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投稿:会員の後生を見捨てた布教局長のおかげで目が覚めた(2)

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○親鸞会の教義がおかしくなってきた。
○長年活動をしていた人間的に信用出来る人が、誰にも本音を言わずに辞めていった。
○確認書という名の奴隷の誓約書を書かされた。
少なくとも、親友部員は辞めた方が良さそうだと春頃には考え始めていました。

日曜日の度に、高森会長の説法がある度に苦しくて苦しくてどうしようもなく、ある人に相談しました。その時恐ろしい事実が判明しました。サンキューの営業や寿司をつくる仕事等で、なかなか聴聞出来ないY店長がある時「会長先生のご説法を聴聞出来る環境にしてもらえないでしょうか」(具体的には店を休業する、代わりが出来る人に応援に来てもらう等です)と布教局長に嘆願しました。それに対する返答が「聴聞は自分の責任ですることだ、自分で何とかしなさい」だったのです。

Y店長は布教局長と何十年来の付き合いがあるそうです。店長の奥さんは布教局長が入会させた程です(Y店長本人からは滋賀県の店をたたんで富山県に来たのは、布教局長がサンキューの総責任者だったから信頼出来ると思ったからだと聞きました)。それだけ縁の深い会員で、しかも直属の部下であるY店長の後生さえ心配出来ない、そんな布教に会員1人1人の後生を心配出来るはずがない、そうとしか考えられません。それを見抜けないのか、確信犯なのかはわかりませんが、聴聞に極まるという最重要の教義さえ理解出来ていない光晴氏を布教部門の最高責任者に任命している高森会長にも、強い疑念を抱かざるえなくなったのです。

その日は、もう頭の中は真っ白で、先は真っ暗な状態でした。私は親鸞会に、高森会長に騙されていたのだろうか?騙されていたのかもしれない、という考えが浮かぶことさえ苦しくて辛くて・・・、数日間悩み続けました。

5月末に行われた高森会長の親友部員対象(講師部も参加はしていました)の座談会も私の気持ちに影響がありました。これは急遽行われたにも関わらず、1人5000円の御法礼が各部門毎に集められました。

親友部員が質問して、高森会長がそれに答える形式でした。その中で特に印象に残った質問があります。親友部員のある女性が、「先日の懇親会(福徳会員対象)で会長先生は『私達がどんな活動をすることを阿弥陀仏が望まれているのか、その御心を知って活動することが大切だ、私は常にそれを考えて活動をしてきた』と仰られたと参加者から聞きました。新型インフルエンザが流行している今、私達はどのような活動をしたら良いのかよく考えます。阿弥陀仏は私達にどんな活動を望んでおられるのでしょうか?それを知るにはどうしたら良いのでしょうか?」というような質問をしました。

高森会長の答えの結論だけをいいます。「本師本仏の阿弥陀仏の御心がわかるのはお釈迦様のような仏様だけだ、私達人間にわかるはずがない」でした。

座談会は1日の予定でしたが、途中で高森会長が不機嫌になってしまい「こんな本音を言えないような、堅苦しい座談会をしたかったのではない、こんな雰囲気なら午後はやらない」と言い午前の部が終わりました。午後はなんとか予定通り行われましたが、その影響で人生相談のような座談会になってしまいました(後輩に注意する時気を付けるべきこと等)。午後は教義的な内容はほとんど出ず、ハッキリ言えば時間の無駄でした。事前に5000円の御法礼を集めて、100人以上の親友部員が仕事を放り出して集まった(講師部も含めると約300人)にも関わらず、会長は堅苦しい説法をしたくない、と言ったのです。それに疑問を持たない周りの親友部員にも疑問を感じました。

高森会長は「一緒に徳水館に入りながら話すようなざっくばらんな、こんな内容の座談会がしたかったのだ」と言っていました。では、なぜ5000円という普段の行事と同じ額の御法礼が徴収されたのか、私には理解出来ませんでした。もしも高森会長が親友部員と仲良くしたいという意味での座談会だったならば、会長から『今日は阿弥陀仏の救いに関して以外の話をしたから御法礼はみんなに返す』とあって当然だと思いました。

なお最近の顕正新聞に漫画が増えているのは、この座談会が原因です。参加した親友部・講師部に対して、会長が「みんなは、漫画は好きかな?」という問いをしました。それに対して全員が「イエス」という返答をしたからです。

その後、同朋の里でもある支部対象で高森会長の座談会が行われたそうです。しかし、同じ敷地にあるサンキューで働いていた会員や、すぐ側の本部会館でビデオ御法話をしていた支部の会員は、その事を知らせてもらえませんでした(会長座談会があることは、事前に施設課等の何人かで準備をしたそうですので、当日急遽決まった訳ではありません)。どんな人にも死んだら後生に大変な一大事があると50年以上会長自身が説いてきたにも関わらず、聴聞出来るはずの会員の後生が無視されたのでした。

高森会長も信用出来なくなり、光晴氏という最悪の縁から早く離れたいと思い、親友部員を辞たい旨を上司に伝えました。I親友部長やT店長、Y店長等の人からは私の今後(求道と再就職)について心配されました、もちろん説得もされました。当然のことながら、高森布教局長が私を心配しているという事は、誰からも聞きませんでした。

梅雨になる前に親友部員を退任しました。その時にはまだ、親鸞会の会員は続けるつもりでした。

2週間程たって落ち着いてからインターネットを検索すると、親鸞会の問題点を示すサイトを見つけ、その多さに驚きました。私の白道、さよなら親鸞会、苦笑の独り言、安心問答、清森問答、高森先生の親鸞会教学を検証する、捏造と捏造された不倫事件の真相等はもちろん、親鸞会側のサイトもすべて見ました。

まず情報の正確さにビックリしました。その中にあった会長の食生活に関して3つの出来事を思い出しました。

1つ目は私が顕真学院任務の時に1年間以上の長期間にわたって、本部の行事の時、12時25分頃正本堂6階配膳室にいっていました。高森会長に味噌汁の味見をしてもらうためです。顕真学院では、美味しい味覚(高森会長好み)も学院生に学ばせなければならないという理由でした。

2つ目はお忙しいはずの高森会長が、麺の出汁やタイヤキの味見をしに1週間に何回もサンキューに来ていた事です。麺の出汁の味には特にこだわり、会長は「売れないのは味が悪いからだ」と言ったり、「こんなもの食べれるか」と食べかけの丼をひっくり返したりしていたとパートさん(非会員)から聞きました。なお、会長が旨いと言ってから半年経っても麺の売上は変わりませんでした。

3つ目は、私がレストラン祇園にいた頃に、O料理長(非会員)の出す料理に会長が点数をつけていたこととです。会長は極端な好き嫌いがあり、出した料理には必ず食べ残しがありました。すべてのお金や物は仏法領と指導しているにも関わらず、です。

私が1番衝撃を受けたのは、私の白道です。元講師の方の苦しみが自分の事のように感じられました。そして、光晴氏が部下と不倫をしたらしいこと、それ以上の問題である、高森会長が不倫事件を無理矢理揉み消したことが事実だとわかり(万一捏造ならば法的手段ですぐに閉鎖されるはずです)、これまで不可解だった事が繋がりました。

光晴氏は自分の名誉や立場の保身、色恋沙汰にばかりに目がいっているから、会員1人1人の後生を心配出来るはずがないのです。様々な証言と私自身の体験から導き出されたのは、光晴氏は会員の後生を心配するどころか、後生の一大事そのものを信じていないという答えでした。

そして、そんな光晴氏の心に講師部の幹部は気付かないのか・・・?と考えた時に、私が顕真学院で仕事をしていた頃の事を思い出しました。

学院では「組織の私物化は絶対してはならない」と、学院生に対して厳しい指導があります。ところが学院長や教授(上司)の立場にある講師部員は、かなりの我が儘をしていました。食事に『各講師のこだわりや好き嫌い』がありました。例えばメニューが豚カツの時、肉を食べない講師には別に焼魚を用意しました。丼(ご飯の上に何かをかける料理)が嫌いな講師(個人的信条が理由)には、わざわざご飯と別の食器に丼の具を盛り付けました。各講師の個人的な我が儘が、些細なこと(フォークを使わない講師の席には置かない、食器を置く位置等)も含めて、たくさんありました。

運転出来ない学院長がパーマに行くのに、親友部員が(任務時間中)送迎をすることもありました。これらは振り替えって考えると、正に組織の私物化でした。顕真学院等での指導は立場が弱い者への建前で、光晴氏やそれに類する人達は、おかしな言動を数え切れない程していました。

私が最も気になっていた高森会長の説法内容(教義)が変化してきた原因は、チューリップ企画の山田氏と田中氏の法論だとわかりました。1番大事な阿弥陀仏の18願についての間違いを指摘・暴露されたために、辻褄合わせをしようとしたことと、年老いて思考が衰えてきたことが重なった結果、教義の様々な歪みが目に付くようになったのでした。

しかも『最近の高森会長の説法・教義』が間違っているのではなく、『根本から間違っている教義』を、説法の上手な高森会長が『巧みな話術と断章した聖教の御文』で正しいと錯覚させていたことが最近証明されています。(親鸞会教義の誤り等を読むと、高森会長は阿弥陀仏を軽視していて、教義を論じる以前の問題だとわかります)

騙されていた自分があまりにも無様で、情けなくて、悔しくて、辛くて、それを認めたくありませんでした。心の涙がとまりませんでした。しかし、これ以上傷口を広げたくない、ただその一心で、一刻も早く親鸞会を辞めようと思いました。

それから、本部会館に支部長宛の手紙を、以下の内容で出しました。インターネットを見て、親鸞会教義と組織の間違いがわかりました。支部長には大変お世話になりましたので、警察沙汰にはなりたくありません。今後は一切電話や手紙等で連絡をして来ないでください(要約)です。親鸞会の本尊(正しくありませんので単なる本尊です)も同封して、書留で郵送しました。

その後は、私の後生の心配よりも警察沙汰にしない方が重要なのか、支部長からの連絡は一切ありません。

この投稿を目にされた皆さんへ

私はレストラン祇園、顕真学院、サンキューと働いていました。親鸞会に対する怒りはもちろんありますが、幸い私はまともなところに就職が決まりました。相談にのって下さった元会員の皆さん本当にありがとうございました。

この投稿文を関係者に読まれたら、投稿した私が誰かすぐわかります。親鸞会の内部でどれだけ酷い悪口を言われるか、わかりません。しかし、皆さんに少しでも親鸞会の隠された実態を客観的に知ってもらいたい、と願い投稿しました。

私は自分がなぜ親鸞会に魅いられてしまったのか考えました。すると私は、これまでの人生で、毎日の生活の中でや未来に感じる不幸の数は1から10まで数えているが、幸せの数を数えようとしなかった心が本であったと感じました。そこからくる不安な思いを助長され煽られて、『必堕無間』と刷り込まれて、高森会長は真実を教える人だと信じ込まされてしまったのだと思います。

私は皆さんが単に親鸞会を辞められるのではなく、1日も早く高森親子の呪縛から解き放たれて、意識改革をされて、自分自身が本当に幸せになれる未来へと向かって踏み出されること、それだけを願っております。

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投稿:会員の後生を見捨てた布教局長のおかげで目が覚めた(1)

私は大学生の時に親鸞会に勧誘されて、その後親友部員になりましたが、高森光晴布教局長のおかげで、今年退会することが出来ました。

昨年11月に親鸞会結成50周年記念大会がありました。親鸞会では『聴聞は親鸞学徒の命』『高森会長の直の説法を命懸けで聞かねば絶対に救われない』と常日頃から言われています。まして50周年大会です。これを聴聞しなければ、人として生きている意味はない、そんな者は阿弥陀仏に絶対に救われない、という雰囲気でした。

布教局長も日本各地や海外で「親鸞学徒の皆さん、万難を排して、後生の一大事解決のために、2000畳で善知識から、高森先生から聞かせて頂きましょう」等と、高らかな声で決死の聞法を勧めていました。

その頃の私は、サンキューの麺コーナーで任務をしている親友部員でした。麺コーナーはY店長責任の下で、麺類と寿司を作っていました(現在はあんしん弁当の横に寿司工場があり、1000万円以上の機械も設置されており、会長が百味寿司と命名しました)。

「50周年には、普段よりも大勢の会員が当然集まるだろう。会長先生は遠方から来られる会員さんに旨い寿司を食べてもらいたいと思われているんだ。その分たくさん寿司を作れないか」という指示(要約)が、事業部長である高森光晴布教局長からY店長にありました。

普段、行事日に作る寿司の量でさえギリギリでした。前日までに極力準備をして、当日の朝5時前から始めても完成に10時頃までかかりました。しかし、会長先生の名前まで出ている布教局長からの指示に、出来ないとは言えるはずがありません。Y店長は毎日頭を悩ませていました。

最終的に、50周年大会の1日目には当日販売用の寿司を通常の2倍の量、2日目は1日目の量に加えておとき用の寿司も100パック程作ることになりました。

量は普段の2倍ですが、握り寿司を作ることもあり、作業の手間は3倍以上になりました。(手が足りず握り寿司のネタは、生よりも味が落ちる冷凍の切身になりました。冷凍で良いから作るように布教局長から指示がありました)

当然人手が足りず、寿司に集中するために、麺コーナーの営業を休みたかった訳ですが、布教局長の許可がおりません。人手が足りないなら派遣社員を雇えと言われ、高い給料で素人の派遣社員を雇うことになりました。

Y店長は私に「自分は会長先生の御心にお応えするためには聴聞に行けない。責任者として寿司を精一杯つくる。お前も先生の御心に応えるために、我慢して寿司をつくってもらえないか」と言いました(店長からは強制ではありません)。

いくら会長先生の御心に応えるためとは言いながら、聴聞をせずに寿司を作っていていいのか悩みました。改めて言うまでもなく聴聞は親鸞学徒の命です。それに50周年大会の御法礼が2日で5万円と普段の報恩講以上に高額なのは、それ程大切だという意味と受け止めていました。また数年前、会長先生の説法中に弘宣部ビルまで荷物(係の任務に必要になった)をとりに行った親友部員が、親友部合宿で大問題にされていた事も印象に残っていたからです。

しかし・・・、Y店長の困りようを考えると、店長を見捨てて自分だけ聴聞にいっても良いのか?何日も悩みました。

聴聞と会長先生の御心を天秤にかける判断力は私にはないと思った結果、事業部長である高森光晴布教局長に、伺いたいと考えました。また通訳や看護等の係の任務で、当日まともに聴聞出来ない人は、後日特別にビデオ聴聞していることを知りました。それらの事を無難な表現を考えて、会長先生に1番近く、御心に1番近い布教局長に伺おうと考えました。

50周年大会の数日前、サンキューのEマネージャーに「会長先生の御心にお応えするために寿司を精一杯つくると、50周年大会の当日聴聞出来なくなります。そこで、後からご説法をビデオ聴聞させて頂きたいんです。布教局長に許可を頂きたいので、伺ってもらえないでしょうか」とお願いしました。こう伺えば50周年当日に、寿司づくりと聴聞どちらを優勢すべきか布教局長に判断して頂ける、私の心得違いを叱責されてもいいと覚悟してお願いしました。

バタバタと準備していると、あっという間に50周年記念大会当日になりました。

1日目は、完成した寿司を正本堂2階のサンキューの出店に並べ終えたときには、すでに11時50分でした。走って大講堂に向かいましたが、大講堂は一杯で中にも入れず、会長先生の顔も見れず、説法も最後の数言しか聞けず、すぐ恩徳讃になりました。

2日目、大講堂に正座出来たのは11時40分で、少しだけ聴聞出来ました。

50周年大会が終わった翌日、布教局長からの返答をEマネージャーに尋ねたところ、まだ伺っていないと言われ、心臓が止まるぐらい、びっくりしました。

布教局長の許可を得ずに、無断で会長先生の御説法中に寿司を作っていた事になってしまうからです。

50周年という最重要な御説法に無断欠席したのだから、ビデオ聴聞出来ないばかりか、私の聞法姿勢を問題にされて親友部員退任になるかもしれない、と覚悟をしました。

しかし、翌日マネージャーから、ビデオ聴聞の許可を布教局長からもらえたよ、と軽~く言われました。詳しく尋ねると、布教局長は気にされた素振りが全くなく、ビデオ聴聞していいという許可をもらっただけだと聞き、驚きました。

親鸞会では、上司の許可なしに行動すると、大変な問題になります。それを50周年大会という親鸞会史上最も重要な、これを聴聞しなければ親鸞学徒でないという会長先生の御説法を、無断で聞かなかった。しかも寿司(予約があったのではなく当日販売用)をつくっていたのが理由です。通訳や看護係のような、どうしても会員でなければ支障が出る任務ではありません。それなのに、おとがめが全く無しなのは、なぜなのか・・・?

そして心の中にあった、ある思いに気付きました。会員1人1人の後生を念ずる立場である高森布教局長に伺ったならば、寿司作りなんて馬鹿な事をせず聴聞しろ、と言われるだろう。そうでない場合でも、会長先生の御心に応えるためにするのだし、会員の皆さんが喜ばれるのだから、自分で決めたら良い、しかし後生の一大事は1人1人の問題だぞ、というような返事があると私は期待していたのでした。

高森光晴布教局長は親鸞会布教部門の総責任者です。親鸞会の中でも、会長先生の次に会員の後生を念じていて、会長先生に最も近い場所でその御心を感じでいるはずの人です。そんな布教局長が50周年大会を無断で聴聞しなかった親友部員に無関心だったのです。

50周年大会を聴聞しなかった事について、私は誰からも注意を受けませんでした。聴聞出来なかった事を知った一部の人からは、腫れ物を触るような対応を受けました。私の心には、布教局長と親鸞会に対する疑念が生まれました。

50周年大会の次の土曜日の夜、広宣部ビル5階でビデオ聴聞しました。しかし、私の心にはポッカリと穴が空いていて集中出来ませんでした。ビデオの最中ずっと、以下のような考えが頭の中をグルグルと回っていました。

私がサンキュー配属になってから、いろんな人から会長の説法を聴聞出来ているか心配をされたな。サンキューは休業日も無く、会長先生の御説法中も営業していたから。

I親友部長は、聴聞出来るように配慮してやって欲しいとY店長に言われていたな。ある親友部の課長からは、君聴聞出来てるのか?大丈夫か?と私と顔を合わせた時に周囲をはばからず心配されたな。支部長からも(任務に口出しは出来ないという意味を暗に含みながら)聴聞が1番大事だから、大変だけど少しでも先生から聞かせて頂けるようにしないとね、と何度も言われたなぁ。

布教局長からは、聴聞や後生を言及されることは一度もなかったなぁ。私だけでなく、Y店長や他のスタッフに関しても聞いたことがない。サンキューは、布教局長直轄の組織なのに。親鸞会の厳しい上下関係を考えれば、理由なんてなくても布教局長の一言で簡単にスタッフの行動を左右出来るにも関わらず・・。

そして、もし私が知らなければ、私が伺わなければ、私やY店長はビデオ聴聞さえも出来なかったことにも気付き、愕然としました。

50周年大会後、会長先生の御説法の日には勤行の時間に間に合うように到着しなさい、遅れる場合は時間と理由を担当支部長を通して布教局長に報告する制度が出来ました。

年が明けてから寿司工場が出来て、普段から寿司をつくる量が増えました。それからは勤行どころか会長の説法開始時間に、私は何度も間に合いませんでした。酷いときは11時で、到着してみると中休みの時間という事もありました。Y店長はもっと酷い状態でした。

Y店長の事はわかりませんが、少なくとも私が遅れることは、私は担当支部長に毎回報告しています。それを支部長は布教局長に報告しています。遅れて入るときには、正面玄関で中に入る時間と支部・名前を名簿に書いて入り、それらはすべて布教局長に報告が上がって、目を通しています。(遅れた会員がいる支部長は、注意を受けている事からわかります)しかし、何ヵ月たっても布教局長から、私やY店長に対する叱責や改善命令はありませんでした。

状況は悪化していきます。『売上金額』(利益ではありません)を伸ばさないと布教局長から叱責されるため、行事の度につくる寿司の量が増えていきました(普段の売上を伸ばす事は不可能ですから)。しかし、人手は増えません。

そんな最中、1月の教学講義で高森会長は阿弥陀仏の18願に死後の救いを約束されていない、と言いました。3月には、「易往爾無人」と聞いたとき、お釈迦様頭がおかしくなったんじゃないですか?と思わなければ求道は始まらないと言いました。大無量寿経の「易往爾無人」の前後をちゃんと読めば、しっかりその理由をお釈迦様が解説されているにも関わらずです。

その上、Eマネージャーが退職という通達が流れました。その時辞める理由を誰も知りませんでした。会長先生の教えられる事に間違いがないと言っていた会員歴30年近い人にも関わらず、退職していきました。

3月には親友部員全員に、サービス残業を強制する「確認書」が何の説明もなしに配られました。サンキューでは、会員の従業員の残業時間は毎月最低100時間以上です(パートは除きます、また休みは多い人で月に1日か2日です)。月に70時間の残業で過労死ラインですが、最低でも1.5倍です。もちろん誰も残業代を請求したことはありません。それは1人1人の志からです。

何の説明も無しに、サービス残業を強制させる文言を書かせる用紙を配る。しかも親友部員は採用された直後の給与は手取り約1、2福(あえて関係者にしかわからない単位で書きました)です。親友部になったのは、お金のためではないとは言いながら、この仕打ち・・・、奴隷になれという意味だろうか?法律上の問題や倫理道徳、人としての信義等を考えると、高森会長や布教局長等の上層部は頭がおかし・・・としか思えませんでした。

(2)へ続く

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がんばれ、明橋大二先生!

親鸞会の特専部幹部であり、有限会社高森顕徹事務所の役員である明橋大二さんが、テレビ寺子屋を降板になりました。詳しくは「やや日刊カルト新聞」に書きましたのでそちらを読んでください。

テレビ寺子屋から明橋大二が降板(やや日刊カルト新聞)
明橋大二医師と親鸞会

「テレビ寺子屋」については既に録画分の放送が全国ネットで予定されており、それが全て中止になり他の講師に切り替わりましたから、テレビ静岡としても相当の決断をしたという事になります。以前「笑っていいとも」を降板になったときは「冬になると富山から東京への飛行機が欠航するから」というよくわからない理由を本人が語っていますが、今回はどんな言い訳をするつもりなのか興味のあるところです。

ここで知っておいて頂きたいのは、私はあくまで明橋氏が「医療や講演活動を通じて親鸞会の布教をする」と重要な公言をしているから、その事実を多くの人に知ってもらっているだけであって、明橋氏本来の著作や講演の内容については何ら批判しているわけではない、ということです。

私自身も子を持つ親として「子育てハッピーアドバイス」一連のシリーズはもっとも参考にしている育児書ですし、「忙しいパパのための子育てハッピーアドバイス」は熟読し自分の子育てへの取り組みを反省しました。彼の講演の内容についても度々講演録が送られてきますが実に勉強になり、一度直接お聞きしたいくらいです。

明橋氏が一貫して主張しているのが「自己評価を育むことの大切さ」であり、これはカルト問題を考える上でもとても大事なことです。というのはカルトの信者は教祖や教団への極度の依存状態にあることが多く、また教団もそのように信者に教え込む傾向があるからです。

自分の判断や思いに自信がもてず、「人生の目的」とか「生きる意味」といったことについて自信を持って断言する人がいると、根拠もないのにそれが正しいもののように思い込んでしまうのです。そしてカルトの内部にいる人は否定するでしょうが、組織内での月日が経つにつれ、組織や教義の正当性について考えることを自ら放棄するようになります。自分の判断よりも組織のほうが正しいと無条件に思い込んでいるわけです。

つまり「こんなのおかしいな」「変じゃないか」と思っても、「そんな風に疑っている自分がおかしいのだ」と自分の思いや判断に価値を置けなくなってしまうのです。

一方明橋氏は自己評価を育み、今のままの自分を認めることで、「自分は存在価値がある」「生きてていいんだ」という思いを持たせることが大切だと教えています。これは苦笑氏が指摘するように、親鸞会で教えていることと真逆です。

親鸞会の講師・職員の教育機関である顕真学院では、一人一人の思いや判断など何の価値もなく、会長の高森顕徹や組織に無条件で従うことに価値があるのだと教え込みます。閉鎖的な環境で徹底的に自己否定と他社依存を強いる過程において、少なくない人が心の病にかかり明橋氏の診療を受けています。

明橋氏は顕真学院の責任者に対して、教育内容に問題があるのではないかと指摘していると聞いたことがあります。私は彼はすべて分かっているのではないかと思っています。

勤め先の真生会の実力者の中には、収益にあまり貢献しない、高森会長に精神科は必要ないといった理由から明橋氏にたいして冷淡な者もいると聞いていますが、高森会長にも親鸞会にももっとも今必要な人間が彼であることは言うまでもありません。

まず明橋大二氏自身が親鸞会への依存を断ち切り、親鸞会の問題を勇気を持って見つめ、判断し、内から声を上げて欲しいと思っています。

そして明橋さん、「大学時代に(阿弥陀仏に)救われた」などというウソはつかないことです。教育者としても信仰者としても真面目であっていただきたい。真面目じゃないから未だに親鸞会にいるのかもしれませんが。

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投稿:裸の王様

皆さんのよくご存知の「裸の王様」。S会のT会長と講師・会員の関係によく似ていますね。

大きく違うのは原作では詐欺師に騙された最大の被害者は王様ですが、S会では王様に相当するT会長そのものが大詐欺師であることです

以下は原作のあらすじです。(引用:Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98

新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来る。彼らは何と、馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている者には見えない不思議な布地を織る事が出来るという。王様は大喜びで注文する。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えない。王様はうろたえるが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかない。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒める。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨む。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、こう叫ぶ。「王様は裸だよ!」


さて、以下はS会の状況です。

お金と名誉が大好きなS会のT会長は蓮如上人以降で唯一の大善知識という触れ込みでやって来る。彼は何と、「仏縁のない者」や「求道心の弱い者」には分からない不思議な徳があるという。専任講師には分かるはずの会長の徳が分からない。専任講師はうろたえるが、幹部会員たちの手前、本当の事は言えず、ありもしない会長の徳を褒めるしかない。

「蓮如上人以降で唯一の大善知識です」
「親鸞聖人のみ教を正しく説きくださっているお方です」
「優れた教学の持ち主です」
「すばらしい文章を書かれるかたです」
「法論で本願寺を破られたかたです」
「全人類が救われるため、ご自身のことは全て犠牲にされています」
「師はおられず、親鸞聖人に直接導かれ救われた方です」
「いろいろの施設を建ててくださるのは全て私たち(会員)の後生のためです」
「経済にも明るい方です」
「深いみ心をお持ちの方です」
等々

幹部会員は幹部会員で、自分には分からないもののそうとは言い出せず、同じように会長の徳を褒める。騙すことができると確信した会長は、ありもしない徳を持っているとの触れ込みで説法に臨む。一般会員も「仏縁のない者」や「求道心の弱い者」と思われてはいけないと同じように徳を誉めそやすが、その中の目覚めた会員の一人が、こう叫ぶ。

「真宗史上最悪の悪知識だよ」
自分の欲得を満たすために親鸞聖人のみ教を捻じ曲げて説いている奴だよ」
「でたらめな教学だよ」
「盗作を平気でやる奴だよ」
「本とうは法論で本願寺に勝ってなんかいないよ」
「会員を搾取し、自分の欲得を満たしている自分勝手な奴だよ」
「師のいたことを隠し、こともあろうにかつて所属していた団体を根も葉もない言いがかりをつけて中傷している恩知らずだよ」
会員からの浄財を使っていろいろの施設に自分専用の豪華施設を造って平気な奴だよ」
「株で大損。始めた事業は全て赤字続き」
「深いみ心なんてない。思いつきで言っているだけ」
等々


さた、まだS会の会員の皆さん、T会長の姿を直視し、自分の心に正直になってください。どのような叫びが聞こえるでしょうか?

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投稿:親鸞会の会員へ

教義についての公開討論は拒否、教義の誤りを指摘したメールは無視。

上は支部長から次長、会計、副支部長、班長、班員に至るまで、親鸞会はいつからこれほどまでに逃げ腰の臆病者になったのだろう。

教義上の誤りを指摘されながら答えられないような教えを、よく信じて弘めているよね。

君らの理屈からしたら俺は法を壊つ者だが、野放しにしといていいの?

『破邪顕正せざる者は仏弟子にあらず、仏法中の怨なり』じゃなかったっけ?

仏法中の怨が親鸞聖人のお名前を語って外道の教えを説くな。

外道の親鸞会こそ無間地獄に堕在して八万劫中大苦悩、免れることはなかろう…


君たちは一向専念無量寿仏とは聞いてはいるが、実態は一向専念高森会長だからいつまでたっても助からないよ。

それはなぜか?

阿弥陀仏の救いに条件をつけ、多念の救いにしてしまっている会長を盲信し、トンデモない解説を鵜呑みにしてしまっているからだ。

親鸞会は、阿弥陀仏の救いは無条件の救いなのに、善をしなければ…と条件をつけている。

そして、善をして信仰が進んでから信心決定するかのように説いている。それではもはや一念の救いではなく、多念の救いだ。

阿弥陀仏の本願を、そんな説き方をする会長から聞いて信じているから、一向専念高森会長と言っているのだ。


親鸞聖人は、善導大師の『汝一心正念にして直に来れ…』のお言葉を愚禿鈔に解説されているが、その中で、
「『直』の言は廻に対し迂に対するなり、又『直』の言は方便仮門を捨てて如来の大願他力に帰せんとなり」
と仰っている。

方便仮門を捨てて如来の大願他力に帰すのはいつか?

善をして信仰が進んでから他力に帰すのではない。

たのむ一念である。

それはいつか。

『この身今生ただ今のことです。今救われずして、救われる時はありません。』と、どこかのアニメでも言ってる通り、大願他力に帰すのはただ今のことなのだ。


阿弥陀仏は十劫以来「直に来れ」とお呼びずくめですよ。

それを親鸞会では『善をしなければ信仰は進みませんよ』などと言い、会員を救いから迂回させてしまっている。

定善散善(親鸞会の勧める善は十九願の通りの善になっていないから定善散善とは言えないが)は迂回の善ですよ。

そのことを親鸞聖人は、
「横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。」(教行信証信巻)
とはっきり仰っています。


そして会長は、君らをどれだけ迂回させて救いから遠ざけているのかわかっているんですか?

「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし」(教行信証化土巻)

二念三念、二十年三十年どころか、微塵劫よりも長い間迂回させているのですよ。

私達は無常迅速の機、直ちに十八願真実他力の法によらねば絶対助からない。

十九願の善をせよなどと言っている場合ではないのです。


その阿弥陀仏の御心を踏み躙り、ねじ曲げ、破壊している罪はどれほど重いか。

全人類の救われる、たった一本の道を破壊している罪ですから、大恩ある親を殺す罪、多くの人を殺す罪より重いと、いつも十分間説法で聞いている通りです。

それに気がついたなら、一刻も早く悪知識の元から離れなければなりません。

そして、周りの人達に教えてあげることです。

それがあなたを救うことになり、多くの人を救うことになるのです。

「俺の指示に無条件で従え」と、弟子に朝晩言わせる師匠は独裁者であり、決して善知識ではありません。

親鸞聖人は剣をかざして殺しに来た山伏弁円に対してさえ、「御同朋・御同行」と親しく弥陀の本願を説かれたことは、今に有名な語りぐさだといつも聞いているではないですか。

阿弥陀仏への無条件服従を、自分への無条件服従にすり替えている会長は、悪魔外道の親玉であり、仏法者でもなければ、親鸞学徒でもありません。

もはや会には自浄能力は望むべくもありません。早く目を覚まして、深い迷いから離れて下さい。そのことを切に願います。

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オウム真理教元幹部 広瀬健一氏の手記

先日11月6日に地下鉄内でサリンを散布したオウム真理教元幹部、豊田亨(41)、広瀬健一(45)被告の死刑判決が下されました。

その広瀬健一氏が去年、「学生の皆様へ」と題した手記を書いています。学生に対してカルト宗教への入信阻止するためのメッセージとして書いたものです。

長文であり活字でもないので多少読みにくいかもしれませんが、心を打つ内容であり、是非当ブログの読者の皆さんに読んでいただきたいと思い、ここに掲載することにいたします。

http://tochugesha.web.infoseek.co.jp/shiryo.html
※このページの『◆オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』をクリックしてください。(摂理脱会者のページ「S-tation」へのリンクです)

親鸞会で長い間活動していたことのある人ならば、広瀬被告の経験や心情に共感する部分が少なからずあるでしょう。

この背景についてもっと詳しく知りたい方は、「さよなら、サイレント・ネイビー―地下鉄に乗った同級生」(伊東乾著)を読むことをお勧めいたします。

これを読んで親鸞会の現役の信者は何を思うのでしょうか?

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投稿:なぜ私は親鸞会を真実だと思い込んだのか

先回投稿したものです。

「親鸞会を真実だと思い込んでいました」という点について、色々と質問を頂いたりしましたので、補足としていい足りなかったことを書き足したいと思っています。

先ず「思い込み」とは何かということです。色々な定義があるとおもいますが、私はWikipediaでの説明が一番しっくり来ました。すなわち、

思い込み(おもいこみ)とは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。
思い込みをする人は、自分が正しいことを言うために、常識・道徳・前例・先入観・固定観念などを根拠にすることがある。しかし、こうした根拠が他者と全く共有できないものである場合も珍しくなく、合理的な説得をしても信じてもらえない。

というものです。

確かに私は「合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じて」いました。具体的にはこんなところです。

・仏教の教義体系は科学的に証明されているものだと思い込んでいました。

これについては「そんな説き方はしていない」と言われる方もあるかもしれませんが、渡部隆志弘宣部長の講演会や本などで明らかに「仏教=科学」であるかのような話がされていましたし、その証拠も山ほどあります。つまりは仏教は因果律という合理的な論理体系に基づいた教えであり、宗教的な「信じる、信じない」という信仰を前提とした真理とは別次元のものである、という考えです。
当時良く言われていたのが、「仏教を宗教とすれば他の宗教は宗教でないし、他の宗教を宗教とすれば仏教は宗教ではない」というものでした。しかしこれは間違いでした。どこから見ても仏教は「宗教」そのものです。

・親鸞会はその仏教や親鸞聖人の教えを正しく伝える「唯一絶対の存在」であると思い込んでいました。

親鸞会の教義は偽経や捏造に基づいており、経典や聖教の解釈も相当におかしなものでした。これは「苦笑の独り言」や「親鸞会教義の誤り」「清森問答」「21世紀の浄土真宗を考える会」といったブログを見れば分かる話ですし、親鸞会はこれに対して有効な反論が何一つ出来ていません。
私が聞いたのは「高森先生は親鸞聖人の本当の御心を汲み取って私たちに伝えているのだ。それを抜きに教行信証や御文章を読んで理解できるようなものではないし、反論するだけの内容ではない。」というものでした。つまり親鸞会の教義は聖教の根拠ではなく高森先生個人の解釈に拠っているわけで、巷の新宗教となんら変わるところはありませんでした。

・偽装勧誘や友人対策、親対策などのマインドコントロール的な勧誘は、宗教偏見の中で「真実」をお伝えするために必要なのだと思い込んでいました。

実際は親鸞会の活動内容や教義にはおかしなところが沢山あり、それを巧みに隠しながら勧誘しないと続けて聞く人など現れないからでした。こうした勧誘手法を採っている教団が他のは統一教会や摂理などのカルトであることを見ても明らかです。

・親鸞会に財施したお金は、真実を広めるために有効に使われていると思い込んでいました。

それなら会計報告くらい出来るはずですよね。実際には親鸞会に集まったお金は何にどう使われているのか全く不明な上に、「高森御殿」と言われる豪華な会長専用施設が方々に作られていることも知りました。とんだ「善知識」を信じてしまったものです。

・高森先生は高潔な人柄で人格的にもすばらしいと思い込んでいました。

実際は浄財で自分専用のコックと厨房車を用意させたり、周囲の人に横柄な態度をとったり、毎日やっているはずのお勤めを間違えたり(やってないんでしょう)、海外布教で浄財で絵画を買いあさったり、他人の著作を盗作してそれを自分が書いたんだと自慢したりと絵に描いたような俗物でした。

・講師部員は命がけで高森先生と真実の教えを守っていると思い込んでいました。

これだけ親鸞会が批判されても、それに対して立ち上がる講師部の方はただの一人もいませんでした。先回の報恩講では石山合戦で命がけで信長と戦った念仏者の話が出たそうですが、平成の親鸞会では命がけで戦う人など講師部からは一人も出ないでしょう。ぶるうのさんが「僕をいさめようと沢山の会員が訪れたけど、ついに講師部員は一人も来なかったね」と言っていました。その通りです。

・高森先生も命がけで真実を説いていると思い込んでいました。

当時の人に聞くと、本願寺への座り込みのときに、自分は滋賀会館にふんぞり返って会員だけ本願寺に行かせ、「親鸞会の指示で座り込んだのではなく自分たちが自主的にやったと言いなさい」と言い含んでいたそうです。これしきの責任も行動も取れない人が命がけとはとんだ勘違いでした。私が学生のときはしょっちゅう体調不良で説法が中止になっていました。担当講師からは高森先生は限界を超えてお疲れなのだと聞かされましたが、せいぜい週一回の説法と月に何回かの会議でそんなに疲れるものでしょうか?

・高森先生は本願寺と法論をして勝ったと思い込んでいました。

実際は高森先生の使っている根拠はでたらめ、解釈もむちゃくちゃ、さらには相手の意見を捻じ曲げて論破しており、呆れて相手にされなくなっただけでした。


他にも色々ありますがこのくらいにしておきましょう。
問題はなぜこれだけ根拠もなく親鸞会や高森先生を信じてしまったのか、ということです。

思えば最初のうちは、色々と人生についての話とか因果の道理とか聞かされて、親鸞会を客観的に判断できるような情報からは徹底的に遠ざけられ、高森会長や親鸞会にとって都合のいい情報ばかりを集中的に叩き込まれました。この宗教大丈夫か、と思っても知り合いは親鸞会の人ばかり。みんなが高森先生はすばらしい人だと大合唱するの中で、次第に自分もそうした考えに自分を合わせるようになってゆきました。

気付くと、親鸞会が真実である、高森先生が善知識である、ということが、「結論」ではなく「前提」になっていました。色々な情報から「親鸞会が真実である」と判断していたはずの自分が、次第に「親鸞会が真実である」という前提の上に情報を判断し、前提に合わないものは排除したり自分で理屈をつけたりして「親鸞会が真実である」という「思い込み」が崩れないようにあわせるようになってきたのです。

まだ現役の学徒の人と話す機会もあるのですけど、親鸞会の問題や教義的な誤りを話しても「それは先生の深い御心だ」と言ってそれ以上の思考を停止してしまうのです。自分が思考・判断して「親鸞会が真実」だと思ったはずなのに、いつしかそれが間違いのない思考の土台になってしまって、そこから外れる情報は自らら捨ててしまうのです。こうした思考のプロセスはマインドコントロール論の本を読むと色々と丁寧に書いてあります。

以前ひょんなことから、「空とぶスパゲティ・モンスター教」というパロディの存在を知って、背筋が寒くなった経験があります。

外から見ると荒唐無稽に過ぎないことでも、内部では十分に論理的な整合性を与えることが出来るという極端な例ですが、自分が親鸞会を辞める大きなきっかけを与えてくれました。

私たちが「邪教」と呼び、何であんなものを信じているか分からないような宗教があります。自分たちは理性の溶炉を濾過した素晴らしい宗教を信じている、あいつらはあんなわけの分からない教えを信じてかわいそうだと昔は思っていましたが、彼らは彼らなりに内部では「論理的整合性」を持った教えを信じていて、理性的に考えて教えを選んだと思っているのです。

同じように私が親鸞会にいたときに、周囲から親鸞会に向けられる「偏見」に、何でこんな素晴らしい真実を信じられないのかともどかしい思いをしていましたが、結局は他社と全く共有できない内部でしか通用しない論理を元に、「親鸞会は真実」という前提から外れた情報を受け入れず、それでいて自分は理性的に考えて教えを選んだと思い込んでいたのでしょう。

親鸞会の皆さん、特にN田講師、「親鸞会が真実」という前提をちょっとだけ疑って、その上で親鸞会を取り巻く情報に接してみては如何でしょうか。

私にとっては「親鸞会が真実」という前提を疑ってからは、どう考えても親鸞会の信仰を選び取る理由は見つかりませんでした。そういうと、深遠な浄土真宗の教理がお前などに理解できるものかとか言われそうですけど、そもそも親鸞会は浄土真宗とはかけ離れた教義捏造団体なので、そんなこと知ったこっちゃありません。

今は悪因悪果で急速にしぼんでゆく親鸞会の勢いを見て、自分の考えは間違ってなかったと確信を深めています。

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投稿:親鸞会が真実だと思っていたのは単なる思い込みでした

初めて投稿します。

ぶるうのさんが前回、親鸞会を真実だと思っている理由を考えて欲しいと書いておられて、それをみて自分なりに色々と考えてみました。

因果の道理のこと、死のこと、仏教のこと、浄土真宗のこと。
私はいろんなことを親鸞会で学びました。

でも思えば何一つ真実だと確信できたものはありませんし、裏づけもありませんでした。周りの人に合わせて、自分はわかってない、理解して無いと思われるのが嫌だから、無理にそうだ、自分がわかってないだけなんだと思ううちに、いつの間にか最初にあった疑問はどこかに行ってしまって、親鸞会が真実だと思うようになって来ました。

たぶん、親鸞会の誰に聞いても、どういう過程でなぜあなたは真実と思うようになったのか、ちゃんと説明できる人はあまりいないのではないかと思います。

わかるまで聞く、納得するまで聞く。

思えばこの言葉が問題だったのかもしれません。たとえば数学ならば、答えが決まっている問題ですから、わかるまで、納得するまで、という言い方でよかったのかもしれません。

しかし親鸞会の教義はどう考えても宗教です。わかるとか理解するとか納得するじゃなくて、信じるか信じないかの問題のはずです。受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいるでしょう。それを、全人類唯一の真実だから理解しろと押し付けられて、周囲の雰囲気に呑まれ、知らないうちに真実だと思い込むようになっていた、というのが現実だと思います。

思えば、都合の悪い事実にふたをして、集めたお金の報告もしない、身分や立場を偽る、そこら中に御殿を建てたり贅沢三昧で、その上人の著作をパクって自分が書いたと嘘をつく。歯向かった人は即座に除名。こんな人が真実の教えを説いているだなんて、周囲の人から見たらチャンチャラおかしいことでしょう。

でもそのときは気付きませんでした。周りの人が何を言っても、自分と同じようにしっかり教えを聞けば納得すると思っていました。でも、それは納得したんじゃないんです。じゃああなたが納得した「親鸞会は真実」って理由は何かって聞かれれば、誰もが悩んでしまうと思う。いや、どうして自分は真実だって思ってるんだ?いつから思うようになったんだ?漠然としてはっきりとした答えは出てきません。

それがはっきりとわかったのが、N田講師の書いているブログ、「静かな劇場」です。このブログに対しては、近藤さんや苦笑さん、ソイフルさん、清森さんといった方が聖教の根拠を出して色々な視点からそのおかしさを指摘していますが、結局何も答えることが出来ずに、ただ一方的に(ブログを書いている人は粛々と、と表現していますが、つまりは答えられないから一方的に話をしただけでしょう)自分の考えを書くだけでした。親鸞会に対する批判もかなり捻じ曲げて解釈してたし。

それも、親鸞会の因果の道理の根拠が善悪因果経といった偽経に拠っていたこと。「善のすすめ」についてはついぞ親鸞聖人のお言葉は何も出てきませんでしたし、高森先生の根拠があるのだか無いのだかわからない「お言葉」みたいなのしかなかった。ああ、結局親鸞会の教えって何にも根拠無かったんだなーと思わずにおれませんでした。

N田講師ほどの人でも、因果の道理が真実と「思い込んで」いるだけだったとはっきりわかりました。因果の道理が真実かどうかは知りません。(親鸞会の因果の道理は違うらしいけど、それは清森さんが詳しく書いているのでここでは書きません)でも、N田さんの一連のブログの記事を見て、結局根拠無いんだなーとわかった。それで十分です。

善のすすめっていっても、親鸞会ですすめられたのはたったの二つです。金もってこいと人集めてこい、それだけです。高森先生自身が盗作とか平気でしているような人なので仕方が無いと思います。(しかもそれを、親鸞聖人とか蓮如上人を出して正当化しようとしている)

それだけでわからなければならなかったのに、随分余分な時間がかかってしまいました。

私が学友部のときに、もう本当に勧誘がやりにくくなって、幹部をやっていたような人が次々とやめてゆきました。

担当幹事は、彼らはわかってなかったんだ、哀れだ、なんて言ってたけど、哀れなのはやめてない人でした。明らかに。

結局、「親鸞会しかない」って自分で思い込んでいるだけでしょ、ってことなんですよね。

案外、単純なことで、そこから抜け出した人にとってみれば、「まだ、会員やってるの?」って思うんですけど、抜け出していない人にとっては、なかなかそこに気づくのは難しいものです。

それに気付いてなかった。その考えから抜け出してなかった。

いろんなことから真剣に人生を考えて親鸞会を選び取ったんじゃなくて、親鸞会が真実、という前提から出発して物事を考えるようになっていたから、なかなか気付かなかった。

僕らは中にいると、外から見る親鸞会と中から見る親鸞会のギャップにみんな苦しむと思います。特に親に対して。何でわかんないのかと。

それは、外の人には「親鸞会は真実」っている前提が無いだけ。だから親鸞会の問題をストレートに見て、「こんなおかしな俗物の団体が全世界唯一の真実云々って、なに寝言いってんの?」と思う。ちょうど僕らが親鸞会の中から邪教を見るのとおんなじです。

でも中にいると、「親鸞会が真実」っていう前提にあわせようと全ての事柄を見るから。高森先生が盗作したのは深い御心、会計報告が出来ないのも深い御心、嘘つき勧誘は真実伝えるため、会長御殿はアンチの捏造などなど。

馬鹿でした。

でも、抜けられて良かったです。有難うございました。

N田さん、覚えてます?僕は学生時代にあなたに担当してもらった者です。

金沢大学で死亡事故が起きたときに頭丸坊主にしていたことも、あれほど結婚なんて幸せのはずが無いと部会で言いながら結婚したときのことも、よく覚えていますよ。

たぶんあなたはもう「親鸞会が真実だ」ってことは思い込みだって気付いていると思う。いろんな理由でやめられないだけですよね。文章に迷いがあるし。

勇気を出して一歩を踏み出してみてください。僕の同期の人、ぶるうのさん、みんな期待しています。

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親鸞会を「真実」と信ずる理由

ブログを始めてずいぶん色々な方から相談をいただきましたが、やはり親鸞会の教義や組織に色々な問題があるとわかっていても、自分はやめられないという方もおられます。

私も経験したことですが、十年、二十年と続けてきた方にとっては「親鸞会こそ真実である」というパラダイムを転換するには相当に勇気の必要なことなのだろうと思いますし、なかなかそれが出来ないのも理解できるのです。

そういう人はなぜ自分が親鸞会を真実と信ずるに至ったか、その理由を箇条書にして見ることをお勧めします。親鸞会が真実でない理由ではなく、「自分が親鸞会を真実と信ずる理由」です。

なぜ、親鸞会の教義を真実を信ずるに至ったか。
なぜ、高森顕徹を唯一の善知識と信ずるに至ったか。

如何に強く親鸞会や高森会長を信じている人でも、親鸞会や高森会長を信じていない時が過去に必ずあったわけで、そこから今日に至るまで信じるに値すると判断する何らかの理由があったはずです。

それを思い出す限り書いてみるのです。是非一度やってみてください。それも徹底的に。「因果の道理が真実だと思ったから」と思った人はそれだけ書くのではなく、「ではなぜ自分は因果の道理が真実だと思ったのか」「いつどんなきっかけでそう思ったのか」というところまで書いてみるのです。

このブログの読者の皆さんは、是非当ブログのコメント欄を使ってこのことをやってみて下さい。やった人は意外な事に気付くはずです。

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