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「謝りたい」

先日関東で主に法華系のカルト対策に携わっている方とお話をしました。

ある脱会者の方が、脱会してから自分が勧誘や育成に携わった200名の方一人一人に謝罪をしてまわり、最近ようやく全員に謝罪し終わったことを報告してきた、という話をされ、どう思う、と私に聞いてこられました。

私は「偉いですね」といいました。そういえば私も脱会してしばらくは自分の関わった全ての人に謝罪して回りたかった。そんなことよりも自分の生活を回復させるのを最優先しなさいと言われても、それでも謝らなければ済まない思いがありました。

私に限らず脱会した多くの人がこのような感情を持つことと思います。

誰も脱会した人に、あなたは加害者なんだから謝って来いという人はいない。なぜならそれらの人はまた被害者でもあるのだから。

しかしそれでも、自分が受けた失望と苦しみを思うと、多くの人の人生をカルトに迷わせた責任を感じて、謝罪せずにはおれなかったのです。

私が親鸞会をやめてから4年が経ちました。思えば脱会したあとに味わった、土下座しても許されないだろうという罪悪感。しかしその思いもいずれは月日とともに薄らいで行きます。

その代わりに「いつまでこんなニセ浄土真宗に騙されているのか、早く気づけ」という現役信者を見下す心が生まれてなかったかと反省させられます。

JSCPR主催の大阪大学の公開講座で、「カルトはなぜ勧誘するのか」という問いを投げかけた学生がいました。

組織がどんな誤魔化しをしようとも、教祖が自分の欲を満たすために教義を利用しようとも、末端の信者が勧誘をする理由は「相手の幸せのため」に他なりません。実際に大学のキャンパスや街角に出る信者の中に、騙そうと思って勧誘している人はいないのです。

それでも私たち脱会者は誰しも一度は「謝りたい」と思います。

罪悪感をいつまでも持ち続ける必要はありません。しかし「謝りたい」という尊い気持ちはずっと心のどこかに持ち続けて行きたいものです。

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コメント

私の経験からすると、退会した人を「被害者」と見てくれるのは有難い人です。
「辞めた」ということ自体信じてくれず、謝罪のきっかけすら作れない人も、中にはあります。
謝罪しても許されないことだって、あります。
自分のしてきたことを振り返れば、許されないのも当然だと思うし、何より自分自身を許せない気持ちがありますから、「被害者」と言われるのはこそばゆいというか、どこかまた騙している気もしてしまいます。

おかしな組織のおかしな点に気づけなかった自分ですから、現在も続けている人たちを笑う気には到底なれません。
馬鹿になどできようはずもありません。
むしろなんとか実態に気づいてくれないだろうかと、心配してばかりです。

私が退会した頃、まだ現在ほど会は注目されていませんでした。
周囲には味方もない中、どうにかして会の問題点を知らせていきたいと思っていたところ、ネットで批判の声が上がっているのを見つけ、私もサイトを立ち上げたりしたものです。
騙されたという思いから、怒りの声をあげている人もいましたし、教義面での批判もありました。
私は怒りというよりは、問題点に気づいて欲しいという気持ちでしたので、真っ向から文句を言うこともなく、時には会のスパイじゃないかなんて言われたり、仲間がサイトを立ち上げては潰され、潰されては立ち上げと、精神的には辛い時期でした。

そのうちどうにも危険な雰囲気にもなってきたので私は逃げてしまいましたが、そのまま踏みとどまって批判の声をあげつづけた方たちのあったおかげで、現在のようなネット上での基盤が作られたのだと思っています。

最近のネット上での批判活動は、ずいぶん多岐にわたっているようですが、中には単に会員さんを馬鹿にしたり、からかうような言葉を投げたり、見下すような態度が見られるのは心苦しく思います。
願わくば、責めるのではなく、諭す気持ちを忘れないで欲しい。
きっとそれは記事中にある「謝りたい」という尊い気持ちと通じるものだと思います。
退会した人もまだ退会していない人も、ともに「被害者」ならば、互いに傷つけあいたくはありません。

投稿: ぽぽんた | 2009年12月 1日 (火) 16時58分

謝罪された方のお話に、反省させられました。

何も知らない会員さんや、辞めたくても辞められず苦しんでいる会員さんにはやく脱会してほしいという気持ちはありますが、親鸞会(会長ならびに大幹部)に対する怒りが勝ってしまって、嫌な感情に流されることも少なからず起こります。

最近、壁にぶつかったような状況を感じて「マインド・コントロールからの救出 愛する人を取り戻すために」(S・ハッサン)を所々読み返しました。
そこで、親鸞会(会長ならびに大幹部)に対する怒りより、一般会員・親友部員・特専部員・大部分の講師部員に対する思いを大切にした方がいいのではないかと思い始めています。

一般会員・親友部員・特専部員・大部分の講師部員の人達は怒りをぶつける対象ではなく、かつての同僚であり、現在の救済すべき人達であり、未来脱会を喜ぶ仲間になりますから、そういう気持ちを大切にできたらいいなと思います。

『真実』ということへの信念が強い会員さん、『真実』の中身の是非にかかわらない、『自分が真実だと判断したこと』が信念のよりどころになっているだろう会員さんには、『批判』は自己の信念のなかに深く閉じ込めてしまうのかもしれない。

個人的には、事実や論拠に基づいた『批判』はマインド・コントロールから解放されるためには大事な作業だと考えていますが、時期や環境などを考慮する必要もあるのでしょう。

「批判サイト」は、「歎親鸞会教義サイト」的性格が強くなってきていますし、今後は退会者が増えて「歎親鸞会」も抜けて「教義サイト」になっていくのかもしれないですね。
個人的にはそうなってほしいなという期待はあります。その一助になれて謝罪の気持ちがあわらせればと思います。

投稿: | 2009年12月 1日 (火) 19時32分

会員には客観的に見る力をつけてもらいたい。なぜ?という疑問をもつこと。

投稿: | 2009年12月 1日 (火) 23時42分

貴重な情報、ありがとうございます。

阿弥陀仏の本願まことの、肥やしとなりました。

投稿: 清水 | 2009年12月 2日 (水) 08時09分

読んで私も反省させられることしきりでした。

特に学生時代から会員の皆さんは、勧誘の時に罪悪感がありませんでしたか?

いくら真実開顕のためとはいえ、
・大学側のルールを無視して勧誘していいんだろうか?
・見張りを見張る係まで設置して、こそこそと声かけするのは内心ヒヤヒヤしていなかっただろうか?
・信心決定してますか?と聞かれて、「してる」「勿論」と嘘をついていいんだろうか?
・一年生同士がくっつかないように見張ったり、後ろ向きなところがあれば何でも報告するのに神経すり減らしてなかったか?
まだまだ沢山ありますが、読んでいる方はどうでしょうか。

また、「絵に書いた餅ではく、おいしいと食べられるんだよ」と言ったり聞いたりしているが、一向に食べられない。
破邪顕正が一番の善と言われ、頑張っているが得られない。
その内2年3年と経つと、自分は宿善薄いから長い時間かかるんだと、今の救いを先延ばしにする心が離れない。
こう考えてる会員さんはいらっしゃいますか?

なぜ罪悪感にかられ、救いを先延ばしにしているか、もうお分りでしょう。
教えが間違っていたからです。
破邪顕正が一番の善だというのは、別の宗教が会員を増やせば増やすほどご利益が得られると言うのと同じ理屈で、人集めのいい口実だったのです。

また、ただでさえ救いを先延ばしにするのに、縦の線まで進むのにどれだけかかるんだという説き方をしていませんか?
最近は以下の【】内の話をよくされると思います。
【因果の道理を理解し、三世因果が分かり、真実の自己を見つめると後生は一大事と知らされ、何とか解決したいと真剣に善をやって初めて自力が知らされる。
それがわからねば仏教は始まらない。
やれるかやれないか、ド真剣に善をしなければ絶対にできない自分だということは分かりません。】
じゃあ一体いつまでやればできない自分と知らされるのか?
どれだけやれば善のできない己がわかるのか?
あんなに頑張ってる支部長さんや支部の皆さんを見ても、誰一人本願を喜んでいる人がいない。
自分は皆より人一倍やっているとは言えない。
そういう私が今日や明日にも死ぬことだってあり得る。
これでは一念の救いというがどれだけかかるんだ。
自分は果たして今生で助かるのか。
こうは思いませんか?

善導、法然、親鸞、蓮如さま方の雜行捨てよの教えを踏み躙り、会員に雜行をやらせまくっているから救われないんです。
聴聞にしても、南無阿弥陀仏のいわれを聞かないといけないんです。
説法は、わが身の話と善の勧めの話がメインになっていませんか?

現役会員さんはよく振り返って考えて頂きたいと思います。

投稿: | 2009年12月 2日 (水) 10時23分

言われたことをやることは大事だが、考えることもだいじだ。

投稿: | 2009年12月 2日 (水) 10時42分

高森会長率いる親鸞会は、ただ単に絶対服従のためのロボットを育成するための組織。悪く言えば、返事だけして、言われたことだけやればよいってこと。 本当に必要とされるのは、リーダーであり、正しいことを教えられる、教育できる人であること、頭で考え、実行できること!    あやまる必要はないだろう。親鸞会以外で出会うことはないだろう。

投稿: | 2009年12月 2日 (水) 14時31分

謝りたいきもちもあるでしょうが、謝るのは身内だけでかまわない。世界広しとはいえ、会員以外で親鸞会の存在を知ってるのは、邪教や寺くらいだと思います。反省して次に進めばよい。一番大事なのは、他人の意見聞くこと、考えること、状況に応じて対応する。

投稿: | 2009年12月 2日 (水) 18時42分

私も誤りたく思います。
※以下の文章を最初に書き込んだのは、私です。
その後、どなたかによって何度も、コピペされておりましたが、今の親鸞会を擁護する気は、ありません。
よって、親鸞会での聞法はお勧めしません。



せっかく親鸞会にてありがたい尊い不思議な仏縁を結ばれながら、
一時的に御縁の遠のかれておられる方々のお姿、ご発言を見るたびに
私は、何とか何とか阿弥陀仏のご恩徳をわかっていただきたい、
そして再び聴聞していただきたいという思いで一杯になります。
ともに聴聞させていただいた法友が聴聞の場におられないのは、
本当に悲しくさみしいことだあな、といつも心を痛めております。

ところで皆様は、毎日、一体何を求めて生きておられるでしょうか?
じつは私も一時、聴聞から離れていたことがございました。世間事におわれ、
五欲を追い求めている状態が続きました。
しかし、身近な人の死が縁となって再び聴聞させていただいております。
私たちの命は、本当にはかない、無常は迅速であると痛いほど知らされたか
らなのです。
あれが欲しい、あれがしたい、こうなりたいと、欲にふりまわされておりま
したが、死んでゆくときには何一つもってゆけないのだ、世間事でいろいろ
頑張ったからといって、何一つ残らないのではないかと改めて感じたのです。
ただ、一つ残るのは、「聴聞会場で何度も阿弥陀仏の誓願を聞かせていただ
いたなぁ」という仏縁だけではないかという思いになりました。そして、
どうして、どうして、私は不思議な仏縁を結ぶことができたのかという事を
考えたときに、思い起こされましたのは、「必ず絶対の幸福にしてみせる」
と命をかけて誓われている「阿弥陀如来の大慈悲心」でありました。
さらに、なぜ私が真実の仏法に巡り会えたのかと考えたとき、私に直接、い
ろいろ工夫して仏法を伝えてくだされた多くの方々がいらっしゃったからだ!
と、たくさんの法友達の顔が浮かび、感謝の気持ちも起きてまいりました。

私に仏法を伝えるために、先輩や法友がどれだけ苦労してくださったかと。

真剣に聞こうとしない私の後生を案じて粘り強く懸命に一向専念無量寿仏
を伝えてくださいました。
そうして、そんな私達がどうして仏教を聞かせていただけたのかとい
う事に思いをはせたとき、高森先生の不惜身命のたいへんなご苦労が
あったからなのだなあと、ご恩を知らされたのでありました。
「会長先生は、無上仏の御心を説き切っておられるし、
正本堂、『なぜ生きる』、『世界の光親鸞聖人』…、何から何まですべては
用意されているでのはないのか?
あとは、私が聞くか聞かないかだけの問題ではないか!」
と深く反省をさせられたのです。

私たちの「苦しみ悩みの根元」は「死んだらどうなるかわからない、
真っ暗な心」です。「無明の闇」といわれます。この「苦悩の根元」
を断ち切らない限り、どんなにもがいても、次から次へと苦悩が生じてきます。
そして、人生は、はかなく、むなしく終わってしまうのです。
また、死後には、たいへんな一大事があります。
これは、作り話でもなければ、おとぎ話でもありません。
他人事ではありません。ほかならぬ自分自身のこと、我が身の問題なのです!
苦しまなければならないのが他人であるのなら、自分は遠くから眺めて笑っ
ておれるかもしれません。

しかし、自分が苦しまなければならないと知らされたなれば楽にはなって
おれないはずです。
いやでもその解決に必死になるはずなのです。

阿弥陀如来は、まことの心の全くない私たち、仏教を聞こうという気の
さらさらない私たちをたいへん強い強いお力で引っ張っておられます。

「何とか、何とかわかってくれよ!どうか真実を聞き求めてくれよ!」と。

「必ず本当の幸福にしてみせるぞ!」と全力をあげておられるのです。

謗る人も疑う人もやがて阿弥陀如来の慈悲に摂取せられる時の一日も片時も
速からんことを念じあげます。
真実の仏教を伝えることは、すばらしい自利利他の菩薩行です。

真実を知らされて、そして真実を求めさせていただいている喜び、
万劫にもない時期に生を受けた身の幸をかみしめ、
人生の目的の達成に命を燃やしたいと思います。

お釈迦さま、親鸞聖人、歴代の善知識方は、

「阿弥陀如来、一つに向け、阿弥陀如来のみを信じよ。」

と、口をそろえて常におっしゃっておられます。

皆様のまことの仏縁を念じあげます。

★★
どうか、近藤さんや宮田さんのように正しく説いてくださる方から聞いていただきたく思います。

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 00時17分

誤るではなく、謝るの間違いでした。
親鸞会の誤りが、今年1年で一気に、多く明るみになってきた以上、もはや擁護はできません。

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 00時20分

私も数々の指摘をしてきました。最初はやめろ!って言うだけで聞く耳持たない人が多かったですが、最近は、わかってもらえる人が増えたかなと。私は、親鸞会の組織について言ってきました。収支がないこと、壁画、地下道、サンキュー、無駄な建物建設、学生勧誘など。マインドコントロールされてるから、何を言っても無駄なこと、

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 06時24分

 謝りだしたら切りが無いでしょう。明確な悪意を持って会員を騙した、高森一族や一部の幹部講師は絶対に許せないが、一会員がそこまで
罪悪感を持つこともないでしょう。なぜなら、勧誘された側の人も
親鸞会の教えに一応は納得して入会し活動してきた訳で(マインドコントロールされていたとは言え)自己責任の面も大きいでしょう。
 別に親鸞会から暴力で脅されたり監禁されて無理やり活動させられて
いた訳ではないのです。嫌ならいつでもやめられたのです。あなたが
そんなに責任を感じる必要は無いと思います。

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 13時04分

私も同じ意見だ。キリがない。何が正しいか、誤りかを自分で理解したらいいと思います。これだけネットで批判記事でればムチャはできないよ。したら、警察ザタになる。

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 23時21分

私は、間をとって、機会があれば謝りたいという思いです。
親鸞会に勧誘されても騙されなかった人もあれば、親鸞会よりもっと酷い新興宗教に騙された人もあります。
人それぞれですが、親鸞会が根源とは言いながらも、私が迷惑をかけた相手には、機会があれば謝りたいと思っています。
負い目を感じるとか、自責の念に責められる必要はないとは思います。
しかし、私は自分の言動に反省もなければ、謝罪の心も全くない、高森一族のようにだけはなりたくない、これだけは、絶対に死ぬまで忘れず守りたいと思っています。

投稿: | 2009年12月 3日 (木) 23時49分

謝るのはいいと思うが、親鸞会離れれば連絡をとるチャンスも出会うこともないだろう。 

投稿: | 2009年12月 4日 (金) 07時54分

学生時代、恋愛禁止とか、一年生同士くってけちゃいけないとか、馬鹿馬鹿しい。恋愛禁止って今の時代に体育会系でもない。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 14時26分

私はことあるごとに苦言を言ってきました。まだまだ浸透してませんが当初に比べれば、わかってもらえたかなという感じです。  マインドコントロールから解放されることは難しいですが、教えより組織から、批判的に見るとよくわかります。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 14時29分

謝りたい気持ちは分からない訳ではないけれど。
でも、それって結構自己弁護もあるんじゃないの。
自分は謝って満足かも知れないけれど。

それに一般会員(年長者)って、全然まだ親鸞会の現状に気がついていないんだね。
その方がびっくり。
バリバリ今もやっているらしい。
支部を色々変えて、情報を流れにくくしているみたい。
何となく最近見ないね、そんなところかな。
それと、残っている人は、辞めた人は愚か者と思っているのか
逆に冷たくされたらしいよ。

自分は先に辞められたのが幸運と思っているだけでいいよ。
それに感謝するべきだよ。

実態をよく見極められたということで、観察力が鈍っていなかった証拠じゃないか。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 15時59分

支部かえるってどういうこと?

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 17時11分

年配の方はわからないね。特に古い会員は親鸞会のすべてを知ってますからね。 ダメ企業を立て直すときは、トップをかえるとか、外部から人を入れるとか。親鸞会は無理ですが。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 18時06分

横レスですが、支部を分割・合併する。支部長を変える、富山県ならば、親友部員が各支部にまんべんなくいるようにする等でしょうか。
今年に入ってからだけでも、かるく数十名以上の講師部の移動がありますから。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 18時26分

人事異動はどの会社にもあります。リストラの意味もあるし、社員育成、組織活性化などが理由だが、学友部や長い間その部門にいて異動ならわかるが、給料ないのにわけわからない。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 18時57分

>組織がどんな誤魔化しをしようとも、教祖が自分の欲を満たすために教義を利用しようとも、
>末端の信者が勧誘をする理由は「相手の幸せのため」に他なりません。
>実際に大学のキャンパスや街角に出る信者の中に、騙そうと思って勧誘している人はいないのです。

そういえば、うまいうどん屋の話を思い出しました。うまければ人に勧めずにおれないと。
顕正戦のたびに聞いて、なかなか人を誘う気持ちになれない自分に言い聞かせていたけど
つまり、簡単な話、人に勧める気持がおきなかったのは、それほどおいしくなかったということで
それが正直な気持ちであり、間違っていなかったのですね。

会員さんも、一度自分の気持ちに正直になってみたらどうでしょうか。
今だから言えますが、無理はよくないと思います。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 19時03分

その通り。大学の職員が勧誘を反対するのは当たり前。間違ったことしてないんだから、正々堂々としないのか不思議だわ。

投稿: | 2009年12月 5日 (土) 19時50分

親鸞会がおかしいと思うところ。くどいけど再度いう。 
実体隠した大学生勧誘、収支がない、講師の給料ない、サンキュー運営、地下道、など

投稿: | 2009年12月 6日 (日) 08時22分

会員時代を振り返ってみたんだけど、
精神的に殺伐としていた中で、やさしく接してくれた人は少なくなかったかな。
講師・会員は関係なく、硬直した組織で良心的な人がいたことを思い出した。

活動の疲れやノルマに対する焦り・罪悪感を感じながら、ぎりぎりの精神状態で
なんとか頑張っていたけど、テレビ座談会で時間に余裕ができるのはいいことですね。

講師・会員さんには、活動に頑張りすぎないでほしい。
親鸞会じゃなくても、阿弥陀様は見捨てないと思いますよ。

あと、自分は本部に集まることによって活動の原動力になっていたような気がするのだが、
電話・テレビ座談会が続いて多くの人が一堂に会しないと、
”よ~し、やるぞ”の親鸞会でいうところの19願の至心発願は大丈夫か?
親鸞会の集金力が低下するのでは?当然願ったりの流れですけど。

投稿: | 2009年12月13日 (日) 19時55分

親鸞会は時間、約束にうるさい。これはいいことだが、悪いことでもある。  配慮がないってこと。すべての人じゃない。

投稿: | 2009年12月13日 (日) 22時33分

毎週本部に集合かけなきゃ、「やるぞ」って気持ちが起きない?これこそが顕徹の話の中身の軽さだね。実は光晴でも代わりがつとまっちゃうんじゃないか?

投稿: ケンテ2 | 2009年12月14日 (月) 21時29分

自分が活動会員のとき、人が多くて勇気がわいたし、
仲間と話すと元気が出たし、ライバル心に火がついて、
「よ~し、やるぞ」ってなったかな。
結構、人の心ってこういうことで発奮すると思う。
毎週、数人か20人くらいで、変わり映えがなければ
マンネリでモチベーションも上がらないし、
会員が減少しているものなら、あとは惰性かな。

周りに大勢の人がいたり、仲間がいると
安心するし、元気も出るけど、
逆に、人が少なくなれば、不安になると思う。
テレビ座談会で、こんな感じになっているのかな?
まだまだ元気かな?どうなんだろ。

投稿: | 2009年12月14日 (月) 21時55分

今回の記事とは全然関係ないけど、ふと思ったことを書きます。
親鸞会関係者(弘宣部、講師、親友部員)の作っているブログには、問答形式のものがないということ。(もしあるのなら誰か教えてください)仏法とはこういう教えですよ、と世の人々を啓蒙するが、一方的に情報(教え)を流すに留まっている。アンチの人のブログには、清森問答、安心問答など、問答形式のものがある。しかも、かなり教義的に突っ込んだ内容を扱っている。仏法を真剣に求める人には、必ず信仰上の疑問が出てくるはず。そういう人の疑問を取り上げ、答えてあげるのが仏法者としての最大の親切と思います。全人類に「信心決定あれかし」と呼びかける団体ならば、問答形式のブログがあってもよいはず。是非、開設をお願いします。(もしできるとしたら高森会長だけでしょうけど。講師や親友部員には許可されないでしょう)

投稿: | 2009年12月14日 (月) 22時12分

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