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2009年、親鸞会の内堀は埋められた。

2006年末にこのブログをはじめてから、明日で4回目の正月を迎える事になります。書いた記事は212本、コメントが2879件、アクセスは累計で508000件に達しました。

応援してくださった会員の方、元会員の方、関係者の方、本当に有難うございました。特に当ブログに投稿してくださった方々。親鸞会に対する色々な思いを真摯に文章にしてくださり、私自身が読んでいて襟を正される思いでした。また、今年は例年に増して多くのメールを頂きました。一部まだお返事できていないものもあり、申し訳ありません。

今年は親鸞会にとって歴史的なターニングポイントとなった年でした。是が非でも守らなければならなかった最後のよりどころであるはずの「教義的正当性」が完全に崩れ、死守しなければならない戦線は完全に崩壊したのです。

ソイフル氏、苦笑氏、近藤氏、宮田氏、清森氏が着々と進める親鸞会の教義批判に、論拠を挙げて反論できる人はもはや親鸞会には一人もいないのです。紅楳英顕氏の論文は隠す事が出来てもネットにあげられた彼らの文章は隠す事は出来ません。かくて多くの支部で長年幹部を務めてきた中心的会員が脱会するという異例の事態が起き、当然少なくない末端の会員も辞めて行きました。

絶対に死守しなければならない戦線を放棄した彼らのやった事は、F館(高森御殿)や絵画、法衣の財施の推進と、電話座談会や「信心の沙汰」と言われる講師を中心とした説法の復習会、そして来年から実施される布教部門の大幅な組織改組でしょう。

しかし親鸞会が悪徳宗教まがいの無茶な運営を続けてもそれなりにやってこれたのは、「教義的正当性は我に在り」という誇りであったはずです。それはもう誰に目にも明らかに崩れてしまいました。この事実を前にどんな対策も切り札にはならないのは自明のことです。

2009年、ついに親鸞会の内堀は埋められました。埋めたのは親鸞会が「敗残者」と蔑んだ脱会者たちでした。この歴史的な年を私は生涯忘れないでしょう。

親鸞会は崩壊するのか?いや、しないでしょう。荒唐無稽な教義を説く雑多な新宗教でも数万、数十万、場合によっては数百万の信者を抱えているのです。事実を見る勇気を失い、外に踏み出す勇気を失った人たちが残り、高森一族を支えてゆくことでしょう。

しかし本当はそんな事はどうでもいいのです。親鸞会が存在しようと、崩壊しようと、会員でいようと、脱会しようと、真実の弥陀の救いの前には関係ないこと。こんな当たり前のことも、私は親鸞会の中にいたときはわからなかった。

私は来年も、地道に親鸞会の実態を明らかにし、親鸞会に関わった人たちの声を伝えてゆきます。判断するのはここを読むあなたです。

来年は一人でも多くの人が本願の救いにあわれますよう。

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コペルニクス的転回

私が現役の会員だったころ、「因果の道理は科学的に立証されている」「仏教が科学的というより、仏教に説かれている世界観に科学が追いついて来たに過ぎない」といった話が随分されていたものでした。「死後の世界の証明」を部会でやりだす講師部員もいましたし、聞いているほうも年端の行かない学生ばかりで、こうした説明をさしたる熟考もなく鵜呑みにしている人が殆どであったように思います。

「信じるか、信じないか」の問題である宗教的な理念を、あたかも科学的な裏づけを持った真理であるかのように説いた事で、親鸞会を脱会した後も堕地獄の恐怖に苦しんだり、親鸞会の教義を単に信仰の問題と捉える事が出来ず、会に深刻な疑問を抱きつつも離れられない人を数多く生み出す結果となったのはご承知のとおりです。

多くのカルトに共通するこれらの「説き方」の問題点を、北海道大学の櫻井義秀教授はこう語っています。

物事を良く知っているかどうかで判断力に差はあるとしても、事実に関わる事柄には、合理的・論理的に考えて誤りを指摘することができます。しかし、宗教的教義には自然科学的知識や社会科学的論理で答えることができない内容が含まれています。神の存在、善悪の価値判断、歴史の目的、罪の起源と贖罪等。これらを宗教として教えられれば、信じるか信じないかの判断をすればよい。しかし、教団がこれらをあたかも自然科学的法則や歴史的事実のように語り、信者が普遍的真理として受け入れてしまうと、その後自らの力で教え込まれた知識体系に客観的に反駁することが容易にできなくなります。
(新潟集会講演 2002/3/15「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」)

「因果の道理は反証可能性のない仮説であり、宗教的な信念で信じているに過ぎない」と「ジャンヌ」や「なぜ私は親鸞会をやめたのか」が論じたのは、まさにこうした背景があっての事でした。それは、あなたが信じている「親鸞会の信仰」は科学的な裏づけを持った「真理」ではない。宗教的「信仰」にすぎないのだから、それが自分を幸せにしないと思ったならばその信仰から離れてもいいのだ、と言っているに過ぎません。

これは「いい事をすればいい結果が返ってくる」といった倫理的な因果応報を否定し、悪をし放題すれば良いと言っているのではありません(そんなことを言っている人など聞いた事がありません)。明らかに「阿頼耶識に蓄えられた業力が物理現象まで支配する」という「親鸞会的因果の道理」と、そこから導き出される死後の地獄といった、仏教にも科学にも根拠のないトンデモ教義の事をそう言っているわけです。まあ、そんな事はこのブログの読者の方にとっては常識だと思いますが。

さて、このブログでも何度か取り上げた「静かな劇場」というブログがあります。

「静かな劇場」の著者であるN田氏は、最初は親鸞会を批判する人を「因果の道理を否定する人たち」と勝手に決め付けて、なぜか科学を因果の道理の対立軸におき科学批判をはじめ、そのうち「因果の道理は信じるものです」「因果の道理は証明できないから公理です」と突如言い出し次は唯物論を批判し、今度は唯心論物理学なるものを取り出して唯識の説明を始めました。

「因果の道理は信念によって信じているに過ぎない」という主張は、親鸞会があたかも因果の道理に科学的な裏づけがあるかのように説いていた事に対するものなのに、それを棚に上げて「因果の道理」VS「科学・唯物論」の架空の展開を一人で作って延々と持論を展開しているわけです。日中にケンカで負けてその悔しさが忘れられず、寝床に入って相手を倒す妄想をしているようなもので、なんとも暇人というか非生産的としか言いようがありません。

根拠としているゲーテルや現代物理学の知識も相当いい加減なので、その時々で読んだ本やサイトで自分の考えにあってそうなものを適当に拾って書いているだけなのでしょう。ここまでいい加減な事を書いて平気なのですから、仏教や唯識に対する理解もかなり適当であるのは間違いありません。

私の友人は「誰も著者に対して、こんなみっともない文章を書くのはやめたほうがいいと忠告しないのだろうか。親鸞会は冷たい組織だ」と言っていましたが、こんなものでも「親鸞会を信じたい人たち」にとってはそれなりに有益なものなのです。何しろダーウィンの言うように「確信というものは知識のあるところよりも、知識のないところから生まれることが多い 」のですから、彼らに自分たちの知らない知識に対する謙虚さを求めるのは無理なことです。

ということもあってここしばらく「静かな劇場」は殆ど読んでなかったのですが、最近「コペルニクス的転回」というエントリを見て思わず失笑してしまいました。

親鸞会が言うように親鸞会だけが真実を説く団体とするのならば、その裏づけがなければなりません。

しかし親鸞会といえば、統一協会のように嘘つき勧誘をし、神慈秀明会のように山奥に建物を建てまくり、真如苑のように信仰に不要な絵画を買い集め、創価学会のようにしょっちゅう金集めをしています。そしてどこの新宗教団体もそうであるように個人崇拝に熱心で信者は貧しいのに会長の使う施設は過剰に立派です。

そして言っている事はコロコロ変わるし教義は間違いだらけで、会長の主要な著作は殆ど先人のパクリです。

こんな「どこにでもある金集め新宗教団体」以下の団体を「世界唯一の真実を説く幸せな団体」だと信じるために、会長先生の深い御心は私たちには理解できないだのなんだのと会員は随分無理な辻褄あわせをしています。

地動説が信じられず、天動説で天体の動きを説明するために、随分な無理をして理論を組み立て複雑な天球儀を作って辻褄あわせをしていた人たちとなにが違うのでしょうか。

親鸞会をやめた人が一様に「すっきりした」「言いようのない開放感」と言っているのは、もう無理な辻褄合わせをせずに、素直に「親鸞会はどこにでもある金集め新宗教団体の一つだ」と思えるようになったからなのです。

内田樹は言っています「人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけ」だと。

N田さん、そろそろあなたも「親鸞会が唯一の真実」という天動説を捨てる「コペルニクス的転回」は出来ませんか?

地動説にパラダイム・シフトするのに必要な観測結果は、もうとっくの昔に出ていますよ。

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投稿:親鸞学徒を自覚するなら、高森学徒を辞めて下さい

昭和59年1月6日、親鸞会が出した質問の回答を求めて、意味もよく判らず本願寺の座り込みに参加しました。参加理由の1つは、高森会長が参加すると聞いたからでしたが、本願寺でその姿を見ることはありませんでした。話が違うとは思いましたが、何か深い御心があったのだろうと思い込むように努力しました。

それから暫くして、『本願寺なぜ答えぬ』が発刊されました。一読して、本願寺の主張の方が正しいのではないかと思いましたが、講師が絶賛するので、私には理解できない深い何かがあるのだろうと、またもや自分の心を誤魔化しました。しかし、どうしても引っ掛かるところが1箇所ありました。それは、『本願寺なぜ答えぬ』の「はじめに」のところに、

 最後に、勧学寮頭監修による『現代の教学問題』の「宿善について」の、コピー全文を掲載したのは、ほかでもない。
 『回答書』に、こんなことを、いっているからだ。
「私が発表した論文も、全文のせてもらった方が、よく解って、よかったのではなかろうか。論文を部分的に引いて反論されたのでは、私の主張の内容が、読者に解りにくく、誤解を生ずる点もあろうと、思われるからである。」
 ”こんな苦情で、また、真実開顕に、背を向けられてはたまらない”と、思ったからである。

と書いてありましたが、この『回答書』とは、紅楳英顕氏の『派外からの異説について』です。しかし、紅楳英顕氏の『派外からの異説について』は、本文で部分的に引用されているだけです。ではなぜ、わざわざ別の論文だけを全文載せたのかです。単なるミスなのか、何か意図があったのか。前者は考えられません。ならば載せられない理由があったのか。そのことについて講師に聞きましたが、判らないというだけでした。

誰に聞いても判らないので、疑問を持ちながらも、その後『本願寺なぜ答えぬ』を全国に頒布する活動に参加し、自分のやっていることで、真宗改革ができると教え込まれて、それを鵜呑みにしていました。しかし、何も変わりませんでした。

あれから25年、関西本部建立の話や、本部会館建立、アニメの頒布、『なぜ生きる』の出版、正本堂建立など、様々なことがありまして、その度に、真宗の流れが変わるだの、大げさな言葉に踊らされ続けてきましたが、結局何も起こりませんでした。

自分はといえば、熱心に活動をしていたものの、善の強調が年々激しくなり、私が最初に聞いていた時の話と段々掛け離れてきていくのを感じて、心は萎える一方でした。しかし、参詣目標、入会目標、財施目標は次から次へと与えられ、後生の一大事の解決という名目で、ひたすら金集め人集めに尽力しました。多くの仲間が去っていっても、彼らは堕落者というレッテルを貼って見下すことで、自分の行為を正当化させるのに必至でした。

ところが今年に入ってからは、善の勧め、因果の道理の話ばかりになり、さすがにこれが本当の浄土真宗の教えなのかと、鈍い私でも教えに疑問を持ち始めました。

それで支部長に、「善をしなければ信仰は進みませんよと教えられますが、では善をすれば信仰は進むのですか」と尋ねましたが、絶句して返答はありませんでした。困った末にいわれたことが、「『本願寺なぜ答えぬ』にすべての回答がある」でした。

そこで25年ぶりに『本願寺なぜ答えぬ』を読んでみました。25年間封印されていた疑問が再び思い出されました。この本の一体どこに答えが書かれてあるというのか。紅楳氏が質問されている獲信のための善の勧めとは、七仏通誡偈、定散二善、19願のことなのか。それは誤魔化しているだけのようにしか思えませんでした。
支部長に尋ねても、親鸞聖人の教えられたことの本当の意味が判るのは高森会長だけだという説明にならない説明を繰り返すだけです。疑問は余計に膨らみました。

また、自分よりもはるかに積極的に活動していた人が次々退会していくのを聞いて何かあるに違いないとも思いました。親鸞会内部では、楽な求道に迷ったと説明していますが、そんなレベルの低い話である訳ないです。彼らの退会理由も知りたいと思いました。

そこで、情報化社会から取り残されていた私でしたが、インターネットでも使って調べて見ようかとふと思い立ち、いろいろ調べてみてびっくり仰天でした。
親鸞会の教えの間違いが山ほど書かれていて、しかも親鸞聖人、蓮如上人ほか、歴代の善知識方のお言葉を豊富に出されて、親鸞会教義を批判していましたので、非常に説得力のあるものでした。親鸞会では全く聞いたことのない根拠も多々ありました。しかも、『本願寺なぜ答えぬ』の内容について、完膚なきまでに論破されており、これまでの疑問が一度に氷解しました。

具体的には、
親鸞会教義の誤り
21世紀の浄土真宗を考える会
苦笑の独り言
清森問答
などです。

26年前に本願寺に座り込んでまでの抗議行動も、『本願寺なぜ答えぬ』の全国頒布活動も、本願寺に対する単なる布教妨害と親鸞会の宣伝活動の意味だけで、真実開顕とは、真逆の活動であったと知らされ非常に後悔しました。本願寺は答えられなかったのではなく、呆れて相手にしなかっただけであることも判明し、高森会長の説く善の勧めは、親鸞聖人の教えを根本から破壊するものであったとようやく理解できました。

そのことを支部長に話をすると、支部長は高森会長の言葉を示して説明しようとするので、親鸞聖人のお言葉で説明して下さいというと、沈黙して以後どんな質問にも一切答えてくれなくなりました。
支部長と言えど、親鸞聖人の教えには疎いのです。高森会長の著書以外に読んだことはないので、仕方がありません。

結局のところ高森会長が善を勧める目的は、金集め人集めをして、親鸞会と高森一族の繁栄のため、つまりは自己の名利のためであることもよく判りました。支部長に質問しても答えられないのは、支部長に問題があるのではなく、高森会長に問題があったことも得心しました。特専部員が会長に質問して除名になったという話も、最初は嘘だと思っていましたが、本当のことに間違いありません。

30年近く、出鱈目教義に騙され続けてきたことに憤慨していますが、幸いにして、正しい親鸞聖人の教えを他で聞かせて頂けました。従って、会員を続ける理由 は何1つ無くなりましたので、きっぱりと退会をしました。

親鸞学徒を自覚するなら、高森学徒を辞めて下さい。そのためには、自分で親鸞聖人の教えを調べて確かめて下さい。これが未だ残る真面目な会員さんに望むことです。

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「謝りたい」

先日関東で主に法華系のカルト対策に携わっている方とお話をしました。

ある脱会者の方が、脱会してから自分が勧誘や育成に携わった200名の方一人一人に謝罪をしてまわり、最近ようやく全員に謝罪し終わったことを報告してきた、という話をされ、どう思う、と私に聞いてこられました。

私は「偉いですね」といいました。そういえば私も脱会してしばらくは自分の関わった全ての人に謝罪して回りたかった。そんなことよりも自分の生活を回復させるのを最優先しなさいと言われても、それでも謝らなければ済まない思いがありました。

私に限らず脱会した多くの人がこのような感情を持つことと思います。

誰も脱会した人に、あなたは加害者なんだから謝って来いという人はいない。なぜならそれらの人はまた被害者でもあるのだから。

しかしそれでも、自分が受けた失望と苦しみを思うと、多くの人の人生をカルトに迷わせた責任を感じて、謝罪せずにはおれなかったのです。

私が親鸞会をやめてから4年が経ちました。思えば脱会したあとに味わった、土下座しても許されないだろうという罪悪感。しかしその思いもいずれは月日とともに薄らいで行きます。

その代わりに「いつまでこんなニセ浄土真宗に騙されているのか、早く気づけ」という現役信者を見下す心が生まれてなかったかと反省させられます。

JSCPR主催の大阪大学の公開講座で、「カルトはなぜ勧誘するのか」という問いを投げかけた学生がいました。

組織がどんな誤魔化しをしようとも、教祖が自分の欲を満たすために教義を利用しようとも、末端の信者が勧誘をする理由は「相手の幸せのため」に他なりません。実際に大学のキャンパスや街角に出る信者の中に、騙そうと思って勧誘している人はいないのです。

それでも私たち脱会者は誰しも一度は「謝りたい」と思います。

罪悪感をいつまでも持ち続ける必要はありません。しかし「謝りたい」という尊い気持ちはずっと心のどこかに持ち続けて行きたいものです。

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