因果の道理など真理ではないと信ずる人とは
私には何人か現役会員の友人がおり、たまに電話やスカイプで話をすることがあります。そのときにある友人が、ため息混じりにつぶやいていました。
親鸞会ももう終わりだな、と。
人が少なくなり、活気がなくなり、講師部員の目は例外なく死んでいると。信心の沙汰が大事と推進されるが、結局高森会長の説法の暗記大会で、信仰を語れる人など誰もいないと。
学友部の後輩と話をしても、自分で色々調べたり考えたり出来るような人は既にほとんどやめてしまっていて、残っているのはそもそもネットの情報にアクセス出来る能力すらないような人ばかり。幹部の能力を持った人は少なく、大抵の大学の組織は講師部員や「がっけんクラブ」から職員が派遣され維持されていると。
「電話座談会」の高森会長の話を聞いていても、自著の「歎異抄を開く」の自慢話とテキトウな話の内容にうんざり。話の内容に信念も覇気も感じられず、高森会長は腑抜けのようだと。
ここ数年で急激におこった親鸞会の凋落。以前は余程気をつけて見ないと気付かない程度だったが、ここ1~2年で明らかに衰退が分かるまで進んでいるのだと、具体的に語ってくれました。
親鸞会はどうしてこうなってしまったのでしょうか。
思えば親鸞会は、自分たちへの批判や問題に対して正面から向き合った事が一度もありません。
かつては豊田商事事件のときに、会長の永野一男と親鸞会との関係が報道されましたが、「雑行を行っていた永野会長と親鸞会の会員ではない」と一方的に決め付け、豊田商事で親鸞会の講師が説法をしていたことなど何の反省も行いませんでした。
紅楳英顕氏から親鸞会の教学を批判する論文が発表されたときも、氏が主張してもいない主張をでっち上げて「勝利」し、法論を本にしたときもわざわざ紅楳氏でない別の人の論文を掲載しごまかしをしました。
アニメ頒布で死者が出た時は「活動中いかなる事、たとえ事故で命を落とす事があっても本望です」と活動員に書かせ、学友部のレクリエーション中に死者が出たときは親鸞会との関係性をごまかすのに必死で、過労死で死者が出た時は「弔い合戦」として更なる活動の激化が進められ、その背景については何の反省もありませんでした。
幾たびも批判の対象になっている正体を隠した勧誘についても、「学生が勝手にやっていること」と誤魔化しその是非については全く反省も議論も行わず今に至るまで隠し続けています。
華光会と会長との過去が暴露され会員が流出したときは、華光会の機関誌から都合のいい部分だけ抜き取って土蔵秘事に仕立て上げ、「華光会」の名前を隠しつつ印象操作を行いました。
会長の著作が大沼法竜や伊藤康善のパクリだと判明したときは、何の理由も会員には告げずひそかに全ての会報を廃刊にし、会員に聞かれれば「引用」だと誤魔化しました。
会長の息子に不倫疑惑が発覚したときは、全講師部員を3日間本部会館に閉じ込めて不倫疑惑を調べた講師部員をあぶり出し粛清し、肝心の疑惑は「捏造」と決め付け闇に葬りました。
親鸞会にとって都合の悪い内部資料がネットに流出すると、「著作権法違反」や「名誉毀損」を理由に法的圧力をかけ閉鎖に追い込み、内容についてはこれまた「捏造だ」と繰り返すだけでした。
また、こうした批判を隠すためにネットに大量の誤魔化しサイトを配置しました。中には講師部員が本願寺の関係者を騙ったブログまで立ち上げました。
会を批判する人が出てくると容赦なく「除名」にして、除名になった人の悪口を徹底し内部の会員が接しないようにしました。その後離反する人が相次いだために、密告を奨励し講師部員に「やめるとき違約金1000万を払え」という誓約を課しました。
結局「親鸞会も高森会長も絶対に正しい」「全人類の救われる唯一の道を説く善知識」といった考え以外には受け入れられず、親鸞会に対する批判や問題提起については無視か逃亡か誤魔化し以外の対応をとれず、今まで何の検証も議論も反省もなされてきませんでした。
そして、講師部員や職員は上司の顔色ばかりを伺い、密告や粛清を恐れただの高森会長のDVDビデオを流すだけのロボットになり、多くの幹部が親鸞会を見限って離れてゆきました。
これを自業自得、因果応報と言わずになんと言うのでしょうか。しかしそんな簡単なこともわからないのが親鸞会の人たちのようで、この体質は今に至るまで全く変わっていません。
最近では「親鸞会が間違っているという人の中に因果の道理が真理ではないと公言している人がいる」と突如言い出し、「因果の道理を信じていないものに親鸞聖人の教えなどわかるはずがない」と主張する人まで出てきました。
そもそも親鸞会の説く因果の道理が間違っていると各所で指摘されているのに、その疑問には一切答えないのですから話になりませんし、果たして「因果の道理が真理でないと公言している人」という主張自体も怪しいものです。
しかし以前も親鸞会は自分たちを批判する人を「本願寺の僧侶などごく一部の人」と決めつけ、自分たちに向けられる批判には全く答えず本願寺の悪口を繰り返すことで逃げていましたから、これも「いつもの親鸞会のやり方」なのでしょう。
そういえば高森会長の因果の道理の説法に、「自分に良い結果が返ってきた時には『自因自果』と思えるが、自分に悪い結果が帰って来た時には『他因自果』としか思えない。しかし、そんな都合によってコロコロ変わるようでは、大宇宙の真理とは言えない。『他因自果』ということは、万に一つ、億に一つもあり得ないのだ。」という内容がありました。
それなのに「親鸞会は世界に二つとない、素晴らしい集まり」と自画自賛する一方、批判を受けた時は「本願寺の僧侶などごく一部の人が悪意を持ってまき散らしているから」「因果の道理がわからない人など所詮親鸞聖人の教えもわからないのだ」と批判の内容を省みもせず、それによって引き起こされる組織の衰退や会員の離脱まで他人のせいにするのですから、「廃悪修善」をする気がない上に「自因自果」も全くわかっていないのでしょう。
つまりは彼らは因果の道理を真理だなんてこれっぽっちも信じていないのです。自分ですら信じてないものを、どうして真理と言えるのでしょうか。親鸞会にしてもこの「静かな劇場」の著者である講師部員にしても、守りたいのは「親鸞聖人の教え」でも「仏法」でも「因果の道理」でもないのです。
自分たちが選んで、人生をつぎ込んできたものを否定したくないために、「因果の道理」を使って自らに寄せられる批判や問題から目をそらしているに過ぎないのです。だから彼らにとって「因果の道理」とは、既に「真理」どころか「宗教的信念」ですらありません。たんなる批判をかわすための「道具」です。
褒めろといわれれば褒め、敬えといわれれば敬い、感謝しろと言われれば感謝し、怒れといわれれば怒る。人生に対する悩みも教義への疑問も全て「お手本」が与えられ、それに従うことを信仰と勘違いする。
自分の書いたもの、自分の言ったこと、自分の行った行為、何一つ責任を取れず、矛盾を指摘されれば場当たり的に逃げ道を見つけ出してはそこに逃げ込み、自己陶酔し、内輪で賛嘆しあう。
思考力を持った人は黙って親鸞会を去り、残った人たちは「去った人は仏法をわかってなかったのだ」と決め付けることで溜飲を下げ、「必堕無間」の頚木の中で空虚な信仰に浸っている。
「自分たちの人生はそんなもんなんだ。いまさら変われないんだ。どうかそっとしておいてくれ。」
「静かな劇場」の文章からは、著者のそんな本音が伝わってきます。


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