀のお力の助けを借りて化土往生が出来るかも知れませんが、実際は、善が微塵も出来ないどころか、後生助かりたいという真実の心さえも微塵もないから、19願で化土往生出来る人は一人もいないのです。この後生助かりたいという心、弥陀を信じ念仏にすがろうとする心さえも微塵も持ち合わせていないことを知らせ、一切の自力が間に合わず弥陀にうちまかせるところまで導く願が20願です。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 18時00分

現役会員のA 様

高森宗の邪義を糾弾すさんではありませんが、一言。

根拠のないデタラメな解釈をして、それを押し通すことはやめましょう。
『教行信証』化土巻や『三経往生文類』に、19願と20願について親鸞聖人が解説なされています。

それを読まれたのですか。読んでも理解できないのであれば、「親鸞会教義の誤り」にそれらの解説がありますので、それを読んでから発言しましょう。高森教の教学は、高森会長の創造の産物であって、デタラメです。

何度もいいますが、本気で信心決定しようという気があるのですか。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 18時19分

現役会員のAさん

※親鸞会時代の自分と同じなので、どこか懐かしくも、かなしい感じです。
※引用された御一代記聞書の全文を読んでみました。

>宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。

>その信心決定が宿善まかせということを4帖目15通に説かれてあります。
※そこで「信心決定は宿善まかせ」と聞きますが、学徒はどうすればよいのかとおたずねすると、

とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。

※「宿善も遅速があり、だから已今当の往生がある。
※いずれにせよ、信の人も、不信の人も、ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり」と
※諸善ではなく、聴聞を勧めてくださっています。

已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

※これを4帖目15通にたずねてみますと、

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。

※「宿善まかせとはいひながら、これをよみて人々に信をとらして、
※われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり」と願われ
※私たちは御文を聴聞して信心決定することが如来聖人・蓮如上人の御本意にかなうことになると教えてくださいます。

これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。それについて愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。

投稿: 元S会会員 | 2009年12月31日 (木) 18時29分

現役会員のA 様

高森宗の邪義を延々と述べていただいても話がかみ合いません。

私は親鸞聖人のお言葉を出した上であなた(高森宗)の誤りを指摘しているわけですので、あなたも親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を出された上で、説明してみてください。できないと思うけど。

投稿: 高森宗の邪義を糾弾す | 2009年12月31日 (木) 18時47分

元会員様

これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。
(御文章4帖目3通)
とあるように、後生が問題になると、助かりたい心一杯となり、その時、これをすれば、後生何とか出来ると自分が思えるものに目がいきます。名号の功徳を知る智恵がないため、名号に目が向かず、やれば善が出来ると自惚れているので、自分の行う善で何とか助かろうと思うのです。
後生を足元に感じるからこそ、一切の自力を捨てて弥陀にうちまかせることが出来ず、善にすがらずにおれない心が知らされるのです。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 20時03分

現役会員のA 様

うすうす気が付いていると思いますが、あなたに反論している皆さんは、高森会長よりも教学力があるのです。

高森会長と法論をしても勝てる人ばかりです。特別な人ではありません。皆、元会員で、高森教学の間違いに知って、新たに勉強し直した人です。

勉強期間は僅かだと思いますが、それで既に高森会長を超えているのですよ。所詮は、伊藤師、大沼師、香樹院師の教学を都合よく詰め込んで、カルトに仕立てただけの教義です。

あなたも早く、高森会長のデタラメに気が付いてください。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 20時08分

現役会員のA 様

だからそれは雑行で捨てものですよ、と蓮如上人は教えられているのです。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 20時10分

現役会員のAさんへの疑問

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 01時44分
>これでは善をやる気が起きない、と言う人は全く後生が問題になっていないからです。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 15時50分
>至心発願して善に向かうことは出来ます。弥陀の19願力によってです。
>心で念々に悪を造り通しの自分が知らされ、後生に驚きが立ち、
>その後生を足元に感じ、頭燃を払うが如く、善に向かうことは出来ます。

後生が問題になって
→弥陀の19願力によって
→至心発願して
→善に向かうと
→悪を造り通しの自分が知らされ、
→後生に驚きが立ち、
→善に向かうことは出来ます

後生が問題になるにはどうすればよいのでしょうか?

投稿: 元S会会員 | 2009年12月31日 (木) 20時16分

現役会員のAさんはどう受けとめられますか?

親鸞会で自分は歎異抄第18条の話を聞くことはありませんでしたが、
第18条の御言葉と親鸞会への財施が宿善になるという教義が食い違っているように思います。

第18条

かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、
いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、
信心かけなば、その詮なし。

一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、
他力にこころをなげて信心ふかくは、
それこそ願の本意にて候はめ。

すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


親鸞会

金銭を親鸞会へ喜捨し、会長に布施するとも、
往生の資助にはならないが、宿善になる。

一円も施しをしないのは、気持がないからだ。
後生の一大事がわかれば
善をせずにおれないのだ。

すべて仏法のことだから、弁当屋などの経営も、学徒の勝縁になるのだ。

投稿: 元S会会員 | 2009年12月31日 (木) 21時39分

現役会員のAさんへ
「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。」(御文章4帖目3通)の御文については個人的に次のように「唯信鈔」を引用して聞かせていただいています。
現役会員のAさんも、この流れで読んでみてください。

当時世上
それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。

※当時は世の中が荒れていて仏法・世法にとっても迷惑千万の時世だったそうです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BD%93%E6%99%82%E4%B8%96%E4%B8%8A

『これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。』
※私は、このお言葉を次の
『それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。』と承っています。

○唯信鈔
それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。
聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に証をとらんとはげむなり。
いはゆる真言をおこなふともがらは、即身に大覚の位にのぼらんとおもひ、
法華をつとむるたぐひは、今生に六根の証をえんとねがふなり。
まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。

○唯信鈔
法華をつとむるたぐひは、今生に六根の証をえんとねがふなり。
まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。

これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、
提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。

これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。

※この御文は「法華と念仏と同時の教」「一つには聖道門、二つには浄土門」について教えておられるから、
※『これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。』は
※『それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。』だと承っています。

投稿: 元S会会員 | 2009年12月31日 (木) 22時17分

現役会員のAさんの御意見を歎異抄の御言葉と共に読ませていただきました。


○現役会員のAさんの御意見
後生が問題になると、助かりたい心一杯となり、その時、これをすれば、後生何とか出来ると自分が思えるものに目がいきます。

○歎異抄第2条
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

※(親鸞会)後生が問題になる
※(歎異抄)往生極楽のみち


○現役会員のAさんの御意見
名号の功徳を知る智恵がないため、名号に目が向かず、やれば善が出来ると自惚れているので、自分の行う善で何とか助かろうと思うのです。

○歎異抄第2条
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

※(親鸞会)名号でなく諸善を勧める
※(歎異抄)念仏よりほかの往生のみち(諸善)は南都北嶺にもゆゆしき学生たちに聞くべき


○現役会員のAさんの御意見
後生を足元に感じるからこそ、一切の自力を捨てて弥陀にうちまかせることが出来ず、善にすがらずにおれない心が知らされるのです。

○歎異抄第2条
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(乃至)
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

投稿: 元S会会員 | 2009年12月31日 (木) 22時45分

元S会会員様

聴聞をど真剣にすることです。聴聞を真剣にすれば知らされることは、心が動きづくめの自分です。この心を放置したままの聴聞が真剣さの欠けるものであることは、お分かりだと思います。その動きづくめの心をど真剣に叩くままが定善の実行でもあるのです。このように聴聞していきますと善に向かった時、口や体で善を行う前に、まず一番重いと教えられる心の悪を問題にし、その悪をど真剣に叩くようになります。そうして知らされることが、善導大師の「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三塗の業なり。」です。これが知らされると後生に驚きが立ちます。この罪悪観と後生を足元に感じる無常観がそろった時、頭燃を払うが如く散善に向かうことが出来、微塵の善も出来ない自分が明らかに知らされます。このように実地やらせてみせるしか、善が捨てものだと知らせることが出来ない(雑行を捨てさすことが出来ない)と見抜かれて建てられた願が19願なのです。

投稿: 現役会員のA | 2009年12月31日 (木) 23時13分

現役会員のAさんへ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>「善をしなければ信仰は進みませんよ。」は「善をすれば信仰が進みますよ。」と言っていることにもなりますが、「善をしなければ助からない。」は「善をすれば助かる。」と言っていることにもなります。前者は「善が宿善になる。」という意味ですが、後者は「善が後生の解決の足し(往生の資助)になる。」という意味になってしまいます。決して、これらは同じではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と、言葉の上では、違うことのように見せかけていますが、「信仰が進まない」=「助からない」という意味ではありませんか?ここをよく考えてください。聞いている側としては、「善をしなければ助からない」と何も変わらないでしょう。

少なくとも、親鸞会では、「そのように受け取られるような話」をしていたと思いますし、大半の会員は、実質、「善をしなければ助からない」と思っていたと思います。

そこが、親鸞聖人の教えと違うところです。

~~~~~~~~~~~~~~~~
>>諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(浄土和讃)
これが、諸善万行が宿善となる(信仰が進む)ことの根拠です。
~~~~~~~~~~~~~~~~

ん?わかりません。なぜこれが「善をしなければ信仰は進みませんよ」という意味になるのでしょうか。


投稿: | 2009年12月31日 (木) 23時24分

現役会員のA様

あんた、仏教を舐めてんですか。
19願の「発菩提心」とはどういう心かわかってんですか。
私たちの「ドシンケンなチョーモン」とやらと、本物の定善散善とのレベルの違いがわかってんですか。
叡山や永平寺で本気で聖道門の修行をやっている方々が貴方の書き込み読んだら、
「ふざけるな!」って言われますよ。
そもそも貴方は果たして、「後生に驚き」は立ったんですか??

投稿: Rudel | 2009年12月31日 (木) 23時29分

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>「善をしなければ信仰は進みませんよ。」は「善をすれば信仰が進みますよ。」と言っていることにもなりますが、「善をしなければ助からない。」は「善をすれば助かる。」と言っていることにもなります。前者は「善が宿善になる。」という意味ですが、後者は「善が後生の解決の足し(往生の資助)になる。」という意味になってしまいます。決して、これらは同じではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この辺が会長のレトリックなんですよね。。。
S田さんも言われていたが、「消防署の方から来たとは言ったが、消防署から来たとは言っていない」的な、
体のいい誤魔化し。まさに宗教詐欺師だ。

投稿: | 2009年12月31日 (木) 23時34分

現役会員のA 様

あなたはいつまで根拠の全くない、高森教にしがみついているつもりなのでしょうか。教義を創作した会長ですから、親鸞聖人、蓮如上人とは根本的に違う教義なのです。それをここでいくら力説されようと、親鸞学徒の我々からすれば、高森学徒に対して哀れみの気持ちしかおきません。

もし、親鸞学徒を目指すのならば、親鸞聖人の御著書を読みなさい。御文章を断章取義せず読みなさい。

会長は、教行信証さえ読んだことのない者ですよ。そんな者のいうことが親鸞聖人の教えとか、弥陀の救いという言葉を使うことに嫌悪感を持ちます。

あなたがヘンテコ教義をここでカキコすることは、念仏誹謗になるのです。その報いがどうなるかくらいは、高森教でも教えているのと同じです。

意地と我慢で謗法罪を造り続けるのか、廻心懺悔して報土に参るのか、今がその分岐点です。

投稿: | 2010年1月 1日 (金) 08時34分

現役会員のA様 は「宿善」の理解と「信仰が進む」と「往生」の理解
は、どうなりましたか。親鸞聖人は今の救いと 教えられておられます。

「善にすがらずにおれない心が知らされる」で 終わらずに 
阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

投稿: | 2010年1月 1日 (金) 20時30分

※現役会員のAさんの御意見で感じたことですが、蓮如上人の次の御言葉
※「されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。」が気になりました。

※「正雑二行の沙汰」を「念仏と諸行の二行の沙汰」と解釈させていただきますと、
※「親鸞会教義を堅く真実と信じている人に対して、念仏と諸行の二行の沙汰をするときは、かえって誹謗のもとになる」と心がけるべきであると誡めてくださっているように思えます。

宿善有無
それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

※今後は出来る限り、親鸞会教義に疑念を感じ迷っている会員の方に対して発言したいと思い直しました。

※そこで親鸞会の宿善(諸善)の勧めと歎異抄の食い違いについてですが、
※序で、幸ひに有縁の知識によって、念仏の一門に入ることができても、先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎かれ

歎異抄

ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚語をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと[云々]。

※後序で、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答するときに、先師(親鸞)の仰せにてなきことをも仰せとのみ申すことを歎かれ

後序
まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。

※最後に、さいはひに念仏しながら信心異なることを歎いています。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。

※このように念仏の信心について異なることを歎かれて書かれたのが『歎異抄』ですが、
※親鸞会は諸行の信心について異なることを憤って真宗の御門徒をけなしているように感じますが、
※迷っている会員さんはどう思いますか。

投稿: 元S会会員 | 2010年1月 2日 (土) 19時53分

※歎異抄後序と教行信証真仏土・方便化身土巻から引用しました。
※「万行諸善の仮門をさしおいて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意」と聞こえますが、
※親鸞会教義に悩んでいる会員さんは、どう聞きますか。

1)教義に迷っているときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし

いづれもいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。

2)聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候うて、目やすにしてこの書に添へまゐらせて候ふなり。

3)教行信証にも真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

4)愚禿釈の鸞、仮をさしおきて真をもちゐる論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

投稿: 元S会会員 | 2010年1月 2日 (土) 21時15分

元S会会員さま

私はあなたが何を言いたいのかよくわかりますし、いい内容だと思いますが、
文章の構成が非常にわかりにくく、何が言いたいのかが明確になっていないので、
理解力のある人以外は、あなたのコメントの意味がわからないと思います。

”※”マークもわかりにくくしている原因です。

内容がいいのであえてコメントさせていただきます。

投稿: | 2010年1月 2日 (土) 21時16分

アドバイスありがとうございます。
自己満足に陥っていたようですね。
自分も、うすうす気づいていましたが、
現在の己の表現力を考えると、精一杯かなと思います。
思いやりが必要ですね。
ただ、自分の拙い文章が、たとへ一人の人でも考えるきっかけに
なってくれればと願い、書かせていただいています。
今後もご指摘いただければありがたいです。

投稿: 元S会会員 | 2010年1月 2日 (土) 21時45分

現役会員のA 様

反応がなくなりましたが、「親鸞会の教えていることは19願の教えでもなく、ましてや18願の教えではないことに気づかれて、ショックを受けて言葉が出ない」という状況であることを期待しています。

高森宗の邪義は薄っぺらい金箔であたかも親鸞聖人のみ教であるかのように見せかけているだけです。あまりにも薄っぺらいので何10年求めてきた人でさえ、ちょっと、本気になってネットを調べれば高森宗は邪義であることはすぐに分かります。

あなたも、一刻も早く親鸞会を離れられることを期待しております。
できればご報告ください。

投稿: 高森宗の邪義を糾弾す | 2010年1月 5日 (火) 11時02分

「善をすれば助かる」とはおおっぴらには言えないから「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言っている。

なぜ無理して本来の親鸞聖人の教えと違うことを言うのか。答えは簡単。

金集め、人集めのため。
親鸞会が勧める善=財施、法施
財施(御報謝)=金集め
法施(入会を勧める)=人集め

御報謝に関しては「額は問題ではない」と言いながらつねに額を問題にしたり、無財の七施(笑顔など)に関してはあまり強く勧めなかったりする。

講師部もいつも暗い表情をしていて笑顔があまりない(特にここ最近)。

これだけ見てもおかしいでしょーよ。おかしいって思わないなら、完全に思考停止ですよ。

投稿: | 2010年1月 7日 (木) 01時07分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 投稿:親鸞学徒を自覚するなら、高森学徒を辞めて下さい | トップページ | 2009年、親鸞会の内堀は埋められた。 »