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投稿:親鸞会が真実だと思っていたのは単なる思い込みでした

初めて投稿します。

ぶるうのさんが前回、親鸞会を真実だと思っている理由を考えて欲しいと書いておられて、それをみて自分なりに色々と考えてみました。

因果の道理のこと、死のこと、仏教のこと、浄土真宗のこと。
私はいろんなことを親鸞会で学びました。

でも思えば何一つ真実だと確信できたものはありませんし、裏づけもありませんでした。周りの人に合わせて、自分はわかってない、理解して無いと思われるのが嫌だから、無理にそうだ、自分がわかってないだけなんだと思ううちに、いつの間にか最初にあった疑問はどこかに行ってしまって、親鸞会が真実だと思うようになって来ました。

たぶん、親鸞会の誰に聞いても、どういう過程でなぜあなたは真実と思うようになったのか、ちゃんと説明できる人はあまりいないのではないかと思います。

わかるまで聞く、納得するまで聞く。

思えばこの言葉が問題だったのかもしれません。たとえば数学ならば、答えが決まっている問題ですから、わかるまで、納得するまで、という言い方でよかったのかもしれません。

しかし親鸞会の教義はどう考えても宗教です。わかるとか理解するとか納得するじゃなくて、信じるか信じないかの問題のはずです。受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいるでしょう。それを、全人類唯一の真実だから理解しろと押し付けられて、周囲の雰囲気に呑まれ、知らないうちに真実だと思い込むようになっていた、というのが現実だと思います。

思えば、都合の悪い事実にふたをして、集めたお金の報告もしない、身分や立場を偽る、そこら中に御殿を建てたり贅沢三昧で、その上人の著作をパクって自分が書いたと嘘をつく。歯向かった人は即座に除名。こんな人が真実の教えを説いているだなんて、周囲の人から見たらチャンチャラおかしいことでしょう。

でもそのときは気付きませんでした。周りの人が何を言っても、自分と同じようにしっかり教えを聞けば納得すると思っていました。でも、それは納得したんじゃないんです。じゃああなたが納得した「親鸞会は真実」って理由は何かって聞かれれば、誰もが悩んでしまうと思う。いや、どうして自分は真実だって思ってるんだ?いつから思うようになったんだ?漠然としてはっきりとした答えは出てきません。

それがはっきりとわかったのが、N田講師の書いているブログ、「静かな劇場」です。このブログに対しては、近藤さんや苦笑さん、ソイフルさん、清森さんといった方が聖教の根拠を出して色々な視点からそのおかしさを指摘していますが、結局何も答えることが出来ずに、ただ一方的に(ブログを書いている人は粛々と、と表現していますが、つまりは答えられないから一方的に話をしただけでしょう)自分の考えを書くだけでした。親鸞会に対する批判もかなり捻じ曲げて解釈してたし。

それも、親鸞会の因果の道理の根拠が善悪因果経といった偽経に拠っていたこと。「善のすすめ」についてはついぞ親鸞聖人のお言葉は何も出てきませんでしたし、高森先生の根拠があるのだか無いのだかわからない「お言葉」みたいなのしかなかった。ああ、結局親鸞会の教えって何にも根拠無かったんだなーと思わずにおれませんでした。

N田講師ほどの人でも、因果の道理が真実と「思い込んで」いるだけだったとはっきりわかりました。因果の道理が真実かどうかは知りません。(親鸞会の因果の道理は違うらしいけど、それは清森さんが詳しく書いているのでここでは書きません)でも、N田さんの一連のブログの記事を見て、結局根拠無いんだなーとわかった。それで十分です。

善のすすめっていっても、親鸞会ですすめられたのはたったの二つです。金もってこいと人集めてこい、それだけです。高森先生自身が盗作とか平気でしているような人なので仕方が無いと思います。(しかもそれを、親鸞聖人とか蓮如上人を出して正当化しようとしている)

それだけでわからなければならなかったのに、随分余分な時間がかかってしまいました。

私が学友部のときに、もう本当に勧誘がやりにくくなって、幹部をやっていたような人が次々とやめてゆきました。

担当幹事は、彼らはわかってなかったんだ、哀れだ、なんて言ってたけど、哀れなのはやめてない人でした。明らかに。

結局、「親鸞会しかない」って自分で思い込んでいるだけでしょ、ってことなんですよね。

案外、単純なことで、そこから抜け出した人にとってみれば、「まだ、会員やってるの?」って思うんですけど、抜け出していない人にとっては、なかなかそこに気づくのは難しいものです。

それに気付いてなかった。その考えから抜け出してなかった。

いろんなことから真剣に人生を考えて親鸞会を選び取ったんじゃなくて、親鸞会が真実、という前提から出発して物事を考えるようになっていたから、なかなか気付かなかった。

僕らは中にいると、外から見る親鸞会と中から見る親鸞会のギャップにみんな苦しむと思います。特に親に対して。何でわかんないのかと。

それは、外の人には「親鸞会は真実」っている前提が無いだけ。だから親鸞会の問題をストレートに見て、「こんなおかしな俗物の団体が全世界唯一の真実云々って、なに寝言いってんの?」と思う。ちょうど僕らが親鸞会の中から邪教を見るのとおんなじです。

でも中にいると、「親鸞会が真実」っていう前提にあわせようと全ての事柄を見るから。高森先生が盗作したのは深い御心、会計報告が出来ないのも深い御心、嘘つき勧誘は真実伝えるため、会長御殿はアンチの捏造などなど。

馬鹿でした。

でも、抜けられて良かったです。有難うございました。

N田さん、覚えてます?僕は学生時代にあなたに担当してもらった者です。

金沢大学で死亡事故が起きたときに頭丸坊主にしていたことも、あれほど結婚なんて幸せのはずが無いと部会で言いながら結婚したときのことも、よく覚えていますよ。

たぶんあなたはもう「親鸞会が真実だ」ってことは思い込みだって気付いていると思う。いろんな理由でやめられないだけですよね。文章に迷いがあるし。

勇気を出して一歩を踏み出してみてください。僕の同期の人、ぶるうのさん、みんな期待しています。

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コメント

N田はホントむかついたわ。
あの事件のとき。

自分には責任無いって面しやがって!
しばらく東京に逃げ続け
反省したフリして坊主頭一回しただけ。

みんなの前でも形だけ土下座のフリ。
額から血が出るくらい擦り付けて土下座せいや!

殺人小牛N死田くん。

投稿: | 2009年11月10日 (火) 01時53分

根拠を過度に重用して、正当性の認められる古典の言葉を絶対視すべき、というのが所謂親鸞会の教え。
経典に書かれていれば人殺しも厭わない(間違ったことが書かれているはずがないという前提条件)
西田君も清森君も、古典で言葉遊びするのはほどほどにして、自分の心は如何と歩き出して欲しい

投稿: 裏 | 2009年11月10日 (火) 02時41分

こんなお金と人を集めるだけが目的のカルト会で居心地がいい人がいるんだね。
宗教詐欺師の会長を生き仏の様にまだ拝んでいる人もいるだろうし。
投稿者も書いてるように、それは世間から見るとオウムのAだったり、S価のIだったりに入れ込んでいるのと同じくらい気持が悪いってこと解んないんだよね。
 居心地の良さって、お金を出したり、会の用事をしたら、支部長や他の会員さんに感謝されて、名誉欲が満たされたり、そんなつまんないことだろうね。でも本人にとってみたら、受け入れてくれる唯一の居場所なのかもね。
 会以外に友達とかいないのかもね。カルトに嵌っていたら、家族にもよく思われないし、嫌味とか言われて、それで会に逃げ込むのかな。
 教えが間違っていようと、助からなかろうとそんな事はもうどうでもいいのかもって思うようになってきた。懲りずに、変てこな解説書まで、買ってきた家族を見ていて。まだやめないんだろうなって、ため息が出た。
 
 現役会員の人、あなた達の家族はこんな風にあなたを半ばあきらめて、同情交じりに見ているんだから。お金使って欲しくないと100%の家族が思っているのは確かでしょ?家族が経済的に自立したら、見捨てられるよ。そのとき会の誰かが助けてくれるの?年取って惨めだし、それこそ、結婚詐欺につけ込まれないように気をつけてね。

投稿: | 2009年11月10日 (火) 20時45分

思考の枠組み自体を変えるように仕組まれていたのでしょうか。
「相対の幸福」や「世間虚仮」、「必堕無間」という言葉によって価値観を解体させられてしまいました。

理解や納得を奨励する振りをしながら、
実際は、「親鸞会は真実だ」という前提によってすべてが説明される思考になるように切り替えていく。
「親鸞会は真実を説く唯一の団体だ」という大前提にたった考え方をしないと居辛い場所にしていたのです。
「分かっていない」と見下し、「忘恩・背恩」と攻撃することによって。

本願寺がいかに間違った主張をしているかという出鱈目な話を作り出したのは、本願寺と対比することによって「親鸞会は真実」という嘘を補強する手段だったのでしょう。

投稿: | 2009年11月10日 (火) 21時06分

わしゃウソついてた訳じゃないぞ!先達の説教をそのまましゃべっただけじゃ。皆が喜びそうな話のエキスをかき集めてな。元ネタが何だとかどーでもいいじゃろ、みんなよろこんでたじゃないか?
わしの夢だった真宗再興もほぼ成ったじゃろ、もう善知識ぶるのは疲れた。
大体真面目すぎる奴は好かんのじゃ!喜ぶと思って過激な言葉を使ったのに真に受けおって。本当に命懸けてどーすんじゃ?騒ぎをおこしてワシの親鸞会に傷をつけたら許さんぞ!
皆もな、信心決定なんぞ出来ると思うな。わしみたいな選ばれた人間だけの話や、皆はそんなワシの下で教えをもとめるのが幸せじゃ。これこそ真宗再興じゃ

投稿: KENTE2 | 2009年11月10日 (火) 22時41分

よく見極めよう。

投稿: | 2009年11月10日 (火) 22時47分

法然上人や親鸞聖人が比叡山を下りられた時の事を考えてください。助からない教えに未練はなかったでしょ?会は通過点です。本当に信心決定したい人は会というしがらみを捨てて、阿弥陀仏に向かいましょう。かつてお二人がなされた様に。決して後ろを振り返ってはだめです。前を向いて進んで行きましょう。

投稿: | 2009年11月10日 (火) 23時45分

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