私が現役の会員だったころ、「因果の道理は科学的に立証されている」「仏教が科学的というより、仏教に説かれている世界観に科学が追いついて来たに過ぎない」といった話が随分されていたものでした。「死後の世界の証明」を部会でやりだす講師部員もいましたし、聞いているほうも年端の行かない学生ばかりで、こうした説明をさしたる熟考もなく鵜呑みにしている人が殆どであったように思います。
「信じるか、信じないか」の問題である宗教的な理念を、あたかも科学的な裏づけを持った真理であるかのように説いた事で、親鸞会を脱会した後も堕地獄の恐怖に苦しんだり、親鸞会の教義を単に信仰の問題と捉える事が出来ず、会に深刻な疑問を抱きつつも離れられない人を数多く生み出す結果となったのはご承知のとおりです。
多くのカルトに共通するこれらの「説き方」の問題点を、北海道大学の櫻井義秀教授はこう語っています。
物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。
(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)
「因果の道理は反証可能性のない仮説であり、宗教的な信念で信じているに過ぎない」と「ジャンヌ」や「なぜ私は親鸞会をやめたのか」が論じたのは、まさにこうした背景があっての事でした。それは、あなたが信じている「親鸞会の信仰」は科学的な裏づけを持った「真理」ではない。宗教的「信仰」にすぎないのだから、それが自分を幸せにしないと思ったならばその信仰から離れてもいいのだ、と言っているに過ぎません。
これは「いい事をすればいい結果が返ってくる」といった倫理的な因果応報を否定し、悪をし放題すれば良いと言っているのではありません(そんなことを言っている人など聞いた事がありません)。明らかに「阿頼耶識に蓄えられた業力が物理現象まで支配する」という「親鸞会的因果の道理」と、そこから導き出される死後の地獄といった、仏教にも科学にも根拠のないトンデモ教義の事をそう言っているわけです。まあ、そんな事はこのブログの読者の方にとっては常識だと思いますが。
さて、このブログでも何度か取り上げた「静かな劇場」というブログがあります。
「静かな劇場」の著者であるN田氏は、最初は親鸞会を批判する人を「因果の道理を否定する人たち」と勝手に決め付けて、なぜか科学を因果の道理の対立軸におき科学批判をはじめ、そのうち「因果の道理は信じるものです」「因果の道理は証明できないから公理です」と突如言い出し次は唯物論を批判し、今度は唯心論物理学なるものを取り出して唯識の説明を始めました。
「因果の道理は信念によって信じているに過ぎない」という主張は、親鸞会があたかも因果の道理に科学的な裏づけがあるかのように説いていた事に対するものなのに、それを棚に上げて「因果の道理」VS「科学・唯物論」の架空の展開を一人で作って延々と持論を展開しているわけです。日中にケンカで負けてその悔しさが忘れられず、寝床に入って相手を倒す妄想をしているようなもので、なんとも暇人というか非生産的としか言いようがありません。
根拠としているゲーテルや現代物理学の知識も相当いい加減なので、その時々で読んだ本やサイトで自分の考えにあってそうなものを適当に拾って書いているだけなのでしょう。ここまでいい加減な事を書いて平気なのですから、仏教や唯識に対する理解もかなり適当であるのは間違いありません。
私の友人は「誰も著者に対して、こんなみっともない文章を書くのはやめたほうがいいと忠告しないのだろうか。親鸞会は冷たい組織だ」と言っていましたが、こんなものでも「親鸞会を信じたい人たち」にとってはそれなりに有益なものなのです。何しろダーウィンの言うように「確信というものは知識のあるところよりも、知識のないところから生まれることが多い 」のですから、彼らに自分たちの知らない知識に対する謙虚さを求めるのは無理なことです。
ということもあってここしばらく「静かな劇場」は殆ど読んでなかったのですが、最近「コペルニクス的転回」というエントリを見て思わず失笑してしまいました。
親鸞会が言うように親鸞会だけが真実を説く団体とするのならば、その裏づけがなければなりません。
しかし親鸞会といえば、統一協会のように嘘つき勧誘をし、神慈秀明会のように山奥に建物を建てまくり、真如苑のように信仰に不要な絵画を買い集め、創価学会のようにしょっちゅう金集めをしています。そしてどこの新宗教団体もそうであるように個人崇拝に熱心で信者は貧しいのに会長の使う施設は過剰に立派です。
そして言っている事はコロコロ変わるし教義は間違いだらけで、会長の主要な著作は殆ど先人のパクリです。
こんな「どこにでもある金集め新宗教団体」以下の団体を「世界唯一の真実を説く幸せな団体」だと信じるために、会長先生の深い御心は私たちには理解できないだのなんだのと会員は随分無理な辻褄あわせをしています。
地動説が信じられず、天動説で天体の動きを説明するために、随分な無理をして理論を組み立て複雑な天球儀を作って辻褄あわせをしていた人たちとなにが違うのでしょうか。
親鸞会をやめた人が一様に「すっきりした」「言いようのない開放感」と言っているのは、もう無理な辻褄合わせをせずに、素直に「親鸞会はどこにでもある金集め新宗教団体の一つだ」と思えるようになったからなのです。
内田樹は言っています「人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけ」だと。
N田さん、そろそろあなたも「親鸞会が唯一の真実」という天動説を捨てる「コペルニクス的転回」は出来ませんか?
地動説にパラダイム・シフトするのに必要な観測結果は、もうとっくの昔に出ていますよ。
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