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投稿:なぜ私は親鸞会を真実だと思い込んだのか

先回投稿したものです。

「親鸞会を真実だと思い込んでいました」という点について、色々と質問を頂いたりしましたので、補足としていい足りなかったことを書き足したいと思っています。

先ず「思い込み」とは何かということです。色々な定義があるとおもいますが、私はWikipediaでの説明が一番しっくり来ました。すなわち、

思い込み(おもいこみ)とは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。
思い込みをする人は、自分が正しいことを言うために、常識・道徳・前例・先入観・固定観念などを根拠にすることがある。しかし、こうした根拠が他者と全く共有できないものである場合も珍しくなく、合理的な説得をしても信じてもらえない。

というものです。

確かに私は「合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じて」いました。具体的にはこんなところです。

・仏教の教義体系は科学的に証明されているものだと思い込んでいました。

これについては「そんな説き方はしていない」と言われる方もあるかもしれませんが、渡部隆志弘宣部長の講演会や本などで明らかに「仏教=科学」であるかのような話がされていましたし、その証拠も山ほどあります。つまりは仏教は因果律という合理的な論理体系に基づいた教えであり、宗教的な「信じる、信じない」という信仰を前提とした真理とは別次元のものである、という考えです。
当時良く言われていたのが、「仏教を宗教とすれば他の宗教は宗教でないし、他の宗教を宗教とすれば仏教は宗教ではない」というものでした。しかしこれは間違いでした。どこから見ても仏教は「宗教」そのものです。

・親鸞会はその仏教や親鸞聖人の教えを正しく伝える「唯一絶対の存在」であると思い込んでいました。

親鸞会の教義は偽経や捏造に基づいており、経典や聖教の解釈も相当におかしなものでした。これは「苦笑の独り言」や「親鸞会教義の誤り」「清森問答」「21世紀の浄土真宗を考える会」といったブログを見れば分かる話ですし、親鸞会はこれに対して有効な反論が何一つ出来ていません。
私が聞いたのは「高森先生は親鸞聖人の本当の御心を汲み取って私たちに伝えているのだ。それを抜きに教行信証や御文章を読んで理解できるようなものではないし、反論するだけの内容ではない。」というものでした。つまり親鸞会の教義は聖教の根拠ではなく高森先生個人の解釈に拠っているわけで、巷の新宗教となんら変わるところはありませんでした。

・偽装勧誘や友人対策、親対策などのマインドコントロール的な勧誘は、宗教偏見の中で「真実」をお伝えするために必要なのだと思い込んでいました。

実際は親鸞会の活動内容や教義にはおかしなところが沢山あり、それを巧みに隠しながら勧誘しないと続けて聞く人など現れないからでした。こうした勧誘手法を採っている教団が他のは統一教会や摂理などのカルトであることを見ても明らかです。

・親鸞会に財施したお金は、真実を広めるために有効に使われていると思い込んでいました。

それなら会計報告くらい出来るはずですよね。実際には親鸞会に集まったお金は何にどう使われているのか全く不明な上に、「高森御殿」と言われる豪華な会長専用施設が方々に作られていることも知りました。とんだ「善知識」を信じてしまったものです。

・高森先生は高潔な人柄で人格的にもすばらしいと思い込んでいました。

実際は浄財で自分専用のコックと厨房車を用意させたり、周囲の人に横柄な態度をとったり、毎日やっているはずのお勤めを間違えたり(やってないんでしょう)、海外布教で浄財で絵画を買いあさったり、他人の著作を盗作してそれを自分が書いたんだと自慢したりと絵に描いたような俗物でした。

・講師部員は命がけで高森先生と真実の教えを守っていると思い込んでいました。

これだけ親鸞会が批判されても、それに対して立ち上がる講師部の方はただの一人もいませんでした。先回の報恩講では石山合戦で命がけで信長と戦った念仏者の話が出たそうですが、平成の親鸞会では命がけで戦う人など講師部からは一人も出ないでしょう。ぶるうのさんが「僕をいさめようと沢山の会員が訪れたけど、ついに講師部員は一人も来なかったね」と言っていました。その通りです。

・高森先生も命がけで真実を説いていると思い込んでいました。

当時の人に聞くと、本願寺への座り込みのときに、自分は滋賀会館にふんぞり返って会員だけ本願寺に行かせ、「親鸞会の指示で座り込んだのではなく自分たちが自主的にやったと言いなさい」と言い含んでいたそうです。これしきの責任も行動も取れない人が命がけとはとんだ勘違いでした。私が学生のときはしょっちゅう体調不良で説法が中止になっていました。担当講師からは高森先生は限界を超えてお疲れなのだと聞かされましたが、せいぜい週一回の説法と月に何回かの会議でそんなに疲れるものでしょうか?

・高森先生は本願寺と法論をして勝ったと思い込んでいました。

実際は高森先生の使っている根拠はでたらめ、解釈もむちゃくちゃ、さらには相手の意見を捻じ曲げて論破しており、呆れて相手にされなくなっただけでした。


他にも色々ありますがこのくらいにしておきましょう。
問題はなぜこれだけ根拠もなく親鸞会や高森先生を信じてしまったのか、ということです。

思えば最初のうちは、色々と人生についての話とか因果の道理とか聞かされて、親鸞会を客観的に判断できるような情報からは徹底的に遠ざけられ、高森会長や親鸞会にとって都合のいい情報ばかりを集中的に叩き込まれました。この宗教大丈夫か、と思っても知り合いは親鸞会の人ばかり。みんなが高森先生はすばらしい人だと大合唱するの中で、次第に自分もそうした考えに自分を合わせるようになってゆきました。

気付くと、親鸞会が真実である、高森先生が善知識である、ということが、「結論」ではなく「前提」になっていました。色々な情報から「親鸞会が真実である」と判断していたはずの自分が、次第に「親鸞会が真実である」という前提の上に情報を判断し、前提に合わないものは排除したり自分で理屈をつけたりして「親鸞会が真実である」という「思い込み」が崩れないようにあわせるようになってきたのです。

まだ現役の学徒の人と話す機会もあるのですけど、親鸞会の問題や教義的な誤りを話しても「それは先生の深い御心だ」と言ってそれ以上の思考を停止してしまうのです。自分が思考・判断して「親鸞会が真実」だと思ったはずなのに、いつしかそれが間違いのない思考の土台になってしまって、そこから外れる情報は自らら捨ててしまうのです。こうした思考のプロセスはマインドコントロール論の本を読むと色々と丁寧に書いてあります。

以前ひょんなことから、「空とぶスパゲティ・モンスター教」というパロディの存在を知って、背筋が寒くなった経験があります。

外から見ると荒唐無稽に過ぎないことでも、内部では十分に論理的な整合性を与えることが出来るという極端な例ですが、自分が親鸞会を辞める大きなきっかけを与えてくれました。

私たちが「邪教」と呼び、何であんなものを信じているか分からないような宗教があります。自分たちは理性の溶炉を濾過した素晴らしい宗教を信じている、あいつらはあんなわけの分からない教えを信じてかわいそうだと昔は思っていましたが、彼らは彼らなりに内部では「論理的整合性」を持った教えを信じていて、理性的に考えて教えを選んだと思っているのです。

同じように私が親鸞会にいたときに、周囲から親鸞会に向けられる「偏見」に、何でこんな素晴らしい真実を信じられないのかともどかしい思いをしていましたが、結局は他社と全く共有できない内部でしか通用しない論理を元に、「親鸞会は真実」という前提から外れた情報を受け入れず、それでいて自分は理性的に考えて教えを選んだと思い込んでいたのでしょう。

親鸞会の皆さん、特にN田講師、「親鸞会が真実」という前提をちょっとだけ疑って、その上で親鸞会を取り巻く情報に接してみては如何でしょうか。

私にとっては「親鸞会が真実」という前提を疑ってからは、どう考えても親鸞会の信仰を選び取る理由は見つかりませんでした。そういうと、深遠な浄土真宗の教理がお前などに理解できるものかとか言われそうですけど、そもそも親鸞会は浄土真宗とはかけ離れた教義捏造団体なので、そんなこと知ったこっちゃありません。

今は悪因悪果で急速にしぼんでゆく親鸞会の勢いを見て、自分の考えは間違ってなかったと確信を深めています。

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コメント

結局のところ「親鸞会が真実である」という結論は「親鸞会が真実である」あるいは「高森会長は真実を伝えている」という前提からしか導かれないんですよね。その前提である「真実かどうか」の判定は、凡夫の私たちが考えて分かるようなものではない、ということが親鸞会の教えですし。要するに、前提を信じている、ということでしかないわけです。

「高森先生は親鸞聖人の本当の御心を汲み取って私たちに伝えているのだ。それを抜きに教行信証や御文章を読んで理解できるようなものではないし、反論するだけの内容ではない。」という論理は、それを端的に示しています。

信じる対象である親鸞会や高森会長が、信じるに値するものであればそれでいいのですが、このサイトで暴かれているような親鸞会の実態を知れば、信じるに値しないものであることは明らかですね。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 15時08分

親鸞会を真実と思い、執着しながらも、最後にはさよならした自分の軌跡を振り返ってみました。

●信じるまで

1.なぜ生きるか
目的が大事という内容を聞く。

2.幸福
人は誰でも幸せを求めている。続かない幸福より絶対に壊れない幸福の話を聞く。

ここまでは、人間心理からして納得可能であり、「人生の目的」に悩んでいた自分は、なるほど一理あると感じていたと思う。どんなカルト宗教でも主張することですが。

3.無碍の一道、煩悩即菩提
ここで「あれ他と違うのでは」という気持ちが出てきた。障りが障りのまま喜びに変わる、煩悩が幸せのもとになる、と聞いてぐ~と引き寄せられた気がする。

4.因果の道理
親鸞会で話すのは、善は仕事・勉強、悪は家庭内暴力・交通事故が定番。当時は、普通に納得した。

5.人間の実相
この話で、さらに入り込んでいった。

親鸞会で初めて仏教を聞いたので良い印象を深めていった可能性は大きいと思います。これらを聞いている分には、いい話で終わったかもしれませんが、次からが自分にとっての分岐点だったかな。

6.後生の一大事の解決を教えているのは高森先生ひとり。何百年に一人の方です。

このとき、なぜ疑問に思わなかったのか?カルトかなという疑問はあったけど、自分はひっかからないという自信があったような気がする。


●活動時代の気持ち

最初は真実知らされたという思い込みによって熱中していましたが、やがて成果が少なくなってくると、逆に自分を責めて精神的に落ち込みました。それでも親鸞会を疑うより、なぜか自分を責めるばかりで、よけい苦しまなければならなかった。”自分はだまされないという自信”が、長年の活動の中でふっと感じるさまざまな疑問を消していたと思います。

外部(批判サイトや本願寺など)は悪縁であり求道の妨げになると徹底的に刷り込まれていたので、精神的に落ち込んでいようが、外部の情報に接することには抵抗がありました。それだけ恐怖症になっていたのです。


●さよなら親鸞会へ

あるとき限界に達したのか耐えきれず、開き直って批判サイトにアクセスしたのが、私の「さよなら親鸞会」の始まりでした。

盗作事実によって高森会長の人格への疑念を深め、本願寺の和上の本(20~30冊程度)を読んで善知識がひとりでないことを知りました。また親鸞会では本願寺は称名正因の異安心と聞いていたのに、自分の読んだ本の著者はみな信心正因だったし、未だに称名正因を主張する本には出会っていません。

そして、だまされたとショックを受けつつも、退会へと突き進みました。自分はだまされないという自信が崩れ、自尊心が大きく傷つけられましたが、疑問に真正面から向かい合えないのは、これが、怖かったのかもしれないですね。

退会後は無理のないように時間をかけてカルト以前の自分を取り戻しつつあります。

「自分はだまされないという自信(うぬぼれ)」または「だまされたくない(だまされたことを認めたくない)気持」が親鸞会からさよならできない要因だったと、書きながら発見したような感じがします。

現会員にもはやく「さよなら親鸞会」してほしい。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 19時02分

上でコメントされている方と私は同じ過程で信じてしまいました。
私が高森会長が何百年ぶりの善知識と言われて信じてしまった1番の理由は、お釈迦様や親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を出して解説するという形式だった事です。
しかし、それらのお言葉が高森会長にとって都合の良いものを厳選していたり、都合の良い一部分だけを提示しているとは思いませんでした。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 20時32分

どっかでひっかかるだろう。例えば浄財なら、学生時代は部室の家賃のことをいわれ、月に何十万もすると。だから、学生のお金だけではまかなえない!と。 当時の講師は噛み砕いて、わかりやすく、その講師は、評判よかったので納得はしましたね。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 21時46分

追記

>「自分はだまされないという自信(うぬぼれ)」
>または「だまされたくない(だまされたことを認めたくない)気持」
>が親鸞会からさよならできない要因だったと、書きながら発見したような感じがします。

別の表現をすれば
「自分が信じたものは正しいはずだ」
「自分を信じさせるくらいだから正しい」という思いですね。
どちらにしても「自分は正しい」という気持ちでしょうか。
そして悲劇は信じた対象が「詐欺師」「詐欺師の論理」だったということです。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 22時18分

騙されていたということが解ったら、回復はすぐ目の前。めでたいね。
MC 宗教詐欺 カルト お金集め 人集め 会長御殿 善知識だのみ 地獄秘事 大本営発表 軍隊組織 パクリ アニメ行商 事故死 ダミーサークル 戦争ごっこ 過労死 不倫 偽装結婚 貼り付け本尊 深夜にカマタさん返して おつとめ読み間違い 電話座談会
 いやーいろいろあった。やっぱり長い事残っている人はおだてに弱いか、会にしか居場所がない気の毒な人達ばかりなんだろうね。もともと教えなんかより、皆で集まって、褒め合える、傷を舐め合える、認め合える所だったら、ほかの宗教でも、趣味のサークルでも何でも良かったんじゃないって気がしてきた
 ふつう、上のキーワード何個か感じられた時点で気が付いて、ネットとかで、調べてやめるよ。
 

投稿: | 2009年11月11日 (水) 23時17分

一言で「真実(=真理)」といっても、存在論的なレベル、
存在と言語の対応レベル、言語と言語の整合性のレベルという具合に、
いろいろな位相があるわけで。

例えば親鸞会にいたときによく聞いた「『真実などない』と言えば、
『真実などない』ということが≪真実≫になってしまう」というのは、
言語的な整合性のレベル。

でも、こんな風にして自分たちの≪真実性≫を主張するとすれば、
「差別主義者を差別するな」と開き直っている差別主義者と同じで、
愚かしい詭弁だと思う。

親鸞会の教えを受け入れられない人間は
≪真実≫をわかっていない外道とか、
そんなことは大きなお世話なのであって、
思いあがるのもいい加減にしてくださいと言いたい。
私たちには人を不幸にする≪真実≫など必要ない。
ただそれだけの事なのです。

投稿: | 2009年11月11日 (水) 23時56分

退会おめでとうございます。よく決断しましたね。

私も最近退会しました(^^)

私はお世話になった先輩から聞いて、初めはマジかと思いました。

しかし、私の白道や親鸞会教義の誤り、他、元講師の方々のブログを読んで、疑問だった点が線につながりました。

それで私は辞めるに至りましたが、仲の良かった同期や先輩・後輩はまだ迷ったまま…

何とか知ってもらおうとしましたが、そういう情報の早さだけは流石というか、多分先回りしていたのでしょう。

メールしても返信なしがほとんど。教えの誤りへの反論は全くなく、ネットの情報を鵜呑みにして視野が狭い(そちらこそ親鸞会情報のみを鵜呑みにして視野が狭いのですが)というのがあった位。

真面目で根はいいやつらな分、何とか会から離れてほしいものです。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 00時37分

上の投稿者とは別人ですが、一番目の思いこみについて補足します。

>・仏教の教義体系は科学的に証明されているものだと思い込んでいました。

「仏教の因果の道理は科学そのもの」という渡部氏に対して、因果の道理は科学的に証明されるものではなくて単なる信仰の一つに過ぎない、と『なぜ私は親鸞会をやめたのか』の著者は反論されたのでした。

この反論を西田氏はこう曲解します。
>「因果の道理など、合理的・理性的な科学の方法をもって証明できるものではない」との理由で、仏法を求めることを、ただの盲信と、批判的に言う人たちがあります。(『静かなる劇場』11/11)

そして因果の道理は証明不可能な公理だから受け入れるかどうかは個人の問題と主張します。

しかし、「科学的に証明できないから盲信だ」など誰も言ってません。科学的な証明が信仰の価値を左右するなんて誰も思ってませんよ?むしろ科学を仏教と結びつけたのは、「因果律に基づく仏説は、科学そのものといっていい」と宣った渡部氏の方です。だから「仏教の因果の道理は証明以前の公理でありそれを受け入れるかどうかは個人の問題」とは、西田氏に言われるまでもなくアンチ側の渡部批判の結論なのです。

因果の道理=科学そのもの(証明可能)→渡部氏
因果の道理=公理そのもの(証明不可能)→西田氏

このように、西田氏の主張は渡部氏の主張と全く矛盾します。反論を曲解する。反論のたびに言うことがコロコロ変わる。講師部の不一致にはもうウンザリです。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 05時47分

ここまで来たら、残っている人は、真実がどうこうとか、教えがどうこうとかじゃなくて、会長への盲信や会員同士の人的繋がりじゃないのかな?
 会長の存在が大事な人は、話が聞けなくなったら、やめると思う。でも、会長が説法できなくなっても、息子が会長になってでも辞めない人は会で居心地がいいんだから。息子以外の別の講師が会の組織を引き継いでも離れない可能性がある。
 信心決定が目的だった自分には善知識だのみも会員同士の連帯も何にも、価値がなかったけど。上記のものを求めている人にとっては、教えが間違っていて、助からないものでも、そんなの関係ないんでしょうね。
 みんな言っているけど、もう会は、邪教と非難していた他宗教と全然変わりないね。当の本人の会員さん達は気が付いていないのは悲しいけど。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 08時46分

会長や組織への盲信や追従をやめて、早く脱会したほうがよいっていうのはそのとおりですね。あと、いくら会が説いている教義の間違いを論じていても、経典そのものが間違ったことを説いていないとも限らないし。

でも、それでも親鸞会が説いている教義内容の検討は、現役会員にも元会員にも等しく必要な作業だと思いますよ。というのも、

高森会長は「死んだら全人類は地獄に落ちる」と説いた

これだけなら単なるカルトによるマインドコントロールだし、会から離れれば、トチ狂った一老人のたわごととして片付けることも容易でしょう。

しかし、

「死んだら全人類は地獄に落ちる」と仏教では説かれている

と言われるとどうでしょう。会から離れて、会長や会員同士の繋がりを絶っただけでは、上の教えを間違っていると一人で確信することは難しいと思います。また、仏教そのものが正しいことを教えているとは限らないと自答してみたところで、2500年もの間、世界中の人間から信じられてきた教えを否定して相対化するのってとても勇気の要ることですよね。

だから、まずは『親鸞会教義の誤り』や『清森問答』『私の白道』といった批判サイトを参照しつつ、実は会の教義は仏教とは何の関係もないことを自分で確認する作業が必要になると思います。親鸞会の教義が浄土真宗でも仏教でもないことを確認した上で、仏教が自分の信じるに値するものかどうかは改めて決めればよいわけだし。

会から離れて、会の教えがなくても、安心して心から幸せに生きていくためにも、親鸞会の教義なるものをしっかり見究めていきましょう。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 10時43分

現在の状況で親鸞会に残っている会員って、ネットを見ていない人ばかりなのかな。
そらごとたわごと言うなら、その、そらごとたわごとを極度に恐れているのも変な話なんだけどね。外を見ないように子供部屋に閉じこもって、詐欺師を祀り上げている『自分』にきっと満足してるんだろうなぁ。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 18時49分

仕事が忙しい ~しないといけない やる事がたくさんあって、ネットを見ている暇がない。これって、信心決定を諦めている姿でしょ? 
 いろいろな理由つけて結局、阿弥陀仏からも仏教からも怖くて、逃げているんだよね。だからネットも見ようとしない今まで積み上げてきたものが崩れるのが怖いし、失いたくない。だから、簡単にわかり易く話してくれる詐欺師の間違いだらけの助からない教えを簡単に疑わずにかんかんに信じちゃうのかな?
 自分が正しいと思いたいんでしょ?自分が信じている会長を悪く言われると自分が悪く言われているように思えるんでしょ?
 電話座談会見たいな人を小ばかにした事されたんだから、怒りなよ。ふざけるな。いい加減にしろ。F館のお金返せ。まだまだおこんなよ!
 現役の人も、やめた人も、教えを、うやむやで済ませられない人多いでしょ?それなら、どうせだから、この際、例えば、元講師のKさんやMさんは信心決定しているって言っているんだし、ブログの電話番号に電話して思い切って聞いてみなよ。彼らのブログのリンク先のY顔さんや常住コメンテーターのHさんたちも紹介してもらって、直接、いろんな人捕まえて、片っ端から、気が済むまで、信心の沙汰でもしてもらったら?人を見ないで一方的に間違った教えを垂れ流す某会の会長よりずっといいよ。

投稿: | 2009年11月12日 (木) 22時55分

会長以外で信心獲得できないんやから。会長が信心獲得するわけやないが、同じようなもの

投稿: | 2009年11月13日 (金) 06時35分

パソコンで見れなくても、ケータイからアクセスできるのに見ないんだもんね。

会員にとっては、教えの真偽は自分の一生がかかっていると言っていい問題なんだがなぁ…

求道の妨げになる、群賊悪獣に耳を貸してはならんとか思ってるのかな?

だとしたら勘違いも甚だしい。

親鸞会では
・定善(心を静めて阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべる座禅や観法)
・散善(心散り乱れたままでも阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべて、悪を廃して善を修める)
をしなければ信仰は進みませんよと言って実行をさせようとしている。

信仰を進める目的は助かりたい以外にないが、そうやって助かろうとしている心を定散自力の心という。

愚禿鈔には、
「群賊悪獣とは、…定散自力の心なり。」
と書いてある。

つまり、群賊悪獣に騙されるなと言われる一方で、会長によって積極的に群賊悪獣と付き合わされてるのが、今の会員なんだよね。

俺に「(群賊悪獣と)ダンス踊ってれば!」と非難してきた人がいるけど、彼もその1人。

何とか目覚めてほしいけど、難しい…

投稿: | 2009年11月13日 (金) 08時18分

阿弥陀仏の本願で救われるのであって、それ以外の仏でも、ましてや会長に私たちを助ける力などない。
 
 この事がよくわかっていないから、善知識頼みになるんじゃないの?
 本来なら、救われた人は喜びの連帯感が出るんだろうけど。それが、出来たら、喜びも何倍にもなるのだろうけど。信仰と人格は違うから難しいのかな?
 
 会長が本当に信心決定しているなら、歴代の善知識がされているように、信後の会員さん達と喜びを分かち合うはずだけど。そんな話は聞いたことがない。自分の所に信心決定したいと個人的に沙汰をしに来る人を喜んで、受け入れ、話したくて仕方ないだろうけど、それもない。かえって会員さんを遠ざける始末。沙汰するには手紙を丁寧に読んだり、相手の言っている事をよく聞くことから始まるけど。世間の精神科の医者でもしている。つまり話を聞かないのは、会員さんの幸せなど眼中にないのと同じ事。馬鹿にしている世間ごと以下。
 こんな人を人生の師と仰ぎ、自分の大事なお金や時間、体力費やしてもいいの?人を導く力もないし、尊敬にも価しない、カルト宗教で欲を満たす宗教詐欺師についていくのもよし。誰かが言っているように、自分がこの人だったら聞きたいと思う人に、思いきって、アプローチするか。人生の岐路に立っている今を大切にした方がいいよ。
 

投稿: | 2009年11月13日 (金) 08時53分

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